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2019-10-07

悔しい。

日曜日お仕事から帰宅後のお話

40代夫婦中学校2年生(都内私立男子校 中高一貫。本人が希望して入学したが、少し勉強についていくのに苦労している)の3人暮らし我が家

夕食の席で、中学校2年の息子が「学校のことで話をしたい」と言い始めた。

そして、家族会議をすることに。

議題は、彼の「学校でのこと」について。

俺に似て、ナードな息子は「運動部の奴らにイジられていて辛い」と話し始めた。

中学2年にしては、かなり小柄でちょっと太めの彼。

運動部に入っていたが、同年代の子に「辞めちゃえばいいのに」と繰り返し言われて辞めたという経験がある。

俺は運動部が憎い。

自分中学生の時も、サッカー部野球部の連中は我々のようなスクールカーストの低い人達を虐げていた。

偏見なのは100も承知だ)

坊主憎けりゃナントカだとは分かっていても、本当に気に入らない。

彼は、俺からみても、ややADD傾向。

本人の希望で、スクールカウンセラーにも相談に行っている。

カウンセリングの内容は当然だが、親も知らない。

息子は「話せる人がいるのはありがたい」と話している。

この年代で、親に話せないことがあるのは当然なので、援助希求能力を上げるためにもとても大事だと思っている。

ところで、我が家では、家族会議ときには、いつも俺が議事録をつくる。

Macメモをとりながら、Apple TV経由でリビングモニターに映しながら、問題を外在化しようと試みるのだ。

そこで、ある程度のフェイクを入れながら、下記に転記する。

___________________________________________________

参加メンバー:息子、妻(母親)、父(父親

*息子より問題提起

学校でのことを相談したい」

「授業中など勉強しているときに、運動部でイケている感じの奴らに後ろからちょっかいを出されたりする」

進学校からか、勉強運動もできるやつは威張っている。とくに背の小さいやつをイジってくる」

家庭科の授業中に後ろから糸くずを置かれた。遠くで笑われたりする」

ちょっと気分が悪い。それが辛い。」

「体育の時間にいろいろ言われるのが辛い。たとえば、「邪魔」「動けよ」「ちゃんとやれよ」「デブ」ということを言われて、大変だと思っている。」

「いろいろ試してみた。キチンと嫌だと言ったり、おちゃらけてみたり、ちょっとキレ気味にいったり。でも、どんな風にしても馬鹿にされる」

「次回の(スクールカウンセリングで(このことを)聞こうかな、と思っている。」

>妻「Sくん(彼の仲の良い友人。自分と同じようにイジられている立場だ、とのこと)も同じような感じ?」

息子「Sくんは、教室の後ろの方の席だから(息子ほどでは)ない」

>妻「特定のひとに言われるの?」

息子「5〜6人くらい。あとから、のっかってくる人もいる」

(他にも具体例はあったが省略)

>妻「私はSくんの親とも繋がりがある。Sくんの母親相談するのはナシ?」

息子「それはSくんに悪い。話していない可能性もあるし」

息子「(あるいは)Sくんもカウンセリングに言ったら、楽になるのではないかと思う」

>妻「いつ頃からなのか?」

息子「一学期の終わりくらいから」

>妻「他にも言われている人はいるのか」

息子「Kも、デブとか言われている」

息子「カウンセリングでは言おうと思っている」

>妻「カウンセリングでは言うのはいいと思う」

>妻「結局、(前の部活)もそういったことで辞めていることもある」

息子「そうだね」

>妻「(今の部活文化部)では問題ないの?」

息子「問題ない。おんなじカテゴリーの人が多いからだと思う」

>妻「介入するべきかどうかは迷っている。でも、介入が必要なようにも感じる」

>父「両親からみると現時点でもつらそう」

>父「『イジる』というのはプロ行為素人が真似していいものではない」

>父「一般的には、本人が不快に思った時点でハラスメント

>父「あなたは、我々の助けや介入が必要だと思っているのか」

ハラスメントについて、適当PDFを探し、参考資料として共有)

 https://www.pref.shizuoka.jp/kyouiku/kk-010/documents/harasumentobousi.pdf 

息子「うーん。今の時点では、よくわからない」

>妻「学校先生には言えない状況なの?」

息子「いえない」

>妻「では、カウンセラー先生に言ってみるのがベストか」

>妻「たとえば、こちらとしては保護者会の後に、先生お話しをしてもいいとも思っている」

>妻「でも、あなたが『言ってほしいかどうか』を大事にしたい」

>妻「自分としては、どうしようと思っているのか」

子「カウンセラー先生には相談をしていきたいと思う」

>父「気になったのは、助けてほしいかという質問に対して『よくわからない』という感じ。少し不思議。もう少し詳しく聞きたい」

息子(息子の現状への認識の話)

息子「自分オンラインで仲の良いゲーム友だちもいる。まだ頼れるところもあるし、大丈夫だと思う…という感じ」

息子「(息子が)イジられなくなると、他の誰かのところに行くのではないかと思っている。先生相談できない一番の理由もそれ」

息子「奴らは次の標的を探していると思う」

息子「自分の一番の目標は誰も傷つかないこと」

息子「一番自分と仲の良いSは友達もあまりいない。心の拠り所もなさそう」

息子「だったら、自分が(ある種の)タンク役として、受けられるといいのかとも思う」

>妻「息子は、イジりに対して、反応がいいのではないか

息子「反応は良いと思う。アイツラは楽しそうにしているし」

息子「実際、格好の餌だと思う」

息子「ただ、ひとりだけ本当に嫌で…〇〇って奴」

息子「あいつの弄りは本当に嫌だったから、その人からは本当に距離を置くようにしている。物理的に。ただ、それはそれで反応を面白がって近づいてくる」

>父「自分としては、息子である貴方大事

>父「そこまでの責任を感じる必要がないと思う」

>父「自分課題他人課題を切り分けるべきではないか?」

>父「次の標的を探している→だから自分犠牲になるべきだ、というのは、ある種の過大な自己評価ではないか

>父「彼らは単に反応のよい人に触れているだけ、とも思う。ボタンを押して、反応するのが楽しいような原始的感覚

息子「(モニターをみながら)文字だけ見返すと、確かに過大評価かもしれない」

息子「でも、家庭科の授業のときに、◆◆が小声で言っていたのは『いじめるんだったら、Sとか(息子の名字)とか…』と言っていた」

息子「遠くでこちらをみて、笑っていることがある。本当に、こっちをみているかどうかはわからないが…」

息子「Sについて、責任を感じる必要はないかもしれない。でも、万が一、あるいは数%でもそういう可能性があるのは『怖い』と思う」

<話し合い中、またはその後の息子の反応や言動

(話し合いの最中から涙を流し、一時中断した。15分程度、タイムアウト

(話し合った直後)

息子「学校のことで時間をとってくれてありがとう。少し楽になったよ。助かった」

(しばらく経った後に泣きながら)

息子「なんか、いろいろと思い出して辛くなった」

息子「学校で色々言われていると『自分は消えてなくなった方がいい』と思うこともある」

息子「家でも居場所がないように感じてしまう。自分がいない方がいいようにも感じる」

<話し合い後:今後の具体策>

担任先生には、息子が話したくなるまでは言わない

定期的に、家族へ現状の報告をする

日記不快出来事+そのときにどう思ったか記載する

場合によっては両親の判断で「タオル」を投げる(両親としては現時点でもタオルを投げたい)

カウンセリング先生との面談が3日後。そこで話してみる(こちらの会議内容のコピーを持参してみる)

