はてなキーワード: プレハブとは
72歳没。
その親戚のおっさんはなんていうかなあ、いわゆる世捨て人だった。
爪垢がすごかったし、ヒゲは伸びっぱなし、親から相続したすっげえ狭い土地にプレハブ小屋を建てて一人暮らし。
でも子供の頃はよく遊んだな。見た目や社会的立場とは裏腹にそこそこいいおっちゃんなんだよ。
そこら辺のゴミ捨て場からバスタブを拾ってきて庭に穴掘って埋めて池作ったりとか、さくらんぼの木を突然買ってきて植えて食ったりとか。
子供心にやばいおっさんだとは思っていたが、世捨て人の楽しみ方みたいなものを心得ている人だった。
昔は似たような人がたくさんいたらしいな。でも最近はあまり見ない。そういう生き方をするのももうできない世の中になってきたのかなあ。
自分も関東でバイクでuberの配達員をやってるけど書いてあることは概ねあってる。
配達をやってて苦労するのは屋号をいくつも持ってる店が多いこと、実店舗と全く違う屋号でアプリには表示されるのではじめた当初はかなり戸惑った。お店の方でメモに書いてくれてる事が多いけど、たまに何も書いて無い事もあるので泣きそうになる。こういったご時世なので居酒屋が掛け持ちで屋号を持ってることが大半。
だいたいお酒が出せなくなる時間以降は配達のみやってるみたい。配達専門の飲食店が勃興してるのも事実、恐らくこのコロナ渦を乗り越えられなかっただろう潰れた居酒屋や料理店の空いた店先を使いせかせか何人もの人達を動員して調理場で仕事をしている。変わり種で畑の中にあるプレハブにデリバリー専門の店をやってたことがあった、こいつは探すのに苦労した。
お客さんが正しい住所を登録してない事もある、大抵アプリのバグか住所の登録ミスで登録してない。メモ欄に住所を書いてある事が多いが、登録されてる住所を頼りに行くことが多いので最初配達先が見つからず迷ってメモを見て初めて気づく。
まれに配送料をゴマかす為にわざとお店の近くの住所に登録してる人もいる。また登録されてる住所と違うところで配達完了が多いと配達員側アカウントがBANされるらしい、サポートに聞いてみたらそういった配達があったら逐一連絡してねだそうだ。これを読んでる人がいたらピンずれや住所の登録は後から修正できるのでやってくれると助かります。
アプリのバグに苦しめられるのつらいね、配達したはずなのに売上に計上されてないことがあった、サポートに連絡したところ、そういった配達は一件一件詳細を報告してほしいと連絡がきた、そんなもの逐一メモしてるわけないので事実上泣き寝入りだ。AIや凄い技術を使ってても結局のところ作るのは同じ人間なので間違うのよね。
変なお客さんに当たることもある、uber eatsのアプリから配達員の動向みれると思うけど、逐一道が違うとかチャットで言ってくる人とかね、Googleマップの精度はそんな良く無く、ベストなルートは通らない事やマンションの入り口じゃない箇所がゴールになってることはまあまああるのでそんな気にせず遠回りしてても許してね。
新料金になってuberの料金体系がどうなってるのか不明だが、短い距離の配達をいくつもこなすのではなく遠い距離の配達をうまくこなすこと稼ぎ方にトレンドが変わった。自分は最近週に3日働いてだいたい6万くらいの売上だ、もっと働けばかせげるが、前職でメンタルやられてuberやってる身の上なのでそんなに無理はしてない。
https://anond.hatelabo.jp/20210428022710
気味の悪い機械式駐車場を修理されたお話ですが、自分も覚えがあります。
たぶん、フェイクを混ぜて書いておられるのかなと思うので、自分もそれなりに配慮して書きます。
ずいぶん昔の話になりますが、自分の田舎には、田んぼの真ん中に森がありました。
森というと大きく聞こえますが、藪というか、とにかく田んぼの真ん中に大木と複数の木が生えていて、レンガ造りの小さな建物がありました。
それが、自分が大学に進学してしばらくぶりに帰った時には、まず森の部分が無くなっており、レンガの建物だけになっていて驚いた記憶があります。
結構な広さの田んぼの真ん中に、田んぼと田んぼの間にある空間に、レンガの倉庫のような小さな建物だけ残っている。
東北に限らないと思いますが、田舎の建物は手入れをしていないとあっという間に朽ちて廃墟になります。
その建物は何に使っているかわからないのに、いわゆる廃墟や朽ちた感じがなく、誰かが手入れしているのだろうなと思っていました。
田舎は、小さなお社でも手入れをしている近所の人が居たりすると、わりと綺麗だったりします。
線香が挙げてある、蠟燭がついている、石像に前掛けが付けてある。
そういう、誰かの世話がなされている建物や石碑なんかは、それとわかるものです。そのレンガの建物もそうでした。
自分が社会人になった最初の年、そのレンガの建物に、ブルーシートではない、工事用の布のようなものが、鉄管で組まれた足場にかけられていました。
ああ、やっぱり誰かが手入れをしていたのだな、業者を入れて屋根の吹き替えでもするのだろうかと思って見ていたその時、大きな布がめくれて中が見えました。
かなり混乱したのを覚えています。
自分が都会で見たことがある機械式駐車場は、少なくとも5~6台は並んでいて、大きなマンションに併設されていました。
機械式の駐車設備が、1台だけ。上に1台、下に1台が入るようなもの。
この間まで小さいとはいえレンガの建物があったところに、駐車場。
田んぼの真ん中です。軽トラを止めたいならその辺に止めれば良い空間に機械式駐車場。
あまりにも気になったので父に聞いてみたところ、「あそこは昔、焼き場だった。うちの範囲じゃない」とだけ。それ以上は聞けない雰囲気でした。
たしかにおぼろげな記憶をもとに思い出すと、煙突がついていたような気もします。でも、あんなところに焼き場、いわゆる火葬場があるでしょうか。
しかも結構小さい建物だったのです。レンガ造りで、扉が正面に一枚、横には窓があり、反対側は森に遮られていて見えない。
サイズ感的には、いわゆるプレハブ倉庫と同じか、少し大きいくらいです。
その後、その工事が終わった後には、車庫のような建物が立っていて、より奇妙に思ったのを覚えています。
でも、近所の人が誰も話題にも出さず、そこに行く用事もなく、なんとなく近寄りがたい雰囲気もあり、そのまま忘れていました。
ちょうど10年位前だと思います。
田舎に帰省したおり、ちょっと見てほしいものがあるから行ってきてくれないかと父に言われて、ある家を訪ねるように言われました。
その時、飯は家で食うから、晩飯に誘われても断るようにと、念を押されたのを覚えています。
たぶん昔は農家だったんだろうな、というお屋敷でした。伝わるでしょうか。現役の機械はないけれども、家の作りが農家の家。
訪ねると、そこのご主人、たぶん70ぐらいだと思うんですが、いわゆる元気なお爺さんという感じの方に、機械を見てほしいと言われたんです。
要は、具合が悪くなった機械があるから見てほしい、自分がやっていたが、ちょっと歳で重いものを持ったりが出来ないから、と。
その時、お茶をそのご主人が直接持ってこられたのが印象に残っています。
