はてなキーワード: 遊戯とは
人混みの中でぶつかる、ぶつかってくる、避ける、避けない、避けろやという話が微妙に盛り上がっているが、俺は人を回避しながら歩く事自体が結構好きだ。
前から来るおばちゃん、その後ろに居るスマホを見ながら歩く姉ちゃん、イヤホンから音漏れしまくりの兄ちゃん、めっちゃ早足で斜め移動してるおっさん、杖ついてる婆さん、酸素ボンベ的なのが入ったカートを推してる爺さん、人混みの中には色んな人が居る。
それぞれ歩くスピードも、移動しようとする向きも、周囲への注意力もバラバラだ。
それらを回避しつつ進むのは意外なほど難しい。
特に駅の構内や繁華街の地下道などは狭い上に進行方向が限定されやすい為に人が密集しやすく、ぶつかりやすい場所だ。
そういうところで可能な限り人にぶつからずに進むという行為は、なかなかの遊戯性を持っている。
上手いこと避けながら進めると割と楽しい。
偶にだがこういった人を避ける勘がやたら冴え渡る時もある。
「見える、見えるぞ! 敵かどうかは知らんがおっさんやおばちゃんが進むルートが見える!」となるのだ。
調子が良い時は、爺さんが息切れして立ち止まるタイミングさえも完全に読める。
スマホをガン見してて前を全く見てない姉ちゃんも、「俺は絶対避けないぞ」と謎の決意をしてるっぽいおっさんも、俺の進路を阻む事はできない。
誰も俺を止められない! もはや気分はマラドーナだ!
伝説の五人抜きの実況が脳裏に蘇り、万能感が俺を包む。そして――
大抵こういう時は柱とか壁にぶつかるのだ。
人の動きが読めるもんだからそっちにばかり注意が行って、人以外の物への注意が散漫になりがちなのだ。
まだ壁なら良いが、車にぶつかったり犬や猫を踏んづけたりすると大変な事になる。
みんなも気分だけマラドーナには気をつけよう。
ゲームを純粋に楽しんでる人には申し訳ないけど、人狼ゲームが好きだと公言する人間と有効な関係は築けないと確信してる。
さすがに未プレイで文句を言うのもなぁと思って何度かプレイはしてみた、だが、あれは人を騙し疑い貶めて笑いものにするゲームである。
自分が勝てれば他人なんてどうでもいいという本性をしっかりと表してくれるのである。
その点で地雷の可視化が出来たので、Twitterで「人狼やりたい」などと宣うフォロワーは静かにミュートして、程々のところでブロックするのが最近の密かなストレス発散方法だ。
同じロールプレイゲームでもTRPG…特にクトゥルフはとても好きだ、世界観がハッキリしていることもあるが、自分が頑張れば道を開いていける、生存ENDやTRUEENDも可能性を見いだせる。(もちろん卓にもよる)
だが人狼はとにかく他人を蹴落とし侮辱し、あまつさえ人狼を苦手とする人間を徹底してバカにする、人間関係を容易く崩壊させる遊戯だ。
もちろんそれを好きだという人間には申し訳ない気持ちがある。こういう話をして差別主義者だのアカだのレイシストだのと罵られても構わない。だが人狼が嫌いだ。
いじめられていた頃を思い出すからだろうか?だとすれば随分繊細な心を持っている自分にも驚くが、もしかすればそれが無意識な嫌悪に繋がって、今日ここに宣言するほどの不快を自覚したのかもしれない。
再三話すが、人狼が大好きでプレイする人間がいることは当然だと言える。
そういう人間の主張ということで、吐き出して考えてまた生きていく。
創作を楽しむというのは理想や空想や思想をダイレクトに反映できる、人間だけに許された高度な知的遊戯だから、そんなふうに悪く受け取るのはもったいないよ。そして創作である以上、現実世界の物理的な制約にとらわれてしまう実写よりも、アニメやCGなどの手法を駆使した方が興味深い映像を作れるんだよ。清らかさの表現というのもその一種。3次元でリアルタッチで現実を描くとどうしても世知辛いものが滲んでしまうところが、2次元ならいい子ばかりの優しい世界を違和感なく表現することができる。二次元の愛好家は、必ずしも三次元の人間を嫌ったり醜いとか感じてるわけじゃないし、自分が醜いから二次元に逃げてるわけじゃない。実際俺も容姿はそんなに悪くないと思ってるしな。
東京都心に住まうハイソサエティな人々や地方民は、東京にこれだけ近いところに、これほどモータリゼーションが発達した都市があることをほとんど知らない。
東京でも横浜でもない、車を中心にした世界がここにある。
嘘だと思うなら、カーシェアでも借りて一度センター北・センター南界隈を走り回ってみるといい。
東京と横浜の中間でなおかつ東海道線と東名の中間ぐらいの位置関係と言えばぼんやりとイメージがわくだろうか?
詳しい歴史とかはwikipediaを見ろ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%97%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3
元は森と原っぱしかなかったところを開拓したニュータウン開発としては最後発に近い再開発事業だ。開発が始まったのが実質80年代以降なので、近代的なモータリゼーションをがっちり取り入れた都市計画に基づいた街が作られている。
ざっくり言えば、港北ニュータウンはショッピングモールの集合体だ、少し小さめの濃縮されたイオンモールクラスのショッピングモールがぼっこぼこと乱立している、センター北・南両駅に中規模のショッピングモールが3棟(港北東急、港北阪急、ノースポートモール)、立体模駐車場を持つ小規模ショッピングモール(どでかい商業ビル)が4棟、さらに商業ビル多数。近隣にはホームセンターも幾つもある。
そんな中途半端なショッピングモールじゃあね、という向きには、車で3~40分圏内に大規模ショッピングモールが3か所(ららぽーと横浜、ラゾーナ川崎、トレッサ横浜)、もう少し小さい規模でグランツリー武蔵小杉、たまプラーザテラスとか、横浜圏までいれると本当に数えきれなくなる。
とにかく車があれば買い物を行く先に全く困らない、毎週末・毎日がショッピングモール巡りだ、車で複数のショッピングモールを梯子することなんかもザラ。
それから、この二駅だけでスーパーが大小とりまぜて10軒前後ある、あほか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%97%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kohoku_New_Town_-02.jpg (写真)
まず道幅が広い、一般道で3車線があたりまえにある。狭い細路地がほぼ存在しない。一方通行もほとんどない。車の取り回しで困ることが無い。
駐車場も安くどこにでもある。商業施設の駐車場はほとんどがスロープ式立駐で、だいたい割引で足りるか、最初から無料。
ある意味センター北・南が猛烈に充実しているため、車無しで滅茶苦茶快適に生活できてしまうのだが、当然車の所有率も高い。
そして、いい車が走っている。外車率が異様に高く、軽が少ない。都心みたいにポルシェとベンツ、アストン・ベントレーにあれはマクラーレンか、みたいなバブリーさは無いが、ドイツ勢、ラテン勢など欧州車がかなり多い。レクサスも多い。港北ニュータウンにいると、日本の不景気とは? という気分になるぐらい、日本で失われつつある豊かさがまだここには生きている。