毎日出来事カウンセリングでの反応をみながら、適宜、話し合いを持ちたい

→息子会議とは別枠で、話し合いを適宜実施していく


__________________________________________________

と、まあ、こんな感じになりました。

子供の抱える問題は、どこまで介入するか、とてもむずかしいなー。

悔しい。

遠くから悪口が聞こえたり、自分存在を消してしまいたいと思うなんて、ちょっと鬱だよね。

なぐりてえ。

ウチの大事な息子をそんな目に合わせた奴らのことを殴りてえ。

でも、殴ったらいけないことくらいは分かっている。

彼らにとっては本当に些細なことでも、居場所を失いそうなくらい、息子は気にしているんだ。

息子が嫌がることをしないでください。

本当にお願いします。

もっと早く気づいてあげられてたらなあ。

ごめんな、ごめんな。

ごめんな。

2019-09-22

e-sports部活動として相応しいかは置いといて、野球部廃止しろ

人間の悪意を増幅し、その中で暴力による解決こそを最適解だと植え付ける悪魔のようなシステムだ。

サッカー部野球部ラグビー部テニス部バスケ部バレー部柔道部・その他運動系部活動は全て廃止してしまえ。

卓球弓道はまあいいかな……あいつらただの陰キャ口喧嘩しか出来ないし

2019-09-21

単純作業は気が楽。

ワーキングメモリー使わなくて、いいから。

短期記憶を使う作業は、やっぱり疲れるなぁ。

計算とか、

今思うと、小学校の時に「そろばん」習いにいっていた。

自分には、合わなかった。。

とっとと止めたらよかった。なんか、泣いていた。

サッカー部練習もキツかった。泣いていた。

ああ。社会人になってからも涙流しながら仕事してる。

中年オッサンになっても、泣いてる。

結婚もして、子供も産まれて、離婚しても、ここまで悲しくなかった。

自分無能さに泣く。

  

ダメ人間だって、グチを言っているうちは、逃げだ、見たいなコトバを見て

また、泣く。

泣く。とにかく、泣く。えーん。悲しいよー。

なんで、すらすらと色々と出来ないのかなぁ。

  

不器用人間は辛い。

  

2019-08-31

昔ついた哀れな嘘

ビックリマンシールで、持っていないヘッドシールを手に入れたと嘘をついた。友達から見せろと言われて適当ごまかしてたら、家に乗り込んできて、嘘がバレた。

ファミコンゲームで、ありもしない裏技発見したと嘘をついた。友達から裏技の出し方を聞かれて、適当に答えたら後日再現できないと言われ、やって見せろと迫られ、嘘がバレた。

友達パソコンゲームを持っていて、欲しいソフトがあると言ったので、自分はそれ持ってると嘘をついた。実際はパソコンも持っていない。その友達に、ソフト貸してと言われたが、自分もやってるからさないとごまかしたが、プレイしてるところを見せろと家に乗り込まれて、嘘がバレた。

中学の時、卓球部だったが、大学生の時に、サッカー部だったと嘘をついていた。友人が実家に泊まったことがあったが、夕食の時、

増田くんサッカー部だったんですよね、

家族の前で話されてしまい、嘘がバレた。

こんなところでネタみたいに書いてるけど、バカみたいな嘘を時々ついていたせいで、大切なものをたくさん失いました。

実は最後サッカーの嘘は、その友人に見放され大学時代の大切な友人を失っただけでなく、家族からも信用を失い、かなり深刻な状況になりました。

それをきっかけに、嘘はつかずに全てをさらけ出すようにしています

2019-08-27

ヘディングしたい

まだ小学校だった頃、サッカーした時にヘディングするのが好きだった。

最初ヘディングって怖い。でも一回やってみると恐怖心も無くなる。

痛いんだけど、気持ちいい。

しかも足よりも思った方向にボールコントロールできる。

当時はヘディングが好きすぎて、バスケバレーボールでもヘディングをしていた。

家庭の事情怪我をすることが出来なくて、サッカー部に入ることはできなかったけど、たまの遊びでやるヘディングごっこが好きだった。

年齢を重ねるにつれてサッカーのことは忘れ去ってしまっていたが、最近卵を頭にぶつけられる機会があって、突然子供の頃の記憶フラッシュバックした。

あんなに好きだったヘディング

また誰かが蹴った強いボールを思いっきヘディングしてみたいなあ。

2019-06-19

俺は弱者男性だけどおっさん同類も大好きなんだが?

我輩は弱者男性であるとか含めて文体ちょっとキモいと思ったし主張にも同じ弱者男性として違和感あったが。

ちなみに俺は今24歳で高卒職業派遣アルバイター

俺もおっさんと同じで男女双方から虐めを受けた経験あるぞ。

小学生の時って掃除は班分けして班ごとに別々の場所を受け持って掃除してたんだけど、その掃除の班で俺以外全員女子になった時期があンだわ。

かなり地獄だったぞ。

掃除の際の塵取り係やゴミだし係は通常じゃんけんで負けた奴が担当したりそれぞれ順番に担当するんだけどさ、俺が班でただ1人の男だって理由で俺が全部やらされたわ。

それだけじゃなくて机の移動も雑巾乾拭きも全部俺な。

理由は俺がただ1人の男だから

まあそれだけならまだいいわ。

これに加えて罵倒があった。

「ウジウジしてんじゃねーよ」とか「もっと大きな声で喋れよ」っていう性格批判が多かったな。

それで終いには泣いちゃって、でも泣いたら泣いたで「男の癖に泣いてんじゃねーよ」って言われて更に罵倒された。

おかげで未だに女のこと苦手なんだよな。

別に全ての女がこういう女だとは思ってないし、この女共も今は成長してまともな感覚の女になってんのかもしれないけど、女全体のことを今でもほんのりとまんべんなく嫌ってるわ。

からの虐めは中学の時にサッカー部でやられた。

部内での実力が下から数えた方が早かったのもあったんだろうけど一部の同級生から執拗に弄られたわ。

「部の恥」とか言われて他の部の奴も一緒になって体育の時弄ってきたな。じゃあ俺より下手な奴はどうなんだ。

要するに無口で陰気だから嫌われてたんだよな。

倉庫に閉じ込められたりスポドリに砂入れられたりシューズ隠されたり色々あって結局1年足らずで辞めたわ。

まあそれでも女と違って男のことは全体として嫌ってるわけでもないから、おっさんの言うように弱者男性強者男性のことを女の様には扱ってないのかもしれんわ。

でも女に支えて貰いたいって感情も優しくしてもらいたいって感情も一切ないわ。プライベートではひたすら関わりたくないって感じだな。

でも性欲はあるからオナニーするしオナニーの時のズリネタは女だからそこで自己矛盾っていうかちょっと苦しいとこはあるわ。女に肉体的に依存しなきゃならない男って面倒くさい。

だけど俺はおっさんは好き。

歳上ってだけでこんなゴミみたいな世界を頑張って生きてきたんだなって尊敬できるし、同じ男だからこそ分かり合える苦しみってあるじゃん

そういうのにも耐えてきたんだなって思うからおっさんは好きだわ。ついでに言えば爺さんはもっと好きだ。

弱者男性同士のシェアハウスって良い考えだと思うわ。俺もシェアハウス、というかルームシェアリングしたいって思う気持ちはあるんだよな。特に外人と。

中国韓国東南アジア南米とかから出稼ぎにきてる男とルームシェアしたいという謎の願望。なんかお手軽海外旅行みたいで楽しめそうやん。認識ゲロ甘なんだろうけど。

おっさんの知り合いがシェアハウス拒否したのはおっさんに対する嫌悪感よりも「おっさんおっさんシェアハウスするとかホモ臭い」みたいな通念のせいじゃないの?そういう社会で生きてるからでしょ。

女は女しか住まないマンションかに普通に住んでるけど男は男しか住まないマンションに住まないのは安全に対する性別需要の違いもあるけどそういう通念も多少はあんじゃないの?

