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2024-11-10

実子を持つことを諦めた

筆者は30代中盤男性で、妻は30代前半。ところどころぼかしています

もともとそんなに子供が欲しいとは考えていなかったが、結婚3年目で「やってみるかー」という感じでトライ。1人目はあっけなく自然妊娠した。最初全然実感がわかず、温度感の違いで夫婦喧嘩に発展することもあったが、子供服を見に行ったりしていくうちに徐々に楽しみになってきた。

詳細は省くが、リスクの高い母体であることは最初からわかっていたものの、16週を過ぎて完全に油断しきっていた。しかし、定期検診の翌日に突然の流産。あっという間のことだった。

もちろんこんな辛いことがあるのかと思うほど悲しい出来事だったが、出産したその日に退院した妻と泣きながらビールを傾け再起を誓った。

1年ほど経ったのちに再度自然妊娠に挑戦したが、なかなかうまくいかないので不妊治療に移る。これも難航して何回目かの採卵でようやく妊娠に至った。NICUのある大きな病院を選び、通常より高い頻度で検診を受けていた。が、これも16週を超えたのちに流産という結果になった。

不妊と不育の両方があること、不妊治療妊娠期間で妻に心身ともに大きな負担がかかること、そして子を失う悲しみに我々がもう耐えられないことから、これ以上の妊娠には挑戦しないことにした。こうして、我々夫婦が実子を持つという選択肢は潰えた。

最初に書いたように、子を持ちたいという願望は強くなかったし、なんなら子供なんかいなくてもやりたいこといっぱいあるから人生楽しめるしなーとさえ思っていた。思っていたのに、これからどうやって生きていけばいいのかわからないでいる。

同じ苦しみを味わった人は少なくないとは分かりつつも、「世の中の多数の人々が普通にできていることがなぜ自分たちにはできないのか」と考えてしまう。正直、他人を見て「あん人達でさえ子供がいるのに」と思うことすらある。そんなに子供が大切じゃないなら頼むから分けてくれ

養子を迎えるという選択肢はまだ残されているし、検討はしている。ただ、妻に似た我が子を育ててみたかった。

2024-10-01

子どもを無事に産めなかった

二人目か犬かの答えが出ない ※追記あり

 これを書いてから1年後。

 奇跡的に二人目を授かり、結果的に亡くした。

 妊娠が分かったのは1月の半ば。生理が遅れて、検査薬を試した。まさか自然妊娠だった。元々卵巣機能が低く、第一子は不妊治療を経て出産し、その後いくつかのことを試したが結局授かることはなく。家族3人で楽しくやっていけばいいと完全に諦めていた矢先、妊娠したことが分かった。

 最初夫婦ともに戸惑った。子どもはもう5歳になって、生活に随分余裕ができた。夜は寝るし、言葉を話せて、気軽に旅行にも行ける。経済的にも子どもひとりなら安心して程良い生活ができる。そう高を括っていたところに0歳の存在が加わると。思い出される、寝ない、食べない、忍耐の日々。兄弟を望んだこともあったが、もはや5歳と0歳は多分一緒に遊ばない。仕事責任のある立場になって、引き継ぎや調整にかかる労力は計り知れず、正直マジかという気持ちになった。

 そもそもこれまでどんなに頑張っても妊娠しなかったポンコツ身体にぽっと出の命が宿ったとして、うまくいきっこないはずだ。最初はどうせ化学流産子宮妊娠関の山だと思い込んだ。そうでないと、自然に授かれた喜びが爆発してしまいそうだったから。今さらマジかと思う一方、もう一度この手に赤ちゃんを抱けるかもしれないことが、子どもに弟か妹を産んであげられるかもしれないことが、本当は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

 初期の検診は毎回、あまり期待せずに通った。子宮内に胆嚢が確認できたときリングのような卵黄嚢がくっきりと美しく見えた時、力強い心拍の音が病室に響き渡った時。涙が出るほど嬉しかった。期待しないように、期待しないようにと言いながら、毎朝毎朝、アプリで週数日数ごとの胎児の様子を丁寧に読んだ。第二子で、次の検診までがあっという間だとか、うっかり存在を忘れるとか、そんな瞬間は一度もなかった。ずっとずっと心配だったし、いつも赤ちゃんのことを考えていた。

 私の心配をよそに、赤ちゃんはすくすくと大きくなった。検診の度に週数以上の大きさで、何の異常もなく、胎動も痛いくらい力強くて。深夜に目が醒めて、お腹に少し合図すると、もこもこと蹴り返してくる存在が何よりも愛おしかった。どんどんお腹が大きくなって、腰が痛くて、苦しくて、上の子に優しくできずイライラしたり落ち込んだ日もあったけど、元気な胎動を感じながら過ごす毎日は満ち足りていて幸せで、幸せで仕方なかった。

 7月、何とか仕事をやりきって、気持ちよく産休に入った。体質的に上の子は早産だったから、もしかしたら近日中に産まれしまうかもなとは思った。検診では何も問題なかったが、体感的にそれくらい身体限界で、8月を乗り越えられる気がしなかった。早産はいつも不安だったけど、28週を過ぎたあたりで、もう大丈夫だと思った。かかりつけは家から近く、NICUのある大学病院で、例え早産になったとしても何の問題もないはずだった。

 その日。

 前日も当日も暑くて外出はできず、家でゆったりと過ごした。夜になり、脇腹辺りに痛みを感じた。陣痛のように収縮するような波のある痛みではなくて、何かズキズキした痛み。食あたりを疑いつつ、どんどん増してくる痛みに違和感を覚えすぐに病院へ向かった。深夜の救急外来で、すぐにエコーを当てられたけど、いつもなら聞こえるはずの力強い心拍音がいつまで経っても聞こえない。ドッドッドッとうるさいくらいのあの音が。死ぬまでずっと覚えていたいと思った音がいくら探しても聞こえなかった。

 腹痛を感じてから約45分、病院到着から約15分で帝王切開が始まった。にも関わらず、全身麻酔から目が覚めたとき赤ちゃんは生きていなかった。診断名は子宮破裂、常位胎盤早期剥離、胎児機能不全、子宮筋腫核出後、子宮内膜症性嚢胞合併。要は子宮が15cm裂けていて、そこから胎盤が脱落し、赤ちゃんは仮死状態で生まれものの、蘇生に反応しなかった。

 産まれた姿は大きくて、体重が1950gもあった。まだ体毛がたくさんあって、眉毛が立派だったけど、私と、上の子が産まれときそっくりだった。手足はむっちりと太く、小さな指もそれぞれ5本ずつしっかりあった。小さなお口が三角形に開いていて、かわいくてかわいくてしかたなかった。目が開いたら、どんなお顔だったんだろう。どんな声で泣いたんだろう。何が好きで、何が嫌いだったんだろう。もう冷たくて、ところどころ固まって、点滴や機械の痕が痣になって痛々しくても、かわいくて愛おしくて悲しくて、泣きながら何度も何度も名前を呼んだ。

 どんなに寝なくても、食べなくても、元気に生まれてくれたらそれでよかった。ふにゃふにゃの体で、息をして、目が合うだけで、どんなにかわいかっただろう。こんなことなら、1日でも早く、早産になればよかった。子宮が破裂する前に、お腹から出してあげたかった。3日前の検診では何の異常も無かったし、子宮破裂の可能性なんて考えさえしなかった。あかちゃんは私のせいで亡くなった。子宮さえ丈夫だったなら、元気に生まれてきたはずなのに。

 

 手術から1週間後に退院して、夫の運転する車で家に帰った。信号待ちで車が止まると窓の向こうに、大きなお腹で上の子と手をつないで幸せそうに帰り道を歩く自分の姿が、お腹をおさえてふうふうと息をつきながら頑張って坂道をのぼる自分の姿が浮かんで涙が止まらなくなった。家についても、しばらく中に入れなかった。新生児用の抱っこ紐も、ベビーベッドも準備していた。上の子のおさがりも整理して、みんなで楽しみにしていた。名前もたくさん考えて、一番良い字画を選んでつけたのに。自分だけ家に帰ってきてしまたことが悔しくて悲しくて死にたいと思った。ごめんねといくら言っても言い足りなくて、自分に拳を叩きつけながら叫ぶように泣き続けた。

 あれから2ヶ月が経った。納骨はせず、毎日お線香と小さな哺乳瓶でお水を供え、遺骨に話しかけて暮らしている。泣かずに過ごせる日が増えてきた一方で、妊婦さんや小さな赤ちゃんを見かけてはひどく落ち込む日もある。最初の数週間はとにかく出産前に戻りたい、戻りたいと思いながら過ごした。前日でも、当日の朝でも、何とか時間を巻き戻せたなら、先生懇願してすぐにでも帝王切開をしてもらう。赤ちゃんはしばらくNICUで過ごすけど、上の子の時のように、きっと元気に退院できた。

 1ヶ月くらい経つと、この悲しみが死ぬまでずっと続く気がして、妊娠前に戻りたいと思った。そもそもからなくても、私達は十分幸せだったから。子どもは一人と納得していて、他人を妬ましく思う気持ちもなかった。大好きな夫と子どもがいて、決して不幸ではないはずなのに。失ったことが悲しくて、足りないものを嘆き続ける毎日ならば、授かる前に戻りたいと思った。

 そして2ヶ月経った今、子宮破裂について考えることが増えた。子宮破裂は極めて予後が悪いもので、8割の赤ちゃんが亡くなり、例え救命できたとしても、寝たきりとなる可能性が高いそう。私は子どもに一生、経管栄養の寝たきりで意思の疎通が全くできなくても生きていてほしかったとは思わない。もちろん結果的にそうなったなら大事に世話して必死に生かそうとするに違いないけど、それが死よりベターだとも思わないから、唯一そういう意味では今回の結果に納得できる気もしている。

 でもやっぱり、失った未来を想うと悲しくて、もう一度取り戻せないかと思ってしまう。もう一度妊娠できたなら、今度は無事に産むから。亡くなった子と新しく生まれる子を同一視してはいけないとか、そういう話はどうでもいい。ただただ、もう一度授かって、今度こそ元気な赤ちゃんを抱きたい。これはもう、女としての私のエゴだ。止血のために両側の卵管を結紮したから、自然妊娠はできない。また次の妊娠医師から真剣に止められている。本来なら子宮摘出すべきところ、小腸癒着して摘出できず、仕方なく残しているだけです。妊娠しても無事に産める確率は極めて低く、次もまた同じか、それ以上に悪いことが起こります。本当にお母さんと赤ちゃん生命に関わります。そう言われても、じゃあもうきっぱり諦めて、次の子は二度と望みません、とは思えない。

 赤ちゃんとたくさんお散歩がしたかった。上の子絵本読み聞かせる様子を動画に撮りたかった。寝顔を見て、上の子と同じ顔だねと夫と一緒に笑いたかった。泣き声に、イヤイヤ期にうんざりしても、熱が下がらなくて大変でも、くたくたになりながらもう一度家族赤ちゃんを育てたかった。全部、あと少しだった。もう少しだったのに、全部失ってしまった。悔しくて悔しくて、このまま終わることができない。

