はてなキーワード: 自発的とは
オタクが見つけてきたマナーの悪い奴とか長文使って晒し上げて、
オタクとしての在り方とかマナーとか各々好き放題それっぽいことまくし立てて、
なんか知らんうちに始まったと思ったら明確な解決とかなく知らんうちに話題から消えて、
ネタが良質なら熱心な名誉学級委員に問題点Wikiとか作られたりするアレ。
自分は正直ノリたくないからガン無視してるんだけど「また学級会やってる……」みたいなこと言ってるフォロワーもなんだかんだお気持ちリリースしててみんな内心どう思ってるのかよくわからんアレ。
あれ「学級会」って呼ばれててさ、最初見た時はすげえ的確な揶揄じゃんっつって笑ってたんだけど、
結構な割合で「お前のせいで我々が周りからどう見られるか」って論旨が当然のように含まれてるし、こどもの学級会なんて目じゃないレベルでおぞましい何かじゃね?って思ったんだよね。
だってアレ、要は先輩奴隷が雇い主に反抗した新入りを「お前が余計な事するから連帯責任で俺たちまで罰を食らうだろうが!!!!」ってボコボコにするのと同じような話じゃん?怖くない?
甘んじて受け入れたところで牢屋の隅っこで湿気った一生送るだけで現状から地位なんて上がらなくない?
もっと男のオタクみたいに平然とやりたいようにして「これは別にいいもんだ」って風潮作ろうとする方が、最初はいろいろ言われるだろうけど得じゃない?
自発的に奴隷根性ないやつ殴る、従順な模範奴隷の自分に酔うのがそんなに楽しいの?
なのでわたしは学級会のことを学級会って呼ぶのはやめた方がいいと思いました。
本当に?
一連の大坂なおみさんの言動について何か全面的に支持賛同、批判は全面的に叩くみたいなコメントに100も200もスターが付いていて混乱している。
そんな違和感があってこれを書いている。文章がとっちらかっているけど、なんとか私の意図を読み取ってくれると嬉しいな。
大坂なおみさんが棄権、選手も賛同、運営も賛同、運営に乗っかる形で大坂なおみさんも棄権を取り下げ…… みたいな流れ。だよね。
棄権の取り下げについては一旦置いておくとして(プレーした方が抗議になると言うのはよく分からないけど)、あまりにも最初の棄権が早すぎる。周りの人に相談してないよね明らかに。
文化を知らない俺からは、短絡的な自己アピールとしか思えない。何をそんなに急いでいるの?
男性が撃たれたニュースを見て「またなの!?」 ってどうして思った? めちゃくちゃに撃たれたとはいえ裁判もしてないのにその人は絶対的な正義か?
なあ……あの時銃撃した警官が逆に殺されてたら、最悪相討ちになってたら、、、 お前らどっちの味方になる?
本当なら名前を出して書きたいけどSNSのアカウントだろうと個人と紐付けされるわけで。
そんなわけでこんな事をTwitterに書いたらもしかすると友達には見られるだろうし上司にも見られるかもしれない。
正直に言うと大坂なおみさんを批判するのはヘイト扱いされそうで怖い。
お前らも、はてなやその他SNSで、本心言えてないよね? だからそんなコメントしてるんだよね?
そもそも黒人・白人という区分けが嫌いなんでこの増田にも極力こういう単語は使っていない。俺たちは黒人からも差別される低レイヤーのモンゴロイドらしい。とりあえずそれは置いておいて。
一連のBLMの流れは、俺の目には黒人を名乗る人たちの権力闘争にしか見えない。だからALMを言う白人は殺されても大したニュースにならないんだよね。
お前らはどう思ってるの? 単に流行に乗ろうとか思ってるわけじゃなく、無批判にBLMに賛同とか、国内のデモに参加とかしてるの? それはなぜ?
この状況がどう捉えられているか、票がどこにいくかという意味で米大統領選が割と楽しみだったりする。
それはともかく、無批判に大坂なおみさんやポリコレに賛同することが是とされたり批判的な人間を排除したりとかするやり方ってどうなんだ?
大坂なおみさんも色々な批判やヘイトを浴びてる(から大会中はせめてSNSやめた方がいいと思う)のはすごくかわいそうで、そんな中頑張ってるのはよく分かるけど、
この一連の裏で泣いてる人もいるんじゃないかな? 具体的には対戦相手とかスポンサーとかなんだけど。
対戦相手なんてその試合の一日のためにコンディションのピークを持ってきてたんだよね?
スポンサーも本当は自社の宣伝のため、大坂なおみさんに試合に出てほしいのに(結果的に撤回したけど)いきなり棄権とかおいおい… って絶対言いたいけど言ったらヘイトだから何も言わないんだよね?
それに対して大坂なおみさんが何も言わないのは卑怯だと思うんだよね。周りの勝手な解釈に任せようとしている。
せめて「『 対戦相手には悪いけど』棄権を取り下げるわ。分かってくれるよね?」くらい言ったらいいのに。こういうことこれまで言ったことある?
批判を許さない環境ってその場その時点ではいいけど、言えないことによる色んな人の色んなネガティブな思いが水面下に積み重なっていって、
そのきっかけになったのは大阪の6月のBLMデモをTwitterで「お願いしいます(ママ)」と宣伝したことだ。いやあるいは宣伝する意図はなかったかもしれない。個人の感想かもしれない。
が、あれは宣伝だった。スポーツで得た知名度は、Twitterでの発信力にそのまま反映されているんだよ。本人はそう思ってるか思ってて利用しているか知れないけど。
いや分かる。あのデモは日本にもBLMに賛同する人間がいるというアピールには確かになっただろうよ。だったらなおさら宣伝すべきじゃないと言うこともできるよな?
『大坂なおみさんファンが1000人集まった事じゃなくて』自発的にBLMに賛同する人間が日本にも確かにいた事をアピールしたいのなら、宣伝すべきじゃないよな?
あれをアメリカに住んでいる日本人の大坂なおみさんが、コロナで大変な時期の日本で、デモを扇動したこと。それはこれからも忘れない。
それまでTwitterで(たとえヘイトであったとしても)他人の批判的なツイートを引用で晒し上げて過激な発言を浴びせたこともあったが、それはまだ彼女らしいなと思っていた。が、これは看過できなかった。
大坂なおみさん、あなたの立場は何だ? ハイチ系アメリカ人と日本人のハーフで、アメリカに住む日本人で、黒人差別に反対してるんだよな?
白人が黒人に撃たれたら何て言ってくれるんだ? 日本人が差別されたら抗議してくれるのか?
で、お前らはどう思ってる?