そして、ニュータウンらしく、車歩道分離や、公園が充実しているのもすばらしい。センター北・南から徒歩圏にもちょっとした森のような大きな公園が幾つもあるし、車で移動すれば自然もスポーツ施設も遊戯施設も多数あり子供の遊び先の選択肢に事欠かない。大きな公園に行くと、テント族っていうの? ミニバンにカートとテント載せてやってくる親子連れが広場にテント広げてゆったり遊んでる。ああいうの、都内育ちからみると全く未知の世界で軽いカルチャーショックがある。わざわざ、ひーこら奥多摩まで行ってバーベキューする必要ないんだ、みたいな。
それから、第三京浜・東名高速が至近というのも大きい、レジャーとなったときの選択肢が都心とはけた違いに多く、海と山にすぐ行ける。箱根・鎌倉・三浦・伊豆・富士・東海方面が東京よりすべて一回り近い。渋滞のボトルネック一つ分少ないことで、車での日帰り旅行もめちゃくちゃ快適。
都内でマンションや戸建てをサラリーマンが買うのが現実的でなくなって久しいが、港北ニュータウンとその周辺の横浜市営地下鉄沿線はまだ選択の余地がある、さすがに新築マンションの造成は減ってきているが、中古なら3~4000万円代から選択肢がある。しかもニュータウン故、ほぼすべてが築浅なので都心に比べれば程度が全然いいし広い。駐車場も当然ついているし、駐車場代も都心みたいにん万円なんてことはない。
歴史が浅いということは、世代・年齢層も若いということだ、周辺の戸建て地域もおんぼろの昭和な住宅や空き家・廃屋なんてほとんどない。街がぴかぴか、古い家はだいたい地主さんの邸宅。
港北ニュータウンのある都筑区は首都圏でも数少ない出生率が高く人口が増え続けている自治体だ。まぁ、40年50年先のことはしらん。
人種的には、ややマイルドヤンキー寄りだがヤンキーではない、リア充だけどうぇーいじゃない、ぐらいの層が厚い。所得がそれなりにあると思われるおされな人も多い。スポーツ観戦が好きで子供もサッカーやらせてます、目指せJリーグみたいな感じ? なにしろ、手軽にスポーツをできる環境がある。
そして、BOOKOFFに行くと、売られている本の質が違うんだ、ひたすらベストセラーやジャンプ掲載作品で埋まってなくて、それなりに面白かったり、マニアックな作品もごろごろしてる、実用書の質も高い。つまり、本好きが沢山いて、本を買い、BOOKOFFへ放流するというフローが成立しているわけだ。
総じて、平均してそれなりの所得があり、家と車を持ち、自分の生活を等身大で生きている、そんな世界が港北ニュータウンだ。
東京都心へは電車で40~50分、車で1時間前後、というところ。
港北ニュータウンの中央駅はセンター北とセンター南の二駅、センター中央駅は無い。この二駅を貫くように横浜市営地下鉄ブルーラインと同グリーンラインが通っている。
残念ながら東京都心直通の路線は無く(計画はあったんだ...)、都心に出るにはブルーラインであざみ野に出て田園都市線もしくはグリーンラインで日吉に出て東横線へ乗り換える必要がある。横浜・新横浜・みなとみらいへはブルーラインで直通だ。
車でのアクセスは、東名 横浜青葉ICもしくは第三京浜 都築ICから15分弱。
都心に直通の電車がないなんて田舎だよね、という向きには田園都市線沿線のたまプラーザ・あざみ野・青葉台を勧める。半蔵門線直通で都心まで30分前後だ。通勤時間的には都内の多摩地区と変わらない。
全体に若干割高にはなるが、車があれば、港北ニュータウンの利便性は享受できる。
ご存知のように殺人的な通勤ラッシュでおなじみ田園都市線だが、大井町線の乗り入れで改善してきているし、オフピークして、渋谷以前の半蔵門線から乗ればそれほど大したことはない。
ただし、歴史が一回り深い分高齢化が進んでいるのも確か。モータリゼーション第一世代が高齢化で免許―返上して駅から遠い戸建てを手放すみたいな話が出てきている。
都心と比べて東急グループや大手資本がなんとかしようとしている点がちょっと違うところで、たまプラーザの再開発なんかがその例、興味があるなら行ってみるといい。
東横線沿線は良くも悪くも東京都心に近い属性がついてくる、居住費や駐車場も高くつくし、狭い道も多い。武蔵小杉・元住吉・日吉あたりは車でも住みやすいが水害が心配なのは去年の台風でわかっただろう。
そんな感じで、首都圏にでもモータリゼーションが発達して発展している都市がある、ということをわかってもらえると嬉しい。東京都心と地方のロードサイドの二元論なんてナンセンスだ。
都内勤務だけど、リモートワークも進んだし、ちょっと都心から離れてみるのもいいよね、車の運転好きだし、という層にはぜひ一度訪れてみてほしい。
港北ニュータウンに無い物? うーん、歴史とか、超高級ブランドショップとか、それから下北や吉祥寺みたいな個性かな。あーあと、あれあれ、イオンが無いよ。
幼いころの記憶は、2歳ぐらいから残っている。初めて乗った三輪車、初めていった遊園地でのヒーローショー、流行に乗って買ってもらったローラースケート、ファミリーコンピュータ。皆覚えている。
幼稚園の頃には、既に自分が他者とは異なる存在であることを認識していた。
幼稚園でやることは何もかもが退屈だった。何度同じことを教えてもらっても文字を読めない、たとえひらがなであっても自分の名前を書けない。そんな同い年の園児達に辟易していたし、先生の言うことも最終的に言いたい・結論の読める、そんな通り一辺倒の話しばかりで、毎朝幼稚園に通うバスに乗る時には苦痛を感じていた。
ある日、そんな苦痛の発生源から「近所の公園で落ち葉拾いをして、その落ち葉でちぎり絵を作りましょう!」と言われた。他の園児たちは落ち葉をかなり細かくちぎって、造形でギリギリ判別できるかどうかの「おさかなさん!」「おはな!」「おかあさん!」といったの作品を作って先生に持って行っていたが、俺は「いやいや、落ち葉で作るんだから落ち葉である事を活かせよ」と思い、少し捻くれた形をしたカエデの落ち葉を1枚と、他にも大量の落ち葉を拾って、「人喰いおおかみをやっつけた人が、その証としておおかみの右手をバイクに積んで村に戻っているところ」という作品を作った。
作ったちぎり絵を先生に見せた時、「これは・・・バイク?・・・と・・・手?」という反応をされたので、それは人の手では無く、怖くて悪い人喰い狼だと説明した。その際に俺は「これは他の人間にも説明が必要だな」と何故かひとり勝手に確信し、画用紙に黒のクレヨンで物語を描き始めた。最初は延々と文字だけで説明していたが、文字だけだと寂しいので、余白に挿絵もつけた。
「悪くて怖い人喰い狼が現れて困っている村人たちのところに、腕利きの猟師がやって来て・・・」という、何とも陳腐な筋書きではあるが、画用紙を10枚以上使ったと記憶している。
俺のちぎり絵と物語は幼稚園で話題になり、その年のお遊戯発表会の題材にもなった。先生は「やっぱり主役の猟師役は増田君がやるべき」と言ってくれたが、主役はガキ大将のS君に決まった。かけっこなどの身体を使う類いのことはからっきしだったので、俺はそれで良いと思った。
発表会は結構うまくいったようで、いつの間にか俺の「作品」達は、「画用紙に書いた物語と一緒に区役所に飾ろう」という話まで出て来ていた。
その事で幼稚園側と区役所側の担当者が何度か話し合いを持ったようだが、結局絵だけ飾る事になった。
区役所に絵を飾る事になるまでの一連の話を幼稚園から説明された両親は、たいそう喜んでくれた。
両親は平凡だった。見合いで結婚し、中庸であることを良しとし、毎日を善良に暮らし、一人息子である俺にもしっかりと愛情を注いでくれる。そんな両親だった。
