はてなキーワード: 反体制とは
この程度のことを「反体制」と大袈裟に受け取るほうが古臭い反左翼主義って感じがするなあ。
これは流行らない、と直感的に思った。流行ったとしても一時的なブームになってあとはカルト化するだろう。
マストドンは「あなたの会話が一つの会社によって独占されるのを防」ぐと書いているが、どことも分からない一個人に管理させるほうが危ないだろう。
上場している公開企業と名前も顔も知らない一個人、どっちに管理してほしいかと言えば、圧倒的に前者だろう。
これほど素朴に「反体制」「反権威主義」を謳ったサービスは久しぶりに見た。大きな組織は何でも悪だという古臭い左翼思想に根付いており、サービス全体からとても思想性を感じる。
一昔前の左翼の単純化された世界観(組織は悪で個人は善)はとうに通用せず、リゾーム化し、何が悪で何が善かわからない世界に突入して四半世紀近く経っているのに、これはいただけない。
原始インターネット的とも言えるが、ずいぶんと古臭い思想を掲げたWebサービスが出てきたものだ、と感心した。ドイツ発というのもそれっぽい。
次に狙われるのは金正男の息子、漢卒だと噂されている。
曰く有名な大学を経てエリートコースを進み、民主主義を好んでいるという。
金正男同様、脱北者が作る暫定政府の若き指導者として担ぎ上げられることを金正恩は警戒しているらしい。
これだけでも下手な小説や映画を遥かに超える大河スペクタクル。
それを海を挟んだ特等席から見学できるのだから日本人は堪ったものではない。
三男が金正恩。
今回正男が暗殺されたが、残る正哲はどこに行ってしまったのか。
どうやら音楽やら趣味やらに没頭して政争には関心がなく、結果として正恩に後継者争いに影響なしと判断されて軟禁されている。
手元には1本のギターがあるだけ。
その時目覚めるのだ。
彼を支えるのは息を潜めていた反正恩派の幹部たちだ。
処刑された張成沢派の残党も金正男亡き今手を貸すかもしれない。
彼らは蜂起する。
好機は今と脱北者の暫定政府を中国の後押しのもと打ち立てるに違いない。
内外同時に起こった大きな流れに金正恩は抗いきれず、遂に北朝鮮に革命が起きるのだ。
そんな妄想をグッドモーニングのお天気お兄さんである依田さんを見つめながら歯を磨いているときにぼーっと考えていた。
今週もあと一日だ。
https://twitter.com/goeland_argente/status/825881166334996481
Cinq idées reçues sur le “nouveau” Front national
フランス語はそんな上手くないし、フランスの政治には全然詳しくないのでひどい訳です。
どんどん誤りを指摘してください。補足してください。何ならもっといい翻訳をつくってください。
*****
モンペリエ大学とパリ政治学院の政治科学の助教授であるアレクサンドル・デゼは、『問題になっている「新しい国民前線」』の中で、ステレオタイプに反して、国民戦線については、新しい点よりも昔から変わらない点の方がはるかに重要であることを示した。
2014年の選挙での国民戦線の戦績が良くなったことは否定すべくもない。しかしながら、そのことを過大評価してはならない。アレクサンドル・デゼは次のことを思い出すように促す。地方選挙において、国家的レベルと結びつけて考えるなら、1995年のときのように、票の4.7%しか獲得していない。これらの結果を、2012年の大統領選挙の時の人口10000人以上の都市におけるマリーヌ・ル・ペンの結果と比較してみよう。そうすると、今回の地方選挙の結果は、票数に関してはいくらか劣っているものだと言える。ヨーロッパ選挙に関していえば、かつて聞かれたように、29.4%のフランス人が国民戦線に投票したのではない。棄権を考慮に入れるならば、有権者の10%だけである。
奇妙にも、県の選挙の結果は、彼らの前進を示している。ただ、世論調査での高い予想のせいで、この結果は過小評価されている。国民戦線の候補者は43の県で1位であり、1107の小郡(canton)で、降りずに留まっている。
これらの結果というのは、国民戦線を彼らのスローガン通りの「フランスの第一党」とするには不十分なものである。アレクサンドル・デゼは、国民戦線の存在感というのは、市町村レベルでは副次的なものであり、地域圏(1880人の議員のうち118人、議長は1人もいない)・県(4108人の議員のうち62人、議長は1人もいない)・国会(577人の代議士のうち2人)のいずれのレベルでも甚だ不完全なものである。党員の数について言えば、国民戦線には42000人の活動家がいるが、その数は依然共和党と社会党よりも少ない。
2011年1月にマリーヌ・ルペンが国民戦線の党首に選ばれてから、「脱悪役(dédiabolisation)」という戦略が実行されるようになってから、エリゼ宮(※大統領官邸)への道のりは既に引かれたのだ、という声がしばしば聞かれるようになった。しかし、全くそうではない、とアレクサンドル・デゼは静観している。「この読みはメディアの大多数によって共同でつくられ引き継がれたことによって認められているのだから、政治的なフィクションの領域に属するような話である。」
