はてなキーワード: 兆候とは
吐き出させて下さい。
私は産まれて30余年、常に独りでした。
別に孤児でもなければ、天涯孤独でもありません。話し相手は少ないながらもどの年齢でもいたし、いじめを受けたわけではありません。
それでも私は、どうしようもなく孤独でした。どこで誰と何をしていても、自分が何物とも繋がっていないような感覚ばかりがありました。
理由は何とでもこじつけられる気がします。望まれて産まれたとは到底信じられない家庭環境。遺伝的、精神的欠陥。それらを覆せなかった自分の弱さ。
…思い出せる昔の記憶は、階下から響く両親の罵り合い、私が男でありながら腰を振る兄。視線ひとつくれず、仏頂面で鬱陶しそうな顔で過ごす母。家事をろくにしない母への憎しみを私にぶつける父。
記憶にある唯一の母の声は、休日の朝に朝食をせがんだときに聞いた、「風邪ひいたから」という子供でも分かるような嘘。塩ごはんや牛乳ごはんなどという手料理も、それが普通だと信じたかった。
両親は自分の問題だけで手一杯で、明らかに私を愛していなかったが、それでも奇妙なバランスの上で形を保っていた。だから消極的にも期待していた。いつか両親が真っ直ぐな愛情と関心を私に向けてくれることに。だから耐えるように、道化を演じてみたり問題を起こさないよう強く自分を抑え込む術を自然と身に付けていった。
同級生達とは、関わる度に違和感を感じていた。彼らから発せられる、家族からの温かい愛情やそれに基づく自信めいたものを感じるのが辛く、眩しく、何より悔しかった。私もそうありたいと願い同じように振る舞うのだが、自分を偽った罰なのか、常に自分の中にヘドロのような憎しみが募り、それがときに漏れだしては、私の人間関係を破綻させていった。
…ある日、母が消えた。言葉ひとつも、書き置きも無く、突然と。だが何の感情も湧かず、涙も流れなかった。幼心に予想と覚悟はしていたのだろう。そうして、孤独と共に生きるというテーマが課せられた気がした。…それからは、忍耐から麻痺が生きる手段だった。
家はまるで会社のように感じた。父という経営者の下、勉強という仕事の対価に衣食住という報酬を得るような環境。己を律しきれず感情を顕にすれば、待っているのはクビ、つまり死ぬこと。逃げ出す勇気も、自分で環境を変える強さも無かった。経を淡々と読み上げるような修験者のように、無痛のうちに日々が流れていった。
不幸にも中途半端に事務処理能力が高かったのか、大学に入学できた。大学は理系で、物理を専攻する学部だった。今にして思えば私はそれそのものには興味は無く、ただただ盲信できる唯一無二の真実を、家族や自己の内面ではなく、外側の世界に求めていたのかも知れない。
契機はすぐに訪れた。その頃の私は誰の、何の助けも無く生きることに歪んだプライドを懸けており、独りの力で講義をこなそうとしていた。しかし当然のように挫折した。当然のように孤立した。
ある朝、いつもと同じように無痛のまま大学へ向かおうとしたが、体が動かず、講義をサボった。その日からぷっつりと糸が切れたように、大学に行けなくなった。
そしてそのまま2年間引きこもった。無痛という手段も通じないと分かってしまった私には、生きるために何をすればいいのか分からなくなってしまった。しかし罪悪感以上に、解放感と、呪縛から逃れたような安心感があった。そして同時に、いよいよプライドも生きる理由も意欲も自負も、全て失った。
兆候はあったがその頃から急激に死に惹かれるようになった。自分が事故や病気でいきなり死ぬ妄想をしたり、楽に死ねるという情報から練炭と七輪を買い、日常的に自傷をし、着々と死に近付いていった。流れる血と生々しい傷に、不気味なほど安堵と溜飲が下がる思いを感じた。堆積した恨みの攻撃性の解消と、自罰感情と、ボロボロの精神の投影先を見出せる行為だった。それゆえ日々エスカレートし、あるとき刃が大きな血管を切った。噴水のように噴き出す血を眺めながら、まだ死ぬ準備が整っていなかったため、止血の処置をした。特に感慨は無かった。ああ…あのまま放っておけば死ねるんだ…と、妙に冷静になっていた。
そこから、少し何かが変わった。本当に死の一歩手前にまで陥っても、やっぱり私に救いの手は差し伸べられず、また自分の力で生き残ってしまった、と思うと、諦めを通り越した何かが芽生えた。自分は生きることも死ぬこともできない、苦しみ抜いて幽鬼のように漂うのだろう。歪んだ悟りのような暗い閃きを覚え、そこから自傷は少なくなっていった。そこからの記憶はほとんど無い。大学へ行かず引きこもっていることがばれ、地元へ戻った。また無痛から忍耐の日々へ逆戻りした。挫折を経験したが再起を図る息子を演じつつも、心の底では誰かが殺してくれることを願うばかりだった。
そしてまた不幸にも、さほど時間は掛からず定職に就いた。待っていたのは、学生時代より遥かに開いていた周囲との差。普通の人々が青春や友情や愛情を経験している間に自分がしたことといえば、暗闇の中でもがき蠢いていただけ。真の孤独は人と人の間にあるという言葉通り、人に近付く度に遠く感じた。
…しかしそんな生活もそれなりの期間が経てば慣れていった。相変わらず人間の振りをするような不自然な過ごし方であったが、歳を重ねた恩恵なのか、排斥に対するヒリヒリとした警戒心、切迫感は和らいでいった。多様性を容認する組織だったからかも知れない。孤独は続いていたが、別種の孤独を抱えた年上の人々との関わりが、私の乾いた傷口を薄く濡らした。
そんな積み重ねから、ようやく初めて「人間」というもの形の一端に触れられた気がした。同時に、自分の家系の歪さを思い知らされた。そして、ようやく家系が受け継いできた負の連鎖に気が付いた。
狡猾さと傲慢さ。口では愛を語り、家族を意のままに操作し、自分の理想を叶えるための道具としようとする悪辣さ。その邪悪な気質を、互いに感じ取っているからこそ罵り合い、また山彦のように帰ってゆき、自分をも傷付ける。そんな不毛なやり取りをしながらも、本当は誰よりも自分が得をしたい、愛されたいと思っているからこそ離れられない。その矛盾と混沌の中で、私の家系は奇妙な内臓のようにぐぎゅるぐぎゅると腐って混ざりあっていた。
私は先月、家族と絶縁した。帰省しない私に業を煮やし職場に押し掛けてきたとき、従わぬ者に実力行使をする傲慢さに、どうやらこの人達とは一生分かり合えないらしいと確信した。
