はてなキーワード: 慶應大学とは
頭の悪い人ほど自分が有能だと思って他人を見下すと言うけど、これって結局「バカって言った方がバカ」みたいなこと?
偏差値40のバカを偏差値41の人が「お前はバカだ」と言う。でも頭の悪い人ほど他人を見下すのだとしたら、偏差値41も偏差値40を見下したのだからバカだということになる。偏差値41のバカを偏差値42の人が「お前はバカだ」と言う。でも頭の悪い人ほど他人を見下すのだとしたら、偏差値42も偏差値41を見下したのだからバカだということになる。同様の手順を踏んでいくと偏差値75でもバカということになる。この理屈でいけば、自分よりバカな人間を見つけることのできない一番バカな人間だけがバカではないということになる。一番バカな人間だけは他人にバカと言えないからバカではない。
ただし、それは理論上のことであって、やっぱり世の中で一番バカな人間も他人にバカだと言う気がする。なぜってバカだから他人が自分より優秀だと判断できないからだ(もともとそういう話である)。一方で偏差値75の人間が他人をバカだと言うのは、他人が自分より無能だと判断できているのだからいいのではないかという問題も出てくる。しかし、他人が自分より無能だという根拠はなんなのか。おそらくその根拠を示したところで自分より頭の悪い人には理解できない。世の中でもっとも頭のいい人間の思考には誰もついてこれないのだから、もっとも頭のいい人間の出した根拠の妥当性を他の誰も判断できない。したがって、もっとも頭のいい人間が誰かをバカだと言っていたら、周囲からすれば「彼は自分が有能だと思い込んでいて、他人を見下しているのね」と思うだろう。「バカって言った方がバカ」理論によって世の中でもっとも頭のいい人もバカということになる。
したがってバカしかいないような気はする。それこそ人間というものか。
バカ汚染から逃れるためには、他人を見下さなければいいのかもしれない。しかし、他人を見下さない人間はバカではないのかという問題がある。他人を見下さない偏差値40はやはりバカだろう。それじゃ他人を見下さない偏差値60はどうだろうか。彼はバカではないのだろうか。世の中で最も頭のいい人がバカである一方で、他人を見下さない偏差値60がバカではないというのは矛盾しているのではないか。
バカの無限増殖から世界の秩序を守るためには比較的頭のいい層である偏差値60以上のすべての人が他人を見下さないことを守る必要がある。しかし慶應大学などを見るにそれは完全に不可能な話だ。むしろ慶應大学の人間こそ他人をバカにしがちなのではないだろうか。高校中退や中卒などの人たちが他人を見下しているようなところはほとんど見たことがないのだが。
実を言うと、一般人は大勝軒以前の拉麺も理解できないんだけど、あれらはまだ昼食的な要素を内在してるから、そっちだけを受け取ることはできる。
それまで昼食的な要素+拉麺的な要素だった中華料理屋(中国)が、ラーメン二郎へと移行する時に大衆的な要素を切り捨てたのね。より純粋な拉麺に進化するために。
だから、それまで昼食部分だけを受け取って喜んでた一般人は急に食べきれなくなりゲリピーを起こした。
だけど、拉麺理解者は大勝軒以前にも拉麺部分しか見てないから一般人が何を騒いでるのかわからない。
一般の人って、盛付けの凄いやつがラーメン二郎になるとか勘違いしがちだけど(二郎=豚エサ論もその変奏)、全く質の違うもの。
意識高い系ラーメンって、スープをひすたらゴミひとつなく綺麗にアク取りするようなもの。食った気がしない。
日本のエリート(慶應大学三田キャンパスを除く)って教養がない極東の田舎者だから、ラーメン二郎を理解できない。すぐに「意識高い系」を持ち上げる。怖いんだろう。自分に理解できない拉麺が。二郎インスパイアですら大多数は完食できないんだもの。あんな初心者向けなものですら。
とにかくアジア(三田近辺除く)って拉麺後進国なのね。トップの日本ですらこうなのだから。新横浜"ラーメン"博物館が野菜ポタージュと焼き醤油を脈絡なく展示してマシマシしてるレベルだもの。
まず日本(三田近辺除く)に生まれた時点で、ラーメン二郎を理解するには圧倒的に不利。こんなこと言うと、「一般人にもわかやすく(量を)説明できるのが一流ダー」みたいな恥ずかしい駄々っ子が沸いてくるけど、二郎って歴史上一度も少食を相手にしてないので。
暖簾分けの恩恵で、関西人も京都でラーメン二郎を数百円で食えるようになっただけで泣いて喜ぶべき。
そしてあれは、将来のジロリアンと店長の入り口としてやってるの。1000人に1人、将来二郎に貢献する人材がいるかもしれないと信じて。
両校で学生に対して発行されるメールアドレスは"~~@~.waseda.jp"および"~~@keio.jp"だ。何故か"ac.jp"ドメインを使いたがらない。
ちなみに"waseda.ac.jp"や"keio.ac.jp"を持っていないわけではない。両校ともに学部や研究室のWebページ、教職員のメールアドレスにはac.jpを使用している。
国内では圧倒的な知名度があるという自信の現れかもしれないが、海外での知名度はお察しだと思う。海外宛にメールを出した際、所属している学生が教育機関に属していることをとても示しづらい。こんなので留学だの国際化だの言うのはやめてほしい。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という一節は著名だが、この「云ヘリ」は現代における「云われている」という意味で、この一文のみで完結しているわけではない。しかも、この言葉は福澤諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国の独立宣言からの翻案であるとするのが最も有力な説である[2]。
「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。」
ということである。
以上の言葉は初編からの引用であるが、虚実渦巻く理想と現実の境を学問によって黎明するといった、全体として学問の有無が人生に与える影響を説いている。 彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷を否定し、また、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分の欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えればかなり先進的な内容だったと言える [3] [4]。
