はてなキーワード: 依拠とは
https://anond.hatelabo.jp/20180215032409
国際分野なのに英語で論文発表してないことが最大の違和感。必ずしも三浦瑠麗を叩きたいわけじゃなくて、日本の国際政治学全体のレベルが低い?あるいは政治学者の仕事は世界に向けた学術研究発表よりも国内政治のご意見番をすることのほうが重要っていう認識が業界で一般的になってるならそれも受け入れる。
著書「シビリアンの戦争」は博論を出版したものって理解でよいか。文系の博論は分厚くて書くのが大変とは聞く。でもグローバルな表題なのに世界では通用しない研究(少なくとも英語でないので読んでもらえない)って考えると悲しい。
こういうの勘弁してほしい。三浦瑠麗を叩くならどんどんやればいいと思うしやってほしいけど、叩く対象は限定してくれ。
文系では和文でも立派な研究業績になる。最近の若手研究者は積極的に外国語論文書くようになってるし、私だって欧文論文の1本や2本あるけど、仮に査読論文が和文しかなくても質が高いものを書いていて博士号もらってれば立派な西洋史研究者/英文学者/アメリカ政治研究者、etc.だよ。そういう世界なんだ……。
「ちゃんとした雑誌に載せてる論文が3つしかない」っていうのもどうかと思う。業績リスト見たら、まあ新書2冊はおいといて、それなりに専門的っぽい本を分担執筆してるよね。その本を読んでないから何ともいえないけど、雑誌じゃなくて本(アカデミックな論文集)の1章として学術論文を発表することはあるし、それはふつう業績としてカウントするよな。繰り返すけど中身は見てない。中身はメチャクチャレベルが低いのかもしれないし、その場合「この程度の論文しか書いてないじゃないか!」っていう批判は正当だと思う。けど共著を業績にカウントせずに「業績が3本しかない!」っていうのはやめてあげて。
私も、さすがに学振PD持ってて日本でPh.D.獲ってるのにこの業績数はショボいだろ……と思うけど、博士号取得に際して論文数の要件がなければ(少なくとも私の出身大学院では存在しない)、とりあえず雑誌に投稿とかしないでひたすら博論に執筆するっていう研究スタイルもアリだと思うし、一概にそれが駄目とはいえない(単に茨の道ってだけで、制度上不可能ではない)。あと一部の国では「博論に既発表論文を大幅に組み込むのは禁止(=博論は書き下ろせ。既発表論文の切り貼りは不可)」っていうルールがあったりするから、そういう国に留学してた人は博士課程のあいだに出した論文数がどうしても少なくなっちゃう。
和文で書いてればレベルが低いっていうのは誤解。そりゃレベル低い和文論文もたくさんあるだろうけど、質の高い研究はたくさんある。もう15年以上前のことだけど、日本の西洋史研究者が研究対象の国のひとたちと論文集を出した時は、日本側参加者のレベルの高さが評価されたりしてたし(https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/39022/1/50-013.pdf)、それらは「外国の研究者から読んでもらえない」かもしれないけど「レベルが低い」わけじゃない。
何が言いたいかっていうと、三浦瑠麗の言説の酷さは都度指摘すればいいし、彼女の研究も問題があるなら存分に批判すればいいと思うんだけど、業績リストだけを見て和文しかないとか批判しだすのは他の文系研究者に流れ弾あたってるからやめやがれください。ていうかやめて(自分の業績リストを泣きながら握りしめる)
『シビリアンの戦争』は、彼女の博論タイトルそのまんまだから博論書籍化という理解でいいと思う(https://ci.nii.ac.jp/naid/500000550395)。私はどちらも読んでないので違ってたらごめん。博論書いてそれを本として出版するのは、文系の研究者としてはよくあること。
せっかく質が高い研究してても読んでもらえないのは悲しいってのはその通りで、日本語文献が読むべき先行研究として通用してる分野は日本と東アジアにかかわる研究くらいか(アメリカ人でも前近代の中国史やってたら日本語読むことを要求されると思う。中東の研究する日本人がフランス語要求されるみたいな感じで)。これの解決は難しいけど、欧文で和文文献のレビューをするとか、欧文で良い論文書いてその中で和文文献引用しまくるとかして、「日本では面白そうな研究をやってるんだなぁ」と認知してもらうことがまず必要なんじゃないかと思ってるんだけどこれは三浦瑠麗とは関係ないので措いておく。
ていうか、欧米の日本学者だって英語や仏語や独語で日本についての博論書いてるんだから、日本人がイギリスやフランスやドイツに関する研究を日本語で発表してもいいよね。日本だけじゃなくて、ある程度歴史と規模のあるアカデミアがある国では、文系の博論や論文は自分らの言葉で書くことは結構あると思うんだ。
あとこれな。
https://twitter.com/chutoislam/status/963834829723729920
https://twitter.com/chutoislam/status/963834833360248832
これも、一般人がデイリー・メールを端から信用しないのは処世術としてはいいんだろうけど、時にはそういうソースに依拠することが必要なこともある研究者もいるんだから、「デイリー・メールを引用してる」って理由だけで叩くのはやめて、って話だと私は理解した。余計なところに流れ弾を飛ばされると「それは違うでしょ」と三浦瑠麗弁護みたいな立ち位置にならざるを得なくなるというか。私だってこんな記事書いたけど三浦瑠麗の学者としての資質は相当疑っている。ただ流れ弾を撒き散らさないでほしいだけなんだ……
vkgofboston 査読の有無は和文英文に関わらず業績として見なす上で肝だと思うが、それに関しての考えを聞きたいね。
三浦瑠麗が書いた雑誌のうち、『レヴァイアサン』は知らないけど『年報戦略研究』は査読あるよ→http://jsss.sakura.ne.jp/PDF/jsss-1507-tokokiteiyoko.pdf(当時もあったのかは知らん。『国家学会雑誌』はどうなんだろ。あってもなくても不思議じゃない。でもあそこ連載論文とか載せるからないのかなぁ)。ていうか和文の主要な研究雑誌にもそりゃ査読はあるし、だれも査読の重要性は否定してないんですけど……(ただ、査読がなくても良い論文なら業績として扱っていいんじゃない、とは思う。査読つきの良い業績を積み上げてる人が一番評価されるべきなのは当然として、いちおう査読はされてるけどクソつまらん研究と、査読されてないけど面白い研究だったら、一概に前者の方が業績として立派とはいえないんじゃない? 当たり前だけど公募では業績を提出させるわけで。まあわたしは査読無しの媒体にはあまり書きたくないけどね)。
当方おっさん。つーか初老。外見がおもしろい。どれくらいおもしろいかというと、鏡を見た瞬間に「ああ、これは俺に好意を抱く女性はいないですね」と、怒るでもなく絶望するでもなく、ふつうに納得するレベル。そんな人間でもなんかのまちがいで結婚できたので、人間どうなるかはだれにもわからん。ただそれは結果としてそうなったというだけであって、女性と縁のなかった年月のほうがはるかに長い。