いよいよ社会的にも孤独になったが、さしたる感慨も無かった。きっとこれもどこかで予想と覚悟を済ませていたのだろう。私の手元には、いつの間にか独りで生きるには充分な資金があったのも、このことを予見していたからのような気さえする。
今になって思う。私は無意識のうちに、生きるための最善を選択していた。代償や失ったものは多いが、今では孤独も不幸も憎しみも、その先にある役割、天命のようなものを果たすためだと感じるようになった。両親や神の寵愛を受けて産まれた者と、孤独に魅入れられように産まれる者もいる。そうしてその中間が中庸となり、人々の生き方の基準が出来上がる。そういう仕組みなのかも知れないと、ぼんやりと考える。
相変わらず生きる理由も意欲も無いが、自分が生き続けることには何らかの意味があるから、こうして結果的に死んでいないのだと思う。人生のどの段階でも、死のイメージといつか自分は人を殺すだろうという直感があった。人生のどの段階でも、自分を解放して周囲を巻き込んで破滅することはできた。だがその度にそれを踏み留ませてきた何かを知ることが、目下の関心だ。天寿を全うする気はさらさら無いが、何らかの答えを得るまでは生きてみようと思う。それをもし得られたとき、孤独の意味と真の栄光を手に入れられると信じて。
…長くなりました。ここまで見ていただいてありがとうございます。
「フェミニストVSオタク」から「フェミニズム・カルトVSそれ以外」へ
https://togetter.com/li/1454864
しっかし当時の児童ポルノ禁止法や都条例で味を占め、増長しきったのかもしれないけど、その後与党にパージされ、野党でもフェミ候補が勝てなかったにも関わらず、今だ赤十字のポスターはおろか、案の定、実在の巨乳女性までバッシングしだしたのだから、救いようがないとしか言いようがないよね。
それこそ当人達がセックスヘイターである事を最近では隠しもしなくなって、セックスワーカーの人達を平然と叩きにかかったり、それに飽き足らず、国内外でレースクイーンやグラビアアイドル、コンパニオンなどの女性の職業をバッシングして逆に奪いにかかっているのだから呆れ果てるよ。
日本に限らず、児童ポルノだの青少年だのを悪用したせいで子供に関わるだけで不審者扱いされかねなくなったから、誰も子供に関わらなくなった結果、余計に子供が危険に晒される事態を招いたり、海外ではそれこそ実在児童被害が悪化したりしたのだから、そりゃこれらをツールとして悪用してきたフェミが嫌われ出すのは当然と言えるよ。
また当時言われていた通り、ここで規制の流れを止めないと際限なく、あいつら増長して、単純所持規制やブロッキング等のネット規制、漫画等の創作物規制に飽き足らず、それ以外の分野にも規制が波及する様な事態になるぞと言われていたのに止めなかったものだから、予想通りの事態を招いて、今頃それが問題視されているのも本当に皮肉としか言いようがないね。
やはり人間と言うのは実害を受けないと良く理解できないものだと言うのがここでも良く判るよ。
こう言うのをみても今後フェミニズムは明確に衰退し、世間的にも敵対視されるし、こいつらの悪用してきた弱者の権利も巻き添え的に衰退していくものだろうと考えるよ。
他人の子は「動くリスク爆弾」全くその通り
私たちのその場その場で「こうあるべし」と思った願望の積み重ねが、ポリコレ型無縁社会です。こんな冷たい社会は望んでないと思っても、一つ一つの事例はこうした冷徹な対応をするしかないのです。慣れますよ。@terrakei07 #note https://t.co/5tX58x28PC— NadegataPapa (@NadegataPapa) 2020年1月19日
今や他人の子供所か自分の子供すら動く地雷と化しているのだけどね(苦笑)
これも児童ポルノ禁止法や都条例から兆候があったけど、奴等が子供を盾にお気持ち規制のツールとして扱った結果、もはや子供に関わるだけで逮捕されかねない事態を招いたとも言えるんだけどね。
下手に子供に関われば、不審者扱いされるし、実際、迷子の子供を交番に届けたら、その届けた人がなぜか逮捕される様なふざけた事例まで起きれば、そりゃ誰も子供に関わりたくもなくなるよね。
しかしフェミや児童保護団体が子供を盾にしたお気持ちで何もかも規制をした結果、関わるだけでヤバい危険物と化したせいで、誰も子供に関わらなくなって、余計に子供が危険に晒される結果を招いたのだから、皮肉以外何者でもないよね。
そりゃ寛容性や人権や平等をお題目としてきたのに実際やっている事は人権屋が人権屋平等を盾にして、ポリコレ棒片手に規制ばかり推し進めると言う寛容生徒は真逆な不寛容な社会の構築ばかり行ってきたのだから、リベラルやフェミニストが社会から毛嫌いされるのは当たり前だよ。
前にアレな人がフェミやリベラルキリストカルトはアカ共の手先と言っていたけど、中国のひき逃げの例と現状の日本の結果を見れば、案外その説もあるかもなと思えてくるから怖いよね(笑)
実際、冷戦が終わった後、こいつらフェミやキリスト系が大暴れした結果、西側諸国がおかしくなったのは事実としてあるからな。
フェミ「不審者と間違えて父親を通報した女は悪くない。顔馴染みになってない方が悪い」
https://japanese.joins.com/JArticle/261501?sectcode=300&servcode=300
「韓国政府は低成長の原因に米中貿易戦争を挙げるが、本当の原因は所得主導成長(income-led growth)政策だ。むしろ所得主導貧困(income-led poverty)と呼ばなければいけない状況だ」。
米ハーバード大経済学科のリタウアーセンターで会ったロバート・バロー教授は韓国経済に関する質問をするたびに「このために韓国の成長速度が遅くなった」と語った。
バロー教授は過去の高度成長で開発途上国のロールモデルだった韓国経済が停滞する姿に遺憾を表した。バロー教授は「韓国が過去の高成長の栄光を取り戻すためには、今からでも経済政策の方向を変えなければいけない」とし「投資と生産性を増やし、企業・市場の自由を保障することがすべての経済成長の核心」と述べた。
バロー教授は代表的な供給主義経済学者(減税と規制緩和で経済成長と雇用を促進するという理論)で、市場経済と自由貿易の重要性を強調する。昨年ノーベル経済学賞を受賞したマイケル・クレーマー教授の博士課程を指導した。
