はてなキーワード: 走馬灯とは
Vaioのパソコンを買った。ボーナスと会社の補助と新生活キャンペーンを駆使して20万円もする物を勢いに任せて買った。
長野の工場で組み立てられ、カスタムされた製品を目にするまで、箱を開くまで、私は自分が誇らしかった。
包みを開いて黒光のパソコンを手にしたとき、走馬灯のように人生で初めて与えられた自分のパソコンを思い出した。もう10年も会っていない父親が、当時まだ大学に入って間もない私に買い与えた最新のVaioだった。オリジナルカラーの薄型モデル。安くはない。
憎たらしい子供で、素直な感謝よりも「どうしてこんなに高価な物を与えるのだろう」という疑問を先に抱いていた。どうせ使いこなせないのに。単純作業にしか使わないのに、と。感謝よりも申し訳なさと、それを感じさせられることに少し怒りも覚えていた。
激しい夫婦喧嘩の後、殴られて休んでいる母を置いていつも父親は子供達を連れ出した。デパートに連れて行って、欲しがる物を買い与えるために。欲しいものなどないし、いつも質素な生活をしているから欲しがる知恵もない。長男だけが賢くて、そのチャンスにナイキのシューズとか高価な物をリクエストする。姉も私と同じで欲しがるものがなかったから、「最新鋭の商品だ」とか「流行っているんだ」とか言われてGショックの時計を買い与えられていたのを覚えている。他人のものは覚えているのに、自分が買い与えられた物を覚えていない。Gショックの記憶が姉だったか、私だったか。覚えていないのだから、多分大切にも扱わなかったんだろう。欲しくもなかったんだから。
今はそれを申し訳なくも思う。たとえ父の完全なる自己満足で「俺はここまでやってやったんだ」と思いたいがためだけの行動であったとしても、本人はそれが本当にいい物だと思っていたのだろう。相手の気持ちを察するだとか、そういう機微がない人だったから、すれ違ってすれ違って、重なり合わない会話だけを上辺で流すことになったんだろう。
ずっと疑問だったことに対して、ふとした時に答えを見つけることがある。もしかすると、本当に喜んで欲しかっただけだったんじゃないかと。不器用だけで済まされる問題でもないけれど、そこに生身の人間がいて、父なりの苦悩もあったのだと思う。Vaioのパソコンは本当に高いのだ。高いけど、本当に最高で、買えるもんなら買いたいと憧れられるほどに良い物なんだ。価値も分からない小娘にポンと与えるおもちゃでは無いのだ。きっと娘を考えてオリジナルカラーでカスタムしたんじゃないか、高くても軽量で薄型を選んだんじゃないか。自分が予算と性能を照らし合わせてカスタムしたパソコンを手にした時、あの時の父は何を考えて、あのパソコンをカスタムしたのかと考えてしまった。
思い出を美化するわけでもなく、ただ単に社会に出て視野が広がり、物事の価値や苦労を知ることで、もしかしたらあの時の両親はこうだったにではないかと感じることが増えた。
高価な物を買い与えられるほどに口封じのように感じられて頑なになってしまっていたけれど、そこに一切の気持ちがなかったとは言えない。冬にものすごく傷つけられた時、対話や謝罪ではなく電気毛布だけが送られてきたこともある。それがとても悔しくて、使わないまま放っておいた時間があった。当時の私は物ではなく言葉が欲しかった。今思えば、父は言葉のかけ方が一切分からなくなっていたんだろう。冬だから、寒いから、そこで選んだ物に少しでも気持ちは入っていたのだと気づく。物でしか伝え方が分からなかったのかもしれない。
仕事でもVaioのパソコンを叩いて、アメリカにもEUにもメールを書いて、今の私が結構立派に社会人をしていることを父は知らない。
もし知ったら驚くと思う。その後に喜ばれる、だなんて単純に考えてはいない。怒りとか、憎しみとか、邪魔をしてやろうとか、どんな感情を持たれるかは想像がつかない。彼の抱えているであろう孤独や沼は深いから、私はもう近づけない。
Vaioのパソコンを見るたびに父を思い出す、そんなこともきっとない。ただ、今後の人生においても何かのきっかけで彼を思い出して精神で対話することはあるだろう。それは教会の懺悔室に似ている。何をどうすれば良かったかは分からないが、ただ祈って許されたい。
父のことを思い出す日が増えたから、父の死が近いのかな。逆に私だったら笑えるな。
最後に会ったのは10年前の名古屋。神戸の大学で当時付き合っていた彼氏のバイクで旅行したついでに父親に会ってみたのだ。彼氏を名古屋の繁華街にほっぽりだして、1人だけ父親とランチに行ったんだけど、今思えば本当に理解のある彼氏だったなあ。
食事が終わると父はお小遣いをくれた。そして「あの角まで彼氏が迎えにきてるから、ここで」とレストランの前でお別れを言ったのが最後だった。その後にメールで「なんであの時に、娘の彼氏に会ってみたいって言えなかったんだって、後悔している」と書かれていた。その後も家族でイザコザが続いて、一切経済的な援助も何もなくなった代わりに、父との関わりもなくなった。それ以来声も聞いていないし、メールすらない。
でも記憶には残っている。
30半ば。
仕事の手を止めてふと人想いにふける。
支える人もおらず、自分を支えるので手一杯。
その上、日に日に無気力の度が増していく。
でも、仕事をしないといけないし、この状況を打破する道を模索しないといけない。
友達もいないし、作れなかった。
恋人もいないし、作れなかった。
仲間もいないし、作れなかった。
思い出せるのは親と昔飼ってた犬位に交友関係が無い。
…何で人と距離を近くのが怖いまま何だろうな。
もし、急に死にそうになっても走馬灯には何も映らないような人生なのが堪らなく虚しい。
簡単に死なせてくれるなら迷わず死ねそうな気がするほど自分に期待していない。
生きる事が嫌になってくるな…。
・ワニくんは死んで終わるよ(直球表題宗)
→殺されるよ(他殺派)
→全部走馬灯だよ(1日目に死んでる派)
→悪魔と契約してて魂取られるよ(あんな簡単に彼女できないよ派)
→爆発するよ(爆発オチなんてサイテー派)
→世界が滅亡するよ(全滅派)
→寿命で死ぬよ(日数は連載開始からの現実の時間であって劇中は数十年後になるよ派)
→死ぬ終わり方もあるし死なない終わり方もあるよ(100日目マルチエンディング派)
→生き返るよ(福音派)
→残機が減るだけだよ(ゲーム脳派)
→異世界転生するよ(なろう派)
→生き返らせる話になるよ(ドラゴンボール派)
→[半分当たり(書籍版で掲載予定)]友人たちのその後の話になるよ(スピンオフ派)
・ワニくんは死なずに終わるよ(一転宗)
→死を超越した存在になるよ(神化派)
→神みたいなのが出てきて何とかしてくれるよ(デウスエクスマキナ派)
→ワニくんの名字が「100日後に死ぬ」で、彼女の名字が「死」で、結婚して婿入りするから「死まであと〇日」なんだよ(深読みしすぎ派)
・ワニくんは死なないし終わらないよ(新宗天邪鬼)
→100日目は投稿されないよ(未完派)
→[一部当たり(書籍化はする)]ウェブ版は99日目までで、100日目は書籍版にしか載せないから、読まなければワニくんは死なないし終わらないよ(あのね商法派)
→死まであとマイナス〇日になって続くよ(しょぼんのアクション派)