私:これまでずっとpixivだけに絵を上げてて、それこそ数千ブクマは当たり前、誕壁配置もあるような絵師だったんだけど、去年昔馴染みのオタク友だちがみんな別ジャンルに散ってしまったことをきっかけに「ネットでも友達を作るぞ!」と発起してTwitterを始めた。
で、実際どうでも良いリプはめちゃくちゃくる。
ネット友達がほしくて始めたのでフォローしてくれた人みんなにフォローを返したのだが、そこで何十件ときたご挨拶リプを返すのにまず死ぬほど苦心した。コピペしか言えない。
コーヒー零して大惨事(笑)、みたいなツイートにも別に親しくもない奴から「大丈夫ですか💦やけどされてませんか💦」みたいなガチトーンの心配リプが届くので何も言えない。
なのでこれも凄いわかる。たいてい一方的にチヤホヤされて困惑することが多い。それが同じ投稿に2人も3人も似たようなリプライをぶら下げてくる。
感覚的に近いのは焼きマシュマロに「大変でしたね〜」とかってついてる慰めリプの山。
会話する気があるならまだ全然良いんだけど、一方的にほんと「会話の応酬をすることが目的」みたいなリプって本当に返しづらいんだよな。勘弁してほしい。これで最後だ!と思って「ありがとうございました〜」ってつけてもこの手の会話は引き延ばされる傾向にあり、地獄。
自意識過剰と思われてももはや良いんだが、もう絵師と仲良くなりたいんだろうなあ・絵師の特別なポジになりたいんだろうなあって感じがあけすけすぎて流石に引く。
あと1日に2〜3ツイートしかしないのに、こっちの返信も待たずに違うツイートにそれぞれリプしてくる人なんかもう返す気がなくなる。
で、どうしてこんな凄惨なことが起こるかって言うとコミュニティの平均(精神)年齢が低いってのはまさにその通りで、実際中の人はみんな中高生くらいなんだろうなあと思う。それはもうしょうがない。推してるジャンルの年齢層が低いことは単純にターゲティングの問題だから何が悪いとかって土俵の話じゃない。
今切望しているのは、じゃあどうやったら同じ低年齢向けのジャンル内において、自分と同じくらいの年代の人と繋がるかってことだ。
が、これはもうほんとリアルイベントで挨拶に行って相手の服装やノリを確認し、自分が仲良くしたいと思えるかどうか意外にない。なぜなら落ち着きのあるTwitterユーザーは自発的にこちらのどうでも良い投稿に反応してきたりしないからだ。求めている反応はそれなのだが。
以下はただ書いて成仏させるためのお愚痴だからお前らはもう読まないで良いんだけど、
・それにリプライやら引リツで反応する奴
もう〜〜〜全員むり無理無理!!!!って感じで見かけた瞬間即ミュートしちゃうよね。
日々少しずつTLが浄化されてることを信じたいよ。
ちなみに元増田が指摘されてたことだけど、これは腐女子の界隈の話に限らずもうTwitter全体の低年齢層の女性が集まるコミュニティにありがちな風土の話だから安心してほしい。
実際にオタク/絵師以外の用途でツイッターアカウントが七個あるんだけどどこでも中高生女子が集まったら必然的にそうなる。
彼女らはスクールカーストの動乱に生きてるから、Twitterで見つけた「憧れ」っぽい人に尻尾ふってしまうのは本能レベルで刻み込まれている行動であり、もうしょうがないことなんだと割り切るしかない。
今、私は二年目で大学院を中退して、既卒生として就活をしている。学部も大学院も(2chでどういわれているかはともかく)比較的知名度の高い大学だ。受験勉強をしたことがない人でも知っているような大学に所属していた。
大学院を中退した理由は大量にあるが、誤解を恐れずに言うのであれば、同意なく、しかもコロナに関係なく親に学費を使いこまれたことに起因する。中退に至るまでの経緯でまた記事が2本は書けるぐらいには内容が濃いので、ここでは取り合えず割愛することとする。ただ、私の中退が親に学費を使いこまれていたことに起因することは、断言できる。
さて、既卒生として就活している私だが、まるでエントリーシートが通らない。コロナ禍の影響もあるのだろう。ただ、それを抜きにしても所謂大企業なんていうところには見向きもされない。中小企業でさえほぼ通らない(ただ、一定選り好みはしているが)。
企業にも勿論嗜好があるのだろう。それは当然のことであるし、理解も共感もできる。
が、私の今の就活を顧みると、面接で落とされるのはともかくとして、書類で切られまくっていると疑問しか浮かんでこない。一部上場企業の中にも、面接まではこぎつけてくれる企業もあるにはあったが、1つだけであった。
当記事は、私のこの疑問を延々と書き綴るものである。良く言えば「私の考え」ではあるが、実態は「恨みつらみ」でしかない。ただ、やはりこれを不特定の人間には知ってもらいたい。このように強い思いとそれなりに過酷な経験をしている人間でさえ、既卒となると就活で苦労するというのを知ってもらう必要もあると考えている。
私は、偏差値50少しの高校から、「有名大学」と世間で言われる大学に現役で入学することができた。そして、これまた現役で卒業をし、そのまま大学院へと進んだ。大学院では、英米(のどちらか)の大学院へ一か月留学し、研究もした。
中退という部分を隠して読めば、比較的キレイな学歴をしていると思う。
ただ、先述の通り親に奨学金を使いこまれ、中退をすることとなった。奨学金で生活をしていたし、親の支援ももう期待できないことから、取り合えず就職しようという段取りとなった。
就活経験について、実は全くないという訳ではなかった。学部時代に友達のウェブテストを替え玉しまくり(10社弱分は受けたと思う)、ESや面接の準備・添削を手伝うこともあった。時にはESを全くのゼロから作ることもあった(!)。当然、私はその企業に応募もしていないし、興味もなかった。
そして、当時は大学院に進学する予定であったので、私個人が自発的に就活をすることはなかった。
さて、私は無事に大学院の合格通知を得ることができた。確か9月か10月であったと思う。経緯は割愛するが、大学院進学ではなく就職する方がより良い選択ではないか、と思わざるを得ない状況となった。
そういう訳で、秋採用も終わりかけている10月頃になって、就職活動を始めた。
ウェブテストについては、替え玉した人の分が全て通っていたので、無対策でも問題ないだろうと思い特に勉強はしなかった。
結局、私がした就職活動は、企業分析・業界分析、自己分析、ESの推敲であった。その結果、どうやら私は金融に向いていそうだということとなり、マザーズに上場している中規模投資銀行と三井住友銀行に応募してみることとした。
三井住友銀行は、私がウェブテストの期限を勘違いし、人事に無理をいって期限を特別に延ばしてもらった上で完了させた。このような経緯で許してもらったウェブテストであったことから、結果に関してはもういうまでもない。
投資銀行については、説明会兼選考会をやるからリクナビだかマイナビだかから予約してね、という具合だったので、早速応募をしてみることとした。