「韓国で初めて聞いた用語だ。あなたの国の政府が作り出した言葉であるようだ。供給主義経済学の反対の意味でケインジアン(ケインズ主義)など需要主義経済学が存在することはある。政治的な名分を前に出して成長よりも分配に集中するという主張は理解できるが、人件費を引き上げて業務時間を減らしながら経済成長を図るという論理は生まれて初めて聞く」
「国内総生産(GDP)増加率が大きく落ちた。景気沈滞(リセッション)に陥る可能性がかなり高い。2019年の韓国の成長率は1.8%と予想されるが、過去10年間で最も低い水準だ。特に全体投資額の数値が減少した点が懸念される。2019年の固定投資額はマイナス4%と推定される。投資の冷え込みは今後の景気に対する自信が落ちたという証拠であり、リセッションの強い兆候だ」
「それは(韓国政府の)言い訳だ。もちろん対米・対中輸出比率が大きい韓国経済にマイナスの影響はあるだろうが、貿易戦争の当事者である米国・中国よりも韓国に大きな被害があるだろうか。まだ米国・中国の内部でも貿易戦争の経済的損失についてはさまざまな見方があるが、韓国の成長が貿易戦争のため阻害されたというのは少し誇張があるようだ。もともと(政府は)外部的要因が問題だと責任を転嫁すればよいと考える」
--実際、韓国企業は米中貿易戦争による業績の悪化を心配しているが。
「韓国と似た経済構造を持つほかのアジアの国と比較すればよい。政治的な混乱を迎えている香港を除いて、韓国は相対的に過去2年間の成長率が過度に落ちた。規制を増やし、人件費を引き上げた政策が企業に直撃弾として作用した。労働コストが増える状況で、雇用を増やして投資を拡大する企業がどこにあるだろうか」
--では、韓国政府はどうすべきなのか。
「今からでも市場的で企業が投資しやすい政策に向かわなければいけない。過去に韓国が高度成長した時期のようにすればよい。最低賃金引き上げは左派政治家のお決まりのテーマだった。労働者の賃金を引き上げれば裕福になるという単純な主張をする。しかし経済学者の立場で見ると、賃金は資本・労働生産性により効率的な水準で決まる時、経済的な効用性が最大化する。政府が介入しなくても賃金は十分に合理的な水準に決まる」
--富の再配分は必要ないのか。
「そうではない。不平等なイシューを解決するのは当然重要な課題だ。ただ、労働者の賃金を増やして富を再分配するほど経済が速く成長するというような誤った論理を展開してはいけないということだ。韓国は経済的に先進国に近接したが、まだ少なくとも年3-4%の成長率は維持しなければいけない。米国と似た今の成長速度は話にならない。韓国政府は経済成長のための政策と富の再配分に対する政策をもう少し冷静に区分する必要がある」
--最も良い富の再配分政策は何か。
「言うまでもなく教育だ。低所得層の子どもが十分に教育を受けて社会に進出するよう財政的に支援しなければいけない。韓国はすでにこの部分で優秀だ。大学進学率が半分を超え、国民の教育水準も非常に高い」
--教育だけで不平等問題を解決するのは難しい。韓国の場合、高学歴者が職場を見つけることができず「下方就職」という雇用のミスマッチ現象が目立つ。
「技術の発達による雇用の減少は世界的な傾向になった。かなり難しい問題だ。米国では青年創業、スタートアップ支援などの政策で雇用を増やしている。ただ、韓国は投資減少が心配されるほどであり、これも容易ではなさそうだ。経済成長率がさらに落ちる場合、雇用も減り、不平等に対する不満はさらに強まるおそれがある」
昨年、2度目の流産をした。
ショックだったけど、妊娠して間もない頃で、正直子供の形なんてないし、
体もまだ変わり始めだったので、回復も早かった。
22週以降は、基本的に中絶も禁止。早期でも出産し生きている人も沢山いる。
一般的に15週から安定期に入る時期だったが、私の場合はひたすら辛いまま終わった。
12週以降は、出産と同じ手順で死んだものを生まないといけない。
お金も同じようにかかる。死んでるから、死産届も出さないといけない。火葬も必要。
誰にも祝福されなくて、痛みとダメージだけで何も残らない。
そんなこと、どこ調べてもあまり出てこなくて、実際はショックばかり。
そもそも誰もしらないし、経験者は辛くて思い出したくないことだからなのかもしれないけど。
無理しすぎは禁物だが、どうか妊娠中の人は自分を責めないでほしい。
私は、義母に無理しすぎたから流産したんだとか、職場で唯一相談せざるを得なかった子育て中の人に後悔するから休んだ方がいいと言われたけれど、正直傷ついただけ。
実際、流産後に遺伝子検査して、胎児側の原因であることが判明した。
そもそも歳をとるとそういう確率がぐんと上がるのは承知のこと。
色んな理由はあれど、自己責任だし、そうなってしまった以上時間は戻せないし、不運としか言いようのないことで、現実の運命を受け入れるしかない。
だから、周りの人は、安易に自分の意見を押し付けるのは気を付けてほしい。
9~10週頃に、出産する病院を決めて近所に移った。そこで育ちが悪いと言われる。
年齢的に心配だったこともあり、胎児専門の病院にも行って、似たようなことを言われた。
トリソミーなどでよくある形状の異常は見られないけれど、小さいと。
(首の付け根の厚みなどで、その兆候が初期に出たりする)
原因不明で、あまり見ない症例だということで、そこにはその後も何度も通った。
毎日毎日しんどすぎて、びっくりであった。ホルモンバランスの変化のきつさ。
口にするにも、ジュース飲みたくなったり、パスタ食べたくなったり、偏食になってしまった。
妊婦は生ものNG。ってことで、気を使うと食べられるもんが少ない。
<血流1.5倍>
血流が1.5倍になるって知ってた?妊娠してから知ったんだけど、1.5倍って!マジきつい。
例の胎嚢で栄養やっているうちはいいんだけど、胎盤ができてきて子供とつながっていき、血液から栄養送らないといけなくなる。
それは知識では知ってるけど、こんなに母体に負荷がかかるとは。身を持って実感した。
まず階段しんどすぎて、登れない。いつもさっさと歩いていた坂だって、途中休み休み。
電車もバスも立つのは本当にきつくて、息切れして心臓バクバク。人混みもすぐ酔うし、休み休み。
<頻尿>
お腹が大きくなるにつれ、それはそれは頻尿で参った。打ち合わせなどで事前に行っても、終わる頃にはギリギリ。客先などで苦労した。
<免疫低下と持病いろいろ>
