荻上チキ・Session | TBSラジオ | 2021/07/19/月 15:30-17:50 https://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20210719160547
(荻上チキ氏)
この小山田圭吾氏が過去に行っていた、いじめに関する露悪的なまぁ、発信。
1回のインタビューでぽろっと答えたということではなくて、複数回のインタビューで詳細にそのいじめの中身を語って、しかも悪びれる様子がないというような様子というのは、Web上でも20年以上前からたびたび話題とはなっていたわけです。
そうしたようなことがずっと棚上げされたまま、今回オリンピック、パラリンピックで楽曲提供をするという風になった際に、この名前がでてきたことに対して、これは明らかにちょっとミスマッチだろうというような非難がさらに盛り上がり、また今回の報道などによってその出来事、そういった発言を過去にしていたということを初めて知ったという方も多くいると思うんですよね。
90年代の音楽などに触れている人などにとっては、コーネリアス・小山田圭吾氏というのはとてもあの馴染みのあるミュージシャンだと思うんですけれども、でも日本全体でどれだけの認知度かというと、そこはちょっと分からないところがあるので、むしろ今回の件で小山田氏を初めて知った人にしてみれば、オリンピックなどで楽曲提供しようとしていたけれども過去にとんでもない犯罪的な差別を行っていた人物だったっていう情報だけ与えられると、当然ながらそんな人物不適格でしょ、となるのはこれまた当然ということになりますよね。
この件っていうのは、過去にじゃあ行っていたいじめ加害が発覚した場合に、その人の仕事までキャンセルする必要があるのか?というような問題として理解される向きも一部あるんですけど、その問題とこの問題は別だと思うんですよね。
今回のは、過去のいじめ加害というのが何かのきっかけで「発覚」した事案、ではないんです。
そうではなくて、小山田圭吾氏が繰り返し過去のインタビューの中で攻撃的、露悪的な仕方でいじめの手法というものを赤裸々に語っていた、それを読んだ人たちに対して当然不快感を与えるかもしれないけれども、それを一つのエンターテイメントとして味わって欲しい、読んで欲しいという感覚、文脈で内容を提供しているということになるわけですよね。
そうすると、いじめとか差別というものを軽視するような発信というものを、アーティストになってから行っていた問題ということが、ここに関わってくるわけです。
過去のいじめ加害という点でいうと、国立教育政策研究所のデータなどだと、小学校から中学校の間にいじめ加害を行っていない児童というのは1割程度しかいないんですよね。
やはり誰かしら、何かしらのタイミングで、誰かに否定的なあだ名を呼びかけたりとか、誰かを無視したりとか、誰かを叩いたりとか、そうしたようなことを一定期間行うということはしてしまうところがある。
ただそれが持続的にどこまで行うのか、何年間も行い続けるのか、ずっと行うポジションにいるのかということで見ると、どんどん数が絞られていって、継続的な加害者になっていくという人はその中でもまた一部になっていくっていう状況があるわけですね。
ところがこの小山田氏の様々な発言というものは、そのいじめの文脈というものを超えた、性暴力でもあるし、障害者差別でもあるし、いろんな問題を含んでいるわけです。
インタビューの中でも紹介されている加害行為というのは(先程「たまむすび」の中でも少し紹介されたりしていましたけれども)たとえば人前でマスターベーションすることを強要するとか、あるいは女子達が見ている中でわざと服を脱がして人前を歩かせるであるとか、あるいはぐるぐる巻きにしてバックドロップをしたり、あるいはまた大便を食べさせたりとか、そうしたようなことを繰り返していたんだということを言ってるわけです。
他にも様々なダウン症の児童などに対する侮蔑的な発言というものを仲間内で繰り返していたことなど、いろいろなことを自ら発信されてるんですけど、インタビューの中だと(笑)とかそうしたような文言を用いて、非常に露悪的な仕方で発信されていたということになるわけですね。
こういったような事態というものは、このインタビューを読んだ人たちに対しては大変なストレスを与えることには当然なるわけですね。
なぜこれがストレスなのか、ということも改めて振り返っておきたいと思うんですけど、僕がたまに紹介している概念で「公正世界信念」という概念があります。「公正世界仮説」と呼ばれることもあります。
これはどういうことかというと、「この社会というのは、正しいことをすれば報われるんだ」というような考え方、これが公正世界信念ですね。「この世界は公正にできていて、人々が適切に振る舞えば、世界はそれに応えてくれる」という一つの信念というのがあって、多くの人たちはこれを内面化しているんですね。
