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はてなキーワード: 武将とは

2021-09-11

三国志演義ファンタジーなんだから呂布を倒すバトルをもっと熱く描いてほしい

最強の武将が部下に裏切られて泥酔して寝ていたところを捕らえられるなんて残念な結末だ。

劉備曹操が力を合わせ、関羽張遼徐晃が高順を破り、陳宮の罠を郭嘉が見破り、呂布張飛許褚とあとから駆けつけた関羽徐晃の4人がかりで倒す感じでお願いしたい。

2021-09-10

ドリフアルベルトアイーンシュタイン

日向勃興

サラリーマン予想

芍薬は見た目のわりに名前が軽すぎる

名古屋プーチン

コングロマリット略してこんまり

急ごしらえのハイサーグラフ

ミメーシス/自明視する

太田胃酸/大谷さん

枕詞 ソナチネ

前途洋々前頭葉

ビュリダンのロバ/バガボンのパパ

アル中ル・ランボー

買ってよかったものという表現は、どうでもいいものをたくさん買っていることを示唆している

パンパースの株を押し目買い

アッサムに着いた人「あっ寒」

大笑いしてごまかす→へそで沸かした茶を濁す

舌打ちするゲバラ

え?山梨県の水際対策

モザイクに含まれる細工

しかめつらしいしかめっつら

いざこざ/イコイライザ

矢を売ってる店→矢屋

本気で遊戯王をやっている人「遊戯王は遊びじゃないんだよ」

餃子の王将↔︎炒飯武将

医療が充実しているイェール大学→癒えーる大学

大童↔︎ちっちゃいおっさん

ペン付きの剣

血で血を洗う共洗い

ピコンプレクサ/アプラクサス

クリプトスポリジウム/クソリプ

海をデカい水と言う人

偽物のバッタ

いずくにか/ゆめぴりか

懇切丁寧なプラモデルメーカー→イタレリ尽くせり

メロスには青磁が分から

マイスタージンガーZ

アマゾンプライム↔︎ナイルスタンダード

全員鶴なので全然まとまらない会議

ハルマゲドン/はなまるうどん

余波がない騎士団→余波ねえ騎士団

星のマグロ→アストロ

棚を見た人「棚だなあ」

銭湯源泉徴収

残ってるレタス→リメインレタス

自腹↔︎他背

ハングリー精神↔︎満腹マインド

狭い城→2畳城

ルート二条城→城

蝉の指揮者半導体(semi-conductor)

一晩置くという指示は、昼間に起きていることを想定している

人を気絶させるツタンカーメンスタンカーメン

犯罪者だらけの町→犯し町

なんでもバラされる町→暴露

目黒に人が目白押し

群馬↔︎県牛

半沢直樹に含まれるハンザ

タリバンの車→タリタリバンバン

お菓子の家Home sweet home

海開き↔︎山閉じ

富士山オウム鳴く→第一サティアン

アッピア街道/オッペケペッポー

ガンジー→塩ニズム

重いオムニバス→重荷バス

カントリーマーム/関東ローム

ラッパー教授→脚韻教授

関西人のハーン→ア・カーン

餅の写真

から絵に描いたぼた餅

来年のことを言うと笑う鬼の目にも涙

石の上にも桃栗三年柿八年

2度あることは3度目の正直

泣きっ面に蜂の巣をつついたような

富士、二鳶が産んだ鷹、三茄子

虎の威を借る狐につままれる

犬も歩けば棒になった足にあたる

雀、三子の魂百まで踊り忘れず

早起き二束三文の徳

蛇に睨まれた蛙の子は蛙

掃き溜めに鶴の一声

上にたんこぶがある目から鼻に抜ける

ナイジェリア/アルジェリア

ナス茗荷ジンジャーエール

怖い仕返し→疾病がえし

猫ひろし↔︎猫の額

イラン音楽グループ→ニハーバンド

断捨離をするピアニストダンシャーリー

月に雁の贋作

若きウェルテルの悩み/若くて売れてる人の悩み

昭和君が代→チミが代

ルバイヤート/ヤバイルート

月明かりの東照宮月光西照宮

提案する猿→プロポー

嘘をつく麦→lie

酢が好きな巫女バルサ巫女

最高裁ドレスコードシュプリームコート

ファンであることを言おうとしてモンゴル君主になってしまった人→「大ハーンなんです!」

ゴアゴアゴアテックス→ゴアゴアテックス

ウミウシ/海馬

ミッションに含まれる密使

暴動ステーション

落ち着かないフランソワフランソワソワ

中国産コリアンダー

ラッパーが好きな飲み物は何かな?→ジントニックライムが入っているから)

ツタヤで延滞し続けてサブスクみたいになってる人

アールグレイ↔︎エルブラック

みんな皿洗いが嫌いな国→ブルネイダルサラアラー

ポルター概すと

誰かの前をずっと歩き続ける逆ストーカー

ネット賃貸↔︎書面で持ち家

パリの移動祝祭日パリ祭派

私立恵比寿中学↔︎都立目黒高校

ポルトガルマラッカ制海権掌握→どうすんだ海峡

ワンダー惚ける

キリスト使途不明金

二重の三重県民が八重桜五重塔の元四重奏

証券会社 /長谷川

バス運転手/小宮昌信

会計士/山下

内科医/神内豊

歯科医/内藤輝樹

ベンチャー社長/大林

コンビニ店長/斉藤雅史

トラック運転手/野島大介

小説家/新堂かおる

陸上選手/寺島さやか

喫茶店店員/林田美波

高校教師/森岡裕美

自衛官/大伴真純

車掌/皆川由美

100均/今泉ともか

部派仏教/馬場馬術

路地物流路地スティック

からワインを飲んだらバレたよ、なぜかな?→バレルだから

オーストリアハンガリーふたえ帝国

噂話が絶えない船→goship

白昼堂々ヒルクライム

千夜一夜/一粒万倍/一日千秋/一石二鳥/七転八倒/二束三文/八十八夜/三々五々/十人十色/千載一遇/一期一会/一栄一辱/一攫千金/一望千里/一喜一憂/一向一揆/一進一退/百姓一揆/百人一首/三位一体/一都六県/百発百中/一朝一夕/一言一句/一汁一菜/三寒四温/一挙一動/一国一城/万世一系/一世一代/千差万別/五代十国