さて、投資銀行については、私の履歴書が余程面白く映ったのだろう(「債権の回収」や「担保」という単語、飛び級入試での大学院合岳経験があることを多いに盛り込んだ)、人事部との一次面接は私の履歴書に打ち出された単語が面白いだの、ペットは何を飼っているのか、という悪く言えばくだらない話で終わった。二次面接は、確か営業部長と執行役員だかとの面接だったが、面接というよりは議論に近かった。コンサルでよく聞かれるケースに基づく議論のような雰囲気だ。「君の理解は間違っている」とドストレートに言われるも、「いえ、私の理解はこのようなもので、そのようにお考えになったのは貴方の誤解です」というようなことを言い返していた気がする。よくあんなこと言えたな、と今では思う。議論だったとしても、こんなこっ恥ずかしいことをプロに対して言うべきではなかったと強く反省している。
そんなこんなで一週間しないぐらいの内に、「どうぞ最終面接へお越しください」と言われた。就活をほんの1か月したぐらいであったが、会社勤めは性に合わない、資格を取ってプロになろう(特定のため、ぼかした表現にはしている。この資格を取り、こういうキャリアパスを経よう、という設計は既にしていた)、と決心していたので、選考を辞退することとした。少し申し訳ない気持ちがした。
と、学部時代は比較的わかりやすい就活をできていたので、既卒就活も既卒というハンディキャップを除けばそこまで大きな負担にはならないだろうとかなり楽観的になっていた。
既卒就活の結果は、冒頭に書いた通りである。そもそもエントリーシート自体が通らない。コロナ禍の影響もあるであろうが、それでも何かおかしいと直感的に感じる。
学部時代より、より入念にESを作成するようにしていた。就活のハウツー本を5から6冊程は読みまわしながらESを作っていたと思う。それでも通らないのだ。ウェブテストは学部時代の経験からすると、落ちる要素がない。替え玉当時、私が受けたメガバンクや野〇證券などが通っていたので、決して正答率も低いはずではなかった。
他に落ちる原因は何か。ESとウェブテストで抜かりなくしていたのであるなら、何か。年齢か。新卒切符は24歳まで有効と聞いていたので、年齢も問題はない(はず)。そうすると、やはり既卒という略歴ではないか。
さて、既卒という略歴が問題ではないか、ということで早速情報収集を始めた。結論から述べるが、やはり既卒という略歴が多大であるように私は思う。
というのも、まず、既卒生の就活記事やハウツーといったものが極めて少ない。結局、「この就職エージェントに投げてね☆」というものに落ち着くものか。「情報収集を徹底的にやれ、新卒の倍は動け」という根性論に終始するものばかりである。既卒生の就活成功談を見ない。
そして、「所謂大企業であっても、既卒は受け入れている」という記事を見かけるが(私に言わせればそんなこと就活を始めた当日に知ったことである)、「既卒で大企業に就職できた」という記事は見ない。クラシックなオタクなので、「ググる能力」に関しては絶対的な自信があるが、やはり記事は見なかった。「既卒で就職できたよ!」という記事もほぼ見ない。
勿論、私もバカではない。猫の手を借りるぐらいのことはする。就職エージェント4社程を利用して、求人を紹介してもらったが、明らかにおかしいものばかりであった。例を挙げだすとキリがないが、ブラック企業といって差し支えないようなものばかりであった。中にはそうでないものもあったが、私の志望する業界・職種でないことから断っていた。
話が右往左往して恐縮であるが、私は学部時代はかなり頑張っていた。
学業においては、学部上位5%以上の英語のクラスを、90点以上で合格した。優や、A+、A、Sという風に評価されるものだ。英語に関してはスピーキングはからっきしだが、リーディングリスニングについては比較的自信はある。今でもタイムズ紙ぐらいなら読める。
二年生の頃にフィールドワークを経て執筆した論文は、担当教授に奨学金論文として推薦された。奨学金論文として推薦されるのは、優秀卒論を除けば、各学年2名までだ。極端な表現だが、私は学年で少なくとも2位の成績を得たということもできる。
ゼミについては、正課としてのゼミと、潜りとしてのゼミの2つを取っていた(勿論、両教授からの了承は得ている)。卒論では、その2つの領域にまたがる論文を執筆した。担当教授からメタクソに批判され、時には(マジで)泣かされたが、結局、80点以上の評価で単位を授与してもらえた。
学業に関してはこのような感じだ。基本的には単位だけ取れていれば良いというスタンスであったが、力を入れるべき部分ではきちんと力を入れて評価は取っていた。
課外については、私は文化系のサークルに所属して活動をしていた。大会では代表を二度務め、一つは四位、一つは二位へと入選している。可もなく不可もないとは思う。
役職には2つ就いており、1つは、企画系の役職の長に就き、もう1つは、サークル内研究会の会長を務めていた。
サークル内研究会会長については、基本的に後輩の勉強の指導をしたり、同期と議論をしたりがメインであったので、かなり楽しかった。正直、会長とは名ばかりのものであった。責任のある業務もほぼなかったと思う。
ただ、企画系については、一筋縄ではいかなかった。まず、50名規模で開催する合宿を全て私一人で仕切った(相方はいたが、とんでもないポンコツだったので、仕事を一切振らなかった)。具体的には、合宿の企画発案や、旅行会社・ホテルとの交渉、参加者を集めるための広報や、経理との予算調整などだ。経理が通帳を握ったまま飛びやがったので、家まで通帳を取り立て行ったりもした。夏休みに行う合宿であったが、冗談抜きで7月から9月半ばまでは、土日以外は永遠に合宿の準備をしていたと思う。テスト前日に宿の内見に行ったりもした(この時だけではあったが、役職に関係なく同行してくれたK君には頭も上がらない。ありがとう)。
大変であったが、企画の発案や参加者の誘因等の難しさ・楽しさを得ることができ、なんだかんだとは言いながら充実感は感じていた。ようやく院試勉強に集中できる、と一息ついたものだ。
…というのも束の間、OBOG会の会長から10数年ぶりにサークルのパーティーを行いたいとの申し入れが顧問を経てやってきた。何故会長じゃなくて俺にそのことを伝えたんだ、と同期に愚痴ったりもしたが、顧問曰く、「貴方と連絡をしていたからそのまま伝えた」とのことだった。当時は「俺に信用力があるからだ」と前向きに考えもしたが、2か月半程動き続けた身にひょいと投げていい申入れではないだろう、と大きく溜息をつきもした。
さて、このパーティーが非常に厄介であった。まず、OBOGに招待状を送らなければならないが、こともあろうに会員名簿の更新が15年程されていなかったのだ。直近の先輩方の住所や電話番号なんかも分からないまま、どうやって招待状を送るんだと頭を抱えた。開催が2か月後ということだったので、もう当たって砕けろの精神で「3年生の〇〇ですが、こういう下りでパーティーをすることになりました。先輩からまた直近の先輩へとご連絡してもらえると助かります。参加を希望される方がいらっしゃったら、私にまでご連絡をするように併せてお伝えください」というメッセージを飛ばしまくっていた。完全にマルチ商法のそれと同じだが、時間がない以上仕方が無かった。名簿に残っている方でも、中には既に老齢で亡くなられていた方もいらっしゃったようで、カジュアルに連絡をすることもままならなくなってしまっていた。体力的にはそこまで大変ではなかったが、精神的にはかなりきつかった。
