はてなキーワード: 別離とは
彼女にフラれた。
先月21歳になった僕は、誕生日を迎える2日前に「別れよう」といった旨の長文メッセージを受け取った。そして今日、"正式な別離"が相互に了承された。以下は、別れを告げられてから今日までの鬱々とした日々に散々思考し散らかした自己分析を綴る、ただのマスターベーション日記である。
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友人の友人から繋がり、遠距離恋愛での付き合いを始めたのは去年の冬頃だった。社会人一年目の彼女は、ある程度の遊びは経てきたという大人の余裕を匂わせつつ、一方では学生感が抜けきらないのか、社会に翻弄されつつも理想を見つめる、等身大の素朴さを感じさせた。友人宅の飲み会で出会った彼女の、その妖艶な魅力と純真さのバランスが僕にとってドンピシャだったようで、出会って数日で告白をした。最初はネタだと思われてサラリと流されていたのだが、その熱意が本物だと伝わるには一ヶ月もかからなかった。
東京の大学に通う私と、大阪の企業に勤める彼女の間に広がる"距離の問題"を解決するには、ラインや電話を多用することとなった。毎日連絡するなど今までの付き合いでは考えられなかった僕だったが、現実に問題として立ちはだかる"距離"を目前にして、情報で距離を圧縮する手段に頼らざるを得なかった。しかし思ったよりそれは苦ではなく、バイトからの帰路の20分に電話をしたり、帰宅したらゴロゴロしながらラインを打ったりなど、段々と生活の中に溶け込んでいく感覚があった。最初は20分だった電話も、敢えて遠回りして1時間にしたり、朝までラインが続いて翌日死にかけながら学校に行ったり、コミュニケーションを取る時間だけが指標たるべきではないのだが、それは僕らに確実に愛を感じさせていた。
また、直接に会う機会も月に一度は必ず設けていた。どちらかがどちらかの場所へ。次の月は逆方向で。と、よくある遠距離恋愛のパターンである。金のない僕らは夜行バスを使ってお互いの家を行き来した。8時間、眠ることが出来なければ非常に辛い環境の中、互いのことを思ってバスに揺られるのであった。その時間さえ、貴重に思えたのだった。
とある夜、彼女が東京に来た日だった。自宅周辺の飲み屋を何件かハシゴし、ある程度知性が無くなりかけた頃合い、彼女は帰宅早々布団に潜り込んで寝始めた。片道8時間の移動に疲れていたのだろう。僕はなんとなくぼーっと起きていて、眠くなるのを待っていた。少し経つと、突然彼女の携帯が鳴り響いた。男性の名前での着信だった。酔いに任せて、というと自己弁護臭くなってしまうのだが、いいやーと思ってそのまま電話をとってしまったことが、全てを狂わす元凶となったのだと、今になって思う。
「もしもし?」
電話の向こうの男性が声を発した。彼以外にも何人か後ろにいるようで、様々な雑音が聞こえる。
それに対して僕は黙って耳を澄ませていた。
「今から○○と家いっていい?」
僕は黙る。向こうも酔っている。却って冷静になる。
「あれ、なんも聞こえねー。もしもし?」
「男といるんじゃねーの?」
「じゃあなんで出たんだよww」
「…」
彼女の家には頻繁に男が出入りしているのだろうか?
僕は彼女の私生活を全てを知っていると思っていた。何故なら、毎日連絡を取り合っているから。しかし今まで男が出入りしているなんてことは一度も聞かなかったし、疑ってすらいなかった。この時から、彼女に対する猜疑心が少しずつ芽生えるのを、それを認めたくない気持ちと拮抗しつつ、感じ始めていた。
その日のことは彼女には告げなかった。彼女は全て開示しているようで、そうではなかったからだ。心の最終的なパーソナルエリアまで僕が触れることは、ついになかった。そして電話に出たという事実は彼女のその領域を侵すことになると、僕はどこかで気づいていたようなのだ。
しかし猜疑心の侵食は止まらなかった。連絡を取るときはどこか監視的な意味合いを込めた言葉をつかったし、何をしているのか、何処にいるのか、誰といるのかが気になって仕方が無くなった。夜に突然連絡が途絶えると不安になった。そんな日の翌日には、連絡をしなかったことを咎めた。友人と遊んでいるなら遊ぶ前に連絡をしてくれ、と。彼女はごめんと言いつつも、最終的には同意をしなかった。それに対しても、謝るなら直せ。納得できないなら言うな。といった言葉を浴びせ続けた。そんな状況で彼女が怒ることは稀だったが、その時には信頼されていないのが辛いと訴えていた。自由を得るにはまず信頼を勝ち取らなければならないと、私は信じているのだが、その順序の認識が僕らの間では相違していた。しかしこの時点で既に僕が彼女を信頼することは、支配すること以外には不可能だっただろう。
私の未熟は、幾つもあるだろうが特記すべきは、支配することで人間関係をコントロールしようとしたことだ。今までの彼女との付き合いを考えると、支配的な関係を築いてきたように思える。
しかし彼女は違った。彼女にとって、人に支配、被支配は無いのだ。だからこそ無条件に信頼してほしいと訴えていた。そんな彼女の"素朴さ・純真さ"に惹かれたのは、僕自身が支配的でありながらも本当は"非支配"を望んでいるからなのかもしれない。僕の続けてきた俗な人間関係よりも、彼女のような純粋な付き合いを求めていたのかもしれない。
それに気づいた時、涙が止まらなくなってしまった。単純に惜しいという気持ちと、僕のわがままに長く耐えた彼女のことを思ってだ。
しかし僕がそれに気づけたのも、彼女が耐えかねた瞬間の感情の発露によってだった。すでに、手遅れであった。
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男は元カノの成分で出来ている、といった記事が少し前に話題になっていたが、僕にとって彼女は紛れもなく僕の一部になった。滅茶苦茶に傷つけておいて、学びになったというのもおこがましい限りであるが、僕は彼女にフラれて、一つ大人に近づいた。
音楽も、ストーリーもよかったと感じた。なのに引き起こされたのは罪悪感だった。
ララランドは、女優志望のミアが、ジャズピアノマンのセブと恋に落ち、別離するストーリー。
最後、ミアは女優として成功、セブも自分のお店を持っており、彼らは夢を叶えて終わる。
ミアはセブではない夫と結婚して子供もいる。セブは独身なのかどうかは不明だった。
*
大学2年から4年まで2年間付き合った元カノがセブと重なった。
自分から好きになって告白して付き合うことになり、こちらから別れを告げる形になった。
別れた理由は保身だ。
自分とは家庭環境も通ってきた経歴も価値観もなにもかもが違った。でも好きだった。
相手の方が「なんで自分のことを好きなのか」と疑問に思うくらいに。
終わりを恐れながら付き合っていた。
こんなこと、いつかは終わると思いながら付き合っていた。
ふつうの幸せがほしい。同じような家庭環境で経歴で価値観が合うひとと
ふつうに祝福される付き合いがしたい。
このままこの人と付き合い続けたとして、ふつうの幸せは手に入らない。
だから、別れたいと言って別れた。もうやめたい。詳しい理由は言えなかった。
終わりを恐れながら終わりを待っていたなんて矛盾しているし最低である。
*
私は結果的にヘテロの女で、相手はノンセクシャル(と思われる)の女性だった。