子供のころから自分が男性であるということに強い違和感があった。といっても女子小学生になりたいとかそういうことではなくて、というか本当は女子になりたかったのだが、なりたすぎて「現実的に女性になるにはどうしたらいいのか」というようなことを考えていた。その結果、顔面がおもしろいので女性になるのは諦めた。というのが小学生のころの話である。
そこで、女性になれないのであれば、男性として生きるしかなくなったわけだが、なら、なぜ男性であることがここまでいやなのかと考えた。そもそも性別ってなんだ。ちんこついてるから男なのか。ちんこごときで俺を男扱いするのはやめてもらおうか。などと考えていて気づいた。なるほど、俺は「男性として扱われる」ことそのものがいやであったらしい。
俺が子供のころはまだまだ「男は男らしく」という価値観が相当に支配的な時代だった。「男のくせに」「女のくせに」とかがわりと平然とまかりとおった時代である。つまり俺はいろんな人たちが押し付けてくる「男性」が気に入らなかったのだ。そう気づいたのは、高校くらいになってフェミニズム関連の書籍を読んでからである。どうやら俺が気に入らなかった「これ」はジェンダーと呼ばれるものであるらしい。いやだったのは自分にちんこがついていることではなかった。フェミニズムの思想は、俺を救った。
しかしちんこついていても排尿くらいにしか使いみちがない。なぜなら俺はもてないからである。この「もてない」というのは子供のころからわりと決定的な条件だった。しかしここで「俺を愛さない女が悪い」とかはまちがっても思えないのである。なぜなら、鏡を見るとそこにおもしろい顔があるから。だれよりも最初に自分が納得しているのである。なるほど、この顔面はいかん。これはどうにもならねえ。
でまあ、最初から女性となんらかの関係を持つのは諦めていた。諦めたというか、恋愛とかそういうのは魔法やら超能力と同じようなものだと思うようになった。不思議なもので、こうなると恋愛は異世界ファンタジーである。「俺はそこには行けないが、ここではないどこかには、美しい世界があるに違いない」などと思いはじめる。実際、クリスマスの町中を歩くのが好きだった。俺には関係ない世界だが、だれかは幸せであるに違いない。そうしたものが町にあふれているのは決して悪いことではないじゃないか。
とはいえ、性欲はあるのである。幸いなことにこの世にはポルノというものがあった。まじちんこ助かる。しかし現実の女性というものをあまりに俺とは無関係なものであると判断した結果、二次以外では反応しない体質とちんこになった。そもそもが女性と性的な関係をもつ可能性を想定していないのである。ならば、その肉体は男性と同じである。俺にとって男性も女性もひとしく「人間」でしかない。青年誌とかのグラビアを見てもなにも感じない。そのころのグラビアの記憶として残っているのは、小倉優子が表紙のヤングアニマルかなにかを見たときに「これはすごい。胴が長い」と驚いたことくらいである。
こうした価値観は、俺の内部に相当の歪みとか恨みみたいのを蓄積させているらしい。個人としてはわりとさまざまな不都合があった。ただまあ、これは結婚できたからこそ言えるのかもしれないが、にもかかわらず、よかったと思っていることもある。
それは、仕事やらなんやらで出会う人間について、男と女で区別することが絶無であることだ。本当に男女の違いは心の底からどうでもいいのである。具体的には、ある特徴があったとして、それを「性別」という場所に落ち着かせることがない。というかその発想が出てこない。すべて単なる個性である。仮に巨乳だとして「なんか胸のあたりが大きい人間」でしかない。それは俺にとって二の腕がものすごい太い男性と似たような意味しか持たない。結婚してからは、女体を性的な目線でみることの意味合いが多少は理解できてきたのだが、しょせん後天的な学習の成果である。油断しているとすぐに忘れる。
もちろんこうした価値観は、どう隠したってかならず漏れる(隠そうとする知恵くらいはついた)。おもしろいのは、このスタンスで生きていると、一定数の女性からは蛇蝎のごとく嫌われることだ。理由は単純で、その人が依拠しているものを完全に否定してしまっているからだと思う。俺にとって救いのは、世代が下になるにつれ、このようなやりかたで俺を嫌う人間が減ってきていることである。まあこっちがおっさんになったという観察者問題もあるかもしれない。
フェミ関連で荒れるようなもんがホッテントリに上がってくるたびに、俺は自分がそれに救われた経験から「違う。フェミニズムってのはそういうものじゃないんだ」と叫びたいような気分になる。男とか女とかそういうの別にいい。ちんことまんこに代表されるものはそれが必要とされる場面以外では出さなくていい。まず人間だ。みんな人間だ。みんなメシ食ってうんこする。その程度のものだ。俺はアゼルバイジャンの人間よりもカレーを嫌いな人間のほうが理解できない。しかしだからといってカレーを嫌いな人間をそれだけで嫌ったりはしない。なぜうんこの話のあとにカレーの話題を持ち出した。さっきカレー食ったからだ。よけいタチが悪い。
おもしろい顔面は、俺にもてないという運命を与えた。もちろん外見だけが人間を決定するわけではない。そんなことはいやってほど理解してる。それでも「顔がダメ=もてない」という図式をかつて俺は完全に受け入れた。いまにして思えば、俺があれほど自分の性別に違和感を持ったのは「自分ではどうしようもない身体的な条件に対して、なにか義務を与える」というこの性別というものの構造そのものに対する抗議だったのかもしれない。
具体的な抗議行動として、今期は斉藤さんになって志摩リンのことを「かわいいなあ」「ほんとにかわいいなあ」「ずっとこのままでいてほしいなあ」などと思いつつ、たまにその感情が閾値を越えて友情のふりして抱きしめるという暴挙に出たい。あとあんまり関係ないけど、俺のことをキモいとか言った女子よりも、もてないことを理由に嘲笑した男たちのほうが許せない。いまでも許す気ない。
EUとモロッコは、1996年に提携合意を、2006年に漁業セクタにおける協力合意(以下「漁業協定」という)を、そして2012年に農産物・加工農産物及び水産物・加工水産物に関する自由化協定を締結した。2016年12月21日に当司法裁判所は、欧州委員会に対しポリサリオ戦線が提起した訴訟における判決への控訴において、EUモロッコ間で締結された提携合意や協定は西サハラには適用されていないと判断した。しかし、この事件は同漁業協定に関するものではなく、それゆえ当裁判所は判決において、その協定については何ら有効性の判断を行わなかった。