更に古文や漢文については「よきものではあるがそこまでして勉強するものではない」(意訳)と、意義を否定はしないが、世間で扱われている程の価値があるものではない、と言って儒学者や朱子学者が使うような難しい字句のある漢文や古文を学ぶより、まず日常的に利用価値のある、読み書き、計算、基本的な道徳などの「実学」を身につけるべきだと書いている[5]。
本書は数章を除いて、高等教育を受けていない者を読者に想定している。そのため当時の基準では平易な文章だといえ、小学校の教科書にも用いられた。難解な政治思想を平易に説明するため比喩が多く使われている。
美少女ネタは確か去年の夏に、神保町の東京堂書店のPaperbackcafeの二階で書いたものだった。
ピンクレモンスカッシュを飲みながら、河合塾の古典のテキストを眺めていた時に思いついた。
どうして心がやられていたのかというと、受験勉強中で、はるかちゃんがクラスで神扱いされて自分はゴミ扱いされるし、毎日皮膚はボッコボコで顔はキモいし、早稲田大学なんか受かる見込みは一切ないからと、今と大して変わらない理由だ。
一生こんな感じで自分は生きていきそうだ。
やっぱりはるかちゃんは神様扱いされていたから、楽しく勉強できてはるかちゃんは慶應大学に行ったのだから、やっぱり可愛くて大切にされたほうが人生いいよね。
金曜日、授業が終わってから新幹線に飛び乗って、都内の実家に帰ったけど、やっぱり東京は素敵。
今、京都のセックスしてそうなバカメイカンの学生が周りにウヨウヨいる暗い部屋の戻ってきた。
ジェンダー論の授業も実はそんな感じだけど、どうにもこうにもいかない。
あぁ、生きるのツライ。
もちろん家賃抜きだ。
大体2万円以上が本代で消える。
みんな、アルバイトで忙しいようだ。
勉強なんかする隙がないだろう。
当たり前だが、僕はアルバイトをしなくて良い。
でも、仕送り12万円があって自由時間がたくさんあっても僕は楽しくない。
セックスが出来ない理由は自分の容姿が悪いという理由でしかない。
僕は木屋町の風俗を2回生に教えてもらったが売女を買う気になれない。
2万5千円を払って、腎臓が悪く免疫抑制剤を飲んでいる体に病気を取り込むのは勘弁だ。
バイトしろよという輩が出てくるだろうが、表参道のケーキ屋でオシャレに可愛く売り子をやっている慶應大学に進学したマナちゃんと比べたら惨めになるからやらない。働く先でもルッキズムが働くだろうからやらない。
あと数百日眠ったら、自分はお金持ちになれる可能性があるらしい。
可能性だから、その可能性が消えるのが怖くて震えて本を読んで時間を潰す。父が死なないことを祈る。
怖くて、怖くて、そして容姿がいい女にずっと嫉妬していたから心を落ち着けるために神戸でクレーの絵を見た。
思ったより早く見終わったから、内心飽きてたのだろう。
いつも、僕を正常な気持ちにさせないものがあって、それはお顔のいい女から飛び出た胸だ。
冬は特に苦行だ。目立つ。授業なんてまじめに取り組んでないくせして、セックスは不自由なく、みんなから愛されて楽しそうだ。
僕は本物か粉飾された胸かを見分けるすべを持ってはいない。
だけれども、顔のいい女の子が性的魅力を振りまいているのは許せないのだ。
ミスキャンもどっかのキャンパスで持て囃されている相撲の女もだ。
スカートなんか履いたことない、一生孤独な醜い女を僕は知っているのだけども、彼女を見ていると可哀想な気持ちになる。神は優しくないというのはこの女の容姿で証明される。
三条を歩いていたら、風俗の勧誘に注意というアナウンスが流れていた。
僕の知っている醜女は声をかけられないだろう。
結局、僕があの醜女を気にしているのは自分の容姿が彼女と同じくらい悪いことに尽きる。
今からでも手に入るなら死んでも手に入れにいくつもりだ。
日本人女性が尻を軽視しているとかいう奴がいるが、それは違う。
みんな鍛えていたのだ。全体の筋肉を。
慶應大学に進学された、ハルカちゃんはとてもお尻が大きい子だった。
お尻が突き出ていて、自分は正気を保つの大変で、ハルカちゃんは自分をゴミを見るような目で自分を見ていたから、ハルカちゃんに発情するのは負けだったのだ。
とにかく、ハルカちゃんはお尻が大きかったのだけど、それはおそらく骨格などの遺伝が問題ではないだろうか。
それを軽視して、「日本人女性は尻を軽視している」だの、文化のせいにするだのというのはよろしくない。
あと、ハルカちゃんがお尻が大きくて、自分は発情してしまったのにも訳があって、ハルカちゃんは可愛い顔だったのだ。
可愛くなきゃ、尻がでかくても自分はどうでもよくて無視していた。
事実、尻がでかい女は他にもいたけど、ひどい顔をしていたため、発情しなかったし、自分以外の男も無自覚に無視していたと思う。
結局のところどいつもこいつも、顔で足切りしてそれから「尻がいいか?」と皆考える。
それを自覚して書いているのか、自覚がないのか分からないが、ただ女性は尻を軽視しているとだけ書くのはひどいやつだ。
最近、父親の会社で働いているが、そこにも尻が大きい女がいる。その女をみると、ムラムラしかけて苦しくなる。
その女は尻と同じく、胸も大きい。
顔はカバ顏だけど、肌は白くて、顔は汚くはない。
こんなことを書いてもなにかいいことがあるかといったら、微塵もないのだけど、「尻を軽視している」と言っても、尻がよくても顔が悪ければ男は興味を持たないのだ。
妹と食事のとき会話した。
頭の悪い母親もそこにいた。
テレビには殺されて駐車場に捨てられた、殺す価値なんてないような不細工な女子中学生の写真がどアップで映っていた。
母親は「あんな子、どうして殺すんだろうね」、妹は「同情が減るよ 顔写真ながすと」と言っている。
自分は一昨日あった、高校1年で中退、2年間ひきこもり、1年大手予備校通塾、そして福祉の専門に行った頭の悪い従兄弟がイケメンだったことをしゃべった。
「兄がイケメンだったら良かった」とか言った。
妹が通う女子高校で複数人の友人との会話の話題で「街に歩いている男より自分の兄の方がいいよねー」とかいう内容をしていたとき、自分だけは兄が容姿が醜いので会話中に黙らざる得なかったそうだ。
おそらく、作り話ではないだろう。妹は前、友人の兄が慶應大学に通っていて、高身長でイケメンだと話していた。
自分はなんとか笑いながら、妹に「とりあえずイケメンと言っておけばよかったのに」と言った。すると「写真でバレる」と返してきた。
自分の容姿が醜いのは知っている。大学がクソなのも知っている。
顔が普通だったらいいのだが、とてもインパクトのある醜さだ。10人いたら10人がブサイクという。
自分は妹に対して「目でも赤坂で整形しろ」とは言っている。しかし、それは目以外はいいと言っていているわけで、妹も知っている。
昔、自分が妹に対して整形しろとか言ってなかったとき、「自分は目が小さいこと以外はそこそこいいから恵まれてる 目はどうにでもなるから」と言っていた。知っているのだ。