一都六県に含まれるtrocken

美容師が住んでる岬→襟足岬

ありがたい寺→御の寺

ホロコースト/回鍋肉

巨大なメカブメガ

疑似餌のジビエ

次年度/自然薯/ジエン

舌鋒鋭い蜂

ミニバン↔︎ビックバン

瘴気を発する霞ヶ浦→ガスみヶ浦

明日アスリート

すかしっぺ/スカラシップ

巻きの競歩「駆け足になってしまいましたが…」

拒否する稲作農家「否」

くじらを立てるIWC

煙に巻かれたフィリップモリス

狐につままれFirefox

鳶職の子→鷲

ロキソ人(ろきそんちゅ)

ビザン人(びざんちゅ)

啼き声がGAFAの烏

堂々巡りという巡礼

銃・病原菌・鉄/私と小鳥と鈴と

食べられないバームクーヘンバーム食えへん

UMAの馬

海苔の枚数で勝負してるラーメン屋

ジュラ紀/受話器

ビビッとくる鮮やかさ

wisdom teeth/親知らず

シャチハタシャチでもハタでもない

小室↔︎大館

バンドマンの晩御飯

ムスリムうどん屋→するたんとん

ボー君/暴君

陶片追放僭主生命を断たれた

コニャック/こんにゃく

夢の島↔︎現の大陸

タリバンタンバリン→タリバリン

適当ちゃんぽん→ちゃらんぽん

試してgoddamn

コックの訛り→コックニー

名前がローチのコック

ブリュメール18日クーデター(575)

酒「人を飲んでも飲まれるな」

悪しき伝統/アクシデント

むざむざに含まれるザムザ

フカフカに含まれカフカ

フカヒレ/深爪

うーんガンダム

仁和寺の法師→ドツボにハマる

刺身に含まれるシミ

ヴォルリモート

断定するチーム→であるマドリード

山鳥の尾のシナリオ

だんだん肉が出てくる焼肉屋→徐々苑

決定するフセイン→定むフセイン

リユース、リデュースリサイタル

ガンダーラ様式力士→混合力士

日本海海鮮に敗北→牧畜艦隊

山→n字谷

全然やりたくない人→やりたいのは川川ですが..

ひらくごま

カントリーマアム↔︎シティファーザー

水質オタク

午後の紅茶↔︎午前様

神隠し↔︎龍角散

絵売りピデス

モテ期外務大臣

萩生トライアングル

さすが官房長官

カルツォーネは重い

和洋折衷に含まれ溶接

明るい寺→カン

使役するシメサバ

大谷単刀直入に申し上げると…」

デリヘル/訪問医療

猪突猛進する豚

ラクダに乗った人「楽だな」

銭洗弁天資金洗浄するアライグマ

タックスヘイブン↔︎借金地獄

地面師/dimension

蝶のバターフライ

掛け値なし(税込)

縁の下の力持ち↔︎山上憶良

マングローブ→男が地球支配

新しい変異株→おいちょかぶ

ベルリン昼ハーモーニー

2021-09-06

anond:20210906143617

だってねこまんまサラッと食べられていいもん!ちょっと味噌の味とかして美味しいもん!

織田信長も他の武将も食べてたもん!

2021-09-05

三国志9してるけどいつもどおり終盤あきた

なんなら中盤からもうあきてる

あきない三国志など夜明けやゲップぐらい確実にないけどな

そもそも三国志中原支配するまでのゲームだし

だけど9はなんといってもあほみたいな異民族が何個もあるのがつらい

なんだよ兵数50万て

完全制覇するなら一都市残して異民族狩りしなきゃならん

そして兵の移送がくっそだるい

ひとつ異民族滅ぼして次の僻地移送することを考えるだけでげんなりする

から途中であきて統一するかなげだすんだよな

抜擢縛りで年1でしか増えない武将目標必死に序盤をいなすのはそこそこ楽しかった

港の棺桶ありきだがな

てーか兵糧の上限が低いんだよ

兵士は負傷兵で相手から吸収してごろごろ増えてくんだよ

兵糧は年1収穫だからなんとか商人常駐の都市を奪わないと破産する

で序盤は米転がしで財政黒字に持っていって中盤以降は上限値まで収穫しても一年間の出費をまかなえないから毎ターン金で兵糧を買い足さないといか

これで武将が5人前後拘束されてくっそだるい

抜擢縛りなら5年分がお買い物係で拘束される

戦争楽しいで高評価な9だけどかったるい部分も結構あるんだよなそれも毎回する時間がかかる作業部分でだから時間が溶ける

それと強奪が無いから馬もちの劉備諸葛亮呂布が斬れん

曹操は部下のために馬を差し出すいいやつ

ほかのやつらは馬の方が大事人間のクズ

仕えるならやっぱり孟徳がナンバーワン

2021-09-04

anond:20210904195501

尼さん?女のお坊さん?みたいな禿頭の女性たちが猛々しく支配するエリアもあるのかねえ

戦国時代の女武将みたいだ

anond:20210904143630

当時の価値観で例えるならば、学者が遣明使として派遣された事に相当するのであって、裏切って主君を殺した武将で例えるのは的外れでしょ

2021-08-29

anond:20210829001539

戦国時代とある男色家武将が寝込みを美女に包囲された際、女にイカされないようにするために、本能のままに自ら自慰で果ててそのまま死亡したという。

これが本能自慰の変である

2021-08-28

歴史アイドル

KB48 鎌倉幕府の48人の武将

AKO47 赤穂四十七士

長坂46 長坂の戦いで張飛とともに殿を務めた46人の勇士

黄泉比良坂46 イザナミに仕える46人の鬼

2021-08-02

anond:20210802161404

パートナーの変化というより略奪に近い感じを楽しんでそう

古代モンゴル武将に馬上で嫁と娘を盗られるみたいな屈辱感みたいな

2021-08-01

anond:20210801203009

誰やったか忘れたけど

男にラブレター書いててそれが残ってる武将おったで

テレビでやってた

2021-07-31

anond:20210731152603

その昔、偉い武将様は言った

「人は石垣 人は城」

確かそんな感じのことを言った

 

