はてなキーワード: 新興宗教とは
何の話かと言えば、今回のトランスジェンダー否定書籍?の出版中止騒動である。あれを「表現の不自由展」を歓迎していたネットリベラルがこぞって賞賛している点である。
自分はどちらかと言えば保守寄りな人間である。ネット右翼には辟易とするが、とはいえあんまりリベラルなのも好きではない。「表現の自由」と言ったって程度はあると思う。
線引きがあってもおかしくはない。
とはいえ、「表現の自由」を標榜することの重要性は理解しているし、それを掲げるリベラル的なスタンスは世の中には必要だと思う。「表現の不自由点展」というのも、
好きな題材ではなかったが、「まあそういうスタンスがあってこそ、世の中全体でバランス取れるよね」とは思っていた。
原子力発電所だって稼働すべきだと思うが、「原発立地地域に寄りそおう」というスタンスは理解できる。甘ったるい理想論だって、時には世の中に必要だ。
なので、今回、「表現の自由を標榜する側」であるリベラル層が、出版中止を拍手喝采して、なんなら必死に擁護をしている様を見て、愕然として、失望してしまった。
おまえらの掲げていた「表現の自由」とはそんなに薄っぺらいものだったのかと。
前述した通り、「表現の自由」だって限度はあると思っている。例えば、エログロの度合いが度を超えていて、明らかに全年齢に有害な作品だったら取り締まるのは分かる。
黒か、限りない黒に近いグレーまではまあ取り締まられてもしょうがない。
でも、件の書籍はそこまで黒に近いグレーだったのだろうか。出版されていないし、原著を読むほど熱意もないが、伝え聞くところによれば、まあ確かに問題のある書籍っぽい。
だが、取材方法に問題のある書籍や、ある程度偏った認識に基づいて書かれた書籍なんて、山のように転がっている。なんならちょいちょい山手線の電車広告にだって掲載されている。
技術的な観点から見れば、件の書籍よりもっと有害で、タチの悪いデマが書かれた書籍だってあるだろう。例えば、明らかにデマだとわかる医療系の話題を扱った書籍は悪質性が高いと感じる。
がんの標準治療を否定するなんて、人の生死にすら影響するし、残された者すら不幸にする。詐欺に近い形式の新興宗教を勧める書籍だって、褒められたものではない。
私達は、直近、問題のある新興宗教が及ぼす社会的な悪影響について目の当たりにしたばかりである。
そういった書籍ですら出版中止されないし、出版中止に向けた運動などが特に起きているわけではない。にも関わらず、今回の出版中止騒動である。
客観的にみて社会的に悪影響の多い書籍を差し置いて、「ネットリベラルの主張と相容れない書籍」が出版中止になり、あまつさえネットリベラルの方々がそれを賞賛したり、擁護しているのをみて、
正直うんざりしてしまった。あなた方の標榜した「表現の自由/不自由」とはそんなに薄っぺらいものだったのかと。
「自分の主張と相容れようが相容れまいが、表現の自由だけは金科玉条である」という話ではなかったのかと。
もちろんTwitter上を見ていれば、色々な擁護や釈明が書かれている。大筋でまとめると「世の中、どんどん悪影響の多い言説がはびこっている。だからこそこの辺で線を引かなければならないのだ」という主張だと理解した。わからないでもない。でも、その言説の前提には「自分は、世の中にとっての絶対的な良い/悪いを正しく判断できる」という驕りがあるように思う。
自分だって、少し前の段落で「やれこの話題は悪質だ」「ほれこれは悪影響だ」などと批評している。批評自体は悪いことだとは思わない。と同時に自分の批評が「絶対的に正しい」とは思わない。
自分は、「世の中で絶対的に正しいのは数学くらいだ」と思っているが、その数学だって、前提を変えれば、それまで成立していた公理が成立しない空間を規定することができる。
ましてや、社会的な言説なんてのは、その前提が各自の価値観に根ざしているので、絶対的に正しいはずがない。ところ変われば品変わるし、「自分が絶対的に正しく価値判断ができる」などとは絶対思えない。
だからこそ、多様性やら表現の自由やら、自分以外の価値観を許容することが必要なんだろうな、と常々思っている。
その「表現の自由」というものを、今回、元々標榜していたはずのネットリベラルが放棄してしまった、ように思う。
自分たちは正しく善悪を判断できる、と信じているのだろう。しかしその態度は、とりもなおさず、元々彼らが大事にしていたはずの多様性や寛容を否定する態度だと、彼は気づいているんだろうか。
気づいているなら傲慢で一貫性がないし、気づいていないならただただ浅慮だ
学生時代、新興宗教にハマった人の話を聞くと「なんだってそんな馬鹿なことを」と鼻で笑う気分だった
それから10年ちょっとたった今、宗教にハマった人達の体験談は生々しい温度感を持って自分に襲ってくる
自分で言うのも何だが、自分はどこに出しても恥ずかしい無能である
仕事は勿論、恋愛も生活も対人関係も全てに置いて出来が悪くて何も出来ない
無能じゃない皆さんはご存知無いかもしれないが、幾ら回っていようとも周りと噛み合っていなければ社会の歯車にすらなれないし
その自覚があるくせに現状を改善するやる気もそもそもどうすれば良いのかも分からず
ただぼんやり「いきるのってたいへん」とお空を眺めているのが無能が無能たる所以なので
現状が改善されることも無い
そしてその癖に承認欲求と自己顕示欲だけはある為に、誰かに認められてみたい、必要とされて感謝されてみたい、みたいな感情だけはある
出来ない人間は寂しい
