はてなキーワード: オリジナリティとは
光が地球を一周するのに0.15秒かかることに文句をつける人種が世界にどれだけいるだろうか?
そうでありながら、海の向こうの相手と日々研鑽を積むことに意味を求めるような数奇な連中はいるのか?
将棋のようなボードゲームであれば、0.15秒の差を気にするほうがおかしくなる。
ジャズセッションをWEBカメラ越しでやれば0.15秒の致命的な差は許されない。
ギリギリで何かが成立し、それでいてそれでは失われるものをどこかで埋めようとする文化が存在する場所はe-スポーツだけだ。
それはたとえば、オンラインの自転車レース、走る性能を競うことは出来るが、路面コンディションの絶妙な差や瞬間的な風向きの差が産む偶然は再現されない。
それはたとえば、ポーカーの世界大会、人間の出す匂いとして知覚することの出来ない僅かなフェロモンの差を、プロの嘘つき達は感じ取る。
ネットワークが世界の空間的な差を無くすことで生まれ繰り返される365日の終わらない予選会場、そして対面のみで可能になる本物の真剣勝負。
戦う場所はともにデジタル空間、握るコントローラーも見る画面もいつもと同じ、それでありながら、オンライン対戦と対面は別のゲームに変わる。
遅延の差がキャラ性能を全く別のものにし、tierリストが、ダイヤグラムが書き換わる。
インターネットにヤンキーが参入してきて多数派になりつつあることの表れである。
本来オタクは利他的な存在だ。他者やキャラに共感することが得意で、自己と同化しながらその他者を立てることを考える。素晴らしいモノがあれば自分の存在などどうでもいい。
一方ヤンキーは利己的な存在だ。他者に理解を示すものの表面的で、他人の痛みなどを理解することを自己アピールのために利用しがちだ。自分がまず在り、何をするにも自意識が介在する。
昔のオタクはゲーム動画を上げるにしても、実況などしなかった。淡々と攻略解説動画のようなものを上げていたのだ。
それが今や実況を入れてダラダラと実況者のカラーを出し、それでもってオリジナリティのあるコンテンツだとサービス側も認めるようになってしまった。
にじさんじ運営は訛りの違いもわからない地方差別主義者で人から言われたこととその発言の重大さもわからない大アホ
夢月ロアは自分のやってることに自信持ってないくせにその自信持ってないもので新人ぶん殴ってその登録者数の多さで見事に新人を潰した大馬鹿
金魚坂めいろは会社のスラックで全員が見てる場所で「私間違ってねえよな?」とか言い出すバカ、先輩に媚び売りまくって人気を手に入れてったカス、だからそこは実力者。ちゃんと力がある方。
だけど、ただ辞めるならまだしも配信で「運営やリスナーに嫌なことされてわけじゃなくて」とかいう不穏なことをちゃんと話が出来てる訳でない状態で言い出しちゃう不必要に不穏を振りまく馬鹿
そして、それが原因でまた休止になって結果辞めることになってそれを友人に画像付きで相談してそれを三流タブロイドVTuberにリークされるようなカス、大馬鹿野郎。契約書も読めんのかカス。何を画像付きでお話ししとんねん。
悪くないのは同期だからといって最初以降は全く連絡を取り合うことをしなかったッスすいませんと明言した同期の空星きらめ
いやホントあの子はマジで同期以外での関係がない上に可哀想。まぁ何かあった時に連絡取り合えたら…とかは考えなくもない。
あとロアにフォロー外されたり、その後釈明のタイミングで名前が出された郡道美玲
マジで関係ない上にTwitter上での事故に巻き込まれてて笑ったし、距離感が相変わらずで逆に安心した。
そんで舞元啓介、まさか文字の上の部分で名前が解読されるとは思わんし、それが無くても裏でもスッキリしたいい奴だった。
とにかく、ファンの言葉をそのまま受け取ったのか初配信しか見てないのか知らんし、その初配信が鈍り全開になったことでギャーギャー言ってる大馬鹿とそれの言うことをそのまま受け止めて同じトーンで騒いでる大アホがこの情けない結末を産んだ感じ
テメーらが一年半程度で作った創作方言と育った場所由来のいろんな事情があって色々混ざった方言を同じ立ち位置に置く大馬鹿、それをパクリだと認定するスタッフ、そのファン。それをおかしいと思わず、何かしらの関係性を作らせようと画策したアホ共。ぜーんぶ悪い。
自分の人生をパクリだと言われてブチギレたのはわかるけど、それでもとっちゃいけない行動がある。
多分今後似たような業界で活動する気までないんだろう、もし活動できると勘違いしてるなら、辞めても売っちゃいけないものがあるって本当にわかんなきゃダメだったし。
あと一応言うならソイツにネタを売った奴はろくな末路になってない。
誰がそうした、じゃなくて、勝手にそうなっていった、っていう。
ソイツは正義を語ってるけど、速報使ってはしゃいでる奴の正義は速報のネタの精度次第で角度が変わる。
まぁ俺は金魚坂の配信は一番最初の段階で無理だったんだけどね。
同期との話をするでもなく、自分の世界観を広げて行くタイプは自分の話だけしたいんだって思ってしまって無理になった。
それでも同情はする。
まさかキャラ付けのために魔界弁を使ったんだとか思わないし、やっぱり配信聴いてて全然違う方言でしかない。
これを同じとか言ってる耳にうんこが詰まった奴らがロアのファン、ロアを応援してるスタッフ、ロア自身だからアイツら世の中の方言全て潰すまで止まらないつもりなんだと思う。
スタッフもこれ幸いと新人を潰したからにじさんじはそういう十字架を背負わなきゃならなくなった。
にじさんじは地方出身者がVTuberとして成り上がることを許しません、何故なら夢月ロアの魔界弁とどうしても似てしまうからです。
そこに配信者としてのプライドなんてない、コンテンツ提供者としてのオリジナリティなんてない。
