2019-12-02

どうして死んだらいけないの?

自ら死ぬ、というのは、どうにもこうにも悪いことらしい。

死んだらそれで終わりだよ、生きてればいいことあるよ、親から貰った大雪な命だよ、と人は言う。

勿論そんなのわかっている。でもそれがわかってても、今生きているくらいなら死んだ方がどれだけ楽か。どれだけ救われるか。それが最も重要だ。


筆者はまだ長く生きてきたとは言い難いが、存外に様々な死と直面してきた。

祖父母学生時代の恩師の他、とても慕っていた知り合いが突然倒れて亡くなったり、つい数日前に遊んだ友が自死を選び、この世を去ったり。

大抵の場合、死は唐突だった。

当たり前にそこにあったものが、ぽっかりと穴が開いて消えていってしまう。

いつだってそこにあるのは悲しみだった。

言いたかたこと、やりたかたことがあったのに。そう思った。

特に自死を選んだ友については、沢山の感情を抱いたのを覚えている。

兆候が無かったわけではないのだ。きっと友はずっと死にたかった。

でも死にたがる友に、前述したような気休めを言いたくなかった。だから筆者は、否定肯定もしなかった。

友が死んで深い悲しみを覚えてからも、筆者は、自分人生自分で選ぶべきだと、そう思っている。


生きていればいいことがある。

それは実際、まるっきり嘘では無い。

例えば昨今はブラック企業、過重労働なんてキーワードをよく目にするようになった。

例え仕事に追われ、でも家族の為に辞められない。そう思っていたとしても、自らが死ななければいけない訳ではないはずだ。

路頭に迷ったとしても、大黒柱死ぬよりもマシな選択肢は、大抵の場合あるはずなのだ

では何故死を選んでしまうのか。


かくいう筆者も、死のうとしたことは何度もある。

未来希望が無かったわけではない。

筆者の場合は原因が短期的なもので、どれだけ我慢すれば解放されるのかも見えていた。

でも死にたかった。

生きることよりも、死ぬことの方が簡単だった。

ただ生きているだけでも苦しいのに、頑張れと言われて、これ以上何も頑張れなかった。

何故あの時死ねなかったのか、はっきりとは言えない。

タイミングや運の問題だろう。

まだ死ななくてもいいかな、となんとなく思っただけだ。

ただ、あの時死ねていれば、その後に得られた喜びも悲しみも味わわなかった。

それは良いことでも悪いことでもある。

でも、あの時の選択を土台にして、今生きている。

それを喜んでくれる人と出会ってしまたから、本気で死のうとは思えなくなった。


もし仮に、生きていることを誰も喜んでくれなくなったら、きっとまた死を選ぼうとすると思う。

それが自分を救ってくれるのなら、その選択は間違っているんだろうか。

  • 生存者バイアスだよ。 生きて幸せになった人はそれを発信できるけれど、死んで幸せになった人はそれを発信できない。

  • 冥界からかかる電話で三島と芥川ってやつを呼び出してくれ 聞いてみたい

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