はてなキーワード: 自動車免許とは
これはid:muchonovによる、id:rag_enさんのエントリ muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理があるよという話と、あとリテラシー - Click Game. への返信です。
まず、rag_enさんがご引用くださっている、自分が増田で書いた文章「子供の権利は制限されているし、性行為に伴うリスクを判断できない」の位置づけなんですが、これはmuchonovが何か新しい提案をしたぞとか、今からそういう社会を作るぞ、という内容ではありません。このスレッドの親増田の「なぜ、子供が性を売ってはいけないのか」という疑問への応答として、今の社会がそういう風になっている理由として、法律的・社会的にこのような背景がありますよ、と説明するものです。言い換えると、これは〈べき論〉ではなく〈である論〉のつもりで書いたものです。このことは、ここから先の話とも繋がってますので、ひとまずスタート地点としてご認識ください。
rag_enさんは以下のように、「『社会的コンセンサスがあるから』という理由でのパターナリズムの肯定」や(判断力が未熟な当事者を保護する)「手段としてのパターナリズム」自体を強く批判されています。
未成年に対しては愚行権を含む自由権に一定の制約を課すべきだという社会的コンセンサスがあるからです。未成年に対しては人権を制約するレベルのパターナリズム(保護者的統制主義、当事者の能力やリソースの不足を社会が保護者として補い、庇護する)をとってもよいし、分野・状況によっては積極的にそうしなければいけない
いやもうこれ、『社会的コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね。
そもそも『「判断力」によって峻別すべき』だと仰るならば、「ペーパーテストして免許制にでもすれば?」でほぼほぼ終了する話なわけです。『「判断力」によって峻別すべき』ならば、その「判断力」をテストする、というのはどう見ても最も正道な手段なのですから。“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません。
ここを読んでいて、最初「ん?」と混乱してしまったのですが、もしかしてrag_enさんには、「パターナリズム」という概念について重大な誤認がありませんか。rag_enさんが「“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません」という主張とともに、代案として展開されている「判断力によって(ある問題についての当事者能力や責任能力の有無を)峻別する」、そして、判断力がないとみなした対象の自由権を(当人の保護のために)何らかの形で制限する…という考え方は、まさに『パターナリズム』そのものではないですか?
現行の日本の法律が、年齢によってその人物の判断能力を推認し、それが十分でないとされた年齢に属する児童を保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、別の方法で判断能力を吟味・裁定し(たとえば精神的な障害を持つ人や依存症に苦しむ人や認知症患者などを、家裁の判断によって成年被後見人とすることなど)、彼らを保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、どちらも法学の分野でいう「弱いパターナリズム」だと思います。
憲法学の世界で「パターナリズム」といえば、まず未成年者の人権制約の場面が思い浮かぶ。すなわち、十分な判断能力のない未成年者については、親が子に干渉するようなやり方で、国が未成年者の人権を制約することが認められると考えるアプローチである(1)。たとえば佐藤幸治は、未成年者の人権制約について、未成年者が「成熟した判断を欠く行動の結果、長期的にみて未成年者自身の目的達成諸能力を重大かつ永続的に弱化せしめる見込みのある場合に限って正当化される」とし、これを限定されたパターナリスティックな制約としている(2)。このようなパターナリズムは、個人の判断能力の不十分さを補うために後見的措置を行うことから、弱いパターナリズムと呼ばれる(3)。
