はてなキーワード: 視聴者層とは
テレビや新聞の主な購読者や視聴者は高齢者とDQNなので、広告のターゲットも高齢者とDQN。
新聞を読むことが教養の一部で、NHKスペシャルやテレビニュースや報道番組を見れば教養が身につくと信じている一部の人々だ。
インターネットで物を売れないが金を持っている高齢・情弱企業がテレビや新聞をありがたがって広告を出すのだ。
だから、テレビも新聞も高齢者やDQN向けの番組を作ったり記事を書いたりしている。
高齢者はスマホを使わないし、使っていても有効な使い方ができい。DQNはスマホでゲームしかしない。
かくして視聴者層に合わせてテレビや新聞の質はどんどん下がっているのだ!
嘆かわしい。
タイムリーなネタをぶっこんできたり、小ネタがあって面白いところもあるとは思うんだけど、
その1
テレビ東京深夜かテレビ朝日の深夜でやってるドラマっぽいキャスティング。
もうね、生瀬勝久が刑事な時点で「トリック」か「警部補矢部謙三」じゃないかと。
あのクセの強さはもうトリックにしか見えない。 その内、ズラネタぶっこんでくるんじゃないかな?とも思ってしまう。
他にも松重豊は今クールに孤独のグルメの主役と掛け持ちであっちの印象が強いし、
滝藤賢一は俺のダンディズムで主演しているのも「テレ東感」が強い。
その2
月9の放送枠である必要性が無い感じ。小ネタぶっこむドラマだったら、別に月曜9時にする必要性があったのか?
と思う。これは土曜深夜の枠だったら高評価だったと思う。
あとは他のニュース記事にも書いている通り、ヒロイン役にもう少し格上をキャスティングしてほしかった。
武井咲だと、「はつかーさんじゅにちぃーーごぱーせんとおっふーー」 って言いそうな雰囲気だし。
中山美穂は良い味出しているとは思う。武井咲役は石原さとみか綾瀬はるか、ガッキー、上戸彩クラスをキャスティングしてほしかった。
視聴率上げるにはどうするか?
1)小ネタをもっとぶち込む。 出演者が出てた他のドラマのパクりネタを入れるとか。 狙った視聴者層では無い人には人気が出ると思う。
見た目に騙されがちなので、まずCGという要素を取り除いて考えてみたい
するとこのアニメの要素は
・世界の謎
・ほのぼの
・ゆるい笑い
・ゆるいバトル
あたりだ
無い要素としては
・恋愛要素
・流血レベルの戦い
・技名が出てくるようなバトル
・年齢の概念(先輩、後輩)
などなど
簡単に言えば、これらの「無い要素」は中高生向けに作る際によく盛り込む要素で
それを一切排除した、「非中高生向け」に振り切った作品が盛り上がるというのは、今のアニメ視聴者層(世相)を反映していると思う
最近は、中高生向けなんだけど、メイン視聴者が20代以上というよくわからん状況になっていて
舞台や要素は中高生向けなんだけど、ターゲットは大人みたいな「股裂き現象」が起きていたのではないかと思う
おっさんは中高生に戻ったつもりで作品を楽しむ必要があり、海外からは「何で日本のアニメは皆17才なの?」なんて言われる始末
中高生要素を排除したのが「けものフレンズ」という風にカテゴライズはできるのではと思う
もう一点
今は個別主義の時代に入ってしまっていて、共通概念が学校程度しかないのではないかと思う
共通概念が無いと、作品が作りづらいし共感も得にくい、それで仕方なく学校・あるいは学校的な作品が多くなる
翻ってけものフレンズを見てみると
テーマにしているのは「人間」「友情」「動物」「気候」など、視聴者層の共通概念を限界まで絞り込んだ物となっている
驚くのが、「年齢」「性差」「家族関係」「個体の大きさ」などもほとんど排除しているところだ
排除しきった上で、作中では余った差(例えば「得手不得手」)さえ積極的に許容するストーリーになっている
それらのおかげで、例えば視聴者の家族関係がどうであれ、共通概念を作りやすい構成になっており
話そのものに集中できるようになっている
もちろん、こういう作りは一般向けを目指す際によく使われる手法であり
こういった分析をすると、今後のアニメで起こりそうな流れとしてありそうなのが
・キャラが男のみ、女のみ、あるいは性が無いような作品が更に増える(中高生向け要素を排除しやすいという理由で)
があると思う。
以上です。
すでにこの映画を見て2週間は経つ。鑑賞直後の雑感は箇条書きで記してはいたのだが、一応もう少しまとめようと思い立ったのでここに記す。
おそらくほとんど人の目には留まるまいが、ネタバレを含むので、ここから以下はぜひ本作をご視聴の上でお読みいただきたい。
また、私自身はこの作品を1度しか視聴しておらず、またこの映画に関する情報はパンフレット以外ほとんど(ネット上の評論も含めて)目にしていない状態であるので、思い違いや抜け、または同様の結論に至った他の方の評論がある可能性があることを了承されたい。
また、本文の後半でいくつかの仏教的用語を使用している。が、恥ずかしながら私の仏教知識は全くの独学であり、また理解もかなり浅いものである。もし仏教用語または知識に間違いがあれば、ぜひとも私のツイッターアカウント(https://twitter.com/gachikibou)またはメールアドレス(gachikibou@gmail.com)あてにご叱正をいただきたくお願いする次第である。
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これまで、私は新海誠監督の映像作品をいくつか観た(すべてテレビかDVD)が、どれも見ていていたたまれない気分にさせられるのがいやだった。今回も「新海監督作品」というだけで拒否感が強かったのだが、それを良い形で裏切ってくれる作品であった。
この映画の良い点については、映像作品素人の私でもいくつか挙げることができるが、この文章では、私が「この映画が多くの人の心に深く響いた理由」であると確信した、ある「仕掛け」について取り上げたい。
私がこの映画で見事な「仕掛け」であると考えるのは、「入れ替わっていた時の記憶は夢のように消えていく」という設定である。
ご視聴いただいた方にはわかる通り、この設定は脚本の構成上必要不可欠であり、それ自体が新海氏の作品テーマの一つである「すれ違い」を生むポイントでもある。
しかし私は、この設定そのものが、多くの観客に非常に深い共感を覚えさせるための、きわめて重要な「仕掛け」であったと確信している。
さて、その「仕掛け」について考える前に、まずは一般的な、夢の「記憶」について少し考えたい。
そもそも、人間が見るほとんどの夢は、目覚めた時には忘れられてしまっているし、たとえたまたま夢を覚えていたとしても、目覚めた後しばらくすると、その記憶が朝のルーチンな行事などによって急速に塗り重ねられていく経験を、多くの人はしているはずだ。
そしてそれは、非常にインパクトのある強烈な夢であっても、実は例外ではない。
例えば、前日見た怖い夢について友人に話す時、どうしてもその「怖さ」を伝えることができないというもどかしさを感じたことがある人は多いはずだ。
それにはいろいろな理由が考えられるだろうが、そもそもそうした場合に思い出している夢の「記憶」というのは、実際にはその時の夢に対するおぼろげな「あらすじ」と「『感動』を体験したという『記憶』」を元に、目覚めてしばらく経ってから再構築された、いわば「レプリカ」である。
それは本来の「記憶」ではなく、自分自身によって作られた本来の「記憶」の「代替品」である。そのゆえに、自分自身でもその「記憶」を、生の体験として感じられないのだ。
では、なぜ人は、わざわざそのようにもろい夢の「記憶」を、再構築してまで取っておこうとするのだろうか。
それは、その人が、その夢の中で何らかの「感動」(それは「喜び」であっても、人によっては「恐れ」であってもよい)を体験したからである。
ある夢について、人が「いつまでも覚えている(実際には再構築したレプリカを取っておいている)」のは、その人がその夢の中で、時には現実以上に「感動」させられたからだ。
(つまりは、面白かったテレビドラマやアニメをDVDなどで保管しておこうという行為と同じである)
しかし、そのとっておきたい夢の「記憶」そのものは、前述のように実に「もろい」のだ。
「感動」は個人の心にとって極めて重要な体験であり、その存在を保証する「記憶」は、ある意味「自分そのもの」でもあるのに、夢の「記憶」は、いくら手放すまいと抱え込もうとしても、どうしようもなく風化し、変質し、最後には消えてしまう。