田舎なので、お茶とお茶菓子をそこの奥さんが持ってこられるのが普通の地域だったからです。
ご夫婦二人で住まわれているということも、確か話を聞いたように思います。
その見てほしいと言われた機械が、あのレンガの建物のあった場所に立つ、機械式駐車場でした。
まあ、本当は法律に引っかかったりするんでしょうけれども、田舎ではよくあるように、昔ながらのガラスに入ったヒューズを外して、電源を落としたうえで、ふたを開けて中を覗いてみました。
この手のものは、おおむね接触不良や断線、部品が振動で外れた、みたいなものであることがほとんどです。
それを超えたら業者を呼んで治すか、交換するか、です。修理している間中、ぴったりとご主人がこちらの様子をうかがっていたのを今も覚えています。
自分が見た限りでは、いわゆる鉄工所のようなところが作ったような機械で、メーカー品のようなロゴがあるわけでもなく、スイッチも田舎のホームセンターなら買えるようなものでした。
自分の田舎では、別にそう珍しいことでもありません。農家がちょっと工夫して追加の機械を入れるけど、あの家とあの家にしかない、みたいなのは割と普通です。
その時も、接触不良になっていそうなケーブルがいくつかあったので、一回ニッパーで切って、繋ぎなおして、終わり。
念のために機械部分もバラシて油でも差すかと思っていたら、そっちは良いと止められました。
ご主人が電源を入れて、半分ぐらい下がるのを確認したら、急にストップさせて上に戻していました。
ちゃんと最後まで下げないのですか?と聞いたときに、慌てた様子で危ないから外に出ていなさいと追い出され、機械を見させておいて危ないもないもんだと思ったのを覚えています。
あんなに不思議で気になっていた機械式駐車場を間近に見る機会だったのに、印象が薄いのは、ご主人に張り付かれていてちょっと居心地が悪かったことと、
そのあと、執拗に夕食に誘われたからです。その印象が強すぎて、駐車場に何かあったか、今一つ思い出せません。
最初は、世話になったから夕食を食べていきなさい、くらいだったのが、妻が準備して待っているから、せっかくだし、と何故か執拗に誘われたのです。
あまりに誘うので、一言断って家に電話をしたところ、えらい剣幕ですぐに帰ってこいと言われ驚きました。
申し訳ないけれども家に急用があるようなので帰ると伝えると、またあとで夕食を食べに来ないかと言われ、耳を疑ったのを覚えています。
なんとなく胡麻化しながら家に帰ったところ、何をした、何を食べたと聞かれて、ずいぶん変なことを聞くものだ、そもそも晩飯もまだではないかと腹が立ったのを覚えています。
正確に言えば、覚えていないのです。
下げた時に側面に何か描いてあったかどうか、そもそもそんなものを目にしたかも覚えていません。
いまになって思い返すと、あの家には綺麗な三輪車があったような気がしています。
そういえば、客間に通される前にも、アンパンマンか何かの子供向けの玩具があったような気もするのです。
孫のためのものを置いている家は多く、それほど不自然でないので意識していなかったのです。
ですが、青年団のような集まりやお盆のお祭りなどで、そういえばあの家の名前を見た記憶がなく、そもそも息子や娘、孫がいるかもわかりません。
自分に頼んできた経緯もいまいち謎です。よく考えたら別にお駄賃などももらっておらず、自分はただ働きです。
古びた校舎の部分的な工事に伴い、敷地内の仮設教室に追いやられたクラスには、扇風機が割り当てられていたが、窓を開けても熱風、扇風機は熱風をかき混ぜながら撒き散らした。
そんな教室での昼休みは、いまいいち活気がないムードでボソボソとした会話が散発的に起こった。
「最近これ聴いてる」と友人はCDアルバムを取り出す。Dragon AshのBuzz Songs。いいよね、なんかオシャレだよね。あの曲が好きだな、Under Age’s Song。ラップって優しい感じのもあるんだね。反応されたのが意外だったらしく「知ってるの?え〜、なんか悔しいわ。絶対知らないと思った。」
45歳多重派遣と言っても、噂のGitHubの人ではない。すまんな。。
皆さんはプロジェクトの共有ディレクトリの最下層に”女子大生”という何もないファイルを作ってアクセスログをとっていたのがバレて怒られた事はあるか?私はある。2回。
仕事でとうとうGitHubすら使わずにプログラマ人生を終えてしまった。
レガシーな技術を使いがちな金融プログラマではそこそこ居るのでは無いだろうか。
年収は20代後半からは550万~700万位だった。残業代・退職金は無く交通費は出ない。
所属会社は営業も事務も居ない小さな所帯のフリーの集まりのような所で、会社の運営に必要な金額をある程度毎月納めれば良い会社だった。
仕事がなくなれば自分、もしくは他社員の人脈で仕事をとってくる。フリーで居るよりは仕事を取りやすく、単価も上げやすいので一応会社の所属にしているだけの所だった。
私はやる気が無いプログラマだった。オフの時間にプログラムの勉強をしたことなんて殆どないが30歳、35歳の限界説を越え、45歳まで働けた。
元ニートの高卒45歳。多重派遣の底辺プログラマの退職エントリ。
はてなのIT技術者諸氏はオフの日にも日々勉強をしているようで。
◯◯出来る人が居ないか?と聞き回る営業を見ていると多重派遣のSESとはいえ業務時間内に勉強させろと私は思う。
技術の勉強の話になると途端に何プペる?のような、仕事の為の無給勉強時間当たり前のように語られる事がやる気の無い私にはついぞ理解することが出来なかった。
足に鎖でもついてるのかね。私と一緒だね。
45歳で年収300万円多重派遣の彼は問題児なのかもしれないが、私よりはやる気があるプログラマなのではないかと思う。
退職までずっとプログラムを書き、テストをしていた。たまに客に直接要望を聴いて、仕様書に落とすこともした。
C/C++・Java・各種Shell・VB/VBA・SQL、UNIX/Linux・Windowsサーバーをなんとなーくしていて、他の人が書いたプログラムを流用しまくって書いていた。
ざっくりな話になるが、私より出来る人はわんさか居て、私より出来ない人・問題児が2割は居た。後者の彼らのおかげで私は仕事があったのだ。あと、東京だからあったのだ。
人並以上の理解をしていたのはLinuxの構造くらい。仕事でカーネル層に潜り込み、デバイスドライバの改造をしなくてはならず、月350時間くらい働いているうちに身についたものだ。年俸制という糞システムのおかげで1円も残業代は出なかったが。
全く知らない技術が使われている新しい現場に上位プロパー会社の営業に売りに出されることはままあった。
現場の人にさも「解ってます!」みたいな面で面接をし、何とか切り抜けることは出来た。このときばかりはいやいやながら上辺だけを勉強した。無給でな。
解っている事でも残業が沢山降ってきそうな場合は「ちょっと私には難しいですね・・・」「いやー、解らないですね。。」と出来ない振りをする度量もついていた。