そして、未成年や年齢が低い児童の判断能力が不十分とみなされる理由は、法学の世界では、彼らの判断が、それ以上の年齢層による判断に比べ、①知識や情報を得た上での判断・②適切な理解に基づく判断・③強要なき自律的判断・④実質上も自発的な判断ではない可能性が高く、それによって、当事者自身が想定しない結果や不利益をもたらすリスクが懸念されているからです。[^1]
[^1]性的自己決定に関しては、古い調査ですが、10代の人工妊娠中絶についてのアンケート結果(https://www.jaog.or.jp/sep2012/JAPANESE/MEMBERS/TANPA/H15/030217.htm)を読む限り、確かにそのリスクは存在しているといえます。10代の妊娠中絶経験者の68.1%は妊娠して「困った」と回答しており、その多くが①②膣外射精や安全日など誤った避妊方法を選んだり(情報や理解力の不足した判断)、③相手が避妊をしなかったり(強要された判断)、④経済的事情などを踏まえれば出産・育児は不可能なのに妊娠する可能性のある行為をしてしまう(実質的には非自発的な判断)など、当人の判断能力の不足によって、望まない妊娠と人工妊娠中絶に到っています。
この前提において、当事者の自由権を法と社会が一部制約することが正当化されています。これはmuchonovが勝手に言ってることじゃなくて、法学におけるパターナリズムの議論の中で整理されている話です。
「ソフト(弱い)パターナリズム」が自由への介入を正当化できるのは、人の行為が以下の何れかに因って判断された場合です。
1. 実際に情報を知らされないで判断した場合(not factually informed)、
2. 適切に理解していないで判断した場合(not adequately understood)、
4. その他、実質的に自主的にではなく判断した場合(oterwise not substantially voluntary)。
http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~cyberian/personal_responsibility.html
そして、未成年者や特定年齢に満たない児童に対する「弱いパターナリズム」に基づく人権制約は、日本を含め、大半の近代国家の法制度に含まれています。性交同意年齢という概念もそうですし、制限行為能力者という概念もそうですし、ある面では責任無能力者という概念もそれに関わっています。そのような、未成年者や児童の人権を明らかに制約する仕組みが各国の法制度に組み込まれているのは、当然、その国家が議会立法などの民主主義的手続きを経てその法律を定めた結果であり、『社会的コンセンサス』の賜物でしょう。
だから先ほどのrag_enさんの、「『社会的コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね」とか、「muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理がある」という指摘は、日本だけでなく、性交同意年齢や制限行為能力などの概念を法制度に組み込んでいる全ての国家や社会に対して「完全に思考が狂ってますよね」「論法に無理がある」と非難していることになりませんか。
現在の日本では、性交同意年齢(13歳)未満の男女と「性交等」をすることは法律で禁じられており、もしそうした場合、それが13歳未満の側の当事者の主体的判断によるものであっても、相手は強制性交等罪(非親告罪)で処罰されます。13歳未満の側の当事者には、必ずしも性交に関して正しく判断する能力が備わっておらず、その能力の不足による誤った判断の不利益から彼らを保護しなければならない、とみなされているからです。これも「完全に思考が狂っている」「無理がある」論法でしょうか。
私はrag_enさんがそういうチャレンジングな主張を展開されるのは別に構わないと思っていますし、繰り返しそう申し上げてもいますが、だったらその主張はmuchonovという個人に向けて言うべきことじゃなくて、そうした法制度を運用している国家やそれを是認している国民に対して言うべきことなんじゃないかな、と思います。だから自分は、再三「rag_enさんのお考えを、広く世間に問えばいいと思います」と申し上げているんですけども。