ただ、でよでよ言ってるだけで三十万人突破しただけでよ、だからでよはロアのオリジナルなんでよ
だけど金魚坂はでよなんて一つも言ってない。だよぉだ。それで潰された。そんな九州の方言は存在しないらしいから潰された。
数日前、『終末のワルキューレ(伝説や伝承に出てくる神と人間がタイマンする漫画)』に対して、ヒンドゥー教の聖職者がシヴァ神を軽視しているとクレームをつけたというネットニュースを見た。
ジャパニーズポップカルチャーでは宗教上の神話の登場人物(登場神物?)をキャラクター化するのは当たり前と化していて、その宗教に属する人々から批判を受けるということは今までもたびたびあった。
ただこうした批判自体が宗教的価値観特有の傲慢さに基づくものに感じて、俺は昔から気に入らないと思っていた。
まず第一に思うことが、どれだけその宗教の人々が心から信じようと神話はあくまでただの一”物語”に過ぎないということだ。
著作権に国際的な統一法はないが、何百年、何千年も前の物語が著作権保護の期間の範囲内だと主張する人は流石にいないだろう。
であるならば、神話だって著作権の切れた他の創作物と同じように後世の人が自由に使って良いだろうと思うのだ。
そして第二に思うのは、現代の宗教家は著作者本人でもなければ、委託を受けた権利の管理団体でもなんでもないだろうということだ。
宗教なんて大抵どこも宗派で分裂したり争ったりしていて、神話が創作された当初と同じ組織体系を維持しているところはほとんど存在しないだろう。
現代の宗教家なんてキリスト教だろうが、ヒンドゥー教だろうが、イスラム教だろうが、どこも勝手に正当後継を名乗っているだけで、神話の創作された頃の人々が自分たちの後継と認めるかどうかも分からない、その程度の集まりに過ぎないのだ。
そういう意味では彼らも日本の漫画家と同じで、許可も取らずに勝手に神話を使用している”利用者”に過ぎないわけだ。
日本の漫画家はキャラクター原案に神話を使い、宗教家は自分の信仰に、あるいは統治に神話を利用している。そこにあるのは使い方の違いだけだ。
物語というのは、過去の物語が人々に読まれ、そこから発想や知啓を得た人々が新たな物語が作り、そうして連綿と生み出され続けるものだと思う。
かつて神話を語った人もきっと、それまでに聞いた物語を参考にしつつ、自分なりのオリジナリティを加えて神話を綴ったのだろう。
であればいい加減、宗教家は神話を独占して自分たちだけに使用権があるかのように主張するのではなく、次世代の物語のために神話を開放するべきでないか?
ちなみに一応、言っておくが、俺のこの主張は別に、例えば『終末のワルキューレ』のような神や偉人をキャラクター化する創作物を擁護するものではない。
俺個人としては「別に良くね?」と思うが、それはなんとなく世間で許されてまかり通っているだけで、論理的な正当性を主張することは難しいと思う。
一次創作である神話に対するリスペクトが足りないという批判は当然あるだろうと思うし、だから、宗教家の人たちが解釈違いとして文句を言うのならそれは一つの意見だと思う。
宗教家が、自分たちだけが神話という物語の神を”使う”権利があると思って批判をしてくるのならば、それは大きな驕りだと断じたい。
元増田です。
能動的行動/受動的反応 という言葉は、説明せずに使うには雑な部分があって、それを「一次創作(オリジナリティ)/二次創作」に対置するには、かなり間を埋めないとならなかったですね。反省。もうちょっと詳細に書き下したいと思います。
という2変数の式を想定しました。同人的二次創作においては、キャラクターは既知のもの、いわば流用物であり、さらに学園パロなどであれば、シチュエーションも流用物なんですね。この、「だいたいのものが流用物で出来ているつくり」が、ある種の巨大コンセンサスへの従属性を帯びる要件だと思うんです。
実際の創作(一次・二次を問わない)においては、式が2項で出来ているなんてことはなく、
と、変数は多数あるわけですが、この多項式におけるオリジナリティ成分の占める率が高まっていけば、一次創作と見なされる成分も増していくのかなと。そして、例えば、「オリジナルな世界で、オリジナルな物理法則が動き、オリジナルのキャラが動く」のであれば、それはもはや「キャラクターのリアクション=反応を描写する二次創作」ではなく、「キャラクターがアクションする=行動する舞台すらまとめて整える一次創作」みたいに(私には)感じられる。逆側から言い換えると、反応の根拠たる外的要因もすべてオリジナルで用意してようやく、「キャラクターが能動的に行動した」と言えるだけの一次創作性を獲得できるのではないか。
逆に、同人活動的二次創作においては、「原作から《ある程度》外れないこと」、すなわち、原作そのままっぽさをキープしていることが当然に重要で(だってファンアートだし)、だとすると、変数に代入するもののオリジナリティ成分を増やしすぎることは決して良いわけではないんですよね。したがって、多数の変数には、ことごとく「みんながよく知っている例のアレ」を放り込むほうが目的に添うわけです。繰り返しになりますが、学園・現代・閉じ込めてみた・幻想郷シリーズなどはシチュエーション変数によく利用されます。
大多数の変数を流用物にすることで巨大コンセンサスへの従属性が形成され、その「従属性」は、主たる原作が外部に存在することを暗に示すことができます。だったら、同人的二次創作においては、従属性はむしろ持っていたほうが良いものであり、オリジナリティ成分の導入は控えられるでしょう。仮にオリジナリティを導入する場合はある程度まじめに筋道を立てて創作しないと、ただ原作から離れて好き放題やっただけだわ、となり、それはファンアートではなくなるので。
