はてなキーワード: 純真とは
新規を煙たがるわけでもなく、古参だとマウントを取りたいわけでもない。
ただの事実だ。
かくいう私も今はもう本当に彼が好きなのか正直わからない。
でも去年久しぶりに間近で見た推し、ゲームのキャラクターを演じる姿は以前と同じように輝いて見えた。
結局来月もまた懲りもせず、諦められずに劇場へ足を運ぶ。
彼を推してない人生なんて考えられないけど、彼が今目指す先と私が彼に求めているものが大きくすれ違っているのは確か。
それなのに未だに板の上に立つ彼が見たいと思うのは、推しの役者としての心はいつまでも変わらないから。
如何なる役も推しにとっては宝だそうだ。
それが本心なのか建前なのかなんてわからないが、そんなことは問題じゃない。
しかしデビューから随分経ったが未だスキャンダルの一つも出さず、ここ何年も途切れることなく仕事が続いているという事実こそが推しの役者としての生き方を物語っているのだ。
そういう姿勢と何より彼の芝居が大好きだった。
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それならなぜ2.5次元舞台だけをそんなに毛嫌いするのか、というのは元記事に戻る。
https://anond.hatelabo.jp/20180529123607
私はいかなるジャンルにおいても二次創作をあまり好まず、一次創作が好きだ。
原作者でない人が脚本を書き演出をする、2.5次元も私の中では二次創作扱いなのだと思う。
それはキャラクターだ。
たとえば”いつも元気でポジティブ笑顔な主人公気質”、”曲がったことが許せない性格”、"中流家庭で不自由なく育った"など細かく設定されている場合が多いだろう。
もちろんそれでも演じる人によって様々な違いが出るのは当たり前なのだし、その違いこそが本当の個性だとも思う。
でも、ドラえもんは声優が変わったって同じドラえもん、そういうことだ。
台詞を読み掛け合い稽古をして脚本演出の意思も混ぜながら一人のキャラクターを作っていく。
推しは以前、同じ台詞同じ役でも初演では大人びていてキザなキャラ、再演では純真無垢な幼さを残したキャラ、という見事に正反対なアプローチを見せてくれたことがある。
それこそ真の役者としての見せ所だと思うのだ。
同じ台詞で同じ役でも、いかようにも捉え方があり表現の仕方がある。
それはいつ誰がどこで演じるかによって些細な違いから大きな違いまで出てくるのだ。
役者一人ひとりが自分の中に役を取り込み、数ある選択肢の中から自分がその時に思う最善の行動で役を作り上げていく。
相手のアプローチが変われば自分のアプローチも変わるのか、もしくは変わらないのかもしれない。
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推しへ
普通にまわってくる(「応援してくれよ」ってセリフ込みで)けど
しいて特徴を探してもちょっと気が強い程度。
身の回りの人を大切にしてれば
そのうち会った自慢できることがらくらい自然にたくさんでてくる。
まあそのころには「会ったことある」「直に見たことある」が子供にしか通用しない自慢であることもわかるしな。
自分は仕事の関係で東京ど真ん中(港区)に通勤してた時代もあるしドラマも近所で撮影してたけど
ていうかフェイスブック見てると本当にみんな「えらく」なってるけど
あいかわらずクっソいことやって金とってんな、
もうちょっと有名になったら高校のときの謹慎ネタを顧客にばらしてやりたいわ、
二度と会いたくないからそっちのほうが優先だわ
ってやつも半分くらいはいる。
人間はみんなピエール瀧みたいなもんよ。えらいやつとクソいやつの間をふらふらふらふら。
それでも一線を超えないやつらのほうがおれは好きだ。
元増田なんかはピエール瀧レベルでも有名なら、握手してくれれば、泣いて喜ぶんだろうな。
どうしても直でみたいなら交通費とチケット代払ってコンサートか握手会でもふつうにいけよ。
道で偶然あった芸能人には4Kテレビがまとわせてくれるオーラなんてねえよ
ただの人間
大人(≒インターネット)は嘘つきだ。悪意があるかどうかは知らない。無能なだけかもしれない。
「努力が足りない」だの、「成功には努力が必須」だの言った口で「完璧を求めなくていい」とか「6割で良しとする」とか言ってるわけだけど
それをいちいち真に受ける僕のような純真な子供はそういう言説を見るたびにストレスと苦悩で人生を塗りつぶしていく。
偉い人の説教に従わなければ不幸になると思っている従順な子供は大人の思いつきに振り回されることについていけず、そのことを思いかねて自ら命を断ってしまうかもしれない。
結果だの努力だのそういう問題じゃない。僕はムカついているんだ。大人のいい加減な説教に支配されることに。
そしてタイトルに見合わない内容をついつい書いてしまう未熟な自分自身に。
それはさておき、結果と努力という言葉がありますが、この言葉だけに拘泥するのはやめよう。もっと原始的なこと、つまり、金が欲しいという高次の欲求ではなく、生きたい、生活したいというのもまだ高次。もっと低次元の、目の前の事柄を自分の裁量でコントロールしたい、これだ。努力して結果を出すというのもコントロールの一種だが、努力というものが何なのかぼんやりしすぎていて結果をコントロールできない。タイトルに沿っていえば、仕事は少ないコストででかい利益を出すことが肝要だ。努力をこれでもかとぶち込んで利益をひねり出すようでは話にならないのである。ブラック企業が労働者を使い捨てにする分にはいいのだろうけど。
例えば自分の手を見る。指を曲げてみる。曲がった?じゃあコントロール成功だ。その指は君のコントロール下にある。喜びに打ち震えてびっくりするほどユートピア。
仮にはてな民が妄想するような純真無垢で天真爛漫な子であったとしても、
友達とも遊べないし、出かけるとしても精々初詣くらいだし、正月番組はつまらんし、おせちも雑煮も子供が食って美味いものでもないし、