あと、これはこちらの邪推ですけど、おそらくここでrag_enさんが問うべきだったのは、「性的自己決定権をめぐるパターナリズム的な人権制約の適用対象を決める上で、年齢という指標を用いて一律に決める(現在の法制度に組み込まれている)方法と、ペーパーテストを行って免許を付与するという(rag_enさんが提唱する)方法の、どちらが制度設計として筋がよいか」ということだったのではないでしょうか。そうではなく「パターナリズムという手段ではなく、ペーパーテストと免許制という手段を使えばいい」と主張されている姿勢から、rag_enさんのパターナリズムについての認識は、一般的用法とズレがあるように感じました。もし「そうではない」ということなら、そうおっしゃってください。
※ここでもし自分がrag_enさんを先回りして擁護するとしたら、「rag_enさんの言うペーパーテスト+免許制という提案は、パターナリズム的な観点(判断力が未熟な当事者を保護するため)に基づくものではなく、その行為による他者危害のリスクなどを鑑みて、本来は無許可では行ってはいけない諸行為に対し、当事者の能力・知識・技術を総合的に認証したうえで特別にアクセス権を付与するもの、つまり自動車免許や医師免許に相当するものであるから、パターナリズムにはあたらない」という立場は、かろうじて取りうると思います。未成年や児童が関わる性行為について、当事者の不利益よりも他者危害のリスクを先に考慮しなければいけない状況というのは自分には俄には思いつきませんが、まあそこはよしとしましょう。
しかし、そのような制度---国家が国民の性行為に関わる知識や判断能力をペーパーテストで弁別し、それが当局の定めた水準を満たしているかどうかによって、セックスの権利を与えたり奪ったりする制度---というのは、自分は国家による生-権力的介入・管理のアプローチとしていささか度が過ぎていると思います。というか、「規律化による〈従順な身体〉の構築」というフーコー的テーゼをそのまま戯画的に具現化したような感じすらします。
また、自動車免許の社会実装コストについてのrag_enさんの記述を踏まえると、rag_enさんは、その「セックス免許」の仕組みを社会実装するコストも、免許取得費用として「受験者」から徴収して賄えばいい、とお考えのように見えます。セックスへのアクセス権を求める市民自身から試験料を徴収して、セックス免許センターで受験者にテストを行って、合格者に免許を発行する。もしそういう制度運用をイメージされて仰っているのなら、この構想が現行の法制度にある「年齢によるパターナリズム的保護」の仕組みよりもメリットが多くデメリットが少ない現実的な提案だと感じる方は、あんまりいないんじゃないでしょうか。もちろん、rag_enさんのような考え方の人たちが社会運動などを通してそのアイディアを人々に受け入れさせて、社会的コンセンサスを変えていくことができれば、その状況も変化する可能性はあると思いますが。
ワイの母ちゃんはワイのすごいことが自動車免許取ったことから永久に更新されないし
ワイが好きなものも嫌いなものもアレルギーも知らないよ覚えないよ
親戚や同僚(プライベートの付き合い無し)の方が100倍ワイに詳しい
けど元増田の母ちゃんと同じくなんらかの興味関心は寄せてくれてるらしく
よく物送ってくれたりするよ
立憲の人の発言は迂闊だと思うが、50歳男性というイメージの不快感で叩く奴があまりにも多くて本来議論すべき点がぼやけて、さらに今後この手のことを反対賛成両面から検討することさえタブーになってしまったような残念感がある。
年齢と法規制の問題は、少年法や選挙権や飲酒喫煙や自動車免許もそうだが時代を超えて永久に適用できる正解というのはなくて、時代に合わせて調整していくべきで、その意味で反対賛成の意見とその発言者の属性を安易に結びつけるべきではない。
俺も50代のおっさんが自身と未成年との性的関係を例に出したら直感的に気持ち悪いと思うが、そこは歯を食いしばって発言者と発言内容を切り分ける矜持は持っていたいと思う。
免許合宿を経験して、俺には絶対無理だとわかった。教習所を3日目の朝にやめた。マニュアルじゃない。オートマだ。
普段と違う環境でやったことのない機械操作を、事前練習がテキストのみでやれとか無理ゲー。
いや出来るやつがいるから無理じゃないんだろうけどなんでみんな出来るの?