国民戦線は、国政の責任者に至るまでには、おそろしいほどに枠組みを欠いている。他の党との「融和」を誇示するような最近のいくつかの手がかりのうち、いくつかはあまりに短い間であったし、あるいは、内部で問題視されていた。さらに、権力の扉は国民戦線に対して無情にも閉じられたままであるだろう。選挙制度上の理由で、今まさにそうであるように、国民戦線は政治的に孤立したままでいるだろう。「この孤立は、2回に分けての多数決投票が影響力をもつ政治システムのうちでは、権力への道を妨げる最大の障害物になる。」
国民戦線は他の党と同じような党になったのだろうか? マリーヌ・ル・ペンによってなされた刷新というのは、本当に党の顔を変えてしまったのだろうか? アレクサンドル・デゼによれば、これらの疑問への答えは改めて否定的なものである。マリーヌ・ル・ペンの就任の前と後での国民戦線の戦略、プログラムとその支持者を比較して語るところでは、「マリーヌの国民先生とルペンの国民戦線の間には、新しくなったところよりも十分多くの変わらないところが多い」のである。脱悪役? 国民戦線の歴史は、絶え間なく更新される脱悪役の試みの歴史である。したがって、右派へと国民戦線が差し出す手のうちに、あるいは、立派な風貌を打ちだすことによって新しい支持者を集めているとされている周辺的なさまざまな手段のうちに、新しいものは何もないのである。
プログラムに関していえば、国民戦線は常に自らの基礎に立脚している。反体制的批判、国家の特恵、国家の防衛、欧州連合の拒否、ユーロ圏からの離脱、失業と不安の原因と見なした上での移住の拒否である。反リベラルへの再定位は1992年に遡るが、マリーヌ・ル・ペンの社会的な演説は、連続性を担っている。
リーダーシップに関して言うと、マリーヌ・ル・ペンは、彼女の父親のイメージとの対照によってそのメディア上のイメージが形作られている。「このような対照性が推測されていることは、国民戦線に新しく投票するようになった人が、自らの投票を正当化するために持ち出されるような、最先端の議論になっている」とアレクサンドル・デゼは語る。しかしながら、言説における一連の相同性や、マリーヌ・ル・ペンが自分の父親について反対を示さなかった機会を列挙するこの研究者によれば、マリーヌ・ル・ペンと彼女の父親との差は、思われているよりも微々たるものである。例えば、2014年5月に父ルペンが「エボラ殿下」の介入が「人口爆発」と移民の問題を解決しうると主張した時、あるいは、彼が2015年1月に「私はシャルリーではない。私はCharlie Martel(※イスラム教徒のヨーロッパへの進出をイベリア半島までで食い止めた8世紀フランク王国の王)だ」といったとき。これらはいずれも、議員の免責特権の恩恵を被ることはなかった(「人種的憎悪の扇動」として彼女を追及することは、現在進行系で行われている)
最後に、その組織図に関して、「粛清」という幻影を生み出しながら、党によって過激すぎると判断された特定の諸個人を排除した。しかしながら、アレクサンドル・デゼが述べるところでは、「国民戦線は過激な極右のグループや活動家たちと、緊密な関係を維持している。」コゴラン市(Cogolin)の国民戦線の市長は、GI(Génération identitaire)の共同創設者であるジュリアン・ランゲラ(Julien Langella)を広報担当として2014年に起用した。ボーケール(Beaucaire)の国民戦線の市長は、GIのスポークスマンであるダミアン・リュー(Damien Rieu)を、市の広報部長補佐として任命した。二つの例を挙げれば十分だろう。
時間もたって落ち着いた感もあるので。
フジロックで昨年、シールズがトークショーに参加したことで批判を浴びた。
という批判だった。
その際にメディアで盛んに主張されたのが
という文脈を無視して(あるいは知らずに)政治との関わりを絶つというのはネトウヨ或いは無知蒙昧な馬鹿である。
と言う主張だ。
※ちょっと語気荒いけど、大体こんな感じだったと思う。
私はこの類の主張を目にして、言っている内容は筋道が通っているけどもやはり少しずれているなとも思った。
というより、今の音楽界隈に対する不満や足りない点が見えてきたというところだろうか。
・トークテーマは「参院選を振り返る。安保法制、沖縄、憲法、原発」
ちなみにアトミック・カフェというのは以下のようなイベントである。
アトミック・カフェ・フェスティバル(ACF)は、映画『アトミック・カフェ』の上映運動に由来するフェスティバルであり、日本で1984年に開始した。
