はてなキーワード: 齟齬とは
リモートワークでなにかアイデアないー?と言われたので「客との打ち合わせが気軽に延長しやがるし、コミュニケーション不足と感じてバンバン入れやがる。作業の時間が下がっているし、心理的にハードル下げてるのかあれこれ言ってくる」んで
1. 現場の人間もその場に参加させればいい。参加しなくても、ヤバそうな事にストップかけられるし、技術者も現場に質問できる
2. 後から齟齬が出たりするから録音させてもらって、文字起こしとかで振り返ったり確認できる
という二個のアイデアを挙げた。
嫌がる客がいるとヒステリックにブーイングが出た。なぜ、アイデアでそんなにキレる?分からないけど、録音されるのは嫌だって言うもんな。アメリカでも嫌だから電話には基本録音機能がつかないんだよな。iPhoneに電話録音機能がないのもそれっていうもんな。
でも、そんな嫌?アイデアとか、お試しでやっても嫌?了解が必要なのは俺も認めるし、情報漏洩とか分かるけどさ、そんなに嫌じゃない自分としては引いたわけだ。
そんな感じの話を嫁にしたら、そのアイデアで全部ダメになったと言われた。全く周りの気持ちを考えてないらしい。
やっぱ、みんなそんなもんなん?
基本的に歳取ると他人から迷惑に思われる度合いとか頻度って増えるよね
例えば電車で騒いでるのが小学生なら「元気だなあ」で済むけど、ジジイババアなら「死に損ないのヒトモドキが、人様に迷惑ぶっ掛けんじゃねえよ死ね」になってくる。
若ければ改善の余地もあるし、経験や知識の不足からくる失敗は取り返せる上に、未来があるってのは何よりデカい価値だから。
おじさんがマイナスなのは、歳取ってるのに経験や知識が不足していて、それなのに無根拠の自信だけでここまで生きてきたから、猪突猛進する歪なモンスターみたいになってるってこと。セクハラ、パワハラ、モラハラ、この辺は現代社会とおじさん達の齟齬から生まれたものだよね。
若さというものが価値なのはブスにとっても同じ。価値が高いうちに買い手を見つけて売却する。株なんかでも同じ仕組みで利益をだすよね。お互い不細工とか低スペックでも良いならいつ売却しても構わないよ。幸せの形は人それぞれだからね。
もちろん歳を取って一人で暮らすのは寂しい。話し相手も居らず、身体が思うように動かなくなっても誰かが面倒を見てくれるわけじゃない。脳は萎縮し感情や言動を自分でもコントロール出来なくなる。もしかしたら短期記憶すらまともに機能しないかもしれない。それでも一人だ。誰も居ない。金があれば誰か雇えるだろ現状そんな余裕も無さそうだ。
属性ロボとかロボ×魔法少女っていったコンテンツが少ないという増田。
確かに?
単純に、子供の理解力に依存してると思う。それか大人が子供を見くびっているか。
ニチアサの代表的な感じの番組でいえば、sp戦隊、プリキュア、ライダーの3つ。
昭和ライダーでもsp1は、属性攻撃持ってた。逆に言えば、あれぐらいが限界(と大人が思っていた)
もうひとつ。ライダーは単体。複数属性持って、敵によって技を使い分ける、というので死に技は放送回ごとに生まれても死にキャラが出ない。
戦隊、プリキュは、複数なので、その回の敵に属性的な弱点があったりしたら、役に立たない人が出て来てしまう。
なんせ、アンパンチ卒業後に見るバトル系番組が、無属性でやってるので、その延長の、ロボットアニメも属性が軽視される方向性。
その先のアニメとかカードゲームで、属性のすばらしさを体験せよって、ひょっとしたら玩具メーカーでも考えているのかもしれない。
超合金ロボットで属性を堪能したら、その先のおもちゃでワクワク感が薄れて、売り上げが下がるとか。
そういえば、ベイブレードとかでも、属性っぽいのとか、カスタマイズとかでワクワクできるようになってたなあ。
そんなわけで、戦隊はとにかく爆発とか派手なエフェクトでドーン!
特に最後は合体するから、お決まりの必殺技で戦うのが手っ取り早い。敵しゃべらんし。
そもそも、解説とか入れにくい(難しくなるし、巨大化した敵はあんまり喋らない)ってのもあるだろう。
プリキュアもキラキラ光線でドーン! ってのもその延長で、比較的子供向け魔法少女たちは、属性攻撃を使わない。
まあ例外はあるはずだ。
とはいえ、プリも戦も色に依存した番組だから、色と属性は切り離しづらく、当てはめても既存の枠と色々齟齬が出る。
サンバルカンなんか、属性じゃないけど似たような要素で陸海空入れたけど、シャーク、海、青、パンサー、陸、黄はまあいいんだけど、
イーグル、空、赤。赤ってなにさ?