多感な時期のセクシャリティの揺れを引きずって彼女と付き合い、
最終的に保身のために切り捨てた。
今は落ち着いて、同じような家庭環境で経歴で価値観が合う彼氏がいる。
付き合って2年経ち、同棲の話が出た。欲しかった、祝福される付き合いだ。
家族と友達と世間一般から、なんの障害もなく祝福される恋と結婚のことなのだ。
*
ミアとセブはお互い夢を叶えている。
でも、私の人生は映画ではないので、彼女と偶然出会って目配せと微笑みで夢が叶ったことを
確かめ合うことはできない。
元カノに対するこの罪悪感は消えることがないだろう。
新入社員24歳、男。超長文です。話長いと思う方は、適当に読み飛ばしてもらって結構。
入社研修のどえらく辛い状況と、失恋で自分がどうしようもなくなった状況が重なってしまい、この1週間死ぬかと思った。そして今後の人生についても正直絶望している。
失恋は初めてではないが、落ち込み方が下手すぎて、仕事に集中できない。
読めばわかると思うが、明らかな地雷っぽいのを見抜けなかったあたり、恋愛経験は少ないことはお分かりいただけるだろう。
研修では、1日のほとんどが私語禁止なので、仕事の件で悩むうちに1人で頭を抱えてしまう。さらに失恋に関する地雷が誘爆しだすと、元気な自分はもう帰ってこない。よくアドバイスされる、思考停止できる多忙とは正反対の状況。
一応恋愛に関していえば、いま自分は「諦めることを受け入れようとしている段階」にあって、前進はしているのだろうけど。。。
3年目に切り出された突然の別れ話で生きるのが辛い
http://anond.hatelabo.jp/20170310185744
日記を書こうと思ったのは、これをいま改めて読んだから。ひと月前にこれを読んだ時は、まさか私が同じ気持ちを味わうことになるとは思っていなかった。あの時はまだ自分が上手くいく可能性をバカ正直に信じていた……。
相手の子とやりとりするようになってから関係を切るまで、期間にして半年。
私は恋愛感情として好きだったが、相手にとってはあくまで「一番仲の良い、一番話が出来る男友達」。
互いに意地でもその気持ちを捨てなかった結果、会うたびに辛くなる状況になったので、私の方から「友達としても縁がなかったね。」とカットアウトするに至った。この選択は間違っていないと思う。
誘ったデート。2か月前から楽しみにしていた、行くはずだったライブ。
イベントが好きで、一緒に行く人も大好きな人で、最高に幸せだっただろうに。これが完全になくなってしまった。
そして今後一切、その手の楽しみが(その子と)味わえないことを思うと、どうしようもない気持ちになる。
「あの子に会いたい、話したい、一緒に笑いたい」と心が叫んでも、それは二度と、絶対に叶わない。
それを実感するたびに、身体まで悲鳴をあげる。ここから立ち直るのにどうしたらいいんだろうか。
ちょっと自分語りさせてくれ。もう二度と思い返したくないから、吐き出してしまいたい。
初対面は、とある合コンの時。そこですごく自分に懐いてくる年下の子が居た。
おとなしそうな子。だけどルックスは可愛いし、普段無口そうに見えて、自分と話すときだけ本当の自分?みたくよく話す。そのギャップにグッときた。
またその笑い方がちょっと不器用で、人と接するの慣れてなさそうなのがなおさら愛おしい。
そんな子に、飲み会後わざわざ自分を名指しで「い、一緒にプリクラ撮りましょうよ!」なんて言われたら、女慣れしてない奴は一発KOじゃないですか。自分もそうでした。
とはいえLINE交換しそこねてしまい、しばらくは何もなかった。
その子にまた会いたかったので、その子の友達と仲良くなって、自分が主催した。
その時はしっかりLINEを交換し、やりとりが始まった。
会話をするようになって少し経って、2人で食事に行かないかと誘った。そしたら「そちらのあのAくん(後輩)も呼んでください!」と。
脈絡のないご指名に「この子、Aと合コンで仲良かったし気があるのか?」と嫌な予感がよぎる。
でも、私にとって可愛い後輩だけど絶対モテなさそうなAよりも、自分の方が圧倒的に魅力があると思い込んでたので、その可能性をすぐに棄却。
それで、3人でメシを食ってきた。
その中で向こうの失恋話になったので、次はそれを聞こうと2人で会った。
自分も失恋経験があったので、互いの失恋話で、元恋人の悪口で、めちゃくちゃ盛り上がった。
これを機に、その子とLINEのやりとりを続けつつたまに(2人で)会う仲が1,2か月続いた。あらゆる手を尽くして、彼女と仲良くなるように努力した。話題のストックは常時10個以上あった。会う時は30個くらい用意した。
話好き同士、ちょこちょこLINE、月2,3回会うのに加えて月2,3回通話。これも毎回1,2時間くらい。
それに対し向こうは
という返事。
微妙……だけど、私のことそう慕ってくれてるんだったら、時間さえ待てばまだ可能性が有るんじゃないか。この時はそう思った。これが最初の勘違いだった。
この後も、「また遊んでください」の言葉を信じて遊びに誘い、2人で映画行ったりカラオケ行ったりしたけど、そのたびに私は別れ際「やっぱり可能性ないかな?」と切り出して「いやー、恋人はムリですね」と断られる。
それでもいつかはこっちを向いてくれるだろうと無根拠に信じていた。
そんな中、3月のある日、観たい映画DVDを2人で見ようという事で、カラオケに行くことになった。
ちょうど、先述の「3年目の~~」を目にして他人事に思っていた頃だ。
「せっかく集まったのに……」と2人で途方にくれたところで
私は往生際悪く、距離を縮めようと
「じゃあ、うちで見る?安上がりだし、自由だし」
と家に誘ってしまう。
家に来ることに。
そうして、一つ屋根の下で2人きり。
やっぱりこの子は、私にここまで心を許してくれてるんじゃないか。また期待を抱いてしまう。
彼女はまるで自分の家のようにくつろいでいた。映画が2,3本目になると、ストッキングを脱ぎ、クッションに枕しうたた寝しだすご様子。なんと無防備。
私も年頃の男子である故、目の前に妙齢の女子が無防備に横になっていて、しかも密室で誰も咎めない状況というと、頭に浮かぶことは一つ。
それでも、過去、同じ状況で手を出した結果絶交に至ったこともあり、今回は誓って手を出さないことにした。
結果、何事もなく解散。
「わたし、次は案内無しで行くんで大丈夫ですよ!」なんて嬉しいことも言ってくれるし。これが勘違いを加速させるわけだ。
こういうのは会った後がしんどい。
そしてまた先日、この前の日曜日。家で、今度はアニメを観た。家に来るのは2回目だ。近所までは来れたが、迷ってしまったみたいで、迎えに行った。
「次来るときは絶対にもう大丈夫ですから!」なんて、また嬉しいことを。こっちの気も知らずに。
「あ、前より部屋が綺麗になってる!」「トイレも華やかになってましたね!」と、ささいな変化に気づいてくれる。嬉しい。常連にまでなったか?って思う。
だが、こういう関係性の接近を、もう単純には喜べなくなっていた。
私は「彼女と恋人になりたい」という意志があったこと、それがまだ残っていることは明白である。
向こうも「あなたと恋人になる意志はない」という意志は明白。でもそれでいて、向こうはさらに距離を縮めようとしてくるのだ。もう、わけが分からない。
私の気持ちを完全に無視している、踏みにじっている、都合の良い男扱い?