ただ、そんな両親が、幼稚園側が区役所の絵画の話を交えつつ、「増田君は本当に優秀です。才能があります。小学校は是非とも私立を考えられては・・・?」と強く推した途端、「いえ、結構です。ウチは公立の小学校に行かせます」と、頑として譲らなかった。理由はわからない。金銭的な問題だったのかもしれないし、中庸を良しとする生き方に反していると考えたからかも知れない。
俺は単に「人間関係をリセットして、見知らぬ土地でまたイチからやり直すのは苦痛である」などとぼんやり考えており、小学校は地元の公立のほうが良いように思えた。
幼稚園の中に友達と呼べるような存在はいなかったと思うし、毎朝の通園バスも苦痛ではあったが、それでも何とか周囲の人間の為人を把握して対応方法をほぼほぼ確立していた矢先の話だった。小学校とやらに行く事になれば、公立でも私立でも「周囲の人間の数」は増えるのだろうが、私立でゼロから再構築するよりは公立のほうが幾分マシだろうと思っていた俺は、そのように両親に伝えた。
両親と俺の希望が一致していたので、当然小学校は地元の公立小学校に入学することになった。
小学校に入っても、特に俺自身の変化はなかった。小学校に入ると本格的に「勉強」というカリキュラムがはじまったが、先生が言っている事を聞いて、板書をして、家に帰ってから宿題を済ませた後に復習・予習をしていれば、テストの点数は取れた。
この頃になると、自分の状態を客観的に捉えた上で、自身についての考察ができるようになっていた。
俺は結論として、「俺は天才である」と考えた。井の中の蛙どころの騒ぎではない。加えて、空の青さも知らないとなればもはや滑稽を通り越して害悪であるが、俺の周囲には俺より優れた学力を持つ者も、俺を諫めようとする者もいなかった。
言い訳がましいが、物差しが少ない小学生の時分である。「学力」という物差ししか持っていなかった俺は増長し、慢心し、周囲を哄笑した。将来は俺のような人間が、東京大学のような「賢い一流の大学」に入って、「でっかい一流の会社」に入社して、いずれは社長になって世の中を動かしていくと、本気で思っていた。
何より、公立の小学校は毎日がヒマだった。普段から見下している同級生とは、恐ろしいぐらいに会話がかみ合わなかった。俺にコミュニケーションスキルがあれば、「会話をあわせに行く」「自分の会話ができる場を作る」といった芸当も可能だったかも知れないが、ご多分に漏れず俺はコミュ障だったし、そもそも会話を合わせるという発想もなかった。
「名のある企業に入れる」「いずれは社長になる」などと思いこんでいるような人間がコミュ障というのは、その時点でもう既に色々と破綻しているような気がしないでもない。
ともあれ、この頃の俺は毎日退屈な授業とかみ合わない会話をする為だけに、日帰りの監獄に通っていた。全国の小学生がこの地獄を味わっているとするなら、文部省は滅ぼさなければならないと本気で思っていた。その為に文部省に入って俺がこの国を変えてやるんだと、鼻息だけが荒い小学生だったと思う。
─────「良い会社」に入るには「良い大学」に行かないといけないらしい。
─────日本一の大学は東京大学というところらしいが、真の天才であるならば京都大学に行くらしい。
そんな情報を入手したのは、忘れもしない、小学4年生の秋頃である。いかにも小学生が摂取しそうな、狭い世界のテキトーな話である。だが俺は何故か純真無垢にその与太話を信じた。つまり、「将来は絶対に京都大学に入ろう」と思った。
そこから俺は色々と京都大学の情報を収集しはじめた。「学部」など、小学生の俺の辞書には登録されていない概念に触れる度に興奮しつつ、どうやったら京都大学に入れるのか?という情報を求めて方々に聞いて回った。まず一番初めに、俺にとってもっとも身近な「大人」である両親に「どうやったら京大に入れるのか?」と尋ねたところ、「知らん」と言われて会話を打ち切られてしまった。仕方なく学校の先生などに尋ねたりしていたが、小学生の調査能力などたかが知れており、当時はまだインターネットなども普及していなかったので、俺の京都大学情報収集はかなり早い段階で終止符を打たれることになってしまった。
しかし、京都大学に入れたとしても、大学入学までは今からでも約8年かかる。京都大学に入る方法とは別に、一刻も早くこの日帰り監獄から抜け出す方法はないものか・・・と模索していたところ、どうやら「私立中学」というところに通えば俺の退屈な生活におさらばできるようだという情報を得た。
日帰り監獄の看守たる先生も、たいそう熱心に「増田君は灘中学か東大寺学園に行かせるべきです。」と言ってくれた。特に小学6年生時の担当看守だったK先生は熱心で、何度も両親と懇談して、俺を私立に行かせようとしてくれた。
だが、ここでも両親は「ウチはあまり裕福ではなくて・・・。本人は成績も良いので、公立中学から北野高校にでも行ってくれたらいいと思っておりまして・・・。」と、俺を私立中学に進学させることは明確に拒否した。
看守は
「経済的に難しいと思っておられるなら、公立中学以下、なんなら増田君の学力ならおそらく無料で通える」
などと食い下がったが、両親は「もう公立に決めてますので・・・」と固辞した。
この頃になると、小学生の俺でもさすがに両親の言動に疑問を覚えるようになった。両親は「経済的に困窮しているから私立は行けない」の一点張りだったが、看守は「困窮していても通えます」という。イヤさすがにそれはちょっとヘンだろ、矛盾してるだろと思っていたが、当時の俺はそこまで頑なな両親を説き伏せてまで日帰り監獄から抜け出したいとまでの強い意志は持ちえなかったし、天才・秀才・英傑達と机を並べて学びたいという願望も希薄だったし、それらの一連の俺の態度が招くであろう結果も、特に深くは考えてはいなかった。
当時の両親の真意が奈辺にあったのか、今となっては分からない。草葉の陰から、声は聞こえない。
そうして地元の公立中学校に入学した俺は、特に変わり映えのしない日帰り監獄生活を送っていた。そんな俺だったが、中学生活の半ばに差し掛かろうという頃・・・具体的に言うと全国模試を受けたあたりで、「んん?あれ?・・・どうも俺って天才じゃないな、これは・・・」と薄々感づき始めた。全国模試の偏差値が出るからである。
そりゃもちろん、俺の偏差値は全国平均より遥か上には位置しているのだが、自分なりに努力をしてみても、偏差値的に灘高校にも東大寺学園高等部にも届かないという事実を突きつけられた。これは結構俺にとってはショックで、小学校の頃は「余裕で入れる」と言われた灘にも東大寺にも入れないという事実は俺に重くのしかかった。「このレベルの高校が無理なら、こりゃ京大や東大なんて夢のまた夢だろ、どうしよう・・・俺の人生、どうなるんだろう」と、本気で思い悩んだ。
悩みぬいた俺は中学2年の夏、両親に「塾に行きたい」と言ってみた。しかし結果はやはりというか順当というか、頑強に拒まれた。曰く
「成績がいいのに何故」
「塾はお金がかかる」
「家でも勉強はできる」
小学生の頃の俺なら諦めていただろうが、中学生になっていた俺は己の目標を達成する為に食い下がった。模試の結果を伝え、行きたい大学がある事、だが自分の今の成績ではそこに至ることができない事、自宅での自己学習には限界がある事などを説明した。