むしろ人に迷惑を掛けて、嫌われてだんだん避けられていくのをずっと眺めているしか出来ないから。
自分には誇れるものも特技も何もない、周りの人達の様に必死に努力したら現状が良くなるのだろうな、と思ってもそれを選ばない。
ただ、誰かが出来ない自分をできないまま助けてくれないかなって思うだけ
そういう社会生活に自分も混ざりたい、誰かが全部なんとかして欲しい、みたいな欲求を宗教は叶えてくれる。らしい
貴方はこの集団の役に立っているんですよ、貴方は必要とされているんですよ、生きてていいんですよ、辛くて悲しいことは神様がなんとかしてくれますよ
とそういう事を言われて、それを本当に信じられる環境にされるのなら自分は多分ハマる。確実に。
国宝を所有する寺の孫であり、父親が一級建築士、母親が介護士のパートである。親戚に
元市長がいる。職業は工場のアルバイト(借金200万持ち)新興宗教の会員でもある。
食品工場、高校時代にアルバイトの面接は全て落ちた。小学校の時に遊具から落下し、控除に。その為、エスカレーターの下りが苦手
トンカツと天ぷらと唐揚げは塩で食べる。ソースは嫌い。キャラメルコーンを10年以上食べてない。爽健美茶と生茶を15年飲んでいない。コーヒーを生涯で5度しか飲んだことがない。ゆるキャラのハロウィンイベントに行ったらAV女優に遭遇していたこともある。
日本で数少ない(?)歯痛フェチという性癖を持っており、絵本を読んで普通に勃起する。
初めて歯痛で性的興奮を感じたのは小学校高学年の時にみた幼児向けビデオであり、親のいない内に何度も観ていた。ちなみにその他の性癖として、メスケモ、触手、ロリなどがある。趣味は短歌と読書と料理。得意な料理は焼きそばとステーキ、苦手な料理はカレー(めんどうだから)好きな漫画はメイドインアビス、三月のライオン、ちいかわ、ねこ神さま、heavenなど。母親が女性向け漫画をたまに買ってくるせいか、女性向け漫画もいくつか読んだことがある(例 花より男子 アラミス パタリロ など)母親はゴシップ紙の性的なページを破って捨てるほど性的なものには厳しかったが、女性誌の性についての特集ページは普通に読むのを許していた。そこで性交通、陰毛の処理の仕方などを覚える。ちなみに母親はオナホールを未だ知らない(50ぐらいなのに)父親の仕事現場には小さい頃からよく連れて行かれたようで、記憶の中で最も古いのは小学校二年ぐらいの時である。中学の時には既に手伝いをやらされており、高校の時には足場を組まされたことも。
いくら許せなくても世界側に代わってもらうのは無理だから自分で受容適応するしかないのはわかるけどまだ出来ねえ~~って話。
世の中に趣味娯楽はたくさんあって、深入りしてるからこそ苦しんでる事例もたくさんあると思うんですが、
私はその中でもセックスや恋愛で不幸になってる人をみると勝手になんかつらくなっちゃって、
出来るだけ共感半径に人を入れないとか、友達でも性事情は浅いとこまでしか聞かないみたいなことを割と意識的にしてまして。
その直接的な原因が、創作物でもNTR、BSS(僕が先に好きだったのに)で変なダメージ食らうんですよね。
(特にBSS、被害者面する正当性なんもないからね。でもつらいよな)
あと女子高生・大生が身内パーティではしゃいでたらそんなつもり全然なかったのにお持ち帰りされるやつ。
で、「なんでこんなダメージ食らってるん?」って自問自答して、
「こういう要素のこういうところが苦手かもしれない」って要素の羅列です。
「そうじゃない人もいる」のは百も承知なんですが、
「その傾向がある」「こうなる可能性を排除できない」の話です。
誰でも、何に対しても100回目より初めてのほうが特別だと思うんですよ。
でもセックスの場合って片方が「おれ20回目だしこんなもんでええやろ」くらいの気持ちでもう片方初めてだったのに!
みたいなことも起こるじゃないですか。
男女ひっくり返るパターンももちろんあるけど、そういう「相応の覚悟がないまま他人の人生に影響を及ぼす」ってのがなんかグロく感じる。
貞操観念が完全に一致してる社会ってのを想像してみたりもしたんですが、
多くて十数人程度かつ権力勾配がほぼない小集団ならともかく、それ以上になると無理じゃないか…? と思うわけでして
原始的な社会においても権力持つ男にとってはセックスは安いし、
・セックス・恋愛対象を金銭的・量的価値で換算することが当然なのが嫌い
女性で言えばかわいかったり、若かったり、アイドルだったり、未経験だったりするとまあ性的に求められる機会は増えるじゃないですか。 応じるかはさておき。
でもって金銭的価値で計算することが可能になるわけじゃないですか。
それにキモさを感じるんですよね。
よりキモいけど確実にあるだろうな…って例でいえば、
「逆にしてみて、初めてじゃないとわかるとキレる」
BSSのこと好きになれないながら馬鹿にもしがたい理由がこの辺で、生理的なショックは止めようないもんな…。
処女厨に関しては思考実験として、義務教育で全員性教育実習するような社会だったら変わるのかもしれん。
が、少なくともこの社会はそうではない。
どっちが有利かってのは置いといて、
一般的に男は顔や、金や、話術や、センスで相手を探す(短期的なお相手)ゲームになりがちだし、
女は顔や、若さや、仕草をお金に変換したり、相手を探す(人生のパートナー)ゲームになりがちじゃないですか。
二者の切実さに差があると、優位なほうが搾取可能になるじゃないですか。
「可能だからってやるとは限らない」なんて希望は全人類に対してはとても持てない。