とにかく俺は俺みたいな弱者男性のことは普通に好きだわ。

別にわざわざ表明することでもないけどこのおっさん増田弱者男性マジョリティとして広まるのは嫌だから書いた。

少なくとももおっさんが俺の知り合いで俺にルームシェア持ちかけてきたら俺は受け入れるわ。

凄いワキガとかだったら断るかもしれないけど。

2019-05-30

anond:20190529223043

スポーツやったことなかった(中学時代放送部、高校帰宅)のに教員になったらサッカー部顧問になった、これが最大の転換

それから15年間休日サッカー漬けになった。ほとんどの素人よりサッカーに詳しくなった

2019-05-05

キャプテン翼っていうアニメが昔あって

主人公中学生なのにボールゴールネットを突き破ったり、激しいタックルで大ケガをするようなシーンがあったりで、サッカーって恐ろしい競技だな、俺には無理か、、って萎えたのを覚えてる。

から中学校部活サッカー部を選ばなかった。

2019-04-30

日本に溶け込んだ平成文化史

そろそろ令和ということで平成を振り返る投稿が増えていますね。というわけで僕も真似して振り返ってみた。

平成になって生まれサービス、その他で僕たちの暮らしはどう変化したのだろうか。

なおSNS動画サイト等のネット上のサービスパソコンスマホテレビゲームをはじめとするデバイスはあえて除外した。

カラオケ

92年頃からブームが始まり音楽聴くものから歌うものへと認識を変えた。学校帰りにカラオケ、飲みの2次会でカラオケ

デートカラオケ時間ができたら1人カラオケと完全に娯楽の一つとして浸透したのではないか

東京ディズニーリゾート

開園自体1983年平成史に入れていいものか迷ったが、ディズニーが磐石の地位を築き始めたのは平成に入ってからなので入れることにした。

ちょっと日常から抜け出したいとき真っ先にディズニーが思い浮かぶのは凄いことである

ここまで不特定多数を惹きつける非日常空間昭和には存在しなかったのではないだろうか。

2018年の来場者数はなんと32,558,000人。令和でもしばらく王座は揺るぎなさそうだ。

Suica

電子マネーはいまいち広まりきってないなと思っていたら交通系ICカードがあった。

券売機の前で目的地までの料金を調べている姿はもはや過去遺物だろう。

友人のJR職員談だが、「切符落としたんだけどどうすればいい?」という乗客に遭遇するのはもはや年に数件のようだ。

サッカー

1つのスポーツが国に浸透するまでには大変な期間を要する。そんな中、キャプテン翼人気を土壌とし、93年Jリーグ開幕、98年W杯フランス大会初出場、02年日韓W杯開催と

4年毎に一般層の興味を引き付けるイベントがあったとはいえ驚くほど急速に日本に広まったのではないだろうか。

なお中学では2013年に、高校では2016年サッカー部員の数が野球部員の数を上回るという現象が起きている。

飲酒運転罰則強化

飲酒運転罰則自体昭和からあったが、それが大幅に強化されたのは2002年のこと。2007、2009年にはさらに強化されている。

お酒を飲んで車を運転したら危ないという今となっては当たり前すぎることだが、昭和では酔ってフラフラの人たちが当然のように運転していた。

恐ろしいことである

ネットカフェ

漫画喫茶パソコンを導入するという形で2001年から普及し始めた。初めは純粋漫画ネットを楽しむ層や外出先でネット接続しなくてはいけない人たちに利用されていたが、

近年はネットカフェ難民といわれる日雇い労働者の住居として機能し、家を借りられない人たちでもとりあえず雨風をしのげる待機所としての機能果たしている。

家出少年少女も多くたむろしているらしい。

1000円カット

髪なんて適当に短くしてもらえればそれで十分、という人たちの救世主存在ファッションに興味が無い人がいるのだから髪型にも興味が無い人がいて当然なのだが、

なぜか90年代後半までこの手の店舗は広がりを見せなかった。


文化史なんて意気込んで思いつくままに書き始めたはいいがなんと7項目で終わってしまった。中途半端まりないが令和に突入する前にとりあえず投稿たかったので仕方ない。

いつか100項目くらいの完全版を作りたいと思う。

ネット情報機器が今後どんどん発展に向かうのは容易に想像がつくが、それとは違う方面で令和の生活にどんな変化が起こるのか楽しみだ。

2019-04-29

ギャグ漫画を描きたい

 努力継続するのには、才能が要ると思う。

 と、いうのは何年か人間をやってみてつくづく実感した事だ。

 小学生の頃は漠然と、「まあ、大人になればなりたいものになれているだろう」と考えていた。

 そんな私が、思い描いていた己の夢に対して、何かしらの努力を積み重ねたかというと、そりゃあ多少は頑張った事もあるが、現実はほぼゼロに近い。

 ギャグ漫画家になりたいと考えていた。

 でも、私は「ギャグ」がどういうものかなんて一度も研究した事が無い。落語お笑いも今一つ興味を持てないで大人になった。

 そもそも漫画の描き方を勉強した経験もないし、絵の練習をまともにやった事すら無い。

 子供の頃はよくアホ面で絵を描いていた。算数社会の授業が嫌いだったから、ノート教科書の隙間によく下手糞な落書きをして、先生に見つかっては呆れ顔で注意されていたっけな。

 中学校に入っても絵を描く意欲は持っていた。とても上手な先輩が居て、彼女の絵を見るのが好きだった。自分もこういう絵を描けるようになりたいと思った。

 美術部に入って、真面目に勉強しようとは考えていた。でも、身体の弱い私を心配した家族担任相談して決めた結果、強制的サッカー部に入部させられる事になった。怒られるのが嫌いだったから、部活動には真面目に励んだ。いくら頑張っても運動音痴なままだったけど、卒業式の帰りに、顧問先生に引き留められて、抱き締められながら「よく頑張ったな」と言われた時は、なんだか報われた気がして、泣きそうになった。

 いつの間にか絵を描かなくなった。自然に。多分、部活動に夢中で、余裕が無かったから。

 高校生になって、独創的で可愛くポップな絵を描く少女出会った。彼女は私のことが嫌いみたいで、近寄ると冷たい対応をされたけど、私は彼女の事が嫌いじゃなかった――というより、私は彼女の絵が好きだった。

 影響されて、久し振りに絵を描いた。でも、描いても描いても納得が行かなかった。絵を描こうとするたびに、絵を描くのがつまらなくなって行った。

 彼女みたいな絵を描きたい。それだけだったのに。

 私は絵を描くのをやめた。

 物語世界に浸るのはとても好きだ。だからアニメも見るし、漫画もよく読む。ゲームも頻繁にやる。

 私は眼があまり良くないし、集中力も人より低いと自認している。だから映画だけは、本当に琴線に触れたときしか見ない。

 閑話休題

 中学校で一度だけ、鬱病になって引き籠っていた時期がある。復学したときに、クラス担任が新任の若い先生になっていた。

 彼は私と仲良くしたかったみたいで、よく趣味や好きなものを聞かれていた。でも、特に思いつかなかった。その時期は本当に、何にも没頭できず、打ち込むことすらできず、死んだ魚の目でぼうっと生きていた。好奇心すら砂塵ほども存在しなかった。

 さて、新任の先生は本と映画がとても大好きな人で、私にもそういう自分趣味を勧めて来た。はじめて渡された本は、有川浩の「海の底」、「フリーター、家を買う」、「シアター!」の三冊。

 「気が向いたときに呼んで欲しい」――そう言われた私は、放課後の自室で、ベッドの上に横たわりながらぱらっと本をゆっくり捲りながら、「海の底」を読み進めて行った。

 とても、面白かった。ただの文字列が鮮明な映像に変わって行く感覚は、台詞ひとつひとつが声をとして再生されて行く感覚は、とても奇妙奇天烈だけど楽しくて、己の感性に訴えかけてくる何かが、確かに私の胸を惹き付けて堪らなかった。だから、私は次々と本を読み進めて行った。