とある大きめの地方都市で新卒で働くことになります。これを機に、増田でくだらない冗談を書いたりすることからも卒業しようと思います。
たま~にホッテントリ入りした時とか嬉しかったな。これまで私の増田をブクマしてくれた皆さん本当にありがとう。
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もともと某市の地方公務員が第一志望だった私は、3次試験という名の最終面接の会場に緊張した足取りで向かっていました。筆記試験がどれだけ良い点数でも、小論文で採点者を泣かすことができても、面接が失敗すれば公務員にはなれません。
思えばこれまでの民間の面接は全部ここのための練習試合でした。完全にマニュアル化されたドアの開け方、「もちろん御社が第一志望です!」というウソ。そんなの誰もができること。働きたいという意思が薄いことは見透かされていたのでしょう。じゃあどうすればいいの? 熱意を持って自分にしか無いエピソードを話す。そんなの頭ではわかってるんだけどさ。
会場到着。
小さめのビル。清掃のダンディーなおじさんに挨拶(あの人が実は管理職だったり、とか思っちゃうよね)。面接開始予定時刻までは時間があるので、通された会議室で待機します。同じように早く来すぎでしまった人がもう一人。私の後にもすぐもう一人。3人がだだっ広い会議室で微妙な距離感で座って待っています。あの人はもう内々定あるのかな。あっちの人は国家公務員も考えてるのかな。
ちょっと冷房がきついかな。空気が対流する様子を想像して暇をつぶします。
14時。
「受験番号○○の方、どうぞ」ついに私の番が来ました。
それと同時に奴がきました。
思えば待機してる時から全く便意が無いわけではありませんでした。でも1~2時間は余裕で我慢できる感じだったし、面接が終わってからすがすがしい気持ちでトイレに行けばいいやと思っていました(早口でまくしたてる言い訳)。
すべてが間違っていました。
待機していた会議室の椅子から立ち上がる私。あっコレやばいやつ。面接官が待機する隣の部屋へ。その一歩一歩が尻を刺激します。ドアの前に立ちます。私の人生を左右するドア。私の下半身のドア。
私「失礼します」
出た。
幼稚園生のころの記憶なんてほとんどありませんが、園内で漏らしちゃって先生に下着を交換してもらったことだけは何となく覚えてます。あの時は迷惑かけたなあ。
そういえば小学生の頃って妙に大便を学校のトイレですることに抵抗ありませんでした?
中高になっても男子って本当にくだらない下ネタが好きな人が多いでんですよ。
そして今の大学生の私。
20年ちょっとの短い人生。走馬灯のように(うんこの)思い出が駆け巡ります。そして今、私はここで社会的な死を迎えるのです。第一志望の最終面接会場で。
......
♪~(The Fatback Band - Spanish Hustle)
ニコニコ笑顔のまま、下半身に全神経を集中させ、括約筋が馬鹿力を発揮します。
ブツの放出はその開始から一瞬にして停止されました。しかし、一瞬であろうと出たものは出たのです。尻の割れ目に若干のブツが挟まっているのを感じます。
ああ! そして今こそ私はそれを自覚しながら椅子に座るのです。死こそ免れましたが瀕死です。
面接は淡々と進みます。ノートにびっしりまとめた想定問答集を思い出しながら、自らの熱意、そして私にしかないエピソードを交えつつ話します。
「もっとリラックスしてくださいね」「は......(今リラックスしたらまた放出されちゃう......)はい!」
「あなた自身が努力したと思える経験を教えてください」「(今の私の括約筋は......)インターネット上の設計図共有サイトで私が趣味で書いているプログラムを公開(GitHubで尻穴を公開?)したところ、海外の方から......」
面接が終了し、駅のコンビニで下着いわゆるパンティーを買いトイレに駆け込む私。普段便器の中なんて見ないですけど、その日だけはちょっと見ました。
きれいな大便。
そして私は合格の知らせを受け取ったのです。
ありがとう、大便。
高遠丞くんのGOD座退団の報せを受けたとき、頭が真っ白になった。月並みな表現ではあるけれど。走馬灯さえ見えた気がする。
あたしを心配してひっきりなしに鳴るLIMEの通知音がどこか遠くに聞こえた。
高遠丞くんをご存知だろうか。
といっても、ちょっと観劇が趣味の人にはきっと常識で、でもそうでない人間はすこしもピンとこないのだろうなと思う。
なんでもいいからとにかくあたしの知ってる高遠丞くんの話をさせてくれ。
最後まで読んでもなんのオチもなければまとまりもないしあたしはずっと泣いていますが、最初に言っておくとこれはちゃんとしあわせな話。結論として、高遠丞くん、大好きだ〜〜〜〜!!!!!っていう話に死ぬほど文字を割きます。よろしくな。
GOD座という劇団の名前くらいは誰しも聞いたことない?ないのかな、一般人の感覚がわからん
あるでしょ?!??!
高遠丞くんはそこのトップで、あたしの推しでご贔屓で王子様だった。
あたしが丞くんと出会ったのは、丞くんがまだ入団したばかりの頃だった。元々観劇が好きでちょこちょこGOD座にも足を運んでいたのだけど、推しやご贔屓の概念はなくて純粋にそのお話を楽しむタイプだったので、当時は役者の顔や名前も満足に覚えていなかったと思う。そんな中であたしがなんで当時新人で端役をつとめていた丞くんに目を留めていたのか実のところよくわからない。声のハリとか立ち姿が好きだった。あたしがちょっとミーハーだったのもある。いやなんでだろうな。奇跡かもしれない。世界、これを奇跡って呼ぶことにしよ。
そこからGOD座の公式インステアカウントやブログを読んで彼のひととなりを知って、どんどん好きになった。丞の劇団員ブログは正直全然面白いものではない。何十人もいる劇団員がかわりばんこに書いているブログで丞の番が回ってくるのを永遠かと思うくらい待っていたのに文章は短いし、写真も少ない。私生活もなければジョークのひとつもない。真面目さ、演劇に対する果てしない情熱。彼が書いたものは何を読んでも、いつだってそれしかわからない。そこが好きだった。
そうしてゆるくゆるく高遠丞くんを応援する日々が一変したのが、そうだ、ご存知あの舞台。
あたしはあの舞台を今後一生覚えているのだと思う。
ときたま再演もしてるからお願いだからみんな見てほしい。あっでももう丞は………………あの舞台は……………………………
虚無……………………………………………………………
丞の役は王子様。正真正銘の王子様。「GOD座の丞」と言えば王子様、のはじまりである。
GOD座のお家芸、きらびやかな舞台と華やかな役者。その中心に世界一素敵な男。凛とした姿勢が、よく通る声が、意志の強い眼差しが、あて書きかと思うほどぴったりハマった、少しシャイだけど正義感の強いとびきりやさしい王子様。夢中になった。恋をしないわけにはいかなかった。一生応援すると誓った。
そこからのあたしはバカほどGOD座に通い、丞の出てる舞台の初日と千秋楽は絶対におさえたし地方公演にだって行った。初主演をつとめてからどんどん人気が出てファンも増えていった。ちょっとさみしくて、うれしかった。役どころもだいたい主役か準主役の王子様とかなんかキラキラしたヒロイックな男。世界一似合ってしまうので仕方がない。何度あたしを恋に突き落とした?