 何のために授かったのか。どうすれば失わずに済んだのか。

 自分エゴ家族迷惑をかけてでも、もう一度リスク承知子どもを望むか。足るを知り、諦めて日常を受け入れるべきか。

 どんなに答えが決まっていても。

 迷うことをやめられません。

 いつまでも

2023-06-08

子供を産むことをオススメはできない

30代、2人の子持ちの主婦

ここ数日で見かけた小さな子供産むべきか論争」を見てふと自分も呟きたくなったので記録したいと思う。

結論としては、子供を産んでよかったが、子供を持つことを他人オススメ絶対できない。

私は昔から自分より年下の子供が好きで、近所のちびっ子達の親御さんに、いまだに感謝されるくらいに面倒見がよい子だった。

中高の職業体験では幼稚園選択したし、電車赤ちゃんを見かけたら可愛くて思わずいかけてしまったり、手を振ってしまったりするタイプ

(職業体験を通じ、多くの幼児の命を預かる責任自分には重すぎると感じて早々に見切りをつけた。保育士幼稚園教諭には頭が上がりません。)

「いずれ子供が産みたい」と漠然とした思いを持って大人になったが、それが"女は子供を産むもの"という社会から刷り込みによるものか、はたまた生物本能なのか、そんなことはわからない。

中学校の保健の授業で女性妊娠についてざっくり学ぶのだが、そこで妊娠の適齢期や高齢出産による染色体異常などのリスクについて知り得た。

身体妊娠機能という一点にのフォーカスするなら、早く産む方がいいのだという意識をこのころから持つようになる。授業を人一倍真面目に聞き、そして自分と関連づけて反芻するタイプの生徒だった。

中学高校と成績は優秀で旧帝大に進学。新卒地元企業就職した。

職場は"産休育休が取りやすい"ことを売りにしていたのも大きなポイントとなった。この時点では産休取得は社会的にメジャーになっていた為、働きながら子育てすることにポジティブイメージを持っていた。

大学に6年通い、この時点で24歳。

私は産休育休3回取ったからね!と豪語していた女性の先輩をロールモデルに頑張ろうと働き始めた。

ママさん社員たちは時短勤務である。他の社員が早めに出勤して掃除をし、朝礼を済ませ、諸々の雑用を終わらせた頃にやってくる。そして一切の残業をせずに帰っていく。ロールモデル先輩はもう10年程この働き方を貫いていた。

子供がお熱ですと連絡があれば早退していくし、高確率で次の日も休む。運動会卒園式などイベント目白押しだった。

皺寄せは確実に他の社員にきていた。産休とりやすい!のカラクリは、他の社員の頑張りでしかなかったのだ。そこまでの実情は大学生の私には見抜けていなかった。

10年かけて先輩社員子供を産み育てている間に、中堅の先輩達は結婚適齢期にさしかかりながら、デートする間もなく残業の日々だった。

私は結婚もしたいし子供も産みたいが、他人犠牲の上に成り立つ"そっち側"にもなりたくないという思いがただひたすらに募った。

Twitter上では"他社員への負担会社側の問題であり、ママ社員問題ではない"という論調が目立つし、まあそうなんだけど、じゃあ実際問題どうすればいいのだろう。

常に余裕を持った人員配置をしたとて、穴を空けることにより少なくとも通常なら不要なはずの手間なり迷惑はかかるし、どうしても子供のいない人の方にばかり負担がいくことになる。

時間勤務でもパフォーマンスさえ良ければ問題ない職種もあるだろうが、早退や欠勤がモロに損失となりうる職種もある。(ママ社員だけ取り立てて有能でなければ生き残れないというのも不公平な話だけれど)

自分が休んだとて全く問題ないなら、それはそれで最初から必要なくないか?ただの給料泥棒じゃ...という思考にも陥った。

私の場合入社後すぐに海外出張ありきの新しいプロジェクトを任されており、子供を産むとなれば確実に継続は難しかった。

26歳のとき結婚の話が出たときに、私は潔く退社を決めた。(これは夫のある程度の収入ありきの話で、一般化できる話ではないが。)

子供はいつか欲しいと双方の合意はあったし、彼の勤務地に引越すに際して私が退社することも相談して決めた。

ここまでの文章で私がまるでキャリアに興味のない女に捉えられたかもしれないが、仕事は充実していたし本当に天職だと思えていた。かといって働く為に生きているタイプでもない。

パートナーを愛していたし、結婚して家族を作りたいという私の人生は優先するとして、確実に周囲に迷惑をかける前提で仕事を続けることが、性格上できなかったのである

時間は不可逆である。私はもう、あの教科書でみた25歳を超えていた。

結婚後は新しい土地で割とすぐに妊娠したのだが、つわりが人の倍重いタイプだった。ここで地獄を見ることになる。昼夜問わずに吐き続け、一切の水分も受け付けず、極度に痩せて入院となる。

病名は重症妊娠悪阻。食事が摂れないので点滴での栄養と水分補給となった。

そしてトラブル続きの出産となり、緊急帝王切開出産。息子はNICUに入ることとなる。

(現在特に問題なく元気に育っています。)

人よりは子育てへの解像度は高いという自負があったが、それでも初めての育児想像を絶した。

(というか、子育てで極限の状態に追いやられた時に自分がどれほどしんどいかなど完全に予想するのは不可能では?)

よく「わかってて産んだんだろ」という母親への辛辣コメントを見かけるが

文字通り"何があっても"自分は心身共に大丈夫だし、愚痴の一つもでないと誓える人間などいるのだろうか。

我が子はとにかく睡眠が下手で、そして食べない子であった

つわりが始まったこから、そして息子が朝まで寝るようになるまでの計4年半の間、私はたった一晩たりとも朝まで眠れたことがなかった。なんの誇張もしてない、事実であるシンプル寝不足。この一点だけでも育児はキツすぎた。

マミブレインとも呼ぶらしいが、自覚できるほどに頭が正しく働いていなかったし、この状態復職など私には無理だった。

睡眠食事、お風呂トイレなど生物として基本的欲求が満たされないので、高次のところに欲求いかなくなる

ものすごく下等な生物に成り下がった気分を日々味わう。

もう何回も擦られたフレーズだが、「社会から取り残されて子供自分だけの世界」で、なんの金銭も生み出さずゴミのような気持ちになったりもする。

身体的に辛い時間が長かったのもあり、第二子は4歳差になった。

そんなしんどいのに第二子作るんかい!?というお声が聞こえるけど

本当に私だって自分でそう思う。

でも子供達はどうしようもなく愛おしくて可愛くて間違いなく私の宝物なのだ

子育てが最高にしんどいのと、子供が最高に可愛いのは両立し得る。なんの後悔もない。

ただ、どういうところがいかに辛く大変なのかはいくらでも言語化してTwitterに垂れ流すことはできるが、どういうところがプラスなのかはこのくらいフワフワした言葉しか説明がつかない。

子供いらない派を引き込んでアピールできる材料は私にはない。

それくらい育児過酷であるし、女性妊娠出産に適した時期に結婚して子供を産み、無理なく安心して生きていける社会構造では全くない。

そして何より、産むことそのもの身体的負荷はどっちにしろ回避できない。

子供産むのサイコー!」とは絶対に言えない

耐えかねる人は絶対にいる

無理な人は絶対にいるし理解できるというのが私のお気持ちである

2023-05-12

anond:20230512084104

赤ちゃんの頭の形なんて成長とともに丸くなっていくから心配ない。

吸引分娩でヘチマみたいな頭になった子も元に戻る。

  

心配するのは生後半年経ったからでも全然遅くない。

NICUに入ってて不安になってるかもしれない親をそんなふうに脅すな

2023-04-02

猫と引っ越し:再び

子供が生まれて、なんと三つ子なのでちょっと元のアパートには戻れそうにないということで再び引っ越しすることになった。

出産前は3ヶ月間ほど管理入院特に何か問題があったわけではなかったけどハイリスクということで)だったので、一番悩んだのは猫をどうするかだった。夫と猫はそれなりに仲良くなっていたけど、夫は猫を抱っこすることができない。寒い時期だったし抱っこ好きの猫にそれはかわいそうだと思い、いったん私の実家生活してもらった。母に抱っこしてもらって幸せそうな猫の写真を見ながら病院で過ごした。

産後退院後すぐ迎えに行って1ヶ月間ほど一緒にアパート生活。久しぶりの再開は顔と声で私を認識できたものの抱っこされたら病院匂いだったので「知らん人!!」となったらしく震えられた。でも、その日の夕方には私と分かってもらえた。

NICUにいた子供達が退院したら猫は私、三つ子と共に私の実家へ。車で30〜40分の距離半年もしないうちに3度も移動することになったので猫は大変だったと思う。

そして、三つ子が1歳になった先日、戸建てへの引っ越しをすることになった。結婚時に引っ越しときは2、3日ひっそり生活していたので今回はどうなるかと心配していたけど、新居に到着した30分後には探検を始めていた。

生後1ヶ月で我が家にやって来た猫ももう9歳。今回で引っ越し最後なので、この家でお気に入り場所を見つけて、よく食べてよく寝てよく遊んで、元気に長生きしてほしい。

anond:20200106131821

2022-07-20

anond:20220719173639

うちの奥さんSIerから学習塾社員を経て看護師さんになったのだけれど、確かにそれぞれの職業文化も求められる特性も違う感じはする。

ただ、看護学校時代からいままで泣いてるのは見たことがないし、周りで泣いてる人がいるという話も特に聞かない。

勤務先の病院も規模や科で雰囲気が色々と違うようで、NICU新生児集中治療管理室)にいた頃はちょっとしたミスでも命取りになるので諸々のチェックや確認も厳密にしてシステマチックにきびきびやってたけど、転居に伴い地域の中規模病院成人病棟に移ったら結構まったりした感じになった。

時間的にも気持ち的にも随分余裕が出てきたらしくシフトの空いてる日は有料老人ホーム看護師アルバイトもしてる。

と、いうことで、まずは「精神的に追い込まれすぎてどこに行ってもつらくなる」状態になる前に何度か環境を変えてみるのもよいかもしれない(既に何回か変わっているようだけれど本人の性向として無意識に同じ系統病院を選んでしまっているのかもしれない)。

職場環境に左右される要素が多い(し、他の職種でも同様のケースがあり得る)ので「看護師を辞める」という職種自体の変更は早計であるように思うし、本人としても人生における失敗体験としてその後の人生で「できるやつ」に戻れない瑕になりそうな気はする。

もし勉強等が得意なのであれば一定の実務経験必要になるけど特定看護師を目指すという手もある。

すごくメリットがあるとは言い難いのだけれど、看護師の中では分かりやす差別化できる部分だし、それなりに長い研修期間なので転職理由にもし易い。

なお、話を読み返してみると本人は看護師に前向きかつ「泣くのは職場として当たり前」と考えていて増田がそれに過剰反応してしまっている可能性もある。

2022-05-08

総合病院出産

Twitter産婦人科女医さんたちが、NICUのある病院しか産みたくない、豪華な料理とかエステとか私はいらない的なことを言っていた。

産婦人科のお医者さんたちにはっきりしてほしいと思ってるんだけど、ハイリスク妊婦以外の人が積極的NICUがあるような総合病院出産していいの?

