日本国民の「右傾化」が叫ばれて久しい。現政権は「保守政権」と自称している。
なるほど、保守。たしかにそのネオナショナリズムは過去に立ち戻るような考え方のように映る。
しかしながら私はこの保守、あるいはネオナショナリストこそ日本国において最も急進的で未来に希望を託している人種なのでは無いかと思えてならない。
現代日本はさながらラピュタのようだ。我々の足元には確たる基盤がなく、ゆらゆらと宙に浮いている。それには様々な原因があるだろうが、今回は三つの思想的敗北によるということで話を進めていく。
まず、第二次世界大戦の敗戦がある。明治以来国民を支配してきた全体主義・国粋主義が間違いであったことを身を以て知った我々は頼るべきイデオロギーを失った。1回目の敗北である。
次に我々が依拠せんとしたのは共産主義である。ソ連や他の共産国の秘密主義のためにその惨状を知らない日本人は共産主義的桃源郷に夢を馳せた。東大闘争に始まったこの熱は日本中をのぼせ上らせたが、セクト間争い、連合赤軍、そしてソ連の崩壊と暗黒面が目につき、我々は夢から醒めた。
バブル崩壊。アメリカ式資本主義は敗戦からずっと生き残り続けた。奇跡の復興、宗主国アメリカのど真ん中の大きなビルを買えるくらい、日本は資本主義化において成功を収める。しかしそれは文字通り膨らんで行く泡であり、遂には弾け、資本主義さえも信じられなくなった。
無主義・無思想・無宗教の日本に残されたものは、敗戦国という烙印と無機質なハコモノだけであった。今までならば誇るべき別の点のお陰でさほど気にしないで入られた「戦後レジーム」が今更になって癪に触る。
こうしたアイデンティティの喪失によって創り上げられたのがネオ・ナショナリズムである。
先に「ネオナショナリズムは過去に立ち戻るような考え方のように映る」と書いた。しかし歴史上どこに立ち戻るべき過去があるというのか?日本帝国の政治体制が戦禍を巻き起こし(彼らが全てアメリカの陰謀であると主張したところで同じことである。米国にまんまとしてやられ冷静さを失う体制のどこが間違っていないというのか)、華々しい経済も泡沫と消えた。立ち戻るべき場所は本来どこにも無い。では彼らはどうするか?
美しい日本、日本帝国の真実。書店に立ち寄れば過去を美化している本が並んでいる。しかし彼らの言葉の指す「かつての日本」は過去をベースとしたファンタジーなのである。
かの有名な江戸しぐさを思い出して欲しい。教科書にも掲載されたデマであるが、あれは全く過去をベースとしたファンタジーである。いわばベイマックスのフランシストーキョーや銀魂の大江戸のような「そうであったかもしれない日本」の姿であり、それは過去に存在していない以上幻想以外の何者でも無い。
当たり前の話だが、戦前の日本を知るものはもはや生きていない。戦争の怖さは子供にもわかるだろうが、怖い社会を感ずるためにはある程度の年齢が必要だから。誰も知らない、ということは現在の我々が過去を思う時、そのほとんどは幻想に頼るしかないということである。モニターの奥の二次元世界となんら変わらない。現在と過去との間には次元を隔てる障害があり、こちらからあちらへは干渉できない。
たしかにアニメのネオ日本は格好がいい。しかしそれを現実で語ればアニメ脳、ゲーム脳と言われるのがオチだろう。同じようなことをやっているのがまさにネオナショナリスト達なのである。
ネオナショナリストは現時点での閉塞感を解消するためにカッコいい幻想を過去に投影した。そして「これに戻るのだ」と主張しながら未来を作ろうとする。
結果、彼らは前しか向いていない。過去を省みてはいないではないか。これがいわゆる保守こそが進歩的な人たちだという理由である。
私は右傾化を否定も肯定もしない。戦後から不安定さの解決のために右往左往してきた日本人を思えば、当然の帰結だろうと思う。お粗末な思想、主張だが、日本国民がそれを望むのであれば、それも良かろうと思っている。なに、高い授業料になったって構いやしない。
ただ、一つだけ加えておきたいことがある。私は先程からネオナショナリストの思想の根本は幻想、ファンタジー、アニメ的だと主張してきた。幻想、現実ではない、ありえないものなのである。つまりは霊的なもの、神的なもの、呪い的なもの、それらと変わりないオカルティズムだ。オカルトによって国が動くのだとしたら、あなたは怖いと思うだろうか、素晴らしいと思うのだろうか、それを尋ねてこの紙片にピリオドを打ちたい。