丞とほぼ同期にあたる晴翔くんはたまにインステに丞との写真もあげてくれたので、並の晴翔推しより晴翔のインステを見た。劇団員ブログを見た。カーテンコールでファンに向ける笑顔はどんどん上手になったのに、相変わらず劇団員ブログはつまんなくて、大好きだった。
そんなストイックなブログじゃ、丞くんが如何に演劇を愛しているかくらいしかわかんないでしょ?!??
そんなしあわせな日々に飛び込んできた退団のニュースのことの重大さがよくやく伝わったでしょうか?!??!?!
よく生きてだと思う。いやほんとよく生きてたよあたし。
あれほどに舞台を愛していた丞くんが芝居をやめてしまうなんて考えられない。もともと自己発信の少ない丞だ、GOD座からのお知らせ以外に何一つ情報は出てこない。他のファンたちの余計な詮索がしんどくてツイッターのアカウントに鍵をかけた。GOD座となにかあった?と考えてみたところでわかるわけもない。ただわかるのは、GOD座のような大きな劇団を自主退団した丞はきっともうどの劇団にも入れない。GOD座と何かあったならなおのこと。いやこれいま自分で打ってて過呼吸なるわ。吐きそう。本当に何日も満足に眠れなくて、泣きながら明け方に寝て泣きながら目覚めてまた泣いた。廃人の日々。
そこにさした一筋の光明。
MANKAIカンパニーとGOD座のタイマンアクトで、高遠丞が出るらしい。GOD座じゃなく、MANKAIカンパニーとして。
このときの気持ちを形容しようにも、キャパオーバーの飽和状態でどうしようもない。わけもわからず縋るような気持ちでチケットを取った記憶だけある。いやあんまり記憶がないな。丞がまた舞台に上がれる!というぶん殴られたような衝撃的な喜びと、GOD座と対決って大丈夫?負けたら解散?MANKAIカンパニーってどんなところ?と次々に疑問符が溢れ出た。溢れ出ただけネットで調べまくったら正直全然勝ち目がなくて、また眠れない日々に逆戻り。
いやだいやだどうして!だった以前と比べて、もしかして役者続けられるかも?って期待があるぶん余計しんどかった。絶望感が期待と不安に変わっただけ。
それでも、確実にその公演は舞台で丞がまた見られる。そのあとはわからない。「最悪の場合」に向けて心の準備を整えながら、そして泣きながら、初日を待った。
初日の公演を見たとき、あたしはまあ当たり前のように爆泣きしてたんですけど、ほんとのところそれがどういう感情なのかよくわからなかった。だってそこにあたしの大好きだった王子様はいなかった。衣装だっていままで見てきたものに比べたらえらく地味に見えたし、舞台も質素。演技だって、あんまり詳しくないけどいつもの丞の大胆さは影を潜めて、シンプルな動きになっていたようにおもう。
でも、「高遠丞」がいた。
ううん、「ラファエル」がいた。
親友思いで生真面目で頑固で、心優しい男がいた。いつもより繊細な動きで、微妙な表情で。
初日のあとも何度も何度も足を運んで、やっとあたしは悟った。
わかってしまった。
丞はこのために、これがしたくてGOD座をやめてそこにいるんだね。
それに気付いて、また泣いた。いや泣きすぎじゃんって思うでしょ、あたしがいちばん思ってるよ。でもこれはなんだろう、悲しいんじゃないんだよ。純度100%のうれしいでもない。強いていうなら、GOD座の王子様へのお別れと、感謝と、あたしの大好きな人の新たな門出のお祝いの気持ちだ、これは。
しかしMANKAIカンパニーの公演は見るごとに良くなったり悪くなったり、みんなが手探りで、でもみんながきっと演劇バカで、そうやってつくってるんだろうなって思った。みんな、丞みたいな人なんだろうな。だったらいいな。ついにGOD座とのタイマンアクトのその日、あたしはあんまり不安はなかった。相変わらずMANKAIカンパニーの公演に安定感はないけれど、大丈夫だと思ったし、実際に大丈夫だった。まあアホほど泣きはしたんですけどね。そのときのカーテンコールの丞の泣きそうな顔が、いままで見てきたどんな王子様よりも素敵で魅力的で、嬉しくてほっとして結局キャパオーバーで泣いた。オタクはすぐに泣くんだよ。
ただ少し思うのは、これがもし本当に丞のやりたかった芝居なら、GOD座で丞は何を思って演じていたんだろう。あたしが好きだった丞を、丞はちゃんと好きだったのかな。あたしたちは丞に王子様の仮面を押しつけてしまっていたのかも、と思ったら途方もなくしんどくなる。もう謝ってもしかたがないけど、きらびやかな仮面じゃなくて、ありのままの「高遠丞」をあたしはちゃんと応援したい。今からでも遅くないよね?
願わくば、丞もGOD座でのたくさんの思い出を、愛しく思ってくれていますように。ワガママを言うなら、あたしが大好きだったGOD座の君も嘘や偽りじゃないって、楽しかったって、言ってよ。それだけがあたしの願いです。でももうなんでもいいや、生きててくれてありがとう、舞台に帰ってきてくれてありがとう。
ついでに。MANKAIカンパニーでの丞の劇団員ブログを見てあたしは笑ってしまった。プライベートの話も写真もない、来てくれたお客さんへの感謝と演劇の話だけが堅苦しく、しかし真摯に書かれたその短い文章に。大好きだ、あたしは一生高遠丞が大好きだ。
☆
私思ったんだけど
それ知ってからシーエム見て美味しそうだなと思っても
お金もらって美味いって言ってるんでしょ?どうせ!って思ってしまうんだけど、
今夜も飲んじゃうんだなールービー!
もうフェイスブックとか俗に言うSNSとかの誕生日設定はオフにしてます。
だって表からそれ見えちゃうと今日は私の誕生日だよ!ってメッセージがくるので隠してるわ。
そう言った気分の時もあるじゃない。
やっぱりバーのマスタークラスになると分かっちゃう?って思っちゃって、
実はねって言ったところで、
バーのグランドピアノからハッピーバースでツーユー!ってヤマキ麺つゆばりな出汁の利いた音色がポロンと奏でられるじゃない!