やっぱ人柱って大事だと思うのよ

2021-07-26

尊敬していたヲタク低学歴オッサン趣味になっていて辛かったって話

俺は学生時代からキョロ充だったし、今もそうだ。

1人で飯が食えないタイプだ。誰かと同じことをしていないと不安になってしま人間だ。

当時、全く面白くもない『ダウンタウン』のお笑い番組だとか『エンタの神様』だとか、興味もない『ミュージックステーション』を見て、クラスメイトと話を合わせていた世代だ。

トレンドで言うなら、何が楽しいのかわからないけどオリンピック金メダルすごいね!と語るタイプのつまらない人間が俺だ。

現代風に言うと、陰キャ。でも、人と話を合わせることで、なんとか立ち位置を獲得していた。

そんな俺も、アニメゲームは根元から、少し好きだった。

当時はハルヒコードギアス流行っていた。あとはスクールデイズだとか、ひぐらしだとか。とにかくそういうものが好きだった。今より少し、深夜アニメを見ていると公言するには恥ずかしかった時代だ。

そんな俺には、学生時代憧れていたヲタクがいた。

名前を仮にNとしよう。

Nは学活というものを極端に嫌うやつだった。合唱祭の練習だとか、文化祭の手伝いだとか。

「みんな積極的に出ようね」という空気はとにかく読まず、自由参加と銘打たれた活動に一切姿を現したことがなかった。

でも、頭はよかった。5教科の総合成績で、いつも1番か2番になっていた。特定を避けるために詳細は書かないが、とある学問分野で全国的表彰されたりもしていた。

からものすごく嫌われていたと思う。そして、多分Nも俺達のことが嫌いだった。給食時間だとかに、Nが口を開いているのを見たことがなかった。

Nはバラエティ番組の話を一切しなかった。オリンピックの話を一切しなかった。

大衆娯楽というやつを、Nはとにかく見下していたのだと思う。やつは二次元狂いだった。昼休みは常に図書室に籠って漫画ラノベを読んでいた。

なんでそんなことを知っているのかというと、一時期、俺も昼休み中二病にかかって、図書室でラノベを読みに通っていた時期があるからだ。

その行きと帰りの道で、必然一緒になって、Nと話す機会が何度かあった。教室に戻ると、Nはとにかくこちからしかけてもほとんど空返事しかしない男だったので、その道中で話すしかなかった。

Nは話してみると面白人間で、オールラウンダーなヲタクだった。

少しハルヒの話を振ると、Nは「ハルヒは嫌いだ」と前置きをした上で、元ネタSF小説の話を初心者にもわかりやすく、ジョークを交えて教えてくれたし、歴史系の話をすれば、聞いたこともない武将や各時代エピソードを色々と語ってくれた。

アニメ特撮についても勿論詳しくて、押井守批判だとか出﨑統のすばらしさを語って(今思うと彼も中二病だったのかも)、まんだらけに行って原画資料を眺めるのが楽しいと嬉しそうに話していた。

映画も大量にTSUTAYAで借りて見て、聞いたこともないような芸術雑誌文芸雑誌科学雑誌を何冊も買っているようなやつだった。(Nは俺がそれらのジャンルを知らないとわかると、一切その話をしなくなった)

ただ、Nにバラエティオリンピックの話をすると、途端にやつは不機嫌になった。俺は慌てて話題を変えたものだ。

その時に、Nは言っていた。「パチンコだとか競馬だとAKBだとか、ああい趣味にハマっている大人ダメだ。嫌いだ」と。

理由は「他人と同じでつまらいから」だと語っていた。

俺はなんとなく、鼻が高くなったのを覚えている。多分、俺はNの存在に救われていたのだと思う。

きっと、キョロ充である俺が到達するのは、そのような「つまらない大人」に違いないと諦めていたからだ。そして多分、俺もまた人とのコミュニケーションうんざりしていたからだ。

人と同調して中身のない会話をして、なにやら冗談を言って笑わせて。自分のためではなく他人のためのコミュニケーションが、俺は嫌いだった。

俺は無能だったし、人から孤立するのが怖かったから、キョロ充をしていた。でも嫌だった。N以外のクラス人間と話したり遊んだりするのが苦痛しかなかった。

でも、Nは違った。自分能力他人を黙らせて、好きな物だけ摂取して、自由に、生きたいように生きているように見えた。

他人に流されない、気高い孤高の男で、俺はいつかNみたいになりたいと思った。

ヲタクとして、Nはきっとクリエイター評論家になって、多くの人を唸らせるような、美しいもの表現するに違いないとすら当時の俺は確信していた。学生時代コイツ時間を共有したことをいつか誇ろうと算段していたのを覚えている。

前置きが長くなった。

卒業と同時に離れ離れになったNと、先日、俺達は東京で再会したのだ。偶然のことで、たまたま映画館で『閃光のハサウェイ』を観た時、横で限定版のBlu-rayと『夏への扉』のパンフレットを買っていたのが、Nだった。