そういえば、シンケンジャーはそのまんま属性っぽいあれしてたな。
火のモヂカラ、火炎の舞い 獅子
水、水流の舞い 龍
緑
木、木枯らし 熊
黄
守護獣的なのとかあんまり色味の整合性ないし、属性はあっても、結局そのエフェクトとともに斬るという技。
もうすぐ29歳になる童貞です。吐き出させてください。
お互いを深く知るためのコミュニケーションなのに、会話そのものが目標になってしまっていて、気を遣っているつもりでも、結局は自分が傷つかないように、当たり障りのない、面白みもない会話しかできない。年頃の男なら知っていて当然の知識も、できて当然の振る舞いもできない。料理の美味しいお店も休日の人気スポットも知らない。好きなものはあっても、他人と比べて低俗だと思われるのが怖くて、その良さを語るほどの知識も語彙力もない。
「自分は女性との付き合いが下手だから、こんな自分では相手を楽しませられない」と勝手に諦めて、結局失礼な態度を取っていることに気がつけない。
「自分に興味があるなら向こうから色々聞いてくるはずだ」と自意識過剰になりながら、自分からは決してそのようなアクションは起こせない。
悪い印象を与えたくなくて、相手を喜ばせる言動よりも自分が安堵するための言動しかできない。一歩踏み込んだ質問をすべきなのに、「相手が不快な気持ちにならないかな」などと無駄な心配をしているようで、そんな質問をする自分が気持ち悪がられないかと考えているにすぎない。
こんな拗らせ方をしていても、それを矯正しようとすらできない。
そのくせプライドだけはやたらと高くて、相手の些細なミスや性格の不一致に憤りを覚えたり、冗長なLINEのやりとりにウンザリしたとしても、それを指摘する勇気はない。
自分がまともな恋愛もできない欠陥人物だと評価されるのが怖くて、古くからの友人にも職場の同僚にも、自分が童貞であることを打ち明けられない。
セックスやエロには憧れを抱くくせに、嫌悪感と虚無感とプライドが邪魔をして風俗店に行くこともできない。
身だしなみに気を遣っているようで、トレンドの服を買うほどの自信も意欲もない。
そしてなによりも、「自分はそこまで悪くはないよなあ」などと根拠のない自信に自惚れ、自分の異常な欠陥を直視できていない。
さぞ日常生活もコミュニケーションが取れないのかと思うだろうが、消防士として勤めている都合上、職場内での会話も、一般市民の方々と会話をする機会も多い。
特に救急隊員として出動した際は傷病者の怪我や病気の状態を訪ねたり、病院に着くまでの間に世間話をしたりもする。
傷病者の不安を和らげようと、柔らかい言葉と表現を使い、時には冗談も織り交ぜる。
職場内では、人それぞれの性格や雰囲気を見て、冗談と真面目を使い分けて話すことができているつもりではある。
これらはあくまでも仕事をこなすために必要な所作で、深く踏み込むつもりがないからできる、一種の演技・役割のようなものだと思っている。
本来の自分はこんなに明るくないし、冗談も言わないし、理解力のある人間ではないと自覚している。
上辺だけでもいいからそのコミュニケーション能力を使えばいいだろう、と思うだろうが、それができないからこんな酷いことになってしまったのである。
更に言えば、消防士であることを鼻にかけて、自慢気に誇っているのも非常に良くない。
僕は自分がコミュニケーション能力のある人間のように振る舞うくせに、コミュニケーションが取れないと嘆く、ペラッペラで芯のない大根役者なのだ。
コミュニケーションを取るうえで多少の齟齬はあって当然だし、相手に不快感を与えないような言葉を選んだり、悪いところよりも良いところを探すのが当たり前であるのに、僕はその当たり前が、女性相手にはできない。
凝り固まった固定観念、一方では高くもう一方では低い極端な自己評価、周囲の人間を心の底から信頼できない疑心暗鬼。
恥を捨てて素直に話すだけでいいのに、それができない。
関わった人を傷つけ、不快な思いをさせるだけ。
いつかは一歩踏み出せると信じ、誰かが手を引いてくれるのを足踏みしながら待っているだけのクズ。
それでも、なんとか変わりたいとは思っている。
思っているだけ。
無理だろうけど。
その通りと思うが実際にならない理由は戦後発展の共同体任務なく生活できる解放感の体感価値が高すぎと人身御供の儀式の意義と必要性義が喪失しているので継続的に慣習を維持できないところかと。
前提として
金があればみんな黙るともあるがそんなのは当たり前で金がないから文句をいう始末。文句を言うだけならいいけど金がないのを理由に感染を広めているのだから金がないなら感染させていいという感覚より金がないけど感染させたら死ぬからどうしたらいいの≒死んでということを暗に理解をするべきところ。
人間一人が生活できなくなることが問題だから社会で生活する10人なり100人なりに感染させてそれらに活動を停止させるリスクを背負わせる事のほうが倫理的でそれが社会の共同体、助けあいってもんだろというのならそうだろうけど、感染を拡大させるようなやつをどうすべきかははっきりいってやってほしい。
病院の受け入れがどうのということにもなるだろうけどそれいまさらいってもそういう金をもらえたら休むけどという人がさきに入り詰めてもうあふれてるわけなのだから第二陣以降は金がなくなって死ぬなら死ぬしかない。
全員に回らなかった金も人数が少なくなれば少しばかり出せるようにもなるかもしれない。
まずその団体への貢献が必要という思想が海外の宗教徹底からくるそれとは大きく異なるし、個別に分断されることがどれだけ個人にとっては楽しくメリットがあるかという甘い汁は依存性の高い麻薬のようなもの。
しがらみや血縁のストレスからいったん解放されたものはもう団体に属すのは金をつくるためだけの疑似人格がやっていることで本当の自分は仕事以外の時間にいるしむしろ死んだら自分が支配する側(されるのはどれだけ嫌がっていたのか記憶していないのか)になりたいと言い出す始末。
個人が村から追い出すのはその行動の残酷性が楽しくしかも団体が責任と批判を肩代わりしていくれるので、自分は意見を言っただけといえるのでおそらく陰口私刑は多く行われる可能性は高い。
村の存亡をかけた使命感から悪役を買って出るなんていう人間はまずいないだろう。
そうすると観測点から匿名で行動する者が増えるだけで、それらを逃れた潜在的な問題は浮上するまで目につかないところでリスクを増大させることになる。
具体的に人物ないしは役職がそれらをくまなく取り上げ批判する団体行動が必要になる。
その批判側の団体ですら属することができない人間が単発で提示された情報に食いついて扇動した人間の意図どおり攻撃する以外できない。
直線方向にしか飛ばない火をつけたら飛んでいく兵器と同じである。たしかに有用ではある。だがお祭りのように直上に放って炸裂するのを見て楽しむ風流ものではない。
その使いどころの微妙な要素を具体的に結果を望む方向にあわせ必要なタイミングを待ち効果的な配置で使う指導者やその命令が直接伝達されなかった場合に独自の判断で行動するための指針が必要になる。
団体を形成した時点でルールや定義はある程度理解をしているだろうしさせられることもある。それに従えばよいのだが局面としてその指示を得られず単独で判断を必要とする場面がくる。
それは個が団体の一員として行動をする瞬間そのものでもあるし、行動作戦中でもあるだろう。
