はてなキーワード: 於いてとは
本紙・鈴木エイト主筆は「個人的見解」として以下の様に分析した。
「人工中絶手術を受けた患者のカルテは、先祖因縁などを吹き込み悪質な霊感商法を行なってきた統一教会からみると、ある意味“宝の山”です。
被害を未然に防ぐために滝本弁護士が採った緊急避難的行動は、中絶の施術を受けた女性のカルテが統一教会側に流出することを防いだという点に於いて評価できます。
統一教会が霊感商法や詐欺勧誘を行う際に、勧誘対象者の心の傷を探り当てそこを突いていくというのが常套手段ですから。
これは火事になった家から逃げ遅れた子供を救うために不法侵入を犯して他人の家屋内に立ち入るといったケースと同様で、違法性は阻却されるべきだと思います。
更に鈴木主筆は、自身も緊急避難的行動を採っていたことを打ち明けた。
街頭でカルト勧誘阻止のパトロール活動を行なっていた時のことですが、統一教会偽装勧誘員が持っていたアンケート用紙を半ば強引に”押収”し、用紙に記された勧誘被害者に連絡して注意喚起していました。
我々が暮らしている国、日本は、あらゆる面に於いて諸外国と比較して遥かに遅れていることは厳然たる事実です。
しかしながら、それらを指摘し改善を後押しさせたいがために問題提起として主張する際に
「日本は未だに~」「バカ日本は~」「正に中世____ランド」などと耳を覆いたくなるような罵詈で溢れています。
「そんなことをして本気で日本が変わると思っているのか」と反論したくなりますが、上記の罵詈を文言で発する彼らは事実そう思っているのだから仕方ありません。
これでは日本に暮らす大多数の国民(彼らにとっては愚民)には声が届かず、上級国民の戯言としか捉えてくれません。
おそらく彼らはそれでいいのでしょう。
私はよくないと思ったので、次の案を主張します。
そうすることで、「日本の問題」というどこか遠いところに存在する問題を「身近な問題」として捉えることができます。
「我々」でも「俺達」でも構いません。「自分のこと」と思えるような主張にすることが重要です。
「私は違うのに、どうして大多数の愚かな日本人と一緒くたにされなければならないの?そんなの耐えられない!」と思う方もいるでしょう。
どうぞ思ってください。私には、その思考を変える事はできません。
・それらは自分の嫌な記憶と繋がるからで、笑いにすらして欲しくない
・嫌な行動をするキャラクターも嫌いになる
・反論は認めない(主観なので当たり前)追記として、規制を求める物でもない
という事になるが、これでは他の言及が一切の意味を成さない為、より深い考察を提案する。
①ナゼ、触られたり見られるのが嫌なのか?
あらゆる状況でそうであるかどうかを考え、その理由を認めるのは非常に難しいだろう。しかし総てを否定し、許可が要るのであれば、人類は絶滅する事に考え至って欲しい。
大袈裟でもなんでもない。残念ながら種の繁殖を公権力や資本が管理する社会にも未来はないのだ。
②嫌な経験とキャラクターの行為にはどのような関係があるのか?
これは非常に簡明であるので、ぜひ自分を分析して気付いて欲しい。苦痛であるのなら、好きな経験や楽しかった事との関係から始めると良いだろう。
そうして、それが解析できた暁には残念ながら漫画を卒業する事になるかもしれない、と述べておく。嫌な経験だけでも、その逆だけでも作品は成立しないからだ。
これを考える事ができないのは、通常の教育課程で文章の読解は行うが、漫画については行わないせいもあるかもしれない。
本来であれば教育されるべき性質のものでもなく、且つ又、執筆側の思惑を読者が汲まねばならいのは、ある意味で作品として失敗とも言えよう。
しかしこの日誌は自らの内面に踏み込んでいるため、そこで終わらせず、更なる先を理解できれば多くの描き手は本望ではないかと思う。
給料少ないだとか自殺者出るとかそんな当たり前のことは置いといて、アニメファンでも意外に知らないんじゃないかな? ってとこを挙げてく。
特に「動画」って工程は日本国内じゃほとんど息してない。あったとしても劇場専用部隊みたいな感じ。日本で放送されてるTVアニメのほぼ全ては海外動仕によって成り立っている。別の言い方をするなら、画面に出るTVアニメの線はほぼ全て海外のアニメーターの線である。海外動仕はアニメ業界発展の原因でもあり衰退の原因でもある。「アニメの本数を減らせばブラックじゃなくなる」という論を最近良く見るが、海外動仕を禁止すれば必然的にアニメの本数は減るだろう。
これは今でも信じられないが、作品のクオリティに直結するはずのアニメーター選別はだいたいの場合制作進行の人脈に一任である。(もちろんアニメーターを指定されることもあるが、まれ。)たま〜に見る作画アニメは監督や作監なんかがデキるアニメーターを引っ張って来ているか、制作進行の人脈が広かったかのどちらか。
厳密に表現するなら、アニメーターが集団で特定のアニメにつきっきりになることはない。なにぶん単価が安いので、複数作品の掛け持ちが一般的に行われている。そのため「この話数だけ参加」みたいなことが普通にある。毎話毎話制作進行がアニメーターを集めている。
・アニメーターになりたいならTwitterのプロフ欄に「アニメーター」と書くだけで仕事が来る
制作進行はアニメーターを日々探し回っている。それはTwitterに於いても然り。そこそこのイラストを投稿しているアカウントに片っ端からDMを送る進行だっている。というか最近の若くてうまいアニメーターはデジタル作画が多いので制作進行も仕事用SNSアカウントを持っていることが多々ある。言うまでもないがこういった人脈の構築は自己判断でやったもん勝ちなところがある。(個人的にはこの「やったもん勝ち」が制作進行としての実力に直結してしまう部分は問題でもあると思っている。)ただし身元のはっきりしないアニメーターは失踪もしやすい。ちなみに現場は未だ大部分が紙ベースなので、デジタル作画に統一されれば要らないような(無駄な)仕事のオンパレードである。
・1話あたりにかかる費用は最低でも2000万円くらい
アニメファン界隈に流れている情報だと1000万~1300万くらいと書かれていたりするが、それはもう昔の話。
腰を抜かすほどテキトーに描いたレイアウトを出すアニメーターはいる。一時期話題になった「山賊アニメーター」は本当にいる。そのぶん後の工程の人たちが頑張っている。
最後に、