そしてバーのカウンターからスライドしてグラスが滑り込んでやって来て
きたきた!例のあちらのお客さまからです!ってやつ、
私ぼーっとしてて見逃したから受け取れず、
グラスがカウンターの淵から落ちていったのを走馬灯のようにスローモーションのように見えてしまったわ。
でも端に座っていた紳士が、
落ちそうになったグラスを空中で、
私は思わす、
あなたどこの軍隊?ってそうあのワサビの利いたじゃなくて浪人映画ばりに尋ねちゃったわよ。
そしたらその紳士照れくさそうに、
いや民間人だって言うんだけど私は彼は手練れのグリーンかレッドのベレーの強者かなと思っちゃったぐらい。
じゃあそこの基地の格納庫の屋根の色は何色?って言いそうになっちゃったけど、
これ以上彼を質問で追い詰めても、
私には何の得もないから受け取ってもらったグラスで乾杯したぐらいよ。
でね、
マスター!あれもう一回やって!あちらのお客さまからです!ってグラスをさーってするやつ!
って涙の圧しリクエストしてもう一回やってもらったの。
そしたらカウンターのつなぎ目のところが微妙に段になっていて、
その段差に引っかかっちゃってグラスひっくり返っちゃったのね。
私は軍隊の紳士になぜグラス拾ってくれなかったの?って目線で送ってみたけど、
手もとに届くまでにグラスこけてしまったら、さすがのオレもお手上げだぜ!って肩をすくめるジェスチャーでやらやれって感じで笑っていたわ。
私のオリーブのみの実が入ったおつまみグラスはなんとか難を避けて無事だったわ。
今度は緑のを食べようかな?黒いのを食べようかな?って選んでる間に、
もうカウンターはすっかり綺麗に吹き上げられて何事もなかったかのよう。
ときたまグラスにはーっと息を吹きかける仕草が照れ隠しのようで、
私がもう一回あちらのお客さまからです!やってって最後のリクエストをしても
マスターもう勘弁してくれよ!って感じでやってくれなかったことは
心傷と書いてハートブレイクだわって思っちゃった。
私はそんな傷心に浸ってはいられなかったので
別のお店からこのバーに餃子の出前をお願いして持ってきてもらって、
みんなで餃子食べましょう!って言ったところよ。
本当に都合良くこのバーが入ってるテナントビルの1階が中華屋さんでリアルに本当にバーまで餃子出前できちゃうから嬉しいのよ!
だからほっぺに焼きたての餃子とつけると火傷しそうなほどダチョウ倶楽部なそのおでんじゃない餃子だから美味しいの。
そんでまた私はマスターに餃子あちらのお客さまからです!ってやって!て目をしたけど完全に無視されたわ。
やれやれよ!
炒飯も出前頼もうとしたけど、
さすがにバーで炒飯は場違いなほどおかしくてにあわないから似つかわしいレタス炒飯にすることにしたわ、
それは次回ね!って。
うふふ。
今日はピンクグレープフルーツとかにしようと思ったけど、
皮ごとすり下ろしてレモンスカッシュ風炭酸で割ったウォーラーでもいいけど、
皮ごとすり下ろしてホッツウォーラーで仕立ててもまた美味しい感じがして、
レモンはレモンだけど皮の白いところが肉厚で底まで全部食べられるイタリアの地のレモン、
あれ一度食べたことあるけど美味しかったなーって思い出しちゃったわ。
いまマーケットに国産のレモンシーズンだから出回ってると思うし、
気に入ったら試してみてね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
妹達が結婚するも私は一人で働いてる、という絵は学生の頃から漠然とイメージがあった
決して望んでいたわけではないが、その通りになってしまった
イメージを持ったから今があるのか、最初からこうなることに予想がついてたのか
今となっては分からない
35を過ぎ、38,39と過ぎてとうとう40になり、42を過ぎ、ついには44になってしまい
もはやいろいろ諦めていた
よく分からないがそういう運命だったんだろう、それもいいのかもしれないと悟りの境地に入りかけていた
それが突然、結婚することになった
マンガだったらなんだこのオチご都合主義にも程があると憤慨するところだし
いまだにこれは事故にあって植物人間になった自分がみている夢か、死ぬ間際の走馬灯で見ている幸せな人生の幻覚なんじゃないかと思ってしまう
カモーンベイビーアメリカ!
まアメリカのレトルトカレーも日本のそれらと比べてまた別の筆で特筆すべきところがあるわ。
ナンてこったって言いたいところよね。
と言っても手頃にカレーが食べられるところなんかどこにあるのかしら?とも思っちゃうし、
それなら自分でよりによって腕によりをのつもりでカレー作っちゃうのも手よね。
手軽に作れるなら、
ベーナーの後の残りにジャガイモやら投入してカレールーで決めればカレー出来ちゃいそうじゃない?
それにカレー粉だけでもいいし、
スープカレーと言わんばかりの出来栄えは果たして美味しいのかしら?って思うけど、
他に手を加えて何かをくわえたりすると、
市販のカレールーはそのままレシピ通り作るのが一番最強みで旨みがあるらしいわよ。
そんなこと言ってたら本当にカレーが食べたくなってきたわ。
おまえ絶対今日カレーの日だからカレー食いに来たんだろ!って見透かされちゃって、
なんだか恥ずかしい思い出を繰り広げられる走馬灯よね。
色々なカレーのお皿が回ってる絵柄が描かれて、
でさらによくよく考えてみたら、
ちょっと今度はこだわりのカレー屋さんも探してみるのも楽しいけど、
またカテゴリーがあるじゃない、
一時期は後者の方にハマってたけど、
通い詰めていた近所のインド料理屋さん
そう言ったカレーが好みだわって思っちゃったわ。
久しぶりにインドカレー屋さんに行ってみようかな、
うふふ。
ホッツコーヒーのみよ。
なんだか食べ損なったというか買い損なったというか
カレーまんも買えなかったのよ。
もはや諦めの域でもあるかもしれないわね。
一時期スパイス集めもやってて
結局初心者が一番最初に買うクミンだけ買って終わってしまいそうだけど、
でも黒の粒胡椒はデトックスウォーターに使ったりするレシピあるから
シナモンとかもね、
案外スパイスとの相性も良い物は良いって感じだわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
恋をし~た夜は~すべてがうまく行きそうで~
江口洋介です。
いやもうこの時間よ。
あまりに仕事が終わらないから途中ランチ挟んじゃいましたのエグチのセットです。
なんでみんな午前中に好き勝手に私にボンボン用事を頼むのかしらと思って片付けてたら
こんな時間なのよ!
さすがにポテトは箸で食べなくない?