 それから、私と先生の奇妙な関係卒業まで続いた。おすすめの本を貸して貰って、私も自分で買った本を先生に貸して、読み終わったあとにお互いの感想を交換する。

 自然と、私の読書量は増えて行った。教科書を読むのは嫌いだったけど、小説を読むのは難の苦も無く出来ていた。

 高校に入ってから幾何か落ち着いたけど、それでも本を買って読む習慣は、いつまでも続いて行った。

 本を読み耽る趣味が出来て、私も何かしらの物語を書きたいという欲が出て来た。

 見様見真似で文章を書いて、それをインターネットにいくつか上げた。

 はじめは、酷評アドバイスも素直に受け止められていた。だけど、自分文章自分なりの拘りが出来て行くたび、評価が怖くて誰にも見せられなくなって行った。

 ランキング上位に来ている小説を読んで、なんでこんなものが? と考えるたび、自分の才能や資質を疑うようになる。

 そして、何の努力もせず、単に良い評価だけを得たかった己を自覚して、恥じ入って、とても死にたくなった。

 もしかしたら、あの駄文は、とても拘ったシナリオ構築のうえで成り立つ、とても凄い小説なのかもしれない。

 あるいは、このサイトの客層やニーズを考え、需要のある設定とキャラクターを考えて作られた、評価されるべくして評価される小説なのかもしれない。

 私には、とてもそんな事はできない。私は自分の好きなものしか書けない。書きたくも無い文章を書くのは、苦痛しかないし、文章を書くという行為は多大な体力を消費する重労働だ。

 案ならいくつでも浮かぶ――だけど、推敲する度に、これで良いのかという疑念が湧いて来る。読み返す度、自分文章がつまらなく感じて行く。ジレンマの中で、私は筆を折った。

 今でもたまに、何かしらの物語を書きたくなる時がある。

 そのたびに、得るものが欲しくて小説を読み始める。義務的にはじめた読書は、とても苦痛に感じてつまらない。読みたくて買った本を棚にしまって、現実逃避をはじめてしまう。心の中に生まれたどろっとした何かが、気分を悪くする。

 一種の習慣と化していた創作行為が、私の心を蝕んでいる。

 ギャグ漫画家になりたいと、今でも考えている。

 絵が下手でもいいから、ギャグセンス大衆受けしなくてもいいから、何かしらの何かを遺したいと思っている。

 努力継続するのには、才能が要ると思う――そんなのはただの言い訳だ。そんなことは、分かってる。

 ただの怠惰人間言い訳だ。無産の人間が尤もらしくほざいたところで、現実は何も変わらない。

 でも、言い訳をしていないと、自己正当化をしないと苦しくて何もできない自分も居る。

 どうすればいいのだろうか。もう、何も分からない。

 取り敢えず、気が向いたら絵を描こう。そう思った。

2019-04-25

気づいたらアニメ日常を30回以上見ていた

新しいコンテンツを見るのは少々体力がいる。本を読むのもわりと集中力がいる。物語があるドラマ映画はずっと見てなければいけないから疲れてる時に見ると話しが飛んでわけわからなくなる。

から

日常をずっと見続けている。ゆっこもみおまいちゃん博士もののも囲碁サッカー部もなんというか何の他意もない。なんの目的もなく喋っている日常だけはどんな状態でも何回見ても見なくても見てられる。

2019-04-24

私のお気に入り

男の保育士

相談する女

就活女子にかまう先輩

野球サッカー部の女マネージャー

 

みんな私の お気に入り

 

生活でも仕事でも

うかれるとき

不純な奴ら思い出せば

いかマックス

2019-04-16

嘘をつくのは良くないことだと思っていた

どんな嘘でも、あまり良くないと思っていた。

高校時代、人を心配させるような嘘を年中つき、

人の夢を「ここで出来るよ」と期待させるような嘘をついたり、

人気を集めたいがため虚言癖になっている人もいた。

大人になったら、相手の嘘を楽しめるようになってきた。

高校生のころの虚言癖の言い分を思い出すと笑えてくる。

ショタが大好きな彼女の言い分がこうだ。

公園にお弁当を持って遊びに行ったら、そこにいた半ズボンショタタランチュラのようなクモの死骸を洋服の首の後に入れられた。

自分で握ったおにぎりタランチュラのようなクモが入っていた。

ショタチョコレートくれたから食べたらゴキブリだった!

あそこの○×彼氏なの(はぁと

先週の土曜も一緒に勉強してね、良い雰囲気になってね……!

※ 土曜日部活だった私は、彼がサッカー部として活動しているのを目撃してた

自分洋服デザインをしたの。

ケーキ屋なんだけど、店長メチャクチャ気に入って、皆で着てるんだ!

※ 家庭科レベル1なのは知ってるぞ



もう30だし、大人になったかなぁ。

2019-03-25

オタク排除してきた側として

anond:20190324040152

俺は元増田にとって「虐めてた側」の男オタク

当時の女叩きの激しさは虐めと言って差し支えないレベルだったと思うし、それ自体正当化するつもりはないんだけど、元増田読んでなんか噛み合わねーなと思う部分があったんでちょっとだけ言わせてくれ

多分増田

「男オタクは女を見下してるから虐めてた」と思ってるかもしれないけど

実際は逆で「女という強力過ぎる存在から守るために虐めてた」っ感覚が正しい

より正確に言うと、女そのものではなく、ネットに「モテ」という価値観が産まれることを防ぎたかった

当時のインターネットは例えるなら男子校のようで、「モテ」の価値観から解放された楽園だったんだよ

そいつが何ができるのかだけで評価され、「キモい」とかいう(少なくとも異性経験のない男オタクにとっては)自分努力ではどうしようもなく、他者の気分次第で決まってしま意味不明価値観排除されたりしない楽園

でもそんな楽園を作るにはインターネットは広すぎた

どうしたって女(「モテ」の価値観)が入ってくるのは防げない

こうなったら、チンコ丸出しで奇声を発して追い払うしかない!

こうして男性向けエロに異常に寛容なネット社会が出来上がったんじゃないかと思う

文化系部活って共学より男子校の方が圧倒的に盛んなんだけど

当時の俺たちにとってネットに女が入ってくることは、文化部が盛んな男子校サッカー部バスケ部けがデカイ顔してる共学になってしまうような恐怖があったんだよ

からといって女というだけで問答無用人格否定していい理由にはならないし、最初に書いたとおりその行為正当化するつもりはないよ

ただ、最近ネット上での女性排斥論調が弱まったのって、個人的にはリアルで「モテにこだわらない人間」が許容されてきたのと、ネット上で「モテる」ことができるようになったからじゃないかなと思ってる

2019-03-08

anond:20190308122333

まじ?

サッカー部って11しかいないうえに11人全員集まって馬鹿にしてくるの?

なんか世紀末だなあ

2019-01-30

ブスは性格悪いって言うけど

自分経験上、逆パターンのほうが多いんだけど、気のせい?

褒められるのが当たり前、

優遇されて当たり前、

与えられて当たり前、

の人が美人には多くて、ナチュラル傲慢な人が多い印象なんだけど。

学生の頃、カーストの上の方にいたキラキラした美人な子らは、もれなく下のカーストの子プークスクスしてる子ばっかだったし。

サッカー部だった時女子マネが2人いてみんな美人のほうをちやほやして美人のほうは満更でもなさそうなんだけど、実際細かく働いてくれてるのは不美人のほうだった。

働き出してからは、美人と評判の女上司可愛い新人が同じチームになった。同性の不美人いじられ役にするのが絶妙うまいわけ。自分はそういうの近くで見てるとすげえ苛苛するけど同期は素直に可愛いほうを持ち上げるし、なんだかなと思う。

美人な時点である程度は手に入れてる(手に入れられる)のに、それ以上欲しがらなくていいのに彼女はとことんgreedyだよ。そんな美人を見るたびに、イケメンから『ブス』と言われて傷つきますようにと願ってしまう。俺は心が狭い男だから