Nに話しかけ、俺のことを覚えていると知った時、嬉しくなって、うっかり「飯でも食わないか?」と誘った。

しまった」と思った。

Nは、これからハサウェイのBlu-rayパンフレットを自宅に帰って観るのを何より大切にするような人物だと覚えていたからだ。

だが、Nは、「いいよ」とアッサリ快諾してくれた。

それから、近くの店で話して。俺は泣きたい気持ちになった。

Nが、ウマ娘の話を楽しそうにし始めたからだ。

俺もまた、ウマ娘をやっていたので、「推しタキオンなんだよ~」とか、中身のない会話を続けた。

Nは、俺とアイドルライブの話をした。BTSの話をした。オリンピックの話もした。

俺は勝手失望していた。Nは、きっとあの幼き日に、彼が嫌っていた大人のものになっているように見えた。

酒の話、サウナの話、競馬野球の話をする。全てNは自分体験談も交えて応じてくれた。

試しにパチンコの話をすると、ミリオンゴッドとかいうよくわからない機体の話をペラペラと話していた。

Nは、大衆に呑まれていた。低学歴オッサンが好むような、侮蔑するべき酒だのサウナだのパチンコだのアイドルだのの話をしていた。

一番やつが嫌いそうな、バラエティ番組にも、随分と詳しくなっているようだった。

どうしたのだと聞きたくなった。

お前は、俺とは違うんじゃなかったのか。

他人なんて気にせずに、自分の道に邁進して、人の顔色を伺うようなつまらないコミュニケーションは決してしない、そういう男ではなかったのか。

学生時代にお前が探求していたに違いない、美しいものは何処に行ってしまったんだ。キョロ充の俺とは違うんじゃなかったのかと。

孤高のヲタクは、どこにいってしまったのだ。俺は辛かった。そして、その辛ささえもあまり感じなくなっていた俺自身が、何よりも辛かった。

若い日の憧れも、時間社会経験によって、すっかりと洗い流されてしまっていたのだ。だから、きっとNもそうに違いないと思った。

社会は独りで生きていけるようにはできていない。今は特にそうだ。

1億総オタク社会だとか、1億総陰キャ時代だとか揶揄するやつがいるが、それは違う。

今は、『1億総キョロ充時代なのだSNSは、下らないキョロ充を量産するための装置に違いなかった。常にみんなが、人の顔色を伺ってコミュニケーションを取っている。

キョロ充だけれど、きっと充実しているのだろう。だからいいじゃないか、としたり顔大人達の声が聞こえてくるような時代だ。

から仕方のないことだと思った。Nも、「上手く他人と生きる」つまらない人間、否、正しい人間進化したのだと、自分を納得させた。

他人が見たい仮面必死に作るのが、正しい生き方でありコミュニケーション本質である。そして低学歴趣味とは、その本質にとって最高に都合のいい道具なのだから

でも、それでも俺はNに、お前、どうしたんだよと聞きたくなった。

聞きたくなったので、聞いた。正直に、「パチンコとか競馬とかバラエティとか、あと流行りのウマ娘とか、そういうの嫌いだと思ってた」と。

Nは、俺の顔を見て、笑って言った。

「当たり前じゃん。今言ったやつ、全部大嫌いだよ!」

Nの目はドス黒くて、世の中全てを見下していて、それでいて、とても楽しそうだった。

それは、あの日俺が憧れた、孤高の少年の姿そのままだった。

俺は、最高に嬉しかった。その後のことは、あまり覚えていない。とにかく、Nの職業が何なのかは、あえて聞かないで別れた。

何故なら、確信たからだ。やつはきっと、多くの人を唸らせるような、何かを創り上げているに違いないと。

勿論その日、NとLINEの交換はしなかった。

2021-07-23

多様性とかポリコレとか大嫌い

多様性って全然多様性じゃなくて全部入り以外NGみたいな、日本時代劇つくったとき武将黒人白人入れろみたいな頭おかしい感じだし

そのうちBLFtM未手術受けとかが入ってないとか言って荒れるんでしょ

2021-07-21

anond:20210720210019

それは自称武将人物かも

中世大友将軍源氏系)は、大神将軍平氏系)日出城の近くに同じ名前の城を立てた

2021-07-20

anond:20210720192041

戦国時代武将も本当はこんな感じの集まりだったのでは

公共放送

公共放送でありながら歴史上の記録映像の共同利用について非協力的である報道五輪関係者小山田障害者たちにした残虐の核心の部分を隠蔽した。大河ドラマ諸国武器輸出先の武将物語が多く、源氏や近衛氏の騒動煽り斬首晒し文化批判しておらず容認である。彼等と争った地域政治的弱者映像上で辱めようとしていることも伺え、政治思想の偏り、倫理性の欠如が見える。NHK国外支店コストも、また不明である

2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

2021-07-10

anond:20110709054010

なんか百戦錬磨武将自軍左翼の動きを評してるみたいでカッコいい。クソリプでごめん🙏

2021-07-09

政治家歴史シミュレーションゲームサイコパスか、裸の王様か?

みんなさ、信長の野望とか三国志とか戦略系のシミュレーションゲームやったことある

Hearts of Iron でも Europa Universalis とかでも何でもいいんだけど。

やったことある人ならわかると思うけど、この手のゲームってリソース管理が命なわけよ。

有限の資源である資金や兵糧や配下武将とかを他勢力よりも効率よく利用しないと成りあがるのは難しい。

で、今の日本の政治家を主人公にしたゲームでさ、『菅義偉の野望』みたいなゲームがあったとするじゃん。

ゲームなわけだから勝利条件があって、こんな感じだとするじゃん。

コロナ他国よりも早く収束させて、海外へのワクチン供与経済支援を行い、国際社会尊敬を集める

オリンピック成功させて国民に夢と希望を与えて支持率アップ、国威発揚

都議選衆院選勝利して長期政権への基盤を作る

だけど実際の政治家は、勝利条件から遠ざかるような判断を下しまくっている。

国民に会食自粛要請しながら政治資金パーティーとか、(ゲームなら民衆の忠誠度が下がる)

飲食店保証金出すから休業してくれと言って、お金の振り込みが遅れるとか、(ゲームなら民衆の忠誠度が下がる)

ワクチンを早く打てと言って、在庫いか供給しないとか、(ゲームなら出撃した部隊の兵糧取り上げるようなもんだよね?もちろん忠誠度が下がる)

不徹底な水際対策変異株が入るのを許しまくりとか、(ゲームなら治安低下。やっぱり忠誠度が下がる)

どう考えても勝利条件から遠ざかるようなふるまいをしていてさ、はたから見るとやられ役としてAIを弱めに設定されている今川氏真か、劉禅かって感じでわざと自滅するようにプレーしているサイコパスなんじゃねーのって思ってたんだけど。

しかしたらプレーヤーのゲーム難易度ナイトメアモードなのかなという気もしている。

シミュレーションゲームなら敵国の国力や部下の能力が数値化されてて全部見えるけど、ナイトメアモードの『菅義偉の野望』では側近からの口頭の助言しか判断材料がない的な。

もともと戦国時代に詳しい人ならば、データがわからない状態でもそこそこプレーできるかもしれない。

だけど知識ゼロの人が『信長の野望』をプレーしたとするじゃん。で、はたから見ている第三者が早くプレーヤーをゲームオーバーにさせれば自分プレイ順が回ってくると思って偽情報を吹き込んだとする。

姉小路家は強いか初心者お勧め」とか、「島左近は野心が高くて裏切るから追放した方がいい」とか。

戦国時代知識が無くてゲームをしているプレーヤーは、悪意のある第三者に偽の情報与えられたときに真偽を判断できるだろうか?