UKにおいて、西サハラキャンペーン(WSC)は、西サハラの人々の権利認定のサポートを目的とする独立ボランティア組織である。WSCは、高等法院(英国及びウェールズ)の女王座部(行政裁判所)にて、EUモロッコ間で締結した漁業協定と、同協定を首肯し施行する規則類は、同協定や規則類が西サハラ地域・水域に適用される限りにおいて無効であると訴えている。WSCはそれゆえ、UK当局が同協定を履行すること、とりわけ西サハラ産品をモロッコ王国の産品と認めて特恵関税待遇を与えることを違法行為だとみなしている。さらに、WSCはUK当局が西サハラ近海の漁業ライセンスを発行する権限を有していることについても争っている(同協定で、EUの漁船は特定の条件の下でモロッコの漁場内で漁獲してよいと定めているため)。
高等法院は当裁判所に対し、まず、西サハラキャンペーンがEUの規則類の有効性について国際法を遵守していないとして争うことができるか、次に、EU法のもとで同漁業協定は有効なのか、について確認を求めている。EUが締結した国際協定とその施行規則類の有効性の審査のための仮決定的手続のもとで請求が行われているのは、これが初めてである。
今日、メルキオール・ウォスレ法務官は、彼の見解のなかで、当裁判所は「EUが締結した国際合意の適法性を査定する裁判管轄を有しており、WSCのような団体は同漁業協定の適法性を争うことができ、そして、同漁業協定は西サハラの地域・水域を適用対象とするために無効である」と回答すべきである旨を主張している。EUが締結した国際合意を適法審査する枠組みのなかで、国際法上のルールに準拠することが自然人や法人に開かれているかについて当法務官は、そのルールが無前提かつ充分明確であり、その性格と主要なロジックが申し立てられた法の適法審査を妨げていないのであれば、EUが拘束されている国際法上のルールに依拠して法的な手続きを行うことが可能でなければならない……と、みなしている。
当法務官は、WSCの依拠する以下の国際法上の3規範に関して、こうした条件を満たしていると考えている。それは:(1)自己決定権、(2)天然資源にかかる永久主権の原則~それが西サハラ人民の利益のために当該資源の利用を要すかぎりにおいて~、そして(3)占領地域の天然資源の利用にかかる国際合意の締結に適用される国際人道法のルール、である。当法務官は、これらの規範はEU締結国際合意の適法審査の枠組みのなかにあり、これらに依拠することは可能である……と結論している。
そして当法務官は、同漁業協定とこれを首肯し施行する規則類が、これらの3規範に適合しているかを審査している。
まず当法務官は、西サハラの人々が国連総会の設けた条件で自己決定権を行使することすら、かくも永くの間、機会を奪われている……と、述べている。西サハラは併合によってモロッコ王国に統合されたが、この地域の人々が自由に意思表示をしたことによるものではなかった。モロッコ領土への西サハラの一方的な統合と、当該地域にかかるモロッコの統治権主張を根拠として、モロッコが同漁業協定を締結して以来、西サハラの人々はその天然資源を自由に処分していない。それが、自己決定権によって求められているにもかかわらずである。したがって、申立ての規則類によって定められ行われる西サハラ近海でのEUによる漁獲は、西サハラ人民の自己決定権を尊重するものではない。
モロッコによる西サハラ統治権の主張は西サハラ人民の自己決定権を損なったことによるものであるから、西サハラ人民の自己決定権のモロッコによる侵害の結果である違法な状況を是認せずその維持に援助を与えないようにする義務を、EUは怠っていた……と結論する。この理由のため、西サハラ地域とその近海への適用に限って、同漁業協定とそれを首肯し施行する規則類は、欧州連合に対し外事につき人権を保護し国際法を厳格に遵守しなければならないと要求する欧州連合条約の定めに適合していない。
当法務官は、西サハラにおけるモロッコのデファクトな施政勢力もしくは占領勢力としての地位は、同漁業協定の締結を正当化できないと考えている。第一に、「デファクトな施政勢力」の考え方は国際法に存在していない。第二に、モロッコは西サハラの占領勢力であるが、同漁業協定の締結のされ方が、占領地域に適用される国際合意の占領勢力による締結に適用される国際人道法のルールに適合していない。
次に同法務官は、同漁業協定により提供された漁獲のほとんどが西サハラ近海に限定的に関係している(これらの海域で得られた漁獲は、同漁業協定で定められた漁業の文脈で行われた総漁獲量の91.5%付近にのぼる)と認定する。同漁業協定に従ってモロッコ王国へ支払われた財政的貢献は、ほとんど西サハラ人民の利益のためだけに使うべき…ということになる。当法務官の見解では、同漁業協定は西サハラ人民の利益のための漁獲となるために必要な法的セーフガードを含んでいない。この意味において、天然資源に係る永久主権の原則、占領地域の天然資源の利用にかかる国際合意の締結に適用される国際人道法のルール、そして最後に、これらの原則やルールに違反した結果である違法状態を是認せずその維持のために援助を与えないEUの義務を、同漁業協定及び他の申立ての規則類は遵守していない。
ある日、ボロボロだった転職面接の帰り道に、妻への手土産を買った。
家に帰り、「面接大変だったね」と声をかけてくれる妻に
妻は受け取ってすぐ嬉しそうに食べてくれた。
その姿を見て涙が止まらなくなった。
喜んでくれて嬉しかったのもあるが、
私は本当は妻をベルギーに連れて行ってあげたい。
私の低給が足を引っ張っていなければ、
妻はベルギーに行く余裕があるんじゃないだろうか。
妻にいろんな夢を我慢させているのではないだろうか。
きっと私は今幸せだ。
クソみたいではあるが定職があり、
会えば飲みにいける友人もおり、
仕事では入社前に約束していたと任されているポジションも違うし、
給料は異常に安いし、残業代・ボーナス代どころか交通費も出ないし退職金もない。
待遇についての面談を打診しても「忙しいから」といい理由で受け入れてもらえないどころか
会社他の人はいい人だ。いい人過ぎてその会社に残っているんだろう。
離職率90%超えの職場に残ってるのはそんな人たちばっかりだ。
幸い、妻は私よりは遥かに高給取りだが、
子供も生まれるし、このままの私の給与や環境では生きていけない。
専門知識が優れてるわけでもないし、経験が多いわけでもないし、特別な資格もない私だから当然だ。
年齢も30を超え、かと言って責任ある仕事をしてきたわけでもなく、何も売りはない。
妻には「優しくて面白い」と言ってもらえるが、それに転職市場での価値はない。
このまま私は妻をベルギーに連れて行ってあげられないんじゃないだろうか。
妻は満足していないのかもしれないが、それを微塵も表には出さず、
相変わらず「おいしい」といってワッフルを頬張る。
そんな妻を見て、
「死にたい」
とは思わないが
「人ではない何か概念として生きていきたい」
と考えながら、涙が止まらなくなったのだった。
たくさんの反応ありがとうございます。
泣きながら書きなぐったので誤字脱字がたくさんあると思いますが、
とりあえず高級→高給に直しました。
> なんか、奥さんと自分を比べてちょっと卑屈になってない?