向こうは(恋愛として)相手に接近を許さないくせに、自分の方は親友の関係性に甘える。このアンバランスな関係。
会った後がしんどいわけだ。自分の方だけ全然満たされていないから。
その日、私は「もうこうやって家に来るのは止めよう」と切り出した。
理由は「友達としては距離が近すぎる」。その子は納得してくれた。
そしてもう最後だろうということで、彼女は名残惜しそうに部屋の隅々まで眺めて、目に収めようとする。
もう、やめてくれ。これ以上、私の部屋に思い出を残さないでいってくれ。
その日の夜、シャワーを浴びながら。
その子との関係性を離さなければならないことと、会社のしんどい研修が1週間始まることを思うと、人生にはもう何の楽しみも無いんじゃないかと、深い絶望を覚えた。自殺の2文字が頭をよぎった。
そして先日その子と、一応最後の会う予定になっていたライブの話をした。
2か月前からチケットをとって、それに向けてアーティストの曲を聴き込むなど予習もしていたので、それだけはキャンセルできなかったライブだ。
そこから、後輩Aくんが、私のツイートを見て心配しているという話に。
「(後輩Aも入れて)3人で遊ぶことはもう無いんだね」と言うから、話を聞いていくと
そのままの流れで、その子から後輩Aに好意があることを告げられた。
どうやら、最初に僕から食事に誘われて、脈絡なく彼を呼んだ時。
その前の合コンで喋っていた時からなんとなく好意はあったらしい。
そこから僕がどれだけ恋愛的に距離を縮めようとしても、友人枠しか空いていなかったのだ。
それに気づかなかった私がバカだった。
そしてこうなってしまった以上、ぼくもその子とも、後輩Aとも会わせる顔がない。
会うのも話をするのもしんどいので、ここで縁を切ることにした。
まぁ、こうやって思い出してしんどくなってるんだけども。
私も向こうも、自分のことがかわいくてたまらず、自分の感情に関して融通が利かない人間なのだ。似た者同士。
互いが互いに「相手は自分の思い通り(都合の良い方)に動く」と思ってダラダラ曖昧な関係をつづけた結果、気持ちの差違が決定的になって、別離を迎えた。
私は(おそらく向こうも)自分や他人に甘いところがあり、「ひょっとしたらしばらくして自分の思い通りの関係になるかも」という期待を抱いてきたんだろう。これまで。認知の歪み、というやつ?
しかしもうその可能性はあり得ない。今はその現実に向き合っているのだ。
思ってみれば、正直一目ぼれだったんだな、と思う。
なのに告白のタイミングが遅すぎて、友人としてしか見てもらえなかった。
次は、後戻りできないくらい気持ちが重くなる前に交際を申し込むようにしたいと思う。
それと、手広くいきたい。
……って頭では分かってるんだけど、そう簡単に気持ちの整理がつくわけねーよおおおおおおおおおおお!!!!
結局これなんすよ。これを早く消し去りたい。消化してしまいたい。
この1週間で10人くらいに事情話したけど、それでもまだ足りないくらい。
正直、家に来た時に手を出して既成事実を作ってしまえば、勝手に向こうが気持ちを適応してくれたのか??処女だし家だし2人きりだし。あーもうわかんね!!!
そういう過去のifとか、ライブとかドライブとか行こうとか言ってた未来のifとか全部諦めて捨て去らないといけないんすよ。
その子と遊ぶこと、その子の力になることに最大最高の価値を置いていた自分をぶち壊して、価値観を再構築しなければならない。
でもこの部屋に居ると、あの子を部屋に呼んだ時のことを思い出してしまい、全く落ち着かない。毒沼。休まらない。引っ越ししてえー。まだここに来てひと月も経ってないのに。
思い出すヒマがないくらい、考えるヒマがないくらい何かに没頭したい……。しかし修行のように無言で自分と向き合う研修で、それも叶わない。
八方ふさがりよ……。
というわけで、気持ちの切り替えをしようと色々頑張る気力さえ持てない状況なんですが、それでも気持ちの整理が出来る方法を教えてください。
ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。
※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ
http://anond.hatelabo.jp/20170209222825
http://anond.hatelabo.jp/20170212024356
一夜明けて昨日の話。
推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。
とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩の原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。
ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台未観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから、観劇予定のある方は読まないでくださいね。
まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。
こーゆー考察し甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間と自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。
『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在』であると共感し難い。
そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公に感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦に感情移入できない。
(ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)
これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……
それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、
そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。
でも、それっておかしくね?って思って。
ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。
自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、
いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、
どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。
腐目線でだって、絶対許せない地雷カップリングというものは実在する。
だから「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。
でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?
これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。
この感情は原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈の押し付けなのか?
という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードからも勝手に妄想して、
江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。
諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。
観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。
田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩のブロマンスの結晶として大正解。
対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。
女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。
『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。
(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)
メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害が物語のカタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。
(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠の片想いとして殺す……って、個人的にめっちゃ萌える。)
作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷な箕浦(永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛の疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。
舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。
私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。
でも、配役を知ったときに
美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、
佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年の石田隼さんが20代の箕浦「過去の『私』」を
演じることが疑問だった。
いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。
「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはいえ観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在は物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在と公表されてることは少なそうだけども。)
しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。
舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現の担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、
諸戸と出会い親交を深めた学生時代の箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、
諸戸と別離し大人になり恋人の初代との出会いから箕浦(石田さん)は登場する。
石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡で認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。
「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦」であるため、『私』の歪さから「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、
事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体が変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。
(皆さんは自分の体が深層心理の拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれと意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)
しかし性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?
必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか?
そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。
物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!
より妥当なところの分裂理由として「箕浦の二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線を舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い。
作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。
うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈もハッピーだよね。
(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)
(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性がテーマの舞台、大好物なんです。)
延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出等表現もとても良かった。
諸戸の父親の最期に対して、主人公である『箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想がセリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。
父親の変貌は、絶対に他人の箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。
父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親で経験したからわかる。
舞台というものは面白いもので、同じ現実を同じ密室で複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものだから、
書籍や映像で物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分の視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。
たとえ自分が複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。
演出による印象操作は完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)
だから舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい。
そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観でしかなく、原作者・スタッフ・キャストが込めた意図の真相はわかんないんですけどね。
身内に死にそうな人間と急死に一生を得て要介護になった人間が出た。
心から、偽りなく、
前者は、未だにそんな状態なのが信じられないし、まだ一緒に居たかったし
後者は、生きててよかったと思う。
そして双方共に苦しんで欲しくないしその為に尽力する決意だけど
そんな風に死を身近に感じてなお、
いや、更に
早く死にたくてたまらない。
自殺したいわけじゃない
明日にでも死んでいたい。
辛うじて生きる為に月に何十万もかかる存在になりたくないし
そしてそんな風に手のかかる存在になりたくないし
つかそもそも自分がそのくらい長らえても、今程の保障うけられるかも、費用払えるほど蓄えがあるかもわからないし、
というか絶対ないし
この先一瞬なら生きててよかったと思うこともあるだろうけど
別に無くても構わないとおもうし。
それだけでなくても、各種セーフティネットの充実させるべきだと思う
自己中心的な話
あとさ、聞きたいんだけど、仮にどの程度の風呂敷ならお前的にちょうどいい広げ具合だったと思う?
第三次世界大戦の開戦を防いだ、っていうのが大きすぎた?WATCHMENなんかもそうだけど、第三次世界大戦のキッカケを作ったのもアメコミの登場人物、防いだのもアメコミの登場人物、キャラクター達は冷戦下で暗躍していた、って作品はかなりの数あるんだけど、その中でお前が「これは作品のスケール感に対してちょうどいい風呂敷の広げ方」って思った作品はある?
あと、見たなら聞きたいんだけど、DoFPでプロフェッサーXとマグニートーは二度目の別離を経験するわけだけど、実際出自からきた思想はどの程度拭える、改善できると思う?例えば日本だって、貧乏な出の人間、金持ちの家の出の人間、どちらもいるわけだけど、究極はその人らの個性や相性に依存するとはいえ、出自の違う人間はどれだけ思想を共にしたり、また共闘しつづけることができると思う?