風邪ぐらいで総合病院行ってはいけない的な政策もあり、ハイリスクでもないのに総合病院なんて行ったらいけないと思って近所の産婦人科で産んだ。その産婦人科は綺麗な個室で豪華な料理エステがあったけど、それは産婦人科選択では全く重要ではなかった。とにかく近くて、分娩の予約が取れるとこ。それだけ。なんなら個室と豪華な料理エステいらないから安くして欲しかった。

ここに書いても答えなんて貰えないと思うけど、実際のところ産婦人科医的にはハイリスクでもないのに総合病院で産むのはアリなのかな?

2022-03-19

anond:20220318210221

つわり本当にしんどいよね。自分最近出産したけど、仕事でめちゃめちゃ動き回ったり力仕事してたら23週で産まれそうになって、即子宮口縛る手術した後集中治療室入院し2ヶ月ほど絶対安静の入院になり、最終的にまあまあの早産になって子供もしばらくNICU入院したよ。

子宮口縛る手術も成功するかわからなくて危なかった。

もうダメだと思って22週で仕事辞めたけど、辞めて正解だった。続けてたら確実に死産になってた。

から心配だし、無理しないでほしい

増田独身が多くて妊娠の辛さ理解できてない奴多いから心無いコメントは気にしなくていいよ

2021-10-20

未熟児を増やして少子化を止める

だいぶ医学も発達してきたし1000グラムくらいで出産させたらどうか。つらい妊娠期間は短くなるし出産の苦労も減ると思う。出てきたら即NICUに入れれば死ぬこともない。女性出産時の負担はかなり軽減されると思うが。

2021-10-04

野田聖子少子化担当大臣って、なんという悪い冗談だ。野田聖子は、かなり無茶な不妊治療して(代理母+生まれ子どもNICUなど)、無理やり子ども作った人物で、ある意味血統主義のかたまり

日本少子化対策で、即応性があって社会全体の幸福度をあげるのは、間違いなく養子の促進であり、個々のカップル遺伝子ではなく、集団として次世代を育むのが現代の無理ない少子化対策。

それを自分遺伝子、それも政治家家系からこその執着で子どもなす価値観野田聖子でいいのか。いや、よくない、と言いたい。

2021-08-19

anond:20210819174837

コロナ対応できるNICU持ってるとこで空いてるとこは少なそうだもんね

早産時をNICUで救うのは正しいのだろうか

数か月から数年延命しているだけのケースが多いのでは

2021-02-26

コロナ禍の下で行われる重大な人権侵害について知ってほしい

NICUやGCUというのをご存知だろうか。コウノドリというドラマ漫画を見たことある人や、実際に当事者としてお世話になったことのある人は知っていると思う。

NICUやGCUは、出産時の事情で、出産直後から入院必要になった新生児を診るための病室だ。特に慎重に様子を診る必要がある子は、NICUに預けられ、ある程度安定している子はGCUに預けられるという理解でよいと思う。

今、病院は面会禁止となっている。病院にもよるが、NICUやGCUも面会禁止になっている病院がある。私の子を預けている病院もそうだ。もう一ヶ月も子と面会していない。

これは、まあ仕方ないか、と思っていたのだけど、もう子供が生まれたという意識もなくなってきて、「これはよくないのではないか」と思ってtwitterを眺めていて

https://twitter.com/anoke12

この人のを読んで、「いや、これは重大な新生児人権侵害ではないか」と思ったので書いておく。(この人のtwitterで書いている話題は、以下の話題とは直接関係ないですが、読むべきだと思いますね)

事情はあるとは言え、ここで行われていることは、「生まれたばかりの子供を何ヶ月も母親から引き離す」という行為だ。

これは、平時日本であれば、絶対に許されないことだろう。それが、今では当たり前のように行われているのだ。

実際のところ、私も、「まあ仕方ないか」と思っていたので、人のこと言える立場ではないが、それでも、そういう行為が行われているというのは、見過ごされてよいものではないと思う。

新生児と親が触れあうという行為の影響は完全に解明されてはいないと思うが、以下のような影響があると言われている(はず)

育児について知っている人なら、「0歳児の頃からコミュニケーション大事です」みたいなことを書いてあるのを見たことあるだろう。

コロナ禍の影響で、そういった機会が失われているわけだ。

そういう機会が失うことについてのリスクは、評価されたことがあるのだろうか?もし何か悪影響があったときに、誰か責任を取ってくれるのだろうか。

そもそも、「赤ちゃんはお母さんのことがわかるんです」みたいな綺麗事を言ってたやつらは、今は「赤ちゃんは知らん人達に囲まれて仲間がいないということがわかるんです」という状態になってることを認識してんのか?

社会の誰も、その責任を取ってくれるわけではないのに、このリスク社会から個人強制されている。

親は、まあ説明を受けられるから、納得はできる、だが、本人は、何の説明も受けられず、同意もなく、そういった機会が奪われている。

そもそもとして、「親といつでも会える」というのは、新生児にとって一番基本的人権ひとつではないのか?それを本人の同意なく奪うというのが当然とされているのは、異常事態だろう。

まあ、今は異常事態なので、仕方ない、と思う人もいるだろうし、そもそも日本人口から見れば、NICUに入ってる人達割合なんて大したこといか無視してよいという考えかたもあるだろう。

ただ、納得いかないのは、飲食店は苦しいとはいえ、まだ営業可否の判断は、自由に委ねられているし、検査で陽性になったからといって、強制的に身柄を拘束されるわけではない、それぞれの人達は、辛いとは思うが、最後選択は本人に委ねられている。

それに対して、NICUやGCUの子供たちは、強制的に権利を奪われているのに等しい。これは不公平ではないだろうか?

NICUや、GCUの人達だって、「面会は推奨しないが自己判断」ぐらいにしないと、バランス取れてないように思う。そもそも新生児感染拡大させているわけでもないのに、何故不当に重い権利の制約が発生しているのか。

病院から仕方ないのだろうか?だが、大人半年面会できないのと、新生児半年親と会えないのは、時間の重みが全然違うのではないだろうか?(これは個人認識によるけど)

もっと子供大事に」という考えかたに寄せるなら、「何があってもNICUやGCUの面会だけは最後まで死守する」ぐらいの立場だってあってもよいのではないだろうか?

どうすればいいかは、難しい問題なので、すぐ決まらいかもしれない(もちろん私は面会できるようにしてほしいが)

それでも、何の説明同意社会合意もなく、人権侵害が行われているという事実是正されるべきと思う。

具体的には、

という流れを作っていってほしいものだ。

今回のコロナ禍では難しいかもしれないが、次回似たようなことがあったときに、同じような人権侵害がひっそりと行われることのない世の中になってほしい。

2020-08-29

子供生かしたい

昨日だか一昨日だか匿名ダイアリー自分の子供に障害があったことに絶望してる記事があった。

俺も生まれてきた子に障害があったけど、増田のようには絶望しなかった。

べつに俺が強いとか増田が弱いとかいう話じゃない。授かったときの年齢や健康状態精神状態環境パートナーの子に対する温度差や収入職業居住地域やきょうだい児の有無や本人(親、子両方)の性質など諸々条件が違うので、絶望するもしないもサイコロの目でしかない。


うちの子の話。

妊娠初期に胎児の首のうしろ浮腫が気になるといわれ、クアトロテストを受けた。

結果は90%以上の確率で異常なし。

安心した。流産危険のある確定診断は受けなかった。

出産日。

看護師に言われた「エレベーターの前でカメラ構えて待っててくださいねー、たくさん撮ってあげてね」。

カメラを持って待っていた俺の前に現れた保育器に入れられた我が子。

猫のような口。

一瞬のうちに保育器はエレベーターに乗せられて連れていかれる。一枚も撮れなかった写真

とっさに頭に浮かんだ言葉

会社になんて報告しようか…」。

医者に呼ばれて口唇裂について説明をうける。説明最後染色体検査を勧められる。口唇裂の原因を調べるのかな程度に考え、その場でお願いする。

その足でNICUに通され、保育器のなかにいる我が子とちゃんと対面する。

オムツだけはいて眠っている。

裂けた唇から蛇のように赤い舌がチロチロのぞいている。

おどろいたことにちゃんカワイイと思えたのだった。


途中、さきの看護師にばったり会い言われる。「大変ですね」。ハハ、まァと返す。

子が持ってこれなかったものは創ってやればいい、いまの医療ならなんの問題もない。

二、三日後、めずらしく眼を開けている子を妻と二人で見てて、俺と妻に同じ違和感

あれ、なんか、この顔つきって。

そんな顔で笑うなってって。


あぁ。

染色体検査ってそういうことなのか。

「大変」なのはそういうことなのか。

そこから結果が出るまでの数週間、あの特徴は違う、いややっぱりそうだ、けどこっちは当てはまらない、けど出ないパターンもあるのか、口唇裂との併発の確率は、口唇裂との併発の関係は、クアトロテスト信頼性は、首の浮腫との関係性は、考えて答えの出ないことを寝ても覚めても考えた。

もう地獄であっても早く着きたかった。

結果は21トリソミー染色体の数が違った。

無いものは創れる。

けど、設計図が違っていた。

どうしようもない。

確定したことで腹が決まった。

治ることはない。元々が違うんだから治るとか、ない。

の子はこれで正しい。

とはいえ、完全に受け容れるまでは波のように気持ちが揺れた。




それから八年、口唇裂の手術跡はほとんど目立たなくなった。ダンスが大好きで元気に毎日踊っている。頼れる肉親は近くにいないし妻と二人で決して丈夫ではない身体の子を育てていくことはキツいっちゃキツいがまぁそんなもんだろう

大変なのは俺じゃない。妻でもない。

大変なのは子だ。

俺や妻は子といっときでも離れてしまえば障害と離れられるけど、子はずっと障害と一緒にいなきゃなんだから

俺はそんな子供がなるべく楽に生きれるようにサポートしてやりたい。まぁそれも俺がやりたいからやるだけだけど。子育てになった途端、犠牲とかなんだよこっちは好きで課金してんだよっていうのはわりと思う。子育てってわりと面白い趣味だと思うんだけどな。

「そんなのは親のエゴ」?そうだと思う。まぁ趣味なんて他人からみれば理解出来ないことも多いかしょうがいか

障害のある我が子より一日長く生きるのが俺の目標

保育器に入って眠っていた我が子が全うして安心して寝入るのを見れたらそれがゴール。

子供めっちゃ生かしたい。

2020-08-27

甥と酒を酌み交わす日に、俺はきっと坊主になる。

おっさんだけど、今、髪を伸ばしている。

何かの願掛けとか、散髪代の節約とかではない。

好物のラーメン蕎麦を食べるときは麺と一緒に吸い込んでしまうし、シャンプーリンスの他にコンディショナーやヘアパックまでして、さらドライヤーで乾かす手間が面倒でたまらないが、それでも髪を伸ばし続けている。