離職率9割はある。つまり普通の人は辞める。これを読んでいるあなたは普通の人である。よって、もしあなたがアニメ業界に入ったとしても辞める。現場すでに崩壊している。「崩壊しつつある」ではない。あと10年もしないうちにアニメバブルは弾けるだろう。コンテンツ業界に興味があるのならアニメ以外をおすすめする。それでもアニメ業界に携わりたいのなら、アニプレみたいな「お金を出す側」の会社に入るのが良い。間違っても制作会社に入ってはいけない。
でも、
・どんなアニメでも作ってる人たちはホントにいい作品を作ろうと思って頑張っている
ことを忘れないでほしい。
私は現役東大生だが、
「現役東大生だが、上野千鶴子の祝辞はゴミだと思う」(https://anond.hatelabo.jp/20190413114026)に反論を試みたいと思う。
ここには上野氏の祝辞(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html)がほとんど引用されていないので、論旨が追いづらいかも知れないが、読んでくださる諸氏にはご容赦願いたい。
以下、引用中略は[……]、上野からの引用は「」、上記はてなからの引用は四角い枠と “ ” 、私自身の強調は[]で示した。
↑ソースはここhttp://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409128_002_1.pdfで、六年間の推移が1.17→0.76→1.31→0.95→1.04→1.04でその平均が1.03なので仮説検定をすれば有意でない、すなわち平等とわかる数値なんですが、なんでこんなに持って回った言い方するの?
この後に述べられている通り、「医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、何らかの説明が要る」。そして平均としては確かに1程度である(女子は医学部にだけ特別に入りにくい)ので、他の大学より遥かにマシだとはいえ、このデータには読み解くべき何かがあることになる。
↑ここまでの話をまとめると、私立大医学部ではどうやら不正な入試が行われているが東大では医学部はじめ全ての科類で平等な入試が行われている。ということなんですが、これはもはや私大の医学部の問題[……]で、東大の入学式の祝辞の一発目に持ってくる話題としては不適当では?
東大は(権利問題として)特権的な学府ではなく、他の最高学府と並列の、ただの[大学]だ(事実問題は置いておいて)。だから、他の大学の話は、東京大学という固有名において確かにそれだけ関係が薄いし、しかし大学であるという点において強く関係している。他の大学との交渉も避けられない状況、そして例の不正が、入学試験という、どの[大学]にもある制度に於いて発生した不正である、ということに鑑みると、やはり他大入試の不正は無関係であるとは言えないだろう。
↑ここ統計データを示せよ。なんで女子が差別されてる話は具体的な数字出しまくったのに女子が優れている話は具体的な数字出さないんだよ。
これは、追記
(https://anond.hatelabo.jp/20190414151912)
により推察されているとおりだと思う。
女子学生の偏差値のほうが上だというのは、東京大学の受験者を母集団とした時の偏差値のことで、偏差値の正規分布に性差はないというのは、母集団を全体とした時の話である。そのくらい、現役東大生なら読み取りましょう。
大学進学率の男女差の原因分析は、統計一本では不可能だ。たしかに、その差が統計的に有意かどうか示されていないのは穴かも知れない。原因が性差別によるものだということも、根拠は示されていないのもそのとおりだ。だが、それは先にも指摘したように統計のみによる分析ではない。他の統計やフィールドワーク、社会学的な先行研究などを踏まえて、より厳密な研究において慎重に示されたものだろう。それが省略されたものだと読むのが適切だろうと思う。
まあ、なにか根拠を示して欲しいとは思うが、そこは論文を読めということを世論に誘導しているのだろう()。
そう……彼女はここに於いてことごとく結論を省いているのだ。それを私が補うこともできようが、それは実に恥ずかしいのでしない。とにかく、その空隙はみな、彼女の策略だと読むことができる。……できる、というのが曲者であり重要で、テクスト読解における著者の意味論的意図をどう扱うかという問題に繋がるのだが、とりあえずここでは、そのように[読める]ということはそのような解釈を受け入れて良いと言うことでもあると述べておこう。
↑てか普通に考えたら 第一:女子は安全志向 第三:親が性差別している を要因として 第二:東京大学入学者の女性比率が二割以下 が発生してるって話になるだろ。なんで並列なんだよ
ここは正直、言っていることがよくわからない。第一及び第三を原因として第ニは導き出される、ということを言いたいのだろうか?それを指摘すれば丁寧だったかも知れないが、特に指摘する必要はない。
ここで示されているのは、①女子は安全志向(ゆえ男子と比べ偏差値的の高い人が東大を受験する)、②女性比率が二割以下であり、偏差値の高低に性差はないため、男子と比べ(略)、③女子は男子より四年生大学進学率が低く、大学受験自体への逆風がある、ということだ。追記にある、③への疑問はもっともで検証は必要かも知れないが、大学進学をdiscourageする気風がある中で尚、東大進学を果たす人の集団がそうでない人の集団に比べ優秀であると推測するのはそう不自然なことではない。
東大の「1.03」という数字に不正の影を見るかどうかはわからないが、少なくとも医学部に女性を入れにくくする何か(不正に限らず)が働いている、と疑いを抱く読み解きはおかしなものではないだろう。
↑「娘の翼を折らないようにしてきた」という父親の事例を挙げて得られる結論がどうして「多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきた」なんだよ。
確かに論理的にはそこからそれは導き出せないが、これは論理的な筋を追う文章ではなく、レトリックとして、別の事例に於いてしかし同様の自体が起こっていることに結びつけ、全体の帰結を引き出している、ある種の帰納的な修辞だ。繰り返すように、これは論文ではなく演説である。
↑どうやって?