すると最後には「『感動』を経験したという『記憶』」という、ある意味抜け殻のようなものだけが手元に残るのだ。
しかし、人間はそれでも夢の本来の「記憶」をあきらめきれない。
なぜなら、強く「感動」したという事実は、人にとって極めて重要だからだ。
だからこそ人は、無意識にでも夢の「記憶」を、抜け殻である「『感動』を経験したという『記憶』」を元に再構築して「レプリカ」を作り、それを代替品として残すのだ。
たとえ残しても、その「レプリカ」が、本来の生の「記憶」には及ばないにもかかわらず。
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さて、ここまで、夢の「記憶」が本来の記憶から「レプリカ」に置き換わっていく過程を見てきた。
多くの人は無意識のうちに気が付いているのだ。
実は、夢の「記憶」に限らず、人間の実体験から得られたものを含むすべての「記憶」も、年月が経つと消えてしまう「もろい」ものである、ということに。
「よかったことの記憶は美化される」というが、実際には美化という「脚色」ではなく、後に再構築された「レプリカ」かもしれず、場合によっては「レプリカ」の「レプリカ」である可能性すらあるのだ。
「記憶」は、同じ時代の別の「記憶」や、新しい「記憶」、またはその人自身の心境の変化などによって絶えず影響を受け、さらに年月とともに風化する。
そうして形の崩れた「記憶」を、人は心の棚から引き出して眺めるたびに、足りないところや影響を受けたところを成型しなおし、「ああ、あのころはそうだった」と納得して、引き出しに仕舞う。
仕舞った途端に、その「記憶」はまた変質を続け、風化していく。
そのようなものに、果たしてその「記憶」が生み出されたころの、生の部分が残っているだろうか。
そしてその「記憶」がもろく変質し、最初のものと変わってしまっているという事実は、最終的には自分そのものの「はかなさ」にたどり着く。
自分があの時得た喜怒哀楽の「感動」を保証する大切な「記憶」が、年月を追うごとに変質し、「レプリカ」に置き換わっていく。
さらにその「レプリカ」すら、風化に耐えられずに「レプリカ」の「レプリカ」に置き換わってしまう。
それは人間の記憶システムの限界であり、そのような「はかない」ものに立脚している人間存在の限界であり、どうにも抗えない無情な運命である。
この残酷な「はかなさ」を前に、人は多かれ少なかれ、悲しみと恐れを抱くのだ。
しかし、いくら「はかない」ものであっても、人はやはり「『感動した』という事実」を保証する「記憶」を手放せない。
それを手放すことは、過去の「感動」を手放すことであり、つまりは「自分自身」の一部を手放すことに等しいからだ。
「自分自身」を手放したくないという強い思い。これは、人間という存在の持つ、根源的な欲求の一つといってよい。
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この作品で、主人公たちは人格の入れ替わりという「夢の体験」に近いものを体験する。
入れ替わっている時の「記憶」は、(夢の「記憶」と同じく)極めてもろく、曖昧なものであることが劇中の様々な演出や、女性主人公の祖母の経験から示唆される。
また、主人公二人が入れ替わっている最中のことを把握しようと相互に残した記録すら、「世界の修正力」とも呼ぶべき現象によって、問答無用に消されていくのだ。
この演出は、夢の中で強烈な「感動」をしながら、夢の「記憶」が消えていくのを経験した人々(たぶん非常に多いはずだ)に、夢の「記憶」の「はかなさ」、どうあがいても失われてしまう焦燥感と苦しさを思い出させる。
この映画において、入れ替わりの「記憶」は、夢の「記憶」と同列にできるものではない。
なぜなら、その「記憶」は(時間軸のずれはあるにせよ)現実世界での体験によるものだからだ。
ここで視聴者は(特に、視聴者層として想定される若い世代にとっては無意識のうちに)、自分の持つすべての「記憶」そのものも「はかない」ということに気づかされる。
そしてその「はかなさ」は、前述のようにこれまで確かだと思っていた「自分自身」、つまり「自我」の「はかなさ」へと続いているのだ。
この作品が、単なる「恋愛のすれ違い」を描いた作品でない点は、ここにある。
この作品の入れ替わりの記憶に関する「設定」そのものが、人が「自我の存在のはかなさ」に知らずのうちに触れる、という高度な「仕掛け」となっているのだ。
そしてさらにさらに、この仕掛けにかかった視聴者は、「自我のはかなさ」を抱えながら、大災害から人を救いたいという強い想いの結実と、主人公二人の恋の結末を追っていくのである。
「自我のはかなさ」という「無常」を自覚しながら、それでも捨てきれない「感動」を最終的には得るのであり、これをあえてたとえるなら、大乗仏教における「色即是空」の一端を突き付けられながら、それと相反する「自我」を、恋の思いを主軸にした「感動」として体感させられているようなものである。普通の人間にとって、これが強烈な体験とならないはずがない。
この作品を、「何か『高尚な深み』がない」とか、「ヒットする要素が盛りだくさんで鼻につく」といって評価しない人がいるようだが、前述の「仕掛け」が意識されるならば、その評価は間違っている、と言えるだろう。
確かに、ストーリー上はこの作品は恋愛物であり、その結末そのものに何らかの「高尚な思想」は存在しない。
最終的に二人は再会し、そして新しい「記憶」が生まれるだけである。
しかし、上記の「仕掛け」による、実は仏教的ともいえる「無常」と、それと対立する「自我」を強烈に意識した構成は実に見事であるし、十分に評価に値すると、私は考える。
何より、「無常」と「自我」の対立、というよりは映画のエピローグの流れてとしてはむしろ「対決」を、恋愛ドラマをもとにしながらも、とりわけ若い世代の視聴者に体感(おそらく初経験だ)させるなど、尋常の映画ではない。
この点で、私はこの映画が日本のアニメ映画の中でも特筆すべき存在であると考える次第である。
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この映画に関して、もちろん上記以外優れた点は数多くある。
今回記した部分はあくまでも私が特に注目した点であり、冒頭に述べた鑑賞直後の箇条書きの全体量で言えばせいぜい1-2割といったところである。
新海監督の特徴である映像の意図的な美しさや、おそらく何度も検討を重ねて練り上げられた脚本など、評価するところはまだまだあると思う。
しかし、私自身まだ一度しか視聴していないこともあり、また映像や脚本に関してはより以上に素人であるので、それ以外の評価は他の方にゆだねたいと思う。
そして、私はやはりこの映画は、10代から20代の「無常」に関して初心(うぶ)な若い世代に鑑賞していただきたい。
この映画で抉り出されるものは、少なくとも2500年ほど前から人類が立ち向かっている、非常に大きく根源的な問題の欠片である。
そうそう、あれあれ。こんど公開される予定のあの作品ですよ、あれだよあれ。寝る前にあれのこと書きたくなった。
あれさ、予告を見る限り、細田守ファンタジー作品みたいなストーリーを匂わせつつ
岡田麿里作品のような思春期ローティーンの悩みや心の揺れ動きを描くような作りになっているように感じたんだけど、
今のところいったい誰がこの作品を見に映画館へ足を運ぶんだろうかと、すごく心配になるんだよね。
まず映画館で一般の人が予告を観たとしても、”よくわからないオタク向けの萌えアニメ”というカテゴライズがされる気がしてて
勝手な印象だけど、一般人の萌えアニメへの拒絶反応(萌え絵への不気味の谷のようなもの)に対していま流してる予告の絵面と内容では、
不気味の谷を超えてでも見に行きたい何かを提供していないように思えるんだよ。なので予告やCMを目にした一般の人に認知されて
その人達が映画館に見に来るという状況にならないんじゃないかと感じるわけですよ。
次に、プリキュア的なプロットや必修化されたダンスなんかを作中要素に入れてるみたいなので小学校高学年くらいまでの女の子への
フックが効くように作ってるとは思うんだけど、どうしても上に書いたような萌え絵問題のせいでその子達のママさんの足は重いんじゃないだろうかと思うんだよね。
(今年のクリスマスの思い出にと、劇場へ萌えアニメを見せにいく母親がどれほどいるだろうか?)
