はてなキーワード: 拡散とは
摂取したらマスクつけなくて良いって5月に決まってたアメリカだけど
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210724/k10013156321000.html
https://news.nifty.com/article/world/korea/12211-1166769/
ロサンゼルス、ニューヨークに次ぐアメリカの3大学区シカゴが、コロナ再拡散により来月から始まる新学期のマスクの着用を義務付けることにした。
昨今、容姿が本職じゃない人の容姿に強く焦点を当てる言説(ルッキズムは言葉の定義がぶれるのでできれば使いたくない)はそのニュアンスの正負を問わず批判の対象となっている。はてなでもそうなのでこの前提は共有してもらえると思う。
で、私も素朴にそう思ってたんだけど、今日ちょっと疑問が生じて色々考えてみた。
「xx(競技名)のyy選手めっちゃ可愛い……(画像4枚)」みたいな。今日のTLにはこんな感じで色々な競技の色々な選手のものが流れてきた。
念のため言っておくと私はそれらの意見を肯定も否定もしていません
本題
①容姿に着目することは人格や本職を無視することを必ずしも意味しない。
これ系の話題でよく見るのが「人格を無視した性的消費」みたいな非難。
しかし、例えば私が実際に見たツイートなんかは「名前」「競技名」がきちんと記されていて、選手本人を容姿から置き去りにしていない。(理想を言えば「世界ランクがヤバイ」「zzの技術がヤバイ」なんかの情報や感想があるのが一番いいのかもしれませんが。)
②「jobとabilityはどのような関係にあるのか?」
例えばあるプロスポーツ選手が良い環境でトレーニングに専念したり家計を成り立たせるためには、単にその競技の実力・実績があればよいというわけではない。賞金や年俸がヤバイ一部の競技のトップ選手を除けば、多くの選手は企業勤めをしたりスポンサーを獲得して仕事や支援を受けたりグッズ収入を得たりする必要がある。これらの収入は金メダルの賞金500万円と異なり、競技の実力によってのみ得られるわけではない。
このとき選手の競技能力以外の要素を肯定的に拡散することは不正義となるのか。スポーツ選手に限らず一般企業の社員やアーティストやは?容姿に限らず知性や人格や逆?
上でも軽く触れたが、選手の人生は競技に限らない。競技者を容姿(など競技と関係ない部分)で称揚することが悪であるとした場合、その人間が「選手」でない瞬間であれば容姿に触れても良いのか?ある人が職業人である瞬間とそうでない(あるいは別の職業人である)瞬間はどのようにして区別されるのか?
例えばスポーツ選手の中にはモデル業を兼任している人がいる。モデルの仕事もスポーツと同様に全身が商売道具なわけで、体のメンテナンスには多くのコストをかけるという。「本番」「トレーニング」「コンディション調整」の時間が必要でありそれは食事や睡眠まで含めた24時間の大部分にわたる……となるとそれはもうそれぞれの状態が一人の人間の中に同居していることにはならないだろうか。
他者を評価する際相手の属性によって触れることが適切な項目とそうでない項目が変化するというなら、どの項目がどの属性と結びつくのか、どの瞬間にどの属性を有する状態となるのか、その辺の議論ってどこかで体系化されてたりするんですかね
あと私の頭がパンクしたので今回触れませんでしたが、そもそもいついかなるときでも他者の容姿に言及すること自体が不正義であるという主張も当然あると思います。(それはそれで能力主義等との検証が必要になるとは思いますが……)
0と1で構成されたインターネットが編み出す表現力は、人智を表現するに十分ではなかったし、
多くの人々が持つ人智への解像度は、インターネットの表現力よりも低かったという結論。
Twitterに関していえば、言語と画像・動画のみで構成されている。
私個人の認識として、人々が他者へ何かを伝えるには言語化が必要となるが、
言語化は他者との共通ルールに自分が認識している何か(以降、"認識"と表記)を落とし込んでいる。
したがって、言語化を行う過程で、"認識"の解像度を言語的限界へ下げている。
この上で、高精度に情報の伝達を行うには、言語を学ぶ必要が出てくる。
一方で、言語を学ぶことは"認識"におけるルールの追加である。
ルールの追加を行うことで、"認識"の解像度を下げる代わりに言語化が実現する。
したがって、言語を学ぶことで、何人も世界への解像度が下がっている点に注意されたい。
では、この言語化を実現する能力が違う人がSNSで出会うと何が起こるか。
(以降、言語化を実現する能力が高い人を"高位者"、能力が低い人を"低位者"と表記)
"高位者"が言語を用いて"認識"の発信を行った場合、"低位者"にとってその情報は、
"低位者"の言語化能力を凌駕した次元で"認識"が言語で表現されている。
"低位者"は"高位者"によって発信された"認識"を自己の"認識"と錯覚してしまっているのではないだろうか。
そして、SNSは"高位者"による情報の発信を"低位者"によって拡散する機能が搭載されている。
結果として、インフルエンサーのような"高位者"が誕生し、"低位者"は"認識"の言語化を"高位者"へ依存していく。
上述のように、インフルエンサーを十把一絡げに括ることができるかは不明だが、
更に言えば、SNSでこういった"高位者"による"認識"を摂取し続けることで、
自身のTLに耳障りの良い情報が溢れ、共感できるようなツイートが多く流れるようになってきた時、
自身の言語化能力はSNSによって並列化されてしまったと言わざる得ない。
本来、100人いたら100通りの"認識"が存在する。しかし、現代のSNS上においてそれは実現し難いと言わざる得ない。
SNSは、他者の言語化された"認識"しても尚、自分の"認識"との差異を捉えられる人だけが扱うべきツールだ。
「陰惨な、しかも障害者へのいじめということもさることながら、分別がつくはずの大人になってから、それを面白おかしく語ったことでアウト。その後、何の謝罪もなく、この期に及んで謝罪したところで、世間は納得しないでしょう。税金が投入される公のイベントに名前を連ねるのが厳しいのは当然」
https://news.yahoo.co.jp/articles/491b5e1678db42f406a7f072365f21ed5153706f
おまえへの反論
よって、何も知らない第3者のお前が語る主張の方が偏りよろしく主観的である。
(北尾氏は自業自得といってるし、「小山田圭吾と村上清は悪くない」とは結論づけてないだろ笑)
(2)26年前の過去の記憶を辿って推測するしかないのは当然であり、
良い解釈もなにも拡散される内容と自己の記憶とイメージの乖離があるから本音を語ってるだけ。
「M氏」と表現するのは、炎上と攻撃が続く中で芸能人でもない名前を公表することは控えておこうという
プライバシーへの最低限のマナーとか配慮かもね。(悪意持って都合よく切り取り攻撃される恐れもあるからね)
「デビルマン」については、理性と冷静さを失ったお前らのような身勝手で独りよがりな怨念が、
あのデーモン達のように小山田に集中砲火を浴びせているこの惨劇を例えているんだろ。
(3)お前は当時のライターじゃないだろ?そしてその界隈にすらいないだろ?北尾氏以上に村上氏の何が語れるの?