確実に団体へ有益な結果を出すべく個人行動をするときに考えるのがリーダーの名前であったり家族の名前であったりすると、固定的に帰着する必要性の対価がある。
自分の命が、何と交換されるのかという式において、神に返す天皇万歳、残された家族にコミュニティから手厚い補償があるはずだという信念、それらを抱くための偶像が必要になる。
自分の大切なものは自分で考えろと、個に浸りきった考えでは至るだろうけれども自分で考えた主神に祈ってその効果が期待できるだろうか。
ぼくがかんがえたさいきょうのあんぱんまん、というメモを胸にそのさいきょうのあんぱんまんが家族を救ったりコミュニティを守ったりすることを妄想しながら自分は死ねると覚悟ができるだろうか。
できる人間はいるだろうしそれはもうこの話の指摘に含まれるほど大多数ではないので、イケるなら個人で逝っておいてほしい。
天皇や親鸞やキリストやあこがれの先輩や王なり首相なり、その名前に少しでも威厳を感じたりそれらに自分は損害を払っても貢献したいと考えるそれが必要になる。
その自分がポリシーとしている事についてなにをすべきで何がすべきでないか、自分の人生を形成しているそれともいえる対象のサブストーリーを考えれば自身の成すべき行動も必然的に選択されるはず。
従っている上位存在についてそれらが怒らず喜び、受けつけ歓迎されて失望されず見放されない、すでに周知されているはずのそれらについて自分の可能な行動が選択できるようになる。
短期的に前例のない突発事項へそれを行使するためには、単発的な神が必要。その神というのが人身御供、実際に最初に目的のために死んだ人間をつくることでその意思を複製し行動することに意義を感じ忘れず方向性を個別に同じ方向へ維持できるようになる。
かつて女児がそれを担っていたのは村で一番価値のある生命といえば生命を生み出すことができる女性であり若くてだれからも愛でられる人の子であればまさにそれである。
その無念を晴らすという感情や、無駄にしない行動を慎重にとるという基礎行動ができる。
この団体行動のデメリットの不快感が現在手に入れている個の解放感に比べ非常に大きいのと、継続的に意思を維持できない偶像の消耗具合がそれらを成功に導かないと想像される。
問題点を具体的にあげてダメだというだけであればただのネット論客()と同じなので、これらを現代に差し替えられる提案を一つしたい。
私個人が挙げる候補としての一つなので、人の数だけ提案はあるだろうしそのうち成功できる策もあるだろう。
個の魅力は無限である。部屋に閉じこもって生きてさえいれたらそれだけでいいという人間すらいる。絶望とはなにかを問う事すらできない。
永遠の命に魅力を感じるという人間はみなこの性質があるだろう。
生きていけないという条件に個を追いやると、全部の個がそれに当たってしまいコミュニティの維持が出来なくなるのは必至。
生かしたまま、とそれだけで個のメリットを充分に満たすのでそれ以上のが必要なくなる。まさに生きる無駄となる。
オンラインゲームですらメリットしかないはずなのにコミュニケーションの不和から天国で殺し合う結果になる人間。
言語による意思伝達しかもたないのでそれに変換できる行動理解でしか他人を理解できないため齟齬がおきる。
ならばコミュニケーションを団体が代行し個人は完全に個のままで行動できるように形成する。
国家の国民管理方法をオーバーライドして氏名や住所や身体そのものという動員をもって行動をしたりするだろうそれを完全に匿名にする。
そして団体の行動は個で行いその集積は団体で行う。個人間のコミュニケーションは無し。メリットの変換は個人の特定されないもの。
現金などを団体から個人に平等に。コミュニティの貢献が実質自分の手取りになり上下や不平等貢献度の差など感知されないようにする。
個と個のリレーを行う仕組みをネットや端末で補うことで可能なはず。
構成員同士が顔を合わせる可能性をあらかじめ禁じた方向で維持をする。
手段が分散しては即時完全に意味を無くすので唯一無二の連絡方法をもってその団体とするのであれば可能だと考える。これが団体行動への一案。
人身御供については実際に志村けんが第一波でなったそれだと考えるが維持性能としてはそれを継続的に支える母体がなかったため消滅したと思われる。
志村けん財団やファンクラブなんてものが存在しそれがコロナによる死を無駄にしないという提言をしていれば、また志村けんをふたたび殺すなと行動ができるはず。
支持を継続できる人物、あまり深く知られていないが表面上愛されて価値があるそれ、アイドルなりを掲げればと思うが実際に人間がそうなる意義をもはや失っている現在効果は期待できない。
ならばアニメや漫画、Vtuberのようなものを人身御供にするのはどうだろうか。
あのアニメがもう10年前、15年前、20年前のものだったと世代差に驚くトゥギャッターがときどき浮上するそれを掲げるのだ。
しかし実際に葬儀を行われたアニメキャラや数多くのキャンペーンに使われたものたちもなんら方向性を代弁したり団結する意思の基礎とはなっていない前例から難しいだろう。
では継続的に伝承となっているキャラクタの特性を利用するのはどうだろうか。
平将門、アーサー王、ゼウス、サタン、定番とされているような名前以外なにもよくわかっていないのになにかしらの方向性を決定するのに大きな推進力となる現在に存在していない人型のものの名前は多くある。
なぜ名前だけしか存在しないのにそれだけ利用されているのか、それは支持層があるから。実際にそれが存在しているという文章や建築物、そこに人を集める方法があり公知されるしくみがある。
これらを象徴とすることで行動の指針とできるしそれを語るだけで人を説得することができる。モニュメントの意義とはこれだ。
ガンダムを実在させたというアトラクションもあった。何かはわからないけれども炭治郎というのもなんとかの呼吸をしていた。
これらを維持継続させるオブジェを存在させるか、支持する団体を存在させればその認知度がすなわち行動指針への再利用価値としての生贄になりえるのではないか。
ガンダムや鬼滅、アイドルといえば何か、現在結果からみてそれらの共通点といえば「ごり押し」だろう。
ごり押しの失敗例としては剛力彩芽があるだろうけれどもあれは個人だったので好き嫌いが別れて分断することは当然であった。
ポスト和田アキ子みたいなものを企画側が創造できることを実証したかったのかもしれないが結果失敗に終わっている。
では団体にしてしまってどれがどの顔なのかもわからないような女子集団にすればどうか。これは成功している。
毎年もっともよい状態の女子を人としての情報が出てこない間に使う。無料で配布することの威力はK-POPが示している。
無料配布で素材利用ができる一定量の女子団体を形成して順番にコロナで消滅させていけば、全員が息絶えるそれまでのドラマを行動に使えるのではないか。
攻勢に予防をするためのキャンペーンキャラクタでもよいし、感染して死んでいくキャラクタでもそれは運営の手腕による。
それ以外の選択肢を無くして動員を図ると自然と動員は成される。他にないから行かないとならないのは実証済みである。
収益について関係各位が綿密に分配を算段する必要があるだろうけれども、その収益活動が金銭とそれをさらに継続的に生み出す人の命も救うのだと思って計画が成されたらというのが一案。