あとさすがに女子中高生はJCJKにもなればプリキュアは卒業してるだろうから、いくらアニメ映画が流行ってるからといって
わざわざ冬休みに彼氏や友達と連れ立ってプリキュアみのある作品を見に来ることは考えづらいと思うし、あてもなく映画館へ来た子や見たい作品が満員だった子たちがいたとしても
このアニメ作品を見るくらいなら公開終了が近そうな君の名は。か、この世界の片隅に へ流れてしまうんじゃないだろうかと思うわけですよ。
となると残るは我々男性オタクのアニメ視聴者層となるのだが、これも心許ないんじゃないかな?
いかんせんオリジナルの劇場アニメだから深夜作品やゲームのように熱心な層の地盤もなくて
さらに今期の美少女動物園作品の惨状を見るに、さすがの萌豚さんたちも食傷気味なんではないだろうかと思ってしまう。
尚且つ、XX周年記念作品だと銘打っているけどこの制作会社の記念作品だからという理由でリピート鑑賞するような
というわけで君の名は。聲の形、この世界の片隅にと、好調な波が来ているさなかここは何としても
ひと山当てたいこととお察ししますが、個人的には2.5億と予想を立ててみました。
あと一ヶ月あるので広報さん、プロデューサーさん頑張ってください。
それじゃ、おやすみ。
最初に要旨をまとめると
・貧困家庭では娯楽のためだけのコストとしてNHK代は受け入れがたい
・貧困家庭でもスマホは必要なので、最低限必要な情報はそちらから入手できる。
・NHKの存在が公共のTVを潰している。災害時の連絡網としてのTVを潰している
・NHKがなければ、もしくはスクランブル化すれば、民放は貧困家庭に対し、通信量のかからない高画質動画メディアとしてアピール可能=NHKは民放から顧客を奪っている
どうも、貧困家庭です。
派遣の一部では、日々の勤怠連絡にスマホ必須という社会になってますので欠かせません。
仕事の選択肢を広げるためにも、娯楽にも使えるスマホが月1000円。
TVを買うだけならランニングコストはそう高いものじゃないんですが、月1000円以上のNHK代は重くのしかかる金額です。
それに見たいのはNHKじゃなくてどこの曲でもいいのでニュースや音楽番組、旅番組なんです。
1日の間でTVを見るのはわずかな時間。しかも娯楽としてのみ。スマホで情報取得はそれなりにできる、となると貧困の中での取捨選択としては、TVの優先順位を下げざるを得ません。
月1000円。そんなのがあればすき家の混ぜのっけ定食が3回食べれる、温泉に2回入れる、くりかえし読める本が買える。貧乏人としてはけっこう贅沢できます。
最近、職場でTVを見る度に、ああ、TVがほしいなあと思っていますがその度に、NHK代がかかるから…と諦めている状況です。
公共放送を自称するNHKのせいで、公共の放送であるTVの視聴を阻害されるなんておかしな話だと思いませんか?
NHKが契約者のみのスクランブルにしてくれれば、私はTVが見れるんです。
NHKは災害時の放送を引き合いに出して、スクランブル化を拒んでいたと記憶していますが、
NHKのせいでTVをあきらめ、災害時にTVを見れない家庭は増えている現実はどう見ているのでしょうか?
NHKが存在しなければ、スクランブル化してくれれば、災害時に民放を見ることが出来ます。
NHKが嫌でTVを捨てた、諦めた人々という機会損失を放送業界はどのよううに考えているのでしょうか?
NHKのせいで、民放各社は大きな機会損失を被っているのではないでしょうか?
NHKが存在しなければ、民放の無料TVは、Youtubeなどに対し、無料で見れる、通信料のかからない高画質な動画娯楽としてのアドバンテージを発揮出来るはずです。
一人暮らし、スマホだけで暮らすような若者にはとてもありがたいメディアになるのではないでしょうか?動画を見るとあっという間に通信量がパンクしますので…
そんなわけで、民放各社でNHKに圧力をかけ、スクランブル化をするか、NHKを民放化してしまえば、インターネットに対しTVというメディアの少しの復権と、マスの獲得が見込めるかと思います。
貧乏人といえど、数が集まれば社会の流れになります。広告収入の元になります。最近はトランプ現象でTVの、メディアの凋落が叫ばれていますが、私はそんなことより、TVがみたいなと思ってます。TVが見たいと思ってる貧乏な大衆を世論のコントロールのためにも、広告収入のためにも活用してみようとは思いませんか?そのために障害となるのがNHKです。
ただ、民放は視聴者を増やし、世論やブームを作り、広告収入を増やすのが仕事ですから、いずれは放送業界のガンであるNHKをどうにかしない限り、今後も視聴者層は狭まっていくと思います。
無料なら喜んで見たいという私のような人、結構いると思いますよ。
民放は無料で放送してんのにNHKのせいでTVという存在が有料になってる問題。真に公共放送を取り戻すためにもどうにかしてほしいものです
公式の書き方や、巷で燃えてる情報だとどんなところが魅力なのか分かりづらいなと思ったので
見るかどうか迷ってる人に向けて
ある程度あらすじを書かないと正直何も言えないので
正直予想を遥かに超える良い作品でした
キャラの繊細な心理描写が、鼻に付かない程度に上手く表現されていて
一般的に物語というのは人と人の関係によって生じるものが多いですが
このような加害者と被害者という関係性の作品は無いこともないですが、ここまで真正面から
まるで新しい味のラーメンを食べたときのような、「なんだこれ、旨いな」感がありました
原作はシナリオに大分改良を重ねられているらしく、映画もできすぎているくらいによくできています
この話は、もし小説だったなら学校の図書室に置いてありそうな話です
もちろん、もっとハチャメチャな展開を希望する人にはおすすめできませんし
物語は主人公の石田将也が自殺を図る意味深なシーンから始まり、
どのクラスにも一人はいるような悪ガキですが、割りとクラスに溶け込んでいました。
障害を持った児童が普通学級に入ることはままありますが、様々な要因により、このクラスではうまく行きませんでした。
やる気のない教師。陰口を叩く女子。やがてそれはエスカレートしていき、明確にいじめに発展していきます。
石田も、何を考えているかわからないような彼女に対して「気持ち悪い」と思うようになり
途中からはいじめ筆頭として直接手を下すような存在となっていきました。
しかし、補聴器を何個も紛失させるなど度が過ぎたため、ほどなくしていじめがバレます。
それどころか、今度は仲の良かったクラスメイトが石田をいじめのターゲットとするようになります。
その石田に、いじめられていた西宮だけが優しくしようとします。
しかしその行為が理解できず、石田はさらに西宮に辛くあたるのでした。
石田は小6から高3まで「いじめっ子だから近づかない方がいい」という理由でいじめられます。
それによってか、西宮硝子に対して行った罪の重さを自覚し、結果すっかり自己否定と人間不信のような鬱屈した人間と変貌します。
人の顔すらまともに見れなくなった石田は耐えられなくなり、母親が払った弁償金をバイトで稼ぎ、そのまま死ぬつもりでいました。
そんな中、石田は通っていた手話教室で5年ぶりに西宮硝子と再開します。
要点
疑問
最初は石田○ねとしか思いませんが、いつの間にか感情移入していきます
すると西宮とどうなろうが、必ず罪悪感がつきまとい、優しい行動にすら違和感を覚えていきます
「俺なんかが話していいのか」「嫌がっていないか」「喜んでもらうにはどうすればいいのか」
そんな感情はラブストーリーで感じるものに少し似ていますが、罪の意識が強い分、別の何かです
このモヤモヤ感は是非味わってほしいです
その登場人物の心情や状況がどんどん変遷していく過程が面白いです
小学校時代の西宮登場前と後、高校時代の西宮登場前と後と、フェーズが多く
その上家族まで関わってくるため、なかなかに層の厚い話に仕上がっています
周りの登場人物が、いじめ筆頭から部外者まで連綿と配置されているところも面白いです
西宮と他の者、石田と他の者の距離感が一定ではないのですが、そのことで良いテイストが出ていると思います
バランスを欠くとどちらかにご都合的になったり、ダレたり、気持ち悪さが残ります
でもこの作品はそういう灰汁が出てないんですよね