確かに画一化。まあしかし東大男子が全体の傾向として異性にアトラクティヴなものとして映るというのは間違いではないように思う。
男子大学生は東大生であることに誇りを持っていることは傾向として否定できないと思いますけどね。
統計的傾向は個人を説明し切ることが出来ないが、かと言ってそれ自体を否定できるものではない。
そもそもここでの画一化は突然ではない。初めから、男女という、大きな別々の傾向性を持つ、二つの、緩やかな集団の話をしている。
〜同様のため中略。極めて不毛。〜
↑どんな目で見られてるかちゃんと言えよ。マイナスイメージ[……]が正しいと言いたい(文脈的にこっち)ならそれは性への圧だろ。
[どのように]見られているか明確に言わない、というのはやはり演説的(というか普通の意味で)レトリックであろう。文学に於いて、全てゴテゴテ説明したら品がないし衝撃を薄めてしまうのと同じかと思われる。
高学歴男性批判なのだから、『彼女は頭が悪いから』における見方に一定の価値を置いていることは明白であるし、“性への圧”をかけていることを批判しているのだから、その抑圧的な側の“性への圧”になるのは当然だ。“圧”をかけねば批判できないのだから。
↑男子サークルって書き方からして完全に男子を悪者にしてるけど他大学の女子が競争相手を減らすために東大女子を入れないようにしてる可能性だってあるだろ。性差別か?お?
そのような事例は、全体の傾向からして少数派であると判断したからだろうという反論と、他大女子がそのような行動をしているというのならば、やはり女子は勉強が出来ると魅力が減るという偏見の存在を証明することになるという反論の二つが想定できる。
原因ではなく、東大に於いて性差別が存在していることを、別の形での表出を例示することで補足的に示している。
“時代性が交絡するようなデータ”というのが何を指しているのかよくわからないが(学部などの学内女性比率のデータと、学部長などに女性が極めて少ない上東大総長に女性がいないことを示すデータ、という2つがあることか、それぞれのデータが何年度の調査であるのか示されていないということなのではないかと思う)、両者は比較されていないので、双方共に有効なデータであれば問題なし。
これも文意がうまく取れなかった。
上野氏の話の内容が“祝辞で喋る”のにふさわしいかどうか、というのであれば、個人のスタンスによると思うので割愛。私の意見を結論だけ言えば、全く問題ないと思う。……少しは気の毒と思うけれど。素朴な親御さんにとっては。
↑これ普通に気になるな
気になりますよね。
闘ってきた、ということは事実の記述。恵まれた環境がそれを支えてきたかどうかとは別の問題。もちろん、その闘争も、努力のみならず、阻害しない環境が最低限整っていたというのは間違いないと思う。
不正入試だけではなく、大学における女性差別という[がんばってもそれが公正に報われない社会]がある、という話。
加えて、それでも、努力が[東大合格]という結果に対しての最低限、報われる環境という必要条件を満たしていたことは、観測選択効果により論理的に明らかである。
↑これはまあそういう意見もあるよね。
そうですね。
↑恵まれない人を助けることに繋がらない学問やっちゃいけないの?ブラックホール撮影しちゃだめ?ニュートリノ観測しちゃだめ?
第一ブラックホールの観測は、恵まれない人々を貶めない。むしろ間接的にではあれ勇気を与えることもあろう(嫉妬深いポスドクを苦しめるかも知れないが……)。
この言葉は決して、能力の使途範囲を積極的に規定しようとするものではない。「弱者」を貶めるために使うな、と言っているのだ。そうしなければ、差し当たり何に使っても構わない。「弱者」を助けるため[だけ]に使えなどとは言っていない。
そして、ここは確かに難しいところだが、社会的「強者」である東大生が持つ、大きなリソースが「弱者」に分配されれば、社会状況は良い方向へと一歩進むだろう。そのためにも、その力を「弱者」のために使ってほしいと、[お願い]しているのだ。命令でも、べき論でもない。これは[自由意志]に訴えるしかないのだから。
結局東大生に弱者であって欲しいのか弱者を助ける存在であって欲しいのかが見えてこない。弱者を助ける存在もまた弱者で、だから他の弱者に助けてもらいましょう。ということなのかな?全員弱者なら女子受験生の話をした意味は?
おそらく全ての人は、あるところに於いて「強者」であるとともに、また別のところでは「弱者」である。絶大な権力を持つ政治家は社会関係の多くの場面で「強者」だが、病院に行けば脆弱な身体を医者に晒しているかも知れない。東大女性だって、社会通念に於いてはそれが負の属性であるかもしれないが、知性を持つという事実に於いて「強者」でもある。「弱者」というのはここでは女性という属性のことだけではない。みなが持ち、みなが足蹴にする可能性のあるものだ。
↑まずこの弱者って特に女性を指してるの?だとすれば女性は謂れなき差別を受けていてそのために被害を受けているという話だったよね?てことは女性は謂れなき差別を受けたままで尊重されるべきってこと?意味不明じゃない?
[「弱者」である]ということは差別を受けるということと等価ではないだろう、当然。分かるよね?