赤ちゃんを異物とみなさないよう、妊婦は免疫が低下するらしい。知らなかった、、、、
だから、何年かに一度、弱っているときになるような病気がいっぺんにきた。
むせ返る止められない咳がきつくて、お腹にも力入るし、ハラハラだった。
それによりヘルニアが再発して、咳すると激痛走って痛い痛い。
さらにお腹がくるしくて前屈みになるから、腰が痛い。ヘルニアがいっそうきつくなる。
肌の痒みもすごくて、寝ているときに掻きむしってしまい手足がボロボロに。血だらけ。
目は結膜炎やらものもらいやらを左右繰り返し、まぶたの痒みはまだ残っている。
<不眠>
体調が悪くて寝付けなかったり、夜中に起きてしまって苦しくてもがいたり。
とにかく夜中に睡眠から覚めるのが毎日で、しんどすぎた。トイレも近いので夜中に何度も。
夜中に目が覚めてしまうと、色んな不安が吹き出すのも困った。このときスマホは悪の味方。
病院で言われたことや、言われなかったことや、とにかく育ちが悪かったせいもあって色々調べてしまった。
<むくみ>
色々辛かったけど、一番はこれかも。
もともと浮腫みやすい体質なんだけど、無理をするとお腹がパンパンに張ってしまい苦しくて気持ち悪くて動けなくなる。
職場ではヘルニアが出てしまい、と誤魔化していたが本当に辛かった。(実際それも出ていた)
下痢や便秘なども色々あったけど、上記色々が辛すぎたので記憶から薄れている。
つわりの気持ち悪さと、お腹が張って気持ち悪いのと。数ヶ月ほとんどずっと。
仕事もあるから寝ているわけにもいかないし、どうにもこうにも辛かった。
仕事は人に任せられないものも多く、立場的なこともあり部下の手前、がっつり働いていた。
頭の回転も悪いし、パフォーマンス落ちていたと思うが、何せ流産するかもしれないから妊娠も伝えられないため、頑張るしかなかった。
義父義母は近くに住んでいることもあり、夫経由で伝わってしまい、何度かお食事などもした。
自分の親は、少し離れていることもあり、育ちが不安定と言われている以上、言うに言えず。
流産の時は、母が子宮一部摘出手術になってると聞き、自分のことは言えず仕舞いになってしまった。
まだ伝えられていない。
いや、一応、ゆっくりとは育っていた。けれど、一般的な胎児成長曲線からは外れてしまっていた。
1W遅れくらいの大きさだ、と言われていたものが、14~15週にはそれ以上の開きが出てしまっていた。
普通だったら安定期に入るころ。一番楽しい時よと言われていたころ。
知らないことばかりだが、妊娠初期からこの辺までの成長ペースは、どんな人も大差ないらしい。大きさに差が出るのは、もっと何ヶ月も経ってから。
ネットで調べても、生理日や受精着床日が曖昧であることによる妊娠週数のずれ、というのがよくある話らしいが、こちらは不妊治療で病院に通っての妊娠なので、ずれはない。
病院では二箇所とも、原因不明と言われていた。胎児専門の病院では、万が一このまま育っても、低体重で生まれたり、障害を負うリスクが高いと言われた。
中絶も勧められた。産むとしても、NICUなど施設が整っているところでないとまずNGだとも言われた。
2人目、3人目だったら諦めたかもしれないけど、私には諦められず、悩む日々。
親から1本ずつもらって2本のペアになった遺伝子は、全部で22対に加えてXYの46本。
数が欠けても多くてもだめなこと。数が合っていても、どれか1本でも短かったり欠けていても駄目なこと。
例えばダウン症は21トリソミー、21番目の染色体が3本あることで起こる、一般的な障害だ。
私の胎児は結果として6番目の染色体が少しだけ欠けていたことが、死後の精密検査でわかった。
話を戻す。中絶する?しない?など悩みながらも、22週を越えれば出産している人も世の中にはいて、育っている人もいるという希望のもと、胎児がまだ生きたいと育つのなら、覚悟を持って産む選択をしたいとも考えていた。
しかし、育ちが悪いと言うことは、低体重児以前にそもそもまだ外では生きていけない大きさなわけで。
いずれにしてもリスクがあるので、紹介された病院に一時変えることになり、初診察の矢先。
こうなることも想定内ではあったんだけど。やっぱりショックで。わかりました、と言って涙を堪えるのがやっとだった。
夫はずっと仕事で忙しく、やっと同行してもらえたんだけど、動いている様子を一緒に見ることはなく終わった。(その前に録画した映像は見せたけど。)
超音波検査の後に、別の部屋で、今後について話があった。
頭ではわかっていて、話もちゃんと聞いているんだけど、目からは涙がぼろぼろ止まらなかった。
すぐに処置したほうがいいということだったんだけど、仕事があったり、先生の予定が合わなかったりで、入院は10日以上先になってしまった。
体がなぜか楽になった矢先だったので、やっぱりそういうことなんだ、と思った。
妊娠19週。5ヶ月が終わる頃。
初期の流産の時は、静脈麻酔で寝ている間に掻き出されて終わった。
1日の入院なので、日帰り。
鈍痛はあったけど、お腹も大きくなっていないし、なんてことなかった。
だから、分娩なの。
キラキラしたし新米ママのいる場所で、新生児の声が聞こえる場所で、自分は死と向き合う。
そんなところで、陣痛を起こして、産まないといけない。死んでるのに。
生まれてくるものでないものを生むように仕向けるわけだから、前段階の処理もきつい。
お金も、出産と一緒の金額がっつりかかる。もう生きてないのに…
初期流産と違って、この数ヶ月、育っていたことを実感していて、胎動と思われるようなものも感じていて、一人じゃない日々を過ごしていたから、本当にショックで。
理不尽に酷い仕打ちに、痛みも恐怖もすごいし、辛すぎて、前世で何か悪いことしたのかな?と思ったりもした。
<入院1日目>
朝から荷物持って入院先へ。当初は個室なんて贅沢言ってられないと思っていた。
聞くと、普通に出産する、し終えた、お母さん方と一緒だという。
赤ちゃんは別部屋だが、見ることもあるという。
個室は高すぎるので、せめて1日1万少々プラスの2人部屋を希望。
他の妊婦がいつ入るかはわからないが、幸い今日はいないと言う。
2人部屋へ案内され、奥のベッドで荷物を整え、1日目の処置へ。
子宮口を広げる処置。何か棒を何棒も入れられて。そのままにされるので、痛いったら。
体が拒絶しているんだろうか。
この時から基本的にずっと点滴。この日は栄養や水分を入れるため、その後は薬を入れるなど。手が穴と痣だらけに。