ジジババの家行ったってやる事ないし、親戚のおっさんおばさんの相手するのも別に面白くも無いだろうし、
幼児なら滅多に会わないいとこともすぐ馴染んで遊ぶかもしれないが、
小学校高学年にもなればたまたま歳が近くて性別一緒で気が合う子がいなければ遊んでもつまらんだろうし、
下手すりゃ小さい子の子守させられるだけだろうし、で
楽しみなのはお年玉だけ、ってのが普通の小学生にとっての正月、じゃなかろうか。
性的にだらしなくて、とりあえず頭の中は男とセックスのことばっかな女友達がいた。
ちょっとお金持ってたり権力ある中年男に食事とか誘われたら、いい感じに言いなりにさせてセックスはさせないけど金出させたり、いいポストをもらっちゃったりしようかなと言ってた。
「セックスするつもりなかったけど、結局しちゃって」と不満げだった。
そういうことが2、3度あった。
上司とも同じような感じでねんごろになったけど、いいポストがもらえなかったことが不満で上層部に密告。
「うまいことコントロールしようとしてて上手くいかない」から報復に相手を免職においこんだり、
「食事いきましょう」と誘われた時点で下心アリなのはわかってて「操ってやろう」という思いがあるから断らないのって、
あと中には、そのときはノリノリだったのに本命彼氏にバレるから、世間体が悪いからっていう理由で、関係したことを相手の強要にしたがる人もいるし、
記憶の中でそういうふうに改ざんしちゃう人もいる。改ざんしちゃう場合は、本人は本気でレイプされたと思い込んでる。
あれだ、もう「純真な結婚を前提としたお付き合い」を狙う場合以外は、女性を誘ってはいけない感じなんだろうな多分。
女性はね、その場では「まあやってもいいかって」って思ってても、やってみたらホルモンバランスがちょっと変化してセンチメンタルになって、やっちゃった自分を許せなくなって、その状況を相手のせいにしたほうが楽になるって場合もある。
このパフォーマンスを保ってるなら偉いなあ
無理やり突っ込んできたり、嘘つかれたり、お金すられたりしてるうちに心がすり減っていって今じゃ客を選ぶ性格の悪い風俗嬢になってしまった。
オプション料で文句を言おうものなら「嫌なら帰りますが?」と平気で言うし、明らかにモノ扱いして人間性を軽視する客には超スロー着替えで10分かけたりアナルに突っ込んだ指でそのまま尿道こねくり回したりした。
無理やり突っ込んできた奴は店に通報した挙句「このクズ野郎 何泣いてんだよ泣きてえのはこっちなんだわクソガキが 2度と風俗使うな」などと散々気が済むまで罵倒した。
これでも客減らないから余裕。いいお客さんだけ囲ってればいい。
性格わるくなったなー 可愛げのあったあの頃に戻りたい
もう辞めるけど。
『ボヘミアン・ラプソディ』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
すごいぞなんと140点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。なんでサントラ買いたいくらいには良かったです。
ただその一方で実はこの映画の感想を書くつもりは当初なくて、というのも自分がクイーンをリアルタイムで応援してたファンではないからなんですよね。もちろん日本人で普通に暮らしていればCMやら飲食店の店内楽曲でクイーンの曲は耳にしてるし聞けば、あああれね! くらいのことは言えるんだけど。
でもどうせファンの人がたくさんレビューを書くと思ってたんで自分が書く必要はねえでしょうと、思ってました。
んだけど、実際見てみてその周辺の感想とか聞くと、もやもやした気持ちが募ってきたわけです
やはり133分という限られた尺の中では出来事を省略する必要もあったり、感情動線の設計上エピソードの順序入れ替えなどは行われているわけです。そういう意味でこれはノンフィクションではなくて、エンドロールにも書かれているようにフィクションです。
本国広報やプロデューサーもそうフィクションだと発言しているんだけれど、コアなファンであればあるほど史実との違いが目につき、ニコニコ笑いながら(多分なんの悪気もなく)貶すという光景がなきにしもあらず。実在の人物フレディ・マーキュリーの伝記的な映画でもある以上仕方ないのだけれど、正解/不正解という視点がついてきてしまう。
オタクがオタクであるゆえ仕方がない心性で「かー。しょうがないな、この部分もうちょっとこういう描きを入れてほしかったな。かー」「よくやってるけど30点!(地獄のミサワの顔で想像してください)」的な、本当は大好きなクイーンの映画がすごく良い出来で嬉しいのだけれど一言言わずにはおれないような。そういう反応多いのです。
気持ちはすごくわかるのだが、ソロで鑑賞にいったこの映画の後ろに行ったカップル男性が「あいつクイーンのことになると早口になるよな」とかで、なんか、すごくいたたまれなかったりもする。キミのその愛情は彼女さんには全く通じてないし、むしろ映画の感動いまどんどん減らしてるよみたいな。
だからこのレビューでは物語(フィクション)としてこの映画をおすすめします。
若い人もクイーン知らない人もちょっとしか知らない人も寄っといで。これはとても良い映画だったよ。知識なんていらないよ。単体で物語としてよかった。だから観るといいよ。そういうレビューです。
映画はフレディがクイーンの前身バンドであるスマイルのメンバーに声をかけるあたりから始まります。デビュー前のフレディは当然まだ若く、瞳だけがギラギラした挙動不審の青少年で、当たり前の話だけど何も持ってないわけです。
何も持ってないというのは、金も実績も名声も持ってないし、家庭ではなんだか居心地が悪いし、将来の確固たる保証もないということで、その何も持っていないという閉塞感が初っ端から強烈に描写されます。
それがすごく良かった。
それは、この映画がロック界のスーパースターで伝説の偉人フレディー・マーキュリーを崇める映画ではなくて、何にも持ってないチンピラのフレディから始める映画だっていう鮮烈な意思表示なわけですよ。