いらすとやのようなフリー素材として使える期間限定アイドルグループ、コロナで私刑を容認する村社会アイドルを全国デビューというわけだ。
これが現実的でない理由を二次創作かさねていだく必要はない。実際に存在していないしこれからも存在しないだろう。
存在していないものについてさまざまに論じていただく「だまされておどけた姿を晒してそれにより本題がいかに愚かしいか」という恥ずかしい踊りをしていただく必要はないのだ。
案があればそれを出してそれをもってこの案を否定していただいたらよい。
取り組むべきではないと考えるそれならば、口をつぐんでおくのが得策であろう。
確かに、試す・触るのは満足のためには必要。だが、それは相手の女性の心の準備がないときに「セックスをするのが当然」のようなアプローチをしていい理由にはならない。それは性加害だ。
少なくともアプローチにおけるコミュニケーションの齟齬は有ったろう。
あなたの社会経験がどれほどかは知らないが、私の視点からでは、個人的には、そんな可能性はあり得ない。満足どころかマイナスでしかない。
これを奥手の理由にするのは根拠がない。単に性格の違いとか、周囲の人間がクズばかりだったのかもしれない。決めつけの感想で個人の問題に持っていこうとするのはネットで赤の他人を攻撃したいだけのマウント屋にみえる。
これに至っては完全に妄想でしかない。「失敗させてもらう経験」の少なさは、ポストの空きとか能力の高さとか、本人の意思とか、様々な要因がある。
失敗による過剰な叱責や罰を上司に愛されてるからだとか、機会を与えてくれた、などとポジティブに捉えようとする。これは信用されているからだ、と自分を鼓舞する。
人によって差はあると言え、選択出来る自由を保証されてる世の中だとつくづく思う。
ただ大事なのは、選択する自由を得るために自分で調べて知識として吸収することだとも思う。
責任が取れるか分からないから『~が言ってた』とか『~でやってた』という他人の意見を引用して言い逃れる準備をしがちだけど、自分の意見と他人の意見に齟齬が出ることを前提にして知識を得るってスタンスがあればよっぽど理論が破綻していない限り他人の意見を聞き入れることは可能なんじゃないかな、なんて考えてみたりしてる。
そんなことを考えながら家族が楽しそうにドラマを見ているのを横目に、ソシャゲで爆死した正月はちょっと寒々しい気持ちである。
今年、数学と小説に関することで「やっておけばよかった」と思ったことがふたつあった。
1つ目。
『年刊SF傑作選 超弦領域』に収録されている円城塔の短編「ムーンシャイン」に
とあるのだけど、これを読んだ時に
ここの「可換」って「可解」の間違いだよな出版社に知らせておいた方がいいかな
と考えたのだけど、ストーリーには何の影響もないディテールだしすぐ知らせる必要もないなと放おって忘れていたら、
今年出た伴名練 編『日本SFの臨界点[恋愛篇] 死んだ恋人からの手紙』に
「ムーンシャイン」が収録されていてこの部分がそのままだった。
2つ目。
奥泉光の長編小説『雪の階』で、数学を愛好する主人公笹宮惟佐子に関して
微積分の初歩を終えたばかりの惟佐子には手が出せそうになかった。
と描写されるところ(一章 七)があるのだけど、その直後に
初歩の参考書からはじめて高木貞治『代数学講義』、ミハエル・グラッスス『高等数学入門』、竹内端三『函数論』と云った著作を惟佐子は独習し、いまは山畑氏から借りた解説書で解析学も少しずつ勉強をはじめていた。
竹内端三『函数論』は上巻(函数論. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)だけでも関数論(=複素関数論)のかなり詳しい部類の本で、
下巻(函数論. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)までいくと楕円関数論について詳しく扱っているような本なので、
それを「独習し」というのは「微積分の初歩を終えたばかり」という描写と齟齬をきたしていると思う。
竹内端三『函数論』は現在でもわりと読まれていて数年前に復刊もされている本なので、誰も気にしないにしても記述を修正した方がいいじゃないかな、
と思うだけ思いながら特に何もしていなかったら、
つい先日『雪の階』が文庫化されて上にあげた部分はそのままだった。
変更されていたかは分からないけど、一応どこかに言っておけばよかったとちょっと後悔した。
そもそも、本のミスや誤字脱字を見つけた時どのくらいの人が指摘・報告をしているのだろう?と思った。おわり。
現在発売中の数学セミナー2021年1月号の特集が「SFと数理科学」で、
円城塔による総論で数学との絡みのある小説をいろいろあげていて、
村田パンマンについてはずっと前から気に食わなかったけど、今回最新話でのタツマキとブラストの邂逅のシーンで完全にキレたわ
まずこのブラストの登場シーンが背景ホワイトになってるのが気に食わねえ。ここは、村田が意図的に原作との方向性を変えた部分だと思う。
原作においてブラストは趣味でヒーローとしての役割を貫徹する一種の異常者として描かれており、一種のダークヒーローとしての役割を持っている。一方で村田パンマンにおいて、ブラストはヒーローの化身として全てを救済する完全な理想図、言わばヒーローの青写真として描かれているのだけれど、はっきり言えばこれは村田の解釈の逸脱である上に、「とりあえず原作とは方針逆にして攻めてみました」くらいの浅い作品理解が見え見えになってて辛い
まず原作ワンパンマン106話におけるブラストのセリフ「いざという時に誰かが助けに来てくれると思ってはならない」を、村田は、「強者の心得として」という(余計な)一言を付けてダウングレードした解釈を行っている。
ちがう。全然違う。
第一に、原作ワンパンマンにおいてブラストは純粋に異常者なのである。主人公サイタマがそうであるように、ブラストは一介の人間が趣味でヒーロー活動をしているに過ぎず、その精神の根本には「趣味で楽しいからやってる」という以上の信念が存在していないことは、原作最新話に至るまでのサイタマの発言を見れば一目瞭然である。そして、ポイントはサイタマにせよブラストにせよ、自身が一種の異常者であることを自覚しているところだ。そう、普通の人間はヒーローに憧れて自分を血反吐ぶちまけるまでに鍛え上げて怪人とタイマンで戦ったりしないのである。誰かを助けるためにスタコラ駆けつけたりしないのである。じゃあ何でそんなことをするのか、ヒーローとしての義務感があるのか? 誰かを助けなければならないという強迫的な使命感に促されているのか? 違う。「趣味」なのである。
そんなあやふやな精神条件において何年もの間ヒーロー活動を行い続けることができているブラストとサイタマは根本的に異常者なのであり、また、サイタマ自身が述べているように、そのような常軌を逸した行動の反動として、そもそもサイタマは自分自身の空虚さを日々感じているのだ。強くなりすぎてしまった、と。
その辺の解釈が全く村田パンマンに通っていないことに俺は以前からかなりの怒りを抱いていた。勿論、村田のイラストレーターとしての技術や画力が業界随一のものであることは確かなのだけれど、彼はそもそもジャンプ編集部から何故自身が原作と作画双方を担当する漫画を任せてもらえなかったのかを根本的に理解していない気がする。そう、作品理解や構成が根本的に浅いのだ!