しかもしくじったら人が死ぬ。あるいはケガする。乗ってるものも壊れる。交通の迷惑にもなる。キチガイ一人と遭遇するだけで学んだこと全部おじゃんになりかねない。むしろ俺がキチガイとなって他人を台無しにしかねない。あんなもんどうやって使いこなすんだ……
坂道発進もサイドブレーキ(だっけ?)を引くときに持ち手のボタンを押すのか押し込むときにボタンを押すのかまったく覚えられなかった。引くときも押すときもボタンを押せばいいと思ったが、「スイッチは引くときだけ(押すときだけ)でいいよ」と封殺され、できなくなった。
サイドブレーキに限らず、他の諸々もその場で教わった後、また別のことを聞くといつの間にか忘れてしまっていた。
一個教えられたら直前のもう一個を忘れる時点で俺は運転以前に色々なことが向いていないとわかった。
何あれ、マジで……取得資格は普通自動車免許のみ。とか底辺の人間のプロフィールでよく使われてるけどあんなもん動かせる時点で相当器用だろ。わけわかんねえ。底辺以下だよ俺。
教習中、俺は教官から怒られる内容に何も納得できなかった。ついさっき言ったんだからもう忘れるな。的なことを言われても忘れるもんは忘れる。忘れないように忘れないようにと気を配っても「忘れないようにしよう」と念じたことしか覚えていなかった。
厳しくされるのも当たり前だと思う。普通に人を殺せる乗り物を扱う資格を、二週間ちょいで取らせるのだからそりゃあ厳しくしないとダメだろう。俺が教官だとしても厳しくする。
何がダメだったんだろう。二週間という日程なのか、島根なら人いないだろうし路上教習も余裕だろうとタカをくくって関西から来たことがダメだったのか。あるいは俺の知能か、根性か、認知能力か、集中力か。
全部じゃないといいんだけど……
たぶん、あのまま通っていても一発合格は無理で……通信とか何とかいう、教習所内を通りいっぺん一人で運転する試験を二回ぐらいは落ちると思う。この時点で延泊が確定する。(というか俺は一発勝負というものが極端に苦手で、このエントリもちょいちょい書き直しているぐらいだ。)
その後、路上教習で、多分出られないだろうけど、出られたとしたらどっかしらにコスるんじゃなかろうか。修繕費取られるのかね。
その次が…高速道路教習だろうか。一発合格は無理と書いたけど、高速道路といざ自分で書いてみると改めて実感する。何発挑戦しても絶対無理だ。
高速の入り口でハンドルに突っ伏して、無理です無理ですとすすり泣きながら後ろからクラクションを鳴らされている自分の様子が想像できる。
運転中、なんだか異様に目が乾いてまばたきが増えるしあっち向けこっち向けすぐそこ見ろ遠くも見ろとかのマルチタスクをごく早いテンポで求められるのだから、そんな作業を運転中にやっていたら、俺か、他のドライバーか、あるいは両方が死ぬ。
たぶん、自動車免許を取得している人がこのエントリを目にしたら俺はとんでもないヘタレの根性なしのどんくさいアホタレに見えることだろう(ことさら、マニュアルトランスミッションだったりしたらもう、免許の代わりになんかしらの手帳を持っているように見えるんじゃなかろうか)。
先に自分を攻撃しておくが、ほぼほぼ事実であり、俺はとんでもないヘタレの根性なしのどんくさいアホタレで相違無い。
というか、そうした欠点を指摘されたところでヘタレが勇猛になったりしないし根性なしに根性が生まれたりしないしどんくさいやつが機敏にはならないしアホは賢くならない。
指摘を受けた側からしたら「そうなんですよね」に尽きる。
当然、一緒に行く友達もいなければ現地で友達もいない俺は講習外でも一人で過ごし、自習のために設けられたであろう空きコマでは迫りくる教習への恐怖でテキストはまともに頭に入らず、まともな精神状態ではなくなっていた。と思う。ホテルに帰っても風呂に入らず着替えもせず、初日の教習以降、俺は『人間』を維持できなくなっていた。なぜ出来ないのか。自分だから出来ないのか、自分なのに出来ないのか。出来ないようになってるから出来ないのか。