永束くん
結構前の投稿だけど知らない間に、予想以上のブコメ・トラバがついていて驚いた。
フィクション全般を否定しているように誤解されたのは俺の書き方が悪かったので反省。
まあどっちかというと、そういう作品をマンセーしてるやつが気持ち悪いってことなんだけど。
さざえさん等と誤解を招かないように、萌え系かつ日常系のアニメって前提で話をすると
気持ち悪いと感じた要因の一つが、視聴者層が異常に現実を恐れていそうで怖いという点。
一部の奴の声が目立つだけかもしれないが、シリアスな展開が出てきただけで過剰に脚本を否定したり、
男キャラの登場や、存在を匂わすセリフを全否定したり、自分の見る幻想が破壊されることを異常に恐れている感じがする。
アイドルやタレントに恋人がいることを嫌がる層も、幻想の破壊を過剰に恐れていて、破壊された時御門違いの怒り方をするという点で似てる。
それこそフィクションや偶像なのだから、都合の良さも悪さもまあフィクションだしな、と受容して楽しむ方法を見つければいいのにと思う。
ついさっき、こんなエントリーを見かけた。
私は淫夢を憎んでいる - はてな匿名ダイアリー
これは1年半ほど前に書かれた文章で、当時はまだ淫夢コンテンツが隆盛の頃である。それが今更になってTwitterで密かな話題となっていた。この文章を見た瞬間に「俺も持論を展開したい!」と子供染みた高揚感に襲われたので、一つ、書いてみる事にした。
その持論とはパンクロックと淫夢が根底では同じ現象であるというものだ。ただ、それを解説する為には、まず淫夢というコンテンツそのものについて考えなければならない。
ここで指すところの“真夏の夜の淫夢(以下、淫夢と呼称)”とは、2001年にコートコーポレーションから発売された「BABYLON STAGE34 真夏の夜の淫夢」とその他関連したゲイポルノビデオの内容を大手インターネット動画サイト「ニコニコ動画」に転載した一連のコンテンツである。そもそもは、プロ野球選手の多田野数人氏がこのビデオに出演したとされるスキャンダルが2002年の夏頃に週刊誌やインターネット等で報じられ、それを面白がった2ちゃんねるのユーザーがこれを「ネタ」とした事に始まる。要するに、このコンテンツはかなり息の長いものであり、その歴史は14年にも及ぶ事になる。
一方で、淫夢が日本に於けるインターネット文化のメインストリームに飛び出してきたのはごく最近である。例えば、ニコニコ動画で流行を発生される端緒となったMAD動画である「霊夢 so クッキー☆」が投稿されたのが2010年10月30日のことだ。流行の原因はひとえに萌え文化に食い込んだ事にある。当時流行していた東方Projectに乗っかり、馬鹿にするような形で、淫夢は知名度を上げた。そしてこの動画で淫夢要素として登場したのが通称「野獣先輩(役名:田所浩二)」である。最初にこの動画を見ると恐怖と嫌悪感を覚えることだろう。最初はアニメキャラのMADなのに、動画後半でガタイの良い野性的な男が突然喘ぎだすのだ。インパクトは大きいが、初めてこの動画で淫夢に触れた人間は到底笑う事ができないだろう。
そう、冒頭のエントリーでも言われていたように、淫夢のコンテンツは「人を遠ざけること」を以て成立していた。そして、同時に人気のコンテンツに対して「喧嘩を売る」ことも淫夢を支える原動力となっていた。ところで、冒頭のエントリーでは「理解されることを嫌う」という部分に主軸が置かれていたが、「風評被害」などの全方位爆撃と言われるような無差別の迷惑行為が行われる原因には余り言及されていない。そもそも、意味もなく「風評被害」を撒き散らしてコンテンツを占領する事は、淫夢の大きな特徴の一つである。しかしこれを単に「定型文を楽しみたいがため」であると考えるのは早計である。このような無差別の破壊行為を行う危険分子には一つ記憶がある。それは1970年代後半のロンドンパンクである。
パンクロックと言われて皆さんは何を想像するだろうか。まずもってハードコアなロックを想像する人が大多数であると思う。次にセックスピストルズを連想する人が多いだろう。ここでイギー・ポップを想像された方は私と趣味が合うので、酒でも飲み交わしたいところだ。それはさておき、パンクロックというのは至極曖昧な分類である。結論を言えばハードでメタルなロックは特にパンクではない。パンクロックとは、超絶技巧に進化しすぎたロックに対する反骨として、若者たちが楽器を取って破壊的な演奏をしたことに始まる。パンクロックは常に若者と共にあった。その中でもロンドンパンクとセックスピストルズはパンクの代名詞的に語られる事が多い。そして、今回淫夢のムーブメントと対比して語るのも、ロンドンパンクであり、セックスピストルズである。
パンクロックの特徴の一つとして、演奏が適当で、歌も酷く、歌詞は過激、という部分がある。最早そこに芸術性などなく、ただ単調な破壊行為のみが残る。そういう音楽である。そして、ロンドンパンク全盛期(のみならずパンクの曲)の歌詞を聞けば分かるが、その内容は全方位爆撃という言葉に等しい。そしてそれが流行した背景には当時の社会情勢があった。1960年代以降のイギリスと言えば「英国病(もしくは"Sick man of Europe")」と呼ばれる長い停滞の時代にあった。特に1970年代後半は労組の賃上げ交渉のために社会機能が混乱に陥り、それが更に深刻な影響をイギリス全体に与えていた。
淫夢の流行の端緒となったのは「霊夢 so クッキー☆」であるとの持論を先程展開したが、それでも淫夢がアングラの文化である事に変わりは無かった。淫夢が一般的にも受け入れられるようになったのは2013年か2014年ごろの事である。2014年の冬には女子中高生の流行語として「微レ存」(“微粒子レベルで存在している”という内容の淫夢用語)が取り上げられているなど、ある程度社会に影響を及ぼす立場に淫夢というコンテンツが進展している事が分かる。
参考:「Ameba」が2014年「JCJK流行語ランキング」発表 流行語1位は「ダメよ~ダメダメ」、「かまちょ」「KS」など新しいJCJK語も上位に 流行っていたモノ・コト1位は「壁ドン」
https://www.cyberagent.co.jp/news/press/detail/id=9551&season=2014&category=ameba
さて、2010年から2014年の間に何があったかと言えば、2010年ごろから尖閣諸島の問題が表面化し、更にGDPでは日中の順位が逆転、対中関係は政治的にも国民感情的にも急激な悪化の一途を辿った。2011年には東日本大震災とそれに伴う原発事故が起こり、それ以来日本社会に大きな影を落とした。2011年から2012年に掛けては円高が続き、日本経済は大きな不況に陥った。そもそもバブル崩壊以後の日本経済は停滞を続け、災害リスク、政治不信など、社会情勢はとても良好とは言えなかった。要するに、日本は英国病と何ら変わらない状況に陥っていた。(もしくは今も陥っている。)
当たり前だが、人間はそういう状況で不満を溜め込むものである。淫夢はそういった不満の捌け口となる「パンク的」なコンテンツとして、この頃から急激に勢力を伸ばしていった。淫夢というコンテンツが「人を遠ざける」事を絶対の掟とするのは、この攻撃的な性質と表裏一体である。そして、今度は「攻撃する事」そのものが淫夢の価値として利用されるようになった。
ニコニコ動画に於ける淫夢というコンテンツの裏にはニコニコ動画の運営に対する反骨精神が常に見え隠れしている。例えば「ニコニコ本社爆破シリーズ」や「ニコファーレ」を淫夢動画で占領するなどといった行為にそれは顕著である。ニコニコ動画では卑猥な動画は削除されるようになっている。淫夢を題材にした動画もそういった理由で削除される事が多く、「ホモコースト」と呼称されている。ここでのニコニコ動画の運営はある意味既得権益層として扱われている。そして、淫夢というコンテンツに集った人間を抑制する「大人」として常に反骨の対象となっている。この構造はロンドンパンクでも同じだった。有名なセックスピストルズも契約を中途破棄した大手レコードレーベルのEMIに対して中傷を加えるような楽曲『EMI』を制作し発売している。