精神的にきつかったところに更に肉体的にきつい仕事が増える。名簿の更新をしながら、OBOG会にあったパーティー運営組織をOBOG会から当サークルへと移譲したいと言われたのだ。何が分からないのが分からない状態から始まっており、そもそも相手はOBOGだ。「じゃあ昼飯食った後部室でね」が通用しない。逐一メールをしながら、何月何日、どこそこの店で打ち合わせをしましょう、という風にするしかなかった。苦学生でバイトしまくっていた身としては、この打ち合わせ日時に合わせることがかなりしんどかったし、運営組織の移譲に伴ってするべき後輩への引継資料の作成が本当に苦痛だった。当然、在学生の参加者を募るための広報もしなければならない。
このように働きまくっていた結果、十数年ぶりの開催であるにも関わらず、どうやら歴代最多数の参加者を得ることができたようだ。しかも、参加者の半数近くが在学生だったということで、企画をした私の誘因力を大いに褒められもした。結果は出せたと思う。数字だけでなく、これだけ頑張ってくれたのだから、ということで部室に設置してあるパソコンやプリンターといった周辺機器も一新してもらえた。大変有難かった。
さて、「どうだ、俺は凄いだろう」というエピソードをこんなにも書き連ねた訳だが、やはり当時は大学生なりにはかなり頑張ったと私は思う。このような経験や思いがあるからこそ、もっと挑戦をしたい。内定が難しいと言われている企業へ応募して挑戦もしてみたい。しかしながら、そもそもエントリーシートが既卒だからという理由で(私はこれが原因と考えている)切られるようであれば、どうしようもない。私は満足に挑戦すらできていない状況で諦めたくないのだ。そのような状況で不満のある待遇に甘んじたくはないのだ。
勿論、就活では上記のエピソードをいわゆるガクチカなんていうものに盛り込んでアピールをする。就活構文と私は密かに呼んでいるが、「結論→理由」「動機→行動→結果」といった構文も遵守した。多少は盛りはしているが、「やらされていたこと」を「やるべきだと考えた」と変換する程度のものだったし、面接でもこの点についてボロを出さなかったので問題はないと考えている。
成績も特別に良いというわけではないが、学内平均よりかはずっと高い。
ウェブテストやESについても、学部時代に手伝っていた(というより最早やっていた/書いていた)経験から、突飛なことはやっていない。
でも、シンプルに留年したとしても新卒でさえるならば、トンチンカンな奴でも内定を得てしまうのが非常に納得がいかない。彼彼女らなりに留年した理由付けはしているとは思うが、人事は恐らく見抜けないのであろう。
形式面では既卒より優れているというのが極めて不服である。留学やインターンであるならば経歴や職歴に書けるが、そのようなものが書けないシンプルな留年であっても、新卒は新卒である。既卒には劣らない。
私は、大学を四年間で卒業し、大学院で一年半勉学を修めた。学部在学中は勉学にも課外活動にも励んだ。
但、冒頭で述べた通り、私は親に学費を使いこまれて大学院を退学をせざるを得なかった。
それでも、私は形式的には新卒より劣っているのだ。同等ですらない。
新卒至上主義と私は読んでいるが、この点についても非常に疑問がある。また記事に起こしたいと思う。
この記事は、あくまで私の一個人の考えを知ってもらうことだけに価値がある。従って、読者がどのように思うかは勝手であるし、読者に思考さえしてもらえれば、私の願いは成就したと考えている。
特に就職をする予定でいる大学在学中の学生諸君は、是非一度自分のキャリアルートについて考えてみて欲しい。貴方が思う以上に、新卒既卒という区別は残酷なものとなっている。
劇場や電車等の閉鎖空間で変わった人に絡まれて怖い思いをした→相手は知的障害者かもしれない、一方的に突っぱねるのはどうかと思う、みたいな構文をあちこちで見るけど、知的障害者だからなんだってんだと思う。その場にそぐわない行動をされて冷静になれ優しくなれもっと寛容にとか馬鹿じゃねえのか。こっちは怖いんだよ、めちゃくちゃ怖いの。いきなり見ず知らずの人間に距離感ゼロで話しかけられたり、映画や舞台も見ずにこっちをガン見されて、どうやって冷静になれっての。
何度でも言うよ、馬鹿じゃないの。そういう見当外れのお気持ち構文持ち出してくる馬鹿って大概当事者でも当事者の家族でもない、「自分は理解(わか)っている人間なので」ってしたり顔してマウント取ってくる浅はかな馬鹿で本当にイライラする。
怖いの。こっちは怖いんだよ。怖いって言ってるだろ。なんで怖いのに冷静に優しく寛容になれるんだよ、馬鹿じゃないの。じゃあこっちはいきなり見ず知らずの人間に話しかけられたりガン見されると極度に緊張し、パニックになって過呼吸になってしまうので劇場や映画館ではそっとしておいてもらえますかね?一見してわからないかもしれませんけど、そういう症状が出てしまうので。本当に大変申し訳ないんですが。
大体映画とか舞台と買って自分で自発的に安くないお金を払って見に来てることがほとんどなんだから、「自分が作品を見に来ている」ことを忘れてしまうようなレベルの障害者の方が一人で見に来るのか?って気がしますけどね。
お気持ち構文を多用して冷静なアテクシオレサマを気取る馬鹿は自分がそういう場面の当事者になってから口をお開きになってください。突発的な事態に巻き込まれて頭真っ白になった経験があるならそんな薄っぺらいお気持ちなんて言えるはずないと思うんだけど。
言っておきますけどだから知的障害者を排除しろとは一言も言っていません。その場に沿った最低限の行動というものがあって、それを遵守できないような心身状態であるのならば、できる限りの準備をするなり、控えるなりしろと言っているだけです。
映画館で突発的にデカい声を出してしまう症状があるのなら、席を隅にするなり混雑する時間帯をできるだけ選ばないとかあるでしょうよ。
劇場内で舞台ではなく隣に座った人をガン見してしまう症状や、電車内でテンションが上がって見知らぬ人に話しかけてしまう症状があるのなら、映画のジョーカーじゃないけど絡んでしまった人に見せるためのカードを用意するとかあるでしょうよ。そもそも席を離すとかさ。
何もかもできない?知らねえよ、じゃあこっちはどうすりゃいいんだよ、わかんねえよ、他人に寛容さを求めるだけの何かを用意してくれよ。こっちは怖いんだよ。なんでこっちがお金を払って確保した空間に土足でズカズカ踏み込まれて恐怖を与えられた挙げ句、我慢だの逃げだのでこっちが諦めることを強要されなきゃいけないんだよ。理不尽じゃん。どうすればいいの?教えてよ。恐怖を覚えてるのに優しくするなんて全然全くできませんけど?無理ですけど?