特定個人に対しては超がんばれば持てるけど、しばしば裏切られる。(芸能人の不倫とか)
そして搾取構造が一度出来上がると、密室内での関係というのも相まって、ブレーキや法が及ばず、どんどんエスカレートすることが度々ある。
まあ恋愛ってそういうあいまいな部分を解釈していくのが醍醐味みたいな部分もあるんだけど。
普通にラブコメは好きなのでそういうの好きーてなることもあるんだけど。
ちょっと心が闇落ちに傾くと、
生殖と愛情表現とソフトな支配・暴力と人間の部分的なトロフィー化と単純な快楽と他もろもろが混ざってるの正気の沙汰じゃねえ…ってなる。
不幸も大半がちょっとしたすれ違い程度だろうけど、
かといって世の中曲芸みたいのこと乗りこなして生きてんな…という感想は消えない。
セックスをゴールと思ってる人とスタートだと思ってる人のすれ違いとか。
・でも性欲からは逃れられない
まあ今のところ。
損得の上でいくら嫌だなあ、嫌だなあって思っても、逃れられないのでなんらかの形で受容するしかない。
日夜エロサイト巡るだけで済めばいいけど。
選ばれなかったからと言ってフラれた人の価値が貶められないのはわかってるんだけど、
自尊心に傷を負うのは避けられないし、
傷を負った人を馬鹿にしたくない。
いくら傍目に見て「本気で落としたいならもっとちゃんとやりなよ」という人であったとしても。
まあまあ「それは君が考え方を改めるべきだよ」案件ではあるもののやっぱり共感もしちゃう。
ワンピースのベガパンクが天竜人の所業を見て頭の片隅で「うらやましい」と思ってしまって欲を切り離した、みたいな描写があるらしいんですよね。
ツイッターで聞きかじったときに「めちゃくちゃわかる…」となってしまって、
「そうしても怒られないし、罰せられる人がいない」って状況に置かれたとき、
「これは期間限定のものではないし、あとで負債を取り立てられる心配がない」って状況のとき、
倫理観を維持できる自信がない…。
現実的にはそこまで極端な特権にはたどり着けないものの、(たどり着いた人もいる、という別枠の闇もあるが)
過剰に疲れていたり、被害者意識をこじらせていたり、あるいは躁的な全能感が強い時期だったりすると
「これくらいなら大丈夫なんじゃないか?」って考えがよぎらないと言えば、まあ、嘘。
今のところ頭の別の部分でブレーキかけたり、メンタルが平常に戻るまでCPU稼働率落として、
能動的な行動起こせないようにスリープ状態にできてるけど、死ぬまで保てるかはあまり自信がない。
特に生理的な事実として脳が衰えると精神的なブレーキが弱まって起こりやすくなったりするし。
「死ぬまで穏やかでいい人だった」って平凡に見えるけど、年々そういう人への尊敬度が増していく。
仮定の話だけど、
・人間がみな不老だったり後天的に外見を調整できる技術が安価化している(外見年齢による事実上の結婚市場タイムリミットがない)
・片方が嫌だとなったら強制的にセックスを中断させることができる
・というか子供が欲しい人は体外受精するのでセックスが生殖行為と切り離される世界になる
・性欲をコントロールする技術が生まれ、「性欲を抑えきれない」という状況がなくなる
・上記のようにセックスが非常に優先度の低い娯楽なので、金銭に変換する文化が廃れる
みたいな世界だったら許せるかもしれない。
おまけ
脳が破壊された(性・恋愛描写でもってしばらくひきずった)作品や、性・恋愛で感心する描写があった作品
うろ覚えな筋としては、
戦時中英語やアメリカ文化が禁止された名残で(時代設定忘れたけど平成初期くらい?)クリスマスが禁止されている日本。
若者たちのための祭りとして「クリスマスをさせろ」という趣旨の「クリスマス解放戦線」がかつてデモや学生運動を繰り広げた。
が、その暴動も鎮圧され、今や戦線はわずか4名のメンバーが残るのみ。
デモの主催となった女性は犯罪者として中東の紛争地域に慰安婦として送られ、
戦線のメンバーはそれぞれ鬱屈を抱えてはいるものの、思春期で親に反抗したいいいとこのお坊ちゃんお嬢ちゃんなど。
「ささやかな」反抗として4名でのクリスマスパーティを決行するものの、警察に察知されてしまう。
「メリークリスマス!」の掛け声と共に袋から取り出したのは小銃。
戦線のメンバーの一人はキリストの墓を根拠にしている過激な新興宗教の信者だった。(地元にはキリストの墓と呼ばれるところがあります。なぜか)
精神的に追い込まれ、ささやかだったはずの反抗から特攻兵に仕立て上げられた若者たち。
テロに参加せず取り残された主人公は、実は警察のスパイかつ、デモ時からの戦線メンバーだった。
クリスマスパーティ場を密告した見返りとして戦地での慰安婦から帰ってきた先輩(かつての指導者)は妊娠して(させられて)いた。
未来人と名乗る鳩に、「きみが片思い中の彼女はこのままだと死ぬ」と脅され、
半信半疑ながらもその手伝いをする。
主人公は彼女が好きだと言っているくせに、「自分はまだふさわしくないから」と決定的な告白をせずにいる。
何の意味があるのかと思いながらも手伝いをしていると未来からの別勢力が現れ、いよいよ信じはじめ、
が、主人公が告白しようと思った時には既に彼女には恋人がいた。
(未来人のそそのかしによって)ほかならぬ自分が仲立ちさせられた男が。
なろう原作。
人類は全て手の甲に石が埋まっており、
その石が濁っているか透き通っているかで魔法が使えるか否か、ひいては貴族かどうかが決まる。
一度平民の血が混ざると子が大丈夫でも隔世遺伝で魔法の使えないものが生まれるため、貴族社会で混血は忌み嫌われている。