その結果、後頭部には結構サイズポニーテールがぶら下がっている。

俺の体格はいい方で、プロレスラーに間違えられることも過去に数度あったが、最近マスクポニーテール起因のオールバック状態でその頻度は格段に上がった。

俺ならこんな見るからに怪しい風体の男に声を掛けるどころか、前から歩いてきても相手を逆上させないように気を使い進路を変える。

その点、声を掛けてきてくれる方々の肝の太さが羨ましくもある。あとは俺がプロレスラーでさえあれば、みんなが幸せになる。

俺にはもうすぐ二十歳の誕生日を迎える甥がいる。

彼は生後半年大人の握りこぶし大の腫瘍を除去する手術から生還したサバイバーだ。

手術後、小さな体には何本もの管が突き刺さり、その時の傷跡は今なお残っているし、当時は薬の影響か体毛が抜け落ちた状態だった。

その姿をNICUで見た俺の両親は涙が止まらなかったそうだ。

再来月、その甥とついに飲みにいけることとなる。

今は亡き父の念願を、おじさんたちで果たそうと企画している最中だ。

俺が髪を伸ばしている理由は「ヘアドネーション」のため。

多少の不便を堪えれば、小児がんで髪の毛が抜け落ちた子供のためのウィッグ材料となる毛髪を寄付できる。

ハゲしまう前に、白髪がこれ以上増える前に、今日もトリートメントを欠かさずにする。

から、甥と酒を酌み交わす日に、俺はきっと坊主になる。

2020-01-02

後期流産がきつかったので書く

昨年、2度目の流産をした。

妊娠初期で流産する人は、1/3とも言われ、私も経験がある。

ショックだったけど、妊娠して間もない頃で、正直子供の形なんてないし、

体もまだ変わり始めだったので、回復も早かった。

けれど、今回は妊娠中期19週での「後期」流産

22週以降は、基本的中絶禁止。早期でも出産し生きている人も沢山いる。

から胎児の体がほぼ完成に近づいていた頃でもあった。

一般的に15週から安定期に入る時期だったが、私の場合はひたすら辛いまま終わった。

12週以降は、出産と同じ手順で死んだものを生まないといけない。

お金も同じようにかかる。死んでるから死産届も出さないといけない。火葬必要

誰にも祝福されなくて、痛みとダメージだけで何も残らない。

そんなこと、どこ調べてもあまり出てこなくて、実際はショックばかり。

そもそも誰もしらないし、経験者は辛くて思い出したくないことだからなのかもしれないけど。

流産について

妊娠初期の流産や異常は、胎児側の問題であることがほとんど。

無理しすぎは禁物だが、どうか妊娠中の人自分を責めないでほしい。

私は、義母に無理しすぎたか流産したんだとか、職場で唯一相談せざるを得なかった子育て中の人に後悔するから休んだ方がいいと言われたけれど、正直傷ついただけ。

実際、流産後に遺伝子検査して、胎児側の原因であることが判明した。

そもそも歳をとるとそういう確率がぐんと上がるのは承知のこと。

色んな理由はあれど、自己責任だし、そうなってしまった以上時間は戻せないし、不運としか言いようのないことで、現実運命を受け入れるしかない。

から、周りの人は、安易自分意見押し付けるのは気を付けてほしい。

育ちが遅い?

9~10週頃に、出産する病院を決めて近所に移った。そこで育ちが悪いと言われる。

年齢的に心配だったこともあり、胎児専門の病院にも行って、似たようなことを言われた。

そこはより詳しく、1時間くらいかけて診察してくれた。

トリソミーなどでよくある形状の異常は見られないけれど、小さいと。

(首の付け根の厚みなどで、その兆候が初期に出たりする)

原因不明で、あまり見ない症例だということで、そこにはその後も何度も通った。

体調の変化もろもろ

毎日毎日しんどすぎて、びっくりであった。ホルモンバランスの変化のきつさ。

つわり食事

まず、つわりで常にムカムカ。食欲でない。

口にするにも、ジュース飲みたくなったり、パスタ食べたくなったり、偏食になってしまった。

妊婦は生ものNG。ってことで、気を使うと食べられるもんが少ない。

<血流1.5倍>

血流が1.5倍になるって知ってた?妊娠してから知ったんだけど、1.5倍って!マジきつい。

例の胎嚢で栄養やっているうちはいいんだけど、胎盤ができてきて子供とつながっていき、血液から栄養送らないといけなくなる。

それは知識では知ってるけど、こんなに母体に負荷がかかるとは。身を持って実感した。

まず階段しんどすぎて、登れない。いつもさっさと歩いていた坂だって、途中休み休み

電車バスも立つのは本当にきつくて、息切れして心臓バクバク。人混みもすぐ酔うし、休み休み

<頻尿>

お腹が大きくなるにつれ、それはそれは頻尿で参った。打ち合わせなどで事前に行っても、終わる頃にはギリギリ。客先などで苦労した。

免疫低下と持病いろいろ>

赤ちゃんを異物とみなさないよう、妊婦免疫が低下するらしい。知らなかった、、、、

から、何年かに一度、弱っているときになるような病気がいっぺんにきた。

風邪悪化アレルギーによる咳喘息に。

むせ返る止められない咳がきつくて、お腹にも力入るし、ハラハラだった。

それによりヘルニアが再発して、咳すると激痛走って痛い痛い。

さらお腹がくるしくて前屈みになるから、腰が痛い。ヘルニアがいっそうきつくなる。

肌の痒みもすごくて、寝ているときに掻きむしってしまい手足がボロボロに。血だらけ。

目は結膜炎やらものもらいやらを左右繰り返し、まぶたの痒みはまだ残っている。

口の中がべとつくせいか虫歯悪化。何もかもボロボロに。

<不眠>

体調が悪くて寝付けなかったり、夜中に起きてしまって苦しくてもがいたり。

とにかく夜中に睡眠から覚めるのが毎日で、しんどすぎた。トイレも近いので夜中に何度も。

当然日中回復どころか体力奪われて朝から毎日ぐったり。

夜中に目が覚めてしまうと、色んな不安が吹き出すのも困った。このときスマホは悪の味方。

病院で言われたことや、言われなかったことや、とにかく育ちが悪かったせいもあって色々調べてしまった。

むくみ

色々辛かったけど、一番はこれかも。

もともと浮腫やすい体質なんだけど、無理をするとお腹パンパンに張ってしまい苦しくて気持ち悪くて動けなくなる。

職場ではヘルニアが出てしまい、と誤魔化していたが本当に辛かった。(実際それも出ていた)

下痢便秘なども色々あったけど、上記色々が辛すぎたので記憶から薄れている。

つわり気持ち悪さと、お腹が張って気持ち悪いのと。数ヶ月ほとんどずっと。

仕事もあるから寝ているわけにもいかないし、どうにもこうにも辛かった。

仕事

仕事は人に任せられないものも多く、立場的なこともあり部下の手前、がっつり働いていた。

しか夕方には体力ががくんと落ちて、ぐったりしがち。

頭の回転も悪いし、パフォーマンス落ちていたと思うが、何せ流産するかもしれないか妊娠も伝えられないため、頑張るしかなかった。

義父義母は近くに住んでいることもあり、夫経由で伝わってしまい、何度かお食事などもした。

自分の親は、少し離れていることもあり、育ちが不安定と言われている以上、言うに言えず。

流産の時は、母が子宮一部摘出手術になってると聞き、自分のことは言えず仕舞いになってしまった。

まだ伝えられていない。

その後も育たない

いや、一応、ゆっくりとは育っていた。けれど、一般的胎児成長曲線からは外れてしまっていた。

1W遅れくらいの大きさだ、と言われていたものが、14~15週にはそれ以上の開きが出てしまっていた。

普通だったら安定期に入るころ。一番楽しい時よと言われていたころ。

知らないことばかりだが、妊娠初期からこの辺までの成長ペースは、どんな人も大差ないらしい。大きさに差が出るのは、もっと何ヶ月も経ってから

ネットで調べても、生理日や受精着床日が曖昧であることによる妊娠週数のずれ、というのがよくある話らしいが、こちらは不妊治療病院に通っての妊娠なので、ずれはない。

病院では二箇所とも、原因不明と言われていた。胎児専門の病院では、万が一このまま育っても、低体重で生まれたり、障害を負うリスクが高いと言われた。

中絶も勧められた。産むとしても、NICUなど施設が整っているところでないとまずNGだとも言われた。

2人目、3人目だったら諦めたかもしれないけど、私には諦められず、悩む日々。

染色体異常

専門病院で教えてもらって、遺伝子についても勉強になった。

から1本ずつもらって2本のペアになった遺伝子は、全部で22対に加えてXYの46本。

数が欠けても多くてもだめなこと。数が合っていても、どれか1本でも短かったり欠けていても駄目なこと。

例えばダウン症21トリソミー、21番目の染色体が3本あることで起こる、一般的障害だ。

私の胎児は結果として6番目の染色体が少しだけ欠けていたことが、死後の精密検査でわかった。

胎児の死亡確認

話を戻す。中絶する?しない?など悩みながらも、22週を越えれば出産している人も世の中にはいて、育っている人もいるという希望のもと、胎児がまだ生きたいと育つのなら、覚悟を持って産む選択をしたいとも考えていた。

しかし、育ちが悪いと言うことは、低体重児以前にそもそもまだ外では生きていけない大きさなわけで。

いずれにしてもリスクがあるので、紹介された病院に一時変えることになり、初診察の矢先。

胎児は動いておらず、死亡が確認された。

こうなることも想定内ではあったんだけど。やっぱりショックで。わかりました、と言って涙を堪えるのがやっとだった。

夫はずっと仕事で忙しく、やっと同行してもらえたんだけど、動いている様子を一緒に見ることはなく終わった。(その前に録画した映像は見せたけど。)