大前提として、自分の性的欲求を満たすために赤の他人に絡む最低な輩は誰かに深刻な被害を与えて犯罪者になる前にさっさと病院に行ってください。お前たちは本当に最悪で最低です。治せ。せめて治すようにがんばってくれ。おかしいんだから。
低学年の頃から自分の読書感想文も何回もコンクールに送られています。
低学年にして、「大人はこれを喜ぶ」を確立していたといっても過言ではありません。
さて、前置きはこれくらいにして、ずばり切り込んで読書感想文のコツを書きます。
読書感想文の、及第点と言われる最もシンプルな構造は下のとおりです。
・印象に残ったこと
・未来の行動
読書感想文と言われると、勘違いしてしまうパターンが大きく分けて2つあります。
ひとつはよくある「あらすじ」を書くこと。これはいつも言われていることなので割愛します。
読書感想文に最も求められることは、感想文の作者が、その本と出会ったことでどのように行動や思考が変化したのかという点です。
それに対し、書評は「あらすじ」からは逸脱できているものの、作品紹介の域をでません。
そんな感想文を受け取っても「へぇ」以上の評価をすることはできません。
まずはこれを「〇〇が興味深かったです。」に変えるだけでも、感想文としての印象は大きく変わってきます。
これから書く感想を説明する上での心構えをしてもらうための部分であり、それ以外の情報は余計です。
本は必ずしも面白くなくてはならないわけではありません。
逆を返せば、印象に残る部分がなかった本は感想文を書くに値しないからです。
「感動しました」「憤りを感じました」「悲しく思いました」「楽しくなりました」「共感しました」
・実体験、身近な存在への置き換え(感想文全体の20~30%が好ましい。)
印象に残った部分、もし自分だったらどうか、身近な存在だったらどうかと置き換えてみます。
それをする理由は、その内容は感想文の作者しか絶対に書けない内容になるからです。
つまり、これをすることによって唯一無二、その作者しか書くことのできない感想文ができあがります。
小学生低学年ではあまり必要のない部分なので括弧書きになっています。
なくてもいいけど、あったらいいよねという部分です。
先程の「実体験、身近な存在への置き換え」で書いた内容に対して、自発的に反論を試みることで、その人の成熟度や成長過程を表現することができます。
いわゆる思考の深さを読み手に感じさせることのできる部分です。
「実体験、身近な存在への置き換え」が最も肝の部分だとするならば、この部分は最も評価を稼げる部分です。
感想文を書かせたい人は、例外なく、その作品を読んだことで心が動かされて、その人の未来が変わってほしいと願っています。
だから、そうなるかもしれない片鱗を見せて、その邪な気持ちを成仏させてあげるのです。
戦争を扱う作品を読んだら、「戦争は良くないと思いました。」で終わるのではなく「そうさせないために、自分はこういうことをしていきたいです。」のように、できるだけ具体的に書くことが大切です。
自分の場合は、大人のこうしてほしいが透けて見えるタイプだったので、そことは少しフォーカスをずらした、それでいて前向きな内容で締めるようにしていたところ、アホな大人がたくさん釣れました。
では、実践してみましょう。
「正解などない読書感想文の、正解と言える書き方」を読んで
https://anond.hatelabo.jp/20200820204626
この増田は、夏休みも終わりに近づき、読書感想文で苦しむ家族を救うことを目的に書かれた、一見乱暴な口調ながら優しさあふれる増田です。
・印象に残ったこと
印象深く感じられる部分はとにかくその言葉選びにあります。下品な単語や言葉遣いを随所に散りばめて、読み手を飽きさせないリズムを作っています。
ただ、面白い手法ではあるものの、こうした手法は増田ではすでにポピュラーであり、目新しさに欠けているというのが素直な感想でした。
しかしながら、ハウツー的な内容であるにも関わらず余計な言葉でいたずらに文字数を増やしているこの増田自体が、逆説的に余計な肉付けで文字数を稼ぐ読書感想文のハウツーになりえていて、結果的にこの増田が読書感想文を得意とすることを裏付けていることに気づいたときは、思わずにやりとしてしまいました。
自分に限って言えば、肉付けで苦労したことはなく、むしろ文字数に収まらせることのほうに時間がかかりました。説明が冗長ではないか、同じような内容や表現を繰り返してないかなど、思いつくままに書いた内容を並び替え、削っていく苦労ばかりが思い出されました。
そもそも、文字数が予め規定されている事自体が読書感想文における余計な肉付け問題の原因であり、その中でシンプルながら鋭い言葉で規定文字数を下回る感想文を提出できるだけの文章力に自信のある生徒がどれくらいいるかと考えれば疑問だと言わざるを得ず、結果的にこの肉付けハウツーは不可欠なものなのだと思うと、なんとも言えない気持ちになりました。
・未来の行動
この増田が読書感想文の正解と言える書き方かと言われれば疑問ですが、実際の増田に対して感想文を書くという手法は斬新で、そもそもその増田に対するコメントを書きたかっただけで感想文のハウツーは後付だったのではないかとも勘ぐってみながらも、早速真似してみましたところ簡単ではないことに気づき、今後も少しずつ取り入れていこうと思いました。。
ただ、周囲やネットに呼び掛けて集団的に不買を運動として行う事は、どうなのか?という疑問が有る
それも完全に自由な気もする。周囲に呼び掛けても同意する人だけ不買する訳だから、特に問題は無いのではないか
ただ、例えばフェミニストとして有名な人がCMに起用されて、同じような運動が起こった場合を具体的に想像してみると、感情的にはそれに対する反発がある
または、政権批判を行う人でもいい
不愉快であり批判されるべき、というのと、やる権利や自由はある、は違うでしょ……
たとえば、俺は去年の宇崎ちゃん献血ポスターへの批判にはめっちゃ怒ったし、あれ以来フェミ嫌いになったけど、それでも、フェミにはポスターを批判する自由があるし、一部のフェミが呼びかけていた献血ボイコット運動もやる権利自体はあると思うよ。
献血ボイコットに対して「そんな運動してはいけない」と主張する人が大勢いたけど、献血が自発的にやるものである以上、献血への非協力を公然と呼びかけるのは自由だ。少なくとも、直接日赤に抗議デモとかやるよりよっぽど穏当。だって別に義務ではなく行かなくても責められはしないものに行かないって意思表示するだけでしょ。当然、献血への非協力を呼びかける権利と自由はあると考えないと色々なことに齟齬をきたす。
そしてもちろん、献血ボイコット運動を批判するのも自由だし、ポスター批判に反論するのも自由だ。
フェミがCMに出ていたことを理由に不買運動されたとしたらフェミを支持する人にとっては不愉快かもしれないけど、それでも、不買運動をする権利と自由はある。そのうえで、その運動が気に食わなければ運動を批判すればいい。
あいちトリエンナーレと同じやね。たとえ多くの人を不愉快にさせるものであったとしても、天皇の写真を焼くアートを展示する自由はある。そのアートを批判する自由もある。これが健全な市民社会というものだろう。
健全な市民社会においては、三浦瑠麗に対する不買運動も、献血ボイコット運動も、フェミに対する不買運動も、反政府派に対する不買運動も、いずれも行う権利はある。それが脅迫などの手段を伴わずに有志への呼びかけに留まっている限りはご自由にどうぞ。そんな運動をできない社会の方が息苦しくて嫌だ。
その運動がけしからんと思うなら、運動を批判すればいい。運動をする権利もあれば批判する権利もある。存分に自由を行使して不買運動しよう。