「音楽を通じて反核・脱原発を訴えていく」がテーマのイベントで、1980年代には加藤登紀子、浜田省吾、宇崎竜童、尾崎豊、ザ・ブルーハーツ、ルースターズ、エコーズ、BOØWYらが出演していた。1984年に日比谷野外大音楽堂で開催された第1回目のライブでは、尾崎豊が高さ7メートルの照明から飛び降り左足を骨折するも、ステージに這いつくばりながら「Scrambling Rock'n'Roll」を最後まで歌い続けたという有名なエピソードが残っている。1980年代の最後の開催は1987年であった。
2011年のフジロック・フェスティバルでアトミック・カフェ・フェスティバルは復活した。フジロックでの開催場所はバイオディーゼル燃料や太陽光などを電源に使用するNew Power Gear Field/AVALONエリアにあるGYPSY AVALONステージとNGOヴィレッジの2か所。
ロックフェスティバルで、このようなイベントをするのはロックが政治と密接に関わってきたからでもある。
ヒッピー文化とかカウンタカルチャーとかまぁざっくり説明するくらいでもはてな民ならなんとなくはわかるだろう。
※というか俺もそれほど詳しくないし。
ロックの曲自体に反体制的メッセージが直接なくても社会的盛り上がりから、そういう文脈があるとか
まぁそういう感じだ。
ここからが本題だが、上記のような事情を知った上で違和感を感じたことが2点ある。
②安保、沖縄、反核・脱原発というトークショーのテーマの妥当性
そもそも今のロックはそんなに反体制的なの?という疑問点がまずある。
詳しく調べればまぁ、まず政治的なメッセージの込められた歌はあるだろう。
しかしながら反核・脱原発を訴えた曲がそこまで多いのかといわれればぶっちゃけそんなイメージは全然ない。
2016年のフジロックで反核・脱原発系と解釈できる曲があるのであれば教えて欲しい。※一応補足しとくと1曲、2曲程度の話ではなくここで言いたいのはフェス全体の傾向である。
つまり、現在のロック界の表現している内容とトークショーの内容があまりに乖離しすぎではないのかということだ。
アジカンの後藤さんはTwitterで以下のような発言をしていた。
あとすんごい不思議なの、俺、ほとんどライブのMCで政治の話しないんだけど(NO NUKESとかのフェスを除く)、さもしてるような感じで絡んでくる(妄想してる)人が絶えないこと。大体そんな感じで、来たこともない人たち、本やTFTを読んでくれなひとたちだけが、そういうことを言うのよ。
正直この発言を見てずっこけた。
そりゃ客も面食らうわ。
なんかイキナリ「実は政治的メッセージあんのよね」的な感じになってしまう。
10台の客捕まえて、「俺達は政治的な発言しないけど、過去の人はしてきたからロックは反体制」
とか言われてもえぇぇ!?と言う感じになる。
今のロックの雰囲気みてるととても反原発的な話をするかんじではない。
そしてもう一点気になったのが以下である。
正直、安保、沖縄、反核・脱原発というテーマはやっぱ乖離しすぎじゃね?
と思うわけだ。
「この世界の片隅に」で植民地に関する議論、あるいは軍部どうたらとか、あるいは市井の人の生活について語る
とかならまぁわかる。
というのもまぁわかる。
そんなに好きじゃないけど。
「シン・ゴジラ」と「君の名は。」と「聲の形」と「この世界の片隅に」で「ルワンダ虐殺を語る」くらいに違和感があるわけだ。
いや、そりゃまぁ戦争だし、日本軍も虐殺したけどねって感じだ。
どうにも、そういう「あまりにも飛躍しすぎである」感がアトミックカフェからはぬぐえないのだ。
と言いたくなるのはわかるのだがなんか批評のレベルが50年前走ってねぇかと思うわけである。
と言うわけで反体制的であることをちゃんと今の人達に広く伝えるには今のロック歌手も定期的に政治的なお話をして
また、周囲もちゃんと批評も行ってレベルを高めるべきだと思う。
正直時間も立ちすぎてロックそのものが反体制であるというのは無理が出てきている。
そんな状況ではロックは存在そのものが反体制とは安易には主張できない。
ったく上の世代の奴らは「恋愛しないヤツは人として~」とかマウンティングかましやがるからムカつくですぅ腹立つですぅギリギリギリギリギリ
(どうでもいいけど「ったく」とタイプるとき「たっく」って打ってしまうの俺だけ?)
しかもこの人らそもそも自分が「マウンティングしてる」とすら思ってないんだから激おこムカチャックノリスですぅ!んぁぁぁぁぁ!
あなたたち「恋愛」について連想するのが「改革」「反抑圧」「反体制」と連想してるんでしょ?ねえそうなんでしょ?
それふっるーいでっすから!ふるふっるぅぅぅっぅぅぅぅぅぅぅぅ!
一体いつまでロミジュリカンイチオミヤのごとく大迷惑気分だってーのよ!
ほんっと未だに恋愛を「抑圧からの解放」と思ってヒロイックに酔ってんじゃねーよベロベロ野郎!
あのねぇ、恋愛は今や「恋愛」は「抑圧」側になってしまったんだよ!(な、なんだってー!?
恋愛はむしろ「保守」「体制」となってしまったんだよ!(ななななんだってー!?