内面化するからこそ「努力は報われる、だから頑張ろう」というようにモチベーションを維持することができる、動機づけを保つことが出来るわけです。
逆に言えば「正しくないことをすれば懲罰を受けるよ」というような考え方でもあるので、これがまた社会から逸脱をするのではなくて適応しようというモチベーションに繋がるところがあるんですね。
良くも悪くもこういった信念を持っているという人はとても多いんだけれども、ただこういった信念が揺らぐような悪いニュースというのがしばしば飛び交ってくるわけですね。
そうすると「あれ?今起きた事件って公正世界信念を揺るがしてしまうじゃないか」誰かが例えばいじめられていた、誰かが性暴力を受けた、そうしたような、バッドニュースが入ってきた時に、人はとっても不安感を抱くわけです。
その不安感は、要は「もしかしたら自分も努力しても報われないこともあるかもしれないし、気をつけていても被害に遭うかもしれない」っていうこと、ってなるとすごいストレスなんですよね。
その時に取られがちな手段が二つありまして、そのうちの一つというのが「被害者非難」被害者が悪いというんですね。
どういうことかというと「これは公正世界信念が揺らいだのではない、世界は変わらず公正だ、と。だけれどもあの被害者に落ち度があったから、あの被害者は適切に努力してなかったからそうした目に遭ったんだ、つまり過去に正しくない事をしていたからその懲罰として被害にあっただけなんですよ」っていうふうに矮小化をする。
こういったような仕方で、貧困当事者を叩いたり、被災した方を叩いたり、性暴力の被害にあったことを叩いたりということで、むしろ弱者を叩くっていう方向で解消しようとしてしまうのも、公正世界信念のもたらす現象なんですね。
でも、同じく公正世界信念が揺らぎそうになった時に起きがちな方略のもう一つが「加害者に対するバッシング」加害者に対する過剰な懲罰や"悪魔化"ということになるわけです。
要は加害者に対して因果応報というものをもたらしたい、因果応報をもたらすことによって、このモヤモヤした感覚をなんとか治めたい、って感じるものなんですね。
この感覚そのものはとても重要ではあるんだけれども、場合によっては「加害者がまだ謝ってないじゃないか、加害者はきっともっと碌でもない奴だ」っていうことで、悪魔のような存在として描かれるようなことがあって、そうなるとどう対処してもこの信念が回復されないっていうことになってしまうわけです。加害者がどれだけ謝罪をしても、なかなか対処が困難だということにもなりうるわけですね。
一般的にこうした公正世界信念というものは、人々にとても重要な動機づけを与えるし、社会に適応しようという努力を与えるものではあるけども、しばしばそれがコントロール不能な攻撃に向かうような側面というのも当然あるわけです。
ただ、こうしたような「被害者非難」とか「加害者非難」が全部悪いのかというと、そう単純に語れないというところもあるんですね。
「加害者非難」などに通じることによって、一定の抑止効果とかいうのを社会に拡散したいという人もいるでしょう。いろんな動機がそこにあるわけなんです。
今回の件についてはどうなのかというと、明らかにやっぱり小山田氏が発言していたことが明らかになったら、大変多くの人達も不愉快に思うし、また非常にこの世界を不公正だという絶望感を味わうことになる。だから何かしらな仕方で公正さを回復したいと思う。ここまではもう多くの人たちの望むところだと思うんです。
ではその回復の手段がどうすればいいのかというと、今回のようなケースって、回復の手段がほとんど難しいんですね。
例えばすでに被害を受けていた当事者はいて、その人はその後いろんな後遺症とか様々なものを味わって生きてきたかもしれない、それを例えば今更謝罪したからといって回復できるとは限らない、つまり、加害者が被害者に謝罪をすればそれで治まるような案件ではどうも無さそうということも分かっている。
一方で社会に対して、多くのこの不公正があったことについて、あるいは不公正があるということをアーティストとして発信したことについて謝罪すればそれで治まるのかというと、なかなか治まらないでしょう。
少なくともパラスポーツとかオリンピックなどのテーマソングを書くという役割は適任ではないということは言えると思うんですね。
一方で別に小山田圭吾氏に今後ミュージシャンとして二度と活動をするな、みたいなことを言ってるわけではない。
そこはあの今後どういう風にやって行くのか、今後小山田氏の振る舞いとか応答責任を通じて、多くの人たちが「なるほど、まあそう言うんだったら」という風に安全感覚を取り戻せるかどうかにかかっています。
だから今回のペライチで出した謝罪文で多くの人達が納得できるというわけでは当然無いわけなので、今後の様々な発信において、その問題にどう取り組んでいくのか、どう向き合っていくのか、その姿勢を見せ続けることによって、人々の「加害者避難」でも「被害者非難」でもない、ある種の「修復的公正」と言うんですけど、公正感覚が修正されていくというか、取り戻されている感覚というものを、ひとりの発信者としてもたらすことができるかどうか、それが小山田氏に問われてるポイントのひとつになるわけなんですよね。