また、塾が無理なら定性的定量的に評価が可能な代替案の提示をせまった。塾の代金は高校に行ったら必ずバイトして返す、なんなら今から新聞配達をして払うと、土下座までして塾に行かせてくれとせがんだ。
半年ほど前に未亡人となった母はなんだかやつれて見えたが、当時の俺は塾に行けることが嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、あまり母親のことを注意深く見ることはできなかった。今思えば、当時の母は様々な事に疲れ切って倦んでいたのだと思う。塾に行く許可も、根負けというよりかは思考放棄といったように俺には映った。
そんな母を尻目に意気揚々と進学塾に入った俺は、成績順のクラス分けで上から2番目のクラスに入れられた。正直、体が震えた。自分よりはるかに勉強ができる人間が、天才が、焦がれる存在が、今まさにすぐひとつ上のクラスにいるとリアルに感じられるのである。そして、その人間たちと同じ程度の授業を、自分も受けることができるのである。これがアニメだったら俄然燃えるBGMが聞こえてくるようだった。実際、あの時の俺には、何かが聴こえていたのだろう。俺は一心不乱に机に噛り付いた。机に歯形があるんじゃないのってぐらいには噛り付いていたと思う。
その甲斐あってか、入塾後すぐのクラス替えで、あっさりと一番上のクラスになれた。ここで俺は生まれて初めて、圧倒的な勉学の才能をもった人間、すなわち「天才」と直に出会った。それも一人や二人ではない。そんな輝ける才能がひとつの教室に雨後のタケノコのようにポコポコと存在している、そんな環境で学べるという喜びにも出会った。
毎日がただ楽しかった。自分は天才ではないのかも知れないけど、努力すればちゃんと数字が、成績がついてきてくれた。
幼少の頃、毎朝幼稚園に行くバスの中で感じていた苦痛や、小学生の頃に感じていた疎外感は、もう無かった。
高校は公立の北野高校というところに入った。維新の橋下弁護士とか、日本マクドナルドの創業者の藤田田(ふじたた、ではなく、ふじた・でん)とか、漫画家の岡田あーみんとかが通っていた高校である。
本当は東大寺学園に行きたかった。学力や模試の偏差値は足りていたと思う。赤本の自己採点でも余裕で合格圏内だった。だが、中学3年時に入塾した際に母親と交わした「高校は絶対に公立高校にする事」という約束を守った。その約束をした時点では「受験までにどうやって説得するか・・・」などと考えたりもしていたが、塾での公立中学では考えられない授業スピードについていけたことや、並み居る才能たちと交わした会話の中で、「公立高校からでも京都大学は狙える」という感触を、俺は確かに掴んでいた。
中学の頃はあまりよく理解していなかった奨学金制度は、高校に入ると同時に申請した。家計を理由に俺の私立進学を拒んだ母親は、中学時代に俺の奨学金を申請していないこともその時に知った。俺はそんな母親を信用せず、奨学金の申請手続きを自分自身で済ませた。
北野高校の授業の質は高いと思った。だが俺は油断せず、予備校にも通うことにした。私立中学入学組の連中は、少なくても俺より3年は早く走り出している。そいつらに追い付くには、そいつらと同等、いやそれ以上の勉強が必要であると思ったからだ。
俺は詐欺師丸出しの口調で「高校の学費が浮いたんだから、もともと払うつもりだった学費は予備校に回してほしい。予備校とバイトを完全両立させるのは時間的に難しい。学力的に、俺は中学までの借金がある状態。プラスに転じるには積み上げるしかない」などと母親に申し入れたところ、すんなりと受け入れられた。
この頃になると、奨学金の申請だけでなく、家の中の一通りの事は全て俺がやっていた。
「自分でできるようになったから」というのももちろん理由としてはあるが、母親が炊事・選択の家事全般を筆頭に、日常生活の様々な事をほぼ全て放棄してしまっている事のほうが、より比重の大きい理由だった。母親が予備校行きを認めたのも、「認めた」というよりは「俺が『予備校に行きますよ』と報告した」といった表現のほうが正しいように思う。
俺が小学生や中学生の頃には確かに存在していた、「理由なぞはよくわからないがとにかく自己の主張を持って論陣を張る頑強な”母”たる人間」は、もういなかった。朝起きて、TVをつけて、ご飯を食べて、夜眠るだけの人間がそこにはいた。
家計はほぼほぼ俺が全部見ていた。入ってくるカネと出ていくカネを計算して大幅なマイナスにならないと言う事だけを気にしていたので、一般的な家計管理よりはラクだった。現に、今つけている家計簿よりは簡単だったように思う。父親の遺した資産が多少あったので、その管理も俺がしていた。
高校生活は楽しかった。学力差のある人間を十把一絡げにして地域ごとに押し込める日帰り監獄では味わえない切磋琢磨がそこにはあった。同程度の学力を持つ者同士が集まった結果としてのシナジーがあった。今までは暗い色で塗りつぶされていた「学校での生活」に色が付き始めた。毎日学校に行く事が楽しかった。対照的に、毎日家に帰るのが億劫になり、やがてそれは苦痛に変わり、それに伴い、家の中が暗い色で塗り潰されていった。
昔、母を名乗っていた人間は炊事もしないので、学校帰りは毎日スーパーに寄り、食材を買い、俺が晩ご飯を作った。予備校のない日は二人で食事をするようにしていたが、食事中に会話のようなものはなく、TVから流れるバラエティー番組の下らないやりとりだけがBGMだった。ご飯の味はしなかった。たぶん、母だった人も、ご飯の味はしていなかったと思う。
もしかすると、家から目を逸らそうとして、無理に高校での生活が輝いていたんだ、良かったんだと自分自身に言い聞かせているだけなのかも知れない。我が事ながら、この頃の記憶は妙に混濁している。
大学入試は当然のように京都大学一本にした。学力も模試結果も問題無いと判断したし、何より俺には京都大学以外の大学に通う価値を見出せなかった。入学できるまでは何浪でもするつもりだったが、幸いにも現役で合格することができた。
ひとり身になったから身軽だったし、しばらく大阪から京都大学に通ってみたものの、さすがに京都の外れまで毎日通うのはちょっと辛いなと思った。何より、暗い色で塗り潰された、大阪のあの家に帰るのは嫌だった。もうTVの音は聞こえなくなったけど、あの家で目をつぶって眠るのが、怖かった。
大阪での様々な残務を片付けると、それらの結果や、これからの事、感謝の気持ちなどを両親の墓前に報告して、俺は京都に移り住んだ。
後編に続く
ペットの見た目を選ぶことは出来ても、病気・障がいにならない個体を確実に選ぶ、普通の範疇から外れていない気性の個体を確実に選ぶ、
そんなこと出来やしませんよ。生き物なんで
もっとも、病気になったり・障がいを負ったり・好みじゃないあるいは手に余る気性だった場合は
人間においても同じこと。たとえば、四肢に欠損があろうが普通の人よりも稼ぐ人もいる
ダウンや知的障がい者でも大学を卒業・あるいは好き分野を学ぶし、その後も教職のサポートについたり、なんらかの仕事に就く
それはすべて親次第だ
■ NDSS
Today, there are approximately 250 two and four-year colleges and universities that include students with intellectual disabilities in educational, independent living and vocational/career programs.