あと、拡散されている「孤立無援のブログ」については、確かに切り取りと巧妙な順番の入れ替えによって
悪意ある印象のミスリードが行われているのは明らか。北尾氏を批判する前にまずそこ認めろよ。
(どうせお前もあのブログに乗せられて被害妄想膨らませて叩いてたんだろ?)
(4)「既成事実化」って単語ばっか使ってうるさいけど、適切じゃないから使うのやめろ。
北尾氏の内容は、状況を見てあの記事が書かれた経緯を「推測」しているだけ。
美化してるというよりも、書き手にそういう意図があったのだろうとプロ視点で解釈してるだけだろ。
実際に北尾氏のブログが出る前から、原文読んだ勢からもそういう意見あったし、自分も同じように捉えていた。
(5)はぁ、、しょうもな。村上氏はいじめられていた側だよね?
この「いじめ紀行」ってのは、いじめられていた側の視点から生まれた企画なんだよ。
当時もいじめはアウトだし、「いじめ自慢」なんか小山田サイドからしたら断られるはずなのに(現に最初は渋っていた)
許可した背景には、村上氏なりの強いコンセプトがあった。それを小山田も受け取ったからあの記事ができた。
「いじめ紀行」の冒頭でも、世間はいじめは悪と言いつつ綺麗事ばかりで、
世の中からいじめが無くなることはないというようなことが書いてるだろ。
だから村上氏なりの視点でいじめ問題を紐解くきっかけを模索していたんだろ?
「いじめっ子といじめられっ子の対談」という手法は見る角度によっては悪趣味で間違っていたし、
いじめはエンターテイメントだと自虐的に表現しながらも、決していじめを肯定しているような企画ではないんだよ。
当時の鬱屈した社会の中で、未熟なライターがデビュー記事であの小山田圭吾と過激だけどかつて誰もやっていなかったことを企画して実現しようとしていた。
その熱い思いに小山田も動かされた。結果的に考えが甘く、いじめられっ子との対談企画も失敗したわけだが、
2人がやろうとしていた実験的試みは、露悪的だけどほんの少しだけ社会に風穴を開けるきっかけになったのかもしれない
(今は違う形で穴をあけてるが、、)
そういったものをライター目線で振り返れば宝石と例えてるだけ。お前のサブカル偏見で単純化するな。
(6)当時を知る北尾氏の証言と推測が出てきてくれたおかげで、一部だけど冷静な意見もでてはきていて、
少しは全国民が共有してしまった「鬼畜いじめ妄想」を止めるような方向へ進んだようにも見える。
が、同時にいまだお前のように被害者を傷つけたーとか妄想を繰り広げ、拡散を助長するようなバッシングを続けるやつもいて、
逆に独りよがりのお気持ち正義マンをあぶり出してくれたのかもしれない。悪態ついているブコメとか見るとよくわかるよ。
北尾氏には感謝としか言いようがない。ある意味、北尾氏から村上氏へバトン。
このアンフェアで建設的じゃない状況から早く脱して前に進めということ。
元ラーメンズ・小林賢太郎が、過去に行ったお笑いコント公演の中でナチスによるユダヤ人虐殺をジョークのネタにした事が発覚し、この情報が海外にも拡散してサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)の知るところとなり、東京五輪開閉会式の総合演出担当を解任されましたね。
小山田圭吾の障害者虐待が世間一般に広く認知された結果、小山田が東京五輪開閉会式の音楽担当を辞任した際には、一部の人間が「90年代には、悪趣味・鬼畜系カルチャーが存在を許されていた、時代の空気が存在して云々」と小山田を擁護し、それに対して町山智浩は「小山田圭吾は悪趣味・鬼畜系とは無関係(だから、自分[町山智浩]たちには責任は無い)」と反駁しました。
ラーメンズは悪趣味・鬼畜系ではないと思いますが、間違い無くサブカル領域に属する芸能人です。また、今回問題視された90年代半ば当時の彼らの芸風が、当時の、いや、今もサブカル界隈に根強く蔓延る「不謹慎なことを言う/するのがオモシロイ/カッコイイ」と云う風潮の下に成立していたことも明らかでしょう。そして、この風潮を作り出すことには、旧体制『映画秘宝』界隈も関与していたと言えます。たとえば『キネマ旬報』の編集部を襲撃して同誌の編集部員に暴力をはたらいたことを、町山智浩はパイ投げ事件などと称して矮小化して面白おかしく笑い話扱いしていますが、アレは「言論の自由を脅かす暴力事件」以外の何物でもありません。しかし、サブカル界隈の身内贔屓の体質は、町山智浩の仕出かしたことに対して真摯な批判や反省を行うことを忌避する道を選びました。昔から、サブカル業界人は身内贔屓が大好きで、これは松江哲明の性的強要・搾取にダンマリを決め込んだのを見ても判るように、今も変わりません。
ラーメンズがお笑いコントの中でナチスのユダヤ人迫害・虐殺をジョークのネタにしたことに関して、擁護として「米国のサウスパークや英国のモンティ・パイソンもジョークのネタにしているのに、何故、彼我に批判の差が有るのか?」と言う人もいましたが、個人的には、連合国側の人間と枢軸国側の人間では、それをジョークのネタにする資格に差が有るのではないかと思います。何か死傷者を伴うような事件があって、それをジョークのネタにするのは、被害者の親族が言うならまだしも、加害者の親族が言ったらアウトになるのと同じです。
一般的な傾向として多くの日本人は、自分たちが枢軸国側であったこと、戦時中にはナチス政権ドイツと同盟国だったことについて、自覚が稀薄だと私は思います。だから、ナチスドイツをポップカルチャーの一部として、エンターテイメントとして、カジュアルに消費するのだと思います。
さて、エンターテイメントとしてナチスドイツの残虐行為を楽しむといえば、長年に渡って率先してそれを実行し続けてきた人間が、旧体制『映画秘宝』に1名います。ナチス強制収容所ネタのエクスプロイテーション映画が大好きと公言し、自ら「所長」と名乗ってそれらの作品の"素晴らしさ"を布教している、赤毛で入れ墨だらけのオジサンが1名。そう、高橋ヨシキです。高橋は、間違い無く、悪趣味・鬼畜系の範疇に属する人間です。高橋ヨシキによる布教活動は、日本において「ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺を、カジュアルに楽しんで消費しても許されるのだ」と云う風潮を作ることに寄与し続けてきました。
もちろん、高橋ヨシキの存在や布教活動が、ラーメンズを生み出した訳ではないでしょう(ラーメンズのネタの公表よりも、高橋ヨシキの布教活動開始の方が時期的に後だと考えられますし、世間的に認知されたのも、ラーメンズの方が高橋ヨシキよりも先でしょうから)。しかし、ラーメンズのネタが世間に発表されてしまった後、長年に渡ってそれが見過ごされたのは、観客である一般人たちの中に「コントのネタなのだから(批判するのはおかしい)」「たかがフィクションのネタに何をマジになってるの?」と云う間違った考えや言い訳の口実が存在したからです。これは、ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺と云う出来事が"エンターテイメント・コンテンツ"として、誤った"市民権"を獲得していたからでしょう。そして、高橋ヨシキによる「ナチス強制収容所エクスプロイテーション映画は素晴らしい!」という布教活動は当に、その誤った"市民権"を獲得するための活動でした。だから、次のようには言えると思います。