2019-01-05

本当の自分さらけ出すのが怖い

身バレ防ぐために、フェイク混ぜてます

学生時代を振り返ると、割とイケてる方だったと思う。

顔がイケメンなのかっていうと、よくわからないけど、少なくともブサイクではないと思う。

子供の頃から、足が速かった。

特に距離ではすごくて、小学校マラソン大会では毎年一桁台だった。

親も陸上関係でメシ食ってる両親で、俺の才能っていうよりかは、親の影響が大きかった気がする。

親父のジョギングに、保育園の頃からついていって走っていて、いつの間にか俺も走るのが好きになってた。

小学五年生ときマラソン大会で一位をとった。

俺は特に感動しなかったけど、周りの狂喜乱舞を覚えている。

俺にしてみれば、一位という結果は本当にたまたまだった。

周りが喜んでいるのを見て、俺も「自分がすごいことをしたんだ」と嬉しくなった。

そういえばその後、学校女子告白されたことがあった。

一ヶ月付き合って、なんかよくわからないまま関係消滅した。

まあそれは、そんなもんだ。

で、そのまま中学では陸上部入って、県大会まではいけた。

大会ではじめて挫折を味わった。

周りが全然俺よりはやい。

俺が全力で走ってるのに、周りがどんどん俺を離していく感覚を、生まれてはじめて味わった。

甲斐ない成績だった。

それでも家族部活の皆は優しかった。

でもその頃から、たぶん俺の心の中で、走ることに対して、迷いが生まれたんだと思う。

この挫折きっかけに、もっと速くなる奴が、きっとプロになったり、駅伝ランナーになったりするんだろう。

でも俺はたぶん違う。

14歳や15歳のガキでも、自分に対してそのぐらいのことはわかる。

俺は単に周りに褒められたくて、長い距離を走ってただけなんだ。

走ることそのものに、深いところで情熱を持てていなかった。

特に大会に出て、ホンモノたちに会ってしまうと、俺がいかダサい存在かはよくわかった。

親が何とか連盟の何とかさんだとか、そんなの関係なくて。

その親と5歳から近所のコースジョギングしてました、とか、関係なくて。

ホンモノは違うんだよ。

なんていうか、オーラでわかる。

正直スタートライン立った時点で、もうホンモノとニセモノははっきりわかった。

ニセモノだったのは俺だけじゃない。

俺の感覚だと、ホンモノなのは1割ぐらいの連中。

ほとんどはニセモノ。

俺はそっち側だった。

でも、もう、マジで感覚的に全然違うのがわかったから、どうしようもなかった。

その後、走り始めたら、自分感覚が正しいのがわかった。

努力? 才能? なんなの? 何が違うんだ?

マジでわかんないけど、全然違う。

仮に俺が途中でぶっ倒れてもいいから、全力ダッシュしたとしたら、

何人かは抜かせただろうけど、それでも抜かせない選手っていうのが、結構な数いた。

あいう奴はなんなの?

意味がわかんなかった。

いや、今もわかんないけど。

箱根駅伝とか絶対見ねーもん。怖くて。

実際その場で一緒に走んないとわかんねーよ。そういう奴らと走る感覚って。

まあその話はいいや。

で、俺は陸上の成績でスポーツ推薦をとれて、高校行くわけ。

地元ではかなりいい高校

普通に受験したら、俺の頭では間違っても入れないような私立高校

そこの陸上部入ったら、まあ、周りは全然したことなくて、すぐエースになった。

俺みたいに陸上スポーツ推薦だった奴いたけど、長距離は3人しかいなくて、俺以外の2人は全然ショボかった。

てか、このレベルで推薦とれるのか、って失望するレベルだった。

エース扱いで、相当チヤホヤされてたと思うけど、心の中ではどんどん冷めていった。

俺は県大で、自分のショボさを思い知って、自分限界を感じたのに、周りの奴らは俺を神かなにかみたいに崇めてるわけ。

なにこれ?

は?

お前らはバカ

偏差値xxあって何を見てるの?

とか思ってた。

当時俺みたいな中途半端な奴って学校結構いて、自然とそういう連中とつるむようになった。

特待生学校入ってきたけど、周りのレベル低すぎてうんざりしてる優等生とか、

すげーサッカー上手かったのに部活顧問とか先輩とかと合わなくて帰宅部になった奴とか、そんな連中。

高二になってからは、そいつらといるのがとにかく楽しくて、練習サボって遊ぶくらいになった。

マラソンってくだらなくね?」

とか俺に向かって言っちゃうような奴らだった。

はじめて聞いたとき、本当に新鮮だった。

だって家族友達で、陸上否定する人間なんて、それまでの人生で会ったことがなかった。

陸上=すばらしいは当然の感覚で、それで15年間生きてきた。

いろいろ悩みながら陸上部を続けてきた俺だったが、遂に決意する。

「ごめん。陸上部辞めさせて」

家に帰って、俺は親に言った。

親が買ってくれた、1万円以上するランニングシューズエナメルバッグに入れたまま。

スポーツ推薦で部活辞めると色々大変で、揉めに揉めた。

けど俺の決意は固かった。

たくさん説教された。

俺の陸上の才能を認めてくれて、もったいないって言ってくれる人もいた。

それが一番心が痛かった。

でも俺はもう決めていた。

本当の自分で生きたい、って思っていた。

陸上は、俺が本当にやりたいことじゃないんだよ、親父、お母さん、先生

そんなことを何回も言った。

陸上の成績でスポーツ推薦を決めた奴が、陸上辞めるなんて前代未聞だろうな、と思っていたが、それはそうじゃなかった。

スポーツ推薦で入っても、挫折する奴は結構いる。

心が折れなくても、ケガでそのスポーツ続けられなくなる奴も多い。

から、俺の陸上辞めるという選択で、退学になるようなことはなかった。

俺はそこから、本当にやりたかたことにうちこむようになった。

俺が本当にやりたかたこと。

それは音楽だった。

あるとき、いつもつるんでる友達から、「バンドやりたくね?」と言われた。

最初冗談みたいだったが、いつの間にか皆楽器を買っていて、本気でやることになった。

俺はボーカル

休みの日に、皆で県で一番賑わってる駅のスタジオに行って、死ぬほど練習した。

スタジオの人がいい人で、ホントは2時間料金なんだけど、何時間でも練習させてくれた。

これが本気で楽しかった。

陸上とは全然違った。

あ、これだ、って思えた。

陸上がつまんない、っていうことはない。

だって、それなりに走るのは楽しかった。

でも、心のそこから楽しんでるか? と言われたとき、即答はできなかった。

親の影響でやってるんじゃないのか? 自分が脚速くなかったら続けてたのか?