姉小路島左近も、高校までの日本史勉強で出てこない話だし、たいていの人は騙されちゃうんじゃないだろうか?

現実世界ゲームにたとえてみると、今の政治家現実世界勝利条件から遠ざかる判断を下しまくってるのは単純に適正のない人がゲームプレイしてる結果なのかなとも思えてくる。

だとしたら今の日本政治システムの欠陥 (例えば小選挙区制とか) とかの可能性ってないんだろうか。

トップの器でない人が上に行っちゃう構造になってるのだから

オリンピックの無観客のニュースを聞いて、みんな当然のように予想できたことなのにどうして政治家たちは今まで判断できなかったのだろうと不思議に思ったので、こんな仮説を書いてみた。

まんざら外れてもいなんじゃないだろうか?

2021-07-07

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い

 戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側  

 多くのコメントブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございますhttps://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください

古代

テルモピレーの戦い

 B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下

 スパルタレオニダス指揮下のギリシア連合軍ペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。

 参考作品「300(ザック・スナイダー監督)」

・彭城の戦い 

 B.C205 楚漢戦争 ★楚3万vs漢56万

 漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略成功したことから油断し、酒宴に明け暮れた漢軍は突然の事態太刀打ちできず20万人以上が戦死した。

昆陽の戦い

 23年 ★緑林軍1万vs新43万

 劉秀率いる緑林軍が新軍に包囲される。劉秀は脱出し、外側から新軍を襲撃して壊滅させた。

・ワトリング街道の戦い

 60年 ★ローマ軍1万vsブリタニア23

 ブーディカ女王率いるケルト人ローマ支配に対して反乱を起こした。ローマ軍は反乱軍を狭いワトリング街道に誘い込み、これを破った。ローマ軍の死傷者はわずか400人であったのに対し、反乱軍の死傷者は8万人であった。

・博望坡の戦い

 203年 三国時代 劉備軍4000vs曹操12

 劉備軍と曹操軍が宛で対峙する。劉備撤退したと見せかけ、誘われた夏侯惇撃破した。李典の援軍が来るとみた劉備は兵を引き、曹操軍も撤退した。

淝水の戦い

 383年 五胡十六国時代 ★東晋軍8万5千vs前秦軍117万

 華北統一成功した前秦東晋征服のために大軍派遣する。前秦軍は敵軍を誘うため、先鋒を退却させる作戦をとるが、兵が混乱して退却を止めなかったため、そこを突かれて敗北した。

中世

・チェラーミの戦い 

 1063年 ★ノルマン軍136vsムスリム5300

 アラブ人支配下にあったシチリアにルッジェーロ1世率いるノルマン人が侵入イスラム教徒撃退した。アラブ軍は戦力の7割を失ったとされる。

・黄天蕩の戦い

 1130年 宋金戦争 ★南宋8000vs金10万 

 韓世忠とその妻梁紅玉率いる南宋軍が金軍を打ち破り、2万5000人を討ち取った。

志度合戦

 1185年 治承・寿永の乱 ★源氏80vs平氏1000

 屋島で破れ、志度寺に立て籠もった平氏源義経が追撃した。平氏大軍が後に続くとみて敗走した。

・下赤坂城の戦い

 1331年 元弘の乱 楠木軍500vs★鎌倉幕府1万

 楠木正成は下赤坂城に籠城し、幕府の包囲にゲリラ戦で1ヶ月以上抵抗した。城は陥落したものの、幕府楠木正成護良親王を討ち損ねた。

千早城の戦い

 1333年 元弘の乱 ★楠木軍1000vs鎌倉幕府2万5000

 千早城に立て籠もった楠木軍は幕府軍に包囲されるも、3ヶ月に渡って抵抗した。気が緩んだところを奇襲するなどの奇策で消耗した幕府軍は攻略を諦め、撤退した。

・船上山の戦い

 1333年 元弘の乱 ★後醍醐天皇軍150vs鎌倉幕府3000

 後醍醐天皇隠岐の島から脱出すると伯耆国武将名和長年挙兵し、隠岐守護佐々木氏攻撃した。名和軍は数百の軍旗を見せつけて威嚇する、暴風雨に乗じて攻撃するなどの戦法で幕府軍を破った。

応永の外寇

 1419年 ★対馬国600vs李氏朝鮮1万7000

 倭寇に悩まされた朝鮮はその本拠地と見なした対馬へ討伐軍を派遣するが、宗氏の抵抗に遭い撤退する。対馬側は100~200人、朝鮮軍は3000人ほどが戦死した。

ビルスの戦い

 1444年 旧チューリッヒ戦争 スイス軍1500vs★フランス軍3万~4万

 スイス軍チューリッヒを包囲したことにより、フランス戦争突入した。スイス軍は数で勝るフランス軍死闘の末に壊滅するが、フランス軍2000人の損害を被った。この戦いによりスイス人の勇敢さがヨーロッパ各地に知れ渡った。

土木の変

 1449年 ★オイラト軍3万vs明軍50万

 明の正統帝は自ら大軍を率いて、オイラトの征伐に向かう。しかし、食料配達の困難や大雨により明軍は士気が低下しており、そこをオイラトに奇襲された。明軍はほぼ全滅し、皇帝捕虜となった。