https://www.ndss.org/advocate/ndss-legislative-agenda/education/postsecondary-education/
障がい者を持つ自分自身の子どもと、同じような子どもたちのために私財を投げ打って遊園地を運営する夫婦もいる
本来はそういうレベルじゃなきゃ子なんて作るべきじゃないんだよなぁ
[BBC] 娘のために遊園地を建てた米男性 総工費56億円
https://www.google.co.jp/amp/s/www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-40823738.amp
家族旅行に出かけたハートマンさんたちがプールを使っていた時のことだ。ハートマンさんがプールから上がって間もなく、当時12歳だったモーガンさんがプールで遊ぶ子供たちと仲良くなろうと近づいた。だが、子供たちはすぐ水から上がってしまった。
子供たちは障害のある人とどう接したらよいか分からず、尻込みしたのだろうとハートマンさんは考えている。モーガンさんの認知理解力は5歳程度で自閉症の症状もある。
「モーガンはともかくすごく素晴らしい女の子です。いつも微笑んでくれるし、いつもハグしようとしてくれる。けれども、彼女を色々と連れていけないことが多すぎた」
ハートマンさんと妻のマギーさんはモーガンさんをどこに連れて行かれるか、ほかの親たちにも聞いてみた。モーガンさんにとって居心地良くて、周りの人も気まずい思いをせずにモーガンと触れ合える場所はないのか。
「そんな風に受け入れてくれる場所などないと、気が付いたんです」とハートマンは話す。
そこでハートマンさんは2007年、自分で遊園地を造ることにした。もともと不動産開発業のハートマンさんは、2005年に所有していた複数の住宅建設会社を売り、障害者支援の非営利団体「ゴードン・ハートマン家族財団」を設立していた。ハートマンさんは「世界初のものすごく寛容なテーマパーク」の建設に着手した。
「すべての人が何でもできる場所、障害があろうがなかろうが遊べるテーマパークが欲しかったんです」とハートマンさんは話す。
ハートマンさんは医師やセラピスト、保護者、障害のある人にもない人にも声をかけ、どんな遊戯施設が良いか相談にのってもらった。その結果、テキサス州サンアントニオの採石場跡に25エーカーの広さを持つテーマパークが誕生した。
無意味じゃないが。子どもが障がい者なら要らないという親は子を持つ必要性がない
誰も子作りを頼んでない
完璧な子どもが欲しいってオメーの遺伝子の時点で完璧じゃねぇんだよ
障がい者を持つ子どもたちのために私財を投げ打って遊園地を運営する夫婦もいる
本来はそういうレベルじゃなきゃ子なんて作るべきじゃないんだよなぁ
[BBC] 娘のために遊園地を建てた米男性 総工費56億円
https://www.google.co.jp/amp/s/www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-40823738.amp
家族旅行に出かけたハートマンさんたちがプールを使っていた時のことだ。ハートマンさんがプールから上がって間もなく、当時12歳だったモーガンさんがプールで遊ぶ子供たちと仲良くなろうと近づいた。だが、子供たちはすぐ水から上がってしまった。
子供たちは障害のある人とどう接したらよいか分からず、尻込みしたのだろうとハートマンさんは考えている。モーガンさんの認知理解力は5歳程度で自閉症の症状もある。
「モーガンはともかくすごく素晴らしい女の子です。いつも微笑んでくれるし、いつもハグしようとしてくれる。けれども、彼女を色々と連れていけないことが多すぎた」
ハートマンさんと妻のマギーさんはモーガンさんをどこに連れて行かれるか、ほかの親たちにも聞いてみた。モーガンさんにとって居心地良くて、周りの人も気まずい思いをせずにモーガンと触れ合える場所はないのか。
「そんな風に受け入れてくれる場所などないと、気が付いたんです」とハートマンは話す。
そこでハートマンさんは2007年、自分で遊園地を造ることにした。もともと不動産開発業のハートマンさんは、2005年に所有していた複数の住宅建設会社を売り、障害者支援の非営利団体「ゴードン・ハートマン家族財団」を設立していた。ハートマンさんは「世界初のものすごく寛容なテーマパーク」の建設に着手した。
「すべての人が何でもできる場所、障害があろうがなかろうが遊べるテーマパークが欲しかったんです」とハートマンさんは話す。
ハートマンさんは医師やセラピスト、保護者、障害のある人にもない人にも声をかけ、どんな遊戯施設が良いか相談にのってもらった。その結果、テキサス州サンアントニオの採石場跡に25エーカーの広さを持つテーマパークが誕生した。
とはいうもののお前のレベルが子なんて作るもんじゃないは優生思想そのものだからな
なので公助はあっていいと思う
消えるというか、アーケードの超難度を前提にした電子音楽みたいな一部のトラックは音楽ジャンル的な流行り廃りがあるかもしれん。だが音楽は人類がずっと親しんできた普遍的な娯楽であり、感情を揺さぶるものであり、それをアクションと結びつけて体感的な遊戯へと昇華させるという設計は不朽と言っていいだろう。つまり音楽という長い文化とビデオゲームという文化が結びついたが最後、ビデオゲーム文化自体が消滅しない限りはもっともしぶとく残るゲームジャンルの一つが音ゲーであると推測できる。将来ゲームシステムの変遷はあるだろうが、音楽つまり音やリズムに主眼を置いた遊戯である時点で非常に強力な普遍性を帯びているように思えてならない。
そして機械的に完全なプレイができることは、人間がプレイしたときの楽しさとは関係がない。音ゲーの楽しさは、完璧にプレイする機械の存在により毀損される類のものではない。逆に言えば、マクロによる自動操作プログラムを作る技量がある者でも、(ソシャゲ風の周回プレイを強いられる音ゲーでない限り)自動操作しようとは思わないし、他者も自動操作を羨んだりはしないわけだ。自分で操作すること自体に楽しみの本質があるから。
音ゲーの楽しさはいくつかの要因によって成る。無意識的に行われるパターン認識、周辺視やリズム感によってあたりをつけてて「こう弾けばいいだろう」と推測したパターンがぴったり合った時の快感(初見時に多い)。脳の処理に運指が追いつくようになり、難所を抜けられるようになった時の、いわゆる「逆上がりできた」のようなスポーツ的達成感。繰り返しプレイすることで「身体が覚える」感覚と、それに伴って精度が向上しスコアに反映されていく喜び、それがフルコンボやオールパーフェクト等のトロフィーとして残る快感。そして最終的には、最初から最後まで失敗にめげず、あるいはノーミスで来ていることに怯まずにプレイしきる精神鍛錬の要素が入ってくる。
そういった上達の過程を楽しむことが音ゲーの遊びとしての本質なのだ。その性質上、下手な人の方が得られる快感の総量が大きく、ある程度音ゲー全般で通用するスキルを得てしまった人に対しては高難度にしていくしか快感領域の伸び代を確保する術がない。そうなると、ノーツを詰め込めるタイプの楽曲は似た傾向になりがちだというのは確かにあり、問題視するのも分からなくないが、あくまでゲームなので、楽しいと思える範囲まで遊べばいいだけだと個人的には思う。それ以外に一点憂慮するとすれば、音ゲーというのは前述のように非常にパラレルで複合的なリアルタイム認知を数分間に渡り集中的に必要とするため、脳にそれを苦手とする性質がある人にとっては非常に取り組みにくくて楽しさを感じる領域に至りづらい問題があるかもしれない。音ゲーは数あるゲームジャンルの中でもスポーツ寄りだ。競争要素が乏しいのでe-スポーツ分野には入らないだろうが、運動神経を含めた感覚的な操作が求められる点で、人を選ぶ部分があり、特定タイトルの人気や流行にあてられて致命的に向いてない人がプレイをし続けることになると怨嗟を生みかねない部分もあるかもしれない。とはいえ、どのゲームジャンルにおいても向き不向きはあるもので、ゲーム自体の問題というよりは個人の取捨選択スキルの問題だろう。