超音波検査の後に、別の部屋で、今後について話があった。

頭ではわかっていて、話もちゃんと聞いているんだけど、目からは涙がぼろぼろ止まらなかった。

すぐに処置したほうがいいということだったんだけど、仕事があったり、先生の予定が合わなかったりで、入院10日以上先になってしまった。

体がなぜか楽になった矢先だったので、やっぱりそういうことなんだ、と思った。

妊娠19週。5ヶ月が終わる頃。

入院処置葬儀死産届けの手続き

初期の流産の時は、静脈麻酔で寝ている間に掻き出されて終わった。

1日の入院なので、日帰り。

鈍痛はあったけど、お腹も大きくなっていないし、なんてことなかった。

しかし19週での処置は、出産と同じ扱いなんだ。

から、分娩なの。

もちろん、流産専門の病院なんてないから、普通産婦人科

キラキラしたし新米ママのいる場所で、新生児の声が聞こえる場所で、自分は死と向き合う。

そんなところで、陣痛を起こして、産まないといけない。死んでるのに。

まれてくるものでないものを生むように仕向けるわけだから、前段階の処理もきつい。

お金も、出産と一緒の金額がっつりかかる。もう生きてないのに…

初期流産と違って、この数ヶ月、育っていたことを実感していて、胎動と思われるようなものも感じていて、一人じゃない日々を過ごしていたから、本当にショックで。

心身、お金、なにもかも、ダメージしかない。

理不尽に酷い仕打ちに、痛みも恐怖もすごいし、辛すぎて、前世で何か悪いことしたのかな?と思ったりもした。

監獄へ入って拷問を受けるかのような心持ちで、入院

入院1日目>

から荷物持って入院先へ。当初は個室なんて贅沢言ってられないと思っていた。

本当に4人部屋でいいですか、はい、と言ったものの。

聞くと、普通出産する、し終えた、お母さん方と一緒だという。

赤ちゃんは別部屋だが、見ることもあるという。

それはさすがに今の精神状態きついと思った。

個室は高すぎるので、せめて1日1万少々プラスの2人部屋を希望

他の妊婦がいつ入るかはわからないが、幸い今日はいないと言う。

2人部屋へ案内され、奥のベッドで荷物を整え、1日目の処置へ。

子宮口を広げる処置。何か棒を何棒も入れられて。そのままにされるので、痛いったら。

鈍痛で動けず。なぜか突然何度も吐いてしまって食事も取れず。

体が拒絶しているんだろうか。

この時から基本的にずっと点滴。この日は栄養や水分を入れるため、その後は薬を入れるなど。手が穴と痣だらけに。

入院2日目>

昨日に続き、さら子宮口を広げるために、棒を追加される。

激痛。この日から静脈麻酔

しかしこれが、意識が完全に落ちず、悪趣味映画みたいな幻覚が見えて辛すぎた。

吐くのはおさまってきたけど痛みがずっとあって寝てるしかない。寝てても辛い。

翌日の処置も怖くて寝るに寝れない。

入院3日目>

AM処置

静脈麻酔で、棒を全部取る。

分娩台へ移動。なぜか色んな不安とか悲しみとか?で涙がボロボロ出てしまった。

プラス15万とかするけど無痛分娩でお願いした。

猫のように丸まるように言われる。

背骨横に刺して麻酔を入れるんだけど、ヘルニアいかうまく入らず、激痛。全身ビックン!!てなるくらいの痛み。

位置を変えてもらい、3~4回目でなんとか成功。仰向けになる。

陣痛の促進はどうやったか忘れたけど、麻酔が切れたあたりで周りに誰もいなくて、言うに言えず結局30分くらい陣痛くらってたのが辛かった。

ずーーーーーんという痛みの大きな波が、やってきては引いていきまた来る〜!というのを繰り返していた。

これが陣痛か、、、と思った。

やっと先生が見に来て、もうきてるね、となって、掻き出されると言うか引っ張り出されると言うか。

どろどろにゅるにゅるしたあったかものが出て行き、どうやら出産したようだった。時間を記録される。

あの生暖かい気持ち悪い感触は、一生忘れないだろう。

その後、また静脈麻酔意識朦朧

残りのものを掻き出す処理。これをきちんとしないと、後々いけないらしい。

その後、意識は戻ったものの体がまだちゃんと動かないため、ナースセンター裏あたりで寝かされることしばらく。

やっと昼すぎに、自分のベッドへ戻る。

出産時、赤ちゃんを見る勇気は、私にはなかった。

あらかじめどうするか聞かれるんだけど、長く死んだままお腹に起きっぱなしだったし、そもそも成熟状態かつ人間死体は、見てしまったらそれが呪いのように忘れられなくなりそうで、怖かった。

でも、ごめんね、って気持ちは今もあって、向き合えなかったことも、やっぱり辛い。

PM葬儀対応

遅めの昼ごはんをとったあと、葬儀屋がくる。

火葬をしてもらい、死産届を出すためだ。

子供名前は?火葬場はどこにるすか?火葬はいつにするか?遺体はいつ運ぶか?立ち会うか?骨壺はこれでいいか?一緒に入れたいものはないか?お骨は引き取らなくていいか

などなど。

まだ出産直後でぐったりしていて、恐怖と痛みの感覚が残る茫然自失のところ、言われる。

名前なんてないよ!色々考えてたけどないよそんなの!入れるものだって、その子のためになんか用意したら思い出や思い入れ増えてもっと辛くなるじゃん!だから用意なんてできなかったよ!

そんな色んな気持ちがぐちゃぐちゃにあるんだけど冷静に言葉にできないから、涙がぼろぼろでて、たった一言ずつ、「ないです」とか、用件だけ答えるのがやっとだった。葬儀屋さんも別に悪気あってでもなく、人の良さそうなおじさんで、一緒に涙されてしまって、仕事から必要なこと聞いてるのわかるんだけど、でもこの仕打ちは、死産後直後の女性には辛すぎる。

市町村への提出、代理で行ってもらうようにはしたんだけど、そもそもこれなんとかならないのだろうか。

火葬も含めて、十数万。もちろん自己負担

ぐったりして色々終わったあと、同じ部屋に急遽入院患者

若くて可愛らしい、女の子らしい妊婦が、夫に甘えながらやってきた。

夫は、夜八時の面会時間MAXまでいて、翌日も朝からきていた。

赤ちゃん心音チェックや、夫へ甘えられる状況、すべてが羨ましく見えて辛かった。

<4日目、退院

体調も大分マシになってきて、順調につき退院OKとなった。

事務が動き出したら手続きしてすぐ出た。休み休み帰り、自宅で仕事など少々。

夫は仕事で忙しいこともあって、自分もそっちを優先すべきだと思い、死産のためにわざわざ来てもらうこともないと一人で頑張ったけど、これを見た男性は、女性が遠慮してもぜひ付き添ってあげてほしい。精神的にも、入院荷物運びで体力的にも、きつい。

帰路は、お腹の中が空っぽになり、心も何か穴が開いたような気持ちだった。

その後

仕事と体調の回復状況>

休日含んで入院たから、仕事は3日しか休まずすぐ復帰。

職場には、急遽ちょっと手術で。ということにした。

ただ、疲れやすくて夕方にはぐったりする日々はしばらく続いた。

何せホルモンバランスが一気に戻ろうとするため、なんか色々ぐったり。

骨盤内臓位置?もきっと戻ろうとしていたんだろう。なんかあちこち痛かった。

妊娠運動もまともにできない辛さだったので筋力も体力もぐんと落ちてしまった。

一週間はほんとぐったりしていて、夜もすぐ寝て休みも寝ていた。

二週間目くらいから、アルコールも美味しいと思えるようになって、仕事外で人とも会えるくらいになっていった。

階段や坂も、徐々に登れるようになった。

しか骨盤のあたりが痛い、というのはしばらく続いた。1ヶ月以上。

休み休み動いていたせいで驚くほど下がっていたヒップも、日常生活で2ヶ月後には大分戻ってきた。

<安置されたお寺へ>

1ヶ月半ほどして、お骨があるお寺に顔を出した。やや緊張しつつ。

本当は行かないつもりでいたけれど、それではあまりにも可哀想だと思って。

夫と一緒に足を運んだ小さなお寺では、本堂の仏さんの横らへんに、大切そうに小さな骨壺たちが沢山並んでいた。お人形やらぬいぐるみやらと一緒に。

それを見たら、涙が出た。手を合わせる。

家に引き取られなかったものたちを、大事に祀ってくれていたお寺に感謝気持ちしかなかった。

天国でお友達ができてるといいな。ここでは1〜2年安置していただいたあと、供養となる。

染色体検査

結果が出るまで1ヶ月以上かかった。

結果、6番目の遺伝子がほんの少しだけ欠けていたそうだ。

身体形状の異常は全くなく、指先も鼻も、内臓も、体はきれいに作られていたのにな。

いずれにしても、生まれても育たないものだったってこと。

女の子だったこともわかった。

お金

結局、今回の入院だけで全部で100万以上。入院費や葬儀屋代、無痛分娩や、染色体遺伝子精密検査も含んで。

出産一時金で40万ほど戻ったけど、それでも痛い出費となった。それ以外に、事前に検査も色々したし事後も病院に数回通った。

おわりに

これを書いてみたら色々思い出して涙が出た。普段もふと、思い出して一人涙が出るときもある。

何も残らなかったけど、経産婦になってしまい、心も体もめっちゃ痛めた。

友達幸せそうな出産記録や子育て記録などを見かけると、ああ、あの子同級生になるはずだったんだよなあ、と、思ったりする。

まずぜひ、みんな妊婦には優しくしてあげてほしい。

席を譲られたことはほぼなく、幸い座れた時に妊婦マークをつけておくことで高齢者の譲ってくれアピールには効果ありだった。

おばさんが譲ってくれたことが2回ある。流産しそうだったし、殆ど誰にも打ち明けられない状態だったから、妊婦として優しくされたことに、泣きそうになってしまった。

お腹大きく見えない頃こそ、心身共にしんどかったりする。男性が譲ってくれたことはない。

無事出産した人は、どんなに辛くても、そこまでいけなかった人もいることを知っておいてほしい。

子育ていかもしれないけど、私からしたらそれすら羨ましい。

子供大事にしてあげてほしい。

妊婦の夫である人へ。

本当に意味不明に辛くて、本人も理解できない状態だったりするから、一番近くにいる人が、一番大切にしてあげてほしい。

過剰なくらいで丁度いいし、どんな用事よりも優先してなるべく付き添ってあげてほしい。

最後に、お金めちゃちゃかかることや、精神的にも身体的にもダメージ大きいことが、誰にも知られず女性一人辛い思いして終わっている事実が、もう少し何とかなっていったらいいなと思う。

悩んでいる妊婦は、どう転んでも現実は一つだから勇気持って受け入れて、前向きに生きてほしい。

体調悪いのしんどいと思うけど、頑張って。

とりとめなく長々書いてしまったけど、読んでくださった方ありがとう。*誤字直しました

2018-12-22

はてなー医療リテラシー低過ぎィ

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1300782

大事なことに気づいてほしい。医療の質はどんな飯を食わせるかではなく、麻酔科医がいるところで管理されていて、内科系の医師サポートもきちんと得られ、その病院安全出産が行われるかにある。

ほんそれ。

それを十分分かってたから、何のリスクもない健康妊婦だったけどこういうラグジュアリー()系産院なんかスルー

産科複数在籍&麻酔科医も当然いてNICU完備の総合病院を速攻予約したよ。

総合病院の方が人気あるからうちの周りは妊娠発覚直後でないとどこも予約出来ないけどね。

最初から紹介状ありのハイリスク妊婦しか受け入れない所も多いし、一般妊婦受け入れある所も枠が相当小さいと思われる)