> ベルギーで食べる非日常の幸せと、旦那が買ってきてくれる日常の幸せは全く別のものだよ
> 奥さんが作ってくれたカレーを食べて、ああ…本場のインドカレーの美味しさを知りたい…なんて思ったことないでしょ??
> 男って自分の価値を仕事に依拠してしまうから弱いのだよな。逆に言えば仕事さえしてれば何も考えなくて済む性格とも言える。
> 足を引っ張っているのは低給ではなくて、増田のプライド。
ホントそう。私のプライドだけの問題なんじゃないかって、今日は思える。
それを支えてくれたのも妻でした。
そんな素晴らしい妻に感謝を形に表したいのです。
精神がすり減ってはいるけど、それを支えてもらい続けるのは本末転倒。
伸び伸びできる仕事を探すか、思い切って専業主婦という形で夫婦の人生に貢献したいです。
もちろん妻と話し合って決めることだけどね。
これからも妻が喜んでくれるならチョコワッフルを買い続けます。
マネケン美味しいよね。
今のスポーツ漫画や青春漫画はたいてい部活に依拠してるストーリーが多いのだけど、はてなで叩かれてるみたいに部活がなくなったらどうなるのだろうね。
まず強制入部がなくなったら物語のとっかかりとなる入学シーンで主人公の「どの部活に入ろう」からのそのジャンルとの出会いというパターンが使いにくくなる。読者の共通体験じゃなくなるから。
運動部のスポ根練習はすでになくなって久しいから部活がクラブチーム化しても練習や試合描写はあまり変化はしないだろうが、チームが学校単位でなくなることで目的・目標はだいぶ変わらざるを得ないだろう。「この学校には○○部が強いから入ったんだ」という部活を目的とした進学描写がなくなる。
また、今まで学校ごとに不良とかガリ勉とか色をつけて作られてたチームが、地域ごとのクラブチームになることでそういった特徴をつけられなくなる。
ちょっとしつこいこのオッサン…という思いはしたことはあるが、しつこさに負けたこともなければ、手を出された触られたことなどもない。
もちろん枕もやったことがないが、打合せ終わりに誘われて飲みに行ったことぐらいならあるし、
女のあっせんではないにせよ、しつこく合コンに誘われたり、自分の部下(終始ニヤニヤしていた)を彼氏にしたらどうだと慰労会の席でずーっと言われ続けたことはある。
そういえば、合コンをお断りした人と部下を押しつけようとしてきた人からは、その後仕事が来ることはなかった。偶然だろうけど。
セクハラ的に不快な気持ちにはなったことは、そりゃあ数え切れずあるが、一方で性的な魅力(ある気はしないのだが)を使って仕事を取ってきたという自覚はない。
ただ、同僚や先輩から「そのように」言われたことならあるから、そうである可能性はあるのかもしれない、見る人が見れば。
「俺たちも(取引先のパワハラに)我慢してんだし、襲われたわけじゃないならむしろ楽じゃん」的なこととか、
あいつは女だからあの仕事を取れたんだ、みたいな残念すぎる陰口を言ってたらしい同僚男もいたらしい。
(陰口なので当然伝聞。そんな下らないことわざわざ伝聞すんなと思った。伝聞してきたのも男の後輩。ほんとくだらない)
ただ、今よりずっと若い頃に思っていたのは、「若い女」がそこにいるだけで、おっさんたちは若干たがが緩むということだ。
会議の席上、当たり前のことを言っただけで、「あ!猿が喋った!カシコイ猿だなぁ!」みたいな顔をされることが常だったからだ。
当たり前のことなのだから、同じことを別の人間が言っても何のインパクトもないだろうが、「若い女」であった私が言うと驚かれるような気がした。
「若い女」だというだけで、初見でマイナス100点からのスタートで、「当たり前」をやるだけで一気にプラス10ぐらいまで上がる。
当たり前をしているだけだから絶対評価はプラス10でしかないのだが、おっさんどもが私を見つめる目は「110ポイントアップの若い女」である。
少し昔の話なので、当時はビジネスの現場における「若い女」に希少価値があったせいもあるかもしれない。
当時、一人だけ信頼できるおっさんの上司がいたので、思い切って「猿が喋った!みたいに思われている気がする。下駄をはかせてもらっている悔しさもある」と打ち明けた。
履かされてる下駄の高さが「若い女」に依拠しているなら早晩無くなるだろう、「若い女」もどんどん増えインフレ化もするだろう、という不安もあった。
なにより、オッサンの私への評価が甘くなることで、私が自分に対して甘くなっていく恐怖が大きかった。世間チョロいって思ったら最後、ヤバい奴にしかならない。
上司からは、お前が感じてる不快感とバーターだと割り切って、点数が甘いうちにやりたい放題やってみたらどうか、という実戦的なアドバイスをいただいた。
社会をすぐに変えるのは難しい、それに「若い女」の問題は、一方で恐らく「若い男」も同様に感じている部分もあるだろう、
「猿が喋った!」は、女に向けられるものでもあるが「若さ」にも向けられる、俺たちオッサンどもを驚かせるのも「若い」や「女」を担当する者の役割だったりもするんだ
猿→人間扱いのギャップが大きいと感じているのなら、お前の実力だってあるはずだ、と。
自分がオバハンになって確かに「若い」自体への下駄(期待感)もあると実感するので、今思うと本当にありがたく実戦的なアドバイスだったと思う。
まぁ自分が若い頃よりセクハラは減っていると思うし、今の方がビジネス現場に「若い女」が増えて相対価値が低下していることもあるかもしれない。
世界はほんの少しずつだけど変わってたりもするんだろうね。
政治的とかじゃなくて、エンターテイメントとして見てしまう。お笑い芸人的な。……失礼だけど。
政治にまったく目覚めてない純無関心層は選挙に行かないし、目覚めきって左右の政治思想の極北たるアナキズムやファシズムにまで行き着いた者も選挙には行かない。つまり選挙に行くのは政治的に寝ても覚めてもいない、寝ぼけた連中だけ!— 外山恒一 (@toyamakoichi) 2017年10月15日
投票率は5割でも高すぎるし4割ぐらいじゃまだ組織票に依拠してる連中がほくそ笑むレベルだが、3割を切るぐらいになれば奴らは本気でビビり始めるし、万一ビビり始めもしないようなバカ政府ならそもそも恐るるに足りない。選挙には行かないのが一番正しい(次善は毎回「外山恒一」と書くこと)。— 外山恒一 (@toyamakoichi) 2017年10月12日
んで、大人になったらネットで女叩きをするような人間になった訳だ
問題大ありだろ
はあ?してませんが?