妹は自分に整形しろとは言わない。それはどうしてかというと整形でどうにかなるような顔ではないのを知っているから。
妹は美人ではない。自分と同じ、父方の醜い祖母や祖父の腫れぼったい一重な遺伝が強いし、顔がやっぱりよくはない母親の一重を引き継いでる。
でも、ずっと自分よりは綺麗だ。
自分は妹に顔はひどいし、身長も低いし、病気だし、大学はバカメイカンだしどうすんの?と言われたときもあったけど、何も答えられなかった。
女は結局顔と身長が優先しているのは妹を見て知っている。女がいかなるものかは下手な奴よりずっと知っている。
自分の父親が稼いだ小金が溶けた2025年。人々は重税と物価高と貧困で喘ぎ苦しんでいる。
持病持ち2.5流大学3流学部の醜男は今よりもありとあらゆるものをこじらせているのだろう。きったねえ肌つけたきったねえ顔の腎臓病のキモいおじさんになっている。 死んだほうがいい。
僕は千代田区には住めなくなっているだろう。
金をもった年寄りが千代田区で裸の顔のいい女にリードを付けてかわいがっているのだろう。オマール海老のビスクや老人の肉棒をなめている。
リードに付けられた裸の顔のいい女は枯れた釘宮理恵のような声で「わんわんっ」とか「ニャアニャア」言っているはずだ。
慶應大学という学歴と愛玩動物としての利益を享受しているのだろう。
僕は金持ちの老人を妬まないだろう。きれいな顔で肉棒なめてる愛玩動物のハルちゃんを妬むはずだ。
ハルちゃんは老いによってポイされるはずだ。運が良ければ最後まで飼われるが。
女犬である彼女がポイされて死んでも、僕は老人ではなくハルちゃんを妬む。今までの人生と、死んだことが羨ましいからだ。
2025年、夜の学食でほうれん草の巣ごもり卵しか喰っていないのにガタイがいい汚らしいドブスな同じ学部の女はどうなるのだろうか知ったこっちゃない。2015年現在。僕を含めて、同じ学部の男のほとんどはあのほうれん草の巣ごもり卵のドブスを女としてみていないのは確かだ。
2025年を考えて死にたくなるけど、明日もあさっても限界だ。
Avidメディアコンポーザーとかカメラとかマイクなんてなくなれ。
おっぱい揺らした、性的魅力で人生を謳歌するであろうプルーンプルーンのおっぱいをつけた顔のいい女なんかもう見たくない。○○○大学なんてゴミ大学行きたくない。考えただけで死にたくなる。死んだほうがいいのだけど、人生というのはファミマTポイントカードレベルにやめルのが難しい。ロープを買っても、ファミマTポイントカードなので、うんざりして辞めたいのにやめる手順にうんざりしてやめるにやめられない。
はてな匿名ダイアリーに似たことを何度も投稿するのをやめなければならない気もする。
どうにかしないと思いながら2025年まで生きるのだろうか。
http://megalodon.jp/2015-0614-1835-00/anond.hatelabo.jp/20150614182953
橋下徹と桜井誠の約7分にわたる「意見交換」へと感想はさまざまあるが、どれもしっくりこない。
【言論の自由】「橋下vs桜井」意見交換会を見て[桜H26/10/22]https://www.youtube.com/watch?v=vu0fpCZikIk&list=UU_39VhpzPZyOVrXUeWv04Zg
まずは「論外」という反応から見ていく。
この動画で言ってることは結局「橋下は桜井誠の「在日特権」についての主張を聞かなかった」ということにまとめられる。そもそも問題となっているのは「ヘイトスピーチ」についてである。在日韓国人・朝鮮人を侮辱して、憎悪を煽る言動についての意見交換なのであって、「在日特権」について意見交換をする場ではなかったということを確認する必要がある。よって、私はこの種の意見を「論外」であると評価している。
てか、もともとチャンネル桜は、桜井誠を世に出したメディアでもあるんだから(途中で喧嘩別れにしたにせよ)、その辺をちゃんと清算すべきだよね。水島総氏は「ヘイトスピーチは情報謀略戦において不利に働く」と様々なところで、さかしらに言っているけれども、ようは「保守がみんな在特会みたく見えるようにつくられてしまうからやめろ」って言ってるだけである。水島氏のこうした発言はヘイトスピーチへの本質的批判には程遠い。「自分に不利になるからやめろ」と言ってるだけだから。
あと、「在特会とアンチ在特会を平等に規制する法律をつくらなければアンフェア」だと動画で述べているが、この点に関しても詭弁があることを述べ添えておく。問題となっているのは「ヘイトスピーチ」である。「ヘイトスピーチ」とは、特定の人種・国籍に対して差別を煽るような憎悪表現である。アンチ在特会にそのような発言は、明示的には存在しないはずだ。(アンチ在特会も「ヘイト」だ、という意見をよく聞くけれども、ヘイトスピーチについての基本的知識がないのだな、とそのたびに私は思っている)
中道左派に多い意見だと思う。おそらく国民の多くは、桜井氏の下品さに嫌悪感をもよおし、橋下氏の「公人」としての振る舞いに疑問点を抱いたことだろう。
橋下氏の発言には、たしかに同意できない部分がある。例えば「本当に政治的主張を行いたいなら選挙に出ろ」といった類のことだ。これは彼が昔から言ってたことだが意味不明。デモ活動は立派な政治的活動であり、直接に法整備を行うわけではないにせよ、国民意識を変えていくことで、ひいては国会にも影響を与えうるものであるから、立派な政治的活動である。こんなことは、グラムシのヘゲモニー論を引用するまでもなく常識で考えれば分かることだ。
こうした疑問点は様々あるにせよ、今回の橋下の綿密な行動に私は驚嘆した、というのが感想であった。橋下氏自身も述べていることではあるが、彼の行動はきわめて計画的であったとリアルタイムで見ていて感じた。彼はなかなか感情的には流されない人間であり、冷徹な人間性を見せる。そもそも桜井氏の今回の言動くらいで激昂して理性をなくしてしまう男ではない。「帰れ帰れ」という言葉もおそらくはじめから用意したものであっただろう。というのも、在特会が常々言っていた「朝鮮人は半島に帰れ」という言葉を模倣して、桜井氏個人に突きつけるという手法を橋下氏はとっているのだと私は理解しているからである。それから、より政治的に言えば、「ヘイトスピーチ」を行う人間を公人が思いっきり面罵した、という点も評価できる。ヘイトスピーチを行うものはこのように扱われても仕方がない、と世に流布した功績は大きい。
他方、桜井氏の行動について。彼の「激昂」も半分以上は作為的・演技的であっただろう。そもそも彼の「激昂」それ自体が演技的であるのだから、当然と言えば当然なのだから仕方あるまい(この点については「ネットと愛国」における西村修平と桜井誠の出会いについての記述を参照いただきたい)。しかし、彼の「激昂」は、残念ながら、その容姿・恰好からしても、多くの国民の賛同を得られるものではない。クレーマーそのものである。多くの国民は彼の言動に不愉快を覚えたことだろう。