多分村田雄介という漫画家は努力と才能の二本の柱によって自己をブラッシュアップしてきた人間だから、ある種の才能の無い人間の葛藤とかそういうものに無理解なんだろうなと思う。ある種の人間の心の動きとか細かい心の機微といったものに無知なんだろうなと思わざるを得ない。才能がある人間に特有の浅薄さが彼のアイディアからは漂ってしまう。彼にはそういう意味で編集から仕事を受け渡しづらかったんではないかと思う。ハァーーーーーーーーーー。
とりあえず一番最初に違和感を抱いたのは「海人族編」である。同編のクライマックス、自分の腕の中に倒れ込んだ無免ライダーに対して、サイタマがポツリと言うシーン。
村田版と原作ONE版においてそのシーンの描き方の差は顕著である。
村田版:サイタマは笑顔で無免ライダーを受け止める。まるで部活のコーチが選手を褒めるかのように。
ONE版:サイタマは無表情に無免ライダーを受け止める。感情の動きは伺えない。
この時点で二人の作品の理解の深度が全く異なっていることは明らかである(ONEは原作者なのだから当然なんだけど)、そう、先に述べた通りサイタマは日常に空虚を抱えているのでそもそも根本的には無免ライダーの奮闘に感動していないのである。それは、同編ラストシーンにおける「つまんねえな、今回は期待したんだけど」というセリフからも明らかである。
村田に対して言いたいのは、何でそんな感情豊かやねん、という話である。勿論、これと同趣旨のツッコミは散々浴びせられてるだろうから村田にとってはこういう意見は今更なんだろうけれど。でも、それにしても作品の解釈が雑すぎんかね? という話なんです。
他にも、同場面において、背後から一撃を加えたにも関わらず何らダメージを受けたようには見えないサイタマに対して、海人王が沈黙の後に名乗りを上げるシーン。ここも明らかに原作の意図を掴み切れていない浅薄な描写となっている。本編において海人王はサイタマの生物としてのポテンシャルの高さを如実に感じ取っており、やや苦戦したジェノスと比較してさえなお「今までのゴミとは明らかに違う」と述べている。このことからして、海人王はこの時点で自身の敗北を些か覚悟していた可能性が高い。その上で、これまでどのヒーローと相対した時にも発さなかった「名乗り」を上げるのである。
つまりこの名乗りは、自身の敗北の予感を覚えつつも、目の前の強者(推定)に対して敬意を表した「名乗り」だと言えるのだ。自分と同等かそれ以上の生命体を目の前にして、戦闘を開始する前に礼儀を尽くそうとしたのである。敵役ながら天晴な心理描写に俺は感動してしまっていた。でも、当然ながら村田パンマンにおいてはそのような感情の機微が捉えられている様子はない。ガッカリ。
そういった村田パンマンと原作との齟齬は全体的にはそれほど多くないものの、時折というペースで伺えてしまうのである。
例えば地獄のフブキとサイタマが最初に邂逅するシーン。フブキは戦闘においてナイフを取り出しサイタマに切り掛かる。その目尻には涙が浮かんでいる。
この涙は、フブキのナイーヴさの表現であることは明らかなのだけれど、その解釈がONEと村田では幾分異なっているように見える。
村田版:子供が自分の願いを聞き届けられなかったかのような悔しさを滲ませた涙
ONE版:目の前の相手に対する恐怖、そしてナイフという直接相手を傷つける武器によって相手を殺傷することへのストレスを含んだ涙
やはりこの描写からも二人の作品に対する深度の違いが現れているようでならない。村田は普段の仕事はきちんとしてるんだけれど、こういう見せ場みたいなシーンでしょうもない解釈をドヤ顔でブツけてくるからホント辛い。上記の通り、フブキはナイーヴであるため根本的に他者を傷つけることにストレスを感じていることが前後の流れから読み取れる。更には、相手を武器で傷つけてまで自分の地位を守ろうとすることへの葛藤さえもその表情から伺える。一方で村田……ヘイ村田
上記の通りフブキの涙についての解釈が、その表情に関する解釈が、村田パンマンには希薄であるように思われるのだ。
というわけで作品の解釈がところどころ浅いっつーか、キャラクターの人格の根本の部分について村田は読み違えているように思えてならないのだ。いやまあ大体は大丈夫なんだけど、原作ファンとしては「ここが見せ場!」ってなってる場面でやらかすのが村田って感じなんだよな。例えば無免ライダーをナイーヴなファンボーイ的なキャラクターとして描写してるきらいが村田にはあるけれど、無免ライダーはヒーローに対して明るい観念ばかりを持ってるファンボーイじゃなくて、ヒーローとしての自分への失望とか周囲の人間が自分に向ける視線への恐怖(タンクトップタイガーの発言「C級1位の座寄越せ!」などに代表される)と日頃戦っているキャラクターの筈なのだ。つまり、根本的に暗くて弱い人間の筈なのだ。それでも、信念に従って倒されても立ち上がって戦い続けているから彼は魅力的なのだ。
なのに村田ときたら無免ライダーのことを「スパイダーマンに憧れたのでとりあえずスパイダーマンのコスプレしてみた」的なファンボーイとして描いている。ハァー、バカチンが。
まあ勿論繰り返すように全体は丁寧で、仮に褒めるとすればボロス編とかは全面的に良かったと思うんだけど。でもところどころやらかしてんだよなあ村田は。
長くなったけど今回の最新話での蛇足描写もそうで、「強者の心得として」っていうセリフはいらなかったの。
これは俺の作品解釈なのでONEの想像と合ってるかどうか分からないけれど……、恐らく「いざという時に誰かが助けてくれると思ってはならない」というセリフは、根本的にブラストの優しさと厳しさの混じったセリフっていうところは当然村田が解釈しているのと同じなんだけど、根本的にそこには齟齬があるようでならない。