野心を持った若者っていうモチーフは映画でも小説でもよく出てくるモチーフなのだけれど、若者は野心を持つってわけではなくて、それは全く逆で、財産らしきものは他に何も持ってないから野心ぐらい持たないと惨めでやってられないってことですよね。
作中で描かれるフレディがまさにそれで、デビュー後彼はすぐさまオレ様キャラを発揮し始めるのだけれど、最初のデビュー前のシーンでは内気で繊細な少年なわけですよ。オレ様ってのは虚勢だとすぐわかる。スカウトの前でも音楽プロデューサーの前でもでかいことを言うけれど、それは「いまは何者でもないチンピラだ」ってことを当の本人たちが痛いほどわかってるからにすぎない。
確かに伝説のバンドクイーンはメンバー全員が稀有な才能を持っていて音楽に愛されていたのかもしれないけれど、でもそれは人間的な弱さを持っていなかったことは意味しないし、何も持ってないし、何も確かなことがない。将来何になれるかわからないし、不安だけど、弱みを見せるわけにも行かない。それって、青少年の普遍的な鬱屈だとおもう。そういう意味で、スクリーンの中のフレディは、たしかに観客席と地続きだと感じました。
だから無駄に見栄を張り無駄に喧嘩を売ってオレ様は天才なので何をやっても大成功なんだぞー! と嘘でも吠えなきゃならない。それは文字通りの意味で虚勢なのだけど、フレディはその意地を張り通して段々とスターへの階段を登っていくわけです。
生存戦略としての見栄と意地で、それがある程度以上に通用し成功する。
だからこそフレディは問題を解決する手法として去勢と音楽しか持たないわけです。下手に成功しちゃったから。そして、バンド内で揉め事が起きても、スポンサーと揉め事が起きてもこのふたつで解決していくしかない。他のノウハウはびっくりするほど何もない。
でもその問題解決手法もアーティストとして成功するために最適化されているために、フレディ個人の内面の寂しさや煩悶を癒やす役には全く立たない。
溝ができつつある恋人であるメアリーとの間をなんとかつなぎとめようとするフレディのやり方は、小学性みたいに真っ直ぐすぎて、純真ではあるのだけれど多分恋愛検定で言うと偏差値43くらいでとてもつらい(っていうかお前隣り合った家の寝室の窓から明かりのオンオフで相手を確認するとか昭和の少女漫画クラスやぞ)。
バンドメンバーとの関係も傲慢&ワンマンが過ぎてギクシャクしていくが、こちら解決は傲慢&虚勢に仲間に対する甘えをトリプルでどん!! しているわけでお前よくこんなんで空中分解しないな?(とおもってたら分解した)という感じで、これまた辛い。こっちは偏差値41くらい。素直でない分2低い。つらい。
自分の性自認がヘテロなのかゲイなのかで悩むフレディは、その鬱屈がたたって恋人メアリーとは距離を置くことになってしまうし、それをきっかけとして私生活が荒廃していくわけです。周辺に金をばらまき、ドラッグ&乱交パーティーに溺れていくけれど、それで内面の寂しさは癒せない。
そもそも音楽&虚勢という生存戦略はアーティストとしてのし上がることに特化しているので、私生活を豊かにするには役に立たないわけです。それどころかスターダムにのし上がればのし上がるほど、マスコミの下世話な視線に晒され、心無い詮索で私生活が崩壊していく。仕事(音楽)に逃げ込もうとするその弱い心が、事態を決定的に悪化させてしまう。
バンドは危機だし、フレディは仲間からも「キミって時々本当にクズ野郎になるよね」といわれてしまう。スクリーンを見ながら「せやな」と言わざるをえないわけですよ。
フレディは、フレディの才能に殺されつつあるわけです。
この映画でふたり大好きな登場人物が居て、そのひとりはバンドの精神的なリーダー?であったブライアン・メイ(演グウィリム・リー)。この人の演技が、めちゃくちゃ良かった。特にセリフにならない表情の動きみたいなもので、映画の深みを何層も掘り下げてくれました。
喧嘩をした直後に浮かべる「仕方ないなあ」というような許容の表情や、ラストのライブシーン中の「言葉にしなくてもわかってるよ」とでもいいたげなさりげない承認の表情など、どんだけバンドが砕け散りそうでも、メンバーと音楽に対する愛を、演技だけで表現してのけた。ぶっちゃけすごい。
朴訥な、言葉は悪いけれど垢抜けない田舎者風のキャラ構築だけど、静かな思いやりと知性が感じられるっていう難しい役だったのにね。
もうひとりはジム“マイアミ”ハーバー。このひとは、当初クイーンというバンドにプロデューサーから紹介された弁護士として登場します。契約面でクイーンを支えるためのスタッフのひとりでした。
出会ったその最初のシーンで(ヤング傲慢な)フレディから「ジムという名前はつまらないんでマイアミに変えろ」くらいのことは言われて笑いのもととなり、つまりはコメディキャラの位置づけです。
でも物語中盤、フレディは誤解と癇癪からマネージャーであるジョン・リードを一方的にクビにしてしまうわけです。そしてフレディは、後任のマネージャーを「次のマネージャーはきみだ」のひとことで、その場に居たジム“マイアミ”ハーバーに押し付けちゃうわけっすよ。
そんなの嫌でしょ。自分なら引き受けたくないです。だってクイーンの連中は音楽やってるとき以外は飲んだくれてるか喧嘩してるか女といちゃついてるかで、偉そうだし、わがままだし、人の話聞かないし、どう控えめに評価しても糞ガキ(主にフレディ)だもの。
でも、ジム“マイアミ”ハーバーはスタジオで演奏しているクイーンを見て、引き受けてしまう。「わかった、やるよ!」といってしまう。それがすごく胸に詰まるシーンでした。
だってさ、たしかにクイーンは(主にフレディ)は人の迷惑を考えないクソ野郎だけど、音楽の才能は本物で、それ以上に音楽と観客に対して真摯なのは見ててわかるんだよね。そこだけは本気で一切手抜きしないで、いいものを作ろうとしてるのがわかるのだ。