「高橋ヨシキによる『ナチス強制収容所エクスプロイテーション映画は素晴らしい!』と唱える布教活動は、ラーメンズのネタの"誕生"には影響を与えなかったかもしれないが"生存"には影響を与えたであろう。したがって、その点については、高橋ヨシキ及び彼に同調した人間に責任が有る」と。仮に時代の空気と呼ぶべき何かが有ったとしても、それは勝手に生まれたのではなく、それを意図的に作り出した人間がいるのです。この場合、それを作り出した人間の一人は、間違い無く高橋ヨシキです。
SWCの人たちも驚愕するのではないでしょうか。21世紀の日本で、ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺をネタにしたエクスプロイテーション映画を「面白い!素晴らしい!」と公言・賞賛し、他人にも観るように推奨活動している人間が存在して、しかも堂々とメディアに登場し続けていると知ったら。誰か英語が得意な人がいたら、高橋ヨシキがしていることをSWCに報告すると良いかもしれませんね。もしもそうなった時、町山智浩はSWCに対して「悪趣味・鬼畜系カルチャーをやっていたのは、電通・ホイチョイ・フジテレビに対する対抗心が有ったから」と弁明できるのでしょうか。見ものです。
それと、SWCといえば思い出しましたが、長年に渡る町山ウォッチャーならばご存知のとおり、過去に町山智浩自身が他人に対して「オマエのことSWCに通報しといたからな」と言ったことがありました。その矛先が自分の近しい人間に向けられた時、町山智浩はどうするでしょうか。
この投稿は以上です。
ほんと、拡散するメディアも影響力ある著名人、そしてここで偉そうに叩いている小山田批判者たち
誰ひとり原文読まずにあそこまで炎上させたことは猛省するべき。
あの時代背景や嘘か本当かもわからん雑誌記事など様々な観点から冷静に検証すべきであり
「障害者を全裸ぐるぐる巻きしてオナニーさせてウンコ食わせてバックドロップした」という
お気持ち正義マンが世界を巻き込んで激しく叩いている方がグロテスク。
ネットで拡散している「ぐるぐる巻きにしてうんこ食わせた」という部分は
クイックジャパン記事で書かれている村田くん(仮名)との修学旅行についてのことなんだろうな(増田では7と8のページ)
『Quick Japan』95年3号 「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」 8
https://anond.hatelabo.jp/20210721001207
クイックジャパンでどう書かれているかというと、修学旅行でなぜか小山田、村田くん(障害児)、留年した怖い先輩の3人で班を組まされ、宿舎で村田くん相手にプロレスごっこをして(小山田の立場で)じゃれていると、先輩が入ってきて村田くんをぐるぐる巻きにして好きな女子の名前を言わせながらオナニーさせたからドン引きしてしまった(笑)とある。小山田本人の行為ではない。ウンコ食わせたという事実があるのなら、それをやったのも先輩なんだろう。
障害児童との修学旅行といえば↓の話が思い出されるが、はてな民はこれと自分の感想比較してくれ。教室から障害児童を排除すべきか、排除するなら子供はどこで障害者と接して多様性を持つことができるようになるのか。生活の場で接しなければ障害者はテレビの画面越しで見る架空の生き物と同じだしね。
[B! 教育] 泡盛とらこ(心ない介護職員) on Twitter: "中学生の子ども(女子)が、 修学旅行をキャンセルしました。 実行委員長兼班長でしたので、 田舎の中学では前代未聞の事態。 私も何度も担任と話し合いました。 キャンセルの理由は、 「まったく交流のない障害学級の男子(保護者意向で診断… https://t.co/QegfQmAhbh"
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/torakoawamori/status/1411113159046270980
(村田くんをロッカーに閉じ込めてガンガン蹴ったり、日常のイジメ行為もクイックジャパンで告白されている)
小山田はもう1人の障害児の沢田くん(仮名)については良い思い出のように語っており会いたいとも答えているが、村田くんとはそうではないと言っている。
もう1人、朝鮮人の生徒をからかっていたとネットで拡散あるが、クイックジャパン記事では「家出したならうちに泊まりに来い」と小山田が誘って実際に泊めてあげており、いい思い出としか書かれていない。
最近のテレビの話題といえば、コロナかオリンピックかの2択だろう。
そして今日1日においてのオリンピックの話題といえば小林賢太郎さんの解任問題だろう。
私は現在、四捨五入すれば20歳の年齢である。彼の1番輝かしかった時代をリアルタイムで知ってるわけではないが、私は彼が、ラーメンズが、大好きである。オタクなら誰でも“千葉滋賀佐賀”のネタは辿りつくものだろう。私もそのオタクのうちの1人なのだ。出会ってから好きになるのは早かった、ネットで動画を探しては見て笑い、気づけば帝王閣ホテル応援歌を口ずさんだりもした。
のちに大学生になった私はあのネットで見た動画は違法なものと知り今さらながら本公演や演劇作品、PotsunenのDVDを集めている。そのうち戯曲集もほしいなと思っている。
さて、上記の通り私は彼の作品のファンである。しかし、彼の人間性はイマイチ知らない。少しクサイ言い方になるが私は彼の才能に惚れたのだ。だから彼が問題を起こしても何をしても私が惚れた彼の才能というものがなくなるものではない。だからずっと大丈夫なのだと思っていた。
彼が芸能界を引退して彼の作品を見ることが出来なくなって数ヶ月、オリンピックの開会式のスタッフに彼の名前が並んでるのを知った。嬉しかった。彼の作品がまた見れる、と。
しかし、どうだ。作曲家は辞任、世間はその作曲家を痛烈に批判した。それ以前にもオリンピックの運営側の人間には少々問題があったり、コロナで世間は混沌としていた。次々に関係者は炎上や辞任……いつ彼に炎上聖火リレーが回ってくるのか気が気でなかった。しかし、もう開会式は目の前、今さらディレクターである彼が辞任される訳がないと高を括っていた。