1月1日 - イスラエル中部テルアビブで銃乱射が発生、9人が死傷
1月12日 - トルコ・イスタンブールで爆発、10人が死亡、トルコ政府はISILによる自爆テロとの見解
1月14日 - インドネシア・ジャカルタのテロ・銃撃戦、被疑者はISILと関連
1月16日 - 2016年中華民国総統選挙、民進党の蔡英文が当選
1月30日 - シリアの首都ダマスカスで爆発、45人が死亡、100人以上が負傷、ISILが犯行声明
2月20日 - アメリカミシガン州で無差別発砲の銃撃事件、5人が死亡
3月20日 - アメリカ合衆国大統領バラク・オバマがキューバを訪問
5月9日 - フィリピン大統領選挙、ドゥテルテ当選(→麻薬戦争、8月までに1000人以上死亡)
5月27日 - バラク・オバマが現職アメリカ合衆国大統領として初めて広島市を訪問
6月12日 - アメリカ・フロリダ州で銃乱射事件、50人が死亡、ISIL系のサイトで犯行声明
6月23日 - イギリスで欧州連合離脱是非の国民投票、欧州連合 (EU) 離脱支持票が過半数を占める結果
6月25日 - アジアインフラ投資銀行の第1回年次総会
6月28日 - トルコ・イスタンブールの空港でテロ、死者36名、負傷者140名
7月1日 - バングラデシュの首都ダッカにて、武装集団による襲撃・人質立てこもり事件、死者28人、負傷者50人、ISIL系のメディアが犯行を認める声明
7月3日 - バグダードのカッラーダ地区の繁華街で爆弾を積んだ冷蔵トラックが爆発、200人以上の犠牲者
7月7日 - アメリカで5日と6日、警官に黒人男性が射殺されるケースが相次ぎ、全米で抗議活動が広がる中、テキサス州ダラスで7日夜、デモ警戒中の警察官5人が射殺される事件が発生
7月10日 - 日本で第24回参議院議員通常選挙、自公連立与党は合計70議席を獲得し勝利
7月12日 - (南シナ海に関して)フィリピンが「中国の主張は国際法違反」と訴えた仲裁裁判で違反判決(→中国はそれに従わず)
7月14日 - フランスの南部・ニーストラックテロ事件、84人が死亡、202人の負傷者、ISILの関連性
7月15日〜16日 - トルコで軍の一部によるクーデターが発生、未遂ながら200人を超える死者
7月17日 - アメリカルイジアナ州バトンルージュで警察官が銃撃を受け3人が死亡、3人が負傷
7月22日 - ドイツ・ミュンヘン銃撃事件が発生。犯人を含み10人が死亡
7月26日 - 日本で相模原障害者施設殺傷事件が発生。19人が死亡
8月8日 - 日本の天皇が生前退位問題に対してのお気持ちをビデオメッセージで発表
9月4日 - 香港にて第六回立法会議員総選挙、親中派は40議席、非親中派は30議席
9月14日 - 内戦が続くシリアで、米国とロシアの仲介によって、アサド政権と反体制派の停戦が発効
9月15日 - 4ヶ月で大学を中退し起業します。レールに沿ったつまらない人生はもう嫌だ。
9月17日 - 2016年マンハッタン爆発事件が発生、負傷者25人
10月17日 - イラクのハイダル・アル=アバーディ首相はISILに占拠された北部の都市モスルの奪還作戦を開始と発表
11月9日 - アメリカ合衆国大統領選挙、共和党のドナルド・トランプが民主党のヒラリー・クリントンを退けて当選
12月15日 - 日本の安倍晋三首相とロシアのウラジーミル・プーチン大統領が、山口県長門市で日露首脳会談
12月18日 - ヨルダンで武装集団が警官襲撃 観光客ら10人死亡
12月19日 - ドイツのベルリンで行われていたクリスマスマーケットにトラックが突入、多数の死傷者
12月19日 - ロシアの駐トルコ大使がアンカラでトルコ人警察官に銃撃され死亡
12月19日 - スイス・チューリヒでイスラム教関連設備に侵入した男が機関銃を発砲し3人が負傷
12月22日 - シリア政権は反体制派が拠点としてきた要衝アレッポを完全制圧したと発表
過不足の指摘などいただければ。
【追記】タイトルは引用記事に対してふと思っただけで、本筋じゃないです。文中の戯れ言と相まって過剰反応されたので、戯れ言は末尾におく構成に変えてみた。【追記終わり】
2016年の流行語トップ10に入ってしまいましたね、この言葉。そして、予定通りの賛否両論が再燃。
例えば、こんな感じで。
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12363503/
【以下、末尾の戯れ言へ移動。】
でもこれって結局、件の言葉への賛否に基づいてポジショントークしてるだけじゃないかと。もっというと、その言葉を支持してきた人が必死に援護してるだけの構図にみえてしまった。。
しかし、日本死ねに賛成してた人でも、流行語大賞には「えっ!?」ていう人も多いのが、今回は少し違うのかなと。
もちろん受賞者選定への賛否の話とかもあるけど、まずは、言葉そのものへの賛否から【追記】今回の流行語大賞トップ10に対する賛否両論までの状況を【追記終わり】整理してみたくなったので、勝手にしてみた。
保育園落ちた日本死ねという言葉に対して、賛成反対の理由を考えると、思いついただけでも本当に様々。
〈賛成〉
〈反対〉
これだけ色々な理由を賛否両論の一言で物知り顔コメントするのはいくらなんでも乱暴でしょうと。
特に、賛成している人の中にも、問題提起としてありだから賛成、でも、表現として不適切だという人がいるということは重要。例えば、上でいう、表現は別の人、支持派評論家の一部なんかが、それ。
まとめると、日本死ねに賛成する人も一枚岩ではないということ。
なお、斜めから見ると、その提起した内容が反対し難いために、過激で汚い言葉も受け入れさせた一方、その表現からしっかり反対派も焚き付けて、政治利用までつなげた、非常に優れた炎上マーケティングなんじゃないかなと。受賞者がどこから関わったかは知らんけど。
そういう背景を踏まえると、問題提起として日本死ねに賛成してた人でも、流行語大賞トップ10入りです、おめでとうございます!とか言われると、「えっ!?」てなる人出てきますよ、そりゃ。
一方、支持派評論家としては、今まで散々、賛成意見を論じてたわけで、今更、「流行語大賞は別」とは言い出しづらいんじゃないかと。
かといって、「死ねとか子供に聞かせたくない」という親の意見を無下にはできないと。
そうなると、評論家の腕の見せどころですよね。いやいや解釈が違うんだと。あれは比喩表現なんだと。て、ならねーわ!