ポテチなら分かるけど、
とてもほほほ微笑み増し増しの微笑ましさよね。
でもさ
ああいうファストフード店とかで脂ぎった脂ギッシュな食べ物を食べたときに
まあ箸で食べたいって言うのはすごく分かりみのある話しだと思うんだけど、
みんなあの手で食べた直後スマホとか触ってるし、
画面がベタベタしないのかしら?って
意外とみんな普通にポテトの先でスマホを操作してて器用なのよね。
あれちゃんと画面動くのかしらって
いろいろと不安になるけど、
余計に紙ナプキンを多目に持って来ちゃいたいところだけどね。
私はいつもタマゴ好きなのでエグチマクリマクリスティーなんだけど、
あの焼き固められたタマゴのあの
還元糖とアミノ化合物の加熱した際に香るメイラード反応を私は楽しみにしてるのかも知れない。
結局は何だって良いのかもしれないわよ。
なんでもフライパンで焼いたら美味しくなるって言う、
あのポテトも何故か油で揚げているのに特有のファストフード店の香りと
ポテト!ポテト!ポテト!って節をつけて歌いたくなっちゃうあのブザー音は何なのか分からないけど、
あのポテト!ポテト!ポテト!ってフェスでも流れないほどのビートを刻みながら、
今でも鮮明に覚えているもの。
さすがに酔っ払って群衆で行く
飲んだ後のシメの代わりに
ハンバーガーを頼んで待ってるときのポテトコールの曲がかかったときに
ポテト!ポテト!ポテト!ってコールはしないところはまだ曲として未完成なんだと思うの。
エビバディセイホー!ってコールアンドレスポンスで言われたとき
恥ずかしくて声が上げられない東北の観客のように、
ノリ方が分からないのよねノリ方が。
なんだかポテト1つなのに思い出が走馬灯のように総集編の再放送でもやらないぐらい
半年の放送分を50分で一気に放送しちゃいそうなほどの連続ドラマってのは
役者さんの演技の「間」の妙ってことだと思うの。
あの台詞のない場面のト書きとト書きの行間の台本を想像しちゃいそうで、
ああ今こう思ってるのかしらとかああ思ってるのかしらとか想像しちゃいたいほどで、
あれこれ考えていたら、
コーヒーのおつまみにと食べていたポテトが無くなっちゃったわ。
もうよもう。
すぐ食べちゃったから、
やっぱりここは躊躇せずにMサイズにした方が良かったわよねって
アフターフェスティバルでランチタイムが終わらせることが出来たわ。
また次食べたいね!って美味しさの分量の方がいいのよね。
アメリカ行って張り切ってコーラLLサイズとか頼んでんじゃないわよって。
店員さんが親切で、
そんなに大きいの頼まなくてもおかわり無料だから小さいサイズの方がいいし
しかも冷たいのがいつでも飲めるんだぜって言ってくれちゃうところなんか
私は泣いたわ。
ああ懐かしいったらありゃしない感じで、
な、泣いてなんかないよ
歯が染みただけなんだかんね!
私菜っ葉好きだから菜っ葉よけろ!って言われても絶対買っちゃうわ!
ふと思ったんだけど、
ジャスミンティーの本場はジャスミンティーをどうやって煎れるのかしら?って思うけど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
私は記憶力が病的に悪い。
テストのように、繰り返して覚える暗記なら人並みにできるのだが、特に意識していないと、昼食に何を食べたかもその日の夕方には忘れてしまう。酷い時は食べ終わった空の皿を見て「今何食べたんだっけ…?」ということもある。ちなみに私は90歳のお爺ちゃんではない。23歳の若者である。
そんな記憶力の乏しさでは、本や映画も楽しめない。鑑賞途中は良くても、終わって振り返ると断片的にしか覚えておらず、「面白かった」「タメになった」という小学生以下の感想しか出てこない。何が面白かったのか、タメになったのかを聞かれても答えられない。
だから人と本や映画の感想などを語り合えない。他人の感想を聞いたり、ネット上の考察を見たりして初めて「そんなシーンもあったかも」と思い出す。
サッカー観戦が好きで、応援しているチームの試合は毎試合生で観ているのだが、1日経つと誰がどんなゴールを決めて勝ったのかも忘れてしまう。観てる最中はあんなに興奮したのに。感情と記憶は結びついているってどこかで聞いたはずなんだけどなぁ。同じチームを応援している人と語りたいけど、覚えてないから語れない。悲しい。
他にもいくらでも例を挙げることができるが、とにかく私は基本的に何も覚えていない。すぐ忘れる。だから人と話す時は9割聞き役である。話すことがないから。そんなアンバランスな会話が楽しいはずがない。最後に楽しい会話をしたのはいつだろう。どうして私はこんなにも記憶力が悪いんだろう。
遺伝だろうか?いや、同じ親から生まれたはずの弟はやけに記憶力がいい。彼は頭の回転も速く、弁がたつタイプだ。彼とは時たまフットサルをしに出かける。彼は自分のプレーだけでなく他人のプレーも事細かに覚えていて、私にも「あのシーンは左に出した方がよかった」などと具体的なアドバイスをくれる。残念ながら私自身にそのシーンの記憶がないのだが。
弟を観察していると、記憶力が良い人は、何かを見たり聞いたり感じたり体験したりした時に、ちゃんと頭を働かせて考えているように思える。そして考えたり感じたりしたこととセットに物事が記憶されているようだ。
一方私は何も考えずただ目の前の物事に場当たり的に反応しているだけだ。感受性も低い。だからあらゆる物事も無意識にスルーしてしまっているのだろう。要するにバカなのである。
小さい頃からボーッとしていたので、このバカは先天的なものだろうが、自分の頭で考える習慣がないので、訓練されて頭が良くなることもなく、生来ずっとバカのままである。
どうにかして超バカから大バカくらいになれないだろうか。このままじゃ死ぬ前に見る走馬灯もない。
よし決めた。今年は「一言でもいいから物事に自分なりの感想を持つ」ように心がける。まずは物事をスルーしないことから始めよう。ポンコツな脳みそなんだから、それくらい簡単じゃないと続かない。
元増田です
トラバやブコメでたくさんの修学旅行回をおすすめしてもらえてすごく嬉しい ありがとうございます
教えてもらったものこれから読む楽しみができてほくほくしてる 読むぞーー!ってなっている
「わたモテ」は「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」で合ってるかな
(少女漫画に略称が同じになる「私がモテてどうすんだ」というのがあります※旅行回あり)
2巻まではたぶん読んだけどその後の面白そうな展開をおすすめしてもらえてよかった、ぜったい読みます
「スマイルプリキュア!」もそんなに楽しいのかー!と思ってめちゃくちゃ気になる
私のプリキュアはYes!プリキュア5で止まってるのでそろそろ更新したい