……とここまでくると、言及しなきゃならないのは昨今隆盛の異世界転生ものですよね。異世界転生ものでは、上の式の「大シチュエーションA」の部分に共通性があることから「異世界転生」ジャンルというものが確立するに至ったわけですが、だからこそ、「どんな異世界なの?」「主人公の個性(活躍できる分野)は?」という変数にはタフな固有性=ユニークさ(=オリジナリティ成分)の導入が必要になってくる事情があるように見えます。
あらためて、「双方を含む一次創作も二次創作もあっていいしあるんだけど、最低限要求されるのはそれぞれ違う」という文に答えると、
という感じでしょうか……
書いてみて思いましたけど、二次創作アレヤコレを語るのって、言葉の定義の定め方や設計がめちゃ大変ですね。書き下しがうまくいってますように。
二次創作物の判例が出たり、現パロ学パロ女体化の増田が見えたりしたので、このへんの私の感覚を書き散らさせて。
同人誌(漫画・小説ほか)二次創作における「キャラクター」って、突き詰めればリアクション集だと思ってるのですよ。抽象が「キャラクター」という概念なら、具体は「リアクション」。
学園パロディや現代パロディは特に服装を置換してしまうし、小説なら顔立ちは一目瞭然ってわけにはいかない。そういう意味では、原作の服も顔さえも、意外と必須ではないんですよね。名前は元の形が残ったほうがわかりやすいけど、アレンジ名つけちゃうことすらありますし。カタカナ名のキャラを無理やり和名にするとかね。
Aというキャラクターをあるシチュエーションに落とし込むと、どう反応するか? 二次創作中のその反応が、原作から醸成された「キャラクター」の共通イメージから離れていなければ、二次創作として十分成立するように思える。
だから、二次創作においては、極端なシチュエーションのほうがぶっちゃけ簡単なんですよねえ。キャラクターごとの反応がイメージしやすいし、共通イメージとの(ロジック的な)距離もひらきやすいから、いわゆる「解釈違い」案件とも距離があけやすかったりもするし。
学園パロや現代パロ、女体化などが延々と流行るのは、それがリアクションを取らせる上で簡単だから。閉じ込めてみた系とかも同じ構造だと思いますよ。
と、このように、少なくとも二次創作で扱う「キャラクター」とは、すなわちリアクションのコードだと私は思っています、という一意見でした。
傍証として、ノベル系ゲームの選択肢システムをあげておきます。あれは、プレイヤーの行動に対して、キャラクターの反応を変えることによって、キャラクターの反応コレクションとして機能しているんですよね。特定のシチュエーションにおける微差へのリアクションが豊かであることが、キャラクターを細かく立体的にすることに寄与する、というわけで、こと人格を描きたい恋愛ものとの相性が良いのだなと思います。
【追記】
>「行動様式の束」って言い方のほうが好き
やはり私個人としては「同人活動的二次創作においては『反応』様式」という言葉のほうがしっくりきます。能動的行動を含む場合、それはオリジナリティ成分の比重が高いと感じるためです。そして、一次創作でやるなら「リアクション集」では足りないんです。
いわゆる同人誌一冊全体を眺めた場合、設定流用という意味での二次成分と、アイデアの発露としてのオリジナリティ成分は混ざり合っていて、ある程度グラデーションを成すと思います(そもそも、作中において能動的行動と受動的反応を峻別することは困難です)。
一方で、例えば与えられたシチュエーション(例・学園、現代)の枠組みそのものを破壊するようなレベルの能動的行動は、学園パロや現代パロを描く二次創作界隈では通常要求されません。言い換えれば、「所詮は反応」でおさまるレベルの簡易な反応様式の描写であっても、二次創作の裾野においては十分主流たりえると思います。
トラバの「関数みたいだな」を受けて式に例えれば、シチュエーション×キャラの計算結果を描写する、と言い換えもできます。そこには
が並走しているため、シチュエーション部に代入するのは手垢のついたもので構わない、むしろ式がシンプルで理解しやすくて良いとさえ言えるわけですね。
また、複数のブコメで「キャラが立つ」という表現が見受けられたので、さらに参考として、公式二次創作物における「キャラ立ち」特化作品『おそ松さん』から、
『おそ松さん』EDテーマ曲 「SIX SAME FACES ~今夜は最高!!!!!!~」楽曲解説
https://togetter.com/li/913575
を参考に挙げます。
このまとめ内に
というくだりがあります(その方法論も面白いんですが、それはまとめ内で読んでください)。この楽曲は、ミクロの「キャラ」が実質的に口調(声や芝居を含む)であり、マクロの「キャラ」が思考・行動様式であることが端的に現れている事例だと考えてます。
さらに関連補足として、初音ミクというキャラクターも考えると面白いですよね。彼女は自身の「キャラクター」としてある種の〈空-くう、empty〉を獲得していると思いますが、その〈空〉っぷりは、(私から見れば)リアクションのコード=反応様式の束がコンセンサスを獲得できないことから来ているように思えます。
自分が命削る思いで書いた二次創作のパクリを発見した。相手も同じ二次創作ね。
改変してるところはあるから丸々パクリではないけど、言い逃れ出来ないレベルであらすじが似てる。あと絶対ちょっとやそっとじゃ思いつかないはずのアイディアもパクリの方でバンバン出てくる。出し惜しみなしか。
なんならツイッターで私がよく発言してた好きな本に似てるとこまである。私の書いた本と私の好きな本のキメラか?
さて、そんな話を読んだ私のお気持ちは。
だって私の本、性癖込めまくって書いたんだもん。死ぬ程偏ってるって自覚してるもん。誰も書いてくれるわけないから自分で書いたんだもん。
それをさ、同じ展開で別の人が書いてんだよ?