個人的には、表現が汚いことを真正面から認めちゃって、「ゲス不倫」なんて汚い言葉選ぶような賞なんだし、そんな権威づいたもんじゃないんだと、単に、話題になったワード選んで世相を表してるだけなんだと言っちゃえと思うけど、メリットもなく選考委員に喧嘩売るわけないか。
で、ここからさらに、日本死ね賛成派から造反者がでます。それが、受賞者の話。
匿名ブログなのに、「何で受賞者なしじゃダメなんですか?」と党首の伝家の宝刀はブーメランだったのかと。
例えば、表現は悪いけど世相を表してるし、しょーがないんじゃないと思ってた穏健派だって、政治色打ち出されたら違和感抱くの無理ないでしょ。あくまで世相を反映した言葉であって、それにかこつけて国会にもちこんだあんたはお門違いだろ!と。
まぁ、単にアンチの多い政党であるため向かい風参考レベルの逆風というのも否めないし、ネトウヨなら‥、おや、誰か来たようだ。
そもそも死を望むことや死を命じる言葉が比喩として成り立つとは思いもよらなかったわー【追記】←はただの勘違いだったか、タイトル変えよ【追記終わり】。何なら、某元アナウンサーにも、「泣くなら殺せ」も比喩にすぎないんだと、援護してほしかったのにー。
【追記】こちらも本当に殺せという意味でないとの発言者の意図からすれば比喩になるけど、擬人法使ってないからダメとか怒られるの?【追記終わり】
おしまい。
昨日の恋愛面倒やねん特集にて「いや人としてちゃんと恋愛しろよ」という、
恋愛至上主義オッサンオバハンの多さにもうウンザリウンザリウンザリガニである。
恋愛している若者ですら「恋愛は必須なものではない」という意識はあるというのに、ホントなんなんだこのギャップは。
(まあ、だからこそ、逆説的にマイノリティな非モテのオッサンオバハンは生きづらいのだろうけど)
やっぱあれだよ、恋愛至上主義おっさんおばはんは恋愛を自分が若者だった時の感覚で
「改革」「反抑圧」「反体制」と思ってんだから困るんだよ。こまっちゃうナ☆(リンダ風に
長年恋愛文化とはロミジュリカンイチオミヤのごとく大迷惑な抑圧からの救いたり得るものな筈だったのだが、
今となってはもはや逆に抑圧する側となっているのだよ!(な、なんだってー!?
恋愛はむしろ保守主義側となってしまったんだよ!(ななななんだってー!?
もういい加減あなたたちの恋愛しろ恋愛しろコールにこちとら辟易なんです。いい加減にしてほしいです。
はっきり言って恋愛とは、キラキラしたものなので気づきづらいけど、その内実は非常に体育会系マッチョイズムしばきあげ主義と親和性が高いんです。
(いや、外面がキラキラするほど内実はドロドロする、と言うべきか)
肉体的な意味ではなく、精神的な意味、コミュ能力的な意味で体育会系。
普段マッチョイズム的なものを忌み嫌っている人でも、こと「恋愛」となると言うことはマッチョイズム的になってきやがります。
ひたすら努力努力努力。諦めようとすると「ちゃんとやること全部やったのか」とかアリバイとして無限の努力を要求してきます。
(あるいは「人間的未成熟」から来るマウンティングをかましてくる)
それこそ上記のように「反抑圧」なら恋愛をやろうって気になろうってもんなんですが、
「抑圧」側となってしまった恋愛をやろうとは思えんのです。思えんのだよ!分かるかこのニュータイプの出来損ないめ!?
これ実際はどうかしら
少なくとも戦中作品で「すぐ」に「戦争はよくない」というメッセージが出て来るようなイメージは自分にゃない。
朝ドラなんかも同じように批判されてるのよく見るけど、それだって主人公の気持ちの描写は最初はだいたい何とも思ってないか何となく肯定してるところから、身近な者が戦地行ったり物品を供出させられたりして「あれ?戦争ってもしかして」と不安感覚えて、空襲激しくなったり身内が戦死するようになって「戦争はよくない」という結論に行き着く。唐突ではないでしょ。
アメリカで起きたことを冷静に分析するとか、日本の状況にてらして考えるならわかるんだけど
意識高い人たちが心から残念そうにしてるのを見て「お前アメリカ人だっけ?」と思った
なんだ、リベラルにも主体性なんてないんじゃないか。アメリカリベラルのポチじゃないか
昭和安保闘争までのアカをルーツにする人たち(共産党、および分裂した過激な人たち)と
1970年のロックでリベラルなアメリカの幻想を追いかける名誉ニューヨーカーみたいな奴らに分類できるということだ
あの人達は結局日本という国をニューヨークにしたいだけの人たちなんだろうし
あまり支持が集まらないのはしょうがないんじゃないかなあと思う
本当に日本のことを見ていたら、アメリカを見て嘆いたり、自分たちの存続に危機感をおぼえるんじゃなくて
「自分たちは日本人の不満を掬えるだろうか。どうやって解決できるだろうか」と考えるだろう
エコグラムという言葉が出てたのでGoogleさんで検索して一番上に出たサイトでテストしてみた
こちら
http://www.egogram-f.jp/seikaku/
結果