つまりあのセリフは「人を助けるってことは普通の人間にはできない」という意味が籠もってると思うんだよな。
だから、普通の人間にはできないことを期待しちゃいけない、って意味なんだと思う。そしてここで述べた解釈もまた表面的な解釈に過ぎず、裏を返してみればブラストが言いたかったのは次のことだろう。
「人を助ける人間は異常者だ」
ってこと。
繰り返すように、ブラストは趣味でヒーロー活動をしている自分の異常性について幾分自覚的である。「普段は働いていて、これは趣味なんだけどね」と原作において付け足している部分からも明らかであるように、「自分はこんな異常者じみた活動をしてるけど、普段は普通の社会人なんだ」という、既に解消され消化されたであろう葛藤の、単なる痕跡としての「後ろめたさ」を匂わせているのである。そう、ヒーロー活動なんて本来は異常者の行うことなのである。サイタマしかりガロウしかり、本当にヒーロー活動に真面目に取り組んでいる連中なんて皆まとめて異常者なのだ。
そしてブラストは自己意識においてもソフィスティケートされているので自身の異常性を認識している。彼はこう言う。「(自分はちょっとおかしいから趣味の一環で君を助けたりはするけれど、そうじゃない普通の人が君を助けることなんてまずないのだから、)いざという時に誰かが助けてくれると思ってはいけない」と。そしてここには更に裏の意図が込められていて、つまり「誰かを助けるなんてことを考えるのは、誰かに助けてもらいたいという弱者の望みを叶えようとするのは、根本的には異常者の仕事だ。君が、そういう弱者の望みを叶えたり、あるいは、『誰も助けになんて来てくれないのが普通の世の中』に対して忸怩たる感情を抱いているなら、君自身が異常者になって、つまりはただ助けを待ち望むだけで誰かを助けることのない普通の人間から抜け出して、誰かを助ける側に回るしかないんだよ」と。
ブラストはそういうヒーローなのだ。異常者としての、しかしサイタマやガロウと同じく善なる傾向を持つと同時に、冷徹な感情をも持ち合わせるダークヒーローであるのだ。その辺のしっかりとした解釈を、村田は自分の仕事に持ち込んでもらいたい。以上一読者からの意見でした。
https://blog.tinect.jp/?p=68019
だいぶ昔にMENSAに所属していて、MENSAのIQテスト大会みたいなので優勝したりして、IQという指標で分布見たらかなり端っこにいるヤツ。
元記事にある様な行動を取ったりすることもあるので胸が痛くて増田に書こうと思いました。
ちょうど、同じことを社内向けに伝えたばかりなのでタイムリーだったというのもあり。
まず最初に断っておくと、この項目はいわゆる知的障害者への偏見を抜きにして事実だけ読んでほしいです。
MENSAの飲み会の中である人が「我々は知的障害者なんだ」と話していたことがとても印象に残っています。
どういうことかというと、IQ130(MENSA入会基準)というのはIQ70(知的障害基準の一つ)と同じだけの出現率であること。
そして、知的障害という分類を社会が生み出したのは、コミュニケーションや理解度がボリュームゾーン(IQ100)と異なることで、社会生活に困難を生むから。
大は小を兼ねる的に、高IQだからってコミュニケーション困らないでしょ、と思うとそうでもないです。
知的障害の方々の行動や思考の「理解できなさ」を思い浮かべてみてください。
なぜ、あの人はずっと同じことを繰り返しているのだろう。どうして突然関係ないことにこだわり始めるんだろう。
そういう「理解できなさ」をマジョリティに対して感じることがあるわけです。
そうすると、理解できないことを起因として集団からはじき出されながら社会生活に支障をもたらすことがあります。
僕はパターン化(抽象化)の能力が高いってことだと考えています。
複数の物事に触れたときに、それらの共通点・差異を見つけてパターン化し、次の事象へ当てはめてみようという意欲の強さと精度の高さです。
少なくとも、その能力だけで僕はMENSAに所属し、その中でもIQテスト大会やって優勝するくらいの異端にはなりました。
裏返せば思い込みが激しいんです。
サンプル数の少ない事象に直感とも言うべき帰納的なパターンを見いだして、恐れずそれを適用するだけなのですから。
そして、その独特なパターンに乗ってない議論や視点や考え方への理解はそれほどうまくできなかったりします。
だから、IQ高い/頭がいい=頭の回転が速いとか計算が速い、記憶力が高い、といった捉えられ方をすると困惑します。
相手の言っていることが言葉として理解できるけどその思考が理解できないとか、こちらが伝えようとしていることが全く伝わらないとか、かなりの頻度でありました。
勉強を教えてほしいと言うので教えると、こちらとしては当然こう考えるべきというレールがあるのに、そこに乗ってくれない。
僕は幼い頃からこんな風に周囲との違いを暗に感じてきました。
そういうことを繰り返して手に入れた結論は「人のことがわかるなんておこがましい」です。
「自分は人を見る目がある」と自負する言葉は僕にとって信用ならない言葉だし、「言わなくてもわかるでしょ」はわからないんです。
でも、僕自身はやっぱりパターン化して世界と向き合っているので、そこにはある種の自動化とか思考のショートカットが入っていて、それらを言語化するのにすごく時間がかかってしまう。
その中で、自分自身がうまく言葉にできていない部分を連ねていくときには、自分の思考をトレースしているために、ものすごく直線的な論理展開をします。
そんなときには他者の意見を否定するようないい方をしている場面も自分自身感じています。
ただ、僕は高圧的に話をして人をやり込めたいとか否定したいのではなくて、必死に自分の考えを伝えようとしているだけなんです。
その上で僕の間違っている部分を示してもらって、よい結論へ持って行く議論ができるとうれしい、と思いながら話をしています。