当たり前だけど同じ言い回しにはならないし、その人のオリジナリティも楽しめるし。
私すごい文字数書いたんだけどさ、その人もいっぱい書いてくれてんの。しかも連載。
それ私の本が下敷きになってるから続きの展開が私にとって面白いこと保証されてんの。
オリジナルな展開が出てくるとさ
「そういうの見たかったんだよね〜!」
ってわくわくしちゃってんの。
好きな本と酷似した展開挟まれるとニタニタしちゃうね。わたしもそこまで大胆に引用してみたかったな〜。
そもそも二次創作といえどパクリなんてしていいものじゃないしね。多くの作者にとっては不快感でしかないだろうし、これを表で「OK!!」って言うのは絶対によくない。わかってる。
二次創作といえど著作権は認められるって判決も出たばっかだし。
だけど、パクられてわたしは嬉しかった。読んで最高に楽しかった。
何度も噛みしめたくて本にした私の頭の中だけの性癖ストーリー、再放送を自動書記してもらった気持ち味わえた。
ここまで書いといてなんですが
そんな気持ちでパクリとはいえ時間と気力削って書いたはずの小説をパクリ元にニチャニチャ笑いながら読まれてるってすげぇホラーだと思うからよい子はパクリしない方がいいと思いました。おわり。
RRD 皮や骨についた身は物理的に刺身に出来ず、貝殻や匙で剥ぎ取ったものがすきみ。剥ぎ取ることを古語で「ねぎ取る」と言ったところからネギトロという。
ところが、その肝心の金太楼鮨では「ねぎ取る」説が採用されていない。
ネギトロ巻きの誕生は、1964年(昭和39年)、浅草に本店がある『金太楼鮨』とされる。三ノ輪店で残った寿司種を手巻き寿司にして賄いで食していたが、鉄火巻きに使用する中落ち・すき身にネギを加えると、マグロの脂っぽさが打ち消された。それを客に提供したところ好評で、常連客を通じて本店にも伝わり、本店のメニューに採用された。
偶然にできた寿司ネタ「ネギトロ」その由来の秘密(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社
ねぎとろ発祥の店と言われているのが、東京浅草に店を構える大正13年創業の金太楼鮨。昭和39年、当時の会長だった間根山貞雄氏が考案したという。その開発の経緯はこうだ。
同店ではまぐろを毎日大量に仕入れていたが、筋の部分は食感が悪く、刺身や寿司に使えず、余っていた。叩いてペースト状にして食べれば、脂がのってトロトロで美味いが、今度は歯応えが皆無。
そこで仕方なく、巻きに使おうとしたところ、昼食用に茹でていたそばかうどんに使うネギやワサビなどの薬味を筋の部分にぶちまけてしまう。やむを得ず、ご飯にのせて醤油をかけて食したところ、これが美味い。そこで、大当たり間違いなしと、店で出すことに決めたという。
思いがけず生まれた新しい寿司ネタ。その命名について、間根山氏はこう語っている。
「浅草には『麦とろ』という名前のとろろ飯を売る店が戦前からあり、専門店としては珍しいので土地では一応知られていた。よし、これだと、麦とろ→ねぎとろと語呂を合わせて決定した」
というわけで、この説明によれば「葱」+「(麦)とろ」である。
例の「チコちゃんに叱られる!」でもこの説が採用されたらしい。
牽強付会な印象も無いではないし、「銀ブラ=銀座でブラジルコーヒー」のように店が積極的にデマを流している可能性もある。
この場合は、昭和39年(1964年)以前に「ねぎとろ」という用例があれば、金太楼鮨の説明は疑わしいということになるはずだ。
が、そう都合よく見つかるはずもない。誰か探してくれ。
追記。
青ジソは香りのよさが好まれてよく使われ、イカのにぎりの場合など、一葉添えられることが多くなった。この青ジソの葉を細く切っていりゴマを加えた、シソ巻ずしを台東区東浅草の金太楼鮨でやっている。また、生ネギとトロとを巻いた「ネギトロ」も、ここの名物である。生ネギをすしに使うなどはなかなか思いつかないことなのだが、このネギとトロというのが相性がいい。
浅草の東、鮨·金太楼本店。(中略)ちっと解説させて頂くなら、ねぎトロのトロとは、まぐろをさばいたあと、皮や骨についている肉をこそげ取った身を寄せ集めたものです。(中略)ねぎトロは、いまいったトロにきざんだねぎを混ぜ、ゴマを加えたもの。
信用金庫 29(1) - 国立国会図書館デジタルコレクション
先日、仕事の関係があって、浅草のあるおすし屋さんを訪ねた。そこで、ネギトロというものをたべた。たいへんおいしかったので、ほかであまりきかないけど、おたくだけのものかときいてみた。若いご主人は次のように話してくれた。そうです。実はわたしたちも、すしにネギは禁物だと教わってきたのです。ところが、ネギのとても好きなお客さんがいらして、ネギを巻いてみてくれというご注文なのです、ついでにトロも一緒に入れてくれというので、試しに巻いたのです。ところが、これがなかなかいけるのですね。それで、その後いろいろ工夫してみました。トロをよくたたいてアブラをうかし、スジをとって、それからネギと一緒に巻くのです。これをわたしのところのレパートリーに加えました。ですから、これはお客さんに教えていただいたものといえますね。
というより「生ネギをすしに使うなどはなかなか思いつかない」「すしにネギは禁物だと教わってきた」といった記述からすると、ネギを使うことこそがネギトロのオリジナリティのようである。
週刊文春の記述からは、いわゆる腹部の「トロ」ではなく、現在のように中落ちや皮ぎしの肉を使っていたことがわかる。
「浅草のおすし屋さん」というのはおそらく金太楼鮨のことだろうが、現在説明されているネギトロの誕生経緯とはだいぶ異なっている。
追記終わり。
別の方向から考えてみよう。
RRD氏は「剥ぎ取ることを古語で『ねぎ取る』と言った」と書いている。
ね・ぐ 【労ぐ】
ねぎらう。いたわる。
ね・ぐ 【祈ぐ】
祈る。祈願する。
「ねぐ」は、神社の「禰宜(ねぎ)」や、「労う(ねぎらう)」「願う(ねがう)」といった言葉の語源である。
ちなみにヤマトタケルの伝説で、景行天皇が、息子の大碓命が会食に出てこないことを懸念し、その弟の小碓命(=ヤマトタケル)に「ねぎ教へ覚せ」と命じた、という話がある。
この「ねぎ教へ覚せ」の「ねぎ」は、まさに「ねぎらう・いたわる」で、「(会食に出るよう)優しく教え諭せ」といった意味になる。
ところがヤマトタケルはこの命令を取り違え、兄の手足を引きちぎって殺してしまった。
「手足をねぎ取った」ということだろうか?