<入院2日目>
しかしこれが、意識が完全に落ちず、悪趣味な映画みたいな幻覚が見えて辛すぎた。
吐くのはおさまってきたけど痛みがずっとあって寝てるしかない。寝てても辛い。
翌日の処置も怖くて寝るに寝れない。
<入院3日目>
分娩台へ移動。なぜか色んな不安とか悲しみとか?で涙がボロボロ出てしまった。
猫のように丸まるように言われる。
背骨横に刺して麻酔を入れるんだけど、ヘルニアせいかうまく入らず、激痛。全身ビックン!!てなるくらいの痛み。
位置を変えてもらい、3~4回目でなんとか成功。仰向けになる。
陣痛の促進はどうやったか忘れたけど、麻酔が切れたあたりで周りに誰もいなくて、言うに言えず結局30分くらい陣痛くらってたのが辛かった。
ずーーーーーんという痛みの大きな波が、やってきては引いていきまた来る〜!というのを繰り返していた。
これが陣痛か、、、と思った。
やっと先生が見に来て、もうきてるね、となって、掻き出されると言うか引っ張り出されると言うか。
どろどろにゅるにゅるしたあったかいものが出て行き、どうやら出産したようだった。時間を記録される。
残りのものを掻き出す処理。これをきちんとしないと、後々いけないらしい。
その後、意識は戻ったものの体がまだちゃんと動かないため、ナースセンター裏あたりで寝かされることしばらく。
やっと昼すぎに、自分のベッドへ戻る。
あらかじめどうするか聞かれるんだけど、長く死んだままお腹に起きっぱなしだったし、そもそも未成熟な状態かつ人間の死体は、見てしまったらそれが呪いのように忘れられなくなりそうで、怖かった。
でも、ごめんね、って気持ちは今もあって、向き合えなかったことも、やっぱり辛い。
子供の名前は?火葬場はどこにるすか?火葬はいつにするか?遺体はいつ運ぶか?立ち会うか?骨壺はこれでいいか?一緒に入れたいものはないか?お骨は引き取らなくていいか?
などなど。
まだ出産直後でぐったりしていて、恐怖と痛みの感覚が残る茫然自失のところ、言われる。
名前なんてないよ!色々考えてたけどないよそんなの!入れるものだって、その子のためになんか用意したら思い出や思い入れ増えてもっと辛くなるじゃん!だから用意なんてできなかったよ!
そんな色んな気持ちがぐちゃぐちゃにあるんだけど冷静に言葉にできないから、涙がぼろぼろでて、たった一言ずつ、「ないです」とか、用件だけ答えるのがやっとだった。葬儀屋さんも別に悪気あってでもなく、人の良さそうなおじさんで、一緒に涙されてしまって、仕事だから必要なこと聞いてるのわかるんだけど、でもこの仕打ちは、死産後直後の女性には辛すぎる。
市町村への提出、代理で行ってもらうようにはしたんだけど、そもそもこれなんとかならないのだろうか。
若くて可愛らしい、女の子らしい妊婦が、夫に甘えながらやってきた。
夫は、夜八時の面会時間MAXまでいて、翌日も朝からきていた。
赤ちゃんの心音チェックや、夫へ甘えられる状況、すべてが羨ましく見えて辛かった。
<4日目、退院>
朝事務が動き出したら手続きしてすぐ出た。休み休み帰り、自宅で仕事など少々。
夫は仕事で忙しいこともあって、自分もそっちを優先すべきだと思い、死産のためにわざわざ来てもらうこともないと一人で頑張ったけど、これを見た男性は、女性が遠慮してもぜひ付き添ってあげてほしい。精神的にも、入院荷物運びで体力的にも、きつい。
帰路は、お腹の中が空っぽになり、心も何か穴が開いたような気持ちだった。
ただ、疲れやすくて夕方にはぐったりする日々はしばらく続いた。
何せホルモンバランスが一気に戻ろうとするため、なんか色々ぐったり。
骨盤や内臓の位置?もきっと戻ろうとしていたんだろう。なんかあちこち痛かった。
妊娠中運動もまともにできない辛さだったので筋力も体力もぐんと落ちてしまった。
一週間はほんとぐったりしていて、夜もすぐ寝て休みも寝ていた。
二週間目くらいから、アルコールも美味しいと思えるようになって、仕事外で人とも会えるくらいになっていった。
階段や坂も、徐々に登れるようになった。
しかし骨盤のあたりが痛い、というのはしばらく続いた。1ヶ月以上。
休み休み動いていたせいで驚くほど下がっていたヒップも、日常生活で2ヶ月後には大分戻ってきた。
<安置されたお寺へ>
1ヶ月半ほどして、お骨があるお寺に顔を出した。やや緊張しつつ。
本当は行かないつもりでいたけれど、それではあまりにも可哀想だと思って。
夫と一緒に足を運んだ小さなお寺では、本堂の仏さんの横らへんに、大切そうに小さな骨壺たちが沢山並んでいた。お人形やらぬいぐるみやらと一緒に。
それを見たら、涙が出た。手を合わせる。
家に引き取られなかったものたちを、大事に祀ってくれていたお寺に感謝の気持ちしかなかった。
天国でお友達ができてるといいな。ここでは1〜2年安置していただいたあと、供養となる。
結果が出るまで1ヶ月以上かかった。
結果、6番目の遺伝子がほんの少しだけ欠けていたそうだ。
身体形状の異常は全くなく、指先も鼻も、内臓も、体はきれいに作られていたのにな。
結局、今回の入院だけで全部で100万以上。入院費や葬儀屋代、無痛分娩や、染色体の遺伝子精密検査も含んで。
出産一時金で40万ほど戻ったけど、それでも痛い出費となった。それ以外に、事前に検査も色々したし事後も病院に数回通った。
これを書いてみたら色々思い出して涙が出た。普段もふと、思い出して一人涙が出るときもある。
何も残らなかったけど、経産婦になってしまい、心も体もめっちゃ痛めた。
友達の幸せそうな出産記録や子育て記録などを見かけると、ああ、あの子も同級生になるはずだったんだよなあ、と、思ったりする。
まずぜひ、みんな妊婦には優しくしてあげてほしい。
席を譲られたことはほぼなく、幸い座れた時に妊婦マークをつけておくことで高齢者の譲ってくれアピールには効果ありだった。
おばさんが譲ってくれたことが2回ある。流産しそうだったし、殆ど誰にも打ち明けられない状態だったから、妊婦として優しくされたことに、泣きそうになってしまった。
お腹大きく見えない頃こそ、心身共にしんどかったりする。男性が譲ってくれたことはない。
無事出産した人は、どんなに辛くても、そこまでいけなかった人もいることを知っておいてほしい。
本当に意味不明に辛くて、本人も理解できない状態だったりするから、一番近くにいる人が、一番大切にしてあげてほしい。
過剰なくらいで丁度いいし、どんな用事よりも優先してなるべく付き添ってあげてほしい。