「とめはねっ!」「古見さんはコミュ症です」のおすすめコメント読んで、
その人物それぞれの特性や得意、能力がいつもと違う場所で発揮されたりそれを見ることで友達の新たな一面を知ったり見方が変わったり信頼が深まったり
ふだん交流のそんなにない子とちょっとしたことがきっかけで関係を深めたりするところを見るのも修学旅行回の醍醐味だなって改めて思いました
「あずまんが大王」は読んでたはずなんだけど、修学旅行回の覚えがないということはその巻まで到達してなかったんだろうか(なおよみちゃん派)(よみちゃんはかわいい)
アニメでも修学旅行回があるみたいだからこれを機に両方改めて見てみたいと思います ところでアニメは音楽がすっごくよかった
グリーンウッドは手元にあるので今晩から久々に少しずつ読み返そうかなと 「スプリガン」も絶対に読むすごく面白そう
>河原和音『高校デビュー』を挙げようと思ったら同作者さん『修学旅行』って短編も描いてたっけ
河原和音先生作品もいいですね…修学旅行関係ないんだけど、私は「天晴(てんせい)」がとても好きです
おもしろいよね…すごく好き
>僕は文化祭回が好き。
私も好き いいよね それぞれの学校でかなりやることが違ってたりへんなジンクスがあったり踊ったりあれこれの展開が見られて楽しい
夢路行という現在はレディース誌で活躍してる作家さんがかつて少女誌で描いていた文化祭の描写がすごくいいです
画面も静かで淡々としてるけどちゃんときらきらしててすごく大事な時間が流れてる感じがあっていい
太めというレベルでない本当に太った女の子が主人公の恋物語の短編「踊りましょうか」、
それと龍のうろこを飲んでしまった女の子の話の中編「荻の原日記」の文化祭描写が特にとても楽しそうでいい
>とりあえずやっとくかーみたいなのも多くて当たりはずれ大きくね 文化祭で劇中劇やるよりはましだが
確かに当たりはずれはある
「彼氏彼女の事情」は念入りな修学旅行回(長い)とストーリーに関わる念入りな文化祭の劇中劇(とても長い)のダブルコンボがある「当たり」のほう
>糞みたいなハプニングとサービスシーン見せられるだけだろ何が面白いんだと思って読んだら、
出てくる作品群に走馬灯みたいに情景が浮かんできて涙出た。ありがとう増田。週末、吉野朔実読み返そう。
「修学旅行回」と聞いて想起される内容がその人の観測範囲というか普段読んでいる漫画のジャンルで結構違うものなのかな、
というのは今回すごく感じて一概に分けられないけれどおおまかに少女漫画
(そのうちでもラブコメとそうでないもの・掲載誌のカラーによってかなり内容が違う)と少年漫画(これも掲載誌によるだろうか)では
物語を構成する要素が相当異なるのだろうな、という風に思った 確かにテンプレのハプニングやラッキースケベ展開の多いもの、イベント消化回的なものも相当数あって
同じようなものをたくさん読めば確かにだんだん飽き飽きしてくるのかも それでもやっぱりどこかに「特別」な要素があってそういうものを見つけながら読むのがすごく好き
私は今まで読んだ少年漫画では、ゆうきまさみ作品以外では「エンジェル伝説」をすごく愛しているんだけど、すごく時間経過の範囲の短い作品で
あれに修学旅行回はなかった あったらどんなかなあ…読んでみたかったな、といまでも想像したりします
吉野朔実の「記憶の技法」は楽しい、という方面ではない修学旅行回かつひとつのある「旅」の漫画として大傑作で
あの内容をよく一冊分の紙幅でできるものだと読むたび惚れ惚れするサスペンスフルだけどすごく静かな一編で
少女漫画、女性作家に興味のない人にも一度読んでみてもらいたいです 吉野朔実作品はとてもとても良い(お好きな方がいてすごく嬉しい)
あと書ききれなかった部分では修学旅行ではないけれど旅のある作品として猫十字社「小さなお茶会」があった
夫婦生活は幸せそのものだけれど突然どうしても一人になりたくなって汽車にのって赤い屋根の家がいくつか連続していたらそこでおりよう、とか
列車のなかの物売りの描写とか駅でのお茶とか自分たちでつくるおみやげの特別さとか細やかなところがすごく心にひっかかってくるかわいいきれいな作品
星野架名「青い銀河の夜明け」は地球をなくした高校生たちが自分たちの身ひとつ校舎を宇宙船にして自分たちの未来を探して宇宙を飛び回って旅するSF
窓の外に宇宙があって茶道室で布団敷いてそこで寝る、みたいな画面が楽しい 星野架名作品はいいぞ 絵もかわいいです
今時分が何を考えているのかを把握するためにはそれを言語化していくといいと聞いたので実行してみる
が
よくよく考えると私は基本的に脳内独り言により思考を制御しがちなのでもともと思考は言語化されがちなのだが
それとは別に頭で別のことを映像イメージとして処理していることががあるのでそっちを書き出してみたいが
その場合は前後に「複」とつけることで主たるイメージである言語化済みの思考と区別して書き出せばいいのだろうか
「複」実際今でも頭の隅では今日読んだ進撃の巨人のイメージが走馬灯のように処理されていて今は訓練中の食事シーンがアニメ風に再生されている
「複」とつけるよりも二行段落下げの方が書きやすいし分かりやすいので次からそうしていきたい
何故か延々とアルミンが芋とスープをスプーンで食べ続けているビジョンが浮かび続けている今コレを書いているうちに霧散して脳が虚無になった
施工を言語化してみようと考えた所であまり意味がない気がしてきた
一秒の描写には一秒以上の時間がかかると大昔に詩人が口にしていたと昔どこかの神話にかかれているのを読んだ気がするがそれは翻訳者が適当に付け足した文学的なエッセンスでもとの神話にはそんな台詞なかったのかも知れない
部屋の水道管の中を通る水の音が非常に煩いためそれが映像として脳に流れ込んでくる
上の部屋で人間の足音がするのが非常に鬱陶しいが単なるラップ音の気もする
寝るか
正直寝ようとしてもなかなか寝付けないので困る
人間は寝ようとしてもすぐに眠りに落ちることが出来ず一〇分程度は現実と夢の間をさまようというがその時間が非常に面倒くさい
私は一時間半の倍数で寝たいので寝る前にはたとえば七時間45フン後に目覚ましをセットするのだが根付くのに30分かかるとそれが15フンズレてしまいそれが非常に気になる
それでそわそわしてなかなか眠れない
変換を意識すると思考が先に流れてしまうので変換が雑になってきている
脳波でキーボードをコントロールできるようになれば変換の成功率はあがるのだろうか
つかrた
ねう
映画「We are little zombies」を8/31にウェブでの無料公開で見た。今も劇場で上映されているにも関わらず、という点は素直にすごいな、と思う。海外で賞を取ったとも聞く。Filmarksを見れば、割と高評価を付けている人が多い……ように見受けられる。だけどあれ、そんなに良かったか?