貴方は社会の規則や常識などと云うものに、殆ど縛られないタイプです。考え方が非常に革新的と云うか、無責任と云うか、とにかく反体制派有る事だけは間違い有りません。又、周りの人々の動向を余り気にしないタイプで、自分に対する批判なども、全て柳に風と受け流すタイプです。考え方や行動は、徹底した合理主義者で、どんな事態に直面しても、それらを割り切った考え方で、躊躇(ちゅうちょ)する事無く、処理出来るタイプです。完全なマイペース主義者で、自分の生きたい様に生きる事をモットーに、全ての柵(しがらみ)を振り切って、自分の人生を少し離れた所から、鳥瞰(ちょうかん)している様な傾向の強いタイプで有ると云えます。
計算高く、分析力、判断力に長けて居ますので、反体制的なマイペース主義者で有るにも関わらず、恋愛や結婚は、かなり常識的な線に落ち着く可能性が高いでしょう。しかし貴方は、もともとブレーキ装置の欠けたタイプなので配偶者次第では、糸の切れた凧の様になる可能性も否定出来ません。配偶者に対しては、
約束を守る事
責任を果す事
妥協を忘れない事
の三つが特に注意すべき点でしょう。
職業適性
重い責任や使命を課せられる様な仕事は全く不向きですし、常に人の顔色や態度を見て、臨機応変な対応を迫られる様な職業も、避けた方が無難です。故に警察官、刑務官、検事、判事、弁護士など治安関係公務員や法律家。サービス業、秘書、事業家などは全て不適正でしょう。性格的に無難と思える職業は、学者、エンジニア、コンピュータ技術者、各種の技術士、その他でしょう。
対人関係
ややもすると、遁世の傾向がありますし、それ程で無くとも、我関せずと云う個人主義、孤立主義の色合いが強まって行きそうな傾向が有りますので、そこの所を適当に調整する必要が有るでしょう。
シン・ゴジラを中国人の友達、28歳♂(日本の大学で学位取得後、仕事も日本で見つけて働いている)と一緒に見に行った。
俺にとっては2回目の鑑賞、彼にとっては初見だったが、めちゃくちゃはまったらしく、結局、もう一回みることに。
その後、お茶しながら、彼がいろいろと感想を語ってくれたのだが、興味深かったので書き残しておく。
(※彼の承諾はうけています)
1. ゴジラ怖すぎ、強すぎ
レジェンダリー版のゴジラは見たことがあるという友人。あらゆる武器がほぼ無効なシン・ゴジラに絶望感しか感じなかったとのこと。
(個人的には、レジェンダリー版の方が防御力最強のような気もするが。ま、撃ってみなければ分からないが)
2. けど、日本語早すぎて聞き取れない箇所多数
1回目の鑑賞では流れを追うことも出来なかったぽい。ヘリコプターのシーンの意味が分かったのは2回目で、ようやくありえないことが起こっていることがわかったとのこと。
あんなシーン、中国では作れるはずがないし、たぶんハリウッドでもなさそう。やはり日本人はどこかおかしいとのこと。
自衛隊の士気の高さ、統率の取れ方、精確な攻撃に驚いたとのこと。おそらく建国期・朝鮮戦争辺りの中国も、少なくとも士気の高さでは日本には劣らないはずだが、
それ以外の点では劣る要素しかないのではと思った。というより、映画で思ったのは、もし上海とかにゴジラがやってきたらどうなるかということ。
自衛隊なら映画と同じように守ってくれそうだが、たぶん、中国ではそう上手くいかない。そして、なによりも、アメリカとか他国が助けてくれない。
この点に打ちひしがれたとのこと
はじめの長ったらしい閣議と後手後手の対応は日本人も風刺をするのだなと思ったが、それがそのうちに無くなり、洗練され挙国一致になる様は驚かされたとのこと。
政治家の権力争いも特に無く、住民も素直に誘導に従っている。非常事態に際して、なぜ政府を信頼し続けられるのか。欧米・日本の映画で空気のように当たり前に描かれる
シン・ゴジラは、東京が破壊されるので、一見、中国政府好みのようだが、公開を許すと徐々に反体制派の聖典的な扱いになりかねないのではとのこと。
幸いシン・ゴジラは、かなり暴力的なので当局はそれを理由に上映禁止にできるので、たぶんそうしたほうがいいんじゃないかとも言っていた。
その他、石原さとみが上院議員の娘なのに柄悪すぎて笑ったとか、次の首都は福岡なのか?とかも話にあがった。
なんか、僕が知らないだけでいろいろと間違っていることも多いような気もするけど、知日派のお隣の外国人の感想のひとつとしては面白いのかなと思って書かせていただきました。
シン・ゴジラの作戦名どっかできいたことあるけどなんだっけとおもって、でもしらべるのめんどうで放置していたら、ちょうど今読んでいる本で、その由来を確認して、もーそっから色々妄想がとまらなくなり、深読みをしたくなりまくってしまったので書きます。途中までは、あんのさんのゴジラの作戦名とかに仕込んだ神話ネタの説明。途中からはちまたにあふれるエヴァの超解読本ぐらい怪しい俺の推測。でもまあこういうの含めて盛り上がるのがあんのさくひんだよなとおもうので様式美としてひさしぶりに長文かきます。結論だけかくと、一見くそつまらない勧善懲悪にみえるのだけど、今回もちゃんとあんのさんてきひねくれた映画だったのだろうということです
まずシン・ゴジラ、構造として、わりと愚直なまでにスサノオのヤマタノオロチ退治の神話をなぞっています。誰でも気づくのが、ヤシオリ作戦はヤマタノオロチに眠らせるために飲ませる酒の名前、はしご車の名前であるアマノハバキリはスサノオが使った剣の名前ってとこです。この2つで明確にヤマタノオロチ神話をなぞっていることを示しています。