仕事は”出来る(都合の良い)いい人”に回ってくるし、仕事をしてもめったに単価を上げてくれなし、切られる時は切られる。
30歳を越えたあたりから必要な時は定時丁度に上がる精神的な技術も身についた。
それと同時にここ10~15年はブラックなIT業界でもようやく過残業を減らそうという機運が増えてきたように思う。
ライブやイベントにも足を運べるようになり、推しに投資が出来るようになった。
おそらくまだ10年はプログラマとしてなんとなく生活出来たのだろうと思う。
「あいつ、そこまで出来はしないけれど居ないと困ることもあるんだよなぁ」位のポジションで。
あるいはもう少しやる気を出し、転職をし、上位層で働くことも出来たのかもしれない。
・そしてその日、”1人日”以上の仕事が割り振られる。残業しても終わらない
・翌朝で何故おわっていないのか?を問い詰められる
・仕事のタスク割り振りが多すぎて終える事は出来ないとお伝えしましたが?と反論
・その状況で、空いている時間にやっておいてくれと新たなタスクが振られる
・空いている時間とは?と聴いてみるが、コンパイルしている1分の時間に少しづつといわれ、そんなの出来るわけ無いですよね?。どこに空いている時間があるか教えて下さい。
と、毎朝そんな問答を繰り返していた。
改善をする気もおきなかった。早く次の現場に行きたいなという事ばかり考えていた。
そして気づいた。この仕事にようやく私は飽きたのだと。
子供も数年前に生まれ、子供が成人するまでこの仕事をするのも耐えられないと。
そんな時に副業のほうを本業にする決意をした。会社を辞め、起業をした。
今は全く別業種の業界で働いている。この先うまくいくかは良くわからない。
3次請け、4次請けの会社に居たので理不尽やパワハラには事欠かなかった。
理不尽の例1)
まだ若手の時、鉄砲玉として使われた事があった。
フロッピーを本番端末のあるセンターに密かに持ち込み、定例メンテナンスの振りをしてシステムを黙って更新するという密命が若手の私と、他社の派遣PGで新人のK君に与えられた。何度も。
かばんの奥にフロッピーを隠し、かばん持ち込み検査で検査員にばれないようにし、潜り込む。メンテナンス用の作業IDを使用して黙ってシステムを更新するというのを繰り返し行った。
今考えると下手すると裁判沙汰なんじゃないだろうか。しかも見つかったら責任を取らされるという。
テンパった彼は入館証ではなく、隠していたフロッピーを検査員に見せつけたのだ。
だが、早朝ということもあり、検査員がほぼ寝ていたので問題なく通れてしまった。
今思うとあの時は首の皮一枚で大丈夫だったんだなと。
理不尽の例2)
大手家電メーカーの工場で仕事をした時、プログラムの仕事なのに作業服をまず”自費”で買わされた。作業服いらねえだろう。
工場内にある窓の無いプレハブ小屋が開発現場だった。人権が無ぇ。ファーウェイの工場にはヨーロッパの街並みが再現されているらしいが。
この現場は電機メーカーのIT子会社D社からE社に投げられ、部屋に私以外だと窓際管理職のD社社員1人とE社の人間しか居なかった。
何故、E社の人間の中に私1人だけ他社の開発要員が入るのか?
入ってすぐに理解した。担当するシステムが1人だけで長く開発していたシステムで、スパゲティすぎて破綻しかけているのだ。
これを開発し続けられればヨシ、破綻したら私の(会社の)せいということにしたいのだ。
入って1週間で営業にコレはダメだと、早く抜けさせてくれと直訴した。
結局抜けるのに4ヶ月かかったが、その間、本当に酷い日々だった。
小さな改修が多く、納期は1週間か2週間毎にやってくる。だが仕様を投げるD社の人が鬱で会社にあまり来ない。他のD社の人に聴いても何も解らないという。
1週間の仕事で金曜日納品なのに、木曜日の夕方に2日酔でやってきた担当者に仕様を聞き出し、金曜日に意地で納品するも、気に入らないところがあったらしく「前担当者よりスキルが低いですね~」と言い放たれた。精神の苦行だろうか。
私の抜けた後、E社の別な人間が担当するも無事破綻しかけているという話は後ほど聞いた。自分のスキルでは本当にギリギリだった。危なかった。
パワハラ1)
高校卒業後はニートだった。猫と母としか会話をしない2年を過ごした。
その後、大手新聞社とオペレーター派遣会社が共同で作っていた文科省認定ではなく定期の学割も効かない街のパソコンスクールに通った。
教師は二種(基本情報)も持っておらず、業界歴は1年だけで環境変数も理解していなかった。
その学校で多重派遣という底辺で生きる技術者の卵に他の20名と一緒になった。
文科省認定の専門学校の情報処理科では少しマトモに勉強すれば大手SIerや商社の子会社の「何ちゃらソリューション」に入れる事も多い。
アホの一つ覚えのように大手の子会社は「何ちゃらソリューション」なので、「何ちゃらソリューション」というIT会社を見たらセンスの良い経営者が名付けた何処か大手の子会社だと思って差し支えない。あとイノベーションとかな。イノベータとかな。
就職氷河期の真っ最中に地方中核都市で就職をしたのだが、入社直前に東京勤務になった。
会社からは15万円の引っ越し資金だけが支給された。氷河期の3月に転職は出来なかった。
親に敷金礼金4ヶ月分を負担してもらい、親父に秋葉原の石丸電気で家財一式を買って貰った。
SES企業はまず新人教育の当たりハズレががある。ハズレのほうが多い。
派遣法の隙間をついて、たぅった1人で新人が派遣されてくる事も多い。彼らの大体は苦労を強いられている。
私は運良く同じ会社の人が沢山居る現場に入ったのだが、教育担当が想像を絶するパワハラマンだった。とにかくどんなことにもキレる。
ある日個室に呼び出され「お前は田舎に帰って缶詰工場で働け。なるべく頭の働かなくて良い仕事を選んでくれ。業界にいると迷惑だ」と言われてしまった。
親に学校に通わせて貰い、引っ越し代も払ってもらったのに使い物にならないと言われたときの絶望感は大きかった。
地下鉄がホームに入ってきた時、ホーム下にふと吸い込まれて行きそうになり、寸前でハッとなり鼻先を電車がかすめていった。
知らないおばちゃんに「しっかりして!」と怒られた。都会の人も優しい。
それ以降、他社でも新人には丁寧に接している。私はまだ恵まれていた方なのかもしれない。
パワハラ2)
その家電はTronからLinuxにOSが切り替わり、開発・コンパイル用のソフトウェアのシミュレーターが新規開発となった。
Linuxのカーネルプログラミングが必要となり、日本語の文献もインターネット上の文献も少なく、オライリーの洋書(現在は日本語版もある)を取り寄せて読まざるを得ない状況だった。
英語は全く出来ない&私が作るとなると当然開発は遅れた。
私はカーネルプログラミングなんて当時はしたことが無かったし、集められた人員もLinux上でC言語の仕事をしたことがある。くらいの人員が集められたのだ。
単価が安い人しか使ってはいけないというルールで運用されていたらしい。
苛立った家電メーカーの”部長”が私を広いフロアの大人数の前でこう叱った。
「こいつ全然解ってないじゃないか!!」「なんでこんなのにやらせているんだ!!」