7時21分金曜日午後11時頃、Twitterの某アカウントがラーメンズの“できるかな”というコントの切り抜きを上げ、批判した。動画は瞬く間に拡散されそのTwitterに投稿された動画は30分ほどで数千回も再生された。
翌朝起きてTwitterのトレンドを確認すると彼の話題で埋まっていた。あぁ、彼の名前がこんな形で広がっている………とても悲しい気持ちになった。
ここまで読んでくれは物好きの皆さんに念の為注意書きをしておくと、この文章は彼を擁護するものではない。(これは擁護しないという意ではなく、擁護するのが本題ではないという意味である。)
当然、彼の発言自体を擁護することは出来ない。あのセリフ自体を擁護するなら擁護した側のほうが言った側より問題である。
しかし23年前の、公式でYouTubeに上がっている訳でもないコントだ。9分あるコントの2秒もないセリフだ。
おそらく以前の作曲家の問題がなければ彼のこのような物は出てくることがなかっただろう。なぜこうなったのが。民衆がオリンピックに対して大きな不信感があるからだろう。どうにか粗を探して叩く。そういう流れになってしまったのだ。
何かを批判するのは楽しいんだ。自分の正義を振りかざして悪を糾弾する。まるで正義のヒーローではないか。だから悪いと思わないし、むしろ気分が良くなる。だから表面だけを見て叩く人や、オオゴトにしてなにか大きな力に圧制されるのを望む人も多く居る。
批判する投稿内容には「日本の恥だ」「こんなことが海外に広まったら…」なんて、世界誰にでも見れるSNSで書く輩が居た。
日本人が日本人の恥部を晒しあげて日本の印象を悪くする様子は滑稽でならなかった。
だんだん文章の収集がつかなくなってきたので結論へ移るとしよう。
私が何を言いたいのか。他人の揚げ足をとるのはやめにしないか?
悪いことを悪いというのはとても大切なことである。しかし、大人数がそれを行うのは大きな危険が伴うということは今までのあなた達の人生、ネットで起きた事件などで十分に分かっているはずなのだ。表現の自由はあるし、何を思うかは個人の自由だ。しかし、その思想が、そして思想に乗った言葉がどのような影響を与えるかは考えるべきなのだ。
今回のことでネット、SNSは世間に物凄い影響を与えることを私たちは学んだ。その上で上手く付き合っていくべきである。
蛇足だが、彼は過去を悔い改め徐々に笑いの形態を変えて行った。過去は変えられないけれど彼は未来を変える努力をしていたように見える。それがこのような形になってしまったのは残念な限りである。
例えば小山田さんは例の件が露見してからも音楽の仕事はできたけど、オリンピックで炎上したし、そのおかげでEテレその他も降ろされた
今後各方面で干されることだろう
小林賢太郎さんは小山田さんの件が無ければここまで掘られなかっただろうし解任も微妙なところだっただろう
そもそもラーメンズをやってた時にオリンピックで仕事するなど予想してなかったに違いないし、彼もこのコントのワンシーンなど覚えてないに違いない
暴かれるんだけど、大抵は注目度が上がった時に暴かれるし、注目度が高くなければ暴かれても痛手が少ない
そこにボーダーラインがあった
Eテレでは暴かれないし、オリンピックでも暴かれないが、コロナ下のオリンピックでは暴かれる
そこにボーダーラインがあった
その瞬間、タガが外れたかのように炎上して拡散して、元は大丈夫だったものも燃やし尽くしてしまう
出る杭は打たれるというか、出る杭はよく燃える
(3大関が優勝を競った今場所。誰にするか正直悩みました。→前回の【幕内】・【十両以下】)→【今回の十両以下】)
昭和時代やイオン、女装子などの例外を除き、森羅万象を罵倒して回る増田。自身の経歴からか、特に法や行政、裁判所を目の敵にしている。
何度も削除を食らっては毎回戻ってきており、かつての安倍botや低能先生に劣らぬ危険人物。
ここ最近は投稿頻度が若干低下しており、増田では影が薄くなっている印象もあるが、自分語りによれば殺害予告による二度の逮捕歴に加え、今なお各所でトラブルを起こしているらしい。
仮に事実なら、リアルでの迷惑度ではかつての低能先生に次ぎ、未だ他の現役増田の追随を許さない存在である。
文頭をスペースで空けるため、「字下げ増田」と呼ばれる(ごく稀に空けないこともある)。得意技は怪文書じみた判決文やセルフ精神鑑定。
異常なまでの自己顕示欲にユーモアが全く追いつく様子のない、THEクソ増田。人呼んで増田のチンフェ。一時期消えていたが復帰し、相変わらずくだらない造語遊びばかりやっている。
子供山笠(ポルノと認定しているらしい)・トーチトワリング・組体操などをやたらと敵視し、地方ヘイトを連発する増田。
何らかのネタがあるたびに地方叩きコピペの文面が次々と追加されていき、もはや落語の寿限無みたいなことになっている。
名前は自称だが、この名で呼ばれることはほぼなく、最初に噛みついた子供山笠から「アンチ山笠増田」「子供山笠増田」などの呼び名の方が有名。
他、音楽や教育に一家言ある通称「ピアノ増田」や「赤チャート先生」、少子化を理由に民主主義を否定し、中国の全体主義を称揚する増田など、同一人物疑惑のある増田が複数存在する。
どういうわけか発達障害の男女を「ハッタショ」呼ばわりし、異様に憎んでいる増田。
「イスラム国行け」「大使館に駆け込んで『僕をスパイにしてください』って言え」「B型作業所でハナクソ入りのパンとかクッキーでもこねてろ」などの表現がなんとも厨二臭く痛々しい。
パンティー
無駄に長い語りに過剰な自意識を挟んだクソエモ長文増田。ひとつバズると便乗して同じような長文が次から次へと湧いてくる、まさにゴキブリのような存在。
ナニがきっかけでそうなったか知らないが、男叩きや特定個人の誹謗中傷を目的としたTogetterのまとめを複垢で作りまくっては、それを増田やはてブで拡散しようと企む某ツイフェミ。
すでにTwitter/Togetter/はてブのいずれにおいても凍結や垢BAN、404化を経験している札付きの悪質ユーザーで、処分されるたびに別垢を取り直して復帰し、
ビョーキの人特有の執念深さを発揮している。まさにヘイトモンスター。ここまで足取りがわかりやすいのには理由があり、「Twitter」「Togetterのコメント」「ブコメ」「トラバ」
のそれぞれで一字一句全く同じ文章を使い回すという、なんともオマヌケな習性があるため。一時は自分のTwitterの男叩きをそのまま増田に垂れ流し、ツイ垢(後に凍結)を特定されていた。
はてブでも前述の通り、複垢利用で404化を食らった前科があるが、その後も次々とidを取り直しては404化という流れを繰り返している模様。
なお、最近ではPINKちゃんねるのえっちねた板などに入り浸っては削除依頼を連発したり、特定スレのまとめみたいなことをやったりしている。わざわざネットの臭いところにばかり首突っ込みたがる根性もアレだが、それにしてもなぜ今更BBSPINKなのか。
🍊