このときヤマトタケルがどう取り違えたかというのは「根切る」や「ねじ切る」といった説があるようだが、さすがに「剥ぎ取る」と結びつけることはないようである。
というわけで「剥ぎ取ることを古語で『ねぎ取る』と言った」という説はかなり怪しい。
しかし古語ではなくとも「ねぎ取る」という言葉があった可能性はある。
別の記事では「ねぎ取るは建築用語だ」とする説が紹介されている。
知ってた? “ネギトロ”は葱とマグロのトロの意味じゃない! “ねぎま”も焼き鳥じゃない | ガジェット通信 GetNews
元の語源は建築用語で、地下構造物を作る時、地面より下の土を掘ることを「根切り」と呼んでおり、それが寿司業界にも広まり「ネギトロ」が誕生。
そもそも「根切り葉切り」という言葉もあるように、「根切り」には「根こそぎ」という意味があり、骨から肉をこそぎ落とすようなイメージは分からないでもない。
そもそも「ねぎ取る」で検索しても「ネギトロ」以外の文脈ではほとんど引っかからない。
中間形態としてありそうな「根切り取る」などもやはり引っかからないのである。
こちらは「俺は寿司屋をやって数十年の者だが『ねぎ取る』という言葉は確かにあるぜ」という人が出てきてくれれば確かめられるはずだ。
というわけで、1964年以前の「ねぎとろ」用例や、古くから寿司屋で「ねぎ取る」を使っていたという人が出てこないかぎり、暫定的に「葱」+「トロ」説を採用したい。
もうちょっと言うと、日本史とか日本文学とかはぜんぜん大丈夫なんだが、西洋史とか東洋史とか、要するに外国のことを調べる学問がヤバい。
なぜかといえば非常に単純な話で、研究を進める上で必要な資料にアクセスできないからだ。
歴史学の根本は、オリジナルな資料(=一次史料)にあたることにある。一次史料には色々な形態があるわけだが、歴史上の出来事の背景とかを実証的に調べようと思ったら、公文書館にある史料を使うことが不可欠だ。
そして公文書館というのは行政機関なので、日本の国立公文書館や外務省外交史料館が東京にあるように、あるいはイギリスの国立公文書館がキューにありアメリカの国立公文書記録管理局がワシントンDCにあるように、当然ながらそれを管轄している国や地方自治体に設置されている。
コロナが2~3年で過ぎ去り、その後はすべてが元通りになるなら、その数年を耐え忍べばいい。数年が過ぎればまたヨーロッパなり世界の他の国なりに行けるようになる。当然、歴史学も元通りだ!
でも残念ながら、中東諸国の割安の航空券でヨーロッパに渡航できる日々は、もう戻ってはこないかもしれない。航空券が割高になるだけではなく、全世界的に航空産業が縮小し、これまでであれば容易にアクセスできていた史料にアクセスできなくなるかもしれない。
明治維新以降、政府が雇ったお雇い外国人たちによって、ランケに始まる近代歴史学が日本に持ち込まれた。だが初期の日本の歴史学はあまりにお粗末なものだった――現在の水準からすれば。
オリジナルな史料を見ずに、西洋人の書いた歴史書を読んでそれを日本語で紹介して論文を書き、吾は教授でございと偉そうな顔をしている。英語とフランス語とドイツ語の文献だけを読んでヨーロッパ史全体を講じるなんていう無謀なことが平気でまかり通っていた。
けれど、そのような稚拙な「論文」も必要だったのだ。日本の歴史学が独り立ちするためには。
やがて、それらの先人たちの業績を踏み台にして、きちんと史料集(=オリジナルな史料を集めてまとめた本)にあたって論文を書く人や、英仏独だけではない色々なマイナー言語を習得して研究する人が増えてくる。そして、交通技術の発展に伴って海外旅行が安価になるにつれ、国外の文書館にアクセスして論文を書く人が増え、英仏独以外の言語を学ぶ人が増え、留学して現地で学位を取る人も増え、日本の歴史学のレベルはどんどん上がっていった。
2000年代から2010年代にかけての日本の歴史学界で生み出された外国史研究のレベルの高さは誇るに値する。もはや横のものを縦にしただけではまともな論文とは見做され得ない。現地の言語を読めることが最低条件で、その上でどのようにオリジナルで面白い研究成果を積み上げるか。多くの研究者たちが競うように優れた論文や著書を生み出してきた。
留学の予定も史料収集の計画も、すべてが白紙になってしまった。
分野によって違うと思うが、外国史を学ぶ者は多くの場合修士課程か博士課程で留学をする。これは現地で史料を収集したり、現地で言葉を勉強したり、現地の研究者と触れ合ったりするきわめて重要なプロセスで、修士卒ならともかく博士号を獲ろうと思うなら避けては通れない。多くの研究者はだいたい1年から3年くらいの留学を経て、外国の歴史に興味がある若者から若手の歴史研究者へと成長する。
COVID-19直撃世代は、この留学の経験を持てない。彼らは外国史研究者として足腰を鍛える機会を奪われることになる。
2~3年でコロナ禍が終熄するなら、この世代が数年間のハンデを背負うだけで済む(たとえば、留学することなく博士課程の年限が来てしまったとか、在学を引き伸ばす羽目になり学費が余計にかかったり就職市場に参入するのが遅れたとか、せっかく学振DCを取ったのに海外調査をすることなく任期が過ぎてしまったとか、そういう悲劇が量産されることだろう――外国研究者は学振の研究費のかなりの割合を出張費に充てている)。
けれど、コロナ禍が終熄しなかったら、あるいは終熄後に海外調査のハードルがものすごく高くなってしまっていたら、日本の外国史研究は大きな打撃を受けるだろう。
そりゃ、留学終えてる組は今すぐに困るってことはない。彼らはもう現地語ペラペラだし、これまでの現地滞在で史料もたっぷり集めてるだろうから、当面はそれを消化しながら外国の研究者とオンライン会議すればいい。
でも、これから留学しようとする人たちは、現地に長期滞在して外国語能力を鍛える機会を奪われ、史料を集めることもできず、中途半端な研究能力しか持てないままに博士課程を終えざるを得ないことになる。
もちろん、先行世代よりマシな点もある。デジタルアーカイブの発展によって、従来は現地の図書館に行かないと見られなかった古書や古新聞が自宅にいながらにして読めるようになった。中には所蔵している史料をウェブで見せてくれる親切な公文書館もある。外国の雑誌だってオンラインで入手できるし、何なら研究書をkindleで読んだっていい。そういえば友達はドイツ語の学術書をkindle版で引用していた。
だから、研究の水準が明治時代に戻るということには、おそらくならない。
どのような種類の史料が必要かは、結局研究テーマに左右されるのだ。もしも「ドイツにおける日本人のイメージの歴史」を調べたかったら、古書や古新聞を徹底的に調べればそれでいい。けれど、「1960年代における西ドイツの政策決定過程」みたいなテーマを扱おうと思ったら、公文書館の史料を見なければお話にならない。
現代日本で考えてみればよくわかる。「安倍首相がメディアでどう扱われているか」と「安倍内閣の内側ではどんなふうに物事が決められているか」とでは、立論に使うべき資料が全然違う。前者は新聞やネットを見ればそれでいいが、後者は情報公開請求が必要だし、『朝日新聞』や『週刊文春』だけを見て後者を論じたら手抜きだと謗られるだろう。
そして歴史学とは「昔のことなら何でも扱う学問」であり、内部には表象を論じる研究者から外交政策を調べる研究者まで色々いるのだが、後者のような人たち――つまり、研究のために文書館史料を必要とする人たち――の研究はずいぶんやりにくくなるだろう。外国史研究において、思想史や文化史、古代史の割合が高くなるかもしれない。
(いやでも、ガチの思想史や文化史をやろうと思ったら文書館史料を見ないといけない局面も割と出てくるので、思想史なら文書館行かなくてもいいでしょ、という話にはならないんだよな……明治時代の知識人の留学先の国に出かけてその国の文書館史料使って明治期の思想についての本書いた人とかいるからな……逆にある程度昔の外交史だと関係する史料がほとんど翻刻されてたりするし……)
ネット上で読める範囲の古書や古新聞だけを史料として使って「18世紀におけるドイツ諸邦の外交」みたいな研究をまとめたとして、明治時代ならこんな多くの一次史料を使うなんて素晴らしい研究だと大絶賛され東京帝大の教授になれるかもしれない。でも現代では、研究のレベルが上がってしまった現代では、「新聞しか見てないじゃん。文書館史料使ったの? え? 使ってない? レベル低いね」と一蹴されてしまう。論文を英訳なり独訳なりして海外のジャーナルに投稿しても、それなりのレベルの雑誌からは軒並み落とされるだろう(というか、国内でも有力学術誌の査読を通過できるとは思えない)
ふんだんに文書館史料を使う質の高い研究に慣らされてしまったら、今更横のものを縦にすれば教授になれていた時代の研究水準には戻れないのだ。
ハードルを下げる?