俺がいつ女を叩いた?具体的に提示して?
仮にそうだとしても俺はお前個人の言動の拙劣を馬鹿にしてるのであってお前の性別はどうでもいい
そこで性別の影に隠れるつもりならお前と言う個人が卑怯ものなだけだな
いいですかー
それがつけられないお前みたいな妄想人間の脳だけが壊れてるわけだけどね
今だってそうだ
相手を「女叩きする人間である」と無根拠に決め付けなければ討論も出来ない
それがお前
日本国民の「右傾化」が叫ばれて久しい。現政権は「保守政権」と自称している。
なるほど、保守。たしかにそのネオナショナリズムは過去に立ち戻るような考え方のように映る。
しかしながら私はこの保守、あるいはネオナショナリストこそ日本国において最も急進的で未来に希望を託している人種なのでは無いかと思えてならない。
現代日本はさながらラピュタのようだ。我々の足元には確たる基盤がなく、ゆらゆらと宙に浮いている。それには様々な原因があるだろうが、今回は三つの思想的敗北によるということで話を進めていく。
まず、第二次世界大戦の敗戦がある。明治以来国民を支配してきた全体主義・国粋主義が間違いであったことを身を以て知った我々は頼るべきイデオロギーを失った。1回目の敗北である。
次に我々が依拠せんとしたのは共産主義である。ソ連や他の共産国の秘密主義のためにその惨状を知らない日本人は共産主義的桃源郷に夢を馳せた。東大闘争に始まったこの熱は日本中をのぼせ上らせたが、セクト間争い、連合赤軍、そしてソ連の崩壊と暗黒面が目につき、我々は夢から醒めた。
バブル崩壊。アメリカ式資本主義は敗戦からずっと生き残り続けた。奇跡の復興、宗主国アメリカのど真ん中の大きなビルを買えるくらい、日本は資本主義化において成功を収める。しかしそれは文字通り膨らんで行く泡であり、遂には弾け、資本主義さえも信じられなくなった。
無主義・無思想・無宗教の日本に残されたものは、敗戦国という烙印と無機質なハコモノだけであった。今までならば誇るべき別の点のお陰でさほど気にしないで入られた「戦後レジーム」が今更になって癪に触る。
こうしたアイデンティティの喪失によって創り上げられたのがネオ・ナショナリズムである。
先に「ネオナショナリズムは過去に立ち戻るような考え方のように映る」と書いた。しかし歴史上どこに立ち戻るべき過去があるというのか?日本帝国の政治体制が戦禍を巻き起こし(彼らが全てアメリカの陰謀であると主張したところで同じことである。米国にまんまとしてやられ冷静さを失う体制のどこが間違っていないというのか)、華々しい経済も泡沫と消えた。立ち戻るべき場所は本来どこにも無い。では彼らはどうするか?
美しい日本、日本帝国の真実。書店に立ち寄れば過去を美化している本が並んでいる。しかし彼らの言葉の指す「かつての日本」は過去をベースとしたファンタジーなのである。
かの有名な江戸しぐさを思い出して欲しい。教科書にも掲載されたデマであるが、あれは全く過去をベースとしたファンタジーである。いわばベイマックスのフランシストーキョーや銀魂の大江戸のような「そうであったかもしれない日本」の姿であり、それは過去に存在していない以上幻想以外の何者でも無い。
当たり前の話だが、戦前の日本を知るものはもはや生きていない。戦争の怖さは子供にもわかるだろうが、怖い社会を感ずるためにはある程度の年齢が必要だから。誰も知らない、ということは現在の我々が過去を思う時、そのほとんどは幻想に頼るしかないということである。モニターの奥の二次元世界となんら変わらない。現在と過去との間には次元を隔てる障害があり、こちらからあちらへは干渉できない。
たしかにアニメのネオ日本は格好がいい。しかしそれを現実で語ればアニメ脳、ゲーム脳と言われるのがオチだろう。同じようなことをやっているのがまさにネオナショナリスト達なのである。
ネオナショナリストは現時点での閉塞感を解消するためにカッコいい幻想を過去に投影した。そして「これに戻るのだ」と主張しながら未来を作ろうとする。
結果、彼らは前しか向いていない。過去を省みてはいないではないか。これがいわゆる保守こそが進歩的な人たちだという理由である。
私は右傾化を否定も肯定もしない。戦後から不安定さの解決のために右往左往してきた日本人を思えば、当然の帰結だろうと思う。お粗末な思想、主張だが、日本国民がそれを望むのであれば、それも良かろうと思っている。なに、高い授業料になったって構いやしない。
ただ、一つだけ加えておきたいことがある。私は先程からネオナショナリストの思想の根本は幻想、ファンタジー、アニメ的だと主張してきた。幻想、現実ではない、ありえないものなのである。つまりは霊的なもの、神的なもの、呪い的なもの、それらと変わりないオカルティズムだ。オカルトによって国が動くのだとしたら、あなたは怖いと思うだろうか、素晴らしいと思うのだろうか、それを尋ねてこの紙片にピリオドを打ちたい。
●ひきこもって2chはやめておこう
ひきこもって2chばっかりやってると頭がおかしくなってくるよ、という話を書いておこう。
今回の話は端的に書くと次の通り。
・ひきこもって2chをやるのは、人の話を聞けなくなるからやめておこう
・「スルー」の文化を日常生活にも適応しちゃうと、『変な人』になっちゃうよ
大学の卒業年度にも関わらず、内定が得られず、それどころかろくに就職活動もせず、自宅にひきこもって2chばかりやっていた。
話すのはせいぜい家族くらいで、話す時間もせいぜい一日十分程度。
そんな生活を一か月近く続けているとどうなるか?