かつては純粋に同性愛者に対する侮蔑の意味から成り立っていたコンテンツも、近年では方向性が変わり、日本社会全体に対する皮肉や激しい中傷が込められたものとなっている。
ロンドンパンクは一瞬にして終焉を迎えた事で知られている。例えばセックスピストルズはアメリカツアー中に解散し、それからロンドンのパンクブームは急激に終息へと向かった。結局はバンドメンバーの喧嘩別れなのだが、一般的には「セックスピストルズが時代に果たした役割は終わっていたから」と解説される事が多い。これは何を示すのか。
淫夢に目を移してみよう。2010年頃、ニコニコ動画で淫夢が流行りだしたとき、流入してきたのは所謂「はぐれ者」のような人間だった。彼らは「人に理解されない」という事を自覚している。そこでそれを逆手に取って、「絶対に理解されないコンテンツ」で活動する事にしたのだ。淫夢が隆盛すると、淫夢という荒削りだったコンテンツにも多くの優秀なクリエイターが参入してきた。彼らもまた社会のはぐれ者だったが、その技術力によって淫夢というコンテンツはニコニコ動画の中で確実に育っていった。そしてすぐにも一般的な人間にも受け入れられるコンテンツへと淫夢は成長した。
近年のアニメ文化にも同じ現象が見られる。元々深夜帯のアニメは「はぐれ者」の為のコンテンツだった。しかし、深夜アニメのコンテンツとしての成長とともに、十分一般大衆に受け入れられるようになってきた。しかし一方でそれは“古参”のオタクと新たにアニメを視聴し始めた人間の間に溝を生む事になった。近頃では、社会的に弱者というよりは立場の強い者でもアニメを見るようになったので、そういった人間の行動がオタクの内輪で問題になる事も多くなってきた。(ラブライブに関する騒動など。)
淫夢でもこれと同じ事が、より急激なスピードで起こった。淫夢は大衆化が進み過ぎて、比較的容易に理解されるコンテンツとなってしまった。動画のコメントにも「掟」を破るようなものが出てくる。また、淫夢動画自体も攻撃する側からされる側へと変化していった。そうなると、過激な作品を作る意味もなくなっていく。淫夢に関連する動画を作っていたユーザーは更に先鋭化した動画へと転向するか、もしくは全く違うコンテンツに乗り換える事を余儀なくされた。もちろん、動画を作る人間が残されたユーザーに居なかった訳ではないが、理解しがたい価値感から生まれる笑いを作り上げる事は難しくなった。現在の淫夢では、無意味な誹謗中傷を繰り返すタイプのコンテンツと、「現場監督」などの更に理解しがたいコンテンツへと興味が進展している。一方でコアな視聴者層の流出も止まらず、最盛期にはニコニコランキングのその他カテゴリ10位以内を常に占拠していたが、今では半分にも満たないことが多くなった。
セックスピストルズの解散理由であるところの「役割が終わった」とは、言い換えれば過激な事をしても面白くなくなったということである。自分自身がメインストリームに近づいてしまった事により、メインストリームに対する攻撃を加える事が最早できなくなった時点で、ロンドンパンクや現在の淫夢というコンテンツが終焉や衰退へと向かう事は規定路線であったということである。
攻撃的で人間を遠ざけるようなコンテンツは何も淫夢だけではない。2ちゃんねるの「なんでも実況板J」発のコンテンツには類似した攻撃性、特殊性を持ったコンテンツが多く存在している。一つは野球選手を題材としたカッスレなどの誹謗中傷を行うコンテンツである。もう一つは聞いた人も多いと思うが唐澤貴洋弁護士に対する一連の誹謗中傷である。どちらも淫夢より更に先鋭的であり、社会に与える影響もコンテンツの規模に比して大きい。後者は特に爆破予告やGoogleMapの書き換え騒動などで、社会に対して影響を与え始めている。
そしていずれも淫夢のコンテンツに集っていた人間とユーザー層が被っているという事が重要である。そして、これから淫夢と同様に勃興していく可能性を秘めている。それはつまり、淫夢というコンテンツはもしかするとこれから起こる日本社会全体に対する反抗的なムーブメントの始まりに過ぎないかもしれないということだ。淫夢というコンテンツは「因縁を付けて他のコンテンツを占領する」という重要な特性を発現し、それが日本のアングラなインターネット文化に与えた影響は大きい。
パンクロックが「タブーを無視した過激な表現」という点で後の様々なコンテンツに影響を与えたように、もはや淫夢というコンテンツが日本の文化に与える影響は無視できないものとなっている。冒頭の記事で「ニコニコ動画を滅亡させるもの」として記述されていた淫夢は、果ては日本を一種の意味で「壊す」コンテンツとしての役割を担う可能性がある。淫夢はニコニコ動画であり、日本でもあるのだ。つまるところ、今起きている淫夢というコンテンツの拡散はこのコンテンツに特有の事象ではなく、もっと巨大な社会的情勢の要請から来るものであるという事だ。
では、我々は次に何をすべきか。社会を食い潰しながら、次々と勃興しては衰退する攻撃的なコンテンツを前に、それをどうするべきか。淫夢の風評被害を広める人間が悪い訳ではない。唐澤貴洋に殺害予告をする人間が悪い訳でもない。そしてパンクロックを演奏した人間が悪い訳でもなかった。彼らに対して批判を加える前に、彼らに対して何ができるのかを考えてみてほしい。
爆笑問題のニッポンの教養 動画 「女と男“仁義なき戦い” 上野千鶴子(女性学)」
http://veohdownload.blog37.fc2.com/blog-entry-10689.html
番組開始して10分すぎても、上野さんがおもしろいことを言わない。
爆笑問題の2人は番組のホスト役だから聞き役となって、ゲストの上野に好きにしゃべらせている。テレビ番組としてだんだん困ってきたという感じになってきた。主役の上野は自分のテーマの提示として冒頭は好きに話していて、爆笑問題の太田も田中も相づちを打つような感じであるにも関わらず、とくにおもしろいことを言わない。男はもろいよねえ、とか、男どうしの張り合いはムダだよねえ、とか、その程度の話に終始していた。
これが日本のフェミニストの大家なのか、という脱力感だった。というのは、自分は今まで本らしい本を読んだことがなく、ここ3~4年で社会評論の本を読むようになって、誰がスター選手なのかをだんだん把握しはじめているところだった。上野の本も何冊か読み、重要ポジションにあることを知るようになった。上野は、紅白に出る北島三郎や和田アキ子みたいなランクにある。それを知ってから、上野に絡むネット情報で、この番組の存在を知った。実際に放送されてから数年経って見たことになる。
10分過ぎたところで上野は、秋葉原事件の例をあげ、ネットのコミュニケーションを否定してみせた。秋葉原事件の犯人は、自分には恋人がいない、恋人がほしいということをネットの掲示板で訴えてた。それはダメであると上野は言った。
ここに太田はやっとというか、反論する場面を得たような感じで、ネットの会話が何が悪いのかと言う。
ネットの書き込みがダメだと言うのは、明らかに時代錯誤である。ここが上野のつまづきだった。単に古い人間だったことが露呈してしまったのだ。ブログもいいし掲示板もいいけど、LINEはダメだというような、新しいものを怖がる素朴な大人のひとりに大幅にランクダウンしてしまった感じになった。
自分は、『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』という本を読んだことがある。http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%99%BA%E5%A4%A7%E3%81%AE%E8%BB%8C%E8%B7%A1-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%B2%B3%E5%BF%97/dp/4022617667
加藤智大は、実生活での友人もおり、女友達もいた。また、男女関係ではないが、女友達の家に泊まったこともある。風俗にも行っていた。ゲームやネットもやる。非モテではあるが、引きこもりではないし、それほど不利な立場にいたわけではない。異常な母子関係が問題の核で、ネットの問題は二次的なものだと映った。
