自ら死ぬ、というのは、どうにもこうにも悪いことらしい。
死んだらそれで終わりだよ、生きてればいいことあるよ、親から貰った大雪な命だよ、と人は言う。
勿論そんなのわかっている。でもそれがわかってても、今生きているくらいなら死んだ方がどれだけ楽か。どれだけ救われるか。それが最も重要だ。
筆者はまだ長く生きてきたとは言い難いが、存外に様々な死と直面してきた。
祖父母や学生時代の恩師の他、とても慕っていた知り合いが突然倒れて亡くなったり、つい数日前に遊んだ友が自死を選び、この世を去ったり。
当たり前にそこにあったものが、ぽっかりと穴が開いて消えていってしまう。
いつだってそこにあるのは悲しみだった。
言いたかったこと、やりたかったことがあったのに。そう思った。
特に自死を選んだ友については、沢山の感情を抱いたのを覚えている。
兆候が無かったわけではないのだ。きっと友はずっと死にたかった。
でも死にたがる友に、前述したような気休めを言いたくなかった。だから筆者は、否定も肯定もしなかった。
友が死んで深い悲しみを覚えてからも、筆者は、自分の人生は自分で選ぶべきだと、そう思っている。
生きていればいいことがある。
それは実際、まるっきり嘘では無い。
例えば昨今はブラック企業、過重労働なんてキーワードをよく目にするようになった。
例え仕事に追われ、でも家族の為に辞められない。そう思っていたとしても、自らが死ななければいけない訳ではないはずだ。
路頭に迷ったとしても、大黒柱が死ぬよりもマシな選択肢は、大抵の場合あるはずなのだ。
では何故死を選んでしまうのか。
かくいう筆者も、死のうとしたことは何度もある。
筆者の場合は原因が短期的なもので、どれだけ我慢すれば解放されるのかも見えていた。
でも死にたかった。
ただ生きているだけでも苦しいのに、頑張れと言われて、これ以上何も頑張れなかった。
何故あの時死ねなかったのか、はっきりとは言えない。
まだ死ななくてもいいかな、となんとなく思っただけだ。
ただ、あの時死ねていれば、その後に得られた喜びも悲しみも味わわなかった。
それは良いことでも悪いことでもある。
でも、あの時の選択を土台にして、今生きている。
それを喜んでくれる人と出会ってしまったから、本気で死のうとは思えなくなった。
もし仮に、生きていることを誰も喜んでくれなくなったら、きっとまた死を選ぼうとすると思う。
生存者バイアスだよ。 生きて幸せになった人はそれを発信できるけれど、死んで幸せになった人はそれを発信できない。
冥界からかかる電話で三島と芥川ってやつを呼び出してくれ 聞いてみたい