ジム“マイアミ”ハーバーは弁護士としてのキャリアもあるし、こんなワガママ集団のお守りなんかしなくても十分生活できるはずでしょ。一方、クイーンのマネージャーを引き受けるっていうのは彼らのツアーにもついていくだろうし、各方面からの問い合わせやスケジュール管理もしなきゃいけないわけでしょう。それは控えめに言って、人生を捧げるってのとほぼイコールですよ。このわがまま集団を守って、彼らの盾になり続けるという意味だ。
立派な大の男の人生を進路変更させてしまう、クイーンの音楽のちからってのは、別段彼らの業績を知らないスクリーンのこちらの素人にも、やっぱり分かるんですよ。そこで迂闊にもホロリと泣けてしまった。
(あとで調べて、彼ジム“マイアミ”ハーバー本人は最後までマネージャーを続けて、この映画の制作にも関わったことを知って二度泣けました)
フレディは前述の通り、性自認の問題やら持ち前の癇癪から疑心暗鬼になって、「家族」とまで思っていたバンドメンバーを遠ざけて孤独になり、その孤独がつらくてより酒におぼれて生活がぼろぼろになっていく。
でもそういう最悪の時期を、元恋人のメアリーの助言で断ち切ってバンドメンバーのもとに戻るわけです。
そこから映画はクライマックスへ、復帰のための厳しいレッスンから1985年のライブエイドに向かっていく。自分がHIVに罹患していて余命がいくばくもないこと。でもそれでも「同情はゴメンだ。俺の望みは残りの人生を音楽に捧げることなんだ」とフレディは仲間に言うわけです。
それに対する仲間のアンサーが「お前は伝説だ」と。
でもフレディは「俺たち全員だ」と応えてライブへとつながってゆきます。幾つもの和解があって、ライブ当日、フレディは素晴らしいパフォーマンスを見せる――というのがクライマックスの展開なわけです。そこで立て続けに流れる名曲の数々ですが、やはりひときわクローズアップされているのが"We Are The Champions"という楽曲です。
おそらく誰もが耳にしたことがあるこの曲が名曲だってのはもちろんあるんですが、やはり、この物語の中では、すごく重いです。そして良かったです。
この曲は確か公開当時「傲慢な歌詞だ」という批判を受けたはずなんだけど、実際映画館で、物語の中で聞くと、ちっともそういう曲には聞こえないんですよ。歌詞そのものは「俺たちはチャンピオン(勝利者)だ。今まで色々やってきた結果勝利者になった。敗北者に用はない。俺たちはこれからも挑むんだ」というもので、なるほどそう要約してみれば、傲慢にも聞こえます。とくに大セールスを記録した世界的アーティストのそれともなれば、そういうやっかみを受けるかもしれない。
でも、そういうふうには聞こえなかった。
むしろ、今まで自分たちがやってきた努力や行動のすべてを自分たちは自分たち自身に胸を張っているけれど、それを周囲には理解してもらえてない、“未だ自分たちは最終的な何かを何も受け取っていない”若者である自分が、自分自身に対して「俺たちは勝利者だ」と励ましているような、自分と友達を鼓舞するような、そんな曲に聞こえるのです。
たしかに名声も金も手に入れたけれど、でもだからといってそれがゴールだなんて思わない。今現在の環境は決着ではない、だから敗北者に用はない。もっともっとおれたちは目指す何かに向かって、求めていた何かに向かって手をのばすんだ。そんな歌詞に聞こえてしかたがないわけです。
人間は人生の何処かのシーンで、自分を励まさずにいられない心境になるってどうしようもなくあると思うんですよ。
苦境にあっても、自分は間違っていない。今まで歩いてきた道は愚かだったわけではない。それを証明するために現在という試練を超えて、未来で何かを手にしたい。
そんな気持ちは世界的アーティストであろうともそこらに兄ちゃんやおっさんであっても、抱くことはある。むしろそこらのおっさんやおばさんだからこそ、自分を応援する必要がある。多くの観衆のそういう内面の祈りのような感情を、本人に変わって歌い上げるからこそ大スターになれるんじゃないかと思うわけです。
だから"We Are The Champions"という曲におけるWeは、フレディでありクイーンのメンバーであり、ライブエイドの観客であり、そしてこの映画を見ている人間でもあるわけです。
それがとても良かった。この映画を自分に関する物語として見れることが、とても良かった。
これらのことは別段クイーンの情報を知らずとも、楽曲に対する知識がなくてもこの映画を見るだけで十分についていけます。
この映画は、伝説的バンドのクイーンというのが居てその偉業にひれ伏すためのものではなく、かと言って歴史的な事実に対して○×クイズをするための出題でもなく、音楽に深い愛を捧げた内気な少年がプライドと虚勢を頼りに世界と戦った――そして最後には家族の元へと戻り偉大な勝利を得た。
そういうビルドゥングスロマンの映画であって、あるいは中途半端に知識のあるファンよりも、何も知らない世代や人々にこそ深く刺さるものだったと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%88%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%80%89%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F
『〈子供〉の誕生』(こどものたんじょう、フランス語:L'Enfant et la Vie familiale sous l' Ancien Regime)は、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスの著作である。1960年に公刊された。子供と大人の一線を当然視し、学校教育制度を当然視する現代の子供観に対して、疑義を呈する書物である。フランス語の原題は『アンシャンレジーム期の子供と家族生活』という意味であり、「〈子供〉の誕生」は、日本の翻訳者がつけたものである。