ということはゴジラはヤマタノオロチということになるわけですかね。ゴジラは原作では恐竜のミュータント、つまり龍です。龍と蛇は限りなく近く、概ね同じ存在と見なしていいと思うのでヤマタノオロチ=龍=ゴジラってことでもいいのだけど、やはり微妙に異なる。今作では幼体の姿で4つんばいの状態を見せているところからも蛇としてのゴジラというのも意識させている気がします。尻尾が長いのもその象徴かなと。後常に状況に応じて進化するのは蛇の脱皮をイメージさせる。だから今作のゴジラはより蛇であり、ヤマタノオロチに近い存在であるとは思います。
そうなると、矢口はスサノオなのか。スサノオの神話は基本構造は貴種流離譚、つまりアマテラスの弟という高貴な血筋をもつものが、本人のか何らかの欠損を理由に追放され試練を乗り越える。矢口は親が力を持った政治家であることが示唆されている。しかし本人の性格は、権威に頼らず上との衝突を辞さず、どちらかというとうとまれる存在。結果、メインストリームから外された専門家集団の責任者になるなどする。まあありがちな設定だが、違和感があるのは親が政治家である設定だ。この流れならはじめからたたき上げの能力戦いがコミュニケーション力低いオタク的性格の主人公でもよかったはずだが(実際アニメだと死ぬほどよくある)、そうしなかったのはスサノオを重ね合わせるための設定かなと思いました。
牧教授の奥さんが、放射能が原因でなくなっているというのは、ヤマタノオロチがこれまですでに八人の乙女を食らってきたという部分に重なる。放射能の象徴がゴジラでもあるからだ。そしてまたヤマタノオロチが暴れ狂うのだと、旅先で出会ったアシナズチという老人はスサノオに告げるのだ。アシナズチは牧教授なのでしょう。もう少し妄想を広げるならクシナダ姫は、日本(出雲に近い広島)の血を引き、過去親族が放射能というヤマタノオロチの被害をうけ、同時に高貴な一族の出(パターソンという名前は、貴族の血筋)であるカヨコかなと。クシナダ姫なら、今回のゴジラに殺されそうになだてるのかというと、そうでもないのがこの説の弱いとこですが、アメリカから核爆弾が落ちるときに、ぎりぎりまで日本にいる選択をしたところで、ゴジラではないが同じ放射能的存在の核爆弾の被害をうけ兼ねないという意味ではまあそういってもいいかなと。
後半になればなるほど、若干強引な結びつけにはなってますが、作戦名ひとつで、まあヤマタノオロチ退治の物語にかけているというのはある程度明らかなのだろうと思います。それはあんのさんがよくやるゲンガクテキになんとなく、物語に深みがあるようにみせかけるためにやっているのかというと、もしかしたらそうじゃないのかなとか思います。ここからは、さらにさらにこじつけになっていく部分が大きくなりますがご容赦ください。妄想です。
まず、事前説明として日本における蛇信仰について説明。蛇は、最も古い信仰だと1 外形が男根相似 2 脱皮による生命の更新 3 一撃にして敵を倒す毒の強さという特徴から世界各地で祖神として崇められていました。時代が移ると、蛇は稲にとって害獣である鼠を食べる特徴から農耕の神という属性が強まったこと、また蛇を邪とし龍を崇める信仰が流れてきたことから祖先神の側面はうすくなり農耕の神の側面がつよくなったのです。
オロチとは、そのまま蛇という意味もありますが、峰の神、山の神という意味もあり、かなり古い蛇信仰の対象といえる名前です。それがまず害をなす存在として描かれる。助けを求め最後に勝つの側のアシナズチという老人はテナズチという配偶者がいます。その足がない、手がない神という名前から彼ら自身も蛇の化身と考えられる。その娘がクシナダ姫。奇稲田の姫と書き、農耕の神を意味し蛇の神の子供であるから、彼女も蛇の神。善とみなされるのは農耕の蛇の神なのです。農耕は中央集権的定住型の社会の象徴、それより古い祖先神は、集権化される前の氏族的共同体の象徴ともいえます。この国は、かつて様々な小さい国が、自分たちの祖先神をもち、乱立し互いに牽制し互酬しあう仕組みでした。稲の神である天皇による大和の支配が確立し日本という形がつくられるようになりました。
つまり、ヤマタノオロチ退治の話は、農耕の神としての現体制の蛇神が高貴な新しい王族の血を引くものといっしょに、出雲を中心とした旧支配者としての蛇を倒す話ともよめます。
今回のゴジラを投影しているのがヤマタノオロチだとすると、それは眠っていた古い戦いの神、すなわち現体制にとっては無秩序をもたらすものなどのイメージを仮託してるのではないでしょうか。一方、総理を中心とした秩序を維持し続けようとする政府側、そこからうとまれながらも、大きな役割を果たす矢口は、当然そうした、ありとあらゆる秩序を破壊しようとする悪を許さない中央集権的社会の体制をイメージされているのでしょう。そして日本の力を政府に結集して、無秩序な純粋な力に打ち勝つ。
ただ、ヤマタノオロチ神話のように、実際に打ち勝つことはできず酒で眠らせたとここておわっているところ、本来ヤマタノオロチのしっぽからは草薙剣がでてくるはずなのに、何かまがまがしい生き物が出てきそうになっている描写、おそらくゴジラの次の進化を、におわせていて、勝負はついていないところを見ると、あんのさんの目線はどちらかというと、ゴジラ側の反体制的、封印された本能の塊のような存在に共感をし続けているようにしか思えます。