爆笑問題のふたりは、どちらもかなりの元非モテで、それが上野のとって相性が悪かったようにも思える。
上野は、男のここがダメだ、あそこがダメだ、ネットはダメだ、男は変わるべきだ、男は生身の女と会話しろ(直接の声掛けとか電話とかになるのか)というばかりだった。論理を言わない。論理を聞きたいのに。
ここに、田中がついに反論してしまった。太田が吠える役なのに。男に変われと要求しているが、ジャニーズ事務所にキャーキャー言う女の子を見ても、女の子のほうだって何十年も何も変わっていない。フォーリーブスからたのきんトリオから光GENJIのように。田中は、自分の背が低いことをコンプレックスに思って育ってきて、モテる男性に女性が寄っていくという場面をみただけで傷つくという主張をした。これに対して、上野は説得力のある話を展開できなかった。
上野は、自分は弱いとカミングアウトしている男性には、歯がたたないということだったのか。強がっている男を叩くことには長けていても。
爆笑問題のテレビ番組に出るということは、視聴者層がだいぶ違う。文化人にとって、実質的なテレビデビューに近いと思う。文化人しか出ないの討論のテレビ番組は視聴率が低く、何十年もテレビに出ていても認知度が大したことがないと思う。ここでコケたのは、ダメージは大きかったのではないか。
番組のロケ場所は、秋葉原のメイド喫茶だった。そこに上野は、AKBみたいなミニスカートの衣装を来て登場した。メイド喫茶で喜ぶ男はダメだということも言った。自分が嫌いなものをただ並べているだけで、これではマズイ。秋葉原のメイド喫茶で、秋葉原事件の話を持ちだしたのだから、ロケ場所の指定に上野も関わっていたと思われる。自分の読者以外の視聴者を意識して、媚びてしまったのではないか。
『ためらいの倫理学』(2001年)http://www.amazon.co.jp/%E3%81%9F%E3%82%81%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%AE%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6%E2%80%95%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%83%BB%E6%80%A7%E3%83%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%86%85%E7%94%B0-%E6%A8%B9/dp/4043707010 という本で、上野は10年以上前から強烈に批判されていることを知った。
上野は、『マルクス主義フェミニズム』という流派であるらしい。他にも流派はあるらしく、アメリカの前衛派は、黒人差別と男女差別を同列に扱い、その派生として、トイレも男女いっしょになるのかという極論もあったらしい。黒人は、レストランもバスもトイレも、席が別だったという理由で。日本にも、脱・上野路線みたいなものがあるらしく、フェミニストどうしでも批判しあっているそうだ。
ネットがつまらなくなったのは子供が大勢でつまらない情報を発信するようになったからだ
動画サイトがくだらないコメントで溢れかえるのは子供のちょうどいい暇つぶし場所になってしまったからだ
アニメの主役が高校生ばかりで表現の幅が狭くなったのはそれくらいの年代の視聴者層ばかりになったから感情移入しやすくするためだ
アニメに限らずエログロに規制を入れなきゃいけないのは子供も見るようになったからだ
子供は大人が整えた場所を好きなだけメチャクチャにして去っていく
いや去っていくならまだよかった、そのまま居座る
居るだけならまだいい、しょんべん撒き散らして後始末は大人の仕事だ
生まれてこの方、アイドルに興味を持ったことがなく、そういう趣味はあったとしても、20歳までには卒業するべきだと思って生きてきた。
しかし、ネットとかを見ていると、あまりにおっさんがアイドル話題で盛り上がるのがつらい。
アイドルがテレビに出れば実況でツイッターのトレンドが埋まるし、アイドル好きを公言する野球選手とかも現れるし、
あげくのはてに、政府までも、アイドルを日本の文化として海外に積極的に売り出そうとか言い出す始末。
こいつら本当に頭大丈夫かと思う。
あまり言いたくないけど、最近日本の社会が幼稚に見えるのは、アイドルとかに影響をうけすぎているからなのではないか。
(そして凶悪犯罪者の家からAKBのポスターが発見されると、「AKBは関係ないだろ!」と言って顔を真っ赤にして怒るし。)
そもそも子どものものであるべきアイドルを、子どもは寝ていなければならない夜中にやること自体、間違っている。
おっさんをターゲットにして、本来の視聴者層である子どもたちを完全無視したマーケティングって、ありなの?
いい歳をした大人ならば、もっと他にたしなむべき趣味はあるはずで、
生まれてこの方、漫画やアニメに興味を持ったことがなく、そういう趣味はあったとしても、小学校を卒業するころには卒業するべきだと思って生きてきた。
しかし、ネットとかを見ていると、あまりに「大きなお友達」がアニメ話題で盛り上がるのがつらい。
日曜日の朝にはアニメの実況でツイッターのトレンドが埋まるし、アニメ好きを公言するアイドルとかも現れるし、
あげくのはてに、政府までも、アニメを日本の文化として海外に積極的に売り出そうとか言い出す始末。
こいつら本当に頭大丈夫かと思う。
あまり言いたくないけど、最近日本の社会が幼稚に見えるのは、アニメとかに影響をうけすぎているからなのではないか。
(そして凶悪犯罪者の家からアニメのポスターが発見されると、「アニメは関係ないだろ!」と言って顔を真っ赤にして怒るし。)
そもそも子どものものであるべきアニメを、子どもは寝ていなければならない夜中にやること自体、間違っている。
「大きなお友達」をターゲットにして、本来の視聴者層である子どもたちを完全無視したマーケティングって、ありなの?
今日ネットでNHKでマイルドヤンキーを扱っていたとニュースを読んでいくつかマイルドヤンキーについて思ったことを書きたくなった。
まずはじめに視聴率が欲しければマイルドヤンキーを狙えということ
ヒルナンデスが番組が始まった頃の大方の予想を裏切って視聴率が良いという話を聞いた。
なのでヒルナンデスをちゃんと見てみることにした。
この時、最も思ったのは日テレの製作陣はなかなかおもしろいところに目をつけたなあと言うこと
もっと簡単にいえば最近話題になっているマイルドヤンキーという層が必要とするような情報
具体的にはしまむらやユニクロ・アウトレットモールで芸能人がコーディネート対決をしたり
車で行けるような郊外型のレジャーを中心に扱うといった感じの日常の延長線上に有るよな内容をメインとして扱っている気がした
何がいいたいかといえばいわゆるマイルドヤンキーと言われる層が好みそうな内容という事
確かに地方のマイルドヤンキーからすればその性質上からも東京や芸能界など全く興味が無いわけで
そう言った人たちからすれば東京の情報や芸能界の内輪ネタなど全く見る気がしないのは分からないでもない
その辺りの視聴者の需要を上手く汲み取って番組を作っているヒルナンデスにはなかなか優秀だと思った。
そしてそういった目線からTVを見てみると、面白いことに近年比較的数字の稼げると言われている番組
具体的には全国チェーンの飲食店とタイアップしたような番組だったり日頃目にする食品の工場を取材したような番組
いかにもマイルドヤンキー層の日常の延長線上だったり好みそうな内容である事に気がついた。
この目線で見ると少し前の事になるのだが
あの低視聴率であえぐフジテレビで一時期ヘキサゴンがものすごく視聴率が良かったのも番組を作っている島田紳助が元ヤンキーでそう言った層と好みが重なったからなんじゃないかと思う
具体的には仲間・絆・何かをみんなでつくり上げる番組構成が正にマイルドヤンキーが好みそうなヨサコイソーランを彷彿とさせる
話しが飛んだので元に戻すと
そう考えるとこの手の内容はテレ朝・テレ東が得意とするジャンルで近年視聴率が良いと言うのもうなずけるしその逆でこの手の番組づくりが下手なフジなどは視聴率が低下するというのも納得がいく
ではフジの何がいけないのか?