……付言するなら、「弱者」である自己を否定否認して「強者」に成り上がることだけがこの社会に生きる唯一の道だというなら、それは極めて殺伐とした恐ろしい世界だということだ。相対的に見て、ある能力に乏しい存在であるということは、[悪]を意味しない。そもそも、能力の優劣自体も、極めて価値論的な事態なのだから。
総評として、全称記号と任意記号の恣意的な混同によってデータを自分の都合のいいように改変して使用する、統計学ひいては学問を完全に馬鹿にした祝辞であったように思える。思想としてのフェミニズムであればこのような「過激な」スピーチにより注目を集めるのも一つの作戦なのだろうが、この人は「学問としてフェミニズムを修めている人間」として「これから学問を修める3000人の東京大学新入生」にスピーチしたわけで、その内容としては甚だ不適当だと言わざるを得ない。
はっきり言って、こんなものを褒めそやす人間は、たとえそれがどれだけメタ的な視点からの評価のつもりでも、科学の世界を脅かすありふれた権威主義の愚か者の集団に含まれる一人にすぎないと言えよう。
統計的根拠を一々述べ立てるアジなんざ、アジとしての役割を果たすわけないのだ。全称命題と存在命題とを断りなく混在させているのは事実だが、どれがどちらかというのはきちんと読み解けば理解できるものだし、そこで意味されている内容も至極真っ当なものばかりだ。根拠が常に明示されているということが学問の第一条件ではないし(科学的方法論に於いては絶対かも知れないが、それでも初めは根拠の見当たらないところから探求はスタートするのである)、目の前に立っている人間がいつも親切に根拠を示してくれると思うなら、それは歩行器に頼り切って自分は歩けると錯覚してしまっている憐れな赤ん坊でしかないだろう(そんな自意識的な赤ん坊はいないけれど)。
それに、学問的営為が実践と不可分であるような領野などいくらでもある。工学は社会実装を常に見据えてあるだろうし、医学や看護学や臨床心理学などは常に目の前に他人がいて、それにどう働きかけるかという視点がなければ成立しない。クローズドスキルだけでは学問は成り立たない。倫理学者が、平気で己の立てた操に反しているならば、それこそ非倫理的だろう。厳密にいうならば、程度の差こそあれすべての学問は日常に接続しているはずなのだ。そもそも、このスピーチは学問的に水準以上の盤石さの上に成り立っているものだと思われるわけだし。
権威主義を警戒する姿勢は全く健全なものであるが、目先の手触りのザラツキに神経を逆撫でされて走り出してしまうのはいただけない。きちんとテクストを読み解いてから、非難に当たるべきだろう。そのようなあり方こそが学問的な……という以前に、真摯な姿勢による対応だと思われる。
唐突だが、変なこと語りだすよ。
次元の壁を超えて2次元へ行きたいというのは割とコモディティな願望だと思う。
一斉を風靡したセカンドライフ的なもの、現代でわかりやすくいえばSAOのアインクラッドのような場所に(デスゲームは勘弁してほしいが)行きたい訳だ。
で、叶うなら男性ならアスナ、女性の場合はキリトみたいな男女とイチャコラしたいみたいな話である。
もちろん、LGBTの方でも思い思いの相手がいることでしょう。
それを現実で叶えるのは難しいので、せめて仮想世界で実現したいのである。
それは逃避といえば逃避であろう。
でも、現実では自由度が低いが故に、別の世界で自由に過ごしたいというのは至極当然の発想ではある。
それゆえの逃避を誰が責めることができるだろうか。現実で辛い目にあったことがないものだけが石を投げよという話だ。
だがしかし、やはり仮想世界には制限が発生する。現実が仮想世界を侵略するのである。
例えば誰かを嫁に娶りたいとする。
まず、その仮想世界でセックスし子を成すとするなら、その時点でそれがエロゲーとして扱われる。
それくらいならまぁ成人指定であってもいい。実際に結婚だって成人がするものであるから。
だが、婚姻を成したいキャラはまずそんな世界に呼べないのである。
権利者というお父様が、そんなエロいことをさせるために産んだのではないというのである。
これも現実に近いといえば近い。
だが、現実世界では、いつかは嫁に送り出さなければならないと考えているだけまし。
2次元では誰もそのように考えていない。ずっと箱入り娘でいさせればいいと考えているものである。
そもそも結婚というシステムは現実では共同生活を送り、次の世代へ子孫を残すためのものである。
しかし仮想世界ではそんな制約はない。だからどれだけ請い恋い焦がれていたとしても、叶わないのである。
なんということだ。仮想世界は現実世界の侵略により現実よりも不自由になることが確定しているのである。
現実世界が仮想世界を尊重し、第二の現実世界であるという共通認識がされない限り、この制約は覆ることはない。
茅場晶彦は、何よりも現実の侵略から反逆し、別世界へ移住することを強く望んだんだなと思う。
彼の場合、それがデスゲームという形で表れてしまったのは少し残念ではあるが。
倫理コードを解除するとセックスができるというのも、単にエロいことをしたいという話だけでなく、
そもそも生活の延長として当たり前のことが当たり前にできるようにしたいという一環で実装されていたに過ぎないと考える。
決して川原礫が物語を紡ぐための都合として存在している機能ではない。実現しておくべき機能だから実装されていたのである。
あと、アスナはNPCじゃなくPCであるから倫理規定が必要だが、高度なAIを搭載したNPCの場合、同じように倫理規定が必要なのだろうか。
その場合、願望は叶わず、NCPには婚姻を拒否され、共に暮らすことは叶わない。
そんな現実を突きつける仮想世界にダイブしつづける意味がない。
仮想世界に於いても何者にもなれない。運命の果実は独りで食べるしかない。