近世

九頭竜川の戦い

 1506年 戦国時代 ★朝倉軍1万5000vs一向宗30万

 越前制圧を目論む一向宗朝倉軍が九頭竜川を挟んで対峙朝倉軍は夜襲により一向宗撃退した。

セントラの戦い

 1519年 スペインメキシコ征服 ★スペイン軍410vsマヤ軍1万~4万

 征服コルテス率いるスペイン軍がマヤ大軍交戦マヤ軍はスペイン人の軍馬に恐れをなして敗北した。スペイン軍の犠牲わずか2名だが、マヤ軍は800の犠牲を出した。この戦いでコルテスは後の妻にして翻訳者としてアステカ征服に貢献するインディオ女性マリンチェを得た。

・オツンバの戦い

 1520年 スペインメキシコ征服 ★スペイン・トラスカ連合軍 7~800人vsアステカ軍4万

 アステカ軍はスペイン軍の侵略を一度退けることに成功した。その後、大軍を率いて追い打ちを試みる。しかし、初めて見る軍馬威力に恐れ戦き、指揮官を含む大勢戦死したため敗走した。この戦いの後コルテスはアステカを滅ぼした。

・プナの戦い

 1531年 スペインペルー征服 ★スペイン軍168vsプナ先住民3000

 スペイン軍がインカ帝国征服へ向かう途中、プナ島で先住民交戦するが、銃と馬の威力でこれを打ち破る。

・ディーウ包囲戦

 1538年 オスマンポルトガル戦争 ★ポルトガル軍600vsオスマン・クジャラー連合軍2万2000

 ポルトガル軍が連合軍に包囲されるも、3ヶ月の籠城戦の末にこれを退けた。ポルトガル軍の死傷者は40名に対し、連合軍の死傷者は3000名。

・スィゲトヴァール包囲戦

 1566年 ハンガリー軍2000~3000vs★オスマン10万~30万

 ウィーン遠征へ向かうトルコ軍クロアチア総督リンスキ率いるハンガリー軍を包囲。1ヶ月にも及ぶ激戦の末に防衛軍ほとんど全滅したが、トルコ軍にも2万人の犠牲者が出た上、スレイマン1世が陣没したため、撤退余儀なくされた。リシュリューはこの戦いを「文明が救われた戦い」と称えた。

今山の戦い

 1570年 戦国時代 ★龍造寺軍5000vs大友軍6万~8万

 佐賀城に籠城した竜造寺隆信を大友宗麟率いる大軍が包囲する。攻防戦は4ヶ月にも及び、落城は目前に迫ったが、大友軍が勝利確信して宴を催したところを奇襲し、これを破った。

木崎原の戦い 

 1572年 戦国時代 ★島津軍300vs伊東軍3000

 島津軍は数で勝る伊東軍を伏兵に背後を突かせることで破った。島津軍は275人が犠牲となったが、伊東軍は指揮官伊東祐安含む800人以上が戦死した。この戦いは後の島津軍の戦いにおいて参考にされ、九州制覇に貢献した。

信長第一回雑賀攻め

 1577年 戦国時代 雑賀衆2000vs織田10

 信長石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を試みるが、雑賀衆は1ヶ月にも及ぶゲリラ戦でこれを退け、両者の間に和睦が成立した。

天目山の戦い

 1582年 戦国時代甲州征伐 武田軍43vs★織田軍3000~4000

 織田軍に追い詰められた武田軍の最後の戦い。武田軍は奮戦虚しく壊滅し、武田勝頼は自害したが、織田軍にも900人近い死傷者が出た。

・沖田綴の戦い

 1584年 戦国時代 ★島津有馬連合軍6000vs龍造寺軍6万

 連合軍は数で勝る龍造寺軍を釣り野伏せで破った。この戦いで総大将竜造寺隆信は戦死した。

・岩屋城の戦い

 1586年 戦国時代 高橋軍763vs★島津軍2万~5万

 島津軍は筑前を攻めた際、高橋軍の籠城する岩屋城を攻略した。高橋軍は講話提案にも応じず、激戦の末に全滅した。島津軍は4500以上の死傷者を出した。

忍城の戦い

 1590年 戦国時代小田原攻め 成田2000vs★豊臣軍2万~5万

 石田三成ら率いる大軍忍城を包囲し、水攻めを行うも、成田軍はそれに耐え、北条氏が滅亡した後に降伏した。 

四川の戦い

 1597年 慶長の役 ★島津2000vs明・朝鮮連合軍10

 島津義弘率いる日本軍が明軍に包囲されるも、これを返り討ちにした。日本軍の勝因として、鉄砲使用したこと、明軍の食料庫を焼くことで短期決戦に持ち込んだこと、連合軍の統制がとれなかった上に圧倒的な兵力差故に慢心していたことが挙げられる。

田辺城の戦い

 1600年 戦国時代 東軍500vs★西軍1万5000

 田辺城に立て籠もった東軍西軍が包囲するが、東軍には文化人細川幽斎が居たため、西軍積極的な攻勢が出来ず、2ヶ月ほど釘付けになった。最後後陽成天皇の命で開城したが、西軍関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

・第二次上田合戦

 1600年 戦国時代 西軍2500vs東軍3万8000

 関ヶ原へ向かう徳川秀忠指揮下の東軍真田昌幸率いる西軍交戦した。足止めを食らった東軍関ヶ原に間に合わなかった。

・リオ・サン・フアン・デ・ニカラグアの戦い

 1762年 七年戦争 ★スペイン100vsイギリス軍2000

 イギリス軍ニカラグア処女降誕要塞を包囲するが、スペイン軍は19歳の少女ラファエラ・エレーラの指揮下で奮戦し、砦を守り抜いた。

近代

アラモの戦い

 1836年 テキサス独立戦争 テキサス200vs★メキシコ軍4000

 当時メキシコ領であったテキサス移住したアメリカ人メキシコに対して反乱を起こした。アラモ砦に籠城したテキサス軍はメキシコ軍の包囲に対し13日間持ちこたえた末に全滅した。