アリエスは、中世ヨーロッパには教育という概念も、子供時代という概念もなかった、と言う。 7〜8歳になれば、徒弟修業に出され、大人と同等に扱われた、と言う。飲酒も恋愛も自由とされた、と言う。なぜ大人と子供の一線を7〜8歳に引いたのかと言えば、この時期に言語によるコミュニケーションが可能になると考えられたためである、と言う。 7〜8歳以前の子供は動物と同じ扱いであり、大人がフリスビー代わりに投げ遊び、落として死なせたこともあるという。乳幼児死亡率が高く、5歳までは頭数に入れられなかった。もっとも、乳幼児死亡率が高かった理由として、医学水準が低かったことだけではなく、両親のベッドの中で、あまりにも頻繁に窒息により非業の死を遂げる子供が多かったといった理由も挙げられている。
教会は、嬰児殺しを厳禁していた。が、両親があれは事故だったと主張してしまえば、それ以上追及する者はいなかった。
近代的な学校教育制度が現れたのは、17世紀のことである。当時の教育者たちは、古代には存在した学校教育を倣い、「純真無垢」を理念とした。「純真無垢」とは何か。子供と大人を引き離すこと、特に子供にとってセックスを禁忌にすることだった。また、子供として保護される期間の延長も提唱した。この時期から、美術も子供をテーマにし始めた、それ以前は美術が子供をテーマにすることはなかった、と述べる。
近代学校教育制度は、大人とは異なる、子供服というものを編み出した、と述べる。この傾向は特に男児に顕著で、男児の特徴的な衣装である半ズボンが考案された。それに対し、女児の服装の変化には無頓着であった。女児は家事に専念すればいいのであって、学校教育を受ける必要性が少ないと考えられたためだ、と述べる。
これを受け、近代的な学校教育制度は、同年齢の子供を同一のクラスに編成した、と述べ、極端な場合には、寄宿舎制度を設け、子供を外部から遮断した、と述べる。
別に特定したくもないけど、その人はどちらかというとブックマーカーにみえる。
自分が思ったのはブログで一回よさげな記事書いてpvめっちゃ稼いだあと、
続報で別人に買い取られたのかと思うような反フェミ~とか日本のネット界に敵が~みたいなすごい偏った記事書くようになった人。
もちろんその後半の自己承認欲むきだしのほうと元増田がよく似てるね。
なんか、「炎上利用して裏から大衆扇動操作してる自分すげー賢い」みたいなのがはしばしから透けて見えて、
別に大して影響力もない(だれも外国ビーガンのことは気にしてない)空回りなのにはてな・増田での自己承認欲すごすぎでやだなって。
一回認められたらはてなじゃないとって思うんだろうな。
だれにも刺さらないネタを煽り口調で投げ込まれても目障りなだけなんで、もっと純真かつヒマな人が多いとこで勝手にやれとおもう。
雙葉学園は、フランスのサンモール修道会の会員が1875年に設立した築地語学校を祖とする、私立の学校法人である。
雙葉学園はその長い伝統において、「徳においては純真に、義務においては堅実に」という校訓のもと、幼稚園から高等学校にわたる一貫したカトリック教育を行ってきたが、雙葉女学院大学の設立により、さらに4年間の大学過程をふくむ一貫教育が行われることになった。
というのも、雙葉中学校・高等学校は、東京大学をはじめとするいわゆる旧帝国大学や、慶應義塾大学などの難関私立大学に合格者を多数輩出し、全国有数の進学校と呼ばれるようになっていたが、多数の生徒父兄が、単なる学力の追及ではなく、カトリック教育のさらなる徹底を望んでいたこと、卒業生の多くがカトリックの信仰を保持していない現実を嘆くサンモール修道会の強い推薦により、2002年に大学過程を行う教育機関の設立が決議されたのである。その後、文部科学省の認可を受け、雙葉高等女学校の設立からちょうど100年となる2009年、開校に至った。
私が雙葉高校を卒業したとき、もしこの大学があったら、このエスカレーターに乗っていだろうか。キーボードを叩く手が止まり、ふと自分の過去を反芻した。
中学受験に成功し、晴れて雙葉の門を潜ることはできたものの、入学後は成績が低迷し、人生の目的も見出せないまま、あるいは、先生がたがおっしゃっていた、神に与えられた使命を感じることもなく、特に受験勉強もせずになんとなく大学受験をした私は、願書を出した中で最も無名な、平凡な私立大学に行くこととなった。
パッとしない4年間の大学生活の間、やはり人生に意義を見出せず、大学卒業後は、飲食店や塾講師などのアルバイトを転々としたのち、25歳で、あるカリスマ英語学者の執筆アシスタントとして雇われることになった。
受験生向けから社会人のやり直し英語のための参考書まで、様々な英語関連書籍を多数執筆し、そのほとんどすべてがベストセラー、2005年からは教育テレビでレギュラー番組も放送されている、クリストファー・トンプソン、その人である。
誰もが認めるカリスマ英語学者のアシスタント、ベストセラーが約束された数々の出版物の編集作業。やっと使命が見つかったかに思えた。
が、それもつかの間のことだった。
最初の数ヶ月で気づいたことは、クリス・トンプソンは執筆作業のほとんど全てを、彼の『アシスタント』に任せているということだった。それでも、はじめのうちは、英語学者である彼の理論を専門家でない一般大衆向けに落とし込むのに、アシスタントが最大限の貢献をしているのだろうと好意的に考えていた。
働き始めて半年が経った頃、主力の『アシスタント』が結婚・出産を機に退職することになり、私がその立場を引き継がなければならないとなったとき、彼女から真相が告げられた。カリスマ英語学者、クリス・トンプソンは、自分ではなんの理論も持っておらず、彼の博士号はディプロマ・ミルから得られたもので、彼のアイデアと言われるものはすべて、彼女の作品だったのだ。
『徳においては純真に。』私は、彼が世間を欺き続けるのを手助けすることはできなかった。