あともう一度言うけど、お前がこういう点について、風呂敷も広げすぎず、また階級の差について誠実に描いたと思う映画って何?嫌味とかじゃなく、俺はそれを観てみたい。こき下ろしたりしないから、もしあるなら教えてくれよ。
28歳女。飲食店勤務。年の瀬だけど乳首が取れかかっている。佐村河内風に言えば、3年前から少しずつ取れかかっていた。28年間、舐められもせず、吸われもせず、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べてきた私がなぜこんなことになったのだろうか。今流行の妖怪のせいだろうか。一大事~なのは確かである。そんな思いを抱えながら、これまで保湿クリームを塗ってニプレスを貼り、どうにかこうにか凌いできた。ニプレスを剥がすとき、私はいつも『三つ目がとおる』の写楽保介を思い出す。これは私の第三の目なのだ。そう思うことで少しだけ強くなれた。しかしニプレスを剥がして出てくるのは痛々しい乳首。『三つ目がとおる』というより『乳首が取れる』である。そんな私の乳首も今年に入りとうとう限界に近づいてきた。干しぶどうを通り越して今や落ちかけの線香花火、最後の一葉、あるいはクリフハンガーである。薄皮一枚でどうにかぶら下がる様は、このままリポビタンDのCMに使えそうな画である。ファイト一発!私はそうやっていつも乳首を励ましていた。
世間では女性の乳首はさくらんぼに例えられることもあるが、私のそれは実ではなくヘタ(茎・軸)のほう、より専門的に言えば果柄である。口の中で結べるとキスが上手いと言われるアレである。仮に私が大塚愛ばりに「私さくらんぼ!」と乳首を出そうものなら、男性にぎゃあと叫ばれた挙句、大塚愛と法廷で戦うことになるだろう。もし徳永英明が私の乳首を見たら『取れかけのChikubi』というバラードを歌い上げるだろう。スピッツなら『乳首がポロリ』、コブクロなら『取れそうで落ちそうな乳首が今年も春を待っている』、一青窈なら『薄紅色の可愛い君のね、乳首がちゃんと終わりますように』、いくつもの乳首J-POPが頭をかけ巡る。もういっそのことすべてを諦めて、ありのままに任せたらいいのではないかと思うこともある。しかしありのままやっていたら私の乳首は十中八九レリゴーしてしまうだろう。もちろんこれはMay J.の責任問題であり、法廷で戦うことになるのは必至だ。もちろん黒幕は松たか子である。
とにかく私の乳首は無事に年を越せるか分からない。仮に年を越せても再来年は分からない。遠からず乳首が離れるときがくる。子が親から巣立っていくように、いずれ別離のときがくる。だけどそのときは涙は見せず、笑って見送りたいと思う。ぽとりと落ちた乳首はきっと大地で芽吹き、いつか綺麗な花を咲かせるだろう。木になる果実はさくらんぼ。そのとき大塚愛とのさくらんぼ裁判が幕を開ける……。
それで生きやすくなるのなら、そうなりたいのだけど。
相手が子どもなら惜しみなく与えられることがすなわち幸福だけど、大人同士でその関係は成立するのかな。
生まれ持ったサービス精神で惜しみなく与え続けることで相手の期待を高めるだけ高めてわたしへの依存心を強めてしまい、結局わたしが追いつかなくなったことが今回の別離のひとつのきっかけだとわたしは考えています。
うまく言えないけれど、与え続けることは相手の首を真綿で締めているように束縛することのように感じるときがある。与えることでわたしは彼を支配しようとしているのかな、とか。それと、しばらくすると与えることに疲れてしまう。突然与えられなくなると彼も戸惑う。大抵の人間は、こういう状況の変化を冷静に受け止めることなどできない。なぜそうなったのかを知りたがる。要するにわたしの気まぐれで優しくしたり冷たくしたりして彼を振り回しているわけだ。与えることにはこういう責任がのしかかる。わたしには継続ができないのだ。有限なエネルギーが尽き、玉が切れ、そして相手は慣れる。ある日突然打ち止めになることでお互いが受けるダメージは大きい。
わたしの思うそれとはだいぶ違っているように思える。
わたしは「与える」ことに疲れてしまう。
そんな素敵な「与える」があるのなら、ぜひ知りたい。なんか皮肉っぽい書き方になっちゃったけどそうじゃなくて、単純に知りたい。
1.本作の主題?
大々的に宣伝されていたこの作品の主題は「家族の絆」であった。「時をかける少女」「サマーウォーズ」で、揺れ動く思春期の心情を細やかに描き出してきた細田守監督が、特殊な事情の母子家庭の波瀾万丈を通して、母と子の結びつきを表現する王道の家族劇であろう、と私は予想していた。
しかし実際には、冒頭でおおかみおとこと主人公の花が「哲学」の講義をきっかけに出会うことに示されているように、家族それぞれの社会的承認やアイデンティティの確立といった「生き方」への問いかけが大きなウェイトを占めている。いずれ花と結ばれ父になるおおかみおとこは、人間社会にひっそりと適応しながら、大学にもぐりソクラテスの「無知の知」についての講釈に耳を傾けていた。彼自身の特殊性と人間社会との融和点、すなわち「自分は何者なのか」を彼はまだ知らない。もっともそれは花も同様である。彼らが「真に何者であるのか」が判明するのは、その後の人生の中で、主観的にも客観的にもそうだと考えられる地点に辿り着いた時である。
13年という長い月日を描く作品であるため、一時期に割ける時間は限られている。花は前半の少ない上映時間の中で、おとぎ話のようなおおかみおとことの恋と別離から、残された二人の子どもの育児という生々しい現実へと転がり進んでいくこととなる。わざわざアニメーションという媒体で母子家庭の奮闘記を描くのであれば、母子家庭の「リアリティ」をどれだけ表現できるかが生命線となる。そのためにも花は一刻も早くおとぎ話から抜け出す必要があった。
しかし出産も子育ても、半ばおとぎ話の状態からなかなか抜け出せずに進んでいく。その一つの要因として、花がすでに片親の父を亡くしている(母は離婚、別居済み)、という極めて日本のアニメ文化的な手軽で便利な設定の中にいたことにある。したがっておとぎ話のような恋の終わりと厳しい現実の到来を告げるはずの「親との葛藤」のシーンはない。東京に下宿させていた女子大生の娘が、フリーター(?)の狼に食われて子どもを作り大学を辞め、しかも(おおかみこどもであることを知られるわけにはいかないため)全く子どもに会わせようとしないなど、並の親なら勘当ものである。両親が既にいないにしても、親戚や最悪の場合行政施設の関係者などの後見人や身元引き受け人もいない、では未成年の大学生が家を借りるにも何をするにも無理が出てきてしまう。しかし花は劇中ではほとんど言及されることのない両親不在設定を免罪符に、自由におおかみおとこと結ばれ雪を出産し、一年後雨を生んだ後におおかみおとこと死別するまで、誰と葛藤することもなく擬似的な新婚生活を満喫するのである。しかも医者にもかからず独学で自然分娩を行い、子ども達も一度も医者には連れて行っていないなど、事情はわかるが少し無理のある状況が続く。リアリティのある家族を描くためには、例え核家族であったにせよリアリティのある一族が描けなければならない。そしてそのためには、リアリティのある社会が描けなければならない。しかし作品の土台となる花の周りの人々との繋がり(親族関係、社会関係)が抜け落ちた「おとぎ話」のまま、二人はほとんど社会から孤立して描かれている。
親族や後に移住する田舎社会の人々に、意を決しておおかみおとこの血を引くこどもたちの秘密を打ち明けていたなら、物語は一風変わった方向へ進んでいただろう(行政や医療組織に打ち明けていたなら、悲しい話になってしまうかもしれないが)。しかしこれは二者択一の選択である。おおかみこどもの秘密を守り通そうとするなら、一家は孤立するしかない。秘密を打ち明けてある範囲の人々を味方に引き込んでいたなら、出産、子育て環境のリアリティはある程度担保されるが、おおかみこどもを受け入れる周りの人々、というまたまた別種のおとぎ話的な絵が出来上がってしまう。この部分のリアリティを保つのは並大抵のことではない。本作は前者、おおかみの本性を隠し通すことで、雨と雪の存在のリアリティを保つ代わりに、一家を孤立させて社会生活との折り合いのリアリティを失うことを選んでいる。
