昨今、容姿が本職じゃない人の容姿に強く焦点を当てる言説(ルッキズムは言葉の定義がぶれるのでできれば使いたくない)はそのニュアンスの正負を問わず批判の対象となっている。はてなでもそうなのでこの前提は共有してもらえると思う。
で、私も素朴にそう思ってたんだけど、今日ちょっと疑問が生じて色々考えてみた。
「xx(競技名)のyy選手めっちゃ可愛い……(画像4枚)」みたいな。今日のTLにはこんな感じで色々な競技の色々な選手のものが流れてきた。
念のため言っておくと私はそれらの意見を肯定も否定もしていません
本題
①容姿に着目することは人格や本職を無視することを必ずしも意味しない。
これ系の話題でよく見るのが「人格を無視した性的消費」みたいな非難。
しかし、例えば私が実際に見たツイートなんかは「名前」「競技名」がきちんと記されていて、選手本人を容姿から置き去りにしていない。(理想を言えば「世界ランクがヤバイ」「zzの技術がヤバイ」なんかの情報や感想があるのが一番いいのかもしれませんが。)
②「jobとabilityはどのような関係にあるのか?」
例えばあるプロスポーツ選手が良い環境でトレーニングに専念したり家計を成り立たせるためには、単にその競技の実力・実績があればよいというわけではない。賞金や年俸がヤバイ一部の競技のトップ選手を除けば、多くの選手は企業勤めをしたりスポンサーを獲得して仕事や支援を受けたりグッズ収入を得たりする必要がある。これらの収入は金メダルの賞金500万円と異なり、競技の実力によってのみ得られるわけではない。
このとき選手の競技能力以外の要素を肯定的に拡散することは不正義となるのか。スポーツ選手に限らず一般企業の社員やアーティストやは?容姿に限らず知性や人格や逆?
上でも軽く触れたが、選手の人生は競技に限らない。競技者を容姿(など競技と関係ない部分)で称揚することが悪であるとした場合、その人間が「選手」でない瞬間であれば容姿に触れても良いのか?ある人が職業人である瞬間とそうでない(あるいは別の職業人である)瞬間はどのようにして区別されるのか?
例えばスポーツ選手の中にはモデル業を兼任している人がいる。モデルの仕事もスポーツと同様に全身が商売道具なわけで、体のメンテナンスには多くのコストをかけるという。「本番」「トレーニング」「コンディション調整」の時間が必要でありそれは食事や睡眠まで含めた24時間の大部分にわたる……となるとそれはもうそれぞれの状態が一人の人間の中に同居していることにはならないだろうか。
他者を評価する際相手の属性によって触れることが適切な項目とそうでない項目が変化するというなら、どの項目がどの属性と結びつくのか、どの瞬間にどの属性を有する状態となるのか、その辺の議論ってどこかで体系化されてたりするんですかね
あと私の頭がパンクしたので今回触れませんでしたが、そもそもいついかなるときでも他者の容姿に言及すること自体が不正義であるという主張も当然あると思います。(それはそれで能力主義等との検証が必要になるとは思いますが……)