つい去年まで史料調査のために渡航するのが当たり前で、今アラサー以上の人たちは研究水準が高かった時代を身を持って知っているのに?
コロナ禍の影響が数年で収まるのなら、業績の不足で苦しむのは直撃世代だけで済む。だが、もしもコロナ禍の後遺症が何十年も続くのであれば、外国史を研究する歴史家たちは困難な撤退戦を強いられることになるだろう。
それはより史料入手の容易なテーマへの撤退戦であるかもしれないし(政治史はハードルが高いから、表象の歴史とかを研究しよう)、より史料入手の容易な国への撤退戦であるかもしれない(○○国と比べて××国の方がデジタルアーカイブが充実してるから、○○史じゃなくて××史をやろう)。
ともかく、これまで日本の歴史学が積み上げてきた多様性は、徐々に失われていくことになるだろう。
日本の外国史研究にとって、冬の時代が迫っているのかもしれない。
まあそうは言っても史料さえどうにかなれば研究はできるので文化人類学や記述言語学よりはまだマシ。これらの学問では現地に長期間滞在して現地人の間に分け入って調査する必要があるので、現在のレベルの渡航制限が長続きすると文字通り危機に瀕する。これらの分野では伝統的に外国に関する研究が盛んで、オセアニアの島国やアフリカの奥地で調査してきた日本人が何人もいるのだ。今後、外国を舞台にした文化人類学や記述言語学は消滅し、国内を対象として細々と生き延びるほかなくなるのかもしれない……
(まあ、国内の伝統文化や方言を保存するために、一度外国の文化や言語を記述するのに使っているエネルギーを全部日本に関する研究に注ぎ込むのもアリかもしれない……でもCOVID-19で次々と伝統的なお祭りやら寄り合いやらが中止になっているし、うかつに都会の大学で修行する若手研究者が離島や山村に出かけてお年寄りのインフォーマントと接触するのもはばかられるよなぁ……)
デジタルアーカイブの発達はうながされるだろうけど、そんなに急速には進展しないだろう。それには2つの理由がある。
第1に、単純にデジタル化はすごい大変なのだ。マトモな国なら行政の作った公文書は破棄されずに何十年にもわたって保管されているのが普通で、それらすべてをデジタル化するのは労力がかかるというのは納得してもらえると思う(国だけじゃなく地方自治体にもその自治体の公文書集める公文書館があったりするからね。連邦制の国だと連邦レベル・州レベル・市レベルの文書館が別々に設置されていたり)。優先順位をつけてやっていくほかないけど(「まずは外交関係の公文書を先にデジタル化しよう。環境保護関係は後回しだ」)、優先順位の低いテーマを研究しようと思ったらそれでは困る。
第2に、困るのは外国人研究者だけで、本国の研究者はそんなに困らないのだ。
日本人がイギリスやドイツに調査に行けなくなっても、イギリス人やドイツ人の歴史家は何も困らない。彼らは渡航制限など気にせず自国にある公文書館にアクセスできる。これは日本のことを研究する日本人の歴史家にとっても同じだ。仮に外務省外交史料館から外国人研究者の姿が消えたとして、いったい日本人研究者になんの不都合があるのだろう?