もう一つ、音ゲーと同じような特徴をもつゲームジャンルがある。それはレースゲームだ。他プレイヤーやNPCの車による物理干渉という不確定要素を排するならば、レースゲームというのは非常に音ゲーに似た「機械的に最善がトレース可能な遊戯」だ。最適なライン取り、アクセルワークというのは厳に存在する。リアルなゲームだと路面状況の変化やタイヤの摩耗などの要因もあるとはいえ、最速のAIは容易に作れてしまう。音ゲーと違う部分は、常に一定でプレイ結果と無干渉に進行していく譜面に対して、レースはコース自体は不変ながらも進入時のブレーキング地点・進入角・速度の僅かなズレが後々のライン補正すなわちリカバリー操作に大きな差異を生む点だ。ただし、それらを寸分違わず毎回再現できるならばプレイ結果は同じになる。
そうした差異はあるとは言え、大雑把に言えば音ゲー同様にパターン認識によってあたりをつけてプレイし、反復してプレイすることで腕を上達させていく、試行錯誤の過程の快感に主眼を置いたゲームジャンルであることに違いはない。とはいえこれはタイムアタックのような早く走ることを目的としたゲームモードの話であって、カジュアルなレースにはカーチェイスなどの多様なゲームモードがある。その点は音ゲーより多様性に富んでいる。しかしそれは選択肢が増えてるというだけで、純粋に進化と捉えていいだろう。音ゲーが将来多様なゲームモードを開拓していった場合も、それはゲームジャンルにとって良いことだと思われる。
ところで、薄々感じてはいたが、元増田は本当は音ゲーに対して悲観的なのではなく、単純に、音ゲープレイヤーに嫌悪感を持っているだけではないのか。自分以外の音ゲープレイヤーに軽薄さを感じており、あるいは恨みを持つに至る出来事があったのかもしれないが、ともかく自分が人を嫌悪していることを自覚したくなくてゲーム自体に諸悪の根源を求めようとしているのではないか。イキったプレイヤーを見て「それが何になるんだ?」とマウントを取れる要素を列挙して拗ねているように見えるのは自分だけだろうか。
自分は、モノ自体に善悪はないという信念に近い価値観を持っている。誤るのは常に人間のほうであり、モノが過ちを誘導しているように見えたとしても、人間はモノに惑わされない知性を備えているべきで、備えていると考えてモノは作られ、使われるべきだと考える。さもないと、人間はどんどん白痴になっていき、モノに操られるモノ以下の存在に貶められるだろう。モノが特定の性質の人間を集めていると感じ、それを良しとしないのなら、自分が好む性質に改変したモノを作る側になるしかない。この増田に対して適用するなら、増田の思う軽薄でない音ゲーを作れるのは増田だけだと思うのだ。安易にジャンルそのものを悲観して多様であるはずのプレイヤーをまるごと切り捨てんとする夢想に耽るよりは、よっぽど現実的で建設的な考え方だと思うのだが。
どうもこうもないのでは?
完璧な子どもが欲しいってオメーの遺伝子の時点で完璧じゃねぇんだよ
そういう子たちのために私財を投げ打って遊園地を運営する夫婦もいる
本来はそういうレベルじゃなきゃ子なんて作るべきじゃないんだよなぁ
[BBC] 娘のために遊園地を建てた米男性 総工費56億円
https://www.google.co.jp/amp/s/www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-40823738.amp
家族旅行に出かけたハートマンさんたちがプールを使っていた時のことだ。ハートマンさんがプールから上がって間もなく、当時12歳だったモーガンさんがプールで遊ぶ子供たちと仲良くなろうと近づいた。だが、子供たちはすぐ水から上がってしまった。
子供たちは障害のある人とどう接したらよいか分からず、尻込みしたのだろうとハートマンさんは考えている。モーガンさんの認知理解力は5歳程度で自閉症の症状もある。
「モーガンはともかくすごく素晴らしい女の子です。いつも微笑んでくれるし、いつもハグしようとしてくれる。けれども、彼女を色々と連れていけないことが多すぎた」
ハートマンさんと妻のマギーさんはモーガンさんをどこに連れて行かれるか、ほかの親たちにも聞いてみた。モーガンさんにとって居心地良くて、周りの人も気まずい思いをせずにモーガンと触れ合える場所はないのか。
「そんな風に受け入れてくれる場所などないと、気が付いたんです」とハートマンは話す。
そこでハートマンさんは2007年、自分で遊園地を造ることにした。もともと不動産開発業のハートマンさんは、2005年に所有していた複数の住宅建設会社を売り、障害者支援の非営利団体「ゴードン・ハートマン家族財団」を設立していた。ハートマンさんは「世界初のものすごく寛容なテーマパーク」の建設に着手した。
「すべての人が何でもできる場所、障害があろうがなかろうが遊べるテーマパークが欲しかったんです」とハートマンさんは話す。
ハートマンさんは医師やセラピスト、保護者、障害のある人にもない人にも声をかけ、どんな遊戯施設が良いか相談にのってもらった。その結果、テキサス州サンアントニオの採石場跡に25エーカーの広さを持つテーマパークが誕生した。
とはいうもののお前のレベルが子なんて作るもんじゃないは優生思想そのものだからな
なので公助はあっていいと思う
誰も子作り頼んでねぇぞ
こんなの書いてる場合じゃない。分かってる。スマホなんて見てちゃだめだ。
いくら頑張っても、どれだけ数式を解いても歴史を覚えても、数万人の上がいる。
こんな点数、褒められたって嬉しくない。分かってる。努力が足りないのは。
憧れの大学。B判定まであと20点。この前はあと10点だった。その前はA判定まであと何点、だった。
わたし以外全員消えてくださいお願い。
近いってだけでここを選ばないで。賢いならもっといい大学目指しなよ。
私はここに行きたいの。あたまが追いつかないけれど。
国語英語数学理科社会、文系はまだ楽?そうね、数IIIに比べればお遊戯みたいなものだよね。
理系の方が偉い?社会人の方が偉い?京大目指すあいつの方が偉い?そうねあなたが全部正しいよ。
がんばれがんばれ全員蹴散らす気で努力しろ、でも受験はチーム戦。隣の席の友達はライバル。ここは安全校って、私の第1志望ですけど。(笑)
ごめん。頑張ろう。
それはその南極隊員の中に愛好者がいただけでしょ。
プチプチ潰しの愛好家が旅先にプチプチを持参したとして、プチプチ潰しが文化的遊戯かというと、No寄りのNoだろ。
脳がプチプチ潰し中毒になっているだけの、快楽を満たすためだけの手慰みであって、その行為にまつわる文芸・絵画・音楽・映像などが文化的遺伝子として語り継がれるほどのポテンシャルのあるものではない。
そのパチ動画ってのは見て感動できるもんなの?
ただの機械が見せる確率の癖が機種によって違う程度の差と、インタラクティブ性の欠片もない動画が流れているだけのものを、遊戯(ゲーム)と言えるのか?
癖だとか筐体のデザインだとかにマニアは味を感じるんじゃないかと思うけど、それは遊戯と関係ないところにある物理的な、時代的な郷愁にすぎないよね?