桜井は自著がAmazonで一位になったことを喜んでいるが、それはあくまで一過性のものだと私は考えている。動物園にいるチンパンジーを見たがる好奇心以上のものではない。二三年の視点から見れば、この会談が自分に大きな打撃を与えるだろうことから目を背けているに過ぎない。
なお、こうした人物評にまどわされずに、あの場にいて、どちらかに組せねばならぬ、という当事者視点から見れば、100人中99人は橋下につくのではないかと思う。第三者的視点だけではなく、こうした当事者意識を持ってみることは様々なコンフリクトを見つめてみる上ではきわめて重要なことだろう。
したがって、「どっちもどっち論」に対して私は違和感を覚えている。
外山恒一はツイッターで「やっぱり私は桜井誠より橋下徹の方がはるかに嫌いだ。」と述べている。
https://twitter.com/toyamakoichi/status/524541443637919745
https://twitter.com/toyamakoichi/status/524558184594173954
https://twitter.com/toyamakoichi/status/524577760044277760
言葉数が少ないのでその真意は測りかねるが、外山氏らしい発言だと私は受け取った。外山氏は、世の中でヘイトスピーチに批判的になってきたのを見計うかのように、反ヘイトスピーチを大上段から罵る「パフォーマンス」をおこなう橋下氏の「したたかさ」に不愉快を覚えるのだろう。私は全力で同意をしたいと思った。それにしても、「橋下徹か、桜井誠か」という二者択一を迫られるような事案が出てくるとは、やはり悲しい出来事であるだろう。
法的にヘイトスピーチについて見てみたい。まだ日本にはヘイトスピーチを規制する法律はなく、日本国憲法第21条における「表現の自由」に抵触しないかどうかという慎重論も上がっている。しかしながら、これは国内法だけではなく国際法にも目を向ける必要がある。日本も批准している人種差別撤廃条約だ。この条約は、「京都朝鮮学校公園占用抗議事件」の民事訴訟においても注目されたことで記憶に新しい。京都地裁は「我が国の裁判所に対し、人種差別撤廃条約2条1項及び6条から、同条約の定めに適合する法の解釈適用が義務づけられる」と述べ、大阪高裁も支持している。司法によって国際法の直接適応を受けるのには、立法府のだらしなさを私は思う所である。同条約4条1項では「人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で除伐すべき犯罪であることを宣言すること」を締約国に求めている。しかしながら、日本は1996年に正式に批准してからもう20年近く経とうとしているのに、いまだに「表現の自由」を盾にして足踏みしているのは情けない。憲法98条2項に基づき、早く法整備を行うべきである。
日本国において日本人以上に「特権」をもっている人は存在しない、というのが私の意見である。もし日本人以上の特権を在日の人が持っているのだとすれば、具体的に教えていただきたい。
なお、私的には、むしろ「竹田特権」を告発したい。竹田恒泰のことである。彼は慶應大学で憲法学の講師をしていたというが、通常ではありえない「特権」がなければ、とても彼は講師になれる人間ではない。彼は修士号も持っていないし、学部時代に憲法学をおさめていたわけでもない。学術論文も一つもない。なぜそのような人間が大学で「憲法」の講師をすることができたのだろうか。これは「特権」以外の何ものでもないだろう。「特権」という言葉はこのように使うのである。
少し前に「学年ビリだったギャルが慶應に行く」という本が売っているのを見かけた。
思わずこのタイトルを見ただけで思い出してしまった、未だ忘れられない私の高校時
代の思い出を語りたい。
私の通っていた高校は県立の中でもかなり下&定員割れというよくある新興校だった。
基本バカしかいなくて、中学の勉強をほとんど理解できてない人が入る高校である。
不良とギャルが圧倒的に多いのだが、たまたまうちのクラスは雰囲気が明るくて不良
もギャルもオタクも皆仲が良く、担任の若い熱血女教師も皆から好かれていた。
コースが分かれている関係で、クラスは基本1年から3年まで担任ごと持ち上がりな
のでその点でもかなり恵まれていたと思う。
私自身はよくいるキモオタで皆からは「パープル」と呼ばれていた。
これは当時発売されたばかりで流行っていたユニクロのフリース(紫)を愛用してい
たことから名付けられたのだが、まあ私のことはどうでもいいんだ。
ギャル子はバカだけど明るくて人見知りしないクラスのムードメーカー。
当時流行っていたガングロに憧れすぎて、数学のおじいちゃん先生から「サンボ」と
一方、秀才君は不遇の秀才で、中学生時代に大病をして出席数が極端に少なかった上
に一番頭のいい公立高校に落っこちてしまい、二次募集で定員割れのうちに来たとい
う経歴の持ち主だった。ちなみに秀才君に関しては結論から先に言うと慶應大学に進
学し(開校以来初の快挙)今は都庁職員として忙しい日々を送っている。
事はギャル子が突然「先生になりたい」と言い出したことに始まる。
当時、GTOが大流行中で多分に漏れずギャル子も「不良→教師」という分かり易い
感動のツボにまんまと乗せられた一人だった。
言うまでもなく誰も真剣に受け取っていなかったがギャル子は秀才君に勉強を教えろ
と絡みだし、秀才君は最初嫌々ながらも放課後ギャル子の面倒を見ることとなった。
それが確か3年の5月位だったかな。
同窓会で秀才君がしみじみ言ってたけど「小学校からの復習だからね」というレベル
だったらしい。まあ私自身を振り返れば高校がそんなレベルだから仕方ないと言うこ
とは皆分かっていたし、すぐにギャル子も音を上げると思っていた。
「そこまでヤル気があるのなら」と熱血女担任も乗り気になり、担任が仕事をしてい
た教務室の隣の席を開放し、毎日毎日放課後担任が帰るまで2人で勉強していた。
夏から秋・そして冬へとあっという間に時は過ぎギャル子は日に日に変わっていった。
日サロ通いを辞めたせいかサンボの面影も徐々になくなり、二学期が始まる頃には秀
才君が「教え甲斐がある」と言い始めた。大半は就職し(私も就職組)、進学組もほ
とんどは専門という状況でクラスで大学を受けるのは秀才君とギャル子たった2人だ
けだった。
それでも正直、ギャル子が大学に受かるなんて本気で思っていた奴はいなかったと思う。
何でよりにもよって国立なんだ!私立ならなんとかなるとこありそうなのに!