答えは簡単、コミュニケーション能力が大幅に低下するのだ。
●コミュニケーション能力とは?
では、コミュニケーション能力とは一体何を指すのだろうか?
コミュニケーション能力がどういう能力を指すかについては属するクラスタや依拠する文脈によって
齟齬が生じることがままあるので、ここではまずコミュニケーション能力について簡単ではあるが
コミュニケーション能力とは、人と意思疎通をはかる際に必要な能力のことを指す。
また、コミュニケーション能力は教科書的に言えば「書く力」「話す力」「聞く力」に分類される。
「書く力」とは見ず知らずの他人が見ても理解しやすい文章を書く能力をいう。
「話す力」とは他人と口頭で上手く意思疎通を交わす能力を指す。
「聞く力」とは話し相手の話を上手く聞いてあげる力を指し、端的には「傾聴力」という言葉で言い表される。
一か月近く自宅にひきこもって2chばかりやっていると、コミュニケーション能力の中でも
「話す力」が低下することに関しては、ひきこもりによって家族以外の人間と話す機会が皆無となるため
想像に難くない。
では「聞く力」はどうであろうか?
自宅にひきこもって2chばかりやっていると、「聞く力」が低下すると書いたが、それは一体何故だろう?
理由は簡単で、2chのような匿名インターネット掲示板の形式をとっているサイトにおいては、
では、なぜ2chにおいては"人の話を聞く必要がない"のだろうか?
それは2chにおいては「スルー」であったり「嫌なら見るな」という行動が推奨されているからである。
その結果、人の話を聞く必要がない土壌が2chには常に必然的に生成されている。
具体的にいうとどういうことか?
2chのような匿名インターネット掲示板の形式をとっているサイトにおいては、書き込む際にハンドルネーム(俗にいう固定ハンドル、コテハン)を
使ってはならないという暗黙のルールが存在する。コテハンをつけずに2chに書き込むと、名前の欄には「名無し」を冠する名前が
自動で入力される仕組みになっている。またコテハンをつけて書き込んではならないというルールによって、2chでは
「名無し」という匿名の投稿者による書き込みでスレッドは埋め尽くされている。
匿名性の高い書き込みによって埋め尽くされている掲示板において、書き込み、レスを返すというコミュニケーションを行うためには
当然、「名無し」の書き込みを読む必要が生じる。だけど、「名無し」の書き込みを全て読む必要はない。
「スルー」の文化に象徴されるように、2chにおいては都合の悪い話、耳の痛い話は読む必要がなく、「スルー」しておけばいい。
この「スルー」というネット文化が、「聞く力」の低下に寄与していると考えられる。
この「スルー」を実生活におけるコミュニケーションに適応してみるとする。
例えば、大学の食堂で友達と他愛のない会話をしている場面を想像してみるとする。すると、当然俺は友達の話を
聞かなくてはならないし、一方で友達は私の話を聞かなければならない。
でも、もしも私が友達との会話において「スルー」をすればどうなるか?
もっとわかりやすく言えば、私が友達の話を一切聞かず、自分のことばかり話していれば友達は一体どう思うだろうか?
また、友達の話の中で、私にとって興味のあるワードにだけ反応して、友達の反応を一切顧みずにひたすら
私が好き勝手に話していたら、その友達は一体どう思うだろうか?
……当然、いらつくに決まってるよね。そりゃそうだ。こちらの話を全く聞かずに、ひたすら自分のことを
話す人がいたら不快に思うし、会話の中で自分にとって興味のあるワードだけに反応して、こちらの顔色を一切伺わずに
狂った機械のように話し続ける人間がいたとしたら、不気味を通り越して恐怖さえ感じるだろう。
つまり、この例からもわかるように、話を聞かないということはコミュニケーションを成立させない一因と
なっていることは明白なのだ。
つまり、2chでするように、話し相手を匿名掲示板の名無しのように「スルー」することは、「聞く力」を低下させているのだ。
だからひきこもって2chをやりすぎると、「聞く力」が低下して、その結果他人と上手くコミュニケーションを交わすことが
困難になるのだ。
また、2chにおいては書き込む際に個別にidというものが付与されるが、idは一日おきにランダムに変更される。
2chにおいては書き込みの投稿者を判別するためには個別に付与されているidによって目視する以外の方法が
確立されておらず、しかしその付与されたidも一日おきに変更されることから、「一夜明ければ別人の顔をして書き込むことができる」
「どうせ煽られても、何を言われても今日一日のことだし……」「明日になれば別人の顔をして書き込めるのだから
明日のことは気にせず書き込んでおこう……」
多数の人間がこのように思ってしまえば、2chは一体どうなってしまうのだろう?