実際日本においては、かつて天皇による中央集権化画家たちの上ではなされたとはいえ、現代に至るまで強力にそれが機能したことはなく、困ったときは旧来のお互いの話し合いで解決するというやり方がずっと続いています。氏族的共同体のありかたは死せず、この国に眠り続けています。今回の映画でも、体制側の否定されつつ、賛美もされた特徴として徹底した非合理な合議制があります。そしてトップが死んでもすぐに首のすげ替えがなされる。まさに蛇的なありかた。これがゴジラを倒した最大の理由であるとすれば、あんのさんが、最終的に勝たせて賞賛したのも中央集権的な正義ではなく、日本の体制側のなかにもある蛇的、ゴジラ的な部分だったのではないでしょうか。
今回、怪獣は一匹しかでてないようにみえましたが、じつは今作も怪獣同士の戦いであったのです。ゴジラ vs 日本人。
そう考えると、最初いつものエヴァとかのひねくれた作品とちがって、今回は単なる勧善懲悪映画なのかな、つまんねーなとおもってたりしたのですが、やっぱりそうじゃないひねくれ映画だったのだろうな、いつものあんのさんだっとほっとします。
蛇足ですが(蛇だけに)人間も使徒ほひとりで、進化の形が少し違っただけの怪物であるというのはエヴァとまんまおなじな訳ですよ。そう考えるとゴジラは、アダムであり、尻尾から生み出されるのは使徒なのかも。イメージ的には貼り付けにされたリリスの下半身からにんげんがぽこぽこくっていていたのとおなじなのかも。
ゴジラって、いままでSF定番の行き過ぎた現代科学に対する警鐘としてえがかれてきたかとおもうのですが、そして今回も福島原発のイメージはわかりやすいほどかぶせているとは思うのですが(こちらでも言及されてますね http://anond.hatelabo.jp/20160805000418 )、ヤマタノオロチを持ち出してきたことによって、いままでのような科学の力への警鐘ではなく、また311の反省映画でもなくしているのではないかと。単発の事象に対する象徴的な映画なのではないとおもうのです。この国が根本的に抱え、なおかつ封印している体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望の力強さとその恐ろしさへの警鐘、それと同時にその力は今でも脈々と体制側の中にもすでにとりこまれていてそれを有効に使うこともできるよね、というような話をみせたかったんじゃないかなとかおもいます。ゴジラは死なないよどこまでも、ってかんじで。
あーーーー、妄想がとまらない。とりあえずここまで読んでくれた人ありがとう。ヤマタノオロチの解釈に関しては、たぶん世の中的には主流ではない解釈だと思います。一般的には、川の氾濫の象徴とか、そんな感じでしょう。でもまあこういう解釈の方向性は、いろんな人が出していて(この本とか https://www.amazon.co.jp/dp/B00PS2FK8C/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1)そこ自分で味付けして解釈してみましたというかんじです。
まあ、最初にも書いたけど、こう言うのを考えるのが楽しいのがあんのさくひんだなとおもいました。
http://anond.hatelabo.jp/20160807101757
読み方は(増田も言っている通り)やや(かなり?)牽強付会くさい点もあるけど、面白い読みだとは思った。
ただ、増田の言うことが正しいとして、何で今の時代に「氏族的共同体と中央集権の争い」を描いたの?ってのが気になった。「体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望」が発現した事件とかって最近あったっけ?ISとか?
前提として、巷で言われるように右翼礼賛、共同体万歳的な側面がこの映画にはある。ただ、共同体主義には2種類あると思っていて (1) 国家型(中央集権的) (2) 地域型(地方分権的) がある。
今回は地域型共同体主義に共感している映画だとおもっていて、結果的に国家型を否定するなぞりがあるんじゃないかと。
地域型共同体主義の人にとっては、リベラルのいうような何か理想とする社会を人工的に作るというのはぴんとこない。もっと自然な感情で、近しい人で社会をつくりあげたいとおもっている。しかし、国家というのは大きすぎてぴんとこない。そしてそこにひも付きやすい全体主義的な思考には拒否反応をしめす。そういう思想です。
これって全く特別なイデオロギーではなく、割と普通のネトウヨとかじゃないけど、左翼むかつくとおもっているネットによく人たちの自然な思想だとおもっていて、おとなしめのリベラルちっくなオタクと親和性がたかい。そしてあんのさんもそういう思想を意識的か無意識的かもっているんだろうなと思うのです。だからこういう対立を描いたと。
無秩序への回帰というのはちょっと「現体制にとって」の無秩序であり、ほおっておいても自然に生まれる家族的情愛による秩序への回帰に共感したいというメッセージかもしれないなと思います。