そんな訳で、仮想世界へ逃避すれば妄想が実現すると考えがちであるが、現実世界の認識が変わらぬ限り、
プレイヤーはエロゲーしたいだけの奴に成り下がる上、本当に過ごしたい相手はその世界に呼べず、
今の暮らしで抑圧を感じている人への代替世界を提案してみたいと考えてみたが、このような理由により今のままでは代替不可能であるとの結論に至ってしまったのである。
「赤字にするな」「金を払わせろ」は二次創作同人に於いても言われることのあるワードだけど、それは願いであって強要するものではないと思っていた。無理して創作が続かなくなるのは嫌だけど、そうでない限りは本人の自由だとも思っていた。
今回本は間に合わなくて、途中のものを無料配布することにした。でもせっかく本の形にするならと思って出来る範囲の工夫をにた。そうしたら「読み捨てできるくらいの装丁にしないのは手に取り辛い」「そもそも金を払いたい読者のことを蔑ろにしている」と怒られた。無料配布はゴミなんだからゴミらしい装丁にしろと。まず無料配布がゴミだと思ったことはなかったし、頒布価格安かったら大丈夫かな?とは思うけど余分な金を渡させろと思ったこともなかったから驚いた。
私が装丁を凝るのは好きだからだ。めちゃくちゃ少部数だから出来ることは少ないけど、それでもそういう本を作るのは私の満足だ。年に何冊も作るわけじゃないし。コピーだったら遊びの幅が拡がるかなって、編集と装丁次第で100円にも満たなくなる本をもう少しだけ可愛くしたかっただけだ。でもそれっておかしなことなのかな。タダだからゴミ、なんてつもりで手に取ったことも置いたこともなかったけど、同人誌の価値は価格にあるの?そういう価値観はどれくらい一般的なんだろう。
「仕事にて」
多少関わりがある他部署の上司がとった行動について自分は部外者だからタイミング悪かったなと思うことにしたが、他の人だったら違ってただろう。
まあ、傍観していたらその上司も部署の皆に不平等にならないようにと必死さがみえた。嫌われたら大変だ。
「習い事にて」
3人レッスン本格始動
新しく入ったBさん、本を沢山読む人なのだろう。語彙力や話し方、知的さを感じた。偏差値高く先生と気が合いそう。
またレベルアップするだろう。
今までとは雰囲気もがらりと変わった。
Bさんはあまりにも低レベルな言動が可笑しかったのかこちらが発言したら笑っていた。
「買い物中にて」
置いてけぼりだと痛切に感じた。
事もないだろうが、自分には何もない。
今まで思いたくも
受け入れたくもなかったが
勿体無い時間を過ごしてきたんだな
サロンに入会していない意識の低い奴らとつるんでいても足を引っ張られるだけ
意識の低い奴らでつるむのは楽しいだろうけど、その中からクリエイティブな人は生まれない
サロン内で仕事をしたりお互いの欠点を言い合うことで高みに行ける
「自分の友人はいい人だよ」と言う人間は本当の人間の価値を解ってない
一般的に暗黒時代とも言えるポメラニアンの戦いの歴史に於いて、芸術が大きな発展を見せたことは看過できない。
ポメラニアンの戦いが始まると、一部のポメラニアンが反戦運動を起こした。
その波は瞬く間に芸術界に広まると、歴史から何も学べない、幾度となく繰り返す戦争の愚かさを芸術を通して表現したポメラニアンたちが現れた。
同族同士の戦いに於いて勝敗を決しようとする愚かなポメラニアンにアイロニックな観点からポメラニアンを唄ったのがポメラニアンのポメラニアンである。
静寂な湖畔に佇むポメラニアン
鳥の声に導かれ振り返れば越冬の小屋
暖炉にくべる薪は底をつく
ポメラニアンは泳げない
一匹のポメラニアンが静寂な湖畔に過去の幸せな生活に想いをよぎらせている。
近年、新たな学説の登場により一般的に理解されているポメラニアンの戦いの全貌が明らかにされようとしている。
ポメラニアンの戦いとは主にポメラニアン同士の戦いのうち、二頭あるいは複数頭での争いのことを言う。
もし仮にポメラニアンが勝った場合、それは同時にポメラニアンの敗北を意味するからである。
歴史上最も知られているのは、やはりポメラニアンの戦いであろう。
1994年、ポメラニアンがポメラニアンと出会ったことで開戦の火ぶたは切られた。
序盤はポメラニアンが有利に思えた。
しかしポメラニアンの背後にはポメラニアンのポメラニアンが控えており、これを見抜けなかったポメラニアンの戦局は一転する。
ポメラニアンはどうにか戦局の建て直しを計るも、ポメラニアンは頼りにしていたポメラニアンに裏切られ、ポメラニアンの権力構造が崩れるとポメラニアンの戦いは泥沼化することとなった。
これに憂慮を示したポメラニアンは、ポメラニアンの戦いの停戦協定を模索すべくポメラニアンを特使としてポメラニアンに派遣して事態の鎮静化を図った。
例えばDDDが好きじゃないとか、TDDが好きじゃないとか言うと、エンジニアはギョッとした顔で僕のことを見てくる。
まぁ実際スクラムは必要ないみたいな話を聞いて、私もギョッとした顔をしてしまったことがある。
TDDやDDD、スクラム、型宣言、オブジェクト指向の原則、デザインパターン、、、、
ソフトウェアエンジニアリングに於いて数えきれない聖書みたいなものがある。これらの聖書はすべての宗教の聖書に一読の価値があるように、いいエッセンスが詰め込められている。
ただ、全てを一度引き出しにしまって、まずはコードを書くべきだ。
もちろんテストを書いてはいけないとも、クラス図を書いてはいけないとも、言ってはいない。
あなたがソフトウェアの判断に迷った時に聖書の金言と見比べよう。
もし聖書には今のあなたの状況にあった教義が見つからなかった場合は、他の聖書に手を取ってみよう。
聖書の内容を頭に入れることは常に次のことより劣後すべきだ。
コードを書くこと
コードを読むこと
仕様を考えること
顧客と話すこと