最後に、お金めちゃちゃかかることや、精神的にも身体的にもダメージ大きいことが、誰にも知られず女性一人辛い思いして終わっている事実が、もう少し何とかなっていったらいいなと思う。
悩んでいる妊婦は、どう転んでも現実は一つだから、勇気持って受け入れて、前向きに生きてほしい。
体調悪いのしんどいと思うけど、頑張って。
え、そう? 80 年代前後の地方出身なら 4 人いてもちょっと珍しいくらいだけれど、 2000 年代以降とかで 6 人きょうだいとかだったら、よほどの大富豪でなければ全員大学にやるつもりがなさそうで、夫婦間の DV は知らんが子供に対しては DV だと思う。絶対大学に行かせろって意味じゃなくて、人生の選択肢が限定されるって人権侵害だよなーとか思う。
そういう他のご家庭の事情や懐状態を推察するのは下世話だし、今回初めて言語化してみてグロテスクだと思った。一般の人でこんなことを言う人がいたら距離をおいたほうがいいし、周りもうわって思うだろうと思う。
元ツイートでは専門職とあるし、兆候が見受けられたら見逃してはならない立場なんだと思う。かといってきょうだいが多ければ即 DV だと思うわけではなく、一応その可能性が無いか注意して見てみる度合いが強まるという程度かもしれないし。
「記憶から消去したい」とまで書いてあったから、「こんな意見が支持されている」かどうかはひとつふたつ意見を読んだだけでは分からないし、状況にも依るし、 4 人だと微妙だろうし、「うちの親が」ってあるから今の子供の話でもないんだろうし、あんま気にしなくていいんじゃないかと言いたかった。
なんだか随分余計なことを書き連ねてしまった。
自ら死ぬ、というのは、どうにもこうにも悪いことらしい。
死んだらそれで終わりだよ、生きてればいいことあるよ、親から貰った大雪な命だよ、と人は言う。
勿論そんなのわかっている。でもそれがわかってても、今生きているくらいなら死んだ方がどれだけ楽か。どれだけ救われるか。それが最も重要だ。
筆者はまだ長く生きてきたとは言い難いが、存外に様々な死と直面してきた。
祖父母や学生時代の恩師の他、とても慕っていた知り合いが突然倒れて亡くなったり、つい数日前に遊んだ友が自死を選び、この世を去ったり。
当たり前にそこにあったものが、ぽっかりと穴が開いて消えていってしまう。
いつだってそこにあるのは悲しみだった。
言いたかったこと、やりたかったことがあったのに。そう思った。
特に自死を選んだ友については、沢山の感情を抱いたのを覚えている。
兆候が無かったわけではないのだ。きっと友はずっと死にたかった。
でも死にたがる友に、前述したような気休めを言いたくなかった。だから筆者は、否定も肯定もしなかった。
友が死んで深い悲しみを覚えてからも、筆者は、自分の人生は自分で選ぶべきだと、そう思っている。
生きていればいいことがある。
それは実際、まるっきり嘘では無い。
例えば昨今はブラック企業、過重労働なんてキーワードをよく目にするようになった。
例え仕事に追われ、でも家族の為に辞められない。そう思っていたとしても、自らが死ななければいけない訳ではないはずだ。
路頭に迷ったとしても、大黒柱が死ぬよりもマシな選択肢は、大抵の場合あるはずなのだ。
では何故死を選んでしまうのか。
かくいう筆者も、死のうとしたことは何度もある。
筆者の場合は原因が短期的なもので、どれだけ我慢すれば解放されるのかも見えていた。
でも死にたかった。
ただ生きているだけでも苦しいのに、頑張れと言われて、これ以上何も頑張れなかった。
何故あの時死ねなかったのか、はっきりとは言えない。
まだ死ななくてもいいかな、となんとなく思っただけだ。
ただ、あの時死ねていれば、その後に得られた喜びも悲しみも味わわなかった。
それは良いことでも悪いことでもある。
でも、あの時の選択を土台にして、今生きている。
それを喜んでくれる人と出会ってしまったから、本気で死のうとは思えなくなった。
もし仮に、生きていることを誰も喜んでくれなくなったら、きっとまた死を選ぼうとすると思う。
この物語はフィクションであり実在の人物団体とは一切関係ありません。
20xx年y月z日、日本は文字通り崩壊したと言って差し支えない。首相は今日、日本人ではない人が任命された。日本という国は終わったのだ。
町は狂気に満ちている。街中には食い扶持に困った物乞いに溢れ、道行く人にすがり寄っている。触るなとはっ倒されるなど日常茶飯事の光景だ。実ははっ倒す側の人間はほとんどが日本人ではない。今や日本の経済を回しているのは後から大量に入ってきた移民である。公園にはホームレスに溢れ、異臭に満ちており、日本人への迫害も始まっていた。先人たちが見ればこれがあの技術大国だった日本か…と驚きを隠せないだろう。
何故こんな事になったのか?今考えればその兆候は随分前から見えていたかもしれない。しかし多くの人々は最後まで気づく事はなかった。
日本は憲法9条を盾に平和主義を貫いてきた。確かにこれまで日本で戦争になったり、戦争に参加する事はなかった。しかし、戦争は武力だけではないのである。平和ボケしている国民をよそに、静かなる日本への侵略が進められている事など誰も知る由もなかった。一部の官僚を除いて。
100年を越える年月をかけて日本への侵略が行われていたのだ。
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日本への静かなる侵略は1980年頃から始まっていた。詰め込み教育への批判が高まった事からゆっくり教育が始まった。ゆっくりな教育で生きる力を育むと最もらしい理由を言っているが、本当の狙いは違う。日本人は馬鹿になってもらわないと困るのだ。これがその第一歩になった。
学校教育現場への根回しも事欠かない。将来の天才や革命家が生まれては困るので、出る杭は打つ教育を徹底した。まだ授業で習ってない事を回答する者には誤りとして処した。せっかく学問に励む者のやる気を失墜させる為である。
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次に大きく動いたのは1989年、消費税3%の導入である。建前上、今後の年金や社会福祉、少子化対策として導入されたが、対策などは行われる事はなく、法人税減税の埋め合わせに使われる事となった。もうひとつの狙いは国民をじわじわと貧困に導く事にもあった。貧困層を増やし、国力を削ぐ必要があった。