自分子供の命と安全には代えられませんわ。

こういう産院に冷ややかな人って、なんで田舎には高度医療がないのが前提なの?地方でもリスクの高い妊婦なら最初から大学総合病院へ送られる。健康なお産だからこそ産院が選べるのよ

健康なお産」なんか存在しない。出産は全てリスクがある。

特にハイリスクではないとされて個人産院で出産してそこじゃ手をつけられない事態になって大病院に緊急搬送される事なんかいくらでもある。

はてなってこういう事よーく分かってる人が多いと思ってたけど

ほんとリテラシーレベル下がったんだなと思う。

飯美味くて部屋が綺麗な個人産院なんか地方でもいくらでもあるよ。

個人産院は安全性では大病院には絶対に敵わないから、こういう所でアピールするしかいからね。

あと母子別室ってのも

母乳育児が上手く行かずに退院後に深夜に眠い目擦ってミルク調乳する羽目になる

特に第一子の場合看護師助産師子供の世話をしてくれる=世話の仕方がよく分からないまま退院となって自宅で地獄を見る

母子同室で子供の世話のやり方をがっつりトレーニングすれば帰宅後もさほど困らないが、分からないまま退院したら誰も教えてくれる人などいない)

って事になりがちなんで気を付けてね。

2018-04-07

anond:20180407074750

臨月でそんな人いないでしょ、飛行機も乗れないし大体にしてそんな体調でもない

早産になったなら最初からNICU行きで取り違えられるわけないし

2017-11-24

私の息子が産まれときの話~嫁side

※元の日記では「胎児」「赤ちゃん」はすべて名前です

09:30

今朝起きたらまた鮮血のおしるしが出ていた。

前駆陣痛も続いていたから、「がんばっていたんだね。残りはお母さんやみんなでサポートするからね」という気持ちで家を出発。

快晴でとてもいい日。

10:00

到着後の内診でかなり子宮口を強くかき回して刺激され、その刺激で破水

周りのスタッフさんが若干わたわたする中当人は「ああ、これが破水なんだ……」と思っていた。

そこから、部屋に移動して促進剤投与を始めた。

促進剤は、それによって産まれる、という効能ではなく、子宮を柔らかくして子宮口を緩めてそこから陣痛を呼び込むためのものだそうで、20からstart、120まで上げても進まない人もいるよー、と。

とにかく無事に産まれられれば、と、「何でもいいからお産に繋がりますように」という気持ちでどんどん追加されていく促進剤の値を見ながら過ごしていた。

11:00

胎児心拍が落ちることが何度かあり、酸素マスクをつけて深呼吸をする時はさすがに緊張した。

でもまた数値が戻ったのを見て安心して「私がリラックスしなきゃ子宮も柔らかくならない」と過ごしていた。

15:00

100あたりまでは前駆陣痛の痛みとあまり変わらなかったけど、そこからは前駆陣痛は越えた痛みが始まった。

でも120まで投与しても本陣痛は来ず。

17:00

看護師さんに「今日は一旦終わりにして様子を見て明日またやって、経過によっては帝王切開で産んであげることになるかもね」と言われて投与は一旦stopした。

投与してもあまり変わらず、「私が堅いことで子宮口が開かないんだ」「私がリラックスできないか入院の日が増えてお金をかけさせてしまうんだ」と「私のせいだ」の思考が一時止まらなくなって涙が出た。

胎児心拍が落ちること、胎便が羊水にかなり混じっていること、心拍が急に上がること、陣痛がこないこと、いろんな焦りや不安に対して「母の私が◯◯しないからだ」という思考が出てしまったけど、そんな中でも夫が一緒にいて笑ってくれていることに本当に救われて、いろんな不安もあったけれど1日過ごすことができた。

20:00

母が夫を迎えにきて帰宅。体勢変えたりしながら、落ち着いてから21時過ぎに寝る体勢に。

21:08

寝につこうといい姿勢を探して動いていた時に胎児心拍低下。

何人も看護師さんが入ってきて再度酸素マスクをつけ、内診をしてもらい、「もう赤ちゃん負担が大きい」ということで、クリニックの先生にも診てもらった上で、緊急帝王切開をして胎児を出してあげることに。

21:32

酸素マスクをつけて深呼吸をして「帝王切開になります、急いでパパを呼んで」と言われ、さすがに焦りすぐさま夫に電話をして来てもらい。

色々なリスク説明も受けたが、もう皆どうでもよくて、ただただ「無事に産まれられればそれ以外は私の子宮やら体やら命やらどうなってもいいから」という気持ちで、早く外に出してあげてほしくて、急ぎ足でope室に入って横になった。

22:00

何かの数値に対して先生スタッフの方々が緊張した面持ちで観察して指示を出したり動いたりしていたが、あれはなんだったんだろう。

から考えると胎児心拍だろうか。

バタバタが続いてすぐには開始しないことに不安を感じつつ、その間に落ち着いて来て「もうすぐ会えるんだ」「やっと会える、がんばろうね、大丈夫だよ」と幸せ気持ちが高まり、ope開始後も私はずっと笑顔で耳を澄ませ。

麻酔が効いてくると血圧の変化によるのか、頭もぼーっとしてきた。目を瞑ることに吸い込まれるような。

コッヘル、クーパー、などの機械出しの指示でなんとなく何を切開しているのか把握しつつ、足から胸にかけての感覚はもうないのに何か自分の中を弄られているような感触に奇怪な感じを抱きつつ。

22:57

胎児を取り出す時になると胴体を中から大きく揺さぶられ(感覚はないけど子宮を直接揺らされているのはすごくわかった)、少し泣き声が聞こえたのと同時に「おめでとうございます〜!男の子ですよ!」と。

その瞬間ザーッと涙が出そうになったものの、最初の一瞬の後に全く泣き声が続かないので瞬時に不安感に襲われ、産まれた喜びを味わいつつもそれだけの気持ちは束の間、取り上げられてもしばらく泣かない赤ちゃん心配で気が気でなくなった。

自分からは布で隠れて見えないけど、向こう側で明らかにスタッフさんたちが焦って赤ちゃん背中を叩いて刺激していたり懸命に気管内の吸引をしていたりしている。

先生も、取り上げた後はすぐに私の縫合に取り掛かりつつも、赤ちゃんを見て緊迫した声色と口調で指示を続ける。

「サチュレーション反応しません」「小さい方に切り替えて」「小さい方反応ありました」「こっちはどう!?」「◯◯じゃないよ、そっちを◯◯して」「◯◯さんこっちきて!」と何人ものスタッフさんが赤ちゃんの方から私の頭上まで動き回る。その間も赤ちゃんは泣き声ほとんどなく、たまに「ふぇっ」と聞こえるか聞こえないかくらい。

赤ちゃんが泣かない。泣かない=呼吸ができない。呼吸ができない=酸素いかない。酸素いかない=死んでしまう。

一瞬でそんな考えが脳内を駆け巡り、「私はお腹開いた母でも放っておいていいからみんな赤ちゃんを早く助けて下さい!」と叫びたい気持ちを抑えながらこわくて仕方がなくて、「赤ちゃん大丈夫ですか」と何度か聞いた以外ただただその場を見守っていた。

そのうちになんだか意識が遠のいていくような感覚から強い吐き気が出て何度か嘔吐し、そこからは遠目に赤ちゃんの様子を見つつぼーっと手術の終わりを待つしかなかった。

私の腹部縫合中、赤ちゃんの泣き声が聞こえない時間。きっと数十分あったかなかったかくらいだったろうけれど、この時間がこの1日の中で一番長く感じられた。私には何時間も縫合されているように感じられた。

23:10

私の腹部縫合が全て終わり、ope室を出る時にスタッフさんがぱっと赤ちゃんのお顔を私の方に向けて見せてくれた。

むちむちでまあるくて髪がフサフサでかわいい。濃い顔じゃなくて私似?なんて思いながらope室を離れる。

23:20

外では夫と母が待っていたけど、熱発もあったからかとにかく頭がぼーっとして「目を閉じたい、でも赤ちゃんが気がかりだ、でも目を開けていられない」というぼやけた意識で過ごしていた。

時系列はきちんと記憶できてないが、部屋に戻ってから夫と母が荷物を運びつつ座っていてくれて、赤ちゃんの顔の話などをした気がする。

自分で何を話したかよくて思い出せないけど、夫が深く呼吸して緊張していたことはすごく覚えている。

今思うと、私は赤ちゃんのことも考えつつ意識がぼやけていたので、その場を冷静に見れていた夫は本当に不安だっただろう。

24:10

術後は姿勢不快さが強く、度々左右に体位交換をしてもらった。

赤ちゃん救急搬送することに決まったと先生から話を受け、夫たちは救急車より早く出て向かってあちらで対応すると。

お腹を切った身と言えど、この状況で動けず何もできずに横になっているのが悔しかった。

無駄だとは分かりながらも、麻酔で動かない・司令の伝わらない脚先を動かそうと何度もやってみたけど全く足は動かなかった。私の分まで夫に託して手を握ってお願いした。

夫と母を見送ったら一気に意識が遠のいて来て、そのあとまた夫が来たような来なかったような……

そんな中、救急車赤ちゃんを乗せる直前に助産師さん(看護師さん?)が赤ちゃんを抱っこして私に会わせに来てくれた。

移動前に目の前で会えるなんて思ってもいなかったか歓喜して一瞬で意識が戻り、赤ちゃんをぎゅっとしてちゅーして「がんばろうね!」とほっぺを撫でて送り出した。

涙が止まらなかった。

24:30

救急車が中々出発しないこと、その後の救急車サイレン音。

サイレンの音の位置赤ちゃんと私の距離を表しているから、サイレンが遠のいていくと赤ちゃんとの距離を感じて、ただただ「がんばれ!お父さんもお母さんもいるからね」と祈ることしかできなかった。

25:00

その後また意識がぼーっとして、何度か看護師さんが巡回に来てくれたのもあまり覚えていない……

2時台にiPhoneが遠くに移されたのでLINE確認できずそわそわ。

体位交換をお願いしたりしながらいつの間にか寝ていた。2時間ほど寝ただろうか。

28:20

起きてからからLINE気づき赤ちゃんが無事なことを確認して本当にほっとした。

こんなに遅くまで夫と母が対応してくれているとは。本当におつかれさま、ありがとう、それしか出て来なかった。

から送られて来た赤ちゃん写真がかわいすぎて、うるうるしながらしばらくずっと見ていた。

かわいすぎていくら見ても見飽きない。早速待ち受け画面に設定した。

夫がもう帰路にあると分かって安心して私もまた休憩。

でも頭が冴えてしまってもう眠れず……

29:00

巡回夜勤看護師さん&助産師さん達が検温や創部の観察をしに来つつ何度も話しかけてくれて、明るく笑わせてくれて元気付けてくれた。

看護師さんたちと笑えたのがこの時本当にありがたかった。

もう麻酔は切れていたので、「どんどん回復して赤ちゃん会いに行こう!」と勝手にベッド上でリハビリ開始。足の指先から体幹から、痛み・貧血血圧を観察しながら進めた。

外が明るくなって落ち着いて来ると、赤ちゃんが無事に産まれてきたことの安堵感、今生きているのかどうかという不安感が一気に現実味を帯びて心に流れて来て、赤ちゃん写真を見ながら唇を噛み締めて泣いていた。