その結果は、2chの罵詈雑言あふれる書き込みが物語っている。
2chの書き込みを見てもわかるように、「名無し」による書き込みを推奨する文化と、一日おきのid変更という匿名性を
二重に担保されたインターネット空間においては、人はしばしば口汚く罵る言葉を用いてしまったり、人の話を聞かない
「スルー」といった現実世界のコミュニケーションとはかけ離れたルールを設定してしまうのである。
外部の人間とのコミュニケーションを物理的に遮断された"ひきこもり"の状況にある人間が
2chというインターネット空間に入り浸ってしまえば、2chの影響を強く受けてしまい、その結果
コミュニケーション能力の内の一つである人の話を「聞く力」が大幅に低下する。
だからもしひきこもりの状況にある人が、インターネットを利用するのであれば、
「聞く力」を低下させないためにも、ぜひとも「聞く力」が必要とされるようなインターネットサイトを
利用して欲しいと思う。「聞く力」が必要とされるインターネットサイトの一般的な例は
得意なコミュニケーションの取り方によって違うと思うので、一般的な例を出すことはできない。
だけど、例えば私にとってはtwitterは「聞く力」が十分に必要とされるインターネットサイトだ。
●まとめ
以上をまとめると、次のようになります。
・ひきこもって2chをやるのは、人の話を聞けなくなるからやめておこう
最近の違法エロシンジケートとか、コミケ開催できない問題を解決策として「電子コミケ」というものを提唱してみたい。
電子コミケと言うのはその名の通り、インターネット上で日時限定で同人誌の売買をカード決済できるようなサイトだ。
これをどこかの金持ちが作ることによって場所がない問題は解決することができる。
そんなことよりも今まで東京でしか開催できなかったという物理的な問題を解決することができる。
僻地に住んでいる、仕事があるといった物理的な理由でコミケに参加できなかった層を取り込むことができる。
また、規制をなんとかすれば全世界的な展開を視野に入れることができる。
しかしながら、日本国中のオタクがエロ同人を買いにあつまっている、という物理的な制約に依拠するコミケの感動はなくなることになる。
自分で思いついておいてなんだけど、なんでこういう意見がインターネット全盛の今日(こんにち)に起きてこなかったのかというくらいチンポなアイディアだけど、
元増田です。
私は妻帯世襲反対派です。
1:日本の現状として仕方がない
2:日本の戒律は大乗菩薩戒(梵網戒)だから不邪淫戒は不倫をしないということで結婚は大丈夫
3:明治5年の太政官布告「僧侶の妻帯勝手たるべし」に由来する
まず(1)は寺門興隆の為とか何とかいいます(建前)が、それで興隆するのは家門(本音)です。これは「寺=私有財産」と考えられていることに関連している言い訳だと思います。
(2)少し専門的ですが確かに梵網戒(ぼんもうかい)は、不邪淫を説くだけで具体的なことは述べていません(梵網戒は日本仏教の中では最も依拠されているもの)。解釈も時代によって大きく異なっていますが、現代のように「不倫しない」というのは、「なんで僧侶なのに妻帯しているの?」と聞かれる頻度が増した現代的な解釈だと思います。しかし宗団が依拠する経典を読むと「性交渉」そのものを禁止しているので「不倫しない」は現代的に都合のいい解釈かと思います。「経典<解釈」という現状がここで浮かび上がります。
以上のことから、私の意見としては「僧侶として結婚をして子どもを産んで育てて世襲させる根拠はない」です。
余談ですが、必ず引き合いに出されるチベットやタイのお話です。
彼らと接して話をした上で分かった程度の知識です。
それは短い期間でも出家することが親孝行という一面があるからです。
僧侶になったのに還俗するということは、ある意味で棄教とも取れる側面があるので、それはそれで問題かと思います。
厳密に戒律を一生守る僧侶は日本と同様に極めて少ないと言っていいと思います。
また全ての戒を守るわけではなく、多くの戒律の中からの自分の守れそうなものを選択して僧侶になります。
次にチベットですが、戒律復興運動が起きて「根本摂一切有部」という戒律に則っています。
しかし、この戒律復興が問題を引き起こしまして、チベット仏教が誇る「性ヨーガ」が戒律と矛盾する状態に陥りました。
そこで実際の性交渉を避けて「頭の中で性交渉を思い巡らすんだ」という修行法が制定されて、それが現代の主流になっています。
野党の戦略として、現状武器が日程闘争しかないと以前書きましたが、これは国会の議論をしないようにする、というマイナスの面がありつつも、日程制限があることで、多数政党の提案する法案についても、その議会通過の粘着性(viscosity)の高さゆえに、逆説的に国会に権能を持たせているところがあるのが問題を複雑にしているのです。これを単純に日程闘争による議会の粘着性を問題視して、議会の粘着性を失わせれば、多数を持っている政党の党議拘束が強い現状を考慮すると、行政の抑制が難しくなってしまうことにも注意が必要です。たとえばイギリスは日本と似ていて、会期性を取っていますが、会期は最低ほぼ1年あり、かつ造反議員への懲罰もそれほど厳しくはないようです。単純に会期を長くすればいい、というものでもないでしょう。野党が現状持っている唯一の武器を奪ってしまうだけになってしまいます。まぁ現与党による永遠の施政を望んでいる人にはそれが望ましいのでしょうが。ですから国会の権能を確かなものにするためには、野党にちゃんと戦うための武器を与える必要があります。もちろん政権を打倒するための武器ではなく、行政を監視するための武器です。つまり国政調査権です。
日本国憲法第62条「両議院は、おのおの国政に関する調査を行ひ、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる」
これも森友学園や加計学園、日報隠蔽問題の解決を妨げているもののひとつです。日本の国会では、この国政調査権を委員会に実質的に分掌していますが、委員会は、証人喚問等には全会一致を、その他の国会法第104条に基づいた(これも主語は各議院、委員会だからね)記録等の請求に対しては、委員会による多数を求めています。これが問題解決を妨げている原因のひとつです。つまり完全に委員会で多数を占めている政党にとって都合の悪い調査は、行わないことができるということです。たとえばドイツでは少数調査権が保障されており、4分の1の議員による動議で、調査委員会(Untersuchungsausschusse)を設置し、証人喚問を行うことができます。こういった機能を持たせないと、野党に、十分な行政監視機能をもたせることができていないことが、まさに、いわば、現状明らかになっているところであろうと、このように考える次第でござます。つまり現状、与党の自身から形成されている内閣に対する国政調査権というものは、良心にのみ依拠しているというところを加味して今日の共産党、辰巳孝太郎議員への大塚拓財務副大臣の答弁を見ると味わい深いものがあると思います。