長距離走について、そんな質問をされたら、俺は答えれないと思う。

音楽は違う。

親は音楽なんて聞かなかった。

俺は特に歌がすごく上手いわけじゃない。

それでもめちゃくちゃ楽しい

時間でもやっていたい。

どんどん上手くなりたい。

俺の他にもっと上手い歌手がいても、そいつよりも上手くなりたい。

どうして県大会とき、こんな感覚になれなかったのかは、今でもわかないけれど。

たぶん、陸上をやってる俺は、本当の自分じゃなかったんだと思う。

親が望む、自慢の子供を演じていた。

親に褒められるのはたしかに嬉しかった。

けど、俺が本当に嬉しいことじゃなかった。

俺は親の喜ぶ顔で喜んでただけだ。

音楽は、俺に直接喜びをくれた。

最高の友達が、楽器演奏する。

全員初心者からミスも多いし、リズムだってひどいもんだ。

けど、その三人が生み出すグルーヴの上に、俺の歌を乗せる。

それで曲が完成する。

時間にしてみれば、ほんの数分。

それまで長距離を走破してきた俺にしてみれば、ほんの一瞬だ。

その一瞬に、陸上の何倍もの喜びがあった。

で、忘れもしない文化祭

俺の高校文化祭は、応募制の野外ライブというのが何年か前からあった。

軽音楽部とかフォークソング部とかのバンド演奏するステージだったが、

他にも教師が組んだバンドとか、有志で組んだバンドとかが応募して、出演していた。

俺たちもそこに出ることにした。

はじめてのステージだった。

その頃になると、もう俺たちの演奏レベルもかなりのものだった。

実際その後、ドラム叩いてた奴は音楽関係に進んで、今は有名ミュージシャンのバッグで叩いて飯を食ってる。

結局そいつが一番すごかったのかも。

野外ライブで、俺らの番が来た。

バンド名はさすがに恥ずかしいので秘密だが、司会が俺らのバンド名を呼んだときちょっと肌が粟立ったのを覚えてる。

ここから将来ミュージックステーション出たり、紅白出たりしたらめちゃくちゃカッコいいな、と一瞬思った。

観客は結構集まってた。

ボーカルを俺がやっていたので、陸上とき同級生・後輩が結構いた。

ギターサッカー部の人気者だったので、それ目当ての女子結構な数いるのが見えた。

けど俺は全然ビビってなかった。

自信があった。

後輩も、もしお前らが俺を尊敬してるとしたら、単に足が速いか尊敬してるだけだろ、

でも、これから音楽を通じて、尊敬してくれ、と本気で思っていた。

それまで偽りの自分評価を得ていた人間が、本当の自分で戦うのは、本当に気持ちいいものだった。

MCで何を喋ったかもよく覚えてるが、これはマジでイタいことを言ったので、敢えて記載はしない。

四人で目を合わせて、軽く頷いて、ギターイントロを弾いた。

演奏してすぐに、違和感に気づいた。

俺が想像していた観客の表情ではない。

なんか笑いをこらえているというか、笑ってる奴もいる。

俺が想像していたようなステージじゃなかった。

当時はビジュアル系全盛期で、俺たちが選んだ曲は、L'Arc~en~Cielの『花葬』だった。

俺はHydeに全力で心酔していた。

ていうかHydeよりカッコいい人間は今でもこの世にいないと思っている。

けど俺はHydeじゃなかった。

俺の裏声は、皆の失笑を誘った。

俺はそれまで自分のことを正直カッコいい部類だと思っていたが、Hydeではなかった。

結局演奏微妙な感じで終わった。

バンド活動も、それをきっかけに終わってしまった。

それから俺は、高校卒業して、親のコネがあった地銀就職した。

数年前に結婚して、あと何ヶ月かで子供生まれる。

今年はじめて箱根駅伝を見た。

もうずっと長距離は走っていないから、落ち着いて見れた。

駅伝CMで、バンプの『ロストマン』が使われていた。

それで内心「うわああああああああああ」となったが、嫁に気取られることはなかった。

俺は生まれてくる子供に、何を伝えたらいいだろう?

俺が人生で学んだ人生訓は、「本当の自分とか言ってねーで、人から褒められることをひたすらやっとけ」だった。

でも、そんなこと子供に言う訳はない。

願わくばの子供が、ホンモノの才能を持っているか、ニセモノの自分に何の疑問も抱かないウスノロのどちらかでありますように。

こんな中途半端ダサい存在は、俺だけで十分だ。

2019-01-04

anond:20190102063518

面白そうなので私も書いてみようか。東日本公立学校卒→東大理Ⅰのケース。

・家庭環境

電車は通っている、程度の田舎町。父は高校教諭、母は学校事務員、同居する伯母は小学校教師。そういう家庭だから学業に対する意識は高かった。

田舎町なので私立中学校などというものはなく、受験高校から

小学校入学

小学校入学からそれなりに頭は良かった記憶がある。特に算数が得意で、数の理解も早かった。

両親が共働きなので、朝保育所に預けられて、放課後は母の知人が預かってくれていた。この養母のような方には今でも感謝している。

小学校

選択肢も何もなく近所の市立小学校入学国語算数理科社会はまあオール5。伯母の影響で音楽の成績も良好。体育は3。典型的頭でっかちで、いじめられっ子になるという定番コース大人になってから「ごく軽度のADHDだったのでは?」と言われたことがある。

うちの小学校には、4年生になったら全員部活に入ること、という不文律があった。男子ソフトボールサッカー女子ミニバスケットボール合唱しか選択肢がない。4・5年生の間はなんとか回避していたが、6年生では避けきれずサッカー部に入部。運動が得意じゃなくコミュ障な上に「6年生なのに新入部員」で、部のしきたりも知らずあからさまに浮いていた。今から思えば入るもんじゃなかった、のだが、そういう「自分には向かない世界」を早く知ることができたとも言える。

自宅近くにそろばん塾があったので、小1の時に親の勧めで入塾。かなりさくさくと習熟して、市内の競技会(というものが当時あった)では上位の常連だった。但し、それなりに上達してくると飽きる悪癖があり、塾も徐々にさぼりがちに。小6で辞めた。お山の大将になるのはそれなりに簡単でも、世の中にはもっと上の人がいる、ということを子供心に知らされる。

運動が苦手なことを懸念した父により、同僚が運営に携わっている剣道同好会へ入門させられる。中3までの間、道場には週2回真面目に通ったが、練習は不真面目で大して上達もせず。

中学校

選択肢(ry)市立中学校へ。成績は相変わらず。部活動のバリエーションは増えたが結局のところほぼ全部運動部で、剣道部に入って万年補欠。帰りに学校近くの駄菓子屋ゲームやって帰ってくる生活

英語塾に行った他には学習塾の類は行かず、自宅での勉強のみ。この頃までは「学校で課された科目」だけ順調にこなしていたと思う。

高校はいわゆる進学校しか考えてなかった。地方の常で、歴史ある県立高校偏差値的な意味トップ私立すべり止め扱い。模試では毎回トップ争い。

受験すべり止め無しで本番一発。直前に風邪を引いて親は心配していたが、合格圏内には入った。

高校

進学校なので、近隣中学校の成績上位クラスが集まってくるため、何でもありな小中学校とはかなり雰囲気が変わる。校風リベラルで、校長先生もその校風に沿ったユニークな方だった。

部活動は管弦楽部に入部。やっと運動部の呪縛から解き放たれる。管楽器中学校ブラスバンド経験者が占めているため、素人必然的弦楽器担当ヴァイオリンを弾くことになった。相変わらず不真面目に練習して、東大でもオケに4年間在籍したがその後はぱったり。


2年生で文系理系コース分け。私は理系クラスへ。成績は高校でも順調だったが、伸び悩みも出始める。そんな頃に、部活の1学年上の先輩からの勧めでZ会に入会。当時の地方在住高校生で、難関大志望の人は大半が入会していたと思う。教科書レベルを超えた難問・良問で鍛えられた。おかげで授業中は講義スルー、ひたすら問題集を解くことに集中。部活後に家へ帰って夕飯を食べたら深夜までZ会に取り組む生活が続いた。

科目としては数学化学は得意で、トータルでは学年トップクラスだったが、物理が苦手で平均点+α程度。これはまずい、と対策…した筈なんだが具体的な中身を思い出せない。結局教科書に沿って、一番最初力学から復習したんだっけかな? 3年生になる頃までには苦手意識も解消。

中学生の頃からパソコンで遊んでいたので、大学最初東工大第5類を考えていたが、周囲からの「行けるなら上行っとけ」というプッシュで東大理Ⅰを目指すことにした。Z会にも東大コースがあるのでそちらを開始。模試は毎回A判定なので、これならいけるかなと。

センター試験自己採点は720点ぐらいで、足切りクリアできただろうと。当時の東大入試は、1次と2次の成績が1:4の比で加算されるので、ぶっちゃけ1次は足切りさえクリアできればオーケーレベル。(理Ⅲは知らん)

2次試験は、前期は東大理Ⅰ、後期は東大理Ⅰの出題形式ちょっと特殊なので、トラディショナル形式京大工学部受験することにした。大学受験私立すべり止め無しの舐めプ

初日に、得意な筈の数学で大問6問中1.5問しか解けず「これはやべぇ」と焦る。理Ⅰ合格ラインは2.5〜3問。残りの化学物理英語で取り返すしかないので、宿に戻って総復習。幸い2日目は好調普段よりよく出来た感触。かつて苦手だった物理もきっちり得点源にした。