まあ健全か否かは評価軸がブレるから置いとくとして、プレイヤーがそれを遊戯として誇れる、心から楽しめる、文化だと主張できるかどうかが一つのボーダーラインだと思うんだよね。
だから「いかにクソかを語る」んじゃなくて「いかに好きか」とか「どこで感動したか」みたいなポジティブな感情がないと、たんなる乱数が見せる射幸性に人間が操られているだけの文化未満のものになってしまうと思うわけ。
で俺は未だにパチンコやスロットに文化の萌芽が見られるかどうかについて、やっぱり懐疑的な印象を拭えていない。歴史はずっと長いけどさ。
ソシャゲについてはネットを見てるだけでもこう好きが溢れんばかりの怪文奇文を頻繁に目にするんだが、パチは確かに俺が実際触れてないせいもあるがパチがめちゃくちゃ楽しくて嬉しくて感動して仕方がない的な文章を目にしたことがない。俺のネット歴20年超をもってしてもだ。だからそういうジャグ?とかいう専門用語も初めて聞いたし、本当にパチンコプレーヤーがパチンコの遊戯性を愛しているなら、それについて増田とかで熱く語ってくれ。そうすれば俺も意識を改めるだろう。そういう機会がないままなら、やっぱりパチンコプレーヤーにはそうしたオタク的な深く掘り下げる楽しみ方をする文化と呼べる域の風潮は存在せず(もちろん個人レベルではいると思うが)、大勢としては「勝つ(=パチで儲ける)」ことを主眼に遊びそして遊ばれる泥沼の脱法賭博にすぎんという印象のままになる。パチンコが健全な文化であることを発信してくれ。頼むよ。
※あくまで一例です
上の子は認可入れなくて新興無認可1歳クラスから3年目。下の子が0歳クラスで念願の認可園に入れた。が。
【新興無認可園】
連絡帳も登園退園もアプリで完結。面倒な父母会とか役員とか一切なし。コロナ自粛閉園中はZoom朝会やZoomイベントの企画があった。
保育士が皆若く30前後。コロナ前の進級を祝う会なんかでは夜の部に酒持ち込みありで楽しかった。
ただ集団行動とかお遊戯とかしつけは重視せず、のびのび遊ぶ重視なので合わない人は合わないかも。そこを不安視して転園したお友達もいた。出戻りもちょこちょこいるけど。
初年度は月7万くらいだったけど、年次上がったのに加えて途中料金改定で値下げがあり今3万くらい。請求書もオンラインで来る。
【認可園】
区立で歴史がある。立派な園庭と立派な設備。これは文句なしに素晴らしい環境だ。園庭があるってだけですごい。あと子供も保育士も多い。集団生活への適応力はこちらの方が育つと思う。
あと父母会。今年度はしょっぱなコロナ自粛閉園だったから引き継ぎグッダグダ。メアド集めるのに紙の記入用紙。なお父母会は自主的にやってる体なので園は運営について関知しない。
あと地域柄か日本人率低い。ニホンゴニガテを理由に役員の仕事押しつけ逃げムーブかましてくるけど今年やり切れば来年断固拒否できるから頑張る。
以前はとにかく認可が正義!と思ってたけど両方知ってみると一概に言えないなと。
https://anond.hatelabo.jp/20200825195128
最初に。『人の金なんで、どうでも良いと言ってしまえば、それまで』その上で言いたい。
「それまで」と思った時点でなぜ元増田自身が冷静になれなかったのか。
何に対してかというと『スパチャ』おそらくスパチャをしている人はいたって冷静だと自分を評価するかもしれない。が、傍から見れば、気が狂っているとしか思えない状況が続いている。Vtuberとかに貢いでどうするの?とぶっちゃければ、それである。
貢いでどうするの?ってのがよくわからない。どうするとは?何か具体的な対価がないと金使わないタイプ?
まぁこういうものは「体験」にお金払ってるようなものなので、食べ物とか本とか物質的なものにしかお金払いたくない人には理解されないのかもしれないね。
なんでこんなに辛辣に述べるかと言うと…やってることはパチンコ・スロット、ホスト・キャバ通いと何ら変わらないからだ。
「パチンコ・スロット、ホスト・キャバ通い」がまず何で問題なの?ってところの説明をサボったらアカンのでわ?
俺はそのへんの趣味も節度守って楽しんでるなら問題ないと思うけど(まぁ節度守ってホストキャバ通いできるのか?とかは行ったことないからわからんのだが)
「とりあえずこのへんの例出して、同じものでしょ?と言っておけば同意が得られるだろう」という考え方はちょいと雑なのでは?
どんなに貢いでもホストやキャバと違って、たった一言「ありがとう」を言ってくれるか、それとも無視されるかだけで終わる虚しいものにしか見えないのに
「ありがとう」や特に反応がない=虚しいって価値基準も元増田がそうだってだけだよね。
まぁさすがに関係性が実際に付き合ってる男女とか夫婦で、自分がどちらかの友人だったら一言言いたくなる気持ちもわかるよ?
でもファンと推しの関係性だったら、ファン側が推しのどういう行為にいくらの値段を見出すかは自由だと思うけどねえ。
Vtuberからすれば、登録者と視聴者がいるだけでほぼ目的は達成しているし
ここも「目的」とやらの具体的な説明が抜けてるが、十分企業や個人が食っていけるだけのお金を稼げているという認識でよろしいか?
ファン心理的には推しが贅沢できれば贅沢できるほどおそらく嬉しいので、あんまりそのへんは考えてなさそうではある。
要はいいカモが勝手に貢いでくるのだ。『カモ』とかしか見ていない。別に「スパチャを求めてない」と言うVtuberもいるかもしれないが、そんなわけがない。それが真実なのは最初のスタートだけである。それ以降は、いかにカモを手に入れるかだけを考えているようなものだ。
いや本当に主観が多いな…。増田だし論文とかじゃないんだからいいんだけど。
もしかしてVTuberやVTuber運営の方ですか?だったら最初にそう言ってほしいんですけど。チャンネル登録しますよ?
スパチャをするなとは言わない。だが、限度を忘れている
これについては俺も正直心配になることはある(口には出さないが)
ただ、ネットの向こうの人間の経済状況なんてわかるはずもないからね。
ちなみに「学生なんで小額で申し訳ないです!」とか言いつつ200円スパチャしてる人は見たことある(別に謝る必要はないと思うが)
増田が思ってるよりみんな節度守ってんじゃないかなわからんけど(ちな俺も最高で1000円ぐらいかな…)
やっていることがギャンブルハマりとホスト・キャバハマりと変わらない。しかも、それらと違うのはギャンブルのように金銭バックも遊戯による楽しい時間もないし、ホスト・キャバのように対面して客を楽しませるような1on1のキャッチボール的な会話も無い。あるのは、一方的にくっちゃべって、時々チャットから話しやすいネタを拾って来て多数へのトークだけ。まあそれでも良いという人はいるし、それで良いのなら良いかもしれないんだが
「まあそれでも良いという人はいるし、それで良いのなら良いかもしれないんだが」ってところに気づけたのは偉いね!
次からはだったら文句を言う必要あるかどうかって言うところにも気づけるといいね!
たとえば、ランチに2000円ほど使ったらどうだろう?高いと感じないか?どこか旅行にでかけた時に奮発したとしても、それも高いと感じると思うはず。奮発しているんだから高いのは仕方ないと感じるだろう。でも、それは栄養になり、美味しいものを食べたと認識もでき、奮発したという意識があって満足するだろう?
結局何に価値を感じるのか人それぞれである以上、あんまり意味ある想定じゃないんだよな…。
たださすがに「このスパチャ投げたら明日の昼飯も食えない」みたいな想定は必要だというのはわかる。。想定というかまぁ前提というか当たり前というか。
Vtuberにスパチャをした時も同じだろ!という人もいるだろう。きっといるだろう。だが、不特定多数に向けてのトークにスパチャを出して、返ってくるか分からない一言を待つだけで、一言あればまだ救えるのかもしれないが、基本的に『不特定多数へのトーク』だ。自分にだけ向けているトークでもないのに金をつぎ込んでいるわけだ。広い考えで『不特定多数の分』まで金を出しているようなもんだ。違う?違わないと思うよ。スパチャへのレスをした所で、それは自分に向けられているかもしれないが『不特定多数は聞いている』のだから。独占も何もしていないし、ただカモの中の一部にしか過ぎないんだよ。
「自分以外の不特定多数がいる状況の中、推しが自分のスパチャへのレスを朗読する」という体験自体に対価を感じるとしたら?