代わりの職を求めた私はその後、27歳にして都内にある無名の私立高校の英語教師として採用された。
須藤智くんとの出会いは、私がその学校で働き始めて3年目のことだった。
高校といえば雙葉高校しか知らなかった私は、おそらく世間では平均的であろう、学習意欲のない生徒たちを前に、教師として戸惑っていた。そんなとき入学してきた須藤くんは、『教え子』と——おこがましいが——呼びたくなるような、優秀で向上心の高い、私の初めての生徒だった。
彼はすべての科目の定期試験で満点を取り、全国模試では偏差値が80を超えていたので、瞬く間に教職員のあいだで評判になった。
彼の非凡な才能は、主に自然科学の理解に向けられているようであったが、彼の言語に対する洞察も、単に受験勉強ができるというレベルを超えているように思われた。
それは、彼が二年次に進級し、私の授業を受けることがなくなった新学期のことである。珍しく残業もなく、夕方6時に山手線新大久保駅で帰りの電車を待っていた私の元に、彼が歩み寄ってきた。
突然そう告げた彼は、意表を突かれてうろたえる私の返事を待つことなく、ノートを広げ、彼の発見を説明し始めた。
私は彼の理論を即座に理解することができた。なぜなら、中性子、陽子、原子核、電子といった、化学のアナロジーを用いているものの、それらの用語を適宜『主要部、内項、外項、句、付加部』という言語学の用語に置き換えれば、それは現代言語学の父、ノーム・チョムスキーが1970年に発表した、エックス・バー理論そのものだったからである。
彼はきっとエックス・バー理論をどこかで読んだのだろう、そしてそれを、自分の慣れ親しんでいる化学のアナロジーで理解したのだろう、と私は考えた。
しかし、彼は、これは紛れもなく自分でたどり着いた理論で、とっかかりになったのは、クリス・トンプソンの『60億人の英文法』にある「日本人は名詞が主でそれに冠詞がくっつくと考えがちだが、冠詞がまずあって、そこに名詞がくっつくというのがネイティブの感覚だ。」という記述だと言う。
ともかく、私は彼の話を信じた。そして、彼が自分の発見を教えてくれたお返しに、私も自分の『発見』を彼に打ち明けた。こうして彼は、クリス・トンプソンの秘密を知る、部外者第一号となるのであった。
秘密を共有した私たちは、ときどきメールを交換する仲になった。話題は主に、言語学。彼は初め、原子力工学の話をしたがったが、私がついていけないということに気づくと、言語学を中心に、私が理解できる話題を選んでしてくれるようになったのだ。これは私にとって、10年遅れて訪れた青春の一ページだったが、彼にとってはたぶん、相手が先生だから、気を使って付き合ってくれていただけだったのかもしれない。
私は一度、言語学の道に進みたくはないか、と彼に尋ねたことがある。彼がチョムスキーほどの天才かどうかはともかく、才能があることは間違いない。しかし、彼は原子力工学をやるといって譲らず、ワシントンにあるベルビュー工科大学を単願し、同校に進んだ。なぜマサチューセッツ工科大学や、スタンフォード大学を目指さなかったのだろう、あるいは、ワシントンならなぜ同州トップのワシントン大学に行かなかったのだろう、願書くらい出しておけばよかったのに、と当時も思ったが、きっと彼なりの理由があったのだろう。
メールのやり取りは彼が高校を卒業した後もしばらく続いたが、彼が希望通りベルビュー工科大学に進学すると、須藤智という天才を失ってただの無名な私立高校に戻ったその場所で、張り合いのない授業を続ける私が、なんだか取り残されたように思えて、劣等感からメールを送るのが億劫になって、やめてしまった。
須藤くんとのメールをやめた私は、高校教師の仕事もやめた。また人生に迷ってしまったと思った私は、以前のように求人情報をチェックしたり、履歴書を作成したりする気もなくなって、目白のアパートに引きこもった。
そんな張り合いのない生活を続けるうち、あるとき新聞の広告欄に、雙葉学園が、大学新設にあたり職員を求めているという求人情報が載っているのが目に留まった。行き場を失った私は、まるで蜂が巣に戻るように、こうして古巣に戻ることになった。
私はいま、雙葉女学院大学の国際交流課で、4年ぶりに須藤くんへのメールを書いている。雙葉女学院が日本の大学として初めて、ツー・プラス・ツーのダブル・ディグリー協定を海外大と結ぶことになったのだが、なんの因果か、その協定校第一号が、ベルビュー工科大学だったのである。そして、私が留学カウンセリングを担当した学生が、第1期生として派遣されることになったのだ。
彼女は聡明な女性だが、単独で海外に行った経験はないと言う。現地に信頼できる知人がいれば、少しくらい世話を焼いてもらってもばちは当たらないだろう。
子供がさ、ダウン症の子を見て「変な顔ー!」って言ったんだよ。
その子の親は凄く傷ついたんじゃないかと思って大変申し訳なかったんだけど、うちの子も正常ではなくてDQ低めの発達障害なんよ。
どう説明していいのか難しくて…
たしかにダウン症の子は自分たちとは違う特徴的な顔立ちで、それを変な顔だと認識するのは間違ってはいない。ただ、他人の容姿を「変」だとか言うのは良くないことなんだけど、うちの子としては悪意はないんだよ。相手がどう思うのかを考えさせるのは今の時点では厳しい。
自分たちとは違うものを「変だ」と思ってそう言うことは差別だよね。それは良くないことで生きづらい社会になってしまうから、教育で教えるべきものだよな。
差別は後天的なものっていうのは真っ赤な嘘だ。真っさらな純真な子供でも自分たちと違うものを差別する。
先天的な差別感情を後天的にコントロールするのが正しいんだよな。
だからポリコレ的なルールを早期に教育で入れて、自我が芽生える時期にはそれが当たり前な状態に持っていくのがいいんだろうな。
子供を持てば、差別感情は後から植え付けられたものだっていうのは嘘だとはっきりわかる。
