2018-07-06

anond:20180706221416

物理的や認識において現実でいうと証拠というのは直接それと結びつく認識個人にあるだけのもの

何であっても「証拠」と説いたいであろう「直接因子の物理的結びつき」は見つからない

ビデオにとっていようがそれが全員に知られていようが文章でのこっていようが物理的な反応として存在していようが

「それをそのように認識してしまっている」という現象個人が苛まれ可能性はゼロではない

集団で全員がそれに陥る可能性もゼロではない

それを踏まえて「本人に私がしましたといわせる」ことが最重要でそれを代弁させるために

「本人はそれをすることができないので代理人しましたとみとめます」と判断をさせる

それを社会的にみとめどう扱うかとするのが裁判

まり裁判判決が下ると冤罪だろうと犯人だろうと「犯人」になる

証拠がこれだけあるんだから認めろといって認めるか

これだけありますからみなさん犯人だと思いませんか

判断させるための材料証拠なわけで

吹聴してみんなが納得するものであればそれが「証拠」でもあるし

証拠」をつきつけて観念するそれが証拠でもあるし

証拠をつきつけられても無罪を平然と答える真犯人もいる

冤罪であろうとなかろうと何度でも追及すれば追及の仕方で逆転が見込めることもあるだろうし

誰がどう見ても納得せざるをえない状況もある

完璧な状況での冤罪もないとはいいきれない

なので回数制限を設けることにもなっているし証拠証拠としてみとめるかどうかも

厳密に規定があり判断する者も「社会的にみて常識的である」という認可のある人間にさせる

精神的な疾患があるからといって裁判官ができないのは不平等ではないか、と言われるのであれば

その「証拠は?」と質問されている

絶対無二の確実な判断を下すべきそれ」を「証拠」と言えるだろうけれども

現時点で人間証拠と言えるのは「有罪判決にいたった要素」までが証拠しかない

実際に犯罪者として扱われている人間について証拠はなにかと問うてもそれは存在していて

検討され判断材料につかわれ結果「証拠」だった結果ものがあった故なので

今でている結果は冤罪であろうとなかろうとそれがだれかにしくまれものであろうとなかろうと

当人純真無垢犯罪意思がなかったとしても 行動をさせられていまもそんな事実認知できなかったとしても

その行動の責任があると証拠によって結果がでているので

証拠があり犯人だった」という結果しかない

もっと調べれば、真犯人がでてくれば、と無限陰謀論を展開すればいくらでも証拠はでてくるだろうし

それをどれほどの人間判断材料使用して無罪有罪かを再度判断したいと申し出るかはわからない

人が有罪である無罪であるか 永遠に問い続ける必要があるみたいな哲学的もの社会機能として

有用ではないためそんなことは行われないということは想像に容易いだろう


宗教なんかでもそうだが救われるのは非常に容易い また罪に溺れるのも非常にたやす

ジャッジ絶対的だということだけが厳密でさえあれば現実に罪かそうでないかは大した問題ではない

証拠というちりばめられた事象は傾向こそあれ関連するなにもかもが証拠となりえる

厳密にそれを起因として結果がでるという要素を確定させる定義もつこと自体重要なのだ

証拠があるから犯人だ という犯人犯罪者なのかということや証拠真実なのかということは

納得する人間が多ければそれはそうであるとなる

毎日祈りさえすれば救われる 信じさえすれば許される そういう定義が結果につながると定義されることで

証拠を得ることになる

それが実際他者に影響を及ぼすことができる存在というものまり証拠」たりえるかというと

当人には証拠だけれども他者にはそうなりえないこともある

これは人間限界で 絶対の真理というものにたどり着いた人がもしいるとしたら

罪とただしさと証拠についてそれぞれが自己なかにあるそのそれそのものを取り出して人に見せることができるだろう

たとえとして心臓だったりする表現などが文学的にあるけれども現実的にはそれは無理な話

記事への反応 -
  • 麻原が命令した証拠は?

    • 物理的や認識において現実でいうと証拠というのは直接それと結びつく認識が個人にあるだけのもので 何であっても「証拠」と説いたいであろう「直接因子の物理的結びつき」は見つか...

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