フジというのはバブル期に持て囃された東京至上主義・世の中は業界人(言い換えると高学歴エリート)に皆憧れそれを目指しているという前提に立った内輪ネタなど明らかにマイルドヤンキー層から嫌われる要素しか無いからだと思う
つまりこの違いがテレ朝・テレ東とフジテレビとの視聴率の明暗を分けているのだと思う
つまりこれからの低視聴率時代である程度数字を稼ぎたいと思ったら
これらの層が好みそうな番組作りをすれば数字が稼ぎやすいということが言えるのだと思う。
その理由はインターネットの発達と労働時間の長時間化に伴い最後にTVを見る層として残ったのがマイルドヤンキーと言われる層だからではないかと思う
従来のTVを見ていた視聴者層のうちマイルドヤンキーではない層
例えばネットに親和性の高い層(簡単に言えばオタク)はネットへ移っていったし
都市部のホワイトカラーは地方のブルーカラーに比べて労働時間が守られにくく残業時間や通勤時間でTVを見る隙がない
更に言えば昼間家でTVを見れる層と言うのも結婚して子供がいるような家庭の主婦層がほとんどだと思う
そしてそう言った層の多くはこのマイルドヤンキー家庭に属する
日常雑感系ブログというジャンル自体が糞なんだよ。
トップにいたコンビニ店長がそもそもつまらなかったし、
まつたけ、コウモリ、ズイショあたりは、
いわばコンビニのことを語らないコンビニ店長であり、
もう目も当てられないつまらなさだ。
日常雑感系ブロガーは早く絶滅しろ
はじめに言っておくが、俺はブログを読むのは好きだよ。
毎日色んな人のブログを読んでる。
趣味や仕事の話って、人の温かさを感じられて楽しいからね。
でもはてなブロガーは駄目だよ。
コンビニ店長 まつたけ コウモリ ズイショetc
この手の奴らな。
はてなで有名になりたくて、ライフハックや文章術やブログ論といった
はてな自意識文化に染まりきった卑しい文章を書いてる奴らだよ。
はてなブロガーという無能集団
これらの増田を書いたのは恐らくはid:change_k=id:Haruo_M氏である(なお、この2つのidが同一人物なのは例えば、 d:id:Haruo_Mに小春チェン児(MIDI箱作)が自アンの出来事を記録するブログ
と書かれており、http://d.hatena.ne.jp/Haruo_M/20100626 にようするに、アクアリウムとDTMとミステリを趣味とするchange_kと、元・小春チェン児の自アン民:深山春生は、まったくの赤の他人として活動していくことになる。
といった記載があること等からわかる。以下氏のことを小春チェン児氏とする)。更に、以前コンビニ店長ことid:nakamurabashi=id:lkhjkljkljdkljl氏(現在はどちらのidも消滅。以下店長氏とする)を長きに亘り増田で批判していた(「つまらない人気者は悪なんだよ」が最後かな? もっとあったかも)のも同様の人物だと思う。
根拠は例えばこの辺等。
はてなブロガーのまつたけ氏がブログをやめるそうだ。
度重なるアンチの攻撃に疲れたのが主な理由とのこと。
そのニュースを聞いて初めて読んでみたが、なんだか某コンビニ店長を
思い出させる文章で、正直うわぁ……となった。
ブログのおもしろさについて - 夏男ノート (id:change_kのはてなブログ)
コウモリ氏とズイショ氏は似ている。どちらも無駄な文が多くてだるくて読めない。似た者同士仲良くすればいいのに。
はてなブックマーク - change_k のブックマーク - 2014年2月20日
他に、こういう細部も一致している。
私は学生時代にパチンコにはまっていた。
暇さえあればパチンコ屋に行き、ろくに勉強しなかったし、両親にも経済的に迷惑をかけてしまった。
同じ大学でパチンコ仲間だった友人とは今でも付き合いがあるが、今の私達はパチンコ反対派であり、
どうすれば日本からパチンコを無くせるだろうか、という話をよくする。
「自戒を込めて」はコンビニ店長案件
大学時代にパチにはまっていた経験から言えば、記事の主張に同意。パチは時間の浪費に加えて、気性、生活のリズム、金銭感覚、車の運転に確実に悪影響が出る。人生を狂わせる力がある。
はてなブックマーク - change_k のブックマーク - 2014年2月1日
又、小春チェン児氏は(元?)自アン民のようだが、d:id:Haruo_Mを見ると、特定の自アン民(主にナトリ=id:natori氏と、 id:matakimika氏)を批判する記事が多く、その点でも店長氏をずっと批判していた匿名ダイアリーの書き手と共通する雰囲気を感じる。
アラフォーニートのナトリが、同世代で普通に自立して暮らしているヤマカン氏に対して、
些細な国語ミスを指摘して得意気になっている様子がすでに哀れだが、
その指摘内容が間違っているときては、みじめすぎて目も当てられない。
ヤマカン氏に迷惑をかけるナトリ - 小春チェン児
天才品川さんが嫌われるワケ
・無節操に文化人ぶるから → 本物志向に嫌われる
・イッチョカミだから → パイオニアに嫌われる
・無教養でかつ自覚がないから → 知的層に嫌われる
・ニセヤンキーだから → DQNに嫌われる
・あらゆる分野のニワカだから → ヲタクに嫌われる
・面白くないから → お笑いファンに嫌われる
・イヤミで性格が悪いから → 同僚・後輩に嫌われる
・人を見下すから → スタッフから嫌われる
・体を張ったギャグがないから → 子供に無視される
2ちゃんで見たコピペ。
上に挙げられている項目を見て、すぐにmatakimikaのことが頭に浮かんだ。
無節操に文化人ぶる、無教養でかつ自覚がない、あらゆる分野のニワカ、面白くない、人を見下す……
これらはまさしくmatakimikaの特徴である。
品川祐とmatakimika matakimikaと東浩紀 - 小春チェン児
とりあえず両名への批判記事を一つずつ部分的に引用したが、他にも沢山の批判記事がある。d:id:Haruo_Mから「ナトリ」「matakimika」で検索をかけてみればわかる(が、「ナトリ」に関してはカテゴリに既に「ナトリ」というのがあるくらいなので、そこを見ればわかる)。個人的にとりわけ衝撃を受けた記事は、id:matakimika氏を批判する歌詞(歌詞内では名前こそ出していないが後の文章から察するにそうなのだろう)の自作曲を紹介しているものだった。
我ながらずいぶんと馬鹿げたものを作ってしまったけど、よかったら聴いてみてください。
自作曲「人文ワナビー」 - ニコニコ動画:GINZA(引用者註 ニコニコ動画へのサムネイルが埋め込まれていたがそのまま引用できないのでリンクに変更した)人文ワナビー・それにしてもmatakimikaのブログはみっともない
作詞・作曲 深山春生
どこへも行けず 誰にもなれず 30過ぎて 40過ぎて
頑張る人を笑っていても 信じる言葉は見つからないね
Uh 観念的さbaby Uh 根拠も無いさ
Uh 値札のついた新事実 みんなに知らせたい
人文ワナビー また君か 人文ワナビー ため息ひとつ
斜に構えて一夜漬け プライドだけが膨らんでく
人文ワナビー うぬぼれに 人文ワナビー 飲み込まれたら
ふもとの町でキャンプして 山の怖さを語りあかそう
人文ワナビー
読書のツボは 著者のキャラクター ファンの学歴 帯のキャッチコピー
見えない服を見た気になって 見た事実だけをはてダに書いた
Uh 抽象的さ全部 Uh 結論ばかり
Uh マイナーメジャーを見かけたら とりあえず舌を巻け
人文ワナビー また君か 人文ワナビー ウンザリするぜ
インテリ作家はインテリア 新書の棚が膨らんでく
人文ワナビー よしなごと 人文ワナビー つれづれつづれ
子供プールに飛び込んで 海の広さに思い馳せよう
人文ワナビー
http://d.hatena.ne.jp/matakimika/
ブログの内容としては、ちょっとした身辺雑記や、わざわざ文章にして説明する必要もないほど平易でありふれた
抽象論や観念的な見解、さらには、思考実験という賢そうな営みにあこがれて、無理やり無駄なことについて