中国出張で散々おねーちゃんを買った自慢をしていた糞みたいな人間に罵られるのである。
月単価55万で350時間働かされ、残業代は1円も出ずである。誰もフォローをしてくれなかった。
徹夜が3日目に突入した午前3時、役職付きが私のPCの後ろで「まだ出来ないのか?」と15分おきにやってくる。
何とか完成はさせた。恐ろしいことに若かった当時は満足感をそれなりに得ていた。
精神的に色々と凹んでいた時に励ましてくれたのは中国人の同じ派遣の人だった。
大卒の育ちの良い中国人派遣技術者が沢山居たが、彼らは本当に性格がまっすぐだ。彼らが私の中国感を大分良くしてくれた。
(ずっとメッセンジャーばかりやっている連中もいたが)
彼らのような有益な人材が来てくれる時代があと何年あるのだろうか。
私は所属未定のまま倒産した次の日も、土日も何故か働いていた。
自分が働かないと他の人が倒れてしまうと当時は考えていたし、ようやく仕事が出来るようになって謎のやりがいを感じていた。
そして、翌週、中間の会社から流石に所属未定はマズイのでフリーとして契約しましょうと言われたのだが、単価の話なんて当時若造だった私には解らないのである。
結局、300時間以上働く中、残業代無しの45万円固定と言われるまま契約をしたのだが、
当時の私には多い金額に思えていたものの、都内のフリーの技術者としては当然低すぎる金額であった。
忙しい中、アドバイスを貰う余裕もなく、無知のために中間会社の狸親父に低い金額で契約させられたのだった。
みなさんは自分の単価くらいは知っておいたほうが良い。
賢い同じ会社の同僚は失業手当で半年間遊んだか、会社契約と同じ単価でフリーとして契約していた。
余談その2、当時なんとなく興味を惹かれて当時流行っていた日本礼賛本を読んでみた。
国産OSのtronは携帯電話で世界を席巻!!みたいな事が書いてあったが、その本が出ていた頃、携帯電話のOSはLinuxとSymbianで締められていたのを知っていたので興味深く読んだのを覚えている。
他にも
「1次請けが私の単価を上げてくれても中間会社が搾取し、私には全く反映されない話」
「野田がドモホルンリンクルのバイトのように円高を注視し続けた時、円高&オフショアブームで単価が2年で2回減った話」
「中間会社にオフショア開発の失敗の後始末を手伝って欲しいと言われ、現場をインフルで倒れた振りをして休んだ話」
「5000円の著作権フリー音源をシステムに使用するのに数百万かかった話」
「メモリ枯渇エラーが頻発したのに数百万以上のコストをかけて打ち合わせをする虚無の話」
「メモリ初期化エラーが頻発した時に、解決方法としてとんでもない方法を提示され、阻止した話」
「15万円のPCが60万円で導入される仕組み」
「入社初年度の忘年会の一次会が新宿の有名なゲイのショーパブで、他の社員と会話も無く終わった話」
「無呼吸症候群で猛烈な睡魔との戦い、現場で怒られるようになり、睡眠薬で生活リズムを取り返した話」
「大手会社のコンプライアンス啓蒙画像に著作権違反を発見した話」
「キレる、人前でイライラする人とは働きたくない話」
「某銀行の開発子会社の美人率が高い・銀行員の婚姻率の格差社会の話」
などなど考えていたが長くなったので終わり。
多重派遣先は色々なキャリアの人が多い。元ホスト、元キャバ嬢もいれば元医師の中国人、元アニメ会社勤務、元美容師、元寿司職人等の転職組も多い。
以前いたプロジェクトの有名SI企業のPMもSES上がりの元寿司職人だった。
SESは就職の壁が低い。そこを足掛けとして転職し、さらなる転職で大手や大手子会社に転職するのは悪くないキャリアプランの一つなのかもしれない。
SESの会社も玉石混交なのでまずは良いSES会社に入るのは大事だし、多重派遣は改善されてほしいが。
何が書きたかったのか忘れたし飽きた。
業界からやる気の無い45歳が1人減り、業界は少し平和になった。
追記:続編を書きました。
俺の故郷では陶芸が盛んで、小学生の頃は毎年図なにか陶器を作らされた。図画工作と郷土学習が兼ねられて子供ウケもいいんだから、最高の教材だっただろうな。
湯呑みみたいなシンプルなやつを最初は作らされ、途中からは立体の自画像を作れとか夏を表現しろなんてヘンな課題を出されることもあったりして、結局最後はなんでもいいから自由に作れってことになった。
当時の俺は早めの中二病で、剣とか竜とかそういうものが大好きだった。自由にやれと言われたので、当然喜び勇んで剣を作った。(剣って言ってもしょぼいもので、十字の形をした陶器の棒といった方がいいかもしれない。装飾のセンスもないし、刀身らしい刀身なんて作れなかった)
作ってるときはノリノリだったのに、作り終わって10日くらいたったところで猛烈に恥ずかしくなった。普段クソ真面目なキャラでやってるのに突然剣なんか作っちゃってイタい。純粋にクオリティが低くてダサい。いま思えば別にどうってことない気がするんだけど、当時は本当に恥ずかしくて、夜にその剣のことを思って寝られなくなったりもした。
陶器は捏ねてその日のうちにパッと焼いて終わり!ってものでもないので、実際に完成品が手元に届くまでには結構日があく。小学6年生くらいのときだったと思うんだけど、そのときの俺はかなり気が気でない状態で日々を過ごしていた。いつ返ってくるのか、返ってきたらどうしたらいいだろうか!
児童が作った焼き物(そう、焼き物って表現をしていた!)校舎の横のプレハブ小屋みたいな倉庫に入れられていて、給食を運ぶときなんかにその近くを通るたびに心拍数が上がっていたような記憶がある。
そんで、そんなに気にしてたのに、結局その剣は俺の手に渡らなかったんだよな!というか、そのときに作られた作品は全部なんとなくウヤムヤになってどこかに消えた。マジでどうなったのかわからん。さすがにもう捨てられてるだろうな。
小学校卒業あたりの俺の心配事といったらあの剣のことだった、ってくらいに俺にとっては大きいものだったのに、結局出来上がりの姿すら見ずに大人になってしまった。
ガキの頃の自分に会えたら、あの剣のことは気にしないでいいぞって言ってやりたいな。
奴等がまた近づいて来たみたいだな・・・
って感じで、最近、人の多い所に行くと左目が痛い
あれは今から遡ること今年の夏の7月のこと謎の倦怠感という体調不良に襲われた
PCR検査受けるきっかけになった嗅覚異常になるちょっと前に左目に激痛が走った
そして嗅覚障害になってPCR検査を受けた病院帰りにも痛みだした
(炎天下とは言え、検査対象者をプレハブに何人も押し込めるとは何事?しかもエアコンガンガンでやべーじゃん)
検査の結果は陰性だったけど(そりゃ体調不良が発症してから3週間後だもんね)
嫁がコロナ発生した劇場で観劇して翌日から左目が疼いたり(その時はコロナの事実は知らなかった)
嫁が会社で謎の流行微熱をもらって帰ってきてから左目が疼いたり
ほんと何ですかね?これ?
病院いっても
で終るし、まともにとりあってもらえないし、自分でも信じられんし
ほんと左目の奥が痛いのだけはガチなので、誰かなんとかして!
次は神経内科にいけばいいのか?