惰性でD2メガテンをプレイしていたら、なんの前触れもなく画面上に【楽しんでいますか?】とだけ書かれたダイアログが出たので、どんな答えを期待しているのかな、と感じながら正直な答えを選択したところ……意見を聞かせて欲しいとの事で、ご意見ページに誘導されました。
わざわざフィードバックを請う以上、読むつもりが有るのだと感じたので長文を送ってみましたが
自分ひとりの意見だけで、セガが、またこのアプリゲーらしき何かが改善されるとは思えないですので、誰かしらに届く事を期待して、送信した内容をここに置いておきます。
こちらのタイトルを含んだメガテンシリーズ登場作品に於いて、常に合体可能であった筈の"邪神"の種族と設定するにも関わらず、合体不可の現金販売のみに設定するのは、度を超えています。
邪神以外に設定したとしても歓迎はされないでしょうが。(ついでに書けば、似た扱いの死神についても*デビルサバイバーの前例があるにしろ*"当たる由もない極低確率のガチャ限定追加"とした設定自体が、相当に馬鹿げていました。)
また、年内に修正予定であったベルゼブブ、ロキ、ケルベロス、アバドン、ホクトセイクン等の、加護アーキタイプ覚醒スキルの改善について、告知すらなく延期されている事にも強い不審を覚えます。
セガにおける現体制はメガテンシリーズの開発運営に不適格なのでは無いか?と、プレイ歴の長いシリーズファンほど首を傾げていると思います。
自分がここで強調したいのは、数々の利潤追求に由来する障害があってなおプレイしている現ユーザーは、多かれ少なかれ、いずれ追加されるだろう悪魔が、それぞれ現時点では未実装であっても、以前からのお気に入りキャラが『旧来シリーズから大きく外れない形で追加されるだろう事』に期待しているからーー
言い換えれば、"セガがメガテンに対して真摯に向き合って行くだろうと信頼している"から
ーーこそ、プレイを続けていられるのだという、この一点について、決定権をもつ上層部から現場のスタッフに至るまで全員に、改めてきちんと理解して欲しいという事です。
ついでに書かせて貰えば、d2メガテンに限った話ではありませんが(FGO課金に関する記事が記憶に新しいです)
当たる筈のない無茶な極低確率をユーザーに押し付けておいて、それに乗るかどうかは自由に選べるのだから問題ないのだとする、この姿勢自体が、詐欺的な悪徳業種の手口そのものなのですから、一般的な社会通念の持ち主には「傲岸不遜な運営姿勢だ」と受け取られそっぽを向かれるか、「気づいた時点で即座にアンインストールされて当然」の無茶な設定値であった、という根本的な問題について、真っ向から向き合うべきでは無いでしょうか。
旧来からの信用を切り売りして燃料とする商法を良しとするなら、スクウェア・エニックスと全く同じではないですか? 自分は彼らが大嫌いなので、セガがセガである由縁を見たいです。
追伸
以上
プレミアムフライデーに相応しいプレミアムな話題を。
家電量販店のチラシ眺めてたら「プレミアム冷蔵庫」なる表記が目についた。
冷蔵庫がメーカー問わず「プレミアム冷蔵庫」と、プレミアムの付かない「冷蔵庫」に区分されている。
同じチラシの他の家電を見ると、
「圧力IH炊飯器」と「IH炊飯器」と「炊飯器」であったりと、その区分が意味するところは理解しやすい。
価格か?
しかし、洗濯機や炊飯器は高価なモデルであっても「プレミアム洗濯機」や「プレミアム炊飯器」とはなっていない。
容量か?
チラシの中の非プレミアム「冷蔵庫」で最大のものは475L。一方、「プレミアム冷蔵庫」で最小は502L。
2者を分けるラインは500Lあたりに有るのだろうか?
もしかして私が無知なだけで、家電業界に於いては「プレミアム冷蔵庫」の定義は自明なのであろうかと思い、
それどころか「プレミアム冷蔵庫」を称す430Lの機種が見付かり、500Lライン説が退けられることに。
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。 」
日本国憲法第31条に明確に規定されているこの言葉は、いくらか人によって解釈が違う。例えば刑事罰に於いて犯罪者に対し口頭での罰や晒し刑などは当然存在せず、また誹謗中傷の類は生命或いは自由を奪うものではないとして、ネットリンチを正当化するものがいる。(ただし31条に関係なく名誉毀損罪として訴えられるケースは多々ある)不倫報道が出れば当たり前のようにネット中で罵詈雑言が書き込まれ、しかもそれが正義などと囃されたりする。
何度も人に言ってきたことだろうが、上記の通り法律の手続きなくして個人個人が他者を不当に罰することは法律上認められるものではないことを忘れている人間が少なからずいるようである。ネット私刑と言ってネット上での私刑行為を問題視する動きもあるが、時折それはネット上でのみ私刑が行われるというような、問題をある概念に閉じ込めてしまう不可思議なロジックを感じることがあるためここに明言しておきたい。ネット以外でも私刑というのは存在する。
姦通が行われて、復讐のために一方が他方を害するというのはときおり聞く話である。(弁護士局部切断事件((某大学の法科大学院に通う青年が、妻の浮気相手である男の局部を切断した事件))が一例)ただ、この場合は強姦されたと勘違いした男側の凶行だったそうだが、率直に言って、強姦であっても私刑が認められるということはありえない。強姦だから、大切な人を殺されたから、自分の尊厳を著しく傷つけられたから……感情的には理解できる理由だし、被害者の権利などを損なうつもりもなく、また加害者を守ろうという意志もない。ただ私刑がいけない。というより、これらは私刑でもなんでもなく明確な「犯罪」である。当然、それを行った人間は(さらにいえば、そこが正当な法治国家であるなら)他の犯罪者と同様に裁かれる。