それにしても、多くのフェミって自分が不買運動しかけられる可能性も考えずに不買運動やってたんだ。すげーな。このくらいの理屈は考えてやってるもんだと思ってたわ。
同じ解釈を持ったフォロワーたちや、神絵師の人たちをフォローして、とても楽しくやっていた。
私は絵を描いたり、文章を描いたりしていた。それをTwitterに上げて、感想をもらって、少ないフォロワーながらも推しの話で盛り上がっていた。
ある日、通知欄を見たら新しいフォロワーが増えていた。その人は推しの名前を捩った名(以下Dとする)だった。とりあえずフォロバした。
Dはpixivに上げていた漫画に反応してくれて、感想ももらった。それは私の描いた漫画に感想を書き込む形式のものだった。
1ページ、一コマ毎に、ここがいい、このセリフがいいなどとびっしり書かれていた。
正直、少し違和感を覚えた。
感想は嬉しい。何物にも変えがたい。が、自分の描いたものに描き込まれるのは初めてだった。その時はこういう感想の送り方もあるんだなと思った。私はそんなに若くはないし、これが今の若者のやり方なのだとも思った。
だが、感じた事を記しておこうと思う。
Dは、絵を描いていた。上手い。
基本的に私は誰よりも何もかも下手くそだと思いながら生きているので大抵の人は私より上手い。
Dは次第に誰かにマウントを取るような姿勢になっていくように感じていた。それが初め誰に向かってか分からなかったが、私がやってきた事に対してマウントを取るような、そんなニュアンスの事を呟いていた。
例えるなら、私が「今日この料理を作った」と言えば、その人は「昔○○っていう料理(私が作ったものより難しいもの)を作った事がある」など。
本当に、ただそれだけのツイートなのかもしれない。しかし似たような事が何度も続けば私だって気付いてくる。以降、Dのツイートがどうにも引っかかってしまうようになった。
そして、別の日、あるアニメにハマった私はそのツイートをした。
元々相互だった同じジャンル、同じ推しの神絵師(以下Aさんとする)もそのアニメにハマっていて、私のツイに反応をくれて話が盛り上がった所、別の神絵師(以下Bさんとする)の方にフォローされた。その人もまた、同じアニメにハマっていたからだ。
Bさんも私と推しは違えど同じジャンルにいて、私の描いた絵に感想をくれたりRTもしてくれていた。さすが神絵師BさんのRTである。こんな私の絵もたくさんの人に見てもらえた。嬉しかった。
Bさんを通じて、私の絵が好きだというフォロワーも少し増えた。推しは違うが、みんな日常のツイにもいいねをくれたり、コメントをくれたりして楽しく過ごしていた。
そしてある日、何をどうしてかDもそのBさんと相互になったらしい事を知った。
推しも違う、接点も無さそう、一体どうしてか分からない。ただ、Bさんは優しい。
どうもDはBさんに媚びたいらしい事も分かった。
DはAさんにも空リプを飛ばしていた。相互になったかどうかは知らないが、全く反応しないAさんの様子を見るとおそらく媚びるのはうまくいかなかったのだろう。
絵を描くDはBさんのRTでファボRTが増えたせいか、調子に乗っているように見えた。それ自体は悪いことではないが、宅コスや顔出し自撮りを上げたり、(なお鍵はかけていない)、同じ推しの神字書きCさん(私も相互である)にも媚びていた。いや、媚びているように見えた。
「小説書きたーい」などとも言っていた。だが書く様子は未だない。
そしてとうとうDの絵が、今までで最高に伸びていた。
私も同じテーマでタグをつけて軽い気持ちで絵を描いていたが、Dの絵は私より伸びていた。
彼女は「勝った」と呟いていた。
Dは何と勝負していたのだろう。
私なのか?それとも他の誰かか?それとも自分と戦っていたのか?
いずれにせよ分からないが、いい気持ちはしなかった。そしてこれ以上この人に振り回されたくないとブロックした。
しかし、私のフォロワーはDと相互の人も多く、TLで調子をこいて媚びているDの残像が出てくる。名前も出てくる。私はそれすらミュートにした。もはや名前見るだけでゲロ吐きそうである。
そうだ、あの感想だ。
あの時覚えた違和感は、ショックだったのだ。
私が描いたものの上に殴り書くようにして書かれた感想は、私の描いたものを褒めながら否定しているものだったのだ。本当はそうして嘲笑っていたのかもしれない。
初めからそういう奴だったということに気付けなかった私はなんてバカなんだろう。
色々な時間を削り、推しの事を考えながら描いた漫画。私の解釈を詰め込んだ漫画。
DはそれをD自身の気持ちや感想で塗り潰して返してきたのだ。それは違和感じゃなかった。嫌だったのだ。あの感想の送り方が。
少し感情的になってしまった。タイトルにもあるように、作者に感想を送る事が是とされる昨今だ。どこが良かったか細かく教えてくれるのはとても嬉しいし、自信にもなる。
あなたがマウントを取っているつもりはなくても、私のように思う人もいるかもしれない。
そして私は筆は折りたくはない。こんな事で折ってたまるかとも思っている。
これからDの残像ちらつくTwitterをやるべきか、一切やめるべきか。
フォロワーに「Dにこーいう事をされて悲しいから、Dをブロックして」なんて言えない。それではやる事が小学生だ。小学生でもしないだろう。私が頭のおかしいやつになってしまう。
最後にこれは、よくある「オタク女のお気持ち表明」だ。間違いなくそうだ。 彼女らがどうしてあんな事を言うのか今まで分からなかったが、ようやく分かった。
そういえばDが自発的に推しへの所謂萌え語りをしている所を見た事がないと気付いた。
フォロワー数多い神絵師や神字書きに直リプ空リプを飛ばし作品やその人達の萌え語りや解釈に同意するツイはよく見かけたが、Dの中の解釈などは一切分からなかった。時々描いていた漫画も「○○さんのツイのやつです」ばかりだった…
人がどういう解釈を持とうが構わないし、推しの事を無理矢理語れと言うわけでもないし、好きにも色々形はある。だから否定はしないし強要もしないが、自分の中の推しはこうだ、というのをちょっとでも見せてくれたのなら、ここまで苛まれる事はなかったのかもしれない。
コロナでもそうだったが、多くの人にとって、「どう行動すればいいのか」という事以外に関心は向かなかった。
何か月もコロナ騒動で時間があったわけだが、自分の頭で考えられるような基礎知識から学ぶことはなかった。
一方で、「どう行動すればいいのか」の情報は集めるため、これを買えばいいと言われるのはわかりやすく飛びつく。
数1000円くらいで安心を買えるのであれば、仮に間違っていたとしても本人の中では正当化できる失敗である。
科学的な根拠は自分で責任を負うのではなく、販売業者が負うという意識から、棚に陳列されていればいいのだ。
そして半信半疑で買ったとしても、買ったという行動を正当化するため、効くと思い込む。
本当に欲しいものは「安心」なのだが、理屈を理解していないので、色んなものを買っても買っても不安なのだ。
「どう行動すればいいのか」の情報が複雑になっていくと、単純化してくれとなる。
何かすることに対しての根拠を自分で考えていないため納得感がなく、極端に何もしないという選択肢が出てくる。
でも不安なので、「コロナは風邪」といった、自分ではない誰かが言った言動に乗り、Twitterなどで他に仲間がいることを検索して「安心」する。
複雑なことをしないと「安心」できないというのもある。
3密といった簡単と思われる(実際には難しいが)事柄では満足できず、より何かしなきゃと「どう行動すればいいのか」を探す。
同じことしか言わない人に満足できなくなる。
複雑なことを求める一方で、数か月も経つと、守らなくても大丈夫だったという経験則が働いてくる。