考察を試みたとしか思えないような意見を、学術的な響きを持った単語やレトリックによって装飾するというもの。
その単語やレトリックの例を挙げると、「ジャーゴン」「クラスタ」「コンテキスト」等の横文字や、
「テキ屋さんの生態系」「言説の生み出した重力・運動圏」などの比喩表現がある。
もとの主張が中身に乏しいところへ、世間にそれほど馴染みの無い単語やレトリックをにわか仕込みで盛り込むものだから、
もったいぶった語り口と平易な内容との調和がとれず、羊頭狗肉、のれんに腕押しな感触の不格好な文章ができあがってしまう。
いくら専門的な言葉を多用したところで、matakimikaが日ごろ書きつづっているのは、客観的な資料や積み重ねた実践経験等を
根拠に用いながら結論の妥当性を証明する類の文章ではなく、短絡的な感想を結論として並べただけの、いわば散文記にすぎない。
散文記ならば散文記なりの言葉を選んだほうが格好がつくし、読者にも内容が伝わりやすいのではないだろうか。
自作曲「人文ワナビー」 - 小春チェン児
色々と凄い。
尚、以前の店長氏を批判していた匿名ダイアリーについては、実は当時既に少なくとも3人の方が小春チェン児氏が書いたものかもしれないと感づいていたようなので、参考として紹介しておく。(なお、3名とも自アンに居る、又は居たことがある方のよう。自アンでは氏はそれなりに名が知られているのだろうか)
http://twilog.org/natori/date-130501 (ナトリ氏のtwitter log)
自動アンケートではてな検索したら小春チェン児が俺を叩いていたー! http://d.hatena.ne.jp/Haruo_M/2013045/p1…
>アラフォーニートのナトリが、同世代で普通に自立して暮らしているヤマカン氏に対して←うーん増田ではてなの特定のやつ叩いてるのコイツじゃねえかなあ アラフォーって単語好きすぎる所とか
相手の発言から「natoriはオーストラリアと長野岩手に旅行している」と収集した後になんの脈絡もなく「でもニートだから絶対親につれてもらって旅行してる」とかわけわからんロジックなのが似てるのよなー http://d.hatena.ne.jp/Haruo_M/20121110
>何年か前にも、私が自アンで、自作の組曲が完成したらニコニコ動画で公開する予定だと話したとき、ナトリから「某所の組曲だと他者による良曲選集みたいなもんなのに自分で作っちゃう所がお前らしいな」と冷やかされたことがある。
すんげえな 俺が全然覚えてない事をちゃんと覚えている
「組曲の意味すら知らないクソナトリ」というdisポイントなんだろうけど そういう組曲の意味すら知らない視聴者層の土壌にオリジナルの組曲作って発表しようとするのマジ小春らしいなって思う気持ちは今でも変わらないよ…
つーか監視してるんなら俺も増田粘着デビューさせろや小春 自アン追い出してはてなに逃げた奴を使うのは禁じ手に近いが構わん
miruna MIDIサイトをやっている
はてなブックマーク - 有名人が書いたつまらない記事
miruna MIDIサイトを(略
はてなブックマーク - コンビニ店長の何が求められているのか
miruna MIDIサ(略
はてなブックマーク - これでもコンビニ店長を支持しますか?
※私は自アン民でないので文脈がよくわからないのだが、どうやら「MIDIサイトをやっている」といえば小春チェン児氏のことを指すっぽい。d:id:natori に何件か言及があるがよくわからなかった。小春チェン児氏は確かにd:id:change_kで自作曲を公開しているようだが、氏が過去に「MIDIサイトをやっている」と発言したということなのかな?
carl_b "創作系のサイトをやっている"で小春チェン児みたいだなーと思ったら、俺だけでなかったみたいなので安心した
はてなブックマーク - 有名人が書いたつまらない記事
以上。もし事実誤認があればブックマークコメント等で指摘を頂ければ訂正する。
※ここからは蛇足。私は店長氏本人についてはよく知らないので特に何とも言えないのだが、氏をTwitterで批判していた人がアカウント凍結を食らっていたのを見た経験等から、氏のファンの一部に対する印象は悪い。(無論、批判の所為で凍結されたという確証はないが。)余計なことかも知れないが、一部の過激なファンにこの記事が利用されるのは私の本意ではないので、お断りしておく。ついでに、上で名前を出したid:miruna氏は店長氏に対してはこの下衆とあの増田の間にどれほどの差があったのと真面目な感想を書いときますね。
と書いているように、可也批判的な立ち位置だったということも、念の為誤解の無いよう記しておく。
半沢直樹はおもしろい。普段ドラマなんて滅多に視聴しないのだけれど、これは不毛地帯以来なように思う。
半沢直樹を観ていて自分が感じた違和感というのは、おおよそ金融日記:ドラマ『半沢直樹』の感想 ―銀行員たちは何を賭けて戦っているのか?で指摘されている部分と概ね等しいと思っている。
半沢直樹にワクワクする視聴者層と、リッチマン、プアウーマン、多分厳密には、ソーシャル・ネットワークにワクワクする視聴者層は、きれいに分かれているんじゃないだろうか?
両者の違いは、登場する主人公=ヒーローの背景だけじゃないかな。
もちろん主人公の設定はストーリー全体に影響を及ぼす重要な要素なんだが、この設定が、半沢直樹とソーシャル・ネットワークでは真逆なわけだ。
自分は一応、起業家もとい経営者の身なので、ソーシャル・ネットワークは本当に楽しめた。120分程度のボリューム程度の映画なので、10話完結のドラマとは楽しみ方が違うとは思うけど。
金融日記:ドラマ『半沢直樹』の感想 ―銀行員たちは何を賭けて戦っているのか?で指摘されている『出向』に関してだが、コメントでも色々と賛否があるようだけれど、賛否の大部分の問題は、『出向』すると給料が下がるのか否か?みたいな話らしい。
というのが個人的な感想。プライドを賭けるってのも分からない話じゃないが、プライドの定義が狭すぎる。
ただ社畜が主人公な時点でつまらない。起業家が主人公だとおもしろい。って話でもなくって、
例えば半沢直樹の物語の中では、工場を経営している社長、経営者が頭を下げて、時には涙を流して銀行員にすがりつく、もしくは感謝するシーンもある。
実際IT界隈のベンチャー企業では銀行員が相手ではないかもしれないが、VCだったりには、まぁ概ね同じような気構えでお会いしたりするわけで。
なんというか、結局のところ、起業家や経営者にだってドロドロとした面倒な問題や、先方に頭下げまくったり、競合に出し抜かれたりは当然あるんだけど
社畜にだって、そりゃぁもう、同じかそれ以上にドロドロした世界が広がっているんでしょう。
それが視聴者の胸を打つというか、「倍返しだ!」とか言ってみてぇwww とかそういうアレなんだろう。
それについてはホンモノの銀行員から見たドラマ『半沢直樹』の感想が興味深い - NAVER まとめが興味深い。
最近、企業務めの友人と会うと半ば必然的に半沢直樹が話題に上がるんだけど、そこで感じたことは、
みんな楽しみ方があるあるネタの漫才と同じっていう共通項があるらしい。
そうそう、俺達の世界はこういうドロドロとした苦しみ、耐えねばならぬ世界があるわけよ。みたいな。
ソーシャル・ネットワークも不毛地帯も、視点が経営者視点なんだよね。
物語そのものの絵としてはは、そりゃ現場でしこしこ工場のおっさん相手に根回しするよりは、豪華な料亭で談合する方が映えるだろう。クラブで女を侍らせながら、世界をひっくり返す野望を語る方がよりセンセーショナルだろう。
でもそういうのって、直感的にそれがリアルなものには感じられないんだよね。それが例え、あり得る現実世界そのものだとしても。
結局なにが言いたいかって、きっと自分も主人公の設定がひっくり返るだけで、同じように胸を打ち、同じようにあるあるネタを肴に酒を呑むんだろう。
それはわかっているんだけど、なんだろう、この虚しさは。