というのが私たちの声だったが、ギャル子は熱血女担任の母校であった埼玉大学に進
学して教師になると決めていた。
この高校生活最後の一大イベントを見逃すわけには行かず、クラス有志でギャル子の
合格発表を見守る集いを募ったところクラスの大半が参加する事になった(ギャル子
は嫌がったがw)。
私達は年明けの自主通学になった後も「祈る!合格」や「必勝」などのポスターや横
忘れもしない。
秀才君が華麗に慶應大学に合格しうちのバカ高校に激震が走るのもつかの間、
その日はどんよりとした天気で北浦和から受験生1人と全く関係のない応援軍団がバ
いつも明るく天然なギャル子はガチガチになっていて、馬鹿な私達は「横断幕はやり
すぎだったんじゃないか?」とか今更な疑問に困惑していた。
テレビで見るような東大なんかの合格発表と違い、たくさんの人がワイワイ賑わって
いるような光景じゃない。時間帯的にもピーク後だったら気持ち程度の学生っぽい人
「いってくるね」
私達は祈った。とにかく祈った。
こんなに頑張ったギャル子にどうか春を迎えさせてやってくれ!神様!!頼む!!
みんな固唾を飲んで見守っていると、ギャル子がクルッとこちらを振り返った。
ギャル子は泣いていた。泣いたままゆっくり私達の方に近づいてきた。
鼻水と涙でボロボロになりながらギャル子は私達に抱きついてきた。
横断幕を掲げた怪しげな集団が歓喜の怒号を上げ、ギャル子を胴上げした。
皆自分の事のように喜び、女子や一部の男子(私)は泣いていた。
ギャル子がどんなに頑張ったか知っている秀才君はボロボロ泣いて胴上げしていた。
世間から見れば何てことはない一地方大学の合格発表かもしれない。
でもギャル子にとって、私達の高校にとってギャル子が成し遂げたことは東大合格に
も優らぬとも劣らない大偉業だったから。
私達はわざと熱血女担任には連絡しないでそのまま高校の職員室に雪崩れこんだ。
「先生!受かった!」
職員室は俺達にも引けをとらないほどの歓喜の渦に巻き込まれ、ギャル子と熱血女担
任は抱き合って泣いて喜び合った。
騒ぎを聞きつけた校長先生が職員室に飛び込んでくると何故か校長も泣いていたw。
不良が多いうちの高校で本当に苦労していた校長や他の先生たちは、ギャル子が成し
遂げた事がどんなに凄いことかとてもよく理解していた。
と言うとそれまで泣いていなかった他の先生もボロボロ泣きだした。
と校長が叫んだ。
と書き加えられた。
あれからもう十数年が経過した。
定員割れが続いた我が母校は統廃合されて名前こそ変わったものの
とりあえずなんとか存続はしているみたいだ。
ちなみに私は某鉄道会社の車掌として右往左往する日々を送っている(皆さんに会っ
てるかも^^;)。
そしてもちろんギャル子は、県立高校の国語教師として忙しい毎日を送っている。
【おことわり】
しかし元・ギャルの大逆転劇やクラスの話は間違いなく事実ですので、ちょっと前
にも「学年ビリのギャルが~」のような話が実在していたと思っていただければ幸
いです^^;
早慶戦といえば、早稲田大学と慶應大学がおこなう野球の対抗戦であり、六大学野球のクライマックスとしてよく知られている。
だが、その裏側でもう一つの戦い、「珪藻戦」がおこなわれていることを知る人は少ない。
私がその存在を知ったのは、大学に入った年の五月、教授の下のごとき発言によってである。
小学校の理科で習ったように、珪藻は植物プランクトンの一種だ。
珪藻戦というからにはプランクトンが関係しているのだろうか……興味をひかれて調べてみると、この存在の極めて奇妙であることが、徐々にわかってきた。
慶應大学において、珪藻戦はまことに由緒正しきイベントということになっている。
実際、毎年五月の半ばになると、観戦チケットが中庭で売られるようになり、各種サークルの人間が行列を作る。
しかし、メディアが報道するのは早慶戦のことばかりで、珪藻戦についての記事はさっぱり見当たらない。
対戦相手である早稲田大学では、さすがに珪藻戦の名を知るものは多い。
それでも珪藻戦の話題に触れるものはバカにされるようだ。
早稲田大学の学生に、珪藻戦について知っているか、と聞いたことがある。
彼は失笑しながら、
と答えた。
早慶戦と珪藻戦の決定的な違いは、その応援の仕方にある。
早慶戦の応援は、全学をあげての大行事である。早慶それぞれの学生が肩をがっしりと組み、校歌を若々しく歌い上げる姿をテレビで見たことのある人は多いと思う。
それに対して珪藻戦の応援は気まぐれだ。慶應の学生は自分の大学を応援したりしなかったりする。
これには理由がある。
慶應大学では珪藻戦の日が休校になる。そして珪藻戦は土・日・月と行なわれ、二勝先取であるから、両者一勝ずつで三戦目にもつれこめば、学生は思わぬハッピーマンデーを手にし、自宅で珪藻のごとく光合成にはげむことができる。
だから、慶應生の多くはそれが早慶どちらであるかに関係なく、初日に負けた方を二日目には応援するようだ。
「天は人の上に人をつくらず」という一万円札の教えに従った結果かもしれない。
また、珪藻戦は異性との交友を深める場としても大きな期待を背負っている。
ある卒業生によると、肩を組んだ拍子に指先がおっぱいをかすめてしまう、というのはごく普通にあることで、おっぱいを鷲掴みにしてそのままホテルまで引き摺っていってしまうことすらあるのだという。
人間は珪藻とちがって有性生殖をする生物だから仕方ないのかもしれない。
早稲田には、近ごろ独自に万能細胞を開発している卒業生がいるということである。
これが珪藻戦における勝利を目指したものだ、というのは考えすぎだろうか。
なるほど、すまん。
確かに説明が悪いな。
「ある視点で見た時に自己満足できる」なら同一集団のなかで自己満足を強化してればいいんじゃないかという話。
たぶん自己満足感が365日ない状態だったら、ほんとに鬱病だとおもう(セロトニンがでてない人)
それって自己否定しないといけないときって、別の集団からの視点の強制があるとおもう。
おまえらが成功者だとおもってるような人間だって自己否定を繰り返してんだぞ?