なんかまるで増田の言い分だと自分以外の推しファンは敵みたいな感じだが、同じ推しのファンなんだから普通は仲間として同族意識感じるわけで。
そんな連中と体験を共有することにそんなマイナス意識ないわけですよ。
たぶんだけど、仮に推しと1対1の状況があったとして、もしそんな状況なら逆にスパチャ投げないって人種が俺は一定数いると踏んでいる。
じゃあスパチャをしちゃダメなのか!と怒る人もいるんだろうな…。スパチャをしちゃダメなのではなく、冷静になってスパチャに使う金額を見直したら?という話だ。
元増田が書いた文章の中で唯一耳を傾けるべきというか、聞くべき価値のある部分はここだと思う。
俺は自分で言うのも何だがケチかつ保守的で、自分が一番大事な人間(推しはいつつも自分より優先度が上ではない)なのでご心配なく。
トークへの対価と考えたとしても、なんでカードを満額に使うのか、桁のおかしい万単位でスパチャするのかと。
カード満額は確かに問題だが、「桁のおかしい万単位でスパチャ」が問題なのかは本人の経済状況知らないとわからないからな…。
まぁVTuberファンに億万長者がそんなにいたら苦労しないってのはわかるけど。
スパチャの額が地位や名誉を手に入れるわけじゃない。ただ良い金づるになるかならないか、一瞬でも搾取できるカモなのか、ただそれだけだ。
この岸辺露伴が地位や名誉を手に入れるためにスパチャをしていると思っていたのかァァァ~~~!!!(露伴先生はこんなこと言わない)
さすがに地位や名誉を手に入れるためにスパチャしてる人はいないと思うけど…え?いるの?海賊始めてグランドラインにでも行ったほうが良さそう(ワンピ感)
しかしカモって言葉好きね。極論金づるでもカモでも良いと思うけどなぁ…。ファンと推しの関係性なんだし。もちろんファン側の生活が破綻しない前提でだけど。
そもそもトークするのだから喉も渇くだろう、じゃあコーヒー一本でも良い価格で良いだろう?これからもトークしてほしいからと一ヶ月分のコーヒー代でも良いだろう。1本150円としても1ヶ月分なら5000円もいかない。そんなものでいいと思えるが、なぜかありえない金額を一瞬で貢ぐ。Vtuberからすれば、本当に金づるにしかならない。
なんかプログラマーはプログラミングするのにPCと自分の身体しか使わないから、PCとその他諸々用意してあげて衣食住代だけ払えばいいよねみたいなブラック思想っぽいが…。
そんなこと言ったらVTuberだって配信にPC使うし衣食住代もいるんだけど…あっごめんVTuberはバーチャルな存在だからそういうのいらないと思ったんだよね?それは仕方ないね💦
あとファンくん推しくんにお金貢ぐのにそんな冷静な計算しないと思うよ(なんてこと言うの千代ちゃん)
金の使い方が何らかの中毒症と変わらない。一度、本当に冷静に見つめ直してみては?
「スパチャの金額を冷静に見つめ直す」って提案自体は良いと思う。
でも増田自身が何かファン活動とかしたことない人っぽいので、その関係性の無理解から来る主観ばっかりなのがどうもね…。
niagado ギャンブル依存症の人が視界に入ってきたら一言くらい何か言いたくなるからな。そういう人は、わかっちゃいるけどやめられないって感じではあったけど。
「スパチャ投げるのに自分の生活費を削ったり、他人のお金に集ったりしてる人」だったらまぁそのとおりなんだが
増田はそうでもない人に対しても手斧投げてるので、ギャンブル依存症って例えは的外れだと思いますよ。
UnkoEater グリーとかモバゲーのしょうもないポチポチ課金ゲーが流行りだした時と似た嫌悪感はある。
最初に。
『人の金なんで、どうでも良いと言ってしまえば、それまで』
その上で言いたい。
何に対してかというと『スパチャ』
おそらくスパチャをしている人はいたって冷静だと自分を評価するかもしれない。
が、傍から見れば、気が狂っているとしか思えない状況が続いている。
Vtuberとかに貢いでどうするの?とぶっちゃければ、それである。
なんでこんなに辛辣に述べるかと言うと…やってることはパチンコ・スロット、ホスト・キャバ通いと何ら変わらないからだ。
まあ?それで自分の精神が保てているのであれば、それで良いかなと思えなくもないが。
どんなに貢いでもホストやキャバと違って、たった一言「ありがとう」を言ってくれるか、それとも無視されるかだけで終わる虚しいものにしか見えないのに、
それでもVtuberに貢いでいる姿を見ると、正気を失っているのかと思えなくもない。
Vtuberからすれば、登録者と視聴者がいるだけでほぼ目的は達成しているし、その上でなんでも無いトークをするだけでスパチャによる貢物が大量に入る。
要はいいカモが勝手に貢いでくるのだ。『カモ』とかしか見ていない。
別に「スパチャを求めてない」と言うVtuberもいるかもしれないが、そんなわけがない。
それ以降は、いかにカモを手に入れるかだけを考えているようなものだ。
そして簡単に引っかかるカモが現れる。それが現在のありえない金額を簡単にスパチャする人たち。
スパチャをするなとは言わない。だが、限度を忘れている。
やっていることがギャンブルハマりとホスト・キャバハマりと変わらない。
しかも、それらと違うのはギャンブルのように金銭バックも遊戯による楽しい時間もないし、ホスト・キャバのように対面して客を楽しませるような1on1のキャッチボール的な会話も無い。
あるのは、一方的にくっちゃべって、時々チャットから話しやすいネタを拾って来て多数へのトークだけ。
まあそれでも良いという人はいるし、それで良いのなら良いかもしれないんだが。
Vtuberのトークにそこまでの対価がいるのかい?と。疑問に感じる。
一度冷静に使っている額を見てほしい。
それを高くないと感じる人は、別のことで考えてみてほしい。
たとえば、ランチに2000円ほど使ったらどうだろう?高いと感じないか?
どこか旅行にでかけた時に奮発したとしても、それも高いと感じると思うはず。奮発しているんだから高いのは仕方ないと感じるだろう。
でも、それは栄養になり、美味しいものを食べたと認識もでき、奮発したという意識があって満足するだろう?
Vtuberにスパチャをした時も同じだろ!という人もいるだろう。きっといるだろう。
だが、不特定多数に向けてのトークにスパチャを出して、返ってくるか分からない一言を待つだけで、一言あればまだ救えるのかもしれないが、基本的に『不特定多数へのトーク』だ。
自分にだけ向けているトークでもないのに金をつぎ込んでいるわけだ。広い考えで『不特定多数の分』まで金を出しているようなもんだ。
違う?違わないと思うよ。
スパチャへのレスをした所で、それは自分に向けられているかもしれないが『不特定多数は聞いている』のだから。
独占も何もしていないし、ただカモの中の一部にしか過ぎないんだよ。
じゃあスパチャをしちゃダメなのか!と怒る人もいるんだろうな…。
スパチャをしちゃダメなのではなく、冷静になってスパチャに使う金額を見直したら?という話だ。
トークへの対価と考えたとしても、なんでカードを満額に使うのか、桁のおかしい万単位でスパチャするのかと。
スパチャの額が地位や名誉を手に入れるわけじゃない。ただ良い金づるになるかならないか、一瞬でも搾取できるカモなのか、ただそれだけだ。
そもそもトークするのだから喉も渇くだろう、じゃあコーヒー一本でも良い価格で良いだろう?
これからもトークしてほしいからと一ヶ月分のコーヒー代でも良いだろう。
1本150円としても1ヶ月分なら5000円もいかない。そんなものでいいと思えるが、なぜかありえない金額を一瞬で貢ぐ。
金の使い方が何らかの中毒症と変わらない。
一度、本当に冷静に見つめ直してみては?