プログラミングで主にやる事は下記の2つ。
①IFでAかBを選択させてどっちかの設定を実行
②Whileで決められた回数分繰り返す
とてつもなく複雑で冗長な処理によって実行されている。
わかりやすいので画像処理でいうと、数十万から数百万の画素(RGBAの24bitで表される数値)を小さなブロックに分解し、数学的に周波数の重なりとして計算して変換、含まれる頻出パターンをテーブルにして圧縮伸張を行なう。みたいなことが瞬間的に行われている。
「まさかそんな事できるわけないだろ」というレベルの処理が実際に行われており、これまた直感的でない。
だからそれをどう書くんだよ。という答えはコレ。有名なjpegの実装だ。
libjpeg というライブラリを書くことはできるだろうか?画像の圧縮の理論から考え始めることはできるか?
正直無理だ。自分はプログラマだがそんなに数学が得意ではなく、頑張ったとしても下手するとコレを作るのがライフワークになってしまい、他のことができなくなる。
例えばブラウザを0から作るとして、jpegの処理以外にも画像だけでpngとかgifとかwebpとか、その他もろもろとてつもない作業が必要になる。
「とてつもなくて想像もできないので流石に無理だろう?」
いや、でも、実際動いてるのよ。ここ何十年、コツコツと積み重ねて実現している。
「積み重ね」とはライブラリであったりフレームワークであったりOSであったりする。
「どういう風になっているのか」
外部に向けたインターフェイスがどうなっているのかは理解する必要がある。「使う」ために必要だからだ。
この2つは分けて考えなければならない。
ちなみに、たとえばChromeのコアであるChromiumはのコードはコレだ。
つまり言いたいことは、実際に動くアプリケーションというのを作りたいのにも関わらず
プログラミング入門書は、これで判定と繰り返しという基礎ができますと言うだけ。
これがもう滅茶苦茶イライラする。
「これで判定と繰り返しという基礎ができます」というのが基本的な理論(定理的なもの)で、その他に必然的だが唯一無二ではないベストプラクティスというものがある(法則的なもの)。
後者をうまく説明する入門書に出会っていないんだろうな。という印象。イライラはやめよう。つかれる。
ベストプラクティスはいろいろあるのだが「層の構造にする・レイヤーに分ける」というのは重要なアイデアだ。
libjpegというのはjpegの処理を行う「ライブラリ」だ。他のアプリケーション...たとえばブラウザはこのライブラリを「使う」。
ブラウザではjpeg画像の圧縮展開というとてつもなく難しい処理を「libjpegの使い方」の理解までで済ませ、過去の蓄積であるlibjpegのコードを利用することで真の意味で0から実装しないようにしている。
この場合、libjpegが「低レベル・低レイヤー」の存在であり、中身については「使い方」つまり「仕様」の理解までしか行わないことで、実際に作りたいものを作れるようにしているわけだ。
完成しているプログラムは二例ほど挙げたがどうですかね?
複雑なことをする、特に低レイヤーのコードはとてつもなく難しい。
でも、とりあえずこんな感じのコードなら解るよね?
こういうレベルから理解して、ちょっとずつ難しい処理を学んでいくしかない。
ハードルは高いんですよ。実際。
なので、木材からだと難しいからプレハブのキット的なものを探すとか、ログハウスのカタログを読むとか、あるいは100人乗れる物置を買うのがいいかもしれない。そういうところから始める。
それらがフレームワークであったりライブラリであったりする。目的に合うものを探して、自分がやりたいことをどう実現するかとにかく考える。
「テキシコー」https://www.nhk.or.jp/school/sougou/texico/ で言われる通り、「小さく分けて考える」「手順の組み合わせを考える」「パターンを見つける」「大事なものだけ抜き出して考える」「頭の中で手順をたどる」をひたすら実行する。
unityはコードが公開されているので、本当に読みたいなら。。
オブジェクト指向は一旦忘れよう。
オブジェクト指向の「隠蔽」というのは層の構造が持っている重要な要素ではあるけど、「低いレイヤーについて考えない」のが基本的な作戦だという理解の方が重要だ。
前述の通り「できる限り作らない」んですよ。「使う」だけ。知るべきことを最小化する。
そして本当に作るべきものに関しては、利用する下のレイヤーのライブラリなりを探して・仕様を理解して、どう組み合わせてfor, if, あるいは計算させれば実現できるのかをひたすら考える。
単に翻訳がしたいのか?表示に割り込む方法を知りたい?日本語に翻訳するのは実行時なのか開発時なのか?
要求される表示エリアが言語によって異なるために、デザイン調整が必要になる問題をどうするか?
分解が甘いので何をしたらいいか調べることができないんだと思う。
ちなみに、アプリ内の文言というのはアプリの外部から変更できないように実装されている事が多いので、利用者が上書きする仕組みはかなり難しい。
AndroidなりiOSの仕様にもそのへんに割り込める機能はないはずなので、OSの開発に入っていく必要がある。結構大変だとおもう。
アプリの開発者が、そういう機能を備えた多言語化のためのライブラリを使うようになれば実現可能ではあるので、そっちの方向で頑張るのがおすすめだが、英語圏の開発者には多言語化のモチベーションが低いという基本的な問題はあるのよね。
この辺の「できる・できない・むずかしい」の判断は、いろいろな勉強をすると常識としてある程度みえてくる...気がする。
ついでに。ウェブサイトやウェブサービスの翻訳だとこういうサービスがあったりする。
ブラウザはページの描画処理のなかに割り込む余地が大きく取ってあるので、ブラウザのExtensionとかならできることがいくらかあるかもしれない。
個人的に気に入らない話はOSのアップデートは使いやすくなるからとてもいい事だからすぐにやった方がいいと宣伝されている事。
まあ、半分は嘘だよね。古いものが残っていると先に進めないんだよ...。
現在のクライアントOSは、巨大なプラットフォームのパーツの一部として理解したほうが正しくて、古いパーツが残っているとツライんですよ。
そして「サービスを受けるための道具であって、あなたが何でも好きにできる機械ではないです」みたいな世界になりつつあって、ちょっと問題と言われてもいる。
これはかなり困った傾向なんだけど、全体としての流れはあんまり変わりそうにない。
オブジェクト指向好きですな...。ここではオブジェクト指向は特に気にしなくていいですよ。
とてつもなく複雑なことをやっているために、すべてのバグを潰すことはコストが高すぎてできないんですよね。
それよりバグは未来を先取りするコストと考えて、本質的に価値のある機能を増やしていくというのが基本的な方向になっている。
だからパソコンはたまに不具合を引き起こすんです。しゃーない。
しかし中途半端に理解している老人などは、そんなことじゃ分からん。自分に分かるように説明しろと言い出す。