だが魔物に対抗する訓練を受けており、従軍任務の結果、貴族平民かかわらず多くの仲間に恵まれる。(一方的に好いてくる異性も)
出来のいいダークファンタジーだなあという感想で読んでいると、本筋とはあまり関係ない一幕で
「この世界では男女が愛し合っていなくては子供ができない」という設定が明かされる。
シリーズ2の5巻目くらい。
父親の身体が病気でゼリー状になっていじめられる娘が、不良グループとつるむようになって、
不良グループの男がその父親に「親はこんなのくせになかなかいい具合だったぜ」っていうのが嫌すぎて続刊買えなくなった。
個人的に感心している設定は、
「この世界の避妊は魔法でする。 男性側にかけ、定期的にかけなおすものの数週間程度はもつっぽい?」
「魔物は人間を迫害する本能があるためレイプするものの人間との生殖能力はない」
(個人的には好きじゃないけどリョナ好きへの需要があるのはわかるし、世界観の残酷さが示されることで主人公の無体も『まあ結果的に命張って戦って人々を守ってるし…』とバランスがとれてる)
(しんどそうだから読んでないけどこのテーマからすると直撃っぽい)
一話だけ読んだ。
キモデブオッサンの主人公が元ギャル奥さんとラブラブなんだけど、
奥さんは若いころ相当性経験値があって、主人公はそれを非常に負い目に感じている。
(当時は本当に接点ゼロにも関わらず)
皇帝と女騎士 / Team IYAK(ピッコマオリジナル漫画)
家族から邪険にされ、女らしさとは無縁に軍属として生きてきた主人公が、
「女のくせに」と言わず一人の戦士として尊重してくれる王に絆され、女騎士として仕える話。
ただ、平和な世の中まで行くと周りから「女の役割」というものに圧力を感じて、
戦の功労者にもかかわらず生きづらさを感じたり、開き直ろうと変な突っ走り方したり。
いつどこで見たかはすっかり忘れてしまったが、リベラルな言論で著名な方が、以下のようなことを言っていた。
「氷河期世代は不況のせいにして就職できず流されてきて、今になって苦しいという。何故20代の時にお国と闘わなかったんだ。今更苦しいと言っても自業自得」
仰っていることは尤もなのだが、しかし当時は連帯しようとかデモをしよう、国に掛け合おうなどという考えはないに等しかった。何故だろう? と氷河期世代たる増田は考えて、すぐに結論が出た。
左翼の皆さん、我々の世代に嫌われてたんだよ。左翼にも色々あると言われそうだけど、あの頃の左翼的な思想を持った連中なんて、どれもこれも十把一絡げで嫌われていた。
昭和50年代生まれの我々は義務教育期間中、一度や二度はいわゆる日教組のアカ教師と遭遇し、嫌な思いをさせられている。かつて学生闘士と呼ばれていたような、親より少し年上の定年間近の老教師が、特に地方の、子供も少なく1クラス30人にも満たないような増田の学校にも必ず1人はいて、何かと教育現場を引っ掻き回していた。最近あまり聞かれなくなった式典での国旗掲揚不起立や教科書の君が代ページを貼り合わせる問題が、周囲を田んぼと山に囲まれたど田舎の我が母校でも起きた。
増田の担任にはならなかったが、当該クラスにPTA会長の子供もいたことで、その後大人たちの間では大変な騒動にもなっていた。
教師の体罰がまだ当たり前だった時代、アカ教師は手こそ上げないものの、従順な女子児童への露骨な依怙贔屓や反抗的な男子児童への横暴な発言は、学年を超えて伝わってきて嫌われていた。
その頃はインターネットがなく、テレビと新聞が主な情報源だった。番組改編時にはよく衝撃映像や昭和の記録映像として東大講堂での騒乱やよど号ハイジャック事件、あさま山荘に鉄球をぶつけるシーンがよく流れていた。その度に「かつての日本は荒れていたのだな」「その原因を作ったのはあのアカ教師の仲間なんだな」と、幼心に刷り込まれていたのかもしれない。
あの頃は、一部のメディアにも左翼の活動を忌避する空気が作られていたのかもしれない。いわゆる自虐史観が幅を利かせていた教育業界に新しい教科書を作る会が出てくる一方で、司馬遼太郎によるドラマティックな司馬史観がこれでもかともてはやされている時代でもあった。
高校、大学(増田が通ったのは地方の駅弁ですらない田舎にあった)と進学するにつれ、ますます左翼的な勢力は目につかなくなっていった。教師や教授陣にそれっぽい思想を持っている人がいなかったわけではないが、押しつけることはなく、オルグされる同世代も見かけなかった。他の大学の学園祭に行った時、明らかに学生らしくない数人のおっさんが垂れ幕の前で9条がー、と威張り散らしているのを見かけたくらいだ。
ちなみに阪神・淡路大震災も増田の学生時代に起きた。燃え落ちた街、横倒しになった高速道路の映像はあまりにも衝撃的だった。現代でこんなことが起きてしまうのかと呆然としたのを覚えている。救援活動に来た自衛隊を批判する勢力は、露骨に白い目で見られていた。
オウム真理教が問題を起こしたのも同じ年だ。あの頃のマスコミの狂乱は、今の統一教会報道の比では無かった。テレビには毎日のように信者が登場してめちゃくちゃな言動を繰り広げ、一般紙からスポーツ新聞までが彼らについてあらゆることを書き立てた。氷河期世代が過激な新興宗教に拒絶的な態度をとりやすいのも、オウムや、その他宗教団体が原因である。