 参考作品アラモジョン・ウェイン監督)」

・雨花台攻略

 1862年 太平天国の乱 ★湘軍2万vs太平天国20

 湘軍によって要塞化された雨花台を太平天国軍が5ヶ月にわたって何度も攻撃するが、落とせず1万の兵力を失った後に攻略を諦めた。

・第二次サビーネ・パスの戦い

 1863年 南北戦争 ★南軍50vs北軍5000

 サビーネ湖とメキシコ湾を繋ぐサビーネ・パス防衛する南軍北軍攻撃を受けるも、これを撃退する。北軍100名が死傷し、350名が捕らえられた。

カマロンの戦い

 1863年 ナポレオン三世メキシコ出兵 フランス外国人部隊65vs★メキシコ2000

 65名の外人部隊現金300万フラン輸送する部隊の護衛を任されていた。メキシコ軍の大軍の前に破れ、43名が戦死、19名が捕虜となったが、輸送部隊目的地へ現金を届ける事が出来た。

・ロルクズドリフトの戦い

 1879年 ズール戦争 ★イギリス軍150vsズールー軍3000~4000

 ロルクズドリフト伝道所跡に築かれたイギリス軍の砦をズールー族の大軍が襲う。イギリス軍は2日間の激戦に勝利し、ズールー軍は800名以上の死傷者を出した。

・アブ・クレアの戦い

 1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1100vsマフディー軍1万2000

 ゴードン将軍の救出に向かうイギリス軍とマフディー軍が激突し、マフディー軍は1100人の死傷者を出して敗北した。

・アブ・クルの戦い

 1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1200vsマフディー軍1万4000

 ゴードン将軍の救助に向かうイギリス軍がマフディー軍と交戦し、勝利した。マフディー軍の損失は明らかではないが甚大であるとされる。

現代

盧溝橋事件

 1937年 日中戦争 ★日本軍5600vs中国軍10

 盧溝橋付近日本軍の夜間演習中に日本兵一人が行方不明になる。日本軍がこれを理由中国軍攻撃し、破った。この事件が熾烈な日中戦争きっかけとなった。

タラワの戦い

 1943年 太平洋戦争 日本軍2600vs★アメリカ軍3万5000

 タラワ環礁ベティオ島を防衛する海軍部隊アメリカ海兵隊が激突した。島は3日で陥落し、守備隊は玉砕したが、米軍も3000人が死傷し、軍への志願率が一時的に減少した。

・拉孟の戦い

 1944年 日中戦争 日本軍1300(うち傷病兵300)vs★中国軍2万

 日本軍中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍8000人が死傷した。

・騰越の戦い

 1944年 日中戦争 日本軍2800vs★中国軍5万

 日本軍中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は2万人が死傷した。

アンガウルの戦い

 1944年 太平洋戦争 日本軍1250vs★アメリカ軍2万1000

 日本軍歩兵第59連隊第1大隊守備するアンガウル島をアメリカ軍第81歩兵師団攻略した。1ヶ月以上にも及ぶ激戦の末に日本軍玉砕したが、米軍2000人死傷した。

 参考作品英霊の絶叫(船坂弘著)」

・一江山島戦役

 1955年 第二次国共内戦 国民党軍700vs★共産党軍7000

 人民解放軍が一江山島に侵入、2日で占領した。台湾軍は全員が戦死するか、捕虜となったが、解放軍にも2000人の死傷者が出た。

・ロングタンの戦い

 1966年 ベトナム戦争 ★オーストラリア軍108vsベトコン2500

 ベトコンオーストラリア軍を襲撃するも、撃退された。オーストラリア軍は42名、ベトコンは600名が死傷し、双方が勝利を主張した。

 参考作品デンジャー・クロース 極限着弾(クリフ・ステンダーズ監督)」

・ロンゲワラの戦い

 1971年 第三次印パ戦争 ★インド軍120vsパキスタン軍2000

 ラジャタンのロンゲワラ村でパキスタン軍インド軍守備隊が交戦インド軍航空機支援を得て、パキスタン軍を破った。パキスタン軍の死者200名に対し、インド軍の死者は2名ほどであった

モガディシュ戦闘

 1993年 ソマリア内戦 ★多国籍軍160vsソマリア民兵2000

 アメリカマレーシアパキスタンからなる多国籍軍が、民兵リーダーであるアイディード将軍の側近二人を逮捕すべく派遣され、民兵交戦状態になった。民兵は数百人が死傷し、多国籍軍目的を達成したが、100名以上が死傷した。

 参考作品ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督)」

  

 