自分が守ったり守らなかったりしたのは他の人も同じように行動しているはずであり、毎日の感染者数の上下を見て、予測が当たるかどうかを注視する。
多くなってきたら守り、少なくなってきたら守らなくていいと、次第になってしまっている。
神風特攻が開始されるとき、及川古志郎から「決して命令しないように」「指示はしないが自発的実施には反対しない」と承認するエピソードがある。
脈々と受け継がれているように感じるがどうだろうか。
細かな定義はどうあれ、自衛隊がその本質として「国家権力を成立させるための『暴力装置』」であり、機能として軍隊と同等であることは論をまたない。その前提のもとに、平和憲法の存在が日本にもたらしているメリットとデメリットは理解しておくべきだろう。
まず、平和憲法による自発的な戦争行為の禁止というのは、先制攻撃を縛る効果を持っている。これは国際関係上、大きな意味がある。「こちらから仕掛けることがない」は「戦争が起きたとき、仕掛けてくるのは必ずあちら側」を意味することになり、日本との戦争が起きたとき、日本の敵国は国際的な批判から免れえないということだからだ。集団的自衛権が政治的論点になる理由もそこにあって、先制攻撃を容認するのは世界からの批判を受ける可能性を許容することにつながる。戦争や紛争が起きたときに批判されにくいのは大きな利点だ。
もちろん、そのデメリットはあって、領土問題での小競り合いが発生したときの自発的強硬手段が
ちなみに、永世中立国の例としてスイスを出してくるのは筋が悪いので気をつけてくれ。あれは他国が中立を認めることで成り立つのであり、自分で勝手に「中立でーす」と名乗っておけば他国が攻めないでいてくれる…というものではない。
父は発達障害でありながら、自覚なく、適切な訓練も受けずに生きてきたため、
人からバカにされ、疎まれ、罵倒されるだけの人生を過ごした影響で、人生と他人に決して解消されない強い恨みを抱いており、
反撃しないことが明らかな家族にだけ、酔った勢いで呪詛の言葉を投げ続ける人生を送った
ストレス解消は酔っ払うことと、家の中で暴言を吐きまくることで、
すべての忠告が自分への攻撃に聞こえているらしく、酒を控えろとか、趣味を見つけろとか、外のコミュニティで友達を作れとか、
建設的な生活改善のアドバイスにも、やらない言い訳と進言する家族への罵倒が返ってくる
家族ながら、もはやこのおっさんが救済不可能であることは確定的に明らか
ペーパーテストだけかろうじて平均レベルの知能があるため、本人は自覚していないが、
今はまだかろうじて日常生活を送れるだけの節度を保っているが、今後は加齢とアル中の進行により急速に生活が崩壊していくだろう
頭は悪くはないのだが、自発的に勉強をするわけではないので、苦労している
私はコロナの影響でリモートワークでほぼ家にいるのだが、最近は子供の勉強をみることにしている
子供からすれば常に家にいる自分を、楽そうな仕事をしてるなという印象で見ているらしく、最近は将来の仕事について子供と話すようになった
ある日、子供と外を歩いていると、この暑い中、おじさんウーバーイーツが走っているのを見つけて、こう言った
「ちゃんと勉強しないと将来、あんな仕事しかできなくなっちゃうよ?」
「疲れる仕事にもかかわらず、給料もものすごく安いし、将来自分もああいう風になりたいのかな?」
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僕は高校3年生(男)だ。
今日も、昨日も、一昨日も、ここのところずっと、自発的な勉強をほとんどしていない。
代わりに、大量のネット上の記事とブログと無料の音楽と漫画とヤフコメとはてなブックマークと増田を摂取してはひり出し、少し休んで親のいる時だけ勉強のふりをし、摂取してはひり出ししてどうにか生きている。何の知識も身につかず、自分と関係ない人や物を消費していく毎日。正直、虚無感しかない。
僕は普通に大学受験をするつもりで、今のところ京大の理系学部を目指している(という事になっている)。しかし、現在の体たらくを続ければ、京大どころかどの大学にも落ちるレベルだ。自分の現状とその先にある未来は見えているが、理想との間にある暗い穴から僕は顔を背けている。その逃避の一環としてネットサーフィンがあり、というか増田に書いている時点でこの行為もまた逃避だろう。
起きて朝飯を食べて親が仕事に出かけたらソファーでChromeを開いてネットを漁りオナニーして親が帰ってきたら夜飯を食べて寝る日々。こんな状態を望んでいない自分とネットを見る以外に何もしたくない自分が綱引きをしていて、多少の誤差はあれど後者が常に勝っている状態。現実からの逃避。
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僕が中学受験の末に今いる男子校に入ったのはだいたい6年前だった。(本命には落ちたが)東京の男子御三家の一つに入れたのは嬉しく、自分の中では今でもある種の成功体験的な地位を占めている。
それから5年間やりたい放題好きに過ごしてきたのだが、特に高校生になってから、学年が上がるにつれ同級生が大学受験を意識する様子が目立ってきた。
高2の後半になると、東大合格を至上とし進学校の生徒のみが入れる中規模のカルト的人気を誇る塾に学年の1/4以上が入塾し、授業を聞かずに塾のテキストを自習する奴の割合も増え、英単語帳やら青チャやら重問がクラスに溢れるようになった。つまりみんな勉強を始めていた。
ここら辺から、勉強していない自分と、みんな勉強しててヤバい俺も勉強しなきゃという規範に齟齬が生じてきて、その齟齬を上手く埋めることができず、長じて今の状態に至るのかなあと推測したりもする。でもこの頃はその規範通り、効率が悪いにせよちゃんと勉強していた。
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そうしているうちにコロナが流行りだし、安倍(どう表記するのが適当かわからない)によって休校宣言が出された。3/1くらいか。
学校が休校になっても、春休みが終わるまでは塾の春期講習に行ったりで勉強モチベはわりあい高く保てていた。実際に一日6~9時間くらいは勉強していたと思う。
しかし、そこからが辛かった。学校では友人と愚痴を言い合ったり馬鹿話をしたりバトミントンをしたりして、ある程度勉強のストレスが和らげられたと思うのだが、コロナの巣籠もり下では誰も話し相手がいない。
日中誰とも喋れず家で勉強をするのは、精神衛生上かなりキツかった。ちょくちょく友人とはLINEしたり電話したりしていたが、それも焼け石に水だった。
学校がGoogle Classroomを使い始め、zoom配信や動画を見ることで出席をつける形式になり、ここを先途とばかりに大量の数学演習やら長文読解やら共通テスト対策問題やらの課題を出すようになったのもキツかった。
ネット上の課題は対面で「この課題、やっとけよ~」と言われるよりも課題やらなきゃという義務感が生じにくく、タブを一つ消すだけで存在ごと消えてしまうため、期限を忘れた課題が大量に溜まり、その多さを見てやる気がなくなるという悪循環が際限なく生じてしまった。
更に、zoomやGoogleClassroomを使うためにパソコンやスマホを手に取る機会が増えた。それは僕の場合、ネットを開きはてブや増田やアルなどの他のサイトを見る機会の増加に繋がってしまった。
こうなるともう爆発の一歩手前だった。ただし、それでも5月の初めまでは自制してなんとか勉強できていた。