3.本作の根底を貫く3つの近代的概念:①選択権としての自由観
社会から孤立した者を待ち受ける宿命は、社会からの排除である。雨と雪を隠し続け、医者も児童相談所も拒み続ける花は、居場所を失い田舎への引っ越しを決意する。この辺りから見え隠れし始め、映画のクライマックスで明らかになるのが、取捨選択の権利としての自由を尊ぶ近代的な自由観である。花が田舎へ引っ越した主な理由は、人目を避けるためでもあるが、雨と雪が「人間か、おおかみか、どちらでも選べるように」したいということが大きなウェイトを占めている。そして学校や田舎の人々に対して秘密を守りながら姉弟は大自然の中で育ち、おてんばの雪と引っ込み思案の雨という当初の関係性を逆転させ、最終的に雪は人間として、雨はおおかみとして生きていくことを決意する、と読み取れるあたりでこの作品は幕を閉じる。二人の姉弟が(そして母が)どのような生き方を「選ぶ」のか、というアイデンティティの「選択」が事実上の主題となってくるのである。つまり、二人のおおかみこどもは、人間として生きる事も、おおかみとして生きる事も可能であり、その選択権を自分自身で持っているという考え方が根底に存在している。こうした権利概念や自由観は、歴史の悲劇から人類がようやく辿り着いた価値ある理念ではあるが、問題が無いわけではない。
「おおかみであること」はファンタジーではあるが、現実の例えとして捉えることも可能である。元来日本語の慣用句でも「一匹狼」などのように「狼」は単に動物を指すだけではなく、社会の周縁に生きるしかないアウトサイダーを指す言葉でもある(押井守監督の『人狼』に描かれているように)。そこから暴力的な存在という意味合いを除外して考えれば、「おおかみであること」は何らかの理由から迫害され、多数派と融和できない少数派に「非自発的に」刻まれた「抑圧のスティグマ」である。先の近代的自由観に基づけば、我々はあらゆることを強制されず、自発的に選択する権利としての自由を何よりも大事なものとして持っているが、実は選択していないにもかかわらず押し付けられているものもたくさんある。我々は男性として、あるいは女性として生まれることを選んだ覚えはなく、この国、この家族の元に生まれることも選んではいない。選択の自由を行使する以前に、強制的に親や社会から色々なものをもらって今の私たちは存在している。こうした、我々が意図せずに所属しているアソシエーションから抜け出すことは、それが被抑圧的アソシエーションであればなおさら、多大な困難を伴う。
いわば「人間か、おおかみか」どちらかの生き方を選べ、というのは私に対して「日本人か、男性か」どちらかの生き方を選べと言うのに等しい。日本人であることも、男性であることも、やめること自体は可能であるが、多大な葛藤と苦労を伴うし、何より大半の日本人は日本人であることをやめたがっているわけではなく、大半の男性は男性であることをやめたがっているわけでもない。当然私は「日本人男性」として生きざるを得ないが、それを嫌がっているわけではない。「おおかみであること」は、私にとって「日本人であること」以上に雨と雪の二人のアイデンティティに深く絡み付いている。彼らは望んで「おおかみこども」として生まれたわけではなく、そして何より自己の不可分の半面としての「おおかみであること」を辞めることは不可能だからである。逆もまた然り。雨と雪にとっては、「人間であること」も捨てることはできない。したがって大多数の人間が、国籍や人種などの複数の非自発的アソシエーションに従属して生きざるを得ない以上に、彼らは「おおかみにんげん」としてしか生きられないはずである。人間としてだけ生きていてもおおかみの本能は満たされず、おおかみとしてだけ生きていても人間の知性は満たされない。一方を選択して他方を捨てることでは、幸福な真の自由は訪れない。というのも、私を含め大半の日本人男性が、日本人であることや男性であることを嫌がったりしておらず、むしろそれを誇りに思うことも時にはあるように、雨と雪も本心から「おおかみであること」あるいは「人間であること」を嫌い、やめたいと感じているわけではない。真相は逆である。雨と雪に限らず「抑圧のスティグマ」を持つ人間が求めているのは、それを捨て去ることではなく、周囲が抑圧的な処遇をやめ、そのスティグマが価値あるものとして社会的に承認されることである。黒人や女性は差別されるから黒人であること、女性であることをやめたがっているわけではない。彼、彼女らが求めているのは、差別をやめること、すなわち黒人であることや女性であることを誇らしく思えるような、他の人々と対等の処遇である。自分の非自発的なアイデンティティを差別や迫害を理由として捨て去ることは、雪がおおかみに変身することを必死に避けていたように、それ自身当人にとって新たな大きな抑圧となるだけであり、それを捨て去ることを強制することもまた、抑圧からの真の救済とはなりえない。
「人間であること」のみを選択した雪は、今後もおおかみの衝動に苦しめられ続けるだろう。「おおかみであること」のみを選択した雨は、おおかみとして生きるだけでは無力であり、人間から森を守ることはできないことにいずれ気がつくだろう。したがって雨も雪も、「人間であること」か「おおかみであること」のいずれかを選ぶ権利としての自由を持つ、のではなく、彼らはどこまでも「おおかみにんげん」として生きることを運命づけられている。そのため彼らを幸福な真の自由へと導くのは一面を捨て去る選択ではなく、両面を受け入れる承認、すなわち抑圧されることなくありのままの「おおかみにんげん」として生きていくことを人々、社会から認められることでなければならない。そしてその基点にして起点となるのは、二人の秘密を知る唯一の存在、母である花のはずだった。しかし雨と雪は選択権としての自由を行使し、「人間であること」、「おおかみであること」の一方を選んで他方を捨て去る。この彼らの選択は同時にもう一つの取捨選択となって現れている。それは、特に雨に顕著なように「個人」としての自己の生き方を選択する代償として、それまで所属していた「全体」としての家族を捨て去っていくことである。
取捨選択の権利としての自由観には、この近代的な自由観と表裏一体になって形成され、社会に受け入れられてきたある考え方が寄り添っている。取捨選択の権利としての自由は、何に帰属しているのかを考えればその考え方も見えてくる。「生き方」の選択の権利は、国家にあるのでも何らかの組織にあるのでも、両親にあるのでもない。近代的な自由は常に「個人」の手の内にある。「個人」は選択の権利を持ち、それを他者に妨害されない権利もまた持っている、というわけである。こうした個人観も尊重されるべき人類の英知だが、その発達によって我々人間は別の問題に現在直面している。「個人」の肥大化により、家族や社会等の共同体の絆を、そして古い慣習や信仰などに息づいていたいわゆる「大きな物語」や「宇宙的秩序」を破壊して、人類がただのバラバラの個人の寄せ集めになってしまう「アトミズム」に陥るという問題である。したがって家族という、人々の繋がりを描くべき物語の根底に、こうした個人観を置いてしまうと、家族は崩壊してしまう。雨は山へ飛び出したきりおおかみとして生活し、どういうわけか雪も全寮制の中学に入り、あとに残されたのはひとりぼっちの花だけ、というわけである。雨は個人としての自分を選び、家族を捨ててしまったのである。