突然現れては規約違反を厭わずブクマカや増田をグッサリ刺してくる、通り魔のような増田。
左派・リベラルidや界隈の人物を叩くことが比較的多いが、他にも様々なものに噛みついており、思想以前に「バカが偉そうに語っているのが許せない」らしい。
超長文で口も悪いものの、文章のキレに関しては一定の評価を得ており、出てくるたびにブクマを稼いでいる。
うっかり変なブコメをすると長い追記で晒されボコボコにされるため、全く油断ができない。
なお、中の人は某idとの噂。実際、この増田と同様の主張をしているブコメがいくつかある他、近頃は増田への書き込みを公言する、おそらく本人と思われる増田に無言ブクマを残すなど、あまり隠す気もないようである。
最近、一連の投稿が「国語力増田」としてまとめられたが、おそらくハズレも混ざっているので注意。
「711」「R30のところにコピペしないの?」「いつもの地ならし」「○時まで寝ていたんだ」「見つかりそうか」「ということにしたいのですね」「おばさんはいいんだよ」などと、意味不明なクソリプを飛ばしてばかりいる。
「R30」というのはどうやら大昔のブロガーのことらしいが、そのブログは2008年に更新が止まっている。仮にこの人物であった場合、粘着歴の長さはもはや言語に絶する。そしておばさんというのはどこの誰なのか。
また「プライベートで○ブクマwww」「自演ツリー」などと、むやみやたらに自作自演を疑うのも特徴。
左右問わずこの手の人物にありがちだが、「自分の気に食わない奴は全員同一or特定の人物」という思い込みが非常に激しい。
id:Ereniおよびid:iteau両氏の名前を出すことも度々あり、本人の脳内では毎回特定の相手に粘着しているようだが、実際には明らかに政治や思想と無関係な増田に因縁をつけることも多く、結局のところ噛みつく基準は謎。
↑のカテゴリーで毎日のように、ほぼ全く同じ内容の投稿(JRに対する要求のような何か)を繰り返す増田。さながら昔の飯塚増田のような執念深さである。
何の話題でも強引に新自由主義叩きを展開し、毎度おなじみの長文を投下する。さながら青汁のCMのような増田。
反緊縮を唱えており、れいわや自民党の安藤裕議員などをしきりに推していたが、後者はいろいろあって次の選挙に出るか微妙らしい。
「女性は下方婚しない」を筆頭に様々な持ちネタを操る反フェミ系増田。キャリアも長く、反フェミの中ではおそらくこいつが最大勢力と思われる。
その名の通り私大理系叩きのコピペを垂れ流す増田。高専に比べて何一ついいことがないらしい。しかしあからさまに自演トラバしてるのはさすがにどうかと思う。
「ガイを○○するのはガイ」という定型文トラバを繰り返すクソリプ系増田。多様なバリエーションがあるあたりは昔の「ゴミを貼るな」に似ている。
こちらも「非モテの女は『いないこと』にされている」というのが大好きな青汁増田の一人。同様の主張をしているidがあり、現在もはてブで活動中。
左翼・右翼・ツイフェミ・老害など、とにかくいろんな集団の特徴をひたすら挙げている増田。
「ホモソーシャル」「アジア主義」「共同体主義」「パリピ」「団子鼻」など様々な用語を多用するが、それらの意味が合っているのかよくわからない。というか、なぜ団子鼻?
めぐみんに罵倒されたいらしい増田。他にも低能先生の語尾をパクりつつドM性癖を披露する「低能ドM先生」など、この手の増田が妙に多い。
以前は『コモンビート』という、ピースボートかそこら系のNPOのURLを添えていたこともあったが、これが規約に引っかかったのか投稿が全て消えたことがある。
潰れそうな企業などのネタを拾ってきては、デリヘルなどの風俗ネタとダジャレで締める、落語のような釣り増田。
「中の人っぽいネタ」「風俗」そして「ダジャレ」と、ブクマカの急所を気持ち悪いほどの正確さで突いてくる。
この手の釣りがあまりに乱発された結果、無関係な増田までもが「で、いつ風俗ネタに移るの?」と疑われるという、深刻な風評被害を及ぼしている。
その事件も糖質がやったとは言われなかったけど、漫画で描かれている程度の情報は報道されてたじゃん
まずそっちに抗議すべきでは?(報道機関に対してか事件を犯した本人に対してか知らんけど)
荻上です。ラジオのOPで、2、3分ほどのフリートークの時間があります。僕はそこで、『ルックバック』現象について簡単に触れました。
https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355
内容は、「『ルックバック』というすごく良い漫画が話題になっていた。漫画家クラスターなどを含めてさまざまな反響があった。「過去を振り返る」「前を向く」ことについて読み手に考えさせる作品であるが、打ちのめされたようなツイートをしている人も。詳細は、社会的な出来事に関わる漫画でもあり、触れるとネタバレになりそうなため、ひとまず読んでいない方は是非」というものです。
受け止め難い理不尽な出来事を前に自分を責め、「あり得たかもしれない別の世界」あるいは「イマジナリーな救済」に一時避難するが、それでもなお「自分の席」に座り直すというストーリー。主人公たちが過ごした時間をサイレント手法でリズミカルに描くことで、読者を、他者の感情の解釈や理解へと誘う力強い漫画だと思い、紹介しました。
ここで割愛した評の一つが、加害者のキャラクター描写についてでした。サイレントでも感情が豊かに表現される主人公描写に対し、加害者は悪魔化・患者化された記号として登場し、その背景は描かれません。もちろん、加害者の実相が主人公に理解可能かどうか、あるいは物語時間の中で必要な情報が取得できるかなど、物語の制約上の限界がそこにはあります。それでも、悪魔化・患者化された記号としての加害者描写は、本作がモデル漫画であるか否かに関わらず、幻聴に関連する特定の疾病群に対する偏見を助長する可能性は気になりました。同様の指摘は、複数の精神福祉関係者が行っています。
作中では犯人像について詳しく語られておらず、あくまでメディア上に提供された定型的な警察発表のみが紹介されています。主人公の浸る仮想or空想世界での犯行シーンは、実際におきた風景の再現にあたるものなのか、あくまで警察発表などの断片情報から作られた主人公の想像上のものなのかは、解釈に委ねられています。個人的には後者であるという理解です。そのため、作品そのものが「特定の病名について断定的な描写を行なっている」というより、「定型的なメディアの事件報道を描き、またそれを元にイマジナリーな加害者像を作り上げる主人公を描いた」という構図だと捉えています。
このような描写が、特定の精神疾患群に対して、「対話不能な凶悪犯罪者」であるというステレオタイプ的な読解を生み、補強しうるというのは、その通りだと思います。作中の描写が、「従来の事件報道が各種疾患へのステレオタイプを拡散してきたことの再現」であり、主人公もそのイメージをトレースしているからこそです。