説明は出来る。しかし相手はイライラするし理解されない。よって説明をしてはいけないという状況に追い込まれる。
ここでどうすればいいのだと理解不能に陥る。
まあ、説明って得てして難しいよ。しゃーない。
そのとおりです。
オープンソースのプロダクトなら原理的には調べられるけどね。Androidとかはオープンになってる。
それを許容することで先に進んできているという事実は受け入れたほうがいいと思う。
「把握・理解可能な範囲」に留めていたら、数十年前のコンピュータの世界から抜け出せなかった。
deep learningの世界ではそれがより一層進むかも。この辺は詳しくないけど。
ここでの「理解」についてはそのとおり。これはもう諦めるしかない。
これが常にある。IT関連は常に新しい情報が出てくるのでそれに送れると無知になってしまう。
なんでこんなことも分からないんだとか言われ放題で、IT系の企業に努めている人は常に新しい知識を入れられる
面倒くさがらない人が向いている。
「面倒くさがり」の方が問題に気づいて「頑張って面倒じゃなくする」ことができるので、プログラマにとっては美徳なんて言われますけどね。
同時にくじけないとか諦めない、しつこいみたいな素養は必要かも。
応用まではとろうな。がんばれ。
このへん自分も知らんですよ。べつに全部知っている必要はない。
(追記: はてな記法の引用すらもさっきまで知らなかったしな!そんなもん)
層の構造をとっているということと関係があるんですが、仕様が変わると、その上に乗っているものを全部なおさないといけないんですよね。
でも革新のために互換性を捨てなければいけないケースも多い。このへんはハードでもソフトでも同じ。
そして、メンテのコストが上がっても使い続けたほうがトータルで安上がりという場合は、古いものが残ってしまう。
あるいは「(多少の問題はあっても)動いているものは変えるな」という経験則から意図的に残す場合もある。
西暦2020年にもなって、プログラミングが簡単には出来ないし、ハードウェアの規格も完全に統一はされていない。
というかプログラミング言語自体多すぎる。ソフトウェアはデファクトスタンダードのモノ程度は知っているが、
ぜんぜん完成していない荒っぽいものを目にしているのだと理解したほうが的確。
それなのに毎日理解のできないパソコンやスマートフォンを使っている。
オブジェクト指向のおかげ様だがオブジェクト指向に対して無性に腹が立つ。
自分の全く知らない場所でいけしゃあしゃあと演算を行い、そして結果を出す。それも大半が正しい結果で
利便性が抜群だ。些細なミス(バグなど)はあるが圧倒的に利便性が勝っている。
そんな道具に踊らされている自分が滑稽だ。理解できない愚かな自分は正に機械の奴隷のようだ。
本当に理解できない。辛い。
勘違いしてはいけないのは、それらはすべて先人の努力の蓄積によって成り立っているということ。
「よくわからないけど存在している道具」ではなくて、信じられないほど複雑だけど、多くの人々の行動によってなんとかかんとか実現した道具なんですよ。
「オブジェクト指向のおかげ様」じゃないんです。(もちろんオブジェクト指向というのも大きな発明の一つですが)
そしてブラックボックスとして使うのは多くの場合正しいです。そこは諦めましょう。
でもエンジニアとしての立場からは、その裏に隠れているとてつもない技術や思考の蓄積に感動してほしいなと思う。
人類がこんなもん作れたのって、かなりすごいよ?
【追記】
朝起きたら大分伸びていてびっくり
実家や内見した中古物件はどちらも築15~20年のものです。案内して貰った管理会社からは、寒いのはエアコンを付けていないのとコロナ対策で換気をしているから、と言われました。いやいやそんなレベルじゃないって。100歩譲ってエアコン付けて窓を閉め切れば温かくなるとしても、電気代いくらかかるんだよ。あの天窓がある階段付近とか絶対やばい。
今の築5年以内のアパートがいかに素晴らしいかってことの反証になってますよね。Dハウスさん。
中古住宅に関しては雨漏りとかシロアリとかに注意すべき何ですが、断熱構造が大事ってのはよくわかりました。現オーナーと話していて、内装や動線を考えているしっかりした方でしたが、やはり断熱のことまで気を配れなかった様子。これからの家って断熱とネット関係が重要だと思うので、そうしたら賃貸がいいのかな
【追記 end】
床と窓際からの冷気が身体を芯から冷やすため、暖房や厚着をしなければ過ごせない
一方で4年ほど住んでいた北海道では真冬でも半袖で快適に過ごせた
もちろん北海道は室内をガンガン暖める仕様故ではあるけど、それでも関東の室内は北海道より寒さが際立つ作りだと思う
殆どは窓と窓枠だという
今のアパートは軽量鉄骨、いわゆるプレハブ構造、だけど底冷えはあまりしない
昔からの1枚ガラスとアルミサッシは遮熱性能が殆ど無いから、冬は冷蔵庫と変わらなくなる
その点、ペアガラスや樹脂サッシは熱を通しづらく結露もしたことがない
それがない玄関のドアは結露をしやすいという対称データも得られた
ではペアガラスだけでもいいかというと、そんなことはない気がする
だだっ広い家だが入った瞬間から底冷えをした
スリッパを使わないと言うことでソックスで移動したが、足を常に動かしたくなるほど冷え冷えな家だった
そして天窓を付けたが為に2階まで吹き抜けている構造が断熱効果を阻害している
細部までこだわっている物件だからとても気に入ったけど、冬に凍死しかねないなら買う価値はないと思ってる
たぶん日本では、特に関東以南では、戸建ては夏暑くて冬寒いというが普通なんだろう
あんな良い家なのに、今まで住んでいた人はどれほどつらい思いをしていたんだろう
まず私が7/19に書いた日記を振り返ろう。
https://anond.hatelabo.jp/20200719210255
7/19に、私は、世間を騒がせている今のCOVID-19を東京型と定義し、症状がそれ程ないタイプであり、それは怖くない。
しかし変異の激しいRNAウイルスであり冬はもっと酷い。旅行に行くなら今のうちだと記載した。
それは正しかった。
残念ながら、というべきだろうか。冬の状況は想像した通りになりそうだ。
病院の駐車場にはプレハブで臨時のコロナ診察/検査室が作られ、担当割り当てが決められ、私はこの冬を暗澹たる気持ちで迎える。
マスク/アルコール消毒などの物品は潤沢にあるし、ステロイド治療も確立したといえる。気管挿管して人工呼吸管理や、ましてやエクモなどそれまで見たこともないMEを使うステージに進む前に多くは食い止められるであろう。
私、そして多くの医療者は3月の頃、春や夏が来れば、温かくなれば湿度が上がれば、勢いを失うはずだと希望を持ちながら当時は業務に(コロナ患者対応ではないが)当たっていた。
しかし、今度はどんどん寒くなり、湿度が下がる。これからどんどん4月まで環境が悪化する。この5か月間は悪化する環境の中での戦いとなる。
恐らく5月末に食い止めた時のような方策は、その時のように徹底した自粛しかないだろう。