自営業で数千万みたいな人は、上場企業経営者の会合にでたら楽しくないだろう。
逆もおなじ。
上場企業経営者1人も、自営業で自由にやってるやつの会合の中にぽつんとしてたら疑問もでてくるだろ?
そういうもんだとおもうんだけど違うかな?
でも確かに説明はわるかった。
そもそも「絶対的な自己満足」はないから「一視点での自己満足をする」→その集団同士で集まる→以下同文
に読み替えてほしい。
早慶理工学部 2007年度の「合格者・入学者・辞退者」偏差値 - 能ない鳶は能ある鷹をうめるか
早稲田大学の入学者偏差値≒合格者偏差値の約91.4%、慶応義塾大学の入学者偏差値≒合格者偏差値の約91.2%
早慶理工学部 2007年度の「合格者・入学者・辞退者」偏差値
合格 辞退 辞退率
東京大学 3107 17 0.5%
京都大学 2928 16 0.5%
一橋大学 947 4 0.4%
慶應義塾 9995 5899 59.0%
早稲田大 18300 12640 69.1%
中央大学 15089 11403 75.6%
2014年度 早稲田大学・慶應義塾大学 入学者における一般入試比率
慶應義塾大学理工学部、早稲田大学基幹理工学部の辞退率が50%を超えていると聞いたのですが本当ですか。
統計学で完璧に証明「私立は定員が多いので学閥の勢力を伸ばした」 大学は偏差値ではなく学閥で選ぶべきである
学閥一覧表 主要企業管理職者の出身大学ランキング|偏差値図書館
早慶の正規合格者の入学辞退率が50%超えてる現状って、一体何人が知ってるんだろうねえ(´・ω・)?
知恵袋で、早稲田大学や慶応義塾大学は、合格者の辞退率が60%などという投稿を見たことがあるのですが、これは本当でしょうか?
早稲田や慶応のような日本のトップ大学の入学辞退率が異常に高いのは何故ですか?
地方の国立か早稲田、慶応はどちらがレベルが上ですか? - Yahoo!知恵袋
旧帝と早慶どっちのほうがすごいですか?下記に異論はありますか? - Yahoo!知恵袋
超大手企業は「圧倒的に旧帝大、次いで早慶上智」をターゲット 一般入試の比率が高い大学を選ぶ動きも
NEWSポストセブン|早慶が関東ローカル大学に!? 地方出身者減で学生レベル低下
付属高校からエスカレーター式に大学に入った学生は、就職活動で不利になる。そういううわさがあるそうだ。本紙電子版の連載企画 :日本経済新聞
受験なしの有名一貫校卒業者「使い物にならない」 マツコ発言に「これは本当」「8割はダメ」同意する声多いが...
首都圏・私立大学人気ランキング2013…受験者数・合格倍率・辞退率
合格 辞退 辞退率
東京大学 3107 17 0.5%
京都大学 2928 16 0.5%
一橋大学 947 4 0.4%
合格 辞退 辞退率
慶應義塾 9995 5899 59.0%
早稲田大 18300 12640 69.1%
東京 13 3,293 0.4
大阪 53 2,724 1.9
京都 64 2,794 2.1
一橋 24 1,059 2.3
北海道 98 2,440 4.0
東北 98 2,395 4.1
名古屋 104 2,335 4.5
九州 123 2,595 4.7
W合格対決75大学特集 慶応医とその他医学部の併願対決(2007)
慶応医0-24理三
45 1 1
47 2 2
49 1 1
51 2 2
53 2 2
55 14 11
57 27 21
59 45 22
61 78 37
63 108 2
65 131 3
67 131 3
69 83 2
71 41 1
73 4 0
75 3 0
76 1 0
44 1 1
47 1 1
49 1 1
51 3 3
53 2 2
55 16 16
57 31 17
59 44 21
61 88 32
63 101 4
65 112 2
67 123 2
69 75 1
71 32 0
73 3 0
75 3 0
76 1 0
1992年
64.4 早稲田・法
63.4 上智大・法
61.6 早稲田・商
61.4 明治大・法
60.5 慶應義塾・商 ☆☆☆
60.4 立教大・法
60.1 青山学院・法
57.0 法政大・法
ICU 620人 350人(56.5%) 270人(43.5%) 1校
上智 2160人 1322人(61.2%) 838人(38.8%) 0校
慶応 6145人 3920人(63.8%) 2225人(36.2%) 5校
早稲田 8880人 5880人(66.2%) 2000人(33.8%) 5校
法政 5850人 3965人(67.2%) 1920人(32.8%) 3校
中央 5410人 3694人(68.3%) 1716人(31.7%) 3校
立教 3685人 2575人(69.5%) 1110人(30.5%) 2校
明治 6205人 4421人(71.2%) 1784人(28.8%) 3校
青学 3132人 2285人(73.0%) 847人(27.0%) 1校
[学閥][閨閥][派閥][藩閥][同調圧力][空気の研究][先輩][保身][企業][就職]
一般社団法人学士会(がくしかい)は、旧帝国大学系大学である北海道・東北・東京・名古屋・京都・大阪・九州の各大学(前身を含む)、京城帝国大学及び台北帝国大学の学部卒業者、大学院修了者、前記大学の現役の学長、教授、准教授(助教授)またそれらの職にあったものによる、大学の枠を超えた一種の同窓会組織。
元文部科学省所管。
武雄市図書館について、慶應大学総合政策学部教授の上山信一氏が非常に興味深い考察記事を公開されている。
なぜ武雄市立図書館はすごいのか――ツタヤ、スタバとのコラボ(下)
http://www.actiblog.com/ueyama/304221
樋渡市長や図書館職員、運営受託者のCCC(カルチュアコンビニエンスクラブ)へのインタビュー取材で得たことをもとに、武雄市図書館がなぜすごいのかが分析されている。
しかし、上山信一氏は、見えないものを見ようとするあまり、武雄市図書館の本当のすごさが伝えきれていないと感じた。