そのことについての批評的注釈を割愛し、「ひとまず読む」ことを推奨するだけでよしとした判断の背景に、疾患に対する無理解や鈍感さ、語り手としての怠慢があるのではないかと言われれば、そうなのだと思います。僕のラジオ経由で漫画を知り、漫画を読んだということは、僕の発言に一定の信頼をおいてくださっていたのでしょう。それが不意打ち的に、当事者性ゆえの脅威を強く味わうことになったのは、僕の言論の責任だと思います。
なお一部のブクマやツリーでは、元増田氏の投稿に対して、疾病名に絡めて嘲笑するものも多くありました。そのような非難には賛同できません。また、面白い作品、読むことが強く勧められる作品であると感じたからといって(実際、「ルックバック」は優れた作品であると思います)、その作品への懸念や批判を一括して否定する必要はないでしょう。優れた作品も、推敲可能性が常に検討できますし、読者との応答を通じて描写が変化することもあります。「このようなレスポンスが確かにある」ということが読み手間で交わされることもまた、作品に対する同時代的な注釈にもなります。
*
ところで、同趣旨で荻上(および杉田俊介氏)を名指しする投稿は、ツイッター上の @YANA1952 ( https://twitter.com/YANA1952 )氏のアカウントでも行われていました。追記部分では、元増田氏とツイート主は同一人物であるように読めます。実際に @YANA1952 氏は、最初の増田投稿の17分後に、追記とされる増田については、投稿1分後に、ツイッターでそのURLをリンクしています。
@YANA1952 というアカウント名には見覚えがあります。以前は「矢那やな夫」( @YANA1945 )と名乗っておられたのですが、その後「障害者雇用の働き方」という名前に変わっていました。昨夜までも同アカウント名だったのですが、今日になって、IDを @CHL1952 ( https://twitter.com/CHL1952 )に、名前を「障害者雇用で働く人」に変えられました。
IDの推移
リネームが続いておられるので、 @YANA1952 宛、あるいは @CHL1952 宛にリプライした場合、再度リンク切れになってしまう可能性があると思い、増田にてレスポンスすることにいたしました。ウェブ上のテキストのみのコミュニケーションであるため、元増田氏、ツイート主含めて、どこまでその内容が事実であるのか、その当事者性がどういうものなのか、僕にはわかりません。ただ、特定の投稿の真偽や有無にかかわらず、補足・応答の必要は感じていたため、こちらに投稿したいと思います。
https://twitter.com/torakare/status/1417636459775811591?s=20
わたしは原文を読まずに拡散されている過激なテキストだけ見て怒り狂ってます、許せないんです、って正直に言えばいいじゃん。
「記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されておりますが、」と答えている点、
ロキノンとクイックジャパンの記事中で言ってることが食い違っている点
(ロキノンでは「自分のアイディア」と言っているが、クイックジャパンでは先輩がやっていて「ヤバい」と語ってるし、ウンコ食わせる描写はどこにも出てこない)
を考えると、ロキノンの編集サイドが過激さを演出するためにネタ的に盛っている可能性だって否定できないよね?なんでここを都合よくスルーするんだよ。
もし仮にウンコ食わせた事実があるのなら、いじめを詳細に語っているクイックジャパンでそのエピソードが語られていないはおかしいのだけど?
少なくとも、クイックジャパンを読んだ限りにおいては、小山田が障害者にウンコ食わせてオナニーさせてその上でバックドロップはしていない。
怒り狂う前に、事実なのかを本人たちに徹底的に追求するべきだろ。
小山田さんのケースみたいに大きな仕事をやる際に、過去の失言や失態を理由に炎上する事が増えてきた。
炎上させてやろうと普段から虎視眈々と狙っている人物にとって、ターゲットとなる人物が社会的に注目を集めている時は絶好の機会だ。
通常の炎上とは比べ物にならない社会的ダメージをターゲットに与える事ができる。
逆に言えば一定以上の社会的地位のある人物にとっては戦々恐々というところだろう。
記憶の片隅にすら残っていない様な過去の行いが火種となり、人々が共有する無責任な正義感に引火する事でとんでもない火力の炎上案件になりえるのだ。
それが因果応報と言えるかどうかはさておくとして、なんとかそうなる前に対処したい、防げるなら防ぎたいと考えるのが人情というものだろう。
全くなんの瑕疵も無い清廉潔白な人物というのはそうはおらず、過去を遡っていけば大抵なんらかのやらかしは見つかる。
過去の価値観ではさほど問題視されていなかった事柄でも、現代の価値観では致命的な過ちとして扱われる事もある。
炎上を仕掛ける側はタイミングを選べるが、炎上を防ぐ側は事が起こってからしか対処できない。
となると炎上を仕掛ける人物を特定し。そういった人物を炎上させる、炎上まではいかなくとも発言の信用や信頼を毀損させる事が重要になるのだと思う。
「こいつの発言は信用できない」とネット上で評価される様にしてしまえば良いのだ。
世間では発言の内容よりも誰がそれを発言したのかが重要で、ネット上でもそれは変わらない。
信用されていない人物が他人の炎上の火種となる事は難しい(流石に小山田さんの様なケースは火種が大きすぎて炎上してしまうとは思うが)。
それが拡散する前に件の人物のアンチが現れ、その発言内容を無効化しようと動くからだ。
これもまた無責任な正義感の現れであり、人々の共有する無責任な正義感を如何に自分達に都合の良い形に留めおくかが重要になるのだと思う。
これからの時代は自分達を如何に良く見せるか? よりも如何に対立する相手を悪く見せるかが重要になっていくのではないだろうか。
日本よりもネット社会において先行しているアメリカの事例を見ても、これからは他者に悪を擦り付ける事を重視する時代がしばらく続くのだと思う。
荻上チキ・Session | TBSラジオ | 2021/07/19/月 15:30-17:50 https://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20210719160547
(荻上チキ氏)
この小山田圭吾氏が過去に行っていた、いじめに関する露悪的なまぁ、発信。
1回のインタビューでぽろっと答えたということではなくて、複数回のインタビューで詳細にそのいじめの中身を語って、しかも悪びれる様子がないというような様子というのは、Web上でも20年以上前からたびたび話題とはなっていたわけです。