オウムだけではなく、当時はあらゆる新興宗教団体がしつこい勧誘で嫌われていた時代だったのだ。少し大きな駅に行くと、手相の勉強をしていると称する者は壺や印鑑を売ろうとしてくるし、あなたの幸せを祈らせろとつきまとってくる者もいるし、選挙があれば○○党に投票しろ、新聞をとれとうるさい。個人情報がダダ漏れの時代ということもあり、これらの勧誘を掻い潜るのは至難の業だった。
増田も宗教2世である元同級生からの勧誘に辟易とし、家族の闘病について信仰心が足りないからだと言われた時には速やかに絶縁を申し出た。元同級生が悲しそうな顔をしていたのを、今でも覚えている。かつてはスニーカー文庫を貸しあった仲だったのに残念だった。
働きだしてから、といっても増田は就職できずフリーターになったのだが、ようやく田舎にもインターネットというものが普及してきた。2ちゃんねるが登場したが、そこでも左翼は馬鹿にされる対象でしかなかった。制服を強要されているのが虐待だと国際的な場で主張した政治家の息子が笑われたりしていたのもその頃だ。
だからその後、若者を中心としたSEALDsが出てきた時はびっくりした。いつのまにか、増田の親世代ですら触れたがらないアカの思想にばっちり染まった彼らは、SNSでつながることに抵抗を持たない世代としての強みを活かし、あっというまに増えていった。いつのまにそんな思想が、もう絶滅したと思っていたアカが若者の口を借りて復活するとは予想外だった。
30歳を超えた増田には、SEALDsの輝きが眩しくうつったが、羨ましくはなかった。主張があまりにも幼く感じたからだ。かつてアカ教師に仕込まれた児童が湾岸戦争時の自衛隊派遣に絡めて「戦争には反対です。憲法9条に反するから、自衛隊はやめた方がいいと思います」と言わされていたのを思い出させた。このときは自衛官を親族に持つ子供が他の学年にいて、家族が学校にクレームを入れて大問題になった。
増田はネットの匿名文化にも浸っていたため、「学生のうちにこんなに顔を晒して発言していたらこの先大変だろうな」と思ったりしたものだ。
結局SEALDsは解散したが、その後、リベラルと言われる勢力は以前よりも目につくようになってきた。だがやはり、氷河期世代の姿は少ない。
そんな中で発せられたのが「氷河期世代は何故闘わなかったのか」である。
正直に言おう。
我々の世代に、国と闘う余裕はなかった。そんな暇があれば働くことを選んだだろう。
そして、あの横暴で陰険な、アカ教師のような人になりたくなかったのだ。
その結果、「闘わなかった」と怒られる。
今の視点で見れば、何とでも言えるよな。あの頃のリベラルなど、今よりずっと情けなかったのに。
ここからは余談。
数年前、増田が住む街の施設で日教組の全国大会があり、警察が規制線を張っていた。警察が守っているのは、会場へ向かう年老いてしょぼくれた、とっくに定年退職を迎えて何年も経た老人の群れである。みんな「日教組○○県支部」と書いた幟をもって、俯きがちにトボトボと歩いている。総じて服の色は地味で、男女問わず髪の毛もボサボサで、見た目にも元気がない。
その規制線の外、ギリギリの場所に愛国的なことを叫ぶ街宣車が止まっていた。車の上から老人たちに向かって元気に「国賊」などとがなりたてている中年男性は、増田と同世代か少し上くらいに見えた。
どこにも若者がいない。交通規制を促している警察官が一番若いくらいだ。
かつてはヘルメットをかぶりゲバ棒を手に機動隊に向かっていたかもしれない人々が、中年にどやしつけられ(ほぼ因縁だが)、国家権力に守られながらトボトボと歩いている。
どんな気持ちで歩いているのだろう。会場には共産党を代表する大物政治家が来場するとポスターにあった。世代交代を頑なに拒み、トップに君臨し続けているその政治家を見て、彼らの心は慰められるのだろうか。
だが天下をとれなかった彼らも、闘わなかったと言われる氷河期世代も、下の世代からは同じに見えているのかもしれない。これを書いている増田に、左翼も日教組も共産主義も新左翼も革マルも中核派も赤軍派もリベラルも、まるで区別がつかないように。
仕方ない、そういうものだ。
これを読んでるみんなは、俺たちのようになるなよ。
いまのごく普通の日本人はそれほど学会嫌いじゃないと思う。学会員の活動家に聞くと、反学会のやつは正体を隠したのが多いそうだ。
「貧乏人と病人の集まり」と揶揄された創価学会と日本共産党は、ともに社会の最下層に支持者を広げ、その構成員を奪い合う犬猿の仲。
それと、顕正会員、日蓮正宗法檀家、日蓮宗檀家は、創価学会を目の敵にしている。これは日蓮系で同族嫌悪。
また、創価学会の折伏大行進に恐れた敵対勢力、または信者を奪い合った他の宗派で、
一昔前なら、幸福の科学信者、立正佼成会信者、真如苑信者、天理教信者など新興宗教で敵対した団体。
そして、念仏宗檀家、浄土宗檀家など各宗派。創価学会の広がり方が半端なくて、存在そのものを脅かされたから、そうとう憎んだみたいだね。
あと推し活含めて性を売り物にする商売は全部滅んでいいぞって思ってるけど
推される商売してるのに下記みたいなこと言っちゃう人は好きくないです
あ、これ○○って人じゃん?(あ〜あ…)
とっくに洗脳されちゃって
アイコンばっか見すぎちゃって
かわいそうね
いつかオトナになれるといいね。
好きだよ 好きだよ 他の誰よりも
あ、この女 虚言だね!(あ〜あ…)
とっくに洗脳されちゃって
救いようがないね
いつかオトナになれるといいね。
これぐらいのことで騒ぎすぎなのよ
本当だとしても降りるわけない ない…! ない…!
全力で拡散だ 敵の視界へ
沢山の仲間達が手を繋ぎ合わせ
超絶!ギター!
って先程認めました
でもまだ信じてるからね?(あ〜あ…)
この期に及んでまだ言うか?