家族を最小の社会であると考えたヘーゲルは、市民社会、国家、世界史へと繋がっていく人倫の弁証法のスタート地点を家族においている。そして王道的な家族の物語はおおよそ、仲の良い親子(正)に何らかのきっかけで対立が生まれ(反)、最後は和解して「雨降って地固まる」(合)という弁証法的なプロセスを辿るし、実際の子育てにおいても、子どもは両親べったりの幼少期から、反抗期を経て、何らかの和解を踏まえて真の自立へ旅立っていく。反抗期が自立そのものなのではない。このようなプロセスが多くの家族ドラマで踏襲されているのは、それが流行っているからでも面白いからでもない。人間が最初に個人として生まれるのではなく、家族という全体の一員として生まれることが不可避である以上、家族の絆を知るには、家族と対立して家族そのものを対自化、対象化しなければならないからである。毎日当たり前のように存在する両親と、本当に強い絆で結ばれているのかを知るためには、わざと両親に反発し、お互い真剣に向き合う期間が必要だというわけである。こうした視点から本作を見ると、ただただ雨と雪のためだけに「個人」としての自己を押し殺して子育てに奔走する花と、それをただただ当たり前のこととして享受する幼少期の二人は、弁証法の正の段階、無垢な統一としての家族である。そして二人が小学校の高学年に近づくにつれ、激しい対立、反の段階が現れてくる。雨も雪もお互いの違いを強く認識し、雨は特に自分を家族の一員ではなく個人(個狼?)として考えるようになる。花の言いつけに反しておおかみの力を使ってしまった雪や、徐々に自然の世界の魅力に飲まれ、家を空けがちになる雨、そして激しい姉弟喧嘩など、家族はそこかしこに対立の火花を散らすようになる。
しかしここまでである。その後一家は和解して家族の絆を再確認することはない。雨は嵐の山から母を助けはしたが、家を飛び出して以後母と会話をすることはなかった。雪は草平と嵐の学校の中で自立への憬れを語り合い、その後母が迎えにくる描写も、直接会話をする描写もない。花は山で気を失っている間、おおかみおとこと再会し、彼にそれまでの人生を肯定し承認される言葉をもらっている。しかしそれは夢の中の出来事に過ぎない。花は以後雨の遠吠えを聞き、祈りの中でおおかみおとこと対話することによって家族の絆を信じ込むのである。真理は主観と客観の統一にある。どれだけ心の中で絆を信じていようとも、花の現状は孤独である。そこには反発しつつも助け合うという家族の現実的な絆も、現実的な幸福もない。雨が個人(個狼?)として家族を捨てて旅立ち、残された花は母としてのアイデンティティを失い空虚に祈るしかない。この物語は家族ドラマの王道スタイルである弁証法の構造の反の段階以後を切り捨ててしまったような形になっているのである。だから少なくとも映画の終わりの段階では、家族がバラバラになり、皆、特に花は絆を失って見えるのである。そんな状況になっても、どんな時でも笑顔を絶やさない花の表情は不憫ですらある。この物語の家族が弁証法のプロセスにおける対立から総合の段階へと移行できなかったのは、無論、前説の自由観に付随する個人観が差し挟まれ、家族の再統一、和解を妨害しているからである。個人としての生き方を選択し、家族を捨て去ってしまうことが子どもの「自立」である、という錯覚がここにはある。個人(個狼?)として生きることが家族として生きることと両立不可能なら、雨にも花にも真の幸福は訪れない。家族がバラバラの個人に分解してしまうことも、幸福でもなければ自立でもない。
5.本作の根底を貫く3つの近代的概念:③価値を放棄する平等観
そして何よりも花を不憫に思わせてしまうのは、単に雨がいなくなってしまったからではない。雨が「おおかみとして生きること」を選んだからである。しかし劇中では、雨がおおかみとして生きることに、花は戸惑いはしたものの最終的には肯定したし、作品全体のスタンスとしても、別れの悲しさはあっても、「おおかみとして生きること」自体は肯定的に表現されている。ここには、前二節の近代的な自由観、個人観から導かれる第三の概念が潜んでいる。すなわち、生き方の選択権としての自由が個人には備わっており、それは何者にも妨害されてはならない尊重されるべきものである。したがって、「個人が生き方を選択する」こと自体が重要で価値のあることであり、その選択自体を尊重するために、政府や他者は個人の選択した生き方の「内容」にケチをつけてはならないという平等観である。これも近代以後の社会には欠かせない重要な概念である。職業に貴賤はなく、魚屋として生きる生き方と教師として生きる生き方はどれも同等に尊重されるべきである、というわけである。この概念も、極端に押し進めると、我々人類を文明的に発展させてきた一つの原則、すなわちチャールズ・テイラーがAuthenticity(ほんもの)と呼んだ理念そのものの破棄へと到達する。この理念は、「ある生き方は、別のある生き方より価値がある」として、人間の生き方には価値の序列があることを前提に、真に人間が生きるべき姿、「ほんものの生き方」を模索するというスタンスを形成する。近代的な平等観に慣れ親しんだ人々にとっては、生き方の優劣を価値付けることは、政府による不必要な介入や、職業身分による差別など危険な事柄を助長するようにも思えるだろう。しかし逆に急進的な平等観の元では、あらゆる生き方が平等の価値を持つと見なされる。言い換えれば、「生き方」の選択を重視してその内容を無視するということは、あらゆる「生き方」の内容が平等に論争点にはなりえないどうでもよいもの、すなわち無価値となる。偉大な学者の生き方も、高名な僧侶の生き方も、愚かなギャンブル狂の生き方も、みな平等に無価値なのである。
このことが本作においてはどのように現れてきているのかというと、「人間として生きること」が「おおかみとして生きること」と平等に価値ある選択肢として描かれている点である。そしてそれは裏を返せば、「人間として生きること」は「おおかみとして生きること」と同等に無価値であるということの表明に過ぎない。だから姉弟がどの生き方を選んで「決定」するのかということだけが重要視され、その選択した生き方の「内容」の善し悪しは一切吟味されないのである。人間の人生が理性を持たない単なる動物に過ぎないおおかみの Permalink | 記事への反応(2) | 08:36
虚数時間は我々の予測臨界を超え、絶対明度を保ちながら半翡翠系の償却を反芻している。自己と飼猫の因果が杞憂より出づる撲滅世界の混沌と瞑想神経の齎す瑕疵とを綯交ぜに茫漠とした紗紗と蚕を行き来する。熱烈なる過保護によって朴念仁を生産する孤高なる過程は、明滅する光束の結び目から漏れ出す蒸散による化天を誘い、露光による庶子の影を永遠に棒状の壁画に内在せしめる。既知の文書が未知の閲覧者と邂逅した時、戦前の見開かれた鉱山での惨劇を三度繰り返しながら、双頭の獏が絶命の折に嘶くのと同期して、別離による救済を市井の同胞に振りまく真似事をする。叙勲されし数多の草魚が道標を尽く薙ぎ倒し、その後釜に座る極小なる淫らな猩々が紅の印鑑を倒れゆく少女像に拭い絡ませる様は、恰も冷静なる貴族が病状をひた隠し越冬の危機を乗り越えるのに似る。時々刻々と謀殺されし護摩壇の姫君の肢体が腐敗と熟成の報奨に狂おしく同調している折に、微細なる裂傷を結合しながら徒歩にて断崖を捻る未練がましい使徒が手にした免状を衣と引き換えに八つ裂きにする。傍若の限りを尽くした赤児と液状化した母親が手を繋ぎ目真苦しく螺旋を描きながらもう一人の裏切り者の足跡を舌で滑らかに擦り、その呪縛に素っ頓狂な声を上げた隣人が悪鬼と冒険した凡人と化して急襲しながら霊山の内部構造に激突した。唖然とする七匹の蛙は幕間に喇叭を回転させながら右側だけでタンゴを祭り、渦を巻いた板状の貝殻の上で割譲される順番を望んでいる。早朝に深淵より点在せし顔面が、虹色に曇った延髄を海面に落とし、塗り固められた臍帯を蛇腹にしながら浄化槽で探索する二連の秘部を必死に灯台に繋ぎ止めようとするが、監獄より返納された御影石の売人達による秘密組織が泣き声を追跡しながら別居中の蓮根畑の先端に波及してくれと請願したため、橋の開閉により眼球が飛び出して乳白色の絵画に侵蝕し、慈愛と連想ゲームから成る仏の荒野に自ら至った。