そうしたようなことがずっと棚上げされたまま、今回オリンピック、パラリンピックで楽曲提供をするという風になった際に、この名前がでてきたことに対して、これは明らかにちょっとミスマッチだろうというような非難がさらに盛り上がり、また今回の報道などによってその出来事、そういった発言を過去にしていたということを初めて知ったという方も多くいると思うんですよね。
90年代の音楽などに触れている人などにとっては、コーネリアス・小山田圭吾氏というのはとてもあの馴染みのあるミュージシャンだと思うんですけれども、でも日本全体でどれだけの認知度かというと、そこはちょっと分からないところがあるので、むしろ今回の件で小山田氏を初めて知った人にしてみれば、オリンピックなどで楽曲提供しようとしていたけれども過去にとんでもない犯罪的な差別を行っていた人物だったっていう情報だけ与えられると、当然ながらそんな人物不適格でしょ、となるのはこれまた当然ということになりますよね。
この件っていうのは、過去にじゃあ行っていたいじめ加害が発覚した場合に、その人の仕事までキャンセルする必要があるのか?というような問題として理解される向きも一部あるんですけど、その問題とこの問題は別だと思うんですよね。
今回のは、過去のいじめ加害というのが何かのきっかけで「発覚」した事案、ではないんです。
そうではなくて、小山田圭吾氏が繰り返し過去のインタビューの中で攻撃的、露悪的な仕方でいじめの手法というものを赤裸々に語っていた、それを読んだ人たちに対して当然不快感を与えるかもしれないけれども、それを一つのエンターテイメントとして味わって欲しい、読んで欲しいという感覚、文脈で内容を提供しているということになるわけですよね。
そうすると、いじめとか差別というものを軽視するような発信というものを、アーティストになってから行っていた問題ということが、ここに関わってくるわけです。
過去のいじめ加害という点でいうと、国立教育政策研究所のデータなどだと、小学校から中学校の間にいじめ加害を行っていない児童というのは1割程度しかいないんですよね。
やはり誰かしら、何かしらのタイミングで、誰かに否定的なあだ名を呼びかけたりとか、誰かを無視したりとか、誰かを叩いたりとか、そうしたようなことを一定期間行うということはしてしまうところがある。
ただそれが持続的にどこまで行うのか、何年間も行い続けるのか、ずっと行うポジションにいるのかということで見ると、どんどん数が絞られていって、継続的な加害者になっていくという人はその中でもまた一部になっていくっていう状況があるわけですね。
ところがこの小山田氏の様々な発言というものは、そのいじめの文脈というものを超えた、性暴力でもあるし、障害者差別でもあるし、いろんな問題を含んでいるわけです。
インタビューの中でも紹介されている加害行為というのは(先程「たまむすび」の中でも少し紹介されたりしていましたけれども)たとえば人前でマスターベーションすることを強要するとか、あるいは女子達が見ている中でわざと服を脱がして人前を歩かせるであるとか、あるいはぐるぐる巻きにしてバックドロップをしたり、あるいはまた大便を食べさせたりとか、そうしたようなことを繰り返していたんだということを言ってるわけです。
他にも様々なダウン症の児童などに対する侮蔑的な発言というものを仲間内で繰り返していたことなど、いろいろなことを自ら発信されてるんですけど、インタビューの中だと(笑)とかそうしたような文言を用いて、非常に露悪的な仕方で発信されていたということになるわけですね。
こういったような事態というものは、このインタビューを読んだ人たちに対しては大変なストレスを与えることには当然なるわけですね。
なぜこれがストレスなのか、ということも改めて振り返っておきたいと思うんですけど、僕がたまに紹介している概念で「公正世界信念」という概念があります。「公正世界仮説」と呼ばれることもあります。
これはどういうことかというと、「この社会というのは、正しいことをすれば報われるんだ」というような考え方、これが公正世界信念ですね。「この世界は公正にできていて、人々が適切に振る舞えば、世界はそれに応えてくれる」という一つの信念というのがあって、多くの人たちはこれを内面化しているんですね。
内面化するからこそ「努力は報われる、だから頑張ろう」というようにモチベーションを維持することができる、動機づけを保つことが出来るわけです。
逆に言えば「正しくないことをすれば懲罰を受けるよ」というような考え方でもあるので、これがまた社会から逸脱をするのではなくて適応しようというモチベーションに繋がるところがあるんですね。
良くも悪くもこういった信念を持っているという人はとても多いんだけれども、ただこういった信念が揺らぐような悪いニュースというのがしばしば飛び交ってくるわけですね。
そうすると「あれ?今起きた事件って公正世界信念を揺るがしてしまうじゃないか」誰かが例えばいじめられていた、誰かが性暴力を受けた、そうしたような、バッドニュースが入ってきた時に、人はとっても不安感を抱くわけです。
その不安感は、要は「もしかしたら自分も努力しても報われないこともあるかもしれないし、気をつけていても被害に遭うかもしれない」っていうこと、ってなるとすごいストレスなんですよね。
その時に取られがちな手段が二つありまして、そのうちの一つというのが「被害者非難」被害者が悪いというんですね。
どういうことかというと「これは公正世界信念が揺らいだのではない、世界は変わらず公正だ、と。だけれどもあの被害者に落ち度があったから、あの被害者は適切に努力してなかったからそうした目に遭ったんだ、つまり過去に正しくない事をしていたからその懲罰として被害にあっただけなんですよ」っていうふうに矮小化をする。
こういったような仕方で、貧困当事者を叩いたり、被災した方を叩いたり、性暴力の被害にあったことを叩いたりということで、むしろ弱者を叩くっていう方向で解消しようとしてしまうのも、公正世界信念のもたらす現象なんですね。
でも、同じく公正世界信念が揺らぎそうになった時に起きがちな方略のもう一つが「加害者に対するバッシング」加害者に対する過剰な懲罰や"悪魔化"ということになるわけです。
要は加害者に対して因果応報というものをもたらしたい、因果応報をもたらすことによって、このモヤモヤした感覚をなんとか治めたい、って感じるものなんですね。
この感覚そのものはとても重要ではあるんだけれども、場合によっては「加害者がまだ謝ってないじゃないか、加害者はきっともっと碌でもない奴だ」っていうことで、悪魔のような存在として描かれるようなことがあって、そうなるとどう対処してもこの信念が回復されないっていうことになってしまうわけです。加害者がどれだけ謝罪をしても、なかなか対処が困難だということにもなりうるわけですね。
