頭の悪い人ほど自分が有能だと思って他人を見下すと言うけど、これって結局「バカって言った方がバカ」みたいなこと?
偏差値40のバカを偏差値41の人が「お前はバカだ」と言う。でも頭の悪い人ほど他人を見下すのだとしたら、偏差値41も偏差値40を見下したのだからバカだということになる。偏差値41のバカを偏差値42の人が「お前はバカだ」と言う。でも頭の悪い人ほど他人を見下すのだとしたら、偏差値42も偏差値41を見下したのだからバカだということになる。同様の手順を踏んでいくと偏差値75でもバカということになる。この理屈でいけば、自分よりバカな人間を見つけることのできない一番バカな人間だけがバカではないということになる。一番バカな人間だけは他人にバカと言えないからバカではない。
ただし、それは理論上のことであって、やっぱり世の中で一番バカな人間も他人にバカだと言う気がする。なぜってバカだから他人が自分より優秀だと判断できないからだ(もともとそういう話である)。一方で偏差値75の人間が他人をバカだと言うのは、他人が自分より無能だと判断できているのだからいいのではないかという問題も出てくる。しかし、他人が自分より無能だという根拠はなんなのか。おそらくその根拠を示したところで自分より頭の悪い人には理解できない。世の中でもっとも頭のいい人間の思考には誰もついてこれないのだから、もっとも頭のいい人間の出した根拠の妥当性を他の誰も判断できない。したがって、もっとも頭のいい人間が誰かをバカだと言っていたら、周囲からすれば「彼は自分が有能だと思い込んでいて、他人を見下しているのね」と思うだろう。「バカって言った方がバカ」理論によって世の中でもっとも頭のいい人もバカということになる。
したがってバカしかいないような気はする。それこそ人間というものか。
バカ汚染から逃れるためには、他人を見下さなければいいのかもしれない。しかし、他人を見下さない人間はバカではないのかという問題がある。他人を見下さない偏差値40はやはりバカだろう。それじゃ他人を見下さない偏差値60はどうだろうか。彼はバカではないのだろうか。世の中で最も頭のいい人がバカである一方で、他人を見下さない偏差値60がバカではないというのは矛盾しているのではないか。
バカの無限増殖から世界の秩序を守るためには比較的頭のいい層である偏差値60以上のすべての人が他人を見下さないことを守る必要がある。しかし慶應大学などを見るにそれは完全に不可能な話だ。むしろ慶應大学の人間こそ他人をバカにしがちなのではないだろうか。高校中退や中卒などの人たちが他人を見下しているようなところはほとんど見たことがないのだが。
違うよ。確か研究結果もでているよ。ぐぐって。
同じような思索に取り組んだことがあるけど、一番馬鹿に近づいてきた辺りで、人から馬鹿にされても気づかない、自分と他人とを比較できない、馬鹿や比較という概念自体を理解でき...