そんな思いとは裏腹に、自分の話し方がまずいせいで、どうしても人を威圧したり、意見を封殺するような口調になっていることが多いように感じています。
理由は上に書いたように、僕が話し始めている時というのはかなり必死な状態なんです。
今まで自分と同じ土俵だと思って話して行き違いを何度も何度も経験してきたことが僕の原体験にになっていて
みたいなやり方が自分の中に根付いてしまっているから、これをうまく修正できないでいます。
つまり、単なるマウンティングのために頭の良さでぶん殴っているわけではなく、立っている土台が違うことでコミュニケーション齟齬を産んでいるケースを想定しています。
今僕は、頭の良さっていうのは謙遜も自慢もなく自覚しないとひどい病だと思っています。
死ぬことこそが救い、俺が愚民を救世してやる、とナイフを振り回す異常者、怖いでしょ?
元記事の同僚がどうかはわからないけど、コミュニケーション上の問題を感じながら論理的であることをやめられないのはそもそも問題意識が周囲と異なるのではないでしょうか。
それ自体が間違っているわけではないし、論理的に解決を進めることが社会や人類を発展させてきてます。
なので人と一緒に働いている中では、自分の特性みたいな部分を自覚して、周囲に伝えてみてください。
その人がどういう人間性なのかを、一面だけで判断しないでほしいです。
もちろん、中にはまさにクズと言っていい性根の人もいるでしょうし、そういう人を無理にかばってくれとも言いません。
しかし、普段は問題ないのに議論になると殴られるからいやだな、と思うような相手はもしかしたら問題を抱えている人かもしれません。
そういう人たちとインクルーシブに働ける環境を作っていけたらいいなぁなんて思っています。
わかってるけど、やりきれない部分ってあるんです。
なので、最善とは言わないけど、ここに書いたような文章をチーム向けに伝えて、お互いのギャップを一緒に見つめましょ、って話をさせてもらいました。
コミュニケーションなんだからみんなできて当たり前、たどり着けない部分があるのは甘え(努力していない)って言われるのは怖いなぁ。
反応いただけたので、追記します。ありがとうございます。本文と齟齬がある場合は、こっちが正です。
一番のターゲットは死後の名声を欲しがるような人たちです。「今は批判だらけでも、俺の名前は歴史に残る」みたいに思ってる人。
そういう人たちに「適当なことを言うとアレに載せられる」という感覚を持ってもらうのが一番の目的であって、
将来「こいつ過去にこんなことしてたんやで」って自分がニヤニヤするためのものではありません。
以下、いただいたコメントへのレスポンスです。ニュアンス近いのはまとめちゃってます。ごめん。
Q:事実の認定をだれがするんだ。デマをどうやって防ぐのか。火のないところに煙がたつ。
A:テレビで本人が言った、統計で数字が出ている、裁判で結果が出た、現物がある、等でも十分。疑惑だけなら入れません。
Q:編集合戦になるだろ。一人でやったほうがいいよ。
A:Wikiと書いてしまってごめんなさい。追記要員はごくごく限定で良いと思うのです。判定基準は結構シンプルだし。
Q:削除要請されるよ。訂正追記だけではだめ。履歴すら残せないようにしないと。事実でもあかんのやで。
A:法的に正しければ対応せざるを得ませんね。なので、その人が死んだ後に復活させるかもしれないという風にしましょうか。
ほかにも、コピーサイトを大量に作って(ミラーサイトではない)そっちは別とするとかどうでしょう。
Q:訴えられるよ。
A:将来的に海外在住の人にお願いするとかではどうでしょうね。追記なんて誰でもできることだし。
Q:名前候補:うんこ.jp、増田てる、悪行pedia、実名サーチ、ロー速、閻魔.com
A:ありがとうございます。いわれてみれば閻魔帳のイメージですね。老人にもわかりやすくていいかも。
A:ありがとうございます。早速買いに行きます。元ネタはベニスの商人からですが、あまり深く考えずにタイトルにしてます。
~追記ここまで~
はてなーの皆様には言うまでもないが、最近の政治家は図々しい。たまに政治家以外も図々しい。
何かあっても強弁してやり過ごせばいいと思っているのだろうし、実際にそれでどうにかなってしまっている事が多い。
これはまずい。思想がどうこうより、もっとずっと根本的な所でおかしい。
そういう人達への、民主的な抵抗手段の一つを考えてみたんだけど、現実的かどうかわからないので意見が欲しい。
長くて冗長かもだけど、まじめに考えてるから許して。太字だけ読めば大体おkです。
簡単に言えば、ろくでもないニュースだけ集めたWikiを作る。良いことや業績は載せない。
それを数十年単位で運営していけるよう、ゆるーく体制を作り、それなりにSEO対策をし続ける。
すると、〇〇太郎で検索すると、その名前に紐づけられた悪事がぞろぞろと表示されるサイトが出てくることになる。
時間が経てば経つほど悪事が忘れ去られるのではなく、汚名だけが目立っていく可能性を当事者が知れば、圧力として成り立つのではないかと思うだがどうか。
賛成が多ければそのうち作るつもり(出来るとは言っていない)だけど、そんなの俺がやったらあ!って人が居たらどうぞどうぞ。
以下、仕様?について書いてみた。
概要:人や会社に関するニュース等を収集し、当人や団体に紐づけるWikiサイト。ただし・悪いニュースのみ載せる・個人の意見は載せない。
解説が必要な場合も記事へのリンク。・悪いね!ボタン付ける。・コメント欄...は作っていいんだろうか。
目的:上に書いた通り。その他、悪習因習等をやめさせる圧力として。
目標:10年後20年後に、その人の名前で検索するとTOPに出るサイト。(企業名は無理だよね...)