一般的にこうした公正世界信念というものは、人々にとても重要な動機づけを与えるし、社会に適応しようという努力を与えるものではあるけども、しばしばそれがコントロール不能な攻撃に向かうような側面というのも当然あるわけです。
ただ、こうしたような「被害者非難」とか「加害者非難」が全部悪いのかというと、そう単純に語れないというところもあるんですね。
「加害者非難」などに通じることによって、一定の抑止効果とかいうのを社会に拡散したいという人もいるでしょう。いろんな動機がそこにあるわけなんです。
今回の件についてはどうなのかというと、明らかにやっぱり小山田氏が発言していたことが明らかになったら、大変多くの人達も不愉快に思うし、また非常にこの世界を不公正だという絶望感を味わうことになる。だから何かしらな仕方で公正さを回復したいと思う。ここまではもう多くの人たちの望むところだと思うんです。
ではその回復の手段がどうすればいいのかというと、今回のようなケースって、回復の手段がほとんど難しいんですね。
例えばすでに被害を受けていた当事者はいて、その人はその後いろんな後遺症とか様々なものを味わって生きてきたかもしれない、それを例えば今更謝罪したからといって回復できるとは限らない、つまり、加害者が被害者に謝罪をすればそれで治まるような案件ではどうも無さそうということも分かっている。
一方で社会に対して、多くのこの不公正があったことについて、あるいは不公正があるということをアーティストとして発信したことについて謝罪すればそれで治まるのかというと、なかなか治まらないでしょう。
少なくともパラスポーツとかオリンピックなどのテーマソングを書くという役割は適任ではないということは言えると思うんですね。
一方で別に小山田圭吾氏に今後ミュージシャンとして二度と活動をするな、みたいなことを言ってるわけではない。
そこはあの今後どういう風にやって行くのか、今後小山田氏の振る舞いとか応答責任を通じて、多くの人たちが「なるほど、まあそう言うんだったら」という風に安全感覚を取り戻せるかどうかにかかっています。
だから今回のペライチで出した謝罪文で多くの人達が納得できるというわけでは当然無いわけなので、今後の様々な発信において、その問題にどう取り組んでいくのか、どう向き合っていくのか、その姿勢を見せ続けることによって、人々の「加害者避難」でも「被害者非難」でもない、ある種の「修復的公正」と言うんですけど、公正感覚が修正されていくというか、取り戻されている感覚というものを、ひとりの発信者としてもたらすことができるかどうか、それが小山田氏に問われてるポイントのひとつになるわけなんですよね。
で、これはとても難しいことではあるんだけれども、アーティストとしていじめ加害の手法などについて露悪的に語って、それが障害者差別などをさらに助長して、なおかつ多くのいじめ被害者に対しても二次加害をインタビューを通じて行った、という点について、同じアーティストとしてどういう風にその後自分で責任を取るのかということはこれからも出てくると思うんです。
だから今回テーマソングを作るか作らないか、これは作らない方がいいと思います。そしてその仕事を降りた方がいいでしょう。
ただその後二度と活動するなという話ではなくて、それに対して活動者としてどういう風に向き合っていくのかということを多くの人たちが見ていきますよ、ということに応答責任というのが出てくるということになるわけですね。
これ、見ている側もやってはいけないのは、「防衛的帰属」という言葉があるんですけど、何かの問題をどこに帰属させるか、どこに責任の所在をおくかっていうのが、その人達の考える倫理観とか道徳観とは別に、その人の考える将来の損得で左右されるところがあるんです。
例えば今回小山田氏を擁護してる人がいるんですね。たとえば「そんな過去の話」とか「その当時はいじめを露悪的に語るのが当然だったんだ」みたいな仕方で擁護する人たちがいる。
それを見ると、結構典型的な「防衛的帰属」だなって思うわけです。
どういうことかというと「彼が悪いことになると、自分も悪いことにさせられてしまう可能性がある。だから『彼が悪くない』っていう風に言うことによって、自分が叩かれるリスクを下げたい」。つまり自分を防衛するために、責任の所在を「彼ではない」「ここではない」「そこではない」というふうに位置づけたがるということなんですね。
そういうふうに、どこに責任を帰属させるのかっていうようなこと自体が、人々にとって損得を左右されるような問題になってるわけです。
だからネット上などでも、実はその、小山田氏のあり方というものを擁護する声というのも、まちまちあって、しばしばあって、そうしたかたちを見ると、たぶんその自分の振る舞いとか、自分のメディアの振る舞いとか、90年代の表現とかいうものまで堀り返されると問題だなっていう風に思われると色々発表がしにくくなるとか、そうしたようなことが場合によっては関わってくる可能性もあるわけですね。
そういうような「防衛的帰属」を繰り返していると、結局、今回どうすればいいのかっていう議論が前に進まないことになるんですよ。
そうして「自分が叩かれたくないから、この人は擁護しとこう」みたいな損得勘定で議論されてしまうと、結局、「被害感情にはどうすればいいの?」とか「こういったものを再発しないためにはどうすればいいの?」っていう議論が出てこないことになるんですね
ちょっと遠回りした言い方になりましたけれども、今回インタビューによって多くの人たちが非常に不公平な世界だっていう感覚を突きつけられた、それに対してなんとか回復したいっていう強烈な動機に突き動かされているという状況がある。
それをやったのは何かの暴露とかではなくてミュージシャン本人のインタビューの中での発言だったから、ミュージシャン本人として今後の発信などでどう応答するのかということは当然問われてくるだろうと。
それが行われてない現段階においては、このオリパラのテーマソングを受けるというのは不適格だことに当然判断されることにはなるだろう、と思うわけですね。
ではその後どうするのか。
これ一朝一夕に本人が反省しましたって言って何とかする話ではないでしょうし、反省云々ということするためには基礎知識とかいろんなことが必要になりますよね。
どう誤っていたのかを言語化できないと、応答はできないということになるので、今回の本人のメッセージ云々でおそらくなかなか納得しがたいようなところがある中で、どうそれに向き合っていくのかということが問われていくのかな、という風には思います。
80年代90年代当時というのは、特にいじめ対策というものは今より脆弱でした。今は随分といじめ対策で、科学的に何が必要なのかということもわかってきました。
今回、多くのメディアがこのいじめ問題を取り扱うのであれば、いじめ対策として今どういった知見がより重要で、よりどういった教育こそが必要なのか、という話も、いろんな現場に広げてきてほしいなと思います。