滞在中、夜になると親から連絡が来ていた。弱音を吐くと「そっちまで行ってやろうか?」「ホテル取って会えるようにしてやろうか?」「犬連れて行ってやろうか?」などと提案されたが、今にして思えば「そこまでしなくていい」という言葉を引き出して俺を鼓舞しようとしていたのだろうか。
だからこそ、その一環で「そんなにつらけりゃもう帰ってこい」などと言ったのだろう。
俺は真に受けた。翌朝教習所に電話をかけて退校の申し込みをした。下手にギリギリまで粘って退校を遅らせると返金額が減るので、どうせなら早いほうがいい。と自分に言い聞かせた。通った。退所した。ホテルを出た。電話を切る寸前、「手続きさえすれば他の自動車学校で続きを受けられますが、どうしますか」と尋ねられた。完全に自動車の運転を諦めた俺は「けっこうです」と、ストレスを受けているとき特有の、喉にかかる得体の知れない圧迫感をどうにかこじ開けるように、喉から声を絞り出して退校を完了させ、帰りのバスまで島根の街を徘徊して時間をつぶした。
一応挫折感や罪悪感のようなものはあった俺は引き続きグズグズになったメンタルのまま残りの時間を過ごし、カバンを置いていきそうになったり壁や柱にぶつかったり、いきなりしゃがみこんだり何もない場所に反射的に振り向いたり、何か変な動物になっていた。シャワーも着替えもしていないまま、人間もどきが松江の城下町をズルズルと這いまわるのだった。確かその頃、FGOというスマホゲーでオデュッセウスというキャラクターのピックアップガチャが開催されていたので、バス停で棒立ちしながら適当に10連ガチャを回してみた。皮肉にも最初の10連で引くことができた。
なんにも嬉しくなかった。引けなければもっと嬉しくなかっただろうし、ローリスクノーリターンのくだらないギャンブルだった。
俺はわけがわからず、つらけりゃ帰って来いと言われて、つらいから帰ったらめっちゃ怒られた。未だに理不尽だと思う。
親からは免許の取得がどれだけ一般的で誰でもできる行為かをヒステリックに説かれ、情けない。恥ずかしい。人に言えない。親戚のあの誰々さんでも取れたのに。とメタクソにキレていた。
なんでなん?と涙ながらに問い詰めてきたが、なんでか知りたいなら発達検査でも受けさせてみろ。と思う。
このエントリとは別件で、発達障害かもしれないから検査を受けたい。と相談したらお前は普通の人間だ。薬漬けにされて精神病院にうんたらかんたらと、まあそういう系の親がよくやる説諭を俺に施していた。
そうした前歴を踏まえて「なんでこんなことも出来ないんだ」と被害者ぶって聞かれても、「気になるんなら検査受けたいから幼少期の自分について、客観的に主治医に語ってくれ」と思っていた。
実際、俺が発達障害なのかはわからない。ボーダーのボーダーのボーダーなのかもしれないし、ただの甘ったれかもしれない。自分でも信じられないが、叱られている最中の俺は、気が付いたら『ノノグラム』という論理パズルのことを考えていた。ピクロスと呼べば通りがよいか。
別に脳内で特定の絵柄が出来上がる盤面を作るとか、そういう目隠し将棋みたいなカッコいいものではない。ただ単に『8と5なら14マス使うから、15マス中13マス埋まるな。』ということを、気付かないうちに脳内で考えていたのだ。それを自覚したとき、「いや、何考えてんの。お前」と脳内のパズル図式を振り切った後、「もし俺がこれで正常な発達過程を経た、ただの怠惰で親をナメているだけの健全な成人だとしたら、本当におぞましいものだな」と、心の浅いところで他人事のように嫌悪した。
ただ唯一ハッキリしているのは、俺が免許合宿をリタイアした、どうしようもない運転不適合者ということだった。
あと、ツイッターでMTとかATとかどうでもいいことで争っているのを見かけるたびに、俺より上等な人間なんだから格付けしてんなよ。と言いたい。車がどんな仕組みで走ってるかわからずに運転するなんて~とか、MTだと仕事の選択肢が~とか、やめろ。ATでもMTでもすごいから。不毛だ。俺を見て笑えばATとMTは仲良くできるだろう。