日本語の「さようなら」はどういう意味合いなのか釈然しなかったので調べてみた。
"日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか (ちくま新書) [新書]
すると「そうならなければならないなら」という意味だという。また諸外国の別れの挨拶のように、再会を願ったり、別離の後の神の加護を祈ったりするでもなく、「さようでしたら」という装飾のなさに日本的な無常観を感じた。
過去に付き合っていた子が「"バイバイ"とか"さようなら"だともう会えない感じがして寂しいから、別れの挨拶は"またね"にしよう」と僕に言い、それから僕らの別れ際の挨拶は「またね」になった。
結局「さようなら」と言ってフラれたんだけど、それも「そうならなければならないなら」って事だったのかな。
似たようなことが積み重なることで反復し、忘れられなくなるんだと思うよ。
その似たようなエピソードでもっとも尖っていたことが忘れられない過去になるんじゃないかな。
自分の場合は、失恋が忘れたくても忘れられないくらい痛いけど、別離ってよく似た悲しみなら普段から経験してるもの。
知人三人で途中まで一緒に帰って、一人途中で分かれてじゃあね、とホームに降りた後
振り返ったらまるで自分がそこにいなかったみたいに二人が楽しそうに談笑してる姿を窓越しに見ちゃったときとか。
忘れないために、忘れるために、これができる最善だと思う。
(書いてたらダブった。。。)
アニメが原作絵と違って気持ち悪いと評判の惡の華。1話を見て興味を持ち、ネットであらすじを探って、原作本を全巻購入し、幾度と無く読み返してもまだ飽き足らない。子どもじみた中学生らしい登場人物が、思春期特有の心理状況を抱えながら、自己を萌芽させ、徐々に顔つきも大人びてくる。当初はギャグテイストの悩みや災難も、次第に力を帯び、心をえぐり、魂をすりつぶすほどの痛みになる。登場人物は傷つきながらも正気を失わず、自分の心が発するの声にしっかりと耳を傾け、美しくも悲しい物語を紡いでいく。マンガやアニメの主要な購買層が求めている作品ではない。思春期で思い悩む少年少女とってのバイブル、恋愛や社会との関わりの中でひどく傷を負い、いまも人知れぬ痛みを抱える人々にとっては、癒しの物語となるだろう。
高校生編はまだ途上なので評価は避けたい。蛇足にならないよう願いたい。常盤さんと付き合うことになったが、仲村さんが登場するならば春日には破滅しかない。常盤さんという人物が、高校生となりある程度社会性を身につけた仲村さんとしての役割を担うならば、仲村さんは永遠に登場してこないだろう。
中学生編は、3巻の峠を境に前半と後半に分かれる。前半は主人公が、あこがれの娘の体操着という、無意識の海に落とし込んだ財宝とも言うべきものを盗むことから始まる。思春期は幼い子供だった時代と別れ、自我が覚醒する時期。親や学校、友人らと同一の存在であり、他とは異なる自分というものがなかった幼い自分に別れを告げる時期。未知の財宝を奪うという行為は、通常の意識よりも深いレベル、無意識から発せられる。さらに、住み慣れた世界から自己を引きはがす未知のモンスターが登場。深淵からの使者、仲村佐和に秘密を握られ、否応なしに「自己の覚醒」へと突き動かされる。すべての出来事は現実と同じく、良い結果と悪い結果の両方をもたらす。そして自己の表現とは属する社会の道徳とは相反するものになる。すべての結末は死、解体、別離。カミソリの刃先のような危険で細い一本道を命がけで渡る春日の姿は、一種の英雄譚のようだ。
自己の表現すなわち仲村の呼ぶ「変態」が本作のテーマか。分かりもしないボードレールをこれみよがしに見せつけて俺は他の奴らとは違うんだと悦に入る気持ち悪いネクラうじうじ男、春日。彼が未知からの召喚に応じ、キリストの受難のような試練を受ける。思わずあこがれの佐伯の体操着を盗み、思わず嫌われ者仲村をかばい、思わず佐伯をデートに誘って思わず告白する。仲村に本当の自分を黒板に書けと言われ、一度は断るものの、仲村が溜め込んできた周りの世界への鬱憤を知り、さよならを告げる仲村を思わず引き止める。自身のカミングアウトだけでなく、芸術作品のように自分の存在の全て教室にぶちまけて仲村の言う「クソムシの海」を創り上げる。完全なる自己の覚醒は住み慣れた世界との別れ。仲村とともに「向こう側」を目指すも、愛すべき社会を体現した佐伯が立ちはだかる。唾棄すべきもの、社会から忌み嫌われるものだったはずの「ありのままの自分」が佐伯から受け入れられ涙を流す。だが、一人で「向こう側」に向かおうとする仲村を思わず引き止める。引き止めたことに驚いたのは春日自身。言葉が出てこない。行くか戻るか2人から選択を迫られ引き裂かれる春日。普通に佐伯と「付き合う」ことができず、仲村の求める「変態」にもなれない、自分が空っぽであまりにも無力な存在であることを思い知らされる。
後半も「変態」行為が自己表現だが、その行為には一切の欲望や情念は込められていない。愛の表現そのものだ。愛は自己の表現であり、社会の価値観とは反するもの。峠の心理状態のまま時間が止まり、仲村にも佐伯にも歩み寄れない春日。3者は峠の出来事で自分の存在をズタズタに引き裂かれている。社会性の権化だった佐伯は親友木下に付き添われることで辛うじて社会生活を送り続ける。春日と仲村は以前にもまして社会とは関係を持てない。木下は佐伯と春日の関係修復を試みる。互いに相手から好きだと言われたいとの思いはあるものの、これ以上傷つきたくないというのが本音だ。もう引き裂かれる痛みに耐えられない。双方とも無表情を装い、相手を拒絶する言葉を放つ。佐伯と別れ、残るは干からびて死んでいくだけの日々。夢のなかで、それまで気づいていなかった仲村へのいとおしさに気づく。仲村への気持ち以外の他の全ては意味のない空虚な存在。自分の「向こう側」は仲村の中にある。仲村を笑わせるためならば、社会も自分自身さえも捨ててしまおう。愛の巣そのものの秘密基地を作り、佐伯を除くクラスの女子全員のパンツを盗む。変態行為は仲村への愛のメッセージであるとともに、佐伯には決別のメッセージ。佐伯への決別の決意を知った仲村はようやく春日の思いを受け入れ、世界で2人にしか分からない特別な関係、すなわち「契約」を結ぶ。
一方、決別のメッセージを受け取った佐伯は、自分の抑えこんできた欲望、自分そのものの萌芽を迎える。社会性の象徴である木下を伴いながら、春日と仲村が創りだす2人だけの世界を探求する。それは木下にとってはただ変態、犯罪者の異様な空間。だが、佐伯にとって、自分には絶対にたどり着けなかった世界。嫉妬と羨望と欲望の対象、世界の求める姿を演じることなく自分の好きなことを自分の思いで自ら創造する世界。彼女の求めたすべてがあった。悪行を社会に知らしめることは、春日と仲村の2人だけの絆をさらに深いものにしてしまうだけ。木下と決別し、麦わら帽子と共に自らの演じてきた仮面を脱ぎ捨てる。春日が仲村のために創り上げた世界を燃やし尽くし、春日をセックスで取り込むことで仲村から奪い、自分のものにするという欲望をさらけだすも、春日に拒絶され、仲村との対決にも敗北する。
仲村は勝利したものの深い傷を負う。後半の仲村は未知のモンスターではない。攻撃的な性質は持ち続けているものの、春日を受け入れるまでは、いばらに閉ざされた眠りの森の美女。春日を受け入れてからは愛の対象者として存在する。変態行為を求めることはない。ただ自分を喜ばせるためだけに、他のすべてを捨てて一生懸命になってくれる男の子、春日の存在を嬉しく思う一人の女の子だ。2人の間に割り込んできた佐伯の存在により、自分と春日の関係は誰からも祝福されないもの、自分の存在は周りを不幸にするだけのものだと思い知らされる。行き着く先は死か破滅しかない。だけど私は死にたくない。