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政府にとって早急に実現しなくてはいけない事があった。それは政治不信の訴求である。国民の政治への関心を薄れさせる事が命題であった。投票率を下げる研究が始まっていた。
与党である自由贔屓党と野党の民生党の二大政党であるが、2009年に初めて政権交代が行われ、民生党政権が誕生した。自由贔屓党への不信感から一度やらせてみようという感覚で民生党への支持が集まった。しかし民生党政権は自由贔屓党以上に酷い政権だった。事業仕分けで数々の予算を削減、中国や韓国の顔色を伺う外交、朝鮮学校の無償化を検討し、更なる消費税の増税を決定。一気に民生党の支持は失われていった。
2012年、衆議院解散により総選挙が行われた。300議席以上あった民生党は⅙まで減らし大敗した。これにより、自由贔屓党への期待か高まることとなった。同時に民生党には政権を担当する能力がないと広く知らしめられる事となった。
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国民の収入の格差問題が取り沙汰され、正社員と非正規社員の収入差が顕著なものとなっていた。仕事内容はほほ変わらないのに収入に格差があるのはおかしいと問題提起された。ここで政府は格差を是正する為に正社員という枠組みを無くす事にしたのだ。正社員も非正規社員も一律従業員となり、待遇も非正規社員のものに統一された。正社員だった者にはとっては大幅な減給であり、非正規社員はこれを歓迎した。業務は変わらないのに責任だけは重く、アルバイトとして働いても待遇がほとんど同じである。これには離職者が続出したが、これも計画通りであった。
会社を辞め、独立した方が稼げると気づいた能ある者は個人で仕事をする事が増えた。稼ぎが増え生活レベルが向上した者もいたが、歓喜しているのもつかの間。刃が差し迫っていた。
軽減税率に伴うインボイス制度の導入である。この頃の消費税は基本的に10%で食料品のみ8%を適用する軽減税率が導入された。税制としてとてもわかりにくく、事業者に多くの負担を課した。個人事業主やフリーランスなどは売上が1,000万円以下の場合、免税事業者として消費税の納税が免除される。しかしインボイス制度の導入で企業は適格請求書発行事業者の請求書じゃないと仕入税額控除ができなくなる。適格請求書は個人では発行できず、法人になるか課税事業者にならなければならない。つまり、今まで個人で仕事を請け負ってきた個人事業主やフリーランスは仕事をもらう事ができなくなるのである。個人で仕事を請け負う事が困難になった。
これで個人事業主を廃業するものが増えたが、一度会社を辞めた者が再び企業へ復帰する事は叶わなかった。外国人労働者の割合がどんどん増加している為、入る隙間はすでになかった。
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令和元年、政権を揺るがす大きな不祥事か発覚した。それは内閣総理大臣が主催する愚民を見る会である。愚民を見る会は各分野で功績や功労のあった者を招待して行われる行事であるが、首相の地元後援会の皆さんを多数招待し、税金を使って接待をしていると税金の私物化をしていると批判が多くあがった。
これに対し政府側は訳のわからない説明を繰り返しており、答弁の度に矛盾点が噴出し追求が深まる事となった。テレビやメディアでも取り上げられたが、世論は首相が有権者の接待をして何が悪い?税金を私物化してもいいから、そんな事より大事な審議をしろという批判もあった。
しかし政府は特に危機感を持っているわけではなかった。これだけ状況証拠が出てきても検察が動くことはなかった。いわゆる忖度というやつだ。動かないというより、動けないといったところだろうか。長引かせて有耶無耶にし、逃げ切ろうという算段だ。
2年後、衆議院の任期が終わり選挙が行われた。与党の自由贔屓党が¾の議席を獲得する大勝を果たした。数々の不祥事があろうとも奇しくも政権を担当できる政党は自由贔屓党しかなかった。
この頃には長年の自由贔屓党の腐敗政権を打倒しようと多くの政党が誕生した。しかし、ほとんとが猫の爪痕も残すことも叶わず消えていった。令和の頃世を賑わせた独裁政権から国民を守る党は中でも一番懐に斬りかかった政党だった。しかし、政府はテレビ、新聞、インターネットの総力を駆使して悪印象を植え付け、国民を洗脳した。
この頃政府の驚異となっていたのはYoutudeの勢力である。誰でも簡単に発信する事ができ、政治家も直接国民へ訴えかける事が可能となった。これを恐れた政府は日本でYoutudeの利用に制限をかけるYoutude税を制定した。日本限定で動画を投稿するにはお金がかかるようになった。極めつけは政治家のYoutudeの利用を禁止する法律が施行された。
そうなると当然反発する国民も出てきそうなものだ。表現の自由すらも侵す、憲法も知らぬ存ぜぬの政策に不満が出るのは当たり前だ。しかしYoutude税を納めてまで政権批判の動画を上げたり、Yaheeコメントで文句を言ったり、Twitrarで文句を言う程度であった。誰も打倒政権デモを起こそうともしなかった。政府も日本国民の国民性をわかってやっているのだ。後に知らない間に政権侮辱罪というものができた。政権に批判的な者は罰せられ、5年以下の懲役、500万以下の罰金が課せられる事になった。
これだけ滅茶苦茶な政治をやっても自由贔屓党の政権は揺るがなかった。野党よりましという意見もあるが、政権を担当できる政党が自由贔屓党しかない時点で詰んでいるのである。どんな不祥事が連発しようとも自由贔屓党が選挙で負ける事はなかった。この頃には国民の政治不信はかなりの域に達しており、衆議院の投票率で15%を下回っていた。ほとんどが自由贔屓党の支持母体である組織票である。国民は政治をほとんど諦めており、選挙へ行っても何も変わらないと思う人がほとんどだった。政府の策略にまんまとはまっていったのだ。
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この頃から政権に変化が生じてきた。今までは建前上最もらしい理由をつけて国民に痛みを伴う政策を実施してきた。それが露骨に悪政を行うようになってきたのである。