結果、現役で一発合格

・その後

地方お山の大将は、東大生の一部であるスーパーマンを見て我が身の程を知るわけで。いろいろあってどうにか卒業就職してエンジニアやってます

受験生の人は、なんだかんだ言ってもやはり王道は反復練習なので頑張って。大学に入るとがらっと世界が広がります

2019-01-03

anond:20190102063518

北大の人がいたので懐かしくなって自分も書いてみたが、どうやら消してしまったらしい。勿体ない。

だがまぁ見かけたので僕も自分語りなどしてみようと思う。もう20年は前の話なので話半分程度に聞いて欲しい。あ、とくに受験に役立つ話とかは無いです。自分語りのみです。

中学時代

 関東のどこにでもある公立中学に通っていた。

 成績は良い方だったが先生にウケがいい方だったかというと別にそういうわけでもない。虐められていたわけでもないが、自分にはよく分からない理由からかわれることがあった。

 当時は少し不思議がる程度だったのだが、今にして思えばクラスの中でも割と、いやかなり浮いていたのだとは思う。

 成績はトップクラス運動もできた(サッカー部で足が速かった)から大事に至らなかっただけで、先生にも同級生にも興味が無く、他人不快にさせても気付かず、いつもぼんやりとしていて一人遊びが好きな子供だったらしい。昔、母親に「あんたは自分が虐められていても気付かなそう」と言われたことを今でも覚えているが、つまりはそういう子供だったようだ。今でも他人の心が分からないのは変わっておらず、割と苦労することが多い。

 暢気な性格であり、行く高校も学区内で近くて偏差値が高いところ(親が文句を言わないところ)であればいい、と思っていた。滑り止めも受ける気がなかったので調べもしなかった。今なら分かるが、そういうとこやぞ。

 その上適当でも受かるのが分かっていたので真面目に受験勉強もしていなかったところ、みかねた両親からとにかくお前はもっと偏差値の高いところを一校受けろ、と言われ学芸大附属高校を受けることになった。

 自主学習では限界があるということで近くの塾にも行ったが、バイト大学生先生過去問を見せても的確な解説が帰ってくるでもなく困った様子だった。そこで使っていた教材とのレベル差も大概だったしまぁ仕方ない。というかそこはあくま学校の授業について行けない生徒の補習的な個人塾だったようで、よく考えれば筋違いである。高難易度受験校に受かろうとするならそれ相応のところに行く必要があったはずだ。まぁ当時は僕も両親もそんなことはよく知らなかったし、塾ならどこでもいいだろう、という程度の発想しか無かった。

高校時代

 学芸大附属高校には当然かすりもせず、第一希望公立高校入学する。

 世の中には自分と似たレベルあるいはそれ以上で勉強が出来る奴がいるんだなぁ、というのをようやく理解するが、この頃でも生来ぼんやりした性質は変わらずにのほほんと学校生活を過ごしていたらしい。変人の多い学校だったのであまり浮いていなかったようだがたぶん中学の時と余り変わっていなかったはずだ。

 今でも覚えているのだが、廊下ですれ違った先生挨拶をしながら「この人どこかで見た顔だな……」と思っていたが、よく考えたら一年世界史の授業をしてくれた先生だった、という事があった。他人の顔や名前を覚えるのが苦手だと思っていたが、そもそも他人に興味が無いのだ、という事に気付かせてくれる出来事であった。今でも仕事で会う人の顔と名前が一致せずに苦労しているし、これはどうにもならないのだろう。

 大学受験という物に本腰を入れ始めたのは三年からだった。

 といっても例によって「まぁどこでもいいかな……」という感じだったのだが、両親から「国公立」「一人暮らし」「浪人は一回まで」という条件を出され、紆余曲折合って北大を志望することになった。

学校に進路相談をするでもなく、成績とのギャップに悩むでもなく、軽く決めたので相変わらずアレな性格だったらしい。

 友人に東大を受ける奴がいて、そいつ天才だったので自分の分というのはよく分かっていた。数IIIの定期テスト理系コースの学年平均点が30点くらいだった(僕もそんなものだった)のに、そいつだけ満点近くを取っていたし、暇つぶし数学の高難易度問題集をやるような奴だった。世界が違うなぁ、というのが正直なところだったから妬むこともなかった。

 受ける模試はいいとこD判定(一度だけCが出た)、予備校には行ったが授業が身になった気はせず、もっぱら図書室や自習室でひたすら自習する日々であった。

 どこに自信があったのかは知らないが、センター何となく取れると思っていた。実際目標ラインの点数を取れた。

 過去問を解いていても2次試験がイケる自信は全くなかったが、恐ろしいくらい焦ることがなかった。他人事のように淡々勉強をし、まぁなんとかなるでしょ、と楽天的な構えを取っていた。……もっとも、この性質のツケは後で受け取ることになるのだが……

 試験から帰ってきてから溜まっていたエロゲー(年齢がアレだがもう時効だと思うので勘弁していただきたい)をプレイして春休みを過ごし、ネット合格通知を見ることになった。合格祝いに買って貰ったノートPC月姫プレイしたことを良く覚えている。

 勉強自体特別なことは何もしなかった。テキストを読んでもよく分からなかったのでひたすら過去問を解いたことくらいだろうがそれだって目新しいことではないはずだ。

 まぁ、北大程度の人間から画期的な物を期待されても困る。そういうのは東大京大に行った人達に任せておきたい。

【その後】

 入ってからものほほんと過ごしていたところ、4年の時に8割受かるはずの院試に余裕で落ちて途方に暮れるという事になった。人生適当に過ごしていたことのツケをここで受けることになった……が、結果的には塞翁が馬という奴で何が幸で何が不幸かは分からない。

 冬の再試験を受けるかそれとも今から就職活動するか、と教授に言われたが、どうやら自分にはアカデミックな才能は無さそうだ、というのに薄々気付いていたので就職活動をすることにした。人間にも物事にも興味が薄く執着の無い人間にとって研究の道はあきらかに向いていないのでこれは正解だったと思う。

 といっても時期は既に秋、適当一社だけ受けてダメなら就職浪人でもするか、と思っていたところを拾って貰い、そのまま就職して今に至る。

 適当に選んだ会社だったが気付けば海外を飛び回ることになり営業のような技術のようなよく分からない仕事をしている。しんどいしんどいしさっさと仕事辞めたいとは毎日思っているが、給料がそこそこいいので未だに辞められていない。

 ソーシャルゲーム課金し、声優を追いかけ、両親に「あん結婚は」と追い立てられる普通ヲタク人生を送っている。誰か結婚して下さい(

2018-12-27

あるオタク(P)の 後悔 懺悔

これを読む前に

この文章は、18歳のにわか若造の後悔と懺悔を心の整理の為にまとめたものです。

この文章はもしかしたら、貴方の好きなものを傷つけるかもしれません。

少しでももやっとした方は、見るのをやめるのをおすすめします。







2011年、当時11歳だった僕は、あるアニメにハマりました。

兄貴と見た「THE IDOLM@STER」、ぼくのオタク人生はここからまりました。

ですが濃厚なストーリーや可愛らしいキャラ、素敵な楽曲に惹かれすっかり虜に。

はじめのウチは無理やり見させられたものの、気づけば自分から再生ボタンを押すようになりました。

そこからはもう早かった。うちはゲーマー一家(まあ大したものではありませんが…)で、スーファミや64からWiiなど基本的ゲーム機は家にありました。

もちろんXbox例外ではなく、更に元々Pだった兄のお陰でCD音源ゲームソフトまで家にありました。

僕はそれらを毎日ーーー流石に恥ずかしいので友達には隠れてーーーー楽しんでいました。そのうち自然と色々なアニメゲームにも触れていき僕はオタクになりました。語れる友達もいないしライブイベントなんて行けっこない。それでもぼくはアイマスを心から楽しんでいました。いつかライブに行ってみたいなあ、なんておもいながら。

(CD等を恥ずかしいのでわざわざ遠くのTSUTAYAまで借りに行った事はいい思い出です。)




ここから先は僕の自分勝手な考えで自滅していった馬鹿オタク懺悔です。バカにしてください。鼻で笑って下さい。



2013年、当時は確か進撃の巨人ブームでしたかね。小学校卒業の少し前、「THE IDOLM@STERミリオンライブ」のサービスが開始されました。

当初ぼくは「またアイマス派生ゲームか」とだけ思ってスルーしていました。

それより前からデレマス」がありましたからね。

それに「seasonシリーズCDも出てましたし…………………

なんといっても、3年ぶり!!アニメ劇場版の予告が!!!