かわいそうね
いつかオトナになれるといいね。
「死んだらみんな骨だけだ」
このルフィのセリフを噛み締めて理解しようとすればあの世で救われるとかみたいな価値観などどうでもよくなるはずだ。
生きてる今に何を成すかが大事よ
池田大作戦関連のニュースでいくつか見かけたコメントとその感想について
>政教分離を生み出したのはローマ帝国時代のキリスト教なので、政教分離を語る時、実に我々はキリスト教を信じていることになる。ニーチェが言うように人権、博愛、ダイバーシティと人権の全てがキリスト教なのよ
意味不明。日本人がそれを語るときは、判例に基づく理解か、「政教分離」という用語に対する自分なりの適当なイメージ・理解で語るはずで、そこに一々キリスト教への信仰が関わってくるとは想像し難い
根拠不明(「宗教を大げさに排斥したがる」というのと「マルクス主義の影響」)。
>きっちり引用元を提示してて素晴らしい増田。サヨクの俺解釈では普通に考えて信教の自由とバッティングすることすら理解が及ばない馬鹿サヨクが多すぎる。あれこそ反知性主義
根拠不明(「馬鹿サヨクが多すぎる」「反知性主義」と断ずるためのコメント並びに根拠が見当たらない)。何らかの妄想に基づいてコメントしていたり、「反知性主義」の用語について理解していない可能性がある
>例えばドイツだとメルケル元首相の政党が「キリスト教民主同盟」だし、宗教が政治に関わるのは民主主義という観点から何ら問題ないのよね。
「民主主義」という言葉にもその社会ごとの理解(社会通念)があるので、一概に問題なしとは言えない。日本の問題に対してドイツの例を挙げることが必ずしも適切であるとも言えない
>憲法学の教科書を一冊も読んだことのない人が最高裁判例だけ読んで政教分離(特に何を禁止していないか)を理解するのは相当難しそうだが…(ブコメの感想)
「特に何を禁止していないか」というのが意味不明。こういう質問をするあたり、少なくともこの人と同調者にとっては言っても理解できないんだと思う。
>民主主義である限り大勢が信じている宗教に偏る危険性は避けられないわけで、それがおかしいなら民主主義を止めるの?参政権を剥奪するの?って話よね。公権力の行使のみを制限するのは妥当だと思う。
>連立する政党の支持母体のお偉いさんに弔意を表するのが国として特権を与えたことにならないのは明らかなことのように思うよ
多分最高裁が違憲とは言わないだろう、そもそも訴訟の対象になりえないだろうから、この意味では明らかだろう。ただし、批判の対象にはなりえる
>ルール上していいかどうかと、本当にするべきかどうかは別の話なんだけど、区別がついていない人の多いことよ。ルール上はOKだよ、っていうとその行為を称賛してるととらえる人も。
ルールがその行為を認めるかどうか、とその行為の合理性や当否は別の話
>間違った政教分離の解釈見るたびに『ドイツで大々的にキリスト教名乗る政党が普通に議席取りまくって活動してるやん』というツッコミしたくなるところはある
ドイツの例を持ち出してくると、日本国憲法がどうにかなるのだろうか?意味不明なツッコミだ
>民主主義国家である以上何らかの組織を構成する個人は選挙権という政治的な力を持っているので、政治的な力を持たない組織や集団というのがまず存在し得ないんだよな。
憲法の規定それ自体の曖昧さにそもそも問題があるのかもしれない
>どの宗教のトップだったら首相として公式に哀悼の意を表するのだろう。その基準があるならば知りたいところ。あまり他に見たことはないけれど。
国家元首でもなく、世界宗教のトップでもない人に対して、内閣総理大臣として弔意を示す合理性ってなんだろうね
>ないわー。欧州の一部や米国のような国教になっているような国ならともかく、現状の日本でカルト新興宗教に対して総理大臣が声明を出すのはありえない
アメリカ合衆国は憲法修正1条で国教を樹立してはならないと定めているので、この人が「国教」に対する理解を誤っている可能性がある
言うほどギリギリか?かすりもしないのでは?
>素人目にはこれに突っかかるのはどうかなと思う。人が死んだら公の場では(公人なら尚更)悲しみを表明すべきだし、言葉も『尽力・重要な役割・足跡』と、事実を述べるにとどまるものを選んでいるように読める。
ところで、大先生に対して日本政府が叙勲しないのはなぜなんでしょうね。内閣総理大臣が態々弔意を表す程なのだから、きっと国民栄誉賞、文化勲章や旭日大綬章程度の勲章はとっくの昔にもらっているかと思ったが
>いやはや。創価学会は公称800万世帯を擁する日本最大の宗教団体で社会的影響力も極めて大きい。そのトップの逝去に哀悼の意を表するのは社会的儀礼の範囲だろう。政教分離原則の目的効果基準にも反しないのは明らか。
その理屈だと、他の宗派(例えば真宗)のトップに対して一々哀悼の意を示さないのは不公平ということになる。ことさら大先生に対してのみ弔意を示す合理性は見いだせない。俺が知らないだけで、歴代の内閣総理大臣は哀悼の意を示しているのかもしれないが。そして、この考え方だと、歴代の会長が亡くなった際には、一々内閣総理大臣が弔意を示さなければならなくなってしまうのでは
>生きてたのか。空海と同じく、このまま120歳とかこえても、生きてる設定で神に近くなっていくと思っていた。/今日(11/18)は創価学会創立記念日らしい。あえて、発表を18日にしたんかな。
>トップブコメたちがトップブコメがどうこう言ってるけどどれがどれを指してるのか分からんくてカオス
>公明党は創価学会の指示の元動いてるのに、公明党が政府にいるの「宗教団体が、政治上の権力を行使すること」に当たらないのがよくわからない。票欲しさの屁理屈だよな。トプコメ批判してるブクマカは学会員だろ。
>憲法第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。/コレが日本国憲法における政教分離。
>「憲法の名宛人は国家である」。例えば国民の三大義務が憲法に書かれているが、あれは国民に憲法上の義務があることを意味しない。国民は憲法違反できないし、宗教団体も憲法違反できない。
それは私人間効力を認めるか否か(憲法の条文それ自体には「憲法の名宛人は国家である」とは書かれてない)で変わってくるので、一概にそうであるともないとも言えないのでは。まあ、直接に適用することはないけどね
好きにしろよ
>浅はかな rub73 のための説明: "「政治上の権力」とは立法権・課税権などの統治的権力のこと。政治活動そのものではない。" (芦部信喜「憲法」) ※憲法学の教科書読め https://anond.hatelabo.jp/20231118203326
「憲法学の教科書」という言い方だと玉石混交の中から石を探り当ててしまう可能性があるから、最新の憲法判例百選+最近の判例を読んだ方が適切な気もする
>トップブコメを浅はかな知識で指摘してる奴にスターつけてる奴はやばい。憲法20条の1項後段では、「宗教団体が、国から特別優遇措置を受けること」と「宗教団体が、政治上の権力を行使すること」を禁止している。
これだけだとわからないよ
>政教分離を理解してない人、はてなでもこんなに多いんだね。欧州で連立政権の一角によく「キリスト教○○党」みたいなのが入ってるのさえ知らないのかねえ。
日本国憲法とその運用の例に対して、欧州を持ち出してくると、どうにかなるのだろうか?頭がパーンとなるとか?