僭越ではあるが、見えていることをもとに上山信一氏の記事を補足し、この武雄市図書館プロジェクトの意義を考えたい。
最初にプロジェクトの内容を確認したい。これは武雄市とCCCとの共同事業である。
武雄市は、リニューアルを機に、入り口のすぐ横にあった蘭学館と称する歴史資料館のスペースと、同じく入り口近くにあった子供向け読み聞かせコーナー及び子供用トイレ・授乳室のスペースを、CCCの営業スペースとして貸し出した。
CCCは、歴史資料館だったスペースにはレンタルDVD店を、子供の読み聞かせコーナーだったスペースにはカフェ(スターバックスコーヒー)を開設した。
歴史資料館は会議室を転用したスペースに、子供の読み聞かせスペースは館内の最も奥に設置し、子供用トイレ及び授乳室は入り口すぐの1箇所に集約された。
CCCは武雄市に営業スペースの賃料を年間600万円(月額50万円)支払うことになるが、同時に図書館の指定管理者となることで、向こう5年間の間、年間1.1億円(月920万円)を受け取ることができる。
リニューアルに際しては、市は4.5億円を、CCCは約3億円を投資した。
市の投資額4.5億円には、一般財源から1億7500万円、合併特例債から2億7500万円があてられている。
合併特例債の70%にあたる2億円は国から交付される仕組みのため、武雄市の実質負担額は4.5億円のうち2.5億円で、残りの2億円は国が負担する形となっている。
CCCの投資額は約3億円とされているが、武雄市から「新図書館空間創出業務委託料」として約1.3億を受け取っているほか、営業エリアの商品仕入れ代金などの流動資産を含まれるとされているため、実質的な投資額は抑えられている。
図書館のスタッフは市の職員が3人、CCCが16人(館長1名、司書15人)である。直営時代の司書は引き続きCCCが契約社員として継続雇用し、書店部分の選書やPOP作成などの業務も兼務している。
このように、武雄市とCCCが手を取り、両者の費用負担を軽減するためのモデルを共創しているといえよう。
成果は顕著だ。蔵書数は19万冊と変わらないが、高さ3m以上の高層本棚を利用して全面開架としたことで、すべての本をただ遠目に眺めることはできるようになった。
もちろん、手の届かない所にある本も司書に依頼すれば5分~15分ほどで取り出してもらえる。
公共図書館は予算の制約から雑誌の品揃えに苦労しているが、ここではCCCの店頭にある雑誌の最新号が自由に読める。もちろん欲しくなったら買って帰れる。雑誌のバックナンバーは蔵書しないが、必要な際には他の図書館より相互貸借を受ければよい。
開館時間は4時間も伸びて午前9時から午後9時までとなった。閉館日がなくなり、年中無休となった。午後6時に閉店するDVDレンタル店は論外であるが、仕事帰りにレンタルDVDを利用する層を考えると、午後9時の閉店でも早すぎる。他のCCC店舗同様に、深夜0時までの延長が期待される。
カフェは、楽しい、人と会い、語れるという雰囲気をかもし出し、若者や子連れの母親達が集まるようになった。
コーヒーを飲みながら、ワイワイガヤガヤと語らっていても、館内に流れる大きめのBGMで打ち消すことで、気にならないよう工夫されている。
また、公共図書館に良く見られる、持ち込み学習をしている学生も全く見当たらない。それもそのはず、学生は2階に設けられた学習室を利用している。これは図書館が定めたものではなく、地元学校が自主的に定めたというルールにより実現されている。学習室はいささか手狭ではあるが、1階のカフェでコーヒーを購入すればカフェ席を利用することもでき問題ないであろう。
結果的に、これまでも決して少なくはなかった入館者数は今年のリニューアル後、激増している。
これまで、スターバックスは佐賀県には4店舗しかなく、しかも2店舗は高速道路サービスエリア内のため容易にアクセスできなかった。
武雄市図書館におけるスターバックスの集客力は高いと言わざるを得ないであろう。
財政面では、市はCCCに年間1.1億円の委託料を払うが、これは従来よりも年間1億円の経費削減となると見込んでいる。
武雄市は、現在の武雄市図書館相当の運営を直営でおこなった場合、年間2億円を超える費用がかかると試算。これをCCCは年間1.1億円で行うことができることから、少なくとも、年間1億円の「経費削減効果」が見込めると見積ったのである。
市長は、毎年1億円の「経費削減効果」があるのだから、4.5億円の初期投資を行っても、5年間の指定管理期間中に取り戻せると説明。それを武雄市議会は承認したわけである。
武雄市図書館が開館した今、改めて雇用者数や書店部分を含めた蔵書数、レンタルDVDなどの品揃え、武雄市の宣伝効果等などの経済波及効果を考慮すると、私の見立てでは直営で運営した場合の費用は、年間2億どころか、年間60億はくだらないであろう。
これをCCCは年間1.1億円で実現しているのだから、武雄市は年間59億円の「経費削減効果」を得ることができ、5年間では約300億円の「経費削減効果」となる。
武雄市長は就任時400億円あった借金を7年で90億削減した。
今回のCCCへの指定管理で生まれた「経費削減効果」300億円を借金返済に当てることにより、残り5年で武雄市の借金はゼロにできるであろう。武雄市議会も承認するはずだ。
表面的な効果は以上のとおりだが、本件は官民連携の先駆事例の意義を秘めている。
第1に社会教育施設としての本来の使命を果たしている点である。
本離れ、特に若者のそれはどこでも大きな問題だ。それは図書館にとっても課題だし、書店にとっては死活問題だ。本件はそれに対して図書館と書店、書店とカフェ、さらに書店とレンタルDVDを組み合わせることで対処した。
全てを同じ場所にまとめ、多様な選択肢を用意する。そのことで市民の興味と関心を喚起し、集客に成功した。
書店やカフェ、レンタルDVDで客を呼び寄せ、図書館の入館者数としてカウントしたことがすごい。