まぁ同和問題とかは後天的なものかもしれんけど、人種差別みたいな見た目に関わる差別は自然なものだよな。自然だから良いっていいたいわけじゃないよ。自然発生してしまうものだからこそ、教育の仕方を考えなきゃいけないよなってこと。
物理的や認識において現実でいうと証拠というのは直接それと結びつく認識が個人にあるだけのもので
何であっても「証拠」と説いたいであろう「直接因子の物理的結びつき」は見つからない
ビデオにとっていようがそれが全員に知られていようが文章でのこっていようが物理的な反応として存在していようが
「それをそのように認識してしまっている」という現象に個人が苛まれる可能性はゼロではない
それを踏まえて「本人に私がしましたといわせる」ことが最重要でそれを代弁させるために
「本人はそれをすることができないので代理人がしましたとみとめます」と判断をさせる
つまり裁判で判決が下ると冤罪だろうと犯人だろうと「犯人」になる
吹聴してみんなが納得するものであればそれが「証拠」でもあるし
冤罪であろうとなかろうと何度でも追及すれば追及の仕方で逆転が見込めることもあるだろうし
誰がどう見ても納得せざるをえない状況もある
なので回数制限を設けることにもなっているし証拠を証拠としてみとめるかどうかも
厳密に規定があり判断する者も「社会的にみて常識的である」という認可のある人間にさせる
精神的な疾患があるからといって裁判官ができないのは不平等ではないか、と言われるのであれば
「絶対無二の確実な判断を下すべきそれ」を「証拠」と言えるだろうけれども
現時点で人間が証拠と言えるのは「有罪と判決にいたった要素」までが証拠でしかない
実際に犯罪者として扱われている人間について証拠はなにかと問うてもそれは存在していて
検討され判断材料につかわれ結果「証拠」だった結果ものがあった故なので
今でている結果は冤罪であろうとなかろうとそれがだれかにしくまれたものであろうとなかろうと
当人が純真無垢で犯罪の意思がなかったとしても 行動をさせられていまもそんな事実が認知できなかったとしても
もっと調べれば、真犯人がでてくれば、と無限に陰謀論を展開すればいくらでも証拠はでてくるだろうし
それをどれほどの人間が判断材料に使用して無罪か有罪かを再度判断したいと申し出るかはわからない
人が有罪であるか無罪であるか 永遠に問い続ける必要があるみたいな哲学的なものが社会の機能として
有用ではないためそんなことは行われないということは想像に容易いだろう
宗教なんかでもそうだが救われるのは非常に容易い また罪に溺れるのも非常にたやすい
ジャッジが絶対的だということだけが厳密でさえあれば現実に罪かそうでないかは大した問題ではない
証拠というちりばめられた事象は傾向こそあれ関連するなにもかもが証拠となりえる
厳密にそれを起因として結果がでるという要素を確定させる定義をもつこと自体が重要なのだ
証拠があるから犯人だ という犯人が犯罪者なのかということや証拠は真実なのかということは
毎日祈りさえすれば救われる 信じさえすれば許される そういう定義が結果につながると定義されることで
証拠を得ることになる
それが実際他者に影響を及ぼすことができる存在というものつまり「証拠」たりえるかというと
これは人間の限界で 絶対の真理というものにたどり着いた人がもしいるとしたら
hagexさんは、それが直接的な批判や言及ではないにしろ、特定の誰かについてまとめる、あるいは晒すという自分自身の行動についてのリスクというのは理解していたのではないでしょうか。
リスクについて理解した上で、あるいは自身が定めたラインは超えないよう考慮した上でいろいろな記事を書いていたのではないでしょうか。
彼がやってきたことはそういった理解の上で彼自身の選択により行われてきたことではないでしょうか。
普段車を運転していて、数秒後に自分が交通事故で死んでしまうかもしれないと常に意識している人はほとんどいないでしょう。しかし、どこかでそういう事故が起こっており自分もそうなるかもしれない、という認識は多くの人があるのではないでしょうか。まさか自分が、と思っていたとしても。車もスピードを出しすぎたり、脇見運転などをすればより事故のリスクは高まるでしょう。車を運転するということはそういうことだという理解は多くの人にあるのではないでしょうか。
インターネットで誰かに対して言及したとして、後々そのだれかが自分を刺しに来るリスクというのは交通事故のそれよりも低いでしょうし、本当にまれなことだと思います。
しかし、hagexさんは自らの選択によって車を運転し、あるいはバイクにのって(あるいはブログなど書いたこともなく、それが多くの人の目に触れるということなど成し遂げたことの無い多くの人にとってそれは小型飛行機のように見えるかもしれません)、本当にたまたま事故に巻き込まれたということだと思います。
それに対して、hagexさんは車が危ないなんてことは知らなかったし、バイクで死亡事故がおきるなんてことも知らなかったし、ましてや車の運転なんて知ていなかったよ、と過保護に擁護するやり方というのは彼にとっても不名誉なことなのではないでしょうか。
彼が飲酒運転をしていた、という主張をしている人は少ないと思います。
彼は交通規則もきちんと理解していて、安全運転も心がけていた、時々スピードも出しすぎることもあるけどもちろんハメを外しすぎることはなかったよ。不運な事故にまきこまれたことは本当に残念だ。というのが彼に対する真摯な態度ではないかと思います。
彼がやっていたことを、小型飛行機を見事に操縦するようなものだと認識する人もいるのではないでしょうか。そういう人達に対して、彼の操縦は完璧だが、機体のトラブルによって不運にも墜落してしまったと説明したところで、やっぱり飛行機というのは怖いな、という印象を抱くと思います。
特定の人物について直接的に言及しないまでもその行動をまとめて第三者に広く周知できる状態にする、ということがまとめられた人物の感情に与える影響というのは無視できるものでは無いと思います。