掲載対象の人:他人の人生をコントロールできる立場にいる、日本国内の人や団体
(例)政治家、政党、上級公務員、企業重役、テレビ局、新聞社、警察、ライター、文化人、芸能人、学校、教育委員会、宗教団体など。
掲載対象外の人:上記対象に入ってない一般人(犯罪者も含む)、日本国外での事象。
掲載対象の事象:一般的なマスコミ会社により報道されたことのうち、ろくでもないことほぼ全て(エビデンスのあるもののみ)。その他の掲載ルールに合致した場合。
掲載対象外の事象:不慮の事故、不可抗力、不利益を被った人がいない事件、私生活関連、推測によるもの、個人によるリーク。
ライセンス:Wikipediaと同じ感じで。(コピーサイト大歓迎)
~太字ここまで~
法律には触れてないけど系:偏向報道、科学的根拠のない製品や薬、画像による謝罪文、謝ってない謝罪文、人の弱みに付け込んだ商売、糞みたいな企業内文化 など。
未だに〇〇している系:セクハラパワハラ容認、ウナギのセールをしてる大型店、ブラック校則、記者クラブ、無記名報道、水素水売ってる、元記事へのリンクや参照資料の記載が無い記事、手書き強要、転売屋の巣窟のサービス など。
例外的に業績を載せる系:長年続く悪習因習を既定し、それを表立って真っ先に止めた場合に掲載。ウナギ売らない宣言とか、報道をすべて完全記名式にするとか。
Q:お前性格悪いな。
A:その通りなんですが、掲載されるような人は、もっと悪いと思うんです。
Q:誰が更新するんだよ。
A:対象範囲が狭ければ自分だけでも余裕す。見出しとリンクと概要を週一で追加します。賛同者が居てくれるならそれはそれで。
A:犯罪や嘘つきや厚顔無恥は、右左の思想とか関係ないでしょ。
A:事実しか載せないので、グレーゾーンは読む人次第でいいと思います。
Q:編集合戦にならんかね。
A:ニュースの内容を転載するだけなんだから、基本的に追加しかできないようにしてもいいと思うんだけど、どうでしょ。
Q:消せないの?誤報とかどうするの。
A:誤報も消さず、目立つ訂正を追記する形で。(エビデンスつけてね)
A:内容が事実かどうかで決めましょう。関係者筋の話とかそういうのは全無視。
A:上司がまともならこんな事起きない!という場合なら、お偉いさんは晒されてもしょうがない。いじめが無かったと言い張る教育委員会の会長とかも。
Q:誰が悪いと言えないこともあるよね
A:一応「変える力を持っているのにしない奴」も対象にしたい。報道の自由度ランキングが低い→マスコミ各社の社長や、そのときの政権とか。
Q:死んだ人や消えた人も対象?
A:対象にした方が、現役の人への抑止力となるんじゃないかな?
A:そういう人は元々名声も何もないので、あんまり抑止力にならないだろうし、更生しづらくなるのもどうかと。
Q:訴えられないか?
A:報道済みの周知の事実しか載せないんだけど、駄目ですか? 誰か教えて。
Q:刺されるぞ。
A:しゃあないやん。
A:そもそもこんなのに賛同者がどれくらいいるかわからない程度に、自分の感覚に自信がない。致命的欠陥があるかもしれないし。
「賛同者が多いけど誰も作らない」なら、金貯めて時間を作って自分でやるつもり(さっくり作れるスキルはない)。
でもこういうのって作ったあとが勝負どこよね。
選択肢が増えるともちろんそれまで考えなくてよかった問題が出てくる
養子を持つ権利とか、別姓夫婦の子供の姓とか、異性間の同姓婚なら生じなかった瑣末な問題
でも実は、そういう問題って全部、個別の事例として当事者間で調節することが可能であれば、あって無いようなものなんだよね
あとはそういう多様な選択を周りが奇異な目で見るのをいかに減らせるかどうか、つまり単純な慣れの問題
それは、選択が多様になればなるだけ、全く同じパラメーターの値を求めているパートナーを見つけるのが難しくなるっていうこと
選択が自由であればあるほど、当事者同士の齟齬の可能性は増え、調節は複雑化し、結婚に対する心理的コストが嵩んでいくということ
これは今まで選択肢のなかった制度の中で、妥協を強いられてきたことの裏返し
だから、選択肢が増えて自由になるかわりに、なぜその結婚がなされる必要があるかということを人は考えるようになって、結婚は簡単にしようと思うものではなくなっていく
発達障害同士だとコミュニケーション齟齬が激しくなる事があるというのも知られて欲しい。
自分の身近な発達障害の女性が性被害に遭いがちで、しかも本人にその自覚が薄い。
何度も彼女の話を聞いていると、男性側からの好意のジャブみたいな物に対して、
好意がないのに「(相手から見て)良い反応」をしてしまっている事が多い様に感じた。
発達障害同士は似た部分があるので惹かれやすいらしく、相手側も発達障害の傾向がある人間が多かった。
そして結果的に加害側になってしまうのはいつも男性である。(加害するなよ、という話だけど)
こういう事を他の人間同士でも何度か見た。
今回の件は内情を何も知らないし、被害に遭われた女性は気の毒だと思う。
それは動かない事だけど、
発達同士だとこうなりやすいという状況がある事実が知られておいて欲しい。
そして発達障害の当人の男性も女性も、自覚して気を付けて生きて欲しい。
男は勘違いしない様に、女性は勘違いさせない様に。(逆も然り)
全ての発達障害の人が当てはまる訳ではないですが、気を付けるに越した事はないと思うので。
具体的にどう気をつければいいのか、