で、これはとても難しいことではあるんだけれども、アーティストとしていじめ加害の手法などについて露悪的に語って、それが障害者差別などをさらに助長して、なおかつ多くのいじめ被害者に対しても二次加害をインタビューを通じて行った、という点について、同じアーティストとしてどういう風にその後自分で責任を取るのかということはこれからも出てくると思うんです。
だから今回テーマソングを作るか作らないか、これは作らない方がいいと思います。そしてその仕事を降りた方がいいでしょう。
ただその後二度と活動するなという話ではなくて、それに対して活動者としてどういう風に向き合っていくのかということを多くの人たちが見ていきますよ、ということに応答責任というのが出てくるということになるわけですね。
これ、見ている側もやってはいけないのは、「防衛的帰属」という言葉があるんですけど、何かの問題をどこに帰属させるか、どこに責任の所在をおくかっていうのが、その人達の考える倫理観とか道徳観とは別に、その人の考える将来の損得で左右されるところがあるんです。
例えば今回小山田氏を擁護してる人がいるんですね。たとえば「そんな過去の話」とか「その当時はいじめを露悪的に語るのが当然だったんだ」みたいな仕方で擁護する人たちがいる。
それを見ると、結構典型的な「防衛的帰属」だなって思うわけです。
どういうことかというと「彼が悪いことになると、自分も悪いことにさせられてしまう可能性がある。だから『彼が悪くない』っていう風に言うことによって、自分が叩かれるリスクを下げたい」。つまり自分を防衛するために、責任の所在を「彼ではない」「ここではない」「そこではない」というふうに位置づけたがるということなんですね。
そういうふうに、どこに責任を帰属させるのかっていうようなこと自体が、人々にとって損得を左右されるような問題になってるわけです。
だからネット上などでも、実はその、小山田氏のあり方というものを擁護する声というのも、まちまちあって、しばしばあって、そうしたかたちを見ると、たぶんその自分の振る舞いとか、自分のメディアの振る舞いとか、90年代の表現とかいうものまで堀り返されると問題だなっていう風に思われると色々発表がしにくくなるとか、そうしたようなことが場合によっては関わってくる可能性もあるわけですね。
そういうような「防衛的帰属」を繰り返していると、結局、今回どうすればいいのかっていう議論が前に進まないことになるんですよ。
そうして「自分が叩かれたくないから、この人は擁護しとこう」みたいな損得勘定で議論されてしまうと、結局、「被害感情にはどうすればいいの?」とか「こういったものを再発しないためにはどうすればいいの?」っていう議論が出てこないことになるんですね
ちょっと遠回りした言い方になりましたけれども、今回インタビューによって多くの人たちが非常に不公平な世界だっていう感覚を突きつけられた、それに対してなんとか回復したいっていう強烈な動機に突き動かされているという状況がある。
それをやったのは何かの暴露とかではなくてミュージシャン本人のインタビューの中での発言だったから、ミュージシャン本人として今後の発信などでどう応答するのかということは当然問われてくるだろうと。
それが行われてない現段階においては、このオリパラのテーマソングを受けるというのは不適格だことに当然判断されることにはなるだろう、と思うわけですね。
ではその後どうするのか。
これ一朝一夕に本人が反省しましたって言って何とかする話ではないでしょうし、反省云々ということするためには基礎知識とかいろんなことが必要になりますよね。
どう誤っていたのかを言語化できないと、応答はできないということになるので、今回の本人のメッセージ云々でおそらくなかなか納得しがたいようなところがある中で、どうそれに向き合っていくのかということが問われていくのかな、という風には思います。
80年代90年代当時というのは、特にいじめ対策というものは今より脆弱でした。今は随分といじめ対策で、科学的に何が必要なのかということもわかってきました。
今回、多くのメディアがこのいじめ問題を取り扱うのであれば、いじめ対策として今どういった知見がより重要で、よりどういった教育こそが必要なのか、という話も、いろんな現場に広げてきてほしいなと思います。
同じく公正世界信念が揺らぎそうになった時に起きがちな方略のもう一つが「加害者に対するバッシング」加害者に対する過剰な懲罰や"悪魔化"ということになるわけです。 要は加害...
小山田が悪魔であってくれないと叩けなくてこまるもんね。 これ読め。勉強になるぞ。 anond:20210720164718
小山田さんは何も悪くない
擁護者に語られる小山田に価値があるんか?