政府は恐らくそこまではできないと思う。それについては私は専門では無いので、これ以上記載しないが、それを期待せず、悪化する前提で物事を考えなければならない
初夏、日韓両国が大幅に抑え込んだ中、韓国ソウルでゲイの発展場(?)でのクラスターが発生した頃、日本では東京のホストクラブ感染クラスターが発生した。
韓国はその後も抑え込んだが、日本では、これが種火が続いた原因となった。
これにつきる。ホストクラブも顧客も氏名を完全公開すべきだった。トンキンばかまんこがすべての元凶である。
またそいつらに汚染された、汚染を許容したトンキンはGo To イート/トラベルともに除外すべきだった。彼らに必要なのは、反省文を書く紙1枚で良かった。
トンキンのバカまんこが地方に出てきたらレイプできるように法改正すべきである。ピル/妊娠中絶禁止すれば少子化対策となる。トンキンバカまんこは子供を産む機械にしばらくすればいい。
◆Rape..lZFE
二十三時過ぎ、ホテルを出て近所にある和食さとへ向かった。道中、大通りをまたぐ信号を待つ間に何となく周りに目を向けると左方のフェンスに簡易な近隣の地図が括られている。近くに池がいくつもあるようだ。興味を惹かれたので食後に出向くことにした。地図を眺めつつ待つも一向に信号が変わらない。押しボタン式だった。ボタンを押ししばらく待つがやはり青にならない。車の通りが収まっていたので無視して渡った。
和食さとでは刺身と天ぷらといくらかの小鉢のついたようなセットを食ったが大して美味くもなく、胸焼けに似たような妙な不快感が残った。
店を出て先の地図の記憶を頼りに池を目指す。時折地図アプリを参照しつつ最寄りの池を目指すとすぐに着いた。四方を柵で囲まれ、セメントで岸を固められた、実用を旨とした何の風情もない水たまりだった。過度な期待をしていたわけでもないので、特段失望もなくしばらく柵に肘をついて暗いばかりの水面を眺めた。
次の池を探して再び地図アプリを開く。目についたのは一つの長方形の区画で、短辺に平行に三等分すると、端の三分の一が池で、残りは陸になっており、碁盤の目に道が走っている。また道の周囲が緑色で表されていることから樹木が茂っていることが窺われる。最も目を惹くのは池の中央に浮かぶ円形の陸で、そこへは陸から小路が一本延びている。いかなる場所だろうかと地図をよく見れば霊園だという。深夜に何の縁もない自分が訪ねるのも罰当たりな気がしたけれども、近隣の住民に迷惑のないよう静かに立ち入る分には問題ないだろうと自分を納得させ墓地へと向かう。
その区画の境界まで着いたが周囲にはフェンスが張り巡らされており入れない。どこかに切れ目はないかと沿って歩くうち、フェンスに括られた地名表示板を見つけた。ここは月輪(つきのわ)だという。
この名前に触発されて月を見る。今夜は多少雲がかかっているけれども月は八分以上満ち、月明かりを確かに感じる。この優れた月の晩に月輪で池と共に月を眺めるのは非常にふさわしい気がして、池への期待が一層高まった。しかし一向にフェンスの切れ目は見つからず結局フェンスに沿って立つ人家に突き当たってしまった。どうにか入れないか迂回路を探すが地図を見る限り確実に入ることのできそうな場所はあれど、霊園を跨いだ対角側にあり遠い。そこまで行くのは面倒だが、諦めるのも早い気がして、回り道しつつ再びフェンス沿いへと歩き戻るうち気づけば他の池の近辺まで来ていた。その池の名を見ると月輪大池とあり、名前から言ってこちらの池の方がよっぽど立派そうなので、霊園の方はやめ、こちらの池に向かうことにした。
その池は名に違わぬ立派な池で、近くまで寄ると鳥居が目に入った。その上部に掲げられた文字を見れば龍王神社だという。龍と池という組み合わせが不穏で、気味は悪いが入って見ることにした。鳥居をくぐると白い石の敷き詰められた参道が長く伸び、道の両脇には石灯籠が一列ずつ密に立ち並び、周囲の闇の中でそれらのみが微光を発するように浮き上がっている。それは幽玄さを感じさせるものではあれど古典的な怪談の舞台のようでもあり、すっと背筋が寒くなる思いがした。足を踏み出すと砂利は一歩一歩が僅かに沈みこむほどに厚く、粉を纏う玉砂利を踏んだときのあの軋む感覚が足の裏を伝わった。参道を歩む途中振り返ると、石灯籠の列が遥かに見え、正面を向き直るとやはり前方にも石灯籠に縁取られた道が長く続く。私は明らかに恐怖を感じた。それでも時折振り返りつつ歩みを進めた。
やがて参道が果て、二つ目の鳥居に辿り着いた。それをくぐり、二、三歩進み周囲を見渡す。正面には拝殿があり、周囲は薄く木々で覆われており暗いが、左方の木立の隙間からはわずかに月明かりが漏れ、その先に池が垣間見える。目が慣れるまで待とうと立ち止まって周囲を見ていると、突然右方から微かにふうふうと浅く早い吐息のような音が聞こえた。慌ててそちらに目を向けるが何もいない。そこには背の低い茂みがあり、その陰に何らかの獣でもいる可能性は否定できないものの、茂みの大きさからいってあまりありそうもない。微かな音だったから幻聴かもしれない。ともかくしばらくその方向を睨んだ後、気にしないことにした。
正面の拝殿に参拝し、木立の隙間から池の方へ抜けようとそちらに向かうと、途中に小さな社があった。そこにも参拝した後、岸へと抜けた。月輪大池は非常に大きく、正面を向くと視界に収まらないほどの横幅がある。奥行きは向こう岸一帯が闇に融けているためはっきりとはしないが、その先にある人家のシルエットの大きさから推するに、それほど深い訳ではないだろう。それでも立派な池だ。月は私の背面にあり先ほどよりもやや濃く雲に覆われ、ぼやけていた。月と池を同時に眺められないのは残念ではあるがしばらくそこに佇み、交互に見た。そろそろ戻ろうと思いつつ、ふと脇に目を遣ると池を跨いで石灯籠の列が見えた。またあの道を行くと思うと気が進まない。「行きはよいよい・・・」などとふざけて呟き、気を紛らわせつつ帰路につく決心を先延ばしにしながら周りを見渡していると岸に沿って道が伸びているのに気が付いた。先を覗くとずっと続いており、先には低い丘とその上には東屋が見える。そちらから抜けることにした。
東屋まで行くと、隣接して高いフェンスで囲まれた芝生のグラウンドがあった。無論人はいない。グラウンドへ入りずんずんと歩く。微風が吹き抜けている。中央辺りで芝生に触れると僅かに湿り気を含んでいるが濡れるほどではない。尻をついて座り、月を眺める。月は一層雲に覆われ今や輪郭も寸断され最早奇形の灯が天に浮かんでいるばかりだ。明瞭に見えたならばどれだけいいだろうと思いつつ、眺めているとしかしこの月も美しく見えて来、私は今更になって朧月なる観念を再発見したのだった(*1)。普段酒を飲まないけれども、この時ばかりはあたりめでもつまみながら飲めたらどれだけ気分がいいだろうかと感じた。準備をしてまた来るのを心に決めた。
ひとしきり眺めた後、地図で帰り道を探す。グラウンドの逆側から抜け、道路を下りつつ戻る道を見つけた。グラウンドを抜けると、公衆便所があり煌々と光を放っていた。少し尿意はあったがまだ余裕があるためそのまま過ぎた。淡々とホテルへと向かう。