>トップコメも勘違いしてるけど政教分離は国家が特定の宗教を優遇や弾圧するなってことであって宗教者の政治参加は否定してないからね(棒読)/建前論だけど戦中宗教団体を政府が好き放題弾圧した反省って奴がある訳
だから誰に対して言ってるんだ
>トップブコメとスター押してるやつは、政教分離を勘違いしてる。恥ずかしいぞ。宗教が政治に関与するのを排除するのではなく、政治が宗教に影響与えないという原則。統一教会解散命令の方が原則に抵触してる
だから誰に対して言ってるんだ
都会出てきたやつを取り込んできたどっかの新興宗教みたいな話だ
常識的には、紀元前600年頃にあったパレスチナのユダヤ国家から説明を始めるのが一般的だ。
そこら辺からは「歴史」に残ってるから事実だということだが、これは本当に正しいのか?
現代ユダヤ人のほとんどは、遺伝的に同族と見られる要素は何一つ持っていない。
では何なのか。
一言でいえば、欧州のマジョリティが元々ユダヤ教の一派であるキリスト教の信者になったように、ただ正統派のユダヤ教徒に改宗したヨーロッパ人を、今「ユダヤ人」と呼んでいるに過ぎない。
日本人はキリスト教についてはよく知っているつもりでいるが、実際その歴史を断片的に暗記しているに過ぎない。
・ナザレのイエスによって紀元30年ごろにローマ帝国のユダヤ地方で起こった新宗教である。
・紆余曲折を経てローマ国内に浸透し、国教化されて、晴れて現代にも繋がる欧州の統一宗教になった。
特に最後のあたりの流れは非常に曖昧で、なんでそうなった? という感じだ。
我々はユダヤ教コミュニティがヨーロッパに点在するようになった経緯について何を知っているだろうか?
実は私たちは(ユダヤ人のイメージを損なわないために)歴史的に確定している事実すらあまり知らされていない。
その事実をひとつひとつ紐解きながら、間違ったイメージを訂正していこう。
ユダヤ教のディアスポラの歴史は、実はローマ帝国によるユダヤ国家の解体よりも前から始まる。
もともと「ユダヤ人」というものは、ローマ帝国だけでなく地中海地域に進出して、近世のヨーロッパでそうであったように、コミュニティをつくり異教徒相手の商売をしていたのだ。
ユダヤ人の戒律は、異教徒相手に商売をするのにとても都合の良いものであることは有名だ。
当然、これにあやかろうと改宗ユダヤ人になる元異教徒も出てくる。
こうして作られたビジネスのためのコミュニティが、現代に繋がるヨーロッパの「ユダヤ人コミュニティ」の本当の始まりである。
本来はユダヤ教と同じく、ユダヤ人のための新興宗教だったのがキリスト教だ。
キリスト教の本来の教義には、人種を越えた人類の平等などというものは書かれていない。
政治情勢の混乱した当時のユダヤ地方のために、文字通りの「隣人」愛を説いただけのものがキリスト教だ。
欧州にはまず「ユダヤ人のコミュニティ」があり、それに対するカウンターとして、ユダヤの新興宗教であるキリスト教も広まったのだ。
皇帝ネロによる「キリスト教の弾圧」は、イエスの活動と死の、たった20年ほど後のことだ。
それだけの間に大きなコミュニティができるほど、既にユダヤ人社会の基盤は欧州にあったということだ。
これは最近では割と知られてきたことだが、イスラム教には「ユダヤ教」という異教のくくりがない。
イスラム教の信じる神はユダヤの神であり、教義においてはユダヤ人のモーゼやイエス・キリストも預言者と認められている。
イスラム教はあくまで中東地域におけるユダヤ教の新解釈、新興宗教という立ち位置に過ぎない。
これが意味することは、彼らこそ中東におけるユダヤ国家の正統な子孫だということだ。
「ユダヤから追い出され、ヨーロッパ各地に離散したユダヤ人」というストーリー自体が、根も葉もない嘘なのだ。
その「欧州で生まれた自称ユダヤ人」が今、中東を侵略し、本当のユダヤの子孫を虐殺している。
欧州はパレスチナ人にanti-semitismなどというとんでもないレッテルを貼ろうとしている。
semiteとは「セム語を話す人」、アラビア語やヘブライ語を話す人という意味だ。
アラブ人の命を弄ぶ鬼畜白人が、殺されるアラブ人を「反セム」として悪魔化する恐ろしい現実。
1984のニュースピークの世界は、欧州に既に完成していたのだ。
十両で優勝した静内は、次の場所で龍貴と対戦。心のよりどころを失っていた龍貴は惨敗し、迷走のまま、カド番を迎える。静内は三役を射止める。背後でジャーナリスト安井と犬嶋が結託。犬嶋は龍谷部屋の八百長スキャンダルをネタに、龍谷部屋の取りつぶしと理事長の引責辞任を狙う。大物政治家が介入し、八百長を消し去ろうとする。しかし来る理事長選の買収合戦ともからみ、熊田理事長の続投と引き換えに名門・龍谷部屋の取りつぶしが決定される。失意の龍谷親方は自害を図り、龍貴は公私ともにどん底を迎える。龍貴は人生で初めて一人となり、なぜ相撲を取るのか自問自答する。