俺が教習所にほんの数日通って変われたことは、助手席に座っているときでも『あそこの角から人が飛び出して来たら?』と、運転してもいないのにビクビク脅えるようになったぐらいだ。あと、運転免許保持者を尊敬するようになった。
思ったことを乱雑に書いた、読みづらいエントリになったと思うが、そこは「こんな頭の中してるようなら運転向いてないわな」と得心していただければ……
俺は自動運転技術が一刻も早く確立することを心から祈る。それで不幸になる人間など、教習所の教官ぐらいだろう……
でも、なんやかんやで『自動運転が制御できなくなった時のためにも運転技術は必要である』みたいな理屈で教習所は生き永らえそうな気がする。
なんか、今まで乗れてたはずの自転車も乗るのが怖い気がしてきた。一生徒歩と電車で移動するしかないのかな。
【追記】創作における底辺の人間の描写のとして“資格は普通自動車免許のみ”みたいな例があるよね」と書いたのであって、決して取得資格が普通自動車免許のみの方を揶揄する意図はありません。一部で誤解を招きましたので追記しておきます。
私の仕事はコロナの影響が大きくあり、案件自体が少なくなり、月に数回あるかどうかというところ。
とはいえ実力主義の不安定な仕事だと言うこともあり、結婚当初から家計の全てや私の買い物などは全て夫の口座から使うようになっている。
今は案件自体が少ないこともあり、週一からできるバイトとかを始めようとすると、夫はそんなこといいから家事をやってという。
そのくせ何か買おうとすると、お金が今ないからといって私が欲しいものを否定し、私には買わせようとしない。そして、自分は好きなものを買う。
お金がないのなら、何かアルバイトでもしようかと思うと、いちいち否定して、そんなことはいいから家事をやってといってくる。
私が毎晩夕飯を作っているというと、夫は朝の子供二人の朝食や朝晩の保育園の送り迎えに仕事に炊事洗濯もやっているし、晩ご飯だって半分以上作っているだろうと、恩着せがましくいってくる。
猫を最近買ってからはちゃんと夕飯を平日はつくったりしているのに。そんなことを言う。部屋が汚いので掃除だってやっているのに。
コロナ禍になってから、夫は在宅でずっと家で仕事をしている。書斎でパソコンをしているだけなのに。
家が子供二人や仕事をする上で手狭になったので、夫の書斎や私の部屋が作れるように私好みの億ション分譲マンションを買い、リフォームまでした。
家族四人の外出がしやすくなるように、自動車免許をとりにいき、私好みも車も買った。
そのくせ何か買おうとすると、家も買ったし車も買ったし、服とかも好きに買ってあげてるんだから、我慢しなよといってくる。自分は特に我慢してないのに。
コロナ禍前に夫が夜に出かけようとする。子供のお風呂もいれたし、寝かしつけもしたんだからいいだろうといってくる。
きっと近くにあるガールズバー にいくに違いない。そんなところにいったら浮気だしあれをちょんぎってやる。
私が色々考えて我慢をしているのに、夫は好きな自分のものをかい、夫が買うので私も買おうとすると私だけを我慢させようと文句ばかりいってくる。
夫がモラハラだ。
社会人になればわかることなのかもしれないけど、挑戦も信用も社会とか企業がいってるそれとは全然ちがうよ
まず第一に「なにかを企画し成し遂げよ」なんてことは予算や試算表を作れて初めて任されることでド素人に給料払って自己啓発してあげるところはない
それができる第一線の人間に人足として付かせて使って様式を覚えて再現できるようになってその時々で必要な企画を提案できるようになって仕事がまかされてはじめて挑戦ができる
もちろん、挑戦しないとボーナス査定の基準がないから部署内では努力目標をつくって成果を上司が評価する 素人なりに社内で直接的に売り上げには関わってなくても評価としてボーナスが出るようにね
文中でよく言われている「可能性と期待」の意味での信用なんてない人間に自由にチャレンジしろって学生じゃないんだから給料もらってそんな世界ないよ
信用だけどそういう人間だって評価がなされているから使用者側がその情報をまるのみするかって、情報の出どころや保証機関がいいかげんだったらその情報も信じられないでしょ
