はてなキーワード: イチオとは
なるはず。
「恋愛」とは大昔は「親や権力から勝手に配偶者を決定される被抑圧者」が解放される、
だが現代は違う。
―――しかしそこで起こった悲劇とは「恋愛文化の抑圧化」である。
「恋愛がスタンダード」なものになることにより、どんどん抑圧となってしまったのである(ナ、ナンダッテー!?
前述した「自ら望んだ愛した人間と添い遂げるためのメソッド」が
むしろ「お前自ら望んだ愛した人間と添い遂げられる能力も無いの?プッw」
というマウンティングに有用なメソッドと化してしまったのである。
「恋愛できない人間は人としてどこかおかしい」みたいな輩まで出やがる始末である。
だから「恋愛抑圧」から勝ち抜くために、世に書籍やネット記事で数多ある恋愛教材求められるようになった。
彼彼女らは果たして心の奥底から「愛する人と添い遂げたい!」と思っているのだろうか?
実は「世間的に恋愛できてないとおかしいと思われちゃうから恋愛できるようになりたい…」
というのが本心なのではなかろうか?
恋愛至上主義者は「恋愛は抑圧から自由になるためのリベラルメソッドである」
もうそんな時代とーーーーっくのとうに終わっとるちゅーねん。ええ加減にせいやホンマ。
「恋愛は被抑圧側」
もうこれら古くっせぇ価値観であるんですよ。いい加減アップデートしてくださいよ。
「恋愛は抑圧側」
ったく上の世代の奴らは「恋愛しないヤツは人として~」とかマウンティングかましやがるからムカつくですぅ腹立つですぅギリギリギリギリギリ
(どうでもいいけど「ったく」とタイプるとき「たっく」って打ってしまうの俺だけ?)
しかもこの人らそもそも自分が「マウンティングしてる」とすら思ってないんだから激おこムカチャックノリスですぅ!んぁぁぁぁぁ!
あなたたち「恋愛」について連想するのが「改革」「反抑圧」「反体制」と連想してるんでしょ?ねえそうなんでしょ?
それふっるーいでっすから!ふるふっるぅぅぅっぅぅぅぅぅぅぅぅ!
一体いつまでロミジュリカンイチオミヤのごとく大迷惑気分だってーのよ!
ほんっと未だに恋愛を「抑圧からの解放」と思ってヒロイックに酔ってんじゃねーよベロベロ野郎!
あのねぇ、恋愛は今や「恋愛」は「抑圧」側になってしまったんだよ!(な、なんだってー!?
恋愛はむしろ「保守」「体制」となってしまったんだよ!(ななななんだってー!?
昨日の恋愛面倒やねん特集にて「いや人としてちゃんと恋愛しろよ」という、
恋愛至上主義オッサンオバハンの多さにもうウンザリウンザリウンザリガニである。
恋愛している若者ですら「恋愛は必須なものではない」という意識はあるというのに、ホントなんなんだこのギャップは。
(まあ、だからこそ、逆説的にマイノリティな非モテのオッサンオバハンは生きづらいのだろうけど)
やっぱあれだよ、恋愛至上主義おっさんおばはんは恋愛を自分が若者だった時の感覚で
「改革」「反抑圧」「反体制」と思ってんだから困るんだよ。こまっちゃうナ☆(リンダ風に
長年恋愛文化とはロミジュリカンイチオミヤのごとく大迷惑な抑圧からの救いたり得るものな筈だったのだが、
今となってはもはや逆に抑圧する側となっているのだよ!(な、なんだってー!?
恋愛はむしろ保守主義側となってしまったんだよ!(ななななんだってー!?
もういい加減あなたたちの恋愛しろ恋愛しろコールにこちとら辟易なんです。いい加減にしてほしいです。
はっきり言って恋愛とは、キラキラしたものなので気づきづらいけど、その内実は非常に体育会系マッチョイズムしばきあげ主義と親和性が高いんです。
(いや、外面がキラキラするほど内実はドロドロする、と言うべきか)
肉体的な意味ではなく、精神的な意味、コミュ能力的な意味で体育会系。
普段マッチョイズム的なものを忌み嫌っている人でも、こと「恋愛」となると言うことはマッチョイズム的になってきやがります。
ひたすら努力努力努力。諦めようとすると「ちゃんとやること全部やったのか」とかアリバイとして無限の努力を要求してきます。
(あるいは「人間的未成熟」から来るマウンティングをかましてくる)
それこそ上記のように「反抑圧」なら恋愛をやろうって気になろうってもんなんですが、
「抑圧」側となってしまった恋愛をやろうとは思えんのです。思えんのだよ!分かるかこのニュータイプの出来損ないめ!?