例えばそれが注意喚起のためであり第三者に大して有意義な情報であったり、あるいは、正しくない行動をしていた者をさらすことで啓蒙する意思があったとしてもです。
そういうことはhagexさんは理解していたのではないでしょうか。
今回事件に巻き込まれたのは不運だったからでしょう。偶発的な要因により他の誰かが殺されていたのかもしれません。
そこには車を運転していたら事故にあったという因果関係以上のものがあったことは明らかだと思います。
ただ、hagexさんは自分の行いに対するリスクに関して完璧にはヘッジできなかったものの、一定の理解と配慮に基づいて行動してきたのだ思います。リスクを0にすることはもはや不可能なため、自分自身の選択によってブログで記事を書いたり、セミナーを開いたりしていたのであり、決して純真無垢、天真爛漫、無知、聖人君子な人間が全くの偶然により事件に巻き込まれたわけではないのです。
リテラシーもあり分別もある人間だが、多くの偶発的な要因によってターゲットにされ命を失ってしまったということが結果から言えることだと思います。
2018年夏より単身渡英をして活躍する女性アーティストがいます。
彼女はしがらみや個人としての魅力を抜きに、一人の写真家/芸術家として才能を認められることを目的に
つまり彼女は女性としての性的魅力などを一切排除した状態で才能を世界的に評価されたいと考えています。
しかし彼女が渡英をするための費用は、風俗店およびそこで繋がったパトロンから捻出されたものです。
彼女は日本を離れることですべての過去やしがらみを消し去って単身渡英し、純真無垢な女性というブランディングをもくろんでいるわけです。
3度ほど通った後、連絡先を書いた紙を渡すと彼女はすぐに連絡をくれました。
そして連絡を取り始めて1週間後くらいから僕たちは関係を持ち始めました。
まだ寒い冬のことです。
初めの頃はお互いに忙しく、夜遅くに集合して食事もせずにわずかな時間をお互いの体を求め合うことに費やしました。
そして次第に会う回数も増え、休みが合えば美術館などにでかけることもありました。
しかしお互いに情が深まるにつれぶつかることもあり、その時が来ました。
彼女は「自分はもうすぐ日本をでるのでどうせ長くはいられない」と伝えてきました。
彼女は渡英することを自分と出会う前から決めていて、それを自分に伝えずに半年の間関係を持ち続けていたのです。
彼女は自分の夢を叶えるまでの自分の性欲を抑えることができませんでした。
言ってしまえば性欲処理のための道具だったのです。
彼女は真のセックス中毒者です。イケば全てを忘れてしまう特殊な脳の持ち主です。
私が睡眠薬で自殺未遂を起こしてから、「心中の可能性が怖くてもう会えない」と言われましたが、
その後も続けて数時間の情事のためにホテルまでついてきました。
大学2年生になった春。
夜を歩き、自己開示を積み上げ、当然のように唇を重ね、
私とAさんはその時すでに熱く愛し合っていました。
「ああ、私はこの人とセックスがしたい」
そんなことを思った正直者の私は、Aさんにその願いを率直に伝えてしまいます。
私のありのままの傲慢を認めてくれた寛大なAさん。今思っても素敵な人です。
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すべてを曝け合い、求め合い、受け入れ合い、
まさに愛情を確かめ合うような、幸福なセックスをたくさんしました。
デートもたくさんしたし、そのどれもが幸福に満ちたものでした。)
1年半ほどの関係を通して、幸福とセックスとが私の中で結びついていきます。
3年生の秋、膨れ上がるすれ違いに関係が大きく歪み、Aさんとの仲が終わりました。
次のAさんはどこにいるだろう。
「私を愛し、すべてを受け入れてくれるAさん」は、誰の中にいるだろう。
Aさんの影を追うように。Aさんとの幸福な思い出に縋るように。
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その後、やっと巡り会えた、心の底から愛し合える人。Bさんです。
気付くのが遅すぎました。
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Aさんとの別れの後──
肉体的な欲求だけをぶつけ合う日々。
もはやどこにも無くなってしまっていたのです。
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網膜に棲み憑いた亡霊たち。
だめ、今はどうにかBさんとのセックスに集中しないと。
あ。
無理。
今日はごめんなさい。
大好きだから。本当にごめんなさい。
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早く生まれ変わりたい。
悔やみきれない。早く気付けよ。
あんなことするんじゃなかった。
私が、憎い。
セックスが、憎い。
今回の山口さんのわいせつ事件について、すごく不思議に思うことがある。
山口さんがやったことは非常にマズイことだということは大前提として。
この被害者の女子高生が、まったくの純真無垢な存在であるという体で、話が進められているのはなぜなのだろう。
ブルセラから援助交際、現代ではパパ活。大人の男性の下心を利用して、お金を稼いだり美味しい思いをしたりする女子高生は昔から一定数いたわけで。
そこまでいかないまでも、メンバーの中に自分が大好きな芸能人いると聞けば、(その先に起こるであろう性的な事も想定内で)、自ら進んでお酒の席に赴く女子高生も一定数いるわけで。
芸能界を目指している人間だったら、芸能界へのパイプを築くという意味で、芸能人から呼び出されれば喜んで出てくる女子高生も一定数いるわけで。
山口さんを擁護するのとは、ちょっと違うのだけれど。そういう類の女子高生がもし常に身近にいたのだとしたら、倫理観が壊れてしまうのも、うなずける話かも??と、思ってしまうのは、私だけなのだろうか??