両親を亡くした4人の少年少女(ヒカリ、イクコ、タケムラ、イシ)が火葬場で出会い、バンドを結成し、社会現象となる。しかし、主人公(ヒカリ)の両親が亡くなる原因となったバス運転手がネットで特定され、運転手は自殺。バンドは解散し、主人公は親戚に引き取られることに。イクコ、タケムラ、イシらはヒカリを連れ出し、ヒカリの両親が事故で行けなかった草原へと目指す。道中で事故に合い、4人の乗った車が水没する。頭の中で走馬灯が駆け巡るヒカリ。突然「Continue?」という文字が浮かぶも、一度は拒否。しかし仲間たちの声もあり「Yes」を選ぶ。するとヒカリの出生シーンが浮かび、気づいたころにはヒカリは事故現場にいた。その後草原へ4人で向かい、平凡な人生がいいねとかなんとか言う。念仏が聞こえ、鯨幕の白からズームアウトして終わり。
大筋だけ抜き出すとそれなりに理解は出来る。というかこういう、理解のない大人や嫌な現実に反抗し、自由を勝ち取るというストーリーは青春モノの定石なので、悪くなりようがないのだ。それから、映像が斬新というのも分からなくはない。短いカットの連続に鮮やかな色彩、独特なショット。
自分が何を思ってどう動いたか、バンドがどうなっただとか、最初から最後まで説明のセリフだらけ!映画は、カメラを通じて作り手が見せたいものだけを見せられるメディアだ。だからこそ、言葉で全部喋っちゃ興ざめなんだよ。表情や仕草、寄って撮るか引いて撮るか、背景に美術、何を画面に入れて何を排除するか、言葉だけに頼らず表現しなきゃ「映画」の意味がないんじゃないの。主人公が一人称でナレーションをたっぷり入れることが効果的に作用する場合もあるだろうが、主人公たちは感情が無く、両親の葬式なのに泣けない(だから「ゾンビ」)という設定のはず。それなのに(一応「ゾンビ」だから棒読みで!)べらべらしゃべるものだから、「俺、中学生だけど正直感情が無くて全てが滑稽に思える」のコピペを思い出す仕上がりである。
「さあゲームの始まりです」は流石になかったが、感電して骨が見える、ネットの特定シーンでは画面上に書き込みと思しき文字がずらずら表示される、などの古臭い表現がそこかしこに見られる。走馬灯も「Continue?」も差し込まれる出生シーンも……4人が逃げ込んだ先はラブホテル、了解です!ちなみに、主人公がゲームボーイを持っている理由は一応明かされてはいるが、イクコ役の中島セナに(iPhoneでもデジカメでもなく)フィルムカメラを持たせているところから見るに、ちょっとレトロな感じよくない?ぐらいじゃないかと疑ってしまう。街中で若者がスケートボードをやっている場面も、有り体に言やPOPEYE感を演出するだけ。こういうのを削除したら90分ぐらいのソリッドなものに仕上がると思うのですが。本筋には関係ないものの、正直かなり冷める。
ここがかなり嫌だった。主人公ヒカリはおそらく東京生まれ、東京在住(東京タワーらしきものが見えることから分かる)の中流家庭であるのに対し、がめつく、金をむしり取る親戚は関西弁である。これをステレオタイプと言わずしてなんと呼ぼうか。他にも、葬式の場で主人公に「感情が無いの?」と泣くよう迫る親戚の女性は福島在住だし、主人公の両親が巻き込まれた事故の原因であるバス運転手は広島?出身であるという描写がある。それだけではない。タケムラの父親は、工場を経営しており、貧困で、母子に対し暴力をふるう。そして母親を巻き込んで自殺する。イシの両親は中華料理屋を営んでおり、イシは太っている。そして実家は火災で全焼する。イクコの両親は、イクコに心酔するピアノ教師によって殺害される。そういう設定だと言われればそれまでだ。気にならない人もいるだろう。だが、私はなんだかなあという気がするのだ。ついでに言うと、主人公ヒカリの父親は広告会社に勤めており、社内では人気者だそうだ。監督は電通の長久允氏であることを鑑みるに、強い電通力(ぢから)を感じる。
主人公たちにバンドを組むよう勧めたホームレスたちの音楽が、見た目通りのヒッピー感溢れるものだったことには思わず笑ってしまったが、それは好みの問題だろうから置いておく。問題は主人公たちのバンドだ。エクスペリメンタルビットポップをやるのは、それも好みの問題だろうから(あと一応「ゾンビ」的設定を生かしたのだろうし)置いておく。それの凄さを語る方法が酷い。CHAIや菊地成孔を出して、彼らがいかに凄いかを喋らせるのだ。鑑賞中、思わず叫びそうになった。嘘だろ?!観客はそれぞれ好みが違うから、楽曲の凄さを表現するのはとても難しいということは分かるが、実在するアーティストに言葉で説明させるのは一番ダメでしょう。先ほども述べたが、それなら「映画」でやる意味がないのではと感じる。
「エモいって古い」にはエクスキューズを付けるいやらしさを感じる。さらに、一種の夢オチとも取れる結末で〆ているところもあまり好きではない。別に、全て主人公ヒカリの内面の旅であっても悪くはないが、それにしてはこの(法要中の)短い間によくそこまで考えたな!となり、オモシロさが増す。また、自己弁護ではないが、「絶望ダッサ」にはどうも乗り切れない。「僕は感情がないから悲しみなんて感じないんだ平気なんだ(自己防衛)→いや本当は絶望して悲しんでいるんだ(自覚)→でもそんなのダサいから乗り越えていくんだ(そして未来へ……)」なのかな、と好意的に解釈するとしても、それは「ダサい」という言葉で乗り越えていくべきものなのか、疑問である。抑うつ状態はダサい/ダサくない、という問題じゃないと思うのだが……。
疲れた。映像が斬新と述べたが、中島哲也に似ているんじゃないかとも思う。他にも色々言いたいことはあったが、もう止める。だいたい夢オチの可能性がある時点で、全ての指摘は負けなのだ。楽しんでいる人をけなしたいわけではない。良かったという人はそのまま、堂々としていればいいと思う。ただ、私には合わなかった。
今さらだけど、2019年7月18日の京アニ事件で亡くなられた方々への感謝と追悼を。
今が40過ぎのおっさんで、物心ついた時からアニメと特撮が好きで、でも制作スタッフは有名な方しか存じ上げず、
でも、竹本康弘さん、木上益治さんらがなくなったという報道を見て、かかわった作品歴を見て、
wikiに並んだ関わったアニメ名を見たとき、思い出が走馬灯のように駆け巡り、
あの感動を、自分の心をあんなに震わせてくれた作品を作った方が、
こんな悲惨な最期を遂げたなんてことが、本当に辛くて悔しくて涙が止まらなかった。
旧ドラえもん大長編シリーズ、クレヨンしんちゃん映画シリーズ、AKIRAに、京アニの作品群、、
どれだけ多くの子供たちや多感な大人たちに夢と希望とユーモアを与えたか!
小手先の上手さじゃなくて、伝えたいことを伝えようという明確な意思がなければ、
実名報道がされて以来、京アニ事件の記事が目に入る度、いろいろな事を思って涙が止まらなくなる。
自分の半径5m外で起こった事件だと思っていた出来事に自分の大切な恩人が巻き込まれていた感覚。
彼らにいっぱいありがとうと伝えたいし、みんなからのありがとうは伝わっていたのかなと心配になる。
亡くなっても作品が残り、いつまでもいつまでも作品がメッセージを残し続けてくれる、
100年経って、表現や画質が古びようが、伝えたい思いは伝わる。
俺は今はなにも出来ないけど、生まれたばかりのうちの子供が大きくなったら、
竹本康弘さん、木上益治さんらが作ったたくさんのアニメを見せたいと思ってます。
たくさんの作品の数々、本当にありがとうございました。
彼女を振ってきた。
昨日までは、99.9%別れよう、と思っていたけど、いま、このときに抱えていた問題を解消できるなら、乗り越えられるなら、またやり直せるかもしれない、という
彼女と対面。
「こんばんは」から、ポツリ・ポツリと始まる会話。
最初は緩やかに、しかし話題が「あのこと」に及ぶと、テンポは途端に速くなっていく。
繰り返される会話。確認される過去。どのように評価し、どのような気持ちが尊重されるべきか。
ずっと、ずっと、なんとかしよう、という意思それ自体は感じるけれども、
私の方は、徐々に諦めの気持ちになっていく。
話が噛み合っていない。
錦の御旗を掲げ、懸命に自己正当化をする彼女がそこにはいるけど、私への気持ちと、将来への希望が僅かにでも感じることができず、徐々に気持ちの整理ができていく。
途中からは、過去の回想すらしていたかもしれない。二人で観たあの桜、綺麗だったな。
ありえた未来にサヨナラを告げていたかもしれない。もう一度誕生日を、一緒に過ごしたかったな。
そうした過去と未来とをごちゃまぜにした走馬灯を見終えた段階で、決意がついた。
「うん、もう、別れよう。」
ネットでは「振った側からの復縁」みたいな話題もあって、とても驚く。
自分に何度も何度も問いかけ、確認し、最後に彼女の顔を見ながら、たぶん、その愛おしさから、笑顔で告げたであろう言葉であったから、もう撤回なんてありえない。
もう、彼女に会うことは、決して、ない。
もう会えないけど、もうあの約束は果たせないけど、最後はクソみたいな別れ方だったけど、
君を好きだったことは本当だよ。
うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、もしどちらかを絶対に食べなきゃいけないとしたら、どちらを選ぶか?