それに気づいた看護師さんが私のそばに寄り添ってくれ、スタッフのみなさんが赤ちゃんをその後も気にかけてくれていたこと、その方もお子さんが苦しい状態で産まれて来たこと、昨夜赤ちゃんの直後にもう一人赤ちゃん病院で産まれて、そのあと陣痛の人が来て不思議とお産が重なったことなどを明るく優しく温かく話してくれた。

「泣きたい時は泣いていいんだから心配だよね、泣いていいんだよ。」と言ってくれて一気に号泣して、話をして落ち着いた。

日勤に交代する時間帯、夜勤助産師さんが何人か来てくれて赤ちゃん写真を見て「母そっくりよね!」「かわいい〜❤️」「がんばるしかいね赤ちゃんくん!」と声をかけてくれた。それと一緒に絶対安心する温かい言葉もかけてくれる。その度にうるんでしまった。

私は術後あまり痛みを感じず動くのが得意なようで、夜中に自分でクッションを動かして体位交換したり足を動かす練習を始めたりしているのを褒められた。

どんどん動いて行くぞ。

赤ちゃんもがんばっているんだ。私も明るくがんばるしかない。


https://anond.hatelabo.jp/20171121162134増田です。

嫁も出産当日(大半は思い起こしながら翌日)に日記を残していたとのことで。

本人の希望もあってここに記そうと思います

ちなみに嫁は上の2日後にリハビリ急ピッチで終え、大型病院への通院/息子との対面を果たしました。

NICUでの初対面の光景は今でも忘れません。

2017-11-21

私の息子が産まれときの話

10:00

この日段階で予定日を10日過ぎていた。これ以上は延ばせないということでクリニックに入院開始。診察中に破水先生方慌てるものの嫁は平常心。

診察の途中から私も参加、促進剤についての同意書にサイン入院部屋に行く。

部屋はワンルームをやや狭くしたくらいの場所

3人部屋だがカーテンで仕切られており、なにより今は私ら夫婦しかいない。

窮屈さはないし清潔感あって居心地悪くない。

入って早々地元訛りの助産師さんから説明、促進剤の点滴開始。まずは20mlから

 

11:00

10mlずつ増加させるものの変化なし。

自体は当面は動きそうにないので、ここで一人散歩に出かける。薬局マスク買ってファミレスカツ煮定食を食す。アラサーカツ煮定食コスパに感動。

途中で胎児心拍低下による促進剤停止という事態があり飛んで戻る。

 

12:00

ランチ野菜カレーカレイの揚げ浸し、スープサラダパイナッポー。目を閉じ多幸感に包まれながら食事を楽しむ嫁。

まりに美味し過ぎたためか完食した嫁、お腹いっぱいになりすぎその後やや後悔したようだ。

 

13:00

Toco値(なんの値かよくわからなかったが出産までの進行度合いと解釈した)を注視してみたが高い値になっても「生理痛よりはマシ」とのこと。

やはり痛覚は個人差あるのかな。

入院開始時は前駆陣痛が5〜7分間隔だったものがこの時点で3分間隔に。まだまだ笑顔。この時点で促進剤60ml。

 

14:00

2度目の外出。動けない嫁に雑誌を買おうと近くのコンビニを探す。

地元で有名な産科が近いからか出産関係雑誌が1角を占める。澤穂希表紙が目立つ。

めぼしい雑誌はなくクリニックに戻ると駐車場から車が消えていた。どうやらこの日は通院する人が少ないようだ。

 

15:00

促進剤追加。現在100ml。

痛みが生理痛をやや超えるレベルになってきたとのこと。

Toco値がMAX127なのは何か意味があるのだろうか。

本日中の出産可能性低そうだと看護師さんと会話する。

 

16:00

本日3度目の散歩。最寄り駅まで歩いてみる。

その間嫁は昼寝しながらラジオリラックスできている。

 

18:00

嫁と食べ物縛りしりとりをしたりアキネイターごっこをしたりして穏やかに過ごす。

 

20:00

面会時間が終わったためお義母さんに送ってもらい一時帰宅明日再度促進剤投与をする方針になった。

 

21:32

から電話胎児への負担考慮して急遽緊急帝王切開を取ることになったと嫁。

一時的心拍がかなり下がったこともあり無理はできないという医師判断だった。

急行

ハンカチある?ないなら貸すね。何用かって?出産後に感動した時用よ」とお義母さん。ハンカチを受け取る。

 

22:00

オペの説明を受けて嫁は早速手術場へ。

元々立会い出産希望ビデオカメラを持参していたが、使うこともなさそうだ。

廊下オロオロしながら歩き回る昔ドラマでよく見た典型的なパパっぽい感じになる。

 

22:17

手術開始。手術室前のロビーにてお義母さんと二人。時間永遠に感じる。

 

23:20

手術が終わったらしく先生から説明を受ける。

手術は成功。嫁の出血も少なく終わった。

しか胎児への負荷が大きかったようで、胎児に呼吸器をつけてなんとか酸素補給をしている状態とのこと。

状況によっては緊急搬送もあると説明される。

 

23:50

赤ちゃんに会いますか」と看護師さん。

手術後の胎児に対面する。

顔が青ざめており、ひゃっくりのような小さな呼吸をかろうじてしている状態

我が子への最初の声掛けは「頑張れ」だった。

 

24:10

産後の嫁に付き添う。労いの言葉胎児の容態が気になりトーンダウン。もうここは祈るしかない。

しばらくして先生から緊急搬送を取ることにしたと説明救急車で隣町の大型病院へ。

 

25:30

大型病院到着、胎児の無事を待つ。

義母さんの運転が優秀だったのか、救急車より早く着きすぎる。書類記載して提出。

緊急病院の待合室は独特のピリピリ感があって苦手だ。

この日はなぜかオカマさん(顔以外は限りなく女性に近い)がいて視線を奪われる。

 

26:23

係りの方に呼ばれる、NICUがあるエリアへ。

胎児の容態についてネガティヴ思考が強まっていった時間帯。

 

26:33

カンファレンスルームへ。ここからどれくらい待っただろう……時間永遠のように感じられた。

部屋には山ほどの赤ちゃん関係の本が。その中には「赤ちゃんの死を乗り越える」というタイトルのものもあり思考ネガティヴループが加速する。

気づいたら私もお義母さんも文字通り祈るポーズをとる。ただただ生きていてくれ。ネガティヴモードを振り切ろうと廊下散歩する。

 

27:30

病院看護師さんに呼ばれて私一人でNICUへ。熱を計り徹底的に手を洗い清潔な状態で入室。

 

胎児は全身を管に繋がれながらもさっきより顔色のいい状態スヤスヤ寝ていた。なんと可愛い寝顔だろう。

全体的にむっちりしていて丸顔で。天使ってほんとうにいるのだなと確信した。

「触ってあげてください」と看護師さんに促され頭を撫でる。剛毛で真っ黒でややパーマ。これはお母さん似かな。

よく頑張ったねと声が自然と口から漏れた。看護師さんも笑顔だ。

 

息子は「胎便吸引症候群」により体に強く負荷がかかり、更に肺炎を併発させて窒息ぎりぎり手前状態だったという。

クリニックの先生の緊急搬送判断(別のお母さんがその時間に手術予定だったが、我が家を繰り上げで対応して下さったよう。感謝しかない)、

大型病院のベッド空き状況/立地……などなど様々な幸運が重なったことによって生きることができた息子。

まだ頑張るところだがまずは人生スタートラインに立てたぞ。本当によかった。

 

27:50

NICU責任者先生から契約書類説明を受けサイン。息子の名前を初めて書面に記す。出生届よりも先に書くことになるとは。

「**(名前、産前にもう決めていた)っていい名前ですね!私の親友が同じ名前なのですよ。いいやつでね……」と先生。この人は信頼できるとなんとなく感じた。

具体的な検査結果は翌AM11時に説明させてくださいと先生先生寝る時間ほとんどないじゃないですか……おつかれさまです。

看護師さんから書類を受け取ったのち「忘れてた!」と息子の写真を渡してくれた。

処置中は目を開けてて「ここはどこなんだろー」って周りをキョロキョロしていたんですけどねー」と目をつむった胎児写真説明する看護師さん。

ここにいる人はみんな味方だ。

 

28:30

一通り手続きが終わり、お義母さんと一緒に里帰り先に帰る。

気持ちハイになっているのか眠気は全くない。

安心感からか涙が滴り落ちる。自身がめちゃくちゃ強張っていたことにやっと気づく。

iPhoneを起動、嫁と使っていた妊娠/出産情報管理アプリを開くと表紙が親子3人になっていてまた涙。

ハンカチ、ここで使うべきなんですかね」と涙を拭いた。

 

 

 


上記は息子が産まれときメモとして残していた日記

その後息子2ヶ月弱の入院を経て帰宅、順調に成長し、障害もなく元気に育ってる。

先日1歳の誕生日を無事迎えた際に懐かしくなったのと、コウノドリで近い例のお話があったので……増田投稿してみた。

出産にはこんな例もありますよってのを知ってもらえれば。

2017-11-06

anond:20171106122647

いえ、医学用語というか、文字通り物理的に「見えない」という意味です。後のツイートでも

小児科医、小児外科医はそういう長いカテーテルを食道〜腸管に使うような手技は透視下にレントゲン使ってやると思ってたんだけど。NICUで腸閉塞リスクの児に盲目的にやるときでもきちんと観察してる。

家でやって、99人に大丈夫でも1人が腸管穿孔でも起こして運ばれたときには救われないな。

と。

医療文脈で体内に関する施術について「盲目的に」と言ったら、そういう意味のことが多いですね

件の発言医師はい個人アカウントツイートなので、註釈がないのは仕方ないですね

 

100人に1人でも穿孔あったら洒落にならんし、こんな長いカテーテル素人が家庭で腸管に挿入とかナイワー」って文脈です

2017-10-18

この間子どもを産んだよ。

新しくてきれいな病院で産むつもりだったよ。

でも、なんか突然破水して救急車総合病院に運ばれて出産する羽目になっちゃったよ。

早産だからって子どもNICUに入ったよ。新生児集中治療室って言うんだって

なんでだろうね。産む3日前の妊婦健診では「順調ですね」なんて言われたっつーのにね。

まれ子どもを見て、

うちの子めっちゃ小さいw管だらけw超かわいいwww

なんて思いつつも、なぜこうなった!?って思ったよね。

私の入院中、退院後のうんたらかんたらなんて話を聞くために

同時期に子どもを産んだお母さんたちが集められたよ。

そこで助産師さんが

「どうせだから自己紹介しましょうかー。

どんなお産だったかとかお話してくださーい」

なんて言い出して、おいおい私救急車で早産でーす、なんて恥ずかしくて

言いたくないわとか思ったよ。

でも話し出したら、その場にいた全員トラブル抱えた出産だったわ。

前置胎盤帝王切開、切迫流早産で5ヶ月以上管理入院、五十路間近での出産

私と同じく突然破水救急車のお母さんもいたよ。

あー、そりゃそうよねー、ここ総合病院からねー。

逆に元気に何事もなく産む人のほうが少ないんだねきっと。

っつーか、何事もなく普通に産めると思っていた自分は思い上がりも

はなはだしかったのではないかと。

何を持って十月十日お腹の中で育てて、ひっひっふーで安産で埋めると思っていたのかと。

とりあえず子どもの命があってよかった。

早く家に連れて帰りたい。

2017-09-08

SIDSと窒息を混同してる人が多いのでまとめてみる

ベッドガード事故記事ブコメを見ていたら、SIDS認知が低いなぁと思ったので。(あの事故は窒息のようだが)

私は医療従事者でなく、うちの子が他の子よりもSIDSリスクが高いと主治医に言われ、ネットや本で調べまくっただけの素人です。間違いがあればご指摘を。

(ちなみに、うちの子NICU入院から原因不明に血中酸素濃度を頻回に下げるという謎現象を起こす問題児でした。数ヶ月たった今も寝るときには医療モニターしてますが、治りません…。)

SIDS乳幼児突然死症候群)とは?