ただし、裁判において情状酌量がないわけではない。例えば尊属殺重罰規定違憲判決(実父殺害事件((実父から恒常的に性交渉を迫られて、父との子供まで出産し夫婦同然の関係を強いられていた女性が父親を殺害した事件)))のさいには被疑者側の事情や心情などを斟酌して、合憲違憲の判断に関わらず、すべての裁判所が能う限り量刑を軽くする方針を示し、その過程において尊属殺の法令を見直し違憲に至ったという事例があるし、平たく言えば、裁判官だって鬼ではない。同じ犯罪であっても同情の余地がないものは重刑となるし、上記の通り減刑されることもあるだろう。
一体なにが言いたいかと言うと、被害者、あるいは被害者親族と加害者間に於ける私刑は、それが行われた時点で法律上明確な「犯罪」として認識され、刑法に則った判決が下されるということ、第二に、私刑という観点からのみ指摘できる事由ではないこと、第三に一般的にそれは個人と個人との事件であるということである。親族を殺されたものが復讐のために加害者を殺せば当然罪に問われるし、そのさい殺害に至った様々な問題(メディア・リンチ、経済的、精神的な救済の不十分)が見直される。さらに言い及ぶなら、すべての復讐殺人などをなくそうというのは極端に言ってすべての犯罪をなくそうと言うようなもので、私刑のような一義的観点から捉えられるものではないものの、明確な「悪行」として判断できる事由として扱える。
栃木実父殺害事件がどれだけ同情の余地があろうと無罪になることは決してない。あの京都認知症母殺害心中未遂事件でさえ、刑は執行されたのである。さきほど法律は鬼ではないと言ったが、だからといって温情に充ちているわけでもない。設けられた基準の範囲内で酌量するだけのことである。
ところが、第三者がアジテーションの如く私刑を推進したり、「この事例に於ける私刑はいいけど、この事例に於ける私刑はダメ!」などと何故か私刑を差別化しているような人間をままみる。全部駄目だ。
ネット以外でも私刑があるとは言ったものの、それが私みたいな一庶民にまで広がってくるツールはだいたいネットで、こんな日記を書き出したのも「不倫をしたやつにはこうしてやれ!」という攻撃的な文体とともに男性器(おそらく偽物と思われる)を女性がジャンプして踏みつけ続けるという奇天烈な動画を見てしまったからである。最初も私は「なんだ、過激なジョークだ」と笑っていたが、それに寄せられた一連のコメントを見ても冗談ごとではないようだった。しかも動画を投稿した人の(動画自体は拾い物らしいが……)発言が「女の方が男より二倍浮気をしやすい。だから、女が浮気したときは熱した金属を流し込め」などというもので、ひどく戦慄した。もちろん、こんなものは広いネットの世界におけるごくごく一部の一例にしか過ぎない。だからネット上、引いて現実でこのような復讐が認められているなどとは思わない。
けれども、どこかしら皆「悪人なら攻撃したっていいだろう」と思うところがあるかもしれない。しかし、それは間違いである。どんな理由があるにせよ悪行は悪行である。「あいつムカつくから攻撃してやろうぜ」というのと全く変わらない。いじめられる方が悪いなどと言って逃げる場合もあるが、いじめ自体が悪いということに変わりがない。どれほど正当化したところで絶対の誤りである。
世間は非常に大きなうねりを持った流動的な性質があるので、一個人の考え方だけが改まってもしようがない面がある。だからこそ線引が難しい。私刑を撲滅したいからと言って一人ひとりの言論や行動に政府や法律が過干渉すれば、それはディストピアである。ただ、逆説的に言及すると、ディストピアにせざるを得ないような民衆が力を持っているのも考えもので、人によっては、ある程度制限された世界のほうがずっと平和のように思うかもしれないのである。それはネットによって個人個人が情報発信能力を持つことで、なんの権力も地位ももたない一般人も、言動や論理性、道徳的な真偽など情報発信するものに必然の悩みを抱えなければならないからこそ、より切実に考えられるべき問題なのである。ネット私刑なんてものは、人々が出す機会もなかった攻撃性や偏狭な視点が顕在化した結果生まれる単語であり、その本質には一部の人間が私刑を……もっと悪質であれば、自分のストレスの発散のために他人を陥れることを良しとしていることにある。それに対抗するためには、その考えを持つ個人を糾弾するのではなく、その考え自体を批判しようという姿勢が大事だ。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉には深い含蓄が込められており、この私刑問題を考えることによって再確認することができるだろう。
こういうことを聞いて少しは反省するもの、この考えに肯い「そうだそうだ」と声を上げるもの、犯罪者がいるなら石を投げるのが正義だと考えるもの、いろいろいるだろう。もしこの文章を見て少しは私刑を改めようと思ったとき、こういう風に考えてみてほしい。
「自分は知らず知らずのうち、こうした行為をやってしまってはいないか」と。
私もそうするようにしている。これは悪いんだなー、なんて悪いやつだ、と考える前に自省する。これがとても重要である。窃盗をしたものを馬鹿だと笑ってみても、よくよく思い出せば幼少期に、冗談ごとで済まされたとは言え窃盗じみた行為をしていたかも知れないし、いじめは良くないと憤る人が、いじめまがいの行為を無意識にしてしまっていたということもありうる。罪を犯さない人は理想的だが、そうそうそんな人は現れない。ぜひ、私刑を嫌う人も考えてみてほしい。「私刑を嫌った結果、私刑を行う人々に、また私刑じみた行為を働いてはいないだろうか」。殴る、蹴る、罵詈雑言を吐く、情報が消えづらいネットに個人情報を流す、ありもしない話をまことしやかに流布する……。こんなものはすべて私刑である。