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5月6日から8日の間、僕は虚無の中にいた。勉強をブッチし、カーテンを閉めて照明を一つだけ灯した薄暗い部屋の中パソコンでひたすらソク読みとはてブと増田とpornhubを巡回していた三日間。それまでも週一くらいで勉強をサボる日はあったが、三日連続でのそれは初めてだった。仕事をしていて日中家にいない親には特にバレず、小言を言われることもなく、要するに僕は手軽に快楽に浸って現実逃避する道を知ってしまった。
この三日間がぶち抜いた綻びから生活が徐々に崩れてきた感覚がある。
最初は勉強をしないことに対する罪悪感もあったが、ネットに頭を占領されていくにつれて、頭の奥が靄がかかったようにぼんやりとしてきて物事を深く考えるのが辛くなり、そういった感情も段々と消えていった。
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6月になってリアルの登校が始まったが、コロナ前の登校に比べて頻度も授業のコマ数も内容も悪い方向に変化してしまったので、状況は大きく変わらなかった。
確かに久しぶりにする生身の友人との会話は話すネタも尽きずめちゃんこ楽しかったし、3時間くらいしかない授業が終わった後は勉強モチベも高まった。
しかし、長期の家籠りで重度の出不精コミュニケーション不精と化していた僕にとっては、登校日は楽しい日であると同時に疲れる日でもあり、その疲れと怠さはだいたい翌日以降も続き、勉強のやる気を阻害した。
登校日は月に数えるほどしかなかったので、リアル登校の再開によって逆に僕は勉強ができなくなっていた。
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6月後半~7月に入ると、本当に幸運なことに、友人の一人が学校のない日に一緒に勉強しようと誘ってくれるようになった。彼は通っていた中規模塾の自習室がコロナのため空かず、かといって家で勉強はできないから一緒に外でやろう、そしたらお互い良いんじゃね?とLINEしてきた。これは絶好のチャンスと思った僕はホイホイ乗っかり、感染防止対策を取った上で一緒に自習する日々が続いた。
友人と一緒にいるときは(体面を良くしたいというのもあって)だいたい6時間くらいは集中して勉強できた。そんなこんなで最初は順風満帆だと思っていたのだが、段々と状況は悪化してきた。
7月2日のことだった。前日の7月1日もその友人と勉強していて、明日も午後から勉強しようぜ!と話していた。しかし、2日の朝起きると体がだるく、親が出て行った後に心の中で言い訳をしながらソファーに寝転んで午前中いっぱいスマホでブログやら何やらを見てしまった。
当然ずっと寝ていると体が重く、長時間ネットを見たとき特有の頭がぼうっとする感じにもやられ、僕の頭はどこからともなく湧いてきた「今日はだるいから外出は無理だな・・・」という考えに完全に支配された。まあ、事前に連絡をしておけば別に一日くらい行けない日があっても問題はないだろう。
・・・・・・問題なのは、僕が友人に夜8時まで連絡しなかったことだった。早めに「すまん。ちょっと今日は無理そうだ・・・」とLINEしておけば良かったのに、僕は夜までそれを意図的にサボってしまった。連絡しなければいけないことはわかってる、連絡せねば、という思いは強くあるのに、なぜかLINEを開いて連絡するのがひどく億劫で、僕はそれよりもソファーで丸まって現実逃避することを選んだ。
罪悪感はすごかったが、一方でなぜか「ああ、こんなもんなのか」と思っている自分もいた。
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そこからの堕落は早かった。いや、その前から堕落していたのかもしれないが、もうよくわからない。友人との勉強の約束は3回に1回くらいすっぽかすようになり、昼飯でも奢ってちゃんと謝ろう、と決意した頃には友人の塾の自習室が解放され、結局うやむやなまま僕と彼の勉強は終わってしまった。学校が再開したらきちんと謝りたい。
▼学校の課題を大量にやり残し、入学してから初めてある科目の学期成績で白点をとる
▼塾の夏期講習(5日間)のうち3日サボる
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こうやって家に籠って自堕落な生活をある程度の期間続けていると、だんだん自分の思考や言い訳の仕方がわかってくる。僕の場合、「○○からやるぞ症候群」が顕著に表れた。
「今日はだらけていてもしょうがないが、明日からは毎日10時間勉強するぞ。そしたら受験にも間に合う。・・・だから、今スマホを見てもいいんだよ」
みたいな感じだ。○○には「明日」が入ったり、「6月」とか「7月」、はては「15時」が入ったりする。
言うまでもなくこれは未来に責任を押し付けて現実から逃避するだけで、実際に実行できるなら良いが、実行できないのなら全く意味がない。
僕は、ほとんど実行できなかった。5月には「6月からちゃんと勉強する」と言い、6月には「だらけすぎた。7月からマジでやるぞ」と言い、7月には「たるんでる。8月から毎日10時間やろう」と言った。
あとは、ネット断ち・スマホ断ち・ゲーム断ちも考えたが、これもほとんど続かなかった。昨年12月にアンインストールしたみんはやはついこないだインストールしてしまった(またアンインストールした)し、同じく12月に押し入れに封印した3DSは今日開けてしまった。マリオテニス楽しい~~~~~~~~~~~~~~~
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こんな感じで酷い暮らしをここ3ヶ月くらい送っています。高3の夏をこんな風に過ごすとは去年には考えもしなかった。こうなった要因の一つは間違いなくコロナがあって、確かに休校がなく毎日登校していたら精神はもっと健全で勉強ももっとできていただろう。でも、どんどん堕落の坂を転げ落ちていったのは間違いなく自分の弱い性格のせいだと思うので、あんまり環境のせいにしないようにしたい。
他にも気が滅入るようなことは沢山あって、けん玉のこととか昭和42年生まれ元司法浪人さんのこととかオナニーのこととか書きたいことも色々あるんだけど、疲れたのでここらで止めておきます。
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よくわかんねえものを垂れ流してしまってすみません。やや自分の気持ちの整理ができた気はします。「勉強しなきゃな」と。何だかんだ自分はやればできるという妙な自信はあるので、それを現実にすべく明日からコツコツと勉強を始めたいです。要するにこれも「○○からやるぞ症候群」の一種ですが、劇的な物を望みすぎると失敗するということは身に染みたので、あんまり負荷をかけないように少しづつ少しづつ
やっていきたいです。どれだけの人に読まれるかわかりませんが、もう投稿したら入試終了まで見ないことにするのでブコメもトラバも返せません。入試が終わったら(たぶん3月下旬)結果を書くかもしれないです。
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部下の30代女性に好意伝える、50代男性職員を注意処分に 宮城
女性は強いストレスによる体調不良で職場を休んだ。県は「職務上優位な立場を背景として行われた」として処分。
男はアスペだから、相手が断らないと「あ、オレのこと好きなんだ!」と思い込む。認知の歪みがデフォ。
西村博之も嫁が自発的に掃除やってるのをみて勝手に「掃除が好きだからやってくれてる」と最近までずっと思い込んでいた。
「おっさんはウンコ、ウンコは能動的な行動するな、迷惑だから」
そうハッキリ言わないと分からない、それが男。
あと、犯罪者の8割以上が男。
男は基本犯罪者だという前提で警戒しよう。