森友学園の、土地値引きの根拠になった試掘調査データを出すのに、なんの個人情報もないのに、なぜ民間業者の許可が要るのかとつめてます。まぁ前半も大事なところですが、何回も何回もやってるところなので省略。まぁ基本的には杭をどこに何本打ったかがわかる資料を出せ、とそれが値引きの根拠なんだろ、とこうやっているわけです。
「審議に必要な資料がまったく出てこない。これも問題です。刑事訴追とは無関係な一般的な資料提出もない。たとえば国交省この間、有益費のこの中身について、先ほど少し言っていただきましたけども、補償した項目をすべて、資料として出すように私は求め続けてまいりました。ところがこれらの資料について、国交省や財務省は、”与党の許可がないと出せない”とこういってきたわけであります。理財局長、行政機関が、1政党の許可を得ないと、国会議員の資料を出せないと、これ法的根拠を示していただきたい。」
「お答えいたします。あの、本件森友学園に対する国有地の処分に関しましては、二月以降報道をはじめとして、国会でもさまざまな議論をいただいております。それ以降ですね、議員の方々から、説明、あるいは資料の提出、多数ご依頼いただいてございます。こうした中、ご依頼に対してましては、多忙な中、可能な限り、ご説明申し上げ、確認を行ったうえでの資料の提出について対応させていただいているところでございます。従いまして、資料に関しましては、不開示事由の有無の確認等の事務が生じますが、こうした対応を丁寧に行う上で、一定のお時間を賜りますことについては、ご理解を願います。そして、先ほどご質問いただいた事項でございますけれども、えー予算委員会で理事会協議事項とされているものと承知してございます。いずれにいたしましても、我々、提出に向けての作業を進めさせていただきたいと思います。」
「答えてないですよ。私は予算委員会で、理事会で求めた以外のものも、一般的な資料の提出を求めてるんです(レクでの資料提出依頼のことだろうね。)。それも与党許可なくしては出せない、とこういってるんです。それの法的きょんこ(かんでてかわいい)示してください」
「えー、委員ご指摘の資料につきまして、私ども、委員とその、財務省職員との間でのやりとり委細承知してございませんので、いずれにいたしましても、予算委員会での理事会協議事項となっている資料につきましては、当然のことと承知してございますので、委員と所定のやりとりをさせていただいているところでございます。いずれにいたしましても、我々、提出に向けての作業を進めさせていただきたいと思います。」
「副大臣、副大臣、どう思いますか。これ。行政機関が、1政党である、与党の許可なくしては資料ださないっつってんですよ、三権分立の観点からもコレおかしいと思いませんか。」
「えー本件相当政治的な問題になってますから、一般的に与党の理事に相談するのはこれ普通のことじゃないかなと思いますが、これ(場内どよめく)えっそうですかね。たとえば(ヤバイか?ちう顔をしていらっしゃる)まぁいずれにせよ(ごまかした)国会審議、私も予算委員会、決算委員会などでいろいろお伺いしておりますけれど、ま可能な限りー、契約書(海苔弁なー)、評価書、など鑑定資料もー、お示しをするとともに国会審議の中でも丁寧にご説明させていただいていると思っております。いずれにせよ、不開示事由、これは個人情報の有無、等を含めて間違いがあってはいけないところですので、これはきっちり、間違いのないように、丁寧に、作業を進めていると伺ってございます」
「今、問題発言ですよ、問題発言ですよ。かつて年金問題のときに、野党からの資料請求に、与党への事前報告を求めたことがこれ、大問題になったことがありました。しかし今回行われているのは、それだけじゃないんですよ。与党の許可が出ないと、野党には提出できないと、こういってるんですよ。これ与党議員による、事実上の検閲であり、国会審議の形骸化ですよ。国会、国権の最高機関であり、唯一の立法府である、私は国会の自殺行為やと思います。これ副大臣もっかい答弁してください(やさしいね)」
「その担当者がどのようなお話をさせていただいたか、詳細には私は存じませんけども、通常の資料要求に対して、通常にお答えするのであれば、不開示事由があったらいけませんけども、そういうところきっちり精査をした上で、丁寧に対応させていただいているという風に思っておりますけども。まぁ事前検閲とかそういうことではないと思いますけど。」(チャンスをいただいたのにフイにする副大臣。でも”私の責任で出す”とかいっちゃうと、松本洋平内閣府副大臣みたいになっちゃうもんねー。大変だね、同情はしないけど。)
「検閲ですよ。具体的には、理財局の国有財産企画課長に、文書の提出を求めると、”与党議員に聞かなきゃなんない。アポが取れずに許可が取れないので、資料の提出は待って欲しい”と私に再三述べてまいりました。またこれ決済文書のですね、一部、これ黒塗りのところだけでもいいから出してくれと、求めると、これは”与党の許可が出ない”と拒否をし続けたわけです。こういうことが起こってるんですよ。国交大臣、国交省でも同じようなことが怒ってるんですよ。このようなあり方は、三権分立を形骸化させるものではないですか。」
「委員が今、同じようなとおっしゃいましたが、同じではないんですね。私どもの職員が、委員とどのような対応をされたか私は承知をしておりません、仮に、そのー与党議員の云々と発言したとするならば、その発言の趣旨はおそらく、要求された資料を公表するかしないかが、理事会協議事項となっている場合に、資料公表にあたり、関係する委員の皆様に説明する必要があることを申し上げたのかと思います」
「理事会協議以外の資料もそういって出してこなかったんですよ。この間、私はレクの中でですね、貸付料の滞納があるんではないかということを聞いてまいりました。これ理事会の協議にも予算委員会でもなってないですよ。これ与党の許可がないから出せないんだ、こういうこと言っていたのは国交省なんですよ。これ大臣知らないんですか。局長どうですか」
「貸付料の件ですが、日時は覚えておりませんが、委員がご質問される前日のレクの際に、提出をさせていただいたと記憶してございます。」
「私が提出を求めてから2週間も、3週間も提出してこなかったのは国交省なんですよ。それで質問する前日になってやっと出してきたんですよ。こういうことがね、森友問題では起こってるんですよ、これね、与党が行政機関と一緒になって森友疑惑を隠蔽すると、こういうことですよ。これ、絶対許せないと。事前検閲絶対許せないと申し上げて、私の質問を終わります。」
いや大塚さんの言ってることは官僚の行動原理はちゃんと説明してて、「政治的な問題」(マルセイ案件というらしいですが)を官僚が許可なく野党に出すことをビビッて忖度してるか、与党が命じてるか知らんけど、まぁ実情は把握されてんだろうねぇ。