(ここでは「外国人」と書いたが、厳密には、外国に拠点を置く研究者と言った方がいいだろう。日本の大学で教鞭を執っている中国人の日本史研究者はなんにも困らない。逆にうっかり日本学の専門家として英米の大学に就職しちゃった日本人研究者は大変だ。また、日本を研究する歴史家がなにも困らないというわけではない。日米関係の歴史を研究しようと思ったら当然アメリカに行かなければいけないし、国内政治だけを研究する場合であっても、日本政府の公文書管理がザルすぎるせいで重要な史料が日本じゃなくアメリカにあるみたいな状況もありえるので……)
つまり、全世界的に、自国を研究する研究者にとってはあんまり困らないが、外国を研究する研究者はめちゃくちゃ困る、という状況が訪れると思われる。外国人研究者への配慮が、果たして自国の公的施設のデジタル化への強い圧力となるだろうか? 正直疑問だ。
第1に、それ本国の研究者に何のメリットがあるの? お金を払ってやってもらうとして、その人件費は渡航費よりも安上がりだとはとても思えないんだけど……
第2に、史料の山に埋もれて色々探していく中でお目当ての史料を見つけるコツとか時代ごとの史料の特徴を見分ける目とか崩し字の読み方とかそういった歴史家としての技倆が養われるので、単純に他人に任せればよいという話ではない(「時代ごとの公文書の形式の違い」みたいなのも当然論文のテーマになるけど、これ書くためにどのくらいの史料読む必要があると思う?)。
ていうか、なんか勘違いされてるフシがあるけど、読んだ史料が全部研究に使えるわけじゃないからね。目録に面白そうな史料があったから地方の文書館に足を運んで閲覧してみたけど期待ハズレで全然使えませんでした、とか、膨大な史料の山を探しまわってようやく使えそうな史料の一群を見つけました、とか、何気なくパラパラめくってた史料の片隅にさり気なく重大なことが書いてありました、とか、そういうのあるあるなので。お目当ての史料だけ外人にコピーしてもらえばいいじゃん! なんて夢物語でしかない。
第3に、そもそも論としてなんで自分の研究のオリジナリティの源泉たる史料の入手を現地人任せにするのか。現地の文書館に通って現地人がちっとも注目してないけど重要な史料を発掘したなんてこともあるわけだけど、そんな史料を現地の研究者にコピーさせられるわけないだろ、常識的に考えて……論文で発表するまで史料の存在をひた隠しにするわ……(現地人が自力でたどり着く分には止められないけど、わざわざここにこんな重要史料がありますと教えてさしあげる必要はどこにもない)
日本史であっても一次史料が海外にある日本キリシタン史では、史料アクセスのハードルが以前から言及されていたのを思い出した。
なおアジア・アフリカの旧植民地ではそういう状況がデフォルトの模様。日本史を研究する日本人の歴史家は日本国内で研究を完結させられる余地があるけど、インドネシア史を研究するインドネシア人の歴史家がオランダに行けませんとか、インド史を研究するインド人の歴史家がイギリスに(ryとか、台湾史を研究する台湾人の歴史家が日本に(ryとか、そういうのはマジで研究に支障が出るよなあ……
そもそも論だが、「日本人が」イギリス政治史とかドイツ経済史とかを研究する意義が不明。「現地の研究者に任せる」だと何故駄目なのか?
それな! ぜひ同じことをドナルド・キーンやロナルド・ドーアやケネス・ポメランツやイアン・ニッシュやJ・ヴィクター・コシュマンやブレット・ウォーカーにも言ってきて!
これ書いた人。せっかくヨルシカのただ君に晴れを好きと言ったので、好き長文も書いてみる。
私の年代でギター伴奏・バンドサウンドのボーカル曲作ろうとしたら、カッコいいリフを作るところから始まると思う。リフ一発で黙らせる強さが欲しい。米津玄師のLOSERなんて、それこそ現代的でリフがかっこよくて歌謡曲要素もありながら韻踏みのラップ要素も違和感なく突っ込んでポンキッキーズのオマージュまで入れるように肩の力の抜きかたまで分かってる、老練な作曲家が「今の時代ならコレっしょ」と作るような曲を体現したような曲だ。サビのとこのクッソかっこいいマイナー→メジャーの転調の話とかもしたいが、主題じゃないので割愛。
この曲の良いところは、歌詞と声だ。suisの声の良さはもはや全国6兆人のsuisファンが語り尽くしてるからいいだろう。歌詞だ。全体としては「あの夏」の君の思い出を思い返している曲だ。「夏日 乾いた雲 山桜桃梅 錆びた標識」の名詞を紡いでいく歌詞なんかはボサノヴァの金字塔、アントニオ・カルロス・ジョビンの三月の水を彷彿とさせる。この時点で美しい、美しかった光景を書こうとしている意思は伝わってくる。「絶えず君のいこふ 記憶に夏野の石一つ」の、文学性とオリジナリティを損なわない程度の引用とか、凄く綺麗でうまいと思う。
そして曲名にもなっている「ただ君に晴れ」だ。実は曲中では1回しか出てこない。そして、その周りの詩だけ読むと、「ただ君に晴れ」は「ただ君と晴れの日だけが思い出にある」という意味にしか読み解けないようになっている。しかし、全体を通して曲を聞くとこの「ただ君に晴れ」は、「君にただ晴れの日があらんことを」という祈りにしか聞こえなくなってくるのだ。どちらも、極限まで短くすると「ただ君に晴れ」の6文字になる。どちらが正しいか?はPVに書いてある。後者だ。願わくば、PVにすら書かずに、誰にも真実を明かさないのに、誰もが後者と受け取るような芸術を見せてほしかった。ちなみに言っておくと、Youtubeの英語版タイトルが「Just a sunny day for you」になっているが、これは間違い。作者公式の英語タイトルは「Cloudless」。快晴である。このダブルミーニングなのに誰もが真意を読み取ることになる、それこそYoutubeの翻訳した人が真意の翻訳をできるくらいには、エモが過ぎる曲なのだ。他の歌詞は、いかにも内省的な、語彙貧弱な私が言ってしまえば陰キャじみた独りよがりな歌詞なのだが、「ただ君に晴れの日があらんことを」という真摯な祈りだけは恐ろしく真摯に聞こえるのだ。祈りというのは恐ろしくも、人が生きゆく、死にゆく際に最後に残るものだ。「幸あれ」という祈りは、般若心経の頃から連綿と続く歌の真意の1つである。人に、自分に祈るということこそ、音楽の、詩の、本質かもしれない。
ここまで読んでくれてありがとうございます。どうか皆々様に幸あれ。そして私の嫌いな者たち、最近やたら暑いですね。どうか晴れの日のあらんことを。
サイト名出したら宣伝感ありそうだけど、ピッコマの縦長フルカラー漫画の話。ライン漫画のやつとか他のサイトにもこういう漫画って載ってるらしい。
元々なろうもよく読むんだけど、フルカラーの絵がついたなろうって感じでなかなかおもしろい。