こうすれば図書館の入館者数を飛躍的に増やすことができ、社会教育施設としての図書館の使命を果たせていると示すことができる。
ここまで踏み込んだ意義はきわめて大きい。
もとはごくごく普通の図書館だった。多くの公立館と同様に、書籍数は限られ、来訪者も限られ、開館時間も短い。それでいて運営費はかさんでいた。また広い面積を事務スペースが占めていた。
リニューアルでは、スペースを営利部分の顧客のために最大活用することにした。顧客ニーズを真剣に突き詰めた結果、カフェの併設やレンタルDVD店と書店の併設という"ワンストップサービス"化のアイディアに至った。
顧客志向の発想は開架の本の並べ方を従来の10進法の図書館分類(哲学などが入り口に来る)から営利部分利用者の利便性を考えた順番に配列する工夫にもつながった。(市長の著書が入り口近所に平積みされるなど)。
営利事業との並存は、スペースの生産性向上だけでなく、来館者数の拡大、賃料収入をもたらした。また、指定管理者は市役所からの収入だけでなく営利収入も使ってサービスの充実が図れる。最低限の運営費用は指定管理料として支払われるため、営利収入の利益率は高い。店も併設しているから、普通の指定管理だとありえない数のスタッフしか図書館部分には確保されていない。
第4に武雄市を有名にした。
文化と教育を重視し、改革に挑んでいるという姿勢が全国に伝わり、武雄市の知名度とイメージ向上に寄与した。
マスコミに積極的に露出する一方で、ソーシャルメディアを通じて寄せられた感想や意見は「ゴミのような意見」「君はゴキブリ以下」と一蹴するなど、武雄市のイメージ形成には今や欠かせない存在である。
また、実名で意見を寄せた人物に対し、職場の上司や国会議員を通じて圧力をかけたり、勤務先の企業名を連呼し不買を公言したりするなど、ソーシャルメディアの特性を十二分に活かした、武雄市の知名度向上策を実践している。
今の時代、インターネットの普及で図書館はもちろん、紙の書籍の存在意義すら問われている。
また、CCCの運営する店舗は全国に約1500店舗あり、スターバックスも約1000店舗ある。
今やTSUTAYAもスターバックスも、ほとんどの人が簡単にアクセスできる時代である。
レンタルもインターネットで頼めば自宅のポストに届き、淹れたてのコーヒーもコンビニの店頭で買うことができる時代になった。
ファミマの隣にファミマができる時代である。今後はレンタルDVD店も淘汰されていくから、企業も新たな業態を見つける必要があるだろう。
そういう時代であるにも関わらず、武雄市図書館は、書店とレンタル店とカフェを併設し、それらの利用者を図書館利用者としてカウントした。
武雄の例は全国の公立図書館にショックを与えている。
だが、武雄市や武雄市図書館を擁護する人々は、図書館法や司書制度は既得権益で、既得権益者が「いかがなものか」と批判していると言う。
しかし、指定管理制度を含めた民間活用全体に関する否定的な意見は、武雄市図書館に関しては見当たらない。
批判の多くは、議会を含めた武雄市政が行った決定プロセスや、指定管理者であるCCCに固有のものである。
特に、インターネットでやりとりされる、単純な感想や素朴な疑問に対する、武雄市長を含めた武雄市の過剰なまでの反応と、その対応のまずさが、批判の声をより大きくしていることは否定出来ない。
〜 http://janesuisjapanese.blogspot.jp/2013/08/vol14.html を読んで感じたこと。
父は木挽町で生まれ泰明小学校、銀座中、塾高から慶應大学に行った。
だが、父は木挽町が好きなようで本籍はいまでも木挽町だし、僕も生まれた時から初詣は家族揃って鉄砲洲に行っている。
また、父と仲の良い小学校の同級生はいまでも銀座で店を構えてる連中が多く、父は今でもスーツは銀座の同級生に仕立ててもらっているようだし散髪も同じくである。
目白駅から祖父の家まで行く目白通りは、いまでも好きな道の1つである。
母から地元での話はあまり聞いたことがなく、言うのは学校の近所の話だったり、就職してから出来た友人の話の方がよく聞く。
僕はと言えば生まれたのは小石川で、その後、馬喰町、恵比寿、一番町、南青山、東麻布と都内を転々としている。
転々としているのは父の気まぐれだと思う。同じ町に住んだのは一番長くて7年程度だった。
また小学校から大学まで私立なので同級生も皆、住んでいる所がバラバラだった。
家が近所の奴もいたが、多くは電車で数十分で、遠い奴は葉山とか佐倉、三島などもいた。
住んでる所が一緒、ではなく学校や習い事、塾が一緒という点でのつながりしかない。
たしかに、今でも出身校の近くを通る時、弁当屋の親父は元気かなとか、
授業抜け出して行った定食屋はどうなったとか考えるし、
南青山のみゆき通りに外国のブティッグが増えたなあと、変化したことに感慨があるし、
軍艦パジャマは相変わらず下品だなと、逆に変わっていないことに安心感みたいなものはある。
でも、それぞれに取り立てて愛着がある訳でもなく、それに昔から転々としていたから、
いつの間にかよく通っていた店や建物が、久々に行ったら無くなっているというのも当たり前のことだ。
また、ある種の観光地の近くに住んでたこともあり、田舎者に囲まれて育ったこともあり田舎者に対して特段の思いも無い。
そもそも田舎者とは要は東京者に対するヨソ者という感覚だけれど、僕には地元が無いのだから田舎者という概念を持ち得ない。
東京は本当に巨大で、とてつもないマチの集合体だと思う。
よく地方の人が「マチに遊びに行く」という意味での「マチ」が東京には無数にある。
白金台の裏の方のお屋敷ばかりのあの空気、後楽園の雑多な仲にも昭和的なにおいがある空気、一番町は空気がキリっとしているし、麻布は昔からの重みを感じる。
マチの空気はそうそう変わらない。(表参道の同潤会を壊したのは駄目だと思うが)
東京とひとくくりにするから、毒を浴びるんだと思う。地方出身者にレイプされた気になるんだ。