春日の隠し事が徐々に露見し外出禁止となる。春日を閉じ込める家は地母神の胎内そのもの。放火の懺悔を決意した佐伯は春日の元を訪れ、2人で罪を告白し元の世界で生きる道を提示する。佐伯に心を引かれそうになるが、仲村を信じ想い続け、佐伯を拒絶する春日。行き着く先は破滅のみだと分かりつつも。佐伯の自白とともに、佐伯の分身とも言える木下の手で、すべての出来事が世界に露見される。誰一人幸せにできなかった。何一つできなかった春日。閉じ込められた檻を力づくで破壊し、閉塞した社会の胎内から春日を引きずり出したのは仲村だった。社会から拒絶されるならば、社会そのものを拒絶し、春日を殺し、自ら死ぬ覚悟をしていた。仲村にとって、自分の知らない自分を引き出してくれたのはいつでも春日の自己表現の爆発だった。春日がかぶっている皮を一枚一枚はがす度に、仲村は自分自身を発見していた。運命の夏祭りは明日。すべてが終わるのは明日。もう時間がない。向こう側を、自分自身を見つけなければ。全裸にし、皮膚をめくっても出てこない。バットで脳みそを叩き割れば出てくるのか。殺す気だった。だが、できなかった。私は春日くんを失いたくない。刺のある言葉を周囲に発して、無関心無表情を装って、硬い殻で閉じ込めて、ずっと守ってきた本当の自分、見たくなかった裸の自分自身。弱々しくて、壊れそうで、大嫌いな自分。世界がクソムシじゃない。私がクソムシ。私がいるから、こんなにも世界は生きづらくて苦しい。決して消えることのない自分。ありのままの姿をさらけ出した仲村を春日は魂の咆哮とともに抱きしめる。2人は心中することで、周りの世界のすべてを拒絶し、魂の永遠なる結合を図る。夏祭り、2人は世界に向けてありのままの自己、この世に生きた自分という存在そのものを叫ぶ。仲村は春日を愛していた。そして愛する春日が、両親や佐伯、社会から愛されるべき存在であることも知っていた。世界から拒絶され、孤独の深淵で苦しむのは私一人でいい。あなたは生きて。春日を突き飛ばし、一人で死へと突き進む。だが、その仲村自身も世界から愛されるべき存在。死から拒絶され、2人、いや佐伯を含む3人は、桐生市という地母神の胎内から外の世界へ排出される。そこで中学生編は終わり。
主人公の春日くんの心理描写はあるものの、仲村や佐伯についてはどのような心理状態でいるのかあまり描写がない。だが、2人とも自分にしか分からない悩みを抱え、自分の信念に基づいて行動している。物語の都合や作者の都合で動かされる人物ではなく、自らの意志で動く生きた人間だ。春日に自分の心の奥底に秘めた何かを求めてしまった2人の少女が作者の意図の範疇を超えて動きまわる。自らの意思で動く登場人物が自然と創り上げてしまった物語が惡の華の中学生編ではないか。仲村が、佐伯がどんな気持ちを抱えてその場にいたのか、想像を膨らませながら読むと深い、深すぎる物語。まるで恋人の心を探るような、自分を拒絶した異性の心を探るような、そんな作業にも感じられる。
面白いおもしろすぎる物語。エンターテイメントではない。現実の人々は、自分自身との関わり、愛すべき存在との関わり、社会との関わりの中で、必ず傷つき、苦しむ。この物語は生きる糧となる物語。魂に必要な食べ物。癒えることのない痛みを和らげる物語。閉じ込めて見ないようにしていた心の古傷を思い出させ、生きる歓びに涙を流させる物語。世界は悪意と欲望で満たされている。常に腐敗し悪臭を放ち続けている。自分自身も、かつては不滅の存在に思えていた社会そのものも、実は有限で不完全な存在に過ぎない。すべての欲望、情念、怒り、迷妄を捨て去った後、哀れみの心が生まれる。法隆寺、玉虫厨子の捨身飼虎の図で描かれるように、愛する人のため、社会のため、神に捧げる供物のように我が身を捧げることで、初めて完全無欠、永遠の存在を感じることができる。世界の中心はここにある。永遠は今この瞬間にある。神は常にあなたとともにある。
印象にのこったところ
この新味は本編の最後まで通底する。
すごく良いほうに効いていると思った。
バディの円熟期。
物語の前提の大胆な省略。
(ホームズというタイトルが持つ説明不要、問答不要のパワー!)
映画:原作よりもレベルを上に調整したワトソン、パリッとした、心身ともに強い医者(+荒事好き。賭け事好き(スリル好き)という設定追加はすごくいい)
家宅侵入を手伝うことを決めたときのワトソンの顔(許嫁の両親に会う約束の日)
しかし頬のできものに、ちょっと気を散らされてしまうのは愛嬌。
名前を叫ぶだけで、こちらにくるなと伝える。
致命的なトラップを発動させてしまうワトソンのヌケは、原作のようなヌケで、それはそれで、イイ!
メアリー役の人の芝居がすごいと思った。
過不足なく、終幕の説得力(ホームズがメアリーを認める)に繋がる。
終盤の一幕。
中盤、列車の中で、これに関する教授とアイリーンの明確な会話の一幕。
当のホームズとアイリーンの間では、弱みの正体について、明確な会話はなされないところがいい。
(アイリーンが握られれている真の弱みは、また別にあるという感じもするけど。
そういう含みも、込みでイイ。)
今日は父方の祖父の命日です。
喪の作業が
全く進んでいないのだなぁと
痛感しました。
当時を回想してみて
改めて思った。
まだ、否認の段階、なのだと
☆
どうでもいいことは抜け落ちるけど
大事な特定のことははっきりと覚えている。
いや、大事なことがいつ起きても保存して置けるように
日常のどうでもいいことは抜け落ちていくように
設計されているのかもしれない。
9年前の2月7日、
そこそこ気にしていた朝を覚えているし
GLAYが「いつか」を歌っていた。
いつも一緒に部活の帰りを共にしている3人のうち、
Sくんはデートか何かが一緒に帰らずに
3人で自転車を漕いで帰った事も覚えている。
その帰り道、
いつもどおり部活をして夜にちょっと集まってゲームをしようという
約束をしていた。
そして、帰り、死去の話を一通り聴いたあと
楽しく興じていた。
不思議なくらいに、いつもどおりの楽しさがあったことを
覚えている。
今になって思えば、脆弱な心を保つための
躁的防衛だったのだと理解できるが
☆
もともとの高血圧だったこともあるだろうが
倒れてしまったとの事だった。
律儀で真面目な人だった。
そして、真面目さを強さとして昇華させている人だった。
他人を疲れさせるだけ。
なぜなら、柔軟性がなくて頑固なだけだから。
真面目な人と一緒の空間に居たら安らげないでしょ?
それでも、じいちゃんの真面目さは
圧倒的に優しさと強さを持っている真面目さだった。
多分に美化をしている可能性もあるが…。
☆
ただ、当日のことは克明に覚えているのだが
それからのこと、たとえば
どうしても思い出すことが出来ない。
いや、覚えているんだけど、
すごく限定的。たとえば、自分がどこに居たのかは
覚えているがそこで何をして何を話して何を行動したのかは
全く覚えていない、
それに当時の場面を思い返したときに主人公の視点で世界を捕らえていないことに
気づく。
「自分が居る空間を上から自分が観覧している」というイメージでの
自分から見た世界じゃなくて、自分がその場全体を見ている感じ。
これも離人とか解離とかっていう一種の
心的防衛なのだと、今になると思う。
そう考えると
当然のことなのかもしれない。
だって、意識は自分を上から見ている自分が持っていてしまっているのだから。
☆
どれだけ
「大切な人には伝えられるうちに愛しているって伝えろ」みたいな
ご高説をたれられても、やっぱり人間は
愛してるって伝えないんですよね。
どれだけ悲痛な別離や死別の話を聴いても
全く他人の痛みからは学べないわけです。
だとすると、できることはたったひとつ、
思いっきり後悔を背負って生きていくこと。
他人が身をもって示してくれた痛みに
耳を傾けても行動に移さなかった罰を受けるしかないのだ、と。
もしも人間が
他人の痛みから学ぶことが出来たのなら、
こんなにも悲しい物語は断続的に永続的に
津々浦々で発生するわけがない。
人間は
今を大切にすることなど出来ない。
失うまでは絶対に気づくことは出来ない。
その鞭と無能さの償いとして
後悔という消えない荷物を背負っていくしかないのだと思う。