あと韓国漫画なので翻訳の都合か、セリフに不自然な所があったりするけど、それもスルーできれば大丈夫。
というわけで以下感想。
そもそも読み始めたきっかけ。とにかくかわいい幼女主人公がたくさん見れる。内容はよくある女性向けなろうとか少女漫画って感じで、誰とくっつくかは予定調和だなという感じ。絵を見に行ってる。
流し見してたら思いの外面白かった枠だった。どれも主人公はうまくやるけど苦労もする。適度なストレスフリー。
レベルアップの方は男性向けで、絵が縦長画面をうまく使って派手な戦闘を描いてるなという感じ。
女神育成は日本語が怪しいところもあるもののスルーできるレベル、男を落として成り上がり系。
チトラは女性向け領地運営系。これなろうで男バージョンで見たことある!が、設定がなかなかギャグい。主人公がなかなか煩悩まみれで面白い。
ロリコン集え!!枠。主人公はめちゃめちゃ可愛く描かれたロリ。どれも絵はかわいい。
ショタコン向け枠。残念ながら途中で成長していってしまうけど…
あんまりこれはなろう感ないかな?と思ったけど死んで逆行するから出だしは既視感がある。
世界観設定があまり見ない感じで、進めば進むほどオリジナリティが出てくる感じか。イキり度は盗掘王のほうが高いと思う。エルキネスは主人公の人格途中で変わりました?と思う。
女性主人公でアドニスは武力!って感じの強さ、エボニーは頭脳!って感じの強さ。アドニスは途中で絵が変わっちゃうのがなぁ。読んでるうちに慣れたけど。
他にも途中まで普通の女性向けかなと思ってたら突然男が発情しだすルシアとか、登場人物みんな頭がおかしくて何言ってるんだ!?って暴れだしたくなる皇帝の伴侶とかがあるけど長くなるので一旦ここまで。
高校生の時、ものすごく絵の上手い同級生がいた。私はその子の絵がすごく好きだった。
その子も私も人見知りで、お互い絵を描くことは知っていたけどそこまで深い仲にはならなかった。その上、卒業後は進路も違ったので自然と疎遠になったけど、その子が自分のサイトを持っているのは知っていたのでたまに見ていた。相変わらず上手だったし、とある人気作品にガッツリはまりこんだみたいでそのキャラのCP絵がバンバン上がっていた。その子しか創作してないくらいのマイナーCPだったけど、すごく楽しそうだった。
けれど私自身は大学生活の中で絵を描くことからも離れてしまい、ついにその子のサイトも見なくなってしまった。
お互い連絡を全く取らないまま成人になり(成人式は出なかったけど)、大学を卒業し、就職して転職して……とかやってるうち、ふとその子のことを思い出した。まだサイト更新してるのかな、あの子のことだからプロのイラストレーターになってそうだな、と思いながらその子が推していたマイナーCP名で検索してみた。
結論から言うと、その子はサイトを閉めて舞台をTwitterに移して創作を続けていた。しかし大変なことになっていた。
その子の絵柄が激変していた。乱暴に言うと劣化していた。顔のパーツは歪み、塗りもめちゃくちゃ、ポーズもほぼ棒立ち。
それでも要所要所は昔の名残?でハッとするほど素晴らしいところもあった。でも全体を見れば見るほど絵を描き始めたばかりの子どもの絵、みたいな絵ばかりだった。
ただ絵柄が変わっただけならよかったかもしれない。でも明らかに絵柄が変わってしまったであろう理由もそこにはあった。
その子は精神を病んでしまっており、被害妄想で投薬治療をしている旨が書き込まれていた。
そんな彼女のTwitterには長文の恨み節のような呟きが延々と続いていた。自分の創作のアイディアを大企業に盗まれた、このジャンルのキャラは自分の創作キャラのパクリだ、今朝のニュースは私を陥れるために仕組まれた罠だ、政府が国が大企業が私をいじめる、このキャラは私の創作から生まれたものなのに誰もそれを認めない、世界的企業が私の創作を盗んで公式キャラとして売り出すなんて許さない許さない許さない……。
実際のところは分からない。だがその子の言うパクられたアイディアは100人いれば50人以上は思いつきそうな、あまりオリジナリティは感じられなかった(髪の色や七三分けが一緒とかそういうレベル)。報道される全ての負のニュース…与党と野党の対立とか冷え込む米中関係とか住んでる市の教員不祥事とか…は自分のメタファーであり、何もかもが私への攻撃材料として使われているという主張はあまりにも度を超している。
そしてさらに悪いことに、彼女は複数のアカウントで実名を挙げて誹謗中傷を繰り返していた。彼女は呟きの中で自身の本名、勤め先まで明かしている。見る人が見ればすぐ分かってしまうほど詳細に書いてある。私はとりあえず誹謗中傷の呟きを違反報告し、すぐさま彼女のアカウントを全てブロックした。
彼女はどうなってしまうのだろう。京都アニメーションの事件が頭を過ぎる。私が好きだったあの子はどこにいってしまったのだろう。
台湾の音楽にハマってから約10年、KKBOXの台頭もあってアジア圏の音楽をよく聴くようになり、さらには全世界の音楽を漁る様になった。
アジア圏に関しては、台湾を始めとして、タイとかシンガポールの音楽も探すととにかくバラエティに富んでるし飽きない。
意外にもC国もアンダーグラウンドやインディーズのシーンは熱い。
はっきり言ってつまらない。
能動的に聴かなくてもまぁテレビとかがゴリ押ししてるので耳にしたことはあるけど、曲もグループ名も何一つ全く記憶に残ってない。まじで。
なぜだろうと考えてみて、オリジナリティとクリエイティビティの欠如という理由に至った。
アジア圏に限らず、どこの国も、ポップスでも現代音楽でも意外と伝統音楽や民族音楽の名残があったりする。
音階とか和音とか、聞けば大体どこの国あるいは地域の音楽かってのは大体分かるけど、そういうのが全くない。
そういやK国の伝統音楽って聞かれても無くない?
だからこそ「これがこの国の音楽です凄いでしょー」って主張しないと周りに見出されることもないのかもしれないけど。
関心を持った人は積極的に聞いたり調べたりするから自分から主張する必要無いじゃんね実際。
曲調もパフォーマンスも、洋楽なり邦楽なりの何か売れたものの焼き直しというかn番煎じじゃん。
集団ごとの違いも見た目すら区別できないけど、それ以上に音楽の違いは何も無い。
「俺達・私達の曲を聴けや、おりゃー」ってのが音楽アーティストだと思うんだけど、「どうせあんたらはこういうの好きでしょ?」って感じで、音楽に対するリスペクトがまず無いよね。
あとは単純に見た目がキモい。
女はハンコ絵、男はハンコ絵+古臭い+顔もガタイも男らしくない+ナルシストのコンボで見るのも生理的に無理。
長々述べたけど一言で言うと音楽にもパフォーマンも関心を向けるほどの価値が見出せない。
洋楽はともかく、他の地域の音楽はテレビが絶対に取り上げないけど、そういう海外の音楽の方が絶対に面白いから漁ってみるのお薦め。