余談だが不倫事件で話題になったベッキーと川谷絵音氏の事件で、ネット上に不倫が許せないあまり過剰な罵詈雑言が散見されることに苦言を呈していた増田へ、「不倫したいからそんなこと言うんだろう」とか「不倫しなきゃいいじゃん」とか、「人の性だから仕方ない」とかいうコメントがつけられていて驚いたことがある。きっとあの増田にとっても予想外のコメントだったと察されるが、それらのコメントを見てどのようなことを思ったのだろうか……。
陰茎重複症(いんけいちょうふくしょう)、又は二陰茎体(にいんけいたい)とは、男児が2本の陰茎を持って生まれる疾患である。
極めて稀な障害であり、ヨハネス・ヤコブ・ウェッカーによる1609年の最初の報告から、100件程度の症例の記録しか無い。
殆どの重複陰茎は同じ大きさで隣り合って位置しているが、一方の上に位置する場合や、一方より際立って大きい場合もある。
この稀な症状は豚やその他の哺乳類でも記録されている。
陰茎重複症は医学的状態であり、選択的手術としての身体改造である陰茎分割と混同してはならない。 陰茎重複症の男性が、両方の陰茎を使い素晴らしい性生活を送る多くのケースが存在する。 陰茎重複症の男性のうちのいくらかは、女性のパートナーとの間に子供をもうけている。 陰茎重複症の父親を持つ男児の多くは、通常の陰茎を持っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E8%8C%8E%E9%87%8D%E8%A4%87%E7%97%87
聚楽第なら秀次生存ルートかなと嬉しくて舞い上がっていたらフォロワーさんに破却されていない聚楽第という情報だけで秀次天下と捉えるのが分からないと言われたので、徒然なるままに三分を書かせてもらいました。
分かりやすさは放棄しておりますのでお許しください。また、あくまで妄想ですので批判等はお控えください。
1.聚楽第とは
聚楽第とは豊臣秀吉が天正15年(1587年)9月に京都にて完成させた建物であり、文禄4年(1595年)7月に秀吉自らの手で破却させている建物である。その期間四年余。その為、建物自体は現在に残ってはいないが、聚楽第図(広島市立中央図書館所蔵蔵浅野文庫『諸国古城図』)を始めとする絵図や京洛の社寺などには移築したと伝わる建物などが存在する。
元より聚楽第という名は楽しみをあつむるやしきと言う意味であり、宣教師ルイス・フロイスは聚楽を快楽と歓喜の集まりを意味すると記している。見た目も絢爛豪華で…と語っており派手好きな家康の片鱗を垣間見ることができるだろう。見目を伺うために伝わっている平面絵図がいくつか存在する。例を下記に連ねる。
②尊経閣文庫本
③三井文庫本
①〜⑤は周囲の大名屋敷の名称にバラツキはあれども構造が似通っているものである。⑥は後世の天保14年になり名倉希言が作成し明治17年に書写されたものになる。⑦〜⑧は景観を描いた屏風になる。それぞれの内容や絢爛さなどは自らの目でお確かめください。そんな聚楽第の意義とは一体何だったのだろうか。桜井成広氏の『豊臣秀吉の居城』及び中井均氏の『聚楽第』にて述べられている①京都に於ける政庁の役割であったと考える。しかし、秀吉は政治に関して大阪城と聚楽邸を行き来していたことがある。中井均氏はこれを聚楽第は公家としての居城であり、大阪城は武家としての居城であると書いている。
聚楽第が破却になったのは文禄四年の秀次滅亡後の秀吉による破壊である。
秀次の死は切腹であったが、それは秀吉によるものである。秀次は秀吉に謀反を企てているとあらぬ疑いをかけられ、関白の座を追われて高野山に追放。高野山を人質に切腹を迫られたためせざる得なかったのである。これは秀頼誕生後に相続問題から疎遠になり秀吉との仲が冷却されたとともに目立つようになった不謹慎な性行なども関係していると考えられるだろう。更に秀吉は親族の切腹まで命じており、元より秀頼を溺愛していた秀吉の秀次の謀反に対しての怒りを感じる。そして、秀吉は譲った聚楽第を破却。縄張り意識を中心に考えると、歴史上から秀次を完全に消し去ろうとしたといえる。
2.天正15年(1587年)9月〜文禄4年(1595年)7月迄に起こった歴史的重要点
今回のイベントに於いて歴史修正されたのは豊臣秀次の生存であり、ひいては豊臣政権の存続だと考える。
まずこの4年間に起こった大きな歴史的要項を挙げよう。大きな出来事のみの抜粋は天下が歴史修正に置いて影響すべきところを考えたためである。
①朝鮮出兵
それでは順に述べていこう。
①朝鮮出兵
朝鮮出兵は聚楽第存在時にあった秀吉が行った大きな出来事である。大陸の領土拡大を目指し、進行したものであるが敢え無く敗北している。歴史改変をする事が出来る場所とも考えられますが、否定として「歴史改変された聚楽第」と本家PVで言われていることをあげる。この“された”と言う言葉には「何かしらの作用や影響を受けているさま(weblio)」であり、この場合、影響をうけているのは聚楽第であり、朝鮮出兵は直接関係がないのでこの案は没になる。
(飛ばしてくれても構いません。閑話休題に余談ですが、憶測に過ぎないものであり、またステ本丸の出来事のためあくまで私的な妄想の範囲を出ない考察ですが、舞台刀剣乱舞において歴史修正主義者が関わる場面は必ず天下が関わってる気がします。それは、歴史修正主義者は人の強い思いと呼応して呼ばれている(と個人的に考えている)ので、朝鮮出兵は関係ないと思います。歴史修正主義者も刀も人の思いに応え現れてくれる。代わりに見る人によって善悪が変わる世界です。聚楽第において正史側の審神者と刀は歴史修正主義者になってしまう…。つらい。話を戻しましょう。)
②秀次切腹事件がなかった世界。用に謀反の疑いがかけられなかった世界。理由としては前項で述べた聚楽第が歴史改変を受けていると言うところが大きい。まず聚楽第が存在したのは4年間であり、大きな出来事といえば
しかない。その為、聚楽第が直接影響を受ける可能性があるのは1595年と考えたい。また、聚楽第が影響の象徴となるならば存在がある事が歴史改変であるとも言える。