おそらく物心ついた時分に、誰もが一度は直面したことのある命題だろう。究極的にプリミティブなトロッコ問題とも言えるかもしれない。
僕の答えはここ20年くらいのあいだ変わらなかった。迷うことなく、「うんこ味のカレー」だ。なぜか?それはうんこを食べたくないからだ。うんこの方は、いくらカレー味であったとしても、あくまで"カレー味"でしかない。つまり、うんこはうんこだ。僕はうんこは食べられない。なんかいろいろな尊厳を失いそうだし、わけもわからず親に謝りたくなると思う。
ところがつい最近、僕はこの命題について、もう一度しっかり考えてみた。なぜそんなことを今さら考えるに至ったかは自分でもよくわからない。仕事を辞めてから先、平日の昼間なのにベッドに寝そべって天井の模様を数えたり、フローリングの継ぎ目であみだくじをしたりという生活を送っていたことが何か関係あるかもしれない。
僕は大人なので知っているのだが、世の中にはスカトロジーという性癖がある。つまり、排泄行為や糞尿に対する性的嗜好だ。前に友達とふざけ半分でスカトロのAVを観たことがあったのだが、そこでは見た目は還暦手前くらいの歳なのに、何故かシワが全くと言っていいほど無いツルツルの奇妙なおばさんが自分の出したうんこを自分で口に詰め込み、体に塗り、何が楽しいのかオットセイのように絶叫していた。しかも一度だけではない。その回数、3時間の映像内でゆうに4回。こういう人ってふだんどういうことを考えて生きているんだろう。
妙齢の女性が4回は食べられる、ということは、おばさんのポテンシャル抜きに考えても意外な結果だと思う。これだけでも僕のうんこに対するハードルがだいぶ下がるような気持ちだった。
ネットで調べただけの知識にすぎないが、大小や形状あれど、うんこの致死量はおおむね"一本"らしい。この致死量もあくまで仮定でしかない。
例えばカフェインの致死量は400mgだが、これはコーヒーカップ4~5杯分にあたる。コーヒーが大好きな僕などは、ファミレスに行くとそのくらいの量は全然余裕で飲んでしまう。
さらにスカトロもののAVでは、女優さんは撮影の前後にちゃんと抗生物質を飲んでいるらしい。よく考えたら当たり前だ。万が一体になにかあったら大変だ。僕の前働いていた会社では、うんこを食べて何かあったとしてもおそらく労災すら降りない。僕の会社はうんこを食べる業態ではなかったのだ。AV業界は福利厚生がしっかりしているな。だからこそおばさんも安心してオットセイになれるのだ。
話が少し逸れてしまったが、なにも毎日カレー味のうんこを食えと言われているのではない。究極の選択、つまりここぞという時、マジでどっちか絶対食べなきゃいけない時にどちらを選ぶかということだ。
ここで"うんこ味のカレー"についても、もう一度考えてみる。
僕はもう子供じゃないので想像ができる。みんなも想像してみてほしい。うんこ味、ということは香りももちろんカレーではないはずだ。
ここで更にマズいことが起こる。カレーというものは大抵の場合においてホッカホカだ。もう言わずとも分かると思うが、加熱により香りが倍増したそれが、白いごはんと一緒に目の前にあったらどうだろうか?僕はもう無理、いろいろと無理だ。不快感がうんこ単体に対するそれの比じゃない。においは人の記憶と深い関係があるというが、きっとこちらを選択してしまったら死ぬまで忘れられないだろうな、と思う。例えば大きな仕事を成し遂げたとか、婚約だとか、この先の人生で何か節目となるような喜ばしいことがあったとしても、その度にふとこの選択肢を取ったということが頭によぎって背すじがピンとしてしまうだろうし、死ぬ直前にも絶対に走馬灯で出てくると思う。香り付きで。
だからきっと、実際にカレー味のうんこが目の前に出てきたら、僕は完食はおろか近づくことすらままならないはずだ。
と、あまり積極的な理由ではないものの、僕は齢28にして"カレー味のうんこ"という選択肢を初めて手に取ることができた。
大丈夫、致死量はあくまで仮定でしかないし、抗生物質だってある。においも味もカレーでしかないのだ。もしためらいそうになったら、カレー味でもないのにうんこを4セット食べるあのおばさんのことを思い出せばいい。きっと一歩を踏み出せる。
なんなら、うんこを食べたって事実がネタになる。"うんこ味のカレー"と違って、"カレー味のうんこ"は"うんこ"なのだ。子供の頃こそ、うんこ=悪みたいな風潮で、小学校のトイレでうんこをしただけで重罪人みたいな扱いだったが、もう僕たちは分別のある大人、しっかりとした判断ができる。うんこは罪ではない。うんこはおもしろい。数少ないが仲の良い友達だっているし、きっと笑ってくれるだろう。食糞という体を張ったネタを、あのカレー味がアシストしてくれる。そう思うとうんこって食べ得じゃない?
だいいち僕は無職だ。端的に言って死にたいのだ。大した経歴もないし仕事もできない、社交性もなければこれといって好きなこともない。もうすぐ30歳。はやくバイトに行けばいいのに、平日の昼間から「カレー味のうんこはどうだろう?」と一生懸命考えている。もう死んでもよくない?うんこ食って死んで誰かに笑ってもらえたらそれはそれで嬉しい気がする。親とか尊厳とかどうでもいいだろ。
そういうわけで、いまの僕は究極の選択を迫られた時、「カレー味のうんこ」を選ぶことができます。年齢を重ねると今まで分からなかったいろんなことが見えてくる。みなさんも大人になったいま、よかったら改めて考えてみてください。新しい発見があるはず。
僕はそろそろ日払いのバイトに行って小銭を稼ぎます。国民健康保険とか住民税とか払わなきゃいけないので…。誰にでも明日はやってくるんだよなあ!!