僕をオタクにしたまさに原因である作品の新作が出る…最高じゃあないですか

またアニメで動く皆に、赤羽根Pに会える。僕はそれ以外どうでもよかった。

ゲーマー気質だった僕にはソシャゲの楽しさが全く分からず、ソシャゲはどちらかと言うと嫌いでした。アイドルの数だけやたら多いポチポチキャラの掘り下げや愛なんてない。だからこのゲーム関係ないだろう。好きにしてくれーーー

しかし、僕が大嫌いだったこソシャゲは、僕の大好きな765プロダクションを題材にしたゲームでした。


中学に入ってもアイマス好きは見当たらないし、小学生の頃と変わらず隠れオタク

サッカー部に入り、それなりに楽しく過ごしていました。

ミリマスに対する考えは複雑でしたが、ジャンルが別れているので気にしていませんでした。

(ミリマスの1st「Thank You」は借りてました。)

違和感を感じたのは夏ごろでした。ぱったりと止まったCD。それと反比例してどんどん出る「デレマス」「ミリマス」のCD……

アイマス8周年ライブにもデレミリが出ることが決定し、さまざまな展開もされてどんどん伸びていくデレミリ……

人気に嫉妬していたわけではない(とは思う)ですが、不安でした。

僕の好きな765は、11人のーーーあるいは13ーーー14人のあのぼろっちい765だ。

このまま消えるのだけはやめてくれ。奪わないでくれ… 今となっては身勝手勘違いオタクですが、当時は切実にそう思っていました。

そんな中、765のベストアルバムが出ました。よかった、良かった

765はこれからも続くーーーぼくはこのコンテンツをまだ楽しめるんだーーー

その可愛らしいパッケージには、「765AS」の文字が入っていました。



待ちに待った映画が公開されました。

仲間がいなかった僕は、生まれて一人で映画館にいき、初めて一人だけで映画を見ました。怖いとか恥ずかしいとかどうでもよかった。アイマスの新作映画 楽しみで楽しみで楽しみで楽しみで、ジュースを持つ手が震えていました。

やがて映画が始まった。ハリウッドに行くんだって、凄いなあ… 赤羽根Pも相変わらずいい男で皆も変わらないな…僕の担当いおりんとおひめちんの活躍が楽しみだ…

映画の主役はもちろんはるかっか。久々に見た彼女はとても輝いていました。

いおりん彼女を支える素晴らしい役柄でした。






この映画のもう一人の主役は

矢吹可奈ちゃん



アイドルマスターミリオンライブキャラの一人でした。

僕が大好きな11人はそこにいました。

まりにも少ない出番で。

他にも何人か「ミリマス」からキャラが登場しました。

この娘達は誰なんだろう

この映画は誰の物語なんだろう

どうして大好きな11人全員が主役じゃないんだろう。

僕は何を見にきたんだろう

あの娘達を写してよ

あの娘達を見にきたんだぼくは


この映画アニマスの新作じゃない

これから大ヒットする いやさせる

ミリマスの宣伝に使われたんだ











自分勝手反吐が出ますね。ごめんなさい

でも僕は当時本気でそう思いました。

気づけば彼女達は765プロではなく、765AS、旧765なんて呼ばれていました。

765って、彼女達だろ

765は彼女達のことだろう

なんだよ765ASって 誰なんだよ


そうして自分勝手失望していわゆる原理となった僕は アイマスから離れました。

いや、結構努力はしてみました。彼女達の物語があり、素晴らしいストーリーなのも理解してましたし、デレマスアニメちゃんと見ましたよ。

けれども僕はどうしてもダメでした。

ダメだったんです

どうしても愛せない

どうしてもどす黒い感情が沸く

このコンテンツは僕の思い出を餌にして生まれた全くの別物だと

そうして自爆した僕は 大好きな

THE IDOLM@STERを4年もの

離れることになりました。

ちょうど流行っていたラブライブにはまったりして、心を癒やしていました。

(いや、ラブライブも今でも大好きですよ!!代わりじゃありません。)

アイマスに触れることはもうないと思いました。いつの間にか埃を被ったXboxは、回線不良で二度と動くことはありませんでした。(このころ何故か64も壊れました…)

2017年

高校2年生の夏ごろ、高校デレステブームが起きました。(珍しいですよね)

流行り物にはすぐに乗る僕でしたが、あまり始める気にはならずーーー

結局始めたのは、まあずいぶんと遅いーーー2018年1月のことでした。

初めて出たRを適当に使って、適当に周囲に合わせてプレイしてました。

石を集めるため、コミュを読んでみました。 初めて読んだのは、神谷奈緒ちゃん。今でもはっきり覚えています

そこで僕は大きな勘違いをしていたことに気付きました。

彼女達はとても輝いていました。彼女達は一人一人にストーリーがあり、それを応援するファンがいる。プロデューサーがいる。仲間がいる。

アイドルマスター でした。

そこからはもう早かったですね。デレマスにハマり、ミリシタも(スマホの機種の関係で出来ていませんが)楽しんでいます

今となっては、僕がアイマスを捨てたくだらない四年間が、惜しくて惜しくて惜しくて惜しくて惜しくて惜しくて惜しくて惜しくて…

まらないです。


ここまでこのクソみたいな文を読んでくださった貴方

僕のように後悔しないで下さい。


好きな物を捨てないであげてください。嫌いにならないで下さい。

例え方針が変わっても、新キャラごり押しが始まっても、「解釈違い」が起こっても………

少し落ち着いて、まずは適切なつきあい方を考えてみてください。

それでも、どうしてもコンテンツを捨てたくなったその時は

その「好き」の気持ちをいつでも取り出せて、また使えるように大切にしまって下さい。 僕のように投げ捨てないで、腐らせないで下さい。


以上、18歳のくそ生意気馬鹿男の独白でした。 駄文失礼しました。

2018-12-13

anond:20181213141312

バレー部に入って毎日部活生活だった。部活に打ち込みたかったので高校時代彼氏は作らないって決めていたんだよね。

とはいえ青春の真っ盛りでサッカー部に憧れの先輩がいたので、練習をこっそり見に行ってたりした。その先輩とは卒業してから縁はないけどそれはそれで充実してたなって思ってる。

2018-12-02

部活対抗リレー陸上部は出場しない話題

だって“本職”なのに他の運動部に負けちゃったりしたら恥ずかしいし。

かといって1位だったとしても“勝てて当たり前”としか言われないし。

から体育祭部活対抗リレーの時は陸上部員は準備係とか審判員とか記録係をやってたんだ。

そもそも部活対抗リレーなんてもの体育祭におけるある種の余興みたいなものだったからね。

運動部は基本、自分らの部活大会ユニフォームを纏って出場する。

剣道部剣道着・袴・防具一式身につけて裸足で全力疾走していた(バトン竹刀

柔道部柔道着で、確か帯をタスキリレーしてたんじゃないかな。

球技部活は“球”をバトンリレーしてたように記憶しているけど、受け渡し方にそれぞれ特色があった、筈。

バレー部はテークオーバーゾーンバレーボールトスしてたし、ラグビー部は後ろにパスを出してたと思う。

サッカー部ドリブルしながら走行する決まりの年もあったけどあまりに不利なので次の年から普通にボールを抱えながら走ってた。

文化部はどうしてただろうか。吹奏楽部トロンボーン持って制服姿でトラックを駆けてった記憶があるのでやってた感じだけど

ネタ的にマンネリ感が出だした頃に自然消滅でやらなくなったような、気がする。

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