時津はライフワークである猿谷の伝記を完成させ、定年を迎える。相撲への関心の低下を背景に、人員は補充されず、他社記事の流用という案が編集部で有力となる。国崎は政治部への配置転換の打診うける。国崎は子供の頃に社会問題に目覚めた理由を思い出す。そしてこの提案を断り、一人で相撲報道を担うことを宣言する。国崎は武道館で目撃した伊東に見覚えがあった。実家の離散をもたらした新興宗教が伊東のものだったからだ。かつて政治部時代につかんでいたヤミ金ネタが相撲界と掴むことを確信する。彼女は入念な相撲報道をベースに、相撲担当でありながら、それに日本の政治権力の腐敗と長年にわたる新興宗教の影響力行使を絡めた本格的政治報道を書くことを決心する。
・猿桜の伸び悩み、父の死、そして「破」
猿桜は基本に忠実に稽古に励むが、幕下で壁にぶつかる。部屋は停滞し、資金繰りは困難を極め、維持のために関取となることが求められる。師匠・兄弟子らとともに、彼らが越えられなかった壁を越えようともがく。基本を身に着ける「守」から、自らの型を見出す「破」へ。この過程で左ひざ、つまり猿谷と同じ箇所を痛める。父は奇跡的に一時回復するものの、間もなく死去。母の咽び泣く姿を目に焼き付ける。周りに治療への専念を勧められるなか、猿桜は覚悟を決め、自らの型を掴むべく、猿空らとの壮絶な稽古に挑む。
・後日談
猿桜は幕内昇進を勝ち取る。力士としての残された時間は少ない。休場中の横綱の復帰が決まる中、猿桜は龍貴、静内との幕内での決戦の場所が迫る。
元増田に書いた通り、「ユダヤ人の離散」は紀元前から見られたものであり、キリスト教はユダヤ教の新興宗教として(心を改めた)ユダヤ人により欧州に広まったのであり、ユダヤの教えもユダヤの神も中東地方に普通に残っていたというのが誰にも否定できない事実ですから、それはすべて嘘です。
常識的には、紀元前600年頃にあったパレスチナのユダヤ国家から説明を始めるのが一般的だ。
そこら辺からは「歴史」に残ってるから事実だということだが、これは本当に正しいのか?
現代ユダヤ人のほとんどは、遺伝的に同族と見られる要素は何一つ持っていない。
では何なのか。
一言でいえば、欧州のマジョリティが元々ユダヤ教の一派であるキリスト教の信者になったように、ただ正統派のユダヤ教徒に改宗したヨーロッパ人を、今「ユダヤ人」と呼んでいるに過ぎない。
日本人はキリスト教についてはよく知っているつもりでいるが、実際その歴史を断片的に暗記しているに過ぎない。
・ナザレのイエスによって紀元30年ごろにローマ帝国のユダヤ地方で起こった新宗教である。
・紆余曲折を経てローマ国内に浸透し、国教化されて、晴れて現代にも繋がる欧州の統一宗教になった。
特に最後のあたりの流れは非常に曖昧で、なんでそうなった? という感じだ。
我々はユダヤ教コミュニティがヨーロッパに点在するようになった経緯について何を知っているだろうか?
実は私たちは(ユダヤ人のイメージを損なわないために)歴史的に確定している事実すらあまり知らされていない。
その事実をひとつひとつ紐解きながら、間違ったイメージを訂正していこう。
ユダヤ教のディアスポラの歴史は、実はローマ帝国によるユダヤ国家の解体よりも前から始まる。
もともと「ユダヤ人」というものは、ローマ帝国だけでなく地中海地域に進出して、近世のヨーロッパでそうであったように、コミュニティをつくり異教徒相手の商売をしていたのだ。
ユダヤ人の戒律は、異教徒相手に商売をするのにとても都合の良いものであることは有名だ。
当然、これにあやかろうと改宗ユダヤ人になる元異教徒も出てくる。
こうして作られたビジネスのためのコミュニティが、現代に繋がるヨーロッパの「ユダヤ人コミュニティ」の本当の始まりである。
本来はユダヤ教と同じく、ユダヤ人のための新興宗教だったのがキリスト教だ。
キリスト教の本来の教義には、人種を越えた人類の平等などというものは書かれていない。
政治情勢の混乱した当時のユダヤ地方のために、文字通りの「隣人」愛を説いただけのものがキリスト教だ。
欧州にはまず「ユダヤ人のコミュニティ」があり、それに対するカウンターとして、ユダヤの新興宗教であるキリスト教も広まったのだ。
皇帝ネロによる「キリスト教の弾圧」は、イエスの活動と死の、たった20年ほど後のことだ。
それだけの間に大きなコミュニティができるほど、既にユダヤ人社会の基盤は欧州にあったということだ。
これは最近では割と知られてきたことだが、イスラム教には「ユダヤ教」という異教のくくりがない。
イスラム教の信じる神はユダヤの神であり、教義においてはユダヤ人のモーゼやイエス・キリストも預言者と認められている。
イスラム教はあくまで中東地域におけるユダヤ教の新解釈、新興宗教という立ち位置に過ぎない。
これが意味することは、彼らこそ中東におけるユダヤ国家の正統な子孫だということだ。
「ユダヤから追い出され、ヨーロッパ各地に離散したユダヤ人」というストーリー自体が、根も葉もない嘘なのだ。
その「欧州で生まれた自称ユダヤ人」が今、中東を侵略し、本当のユダヤの子孫を虐殺している。
欧州はパレスチナ人にanti-semitismなどというとんでもないレッテルを貼ろうとしている。
semiteとは「セム語を話す人」、アラビア語やヘブライ語を話す人という意味だ。
アラブ人の命を弄ぶ鬼畜白人が、殺されるアラブ人を「反セム」として悪魔化する恐ろしい現実。
1984のニュースピークの世界は、欧州に既に完成していたのだ。