原因不明で、赤ちゃんが呼吸を停止する。

死後解剖すると窒息かどうか判断出来るよう。

◎いつからいつまでなるの?

〜6ヶ月までが8割。〜1歳までが9割。逆にいうと1歳以降も、1割の可能性で起きる。

3歳過ぎてもなるときはなる、と主治医には言われたので気を抜かないようにしようと思っている。

◎原因は?

不明。窒息や息苦しさはひとつきっかけ?

熱があると起きやすいため体温調節のバグなのではという説や、遺伝的に呼吸を司るセロトニントランスポーターが上手く働かない説など。未熟児男児リスク高。

対策

基本は窒息の対策と同じ。うつぶせしない。柔らかいところに寝かせない。顔周りに布をおかない。添い寝、添い乳しない。

プラスアルファで、室温を適切にする。着せすぎて温めすぎない。母乳育児(消化がよく、頻回に起き眠りが深くならないため)。禁煙

ベビーセンサーおしゃぶり使用などは民間療法の枠をでない。

ベビーベッドと布団どちらが良いか

アメリカ小児学会ガイドラインは、ベビーベッド推奨している。風通しの良さもポイントのようで、柵カバーは非推奨。

布団は日本文化のためか言及なし。個人的には柔らかすぎるので止めたほうが良いと思っている。SIDS配慮されたマットレスを触ると分かるが、布団の比じゃなくかなり固い。

ベビーベッドで寝ないって人は、ママ布団の隣に赤ちゃん用マットレスを敷くのを試してみてほしい。でも、赤ちゃんマット固いから寝ないんだよね…

個人的に、通気性の良いブレスエアのマットレスが気になってる。硬さが充分か分からないので、早く世界標準になっていろいろ実験してほしい)

大事なこと

心肺蘇生法とAED場所を頭に叩き込む。http://aed.jaam.jp/option.html

ママだけでリスクを下げるのは難しい。育児に慣れない3ヶ月位までは複数人で見守るの大事男性の育休取得賛成。

2016-11-17

僕は何度でも泣いてしま

僕には父親がいない。

結婚するということがどういうものかよくわからなかった。

大人になって、特に子どもが嫌いというわけでもなく、好きでもなかった。

から自分子どもが出来たと知った時、正直不安だった。

「僕は自分の子どもを好きになれるのだろうか」

「僕はちゃんと父親になれるのだろうか」

父親とはどうあるべきなのだろうか」

「これから何をすれば良いのだろうか」

大人が何なのか分かっていないのに子どもなんて育てられるのだろうか」

そんな不安な日々が続き、僕は奥さんを気遣うことができなくなってしまった。

初めて見た子ども3D映像でも、実感は沸かなかった。

ある日、奥さんとケンカした。

なんでケンカしたのかはもう覚えていない。

気まずい朝を迎え、僕はそそくさと出勤した。

しばらくして、お昼を過ぎたあたりだっただろうか。

奥さんからLINEで連絡があった。

入院することになった」

ケンカしてすっかり忘れていたけれど、検診の日だった。

検診で血圧が高くなりすぎてしまったので、入院することになった、と。

産婦人科では血圧のことは言われていた。

血圧計まで買って、毎日血圧を計っていたけど下がらないので、産婦人科のおじいちゃん先生から紹介状書くからすぐに大学病院に行けと言われて翌日行った。

だけど、大学病院先生には少し呆れ顔で、まだ大丈夫だと言われた。

産婦人科のおじいちゃん先生が、危険かもしれないと判断したけど、大学病院先生問題ないレベルだと言ったのだ。

そんなことを思い出しながら、僕は急いで病院に向かった。

病院に向かう途中、何故入院になったのだ、いやきっと大丈夫ケンカしたせいかもしれない、いやきっと大丈夫

そんな自問自答を繰り返した。

病院につくと、大丈夫だと言っていた先生から検査入院」だと言われた。

やっぱり血圧下がっていない、と。

から、安静のために入院してほしいと言われた。その時、子どもはまだ31週だった。

まれるにはまだ2ヶ月くらい早かった。

僕は少し安心しつつも、これから2ヶ月間しばらくは病院いかなと思いながら家に帰った。

奥さんからは、「部屋が暗い」だの、「周りがうるさい」だの、「安静にしなきゃいけない妊婦ばかりで気が滅入る」だの、文句ばかりのLINEが送られてきた。

まりそういうことをLINEで送ってくるような人じゃないので、きっと精神的に疲れているのだろうと思ったのを覚えている。

3日後。

朝、電車会社最寄り駅に着いてすぐに、奥さんからLINEが送られてきた。

今日帝王切開することになった」

僕はパニックになった。

理解ができなかった。

もの凄い不安になった。

とにかく病院に急いで向かい担当から説明を受けた。

血圧が下がらず、最悪は胎盤が剥がれて、赤ちゃん酸素が行かなくなり危険になってしまう。

また、お母さんも血圧が上がりすぎて良い状態じゃないので、妊娠を終了させるためにも今日帝王切開します。と言われた。

訳がわからなかったが、先生を信じるしかないと思った。

その時丁度妊娠32週目の日だった。

僕は子ども名前も考えてなかった。いや、二人で大体考えていたけれど、年末ゆっくり考えればよいかと思って、まだちゃんとは考えてなかった。

義理のお母さんがやってきた。

何を話したかは覚えていない。だけど、最悪なことも考えないといけないとは言われた。私たちがしっかりしないといけないと言われたのを覚えている。

帝王切開出産したということはよくあるだろう。

だけど、早く産まれしまったというのは僕の周りでは聞いたことがなかった。

調べなくても良いのに、僕は思わず妊娠高血圧症候群について調べてしまった。

胎盤剥離が発生すると、数十パーセント確率赤ちゃんは亡くなってしまうこと、10%の確率で奥さんが亡くなってしまうこと、数%の確率でどちらも亡くなってしまうことを知った。

僕は絶望的な気持ちになりかけたけれど、やっぱり先生を信じるしかないと思い、マイナス考えるのをやめた

夕方予定されていた手術は17時までずれ込んだ。

それまで僕は祈る以外に出来ることがなかったので、子ども名前を考えた。

そして、待合室で祈った。

18時過ぎ。

待合室の他の患者親族の人から、「◯◯さん、今赤ちゃん通りましたよ!」と言われて、慌てて廊下にでると、そこにはとても小さな赤ちゃんがケースに入っていた。

赤ちゃんは小さな声だったけど、ちゃんと泣きましたよ」「これからちゃんと検査しまからね」「お母さんも元気です」と言われた。

僕はその場で泣いた。

暫くして、奥さんが運ばれてきた。帝王切開は半身麻酔らしく、意識はあったけどぐったりしていた。

先生から胎盤が剥がれかかっていて、いつ全部剥がれていてもおかしくなかったこと、剥がれる前に出産できたからまずは安心だということを言われた。

それから時間して、NICU先生から説明を受けた。

まず、最初検査では問題は無かったけど、これからもう少し詳しく調べますということ。赤ちゃんは産まれて3日間が一番大きく変化があること、その3日間で問題が発生する可能性があることを聞いた。

かなりの数の承諾書サインをして、唯一肉親の僕だけがNICUへの入室を許可された。

時間はもう21時。

NICUは僕の想像していた赤ちゃんの部屋とはまるで違う世界だった。

暗く、無数のセンサーやランプが繰り返し点滅し、頻繁にアラート音がなるような場所だった。

僕のこどもも、大きなセンサーがつけられた保育器の中で寝ていた。

触って良いと言われ、アルコールで消毒したあと、僕は自分の子どもに初めて触れた。

とても小さく、脂肪殆ど無い身体だった。

どこを触っていいかからず、足だけを触っていたら、子どもが小さな声で泣き出してしまった。

どうして良いかからず、看護師さんに助けを求めたら「大丈夫ですよ」と言われ、安心した。

しばらく触れていたら、また涙が出てきた。

僕は何を不安に思っていたのだろうか。何も悩むことなんてなかった。

僕はこの子を守るために生きるんだと。どんなことがあっても守るんだと心の底から思った。

自分想像していた父親像とかどうでも良かった。ただ、子どもを守るために頑張るだけだった。

帰りの電車

大学病院からは数駅だけだったけれど、電車の中で僕はまた泣いた。

家に帰って、布団の中で僕はまた泣いた。

不安もあったけれど、安心の方が大きかった。





あれから2年。

息子はもうすぐ2歳になる。

まれとき体重が1,600gしかなかったのに、いまでは11kgくらいある。

まれ半年で平均に追いつき、すくすく育ってくれた。

もう抱っこするのもしんどいくらいだ。

今では車が大好きで、おもちゃミニカーばかり。

毎日「はたらくくるま」を歌っている。

息子と散歩に出かけては成長を感じて泣いてしまう。

息子がお昼寝のときに、突然起きて泣いてしまうのを見て僕も泣いてしまう。

2年前のこのことをふと思い出しては泣いてしまう。


僕は泣いてばかりだ。

でも、息子も奥さんも元気だから良かった。

ただ、それだけ。

2016-05-20

http://anond.hatelabo.jp/20160229202916

このブログhttp://anond.hatelabo.jp/20160229202916

)を書いた方へ、

はじめましてTBS記者をしている川畑恵美子と申します。

今、医療ケア児の取材をしています

障害児保育のヘレンの取材もしています

私は以前NICU取材をしたことがあります

そのときからNICUを出た後の子どもたちのことを深く取材したいと思っていました。

このブログを書いたときの思いについて、一度お話を聞かせていただけませんか?

tbskawabata@gmail.com

まで連絡いただけないでしょうか?ご検討ください。

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