まず第一に子どもがいる世帯に子ども税を導入した。1人につき年間5万程度の税となる。こうなると子どもへの虐待が加速し、前年の15倍に跳ね上がった。お前さえいなければ!と虐待した結果、子どもを殺してしまうケースも激増し、殺人罪として検挙される頻度も激増した。出生率は0.5を下回る中、順調に子どもの数は減っていった。
そして消費税を2年に1%ずつアップする法案が閣議決定された。それもひっそりとだ。テレビなどのメディアには適当に芸能人を麻薬所持の疑いで逮捕させ、国民の目を背けさせた。
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それから数十年後、この程台風49号が日本全土に猛威をふるった。地球温暖化の影響で台風の発生数が年々増加している上に、威力も輪をかけて増大していった。台風の中心気圧は900hpaを下回り、最大瞬間風速は100m/sに迫った。
年間20以上の台風が上陸し、年中台風が上陸する可能性があった。各所で壊滅的な被害が出て復旧が間に合わない状態にあった。ある時、政府は復旧しない事を決めた。国としての支援を打ち切った。都市部以外は住める状態ではなく、インフラも止まったままになった。住民たちは住む場所を求めて東京へ殺到し、東京への一極集中が加速した。
台風がいくら上陸しようとも東京は無傷だ。政府は台風対策に1兆円を拠出し東京全土を守る障壁を開発した。これにより風や雨の量を軽減する事ができるのだ。東京以外では地獄の様相である。もう住める場所ではない。東京の外にいる者は自己責任と切り捨てられる事となった。
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台風の混乱の中でもひっそりと進められていたのが外国人参政権だ。幾度となく廃案になってきた法案で、自由贔屓党はかねてより根強い反対の立場を貫いてきたが、突如立場を逆転させてきた。密かに法案を成立させ、選挙権の他、被選挙権も付与された。国政選挙には外国人の率候補者が増えてきたが、日本人の投票率は10%を下回っていた。ほとんどが与党の支持母体である組織票で、政府の思い通りの候補者が当選していった。
日本の企業で外国人が多く働いているが、低賃金で長時間働かせるなど待遇が悪いと批判を浴びる事となった。この問題は世界的に話題になり、日本が一斉に槍玉に挙げられたのである。これに対処する為に政府の補助のもと、外国人労働者の待遇を一斉にアップさせた。労働環境、賃金を一斉に改善させたのである。注意点は日本人は除くという事だ。
今や日本人が人並みの生活を送っている者は少ない。政治家の家系に生まれた者か、有力者にコネがある者、経営者の大富豪くらいだ。昔から格差はあったが、今ではさらに格差が広がり極貧に苛まされている。生活保護は段階的に削減されていった。
年金の受給年齢は100歳に引き上げられた。今では年金を受け取れるのは1%にも満たなかった。
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これは鬱病が再発したアイマスPがダラダラと書く、チラシの裏のような内容なので読まなくていいです。
頭と心のわだかまりを書き連ねて気持ちを整理したいだけなので。
※下記に書くアイマスライブ関しては全てライブビューイングでの視聴。
アイマスのライブもだが、他に好きなアーティストのライブを見ても気持ちとしては楽しいが、どこか何か物足りなさを感じて100%盛り上がれきれない。
恐らくこの時点で一度は寛解してた鬱病がジワジワとぶり返していたのだろう。セットリストを見返しても、盛り上がるの間違いないので演者側の問題ではない。
ただこの時点では気持ちとしては前向きだったり、行きたいと思える場所やイベントは多かったし、実際行動を起こせていた。
結果的に100%では無かったが、それでも7~8割は楽しめていたからお金と時間作って見に行った事は後悔してない。
ライブを見に行っている頻度としてはアイマス関係が多いのでアイマス基準で考えてしまうが、少なくとも2018年の初星宴舞やSS3Aの次点ではまだ楽しめていた。
正直な話、一度寛解するのに10年以上掛かった事もあって、鬱病がぶり返してきているという現実を直視出来ず、なんとなくその事に目を背けていた。
でも目を背けるのも限度があって、デレマスの6thの時点でとうとう鬱病の気配を無視できなくなっていた。
というのも、私の中で言う程盛り上がれなかった。
これもセットリストや演出は楽しめるものだったし、理屈としては不満なんて無い。寧ろ良いライブだった。
ただ、これをちゃんと楽しめないという事は病気の影響なのだろう。
そして「また鬱病と向き合わないとダメかと」諦め半分で思うようになった切っ掛けが今回のデレマス7thライブ。
2ヶ月前にやった公演に関しては、上記の事もあり行くかどうか悩みつつも結果的に行く事にした。
見た感想としては5割楽しめたかも微妙になっていた。行かなくてもよかった気がする反面、行ったことに対する後悔はしてない。
そしてまた、今月の公演に関しては行くかどうかかなり悩み悩んだ結果、
仮にチケットの抽選に応募した所で「チケットの抽選に外れてくれればいいのに」と考えてしまったので行くはやめることにした。
毎度の事なら振り返り上映もあるだろうしと思い諦めた瞬間、心の中が少し軽くなった。多分、自分が思ってた以上に重荷になってたんだろうな。
でもって今月の公演が終わり、セットリストやサプライズ関係を見てても、心があまり反応しなくなっていた。
中でもショックだったのは、自分の担当アイドルが久々にソロ曲歌ったり新曲貰ったりしているなんて本来なら歓喜するハズなのに、その担当の出来事すら興味を持てなくなっている今の自分が一番ショックだった。
あれだけ好きだったデレマスにもうここまで興味持てなくなっているなんてな。
いっその頃コンテンツ側がやらかして嫌いになれる事があるなら楽なのにな。
好きだった物に対してジワジワと興味を失っていくのって悲しいというか虚しさを覚える。
実際、公演を見なかった事に対して後悔の念が一切無い。
以前鬱病を患った時とはまた違う方向性で精神をジワジワと削られているんだなと思い知った。
ここまでつらつらと書いたものの、別に嫌いになった訳じゃない。
寧ろ、また好きになれたらいいなって思う。