2021-06-29

anond:20210629111110

大学生かな?w

この話をつきつめるとバベルの塔みたいな話になってくるからやめるけど、個人とか自宅とかに置き換えてみればいい。

自分の庭に隣人の柿の木の枝がのびてきたり、熟した柿が落ちてきたら抗議する、それがまあ「利害」という概念のプリミティブな例である

簡単にいうと「争いの火種」ってことかな。

企業活動通貨金融経済活動というルール指定されているのでそのルールを逸脱した利害行動はできない。

たとえば暴力だとか、不法占拠だとか。そのかわりに法律と金が動く。

いっぽう国家民族においては、その国家民族を「定義」した時点で利害が発生する、と考えている。

たとえばウイグル人東トルキスタンという国がもともとあったから、中国侵略されても、中の人間が「我々は東トルキスタン人だ」といえば、

その「利害」を消すことができない。だからそれを完全に消そうとして、100万人以上を奴隷労働させて臓器を抜いたりしている。

基本的人間である以上は利害が必ず発生するわけだが、それを国家レベルでやると、間違えた人間が王になると「暴力」「不法占拠」「弾圧」「虐殺」が発生する。

それがエスカレートした有名な例は、呉越戦争きっかけがわかりやすい。

けっきょく、サイズの違いはあれど「人間の争い」が利害であり、国家建国した人間や、その時点でのトップの「人間性」が利害の拡大縮小を左右させるのだと思う。

紀元前519年のあるとき、呉楚国境の村で小さないから国の運命をかけた戦争へと発展する事件が起きた。その村では養蚕(ようさん)が盛んであったため、蚕の餌となる桑の葉を大量に必要としていた。そのため、辺りには桑の木がたくさん生えていたが、呉の村の子供と楚の村の子供がこの桑の葉を争って喧嘩を始めた。それが子供の親同士の喧嘩に発展し、呉の村の親が負けて家を焼かれた。これに村を統治している郡主は警備兵を出して村を攻め立てた。この報を受けた平王は怒り、国軍を出して村を全滅させた。呉の村が滅ぼされたのを聞いた僚は激怒して国境の居巣と鍾離を攻め落とした。さらに州来まで進撃したため、楚も武将の蔿越を派遣してこれを迎え撃った。だが、公子光が「楚に属国はいずれも小国で楚をおそれて従っているだけです。「戦は情けよりも武で、無勢でも勝てる」と聞きます。まずは属国の胡と沈は君主が年若く、陳の大夫の夏齧は年老いて頑固で国政は停滞し、また頓と許と蔡は楚の振る舞いに不満を持っております。同時に楚も統率力がある令尹が亡くなったため、混乱しております。まずは軍を手分けして、胡と沈と陳の軍勢突入すれば、楚はますます混乱に陥り、他の属国軍勢も崩れるでしょう。まず先鋒隊は隙を多くし、敵をおびき寄せて、後詰の本隊で撃ち破ることをお勧めします」と進言した。僚はこの進言を採り上げて、秋7月に鶏父で呉王僚自らが囚人3千人を胡と沈と陳の軍勢攻撃させ、右軍は公子光、左軍は公子掩余が指揮し、胡と沈の若い君主捕虜し、陳の大夫の夏齧も捕らえた。こうして呉は勢いに乗じて楚を撃破した[1]。

2021-06-20

anond:20210620150212

ぜんぶ

いつもの人だと思うのでひたすらループするのが目に見えていてトラバ返したくないんだけど

1つだけあげとくと 車 だな

 

俺は小さい子供を載せて自転車に乗っている側では無いのを言っておく

そしてそんな事言われても困る。主婦共に言えよ。俺も彼女らの被害者側なんだから

たまにスーパーに行く時気になって自転車置き場を見るが数年前から7~9割補助動力付きだ

幼稚園子供落としてからパート行く主婦かに毎回タクシーに乗れとか言ってるのなら

小泉進次郎くらい何も分かって無いように思う

 ↓

現実はこのレベルだと思ってるけど ↓

子連れなのに電動自転車じゃないママ | ママ交流掲示板 | ママタコミュニティ

https://mamastar.jp/bbs/comment.do?topicId=3705056

 

そして電動自転車買えるレベルの財布事情クリアしていても待ち受けてるのはコレ ↓

▼ 雨の日の子ども乗せ自転車が危なく無いはずがない。死亡事故含めて頻繁に事故ってる

anond:20201018165707

 

もっとも、ブクマカブクマカを兼ねてそうな人らのお財布事情はかなり疑ってるけどね。食生活ヤバそうだし

▼ 正直、ブクマカ元増田はそのレベルにすら達してない

anond:20210614144903

 ↓

そのサイト地獄みたいなマウント合戦だな。武将名前を使っているだけに

何度か話題になっているがチャイルドトレーラー政府強制しろ

 ↓

チャイルドトレーナー都内で走らせるのは厳しいと思う

地方ならフツーに車使うし

 

お金がない人でも子どもを作って良いけど子ども安全を最優先する姿勢くらいは見せて欲しい

江戸大正明治じゃあねぇんだから

周りもカッパにしてるし奉公に売ったからウチもじゃないのだわ

 

 

なんだか車通園じゃない親は安全配慮が足りない

合ってるよ。私立小学校満員電車で通学させているカッペと一緒

 

それに特定の立地以外は園の真ん前以外は20ー30秒は黙認だし

周辺に駐車場があるのでそこ借りる・停めればいいだけ

地方都市と一緒

 

増田にも書いたけど車が停めにくいのは都市部であれば地方でも一緒で東京に限ったことじゃないよ

かつ子どもに限ったことでも無い

2021-06-08

anond:20210607234817

満寵

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志魏志「満田牽郭伝」に伝がある。

目次

1 生涯

1.1 酷吏として出世

1.2 軍人として活躍

1.3 呉との攻防

2 三国志演義

3 脚注

生涯

酷吏として出世

身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。

その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為曹操に大いに賞賛された。

楊彪逮捕された際、荀彧孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操楊彪赦免した。

これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人からまれることはなかった。

軍人として活躍

官渡の戦いの時期には、袁紹郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。

曹操荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍兼務し当陽県に駐屯した。

孫権国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。

後に、曹仁参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。

呉との攻防

曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年曹真・夏侯尚・徐晃張郃・文聘らとともに朱然交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。

曹叡(明帝)が即位すると昌邑侯に進封された。

228年、曹休司馬懿・賈逵が揚州荊州豫州雍州涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関三方から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。

同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。

曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史兼任し、曹休の死後に都督揚州軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。

230年には征東将軍となった。冬に再び孫権合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権撤退偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。

231年、呉の孫布という武将投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。

満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言たからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。

232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。

233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法道理を引きながら築城長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。

同年、孫権合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。

234年、孫権は十万の軍勢である呼称合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢である呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さら曹操孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。

235年春、孫権江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵恩賞とされた。

曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。

242年3月[5]死去した。景侯の諡号を贈られた。

子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれ殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋時代尚書司隷校尉となった。

また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。

三国志演義

小説三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。

2021-06-03

anond:20210602071506

人間希少種に弱い。

伝説の英雄の血を引く人とかみんな好きでしょう。

我々にも天皇という人がいるわけだし。

世界中でも王政がまだ残っているし、人間血統大好きなんだよ。

有名な武将末裔とか、名家末裔とか、それだけで話題になるじゃん。

から伝説勇者末裔は、末裔というそれだけで重宝されるんよ。

DQ3場合アリアハンの名士であるオルテガの息子なわけだし、

旅立ちのほこらの人の話から、昔は多くの人物がここから旅立っていったとか言ってるからアリアハンは多くの名士や英雄排出してきた土地なんだろう。

そこから久しぶりにやってきた名士の血を引く人物から、やはりそれだけで重宝されるわけだ。

逆にその威光が通じないエジンベアとかでは田舎者バカにされて、城に入れてもらえなかったりする。

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