しばらく歩いたのち尿意が強まってきた。近くに便所が無いため立ち小便も考えるが違法なので出来る限りは避けたい。しかし同時に私が立ち小便をしたところで、ばれる筈もなく誰が咎めることができるだろうかという不敵な気分もあった。歩き続けるうち住宅地の間に公園を見つけた。それは家屋の列と列の間に取り残された三日月状の領域に造られた小さな公園で簡易な遊具が並んでいる。ここの公衆便所を使おうと外縁に沿って歩きつつ中を伺うが見つけられない。どうやら無いらしい。私は憤慨した。便所のない公園などありふれていることは承知しているけれども、わざわざ今現れなくてもいいだろうと怒りが湧き、本来ならば便所のあってしかるべき空白に、あてつけに尿を撒いてやろうかと考えたが、この静寂の中放尿すればそれなりに音が響くに違いなく、周囲の住人に聞かれることを考えると不安になり止した。私の尿意は限界近くまで高まっていた。地図アプリを見るとまだ二十分以上は歩かなくてはならない。どう考えてもホテルまでもつとは思えないが、ともかく足を進めると、見覚えのある道に出た。行きに通った道だ。記憶を辿ればこの先は道路や建物が立ち並ぶばかりで立ち小便できるような茂みはない。一度足を止める。地図アプリを見るとすぐ右に行けば公園があることが分かったので、歩道脇の草むらを横切り、駐車場を過ぎ、公園へと向かう。この公園は先のとは異なり、庭園やら広い芝生やらがある大規模な公園だった。どこに便所がありそうか見当もつかないが、ひとまず建物が目についたのでそこへ向かった。しかしそこには施錠された建物があるのみで便所は見当たらない。建物に挟まれた道の奥へ行くと芝生が敷いてあり、奥に池、周囲には植え込みがある。この植え込みの陰で済まそうかと考えながら歩いているとある看板が目に入った。曰く、「山の神池では釣りをしないでください」。なんという名前だろうか。信仰心のない私でも山の神を冠する池で立ち小便をするのは流石に気が引けた。道を戻る。もう限界が近く、考える余裕もない。諦念が私を支配した。自らの限界、ただそればかりのためにどんな平行世界においても便所の存在しないような場所を私は尿で汚すのだと、敗北感を感じつつ、間近の立ち小便に都合のいい場所を探して歩くうち、左手に蔦で上方が覆われたプレハブが現れ、「公衆」の文字が目に入った。慌ててその文字の続きを追うと、蔦で部分的に隠れているけれども確かに「トイレ」の文字が続いていた。降って湧いたような都合のいい便所に驚いたが、ありがたく使うことにした。入り口のドアには窓がついており中は真暗だ。スライドドアを開き、中をスマートフォンのライトで照らすが照明のスイッチは見つからない。もしや時間帯によっては電気がつかないのだろうかと不安を感じるも、これ以上我慢できないので闇の中でも済ませるつもりで足を進めるとカチとスイッチの入る音がし、灯りがついた。人感センサーがついていたようだ。無事に用を足した。非常な安堵を感じ、軽快な気分でホテルへと帰った。
風呂に入るなどしつつ明日のことを考えた。出来れば龍王神社を改めて太陽の下で見たい。しかしすでに四時近くになっている。明日のチェックアウトは十一時までで、今から寝るとなるとぎりぎりまで眠ることになるだろう。午後のバイトを考えると十二時頃には瀬田を出なくてはならず、一時間で往復するのは不可能なので恐らくは無理だろうと諦め半分で床に就いた。
翌朝九時過ぎに目が覚めた。まだ眠気はあり、もう一寝入りしようとするも寝付けない。それならばということで、龍王神社を見に行くことにした。
日の光の下では龍王神社はありふれた田舎の神社だった。あの幽玄さを湛えていた石灯籠は改めて見れば妙に小綺麗でそれ故安っぽさを感じさせるもので、大粒の玉砂利に思えた敷石は粒が大きめのバラスに過ぎなかった。しかし歩き心地さえ違って感じるのは不思議だ。昨日は沈み込むようにさえ感じたのが今や普通の砂利道と変わらない。あれだけ長く感じた参道も晴天の下では容易に見渡すことのできる程度のものだった。再び拝殿とその脇の社を拝み、木立を抜けて池の岸へ出る。昨日は闇に融けていた向こう岸も、今や明らかに見え、昨日よりもずっと小さな池に見える。しかし僅かに波打ちつつ光を反射する湖面は凡庸ではあれど清々しく、美しくはあった。
(*1 実際には朧月は春の月に対してのみ言うらしい。)
もう忘れた人もいるかもしれないが2年前大型台風が関西を襲った。
人は忘れるものだ。被害としては同年の地震よりひどかったのに。
信号が止まることがここまでデスシティ化させるとは思わなかった。
近辺の信号は一気に新しいものになったが、あの日を忘れられない。
ゆがんだり落ちたり傾いた信号機、もちろん電気はついてない。二週間三週間エアコンがつけられなかった家も多い。
台風のあと小さな交通事故が多発していた。もちろんみんな気を付けてたわけだが交差点ではどうしても仕方なかったのかもしれない。
電気が止まっていたので、充電が解放された施設ではみな地べたに座って充電待ちをしていた。
町中がゴミだらけで看板が落ちたり公園の木の多くが折れていた。
もうこの辺はしょうがないかもしれないので、9月一週目の週末伊勢湾台風クラスが来る予報に合わせて対応策を模索する。
懐中電灯が必要だ。スマホで代用するな。スマホの充電は命だ。バッテリーを持っておけ。
あの時、断水地域もあった。近場の災害時給水栓を用意しておこう。ポリタンクも必要だ。
ベランダにはなにも置くな。物干しざおが窓ガラスを破ってくるのは勿論、薄いものは飛んで行ってしまえば良い、ではない。飛んで行った先で電柱にぶつかり関電がサイレンをならすのを何か所も見た。それも2週間くらい続いた。
瓦屋根は落ちるものだ。落ちてすぐ片付けられないなら、外を歩く人が踏まないように黄色と黒のテープや赤いコーンなどでいいから目印を置こう。
家がもろいと感じる人は避難所へ。
プレハブは飛ぶ。近づくな。
窓の側に居るな。関西ではとくに雨戸というものを設置している家が少ない。カーテンでは生ぬるい。テープじゃ意味が無い。新聞紙も生ぬるい。段ボールを貼っておけ。できるだけ奥の部屋に居ろ。
時期的に少ないと思うが外国人への通達はなんとしてでも早めにしろ。大阪駅で寝泊まりする人が多かった。そのため駅員が大変そうだった。
自転車は外に出すなら寝かせておけ。ビルとビルの間で起きた局地的小さな竜巻が、自転車置き場ごと巻き上げるのが映像に残っている。
関空には行くな。行くな。
車の中で実況中継をするな。次は死ぬぞ。
水害は大雨と高潮だけではない。大きな川の近くに住んでいる人は、ビル竜巻で飛んでくる川の水に注意だ。前回で分かってるはずだ。
水を貯めたポリ袋を玄関においておけ。防水対策にも、非常用の水にもなる。
スーパーの供給が不安定になった。最低限必要なものを用意しておこう。
外に置く車は悲惨なことになる。防水対策&窓ガラスの対策を。できるだけ頑丈に、思ったよりも頑丈でいいから。
物置はキャンプテントのようにワイヤーで固定しろ。絶対倒れる。
1日半ほど凌げばいい。なんとしてでも生き残るための準備をしろ。
直前ではだめだ。今から、準備しよう。