信用を得た人、という人となりが崇高なのとかそんな独立して価値が存在するわけないの 自動車免許だってアメリカでとってきたなら日本でのれないでしょ
パトカーの隣に小一時間すわって基本的な動作だけ覚えたらもらえる免許だったら、日本で通じるかい
わー免許だーすごいアメリカ産だからさらにすごいよねだから日本でのってもいいよ、とはならんだろ
若者から言葉巧みにやる気で目を輝かせて財布から金を出させて領収書も切らず商品も「価値ある時間」とかで済ませたものを会社は何の名目で計上すんのその売り上げ
価値ある時間クリエイターとか主な事業内容として定款にあるんかね
脱法してるやつはそれなりに理由があるし法人なりしてないやつもそれなりに理由がある 圧倒的に社会的責任が足りてない
そんな泥沼で積んだキャリアが何の役に立つのかって そう聞かれると期待は増してしまうよな ライバル企業つぶすために非合法な集客するとか噂ながすとか 相手の企業に入り込むとか
たしかにそういう需要はでてきそうだ なんか君がいってた事が説得力でてきたな
俺も実際そういうアクションものは好きなので期待できると思えてきたわ
接続するね するわたぶん
とある記事を読んだ。ある配信者が不登校の中学生からお便りをもらった。
「自分は不登校で成績も悪く進学できそうにないから就職しようかとも思っている」という相談者に対して、配信者は「お前みたいなのは死んでるも同然」「今のお前が働ける場所なんかどこにもない」と発言したことが物議を醸しているというのが記事の内容だった。
配信者を非難する声で溢れかえっているのかと思いきや、どうやらそう単純でもなさそうだった。驚くことに配信者を非難する声よりは、「正論」「事実を言ってあげてるだけ優しい」「非難してるやつらは現実を直視できてない」などといった声の方が圧倒的に多かった。
「自動車免許も、車を買うお金もないのにポルシェを買おうと勘違いしているのが今のお前だ」と。
彼らの言ってることはきっと正論なんだろう。社会は学歴を必要とするし、義務教育を受けるのは当然のことだ。
僕がその中学生に共感するのは、僕も中学を卒業したら高校に行かずに”どこかその辺に就職したい”と思っていた時期があるからだ。
高校に行って勉強するよりも、適当に就職して、適当に好きな本でも読んで暮らす方がいいと思えたからだ。
そこに車を運転したいという考えは微塵もないし、ましてや分不相応にお金持ちになりたいという気持ちもない。
「就職したところで上手くいくわけない」「自分のやりたいことがあとから見つかっても取り返しがつかない」と言う人もいるかもしれない。本当にそうだろうか。たかだか数年間勉強している間にそれらの障害が自分の知らないところで解決されているものだろうか。
彼らは”そうあるべき”だから”そうしろ”と言って責めてくるけれど、そこにどれほどの”自分の考え”があるのだろう。いったいどっちが社会を、いや、”自分の人生や自分の考え”を真っすぐに見つめたことがない人間なのだろう。
ああ、もちろんそれはきっと僕たちの側だ。こんなことを人前で言えば「君はまだ大人になれてないんだね。現実が見れないなんてかわいそうに」って目で見られる。
自分自身、高校や大学に行ってよかったと思ってる。でもそれは敷かれたレールに乗って、周りと同じように行動することで疎外感を覚えず、楽に生きてこられたからよかったという意味じゃない。そして同時にあの時進学せずに思うがまま生きていたらどうなっていただろうともよく考える。
たかだかネットの1記事に対する反応とは言えど、この中学生を責める声の多さに、今の社会の様相、はみ出し者に対する不寛容さが取り返しのつかないほどひどくなっている様を目の当たりにした気がしてならなかった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1613035
ここにあるのは
だけどこの中で誰も自分がAEDを使ったり、講習を受けたり、AEDで命を助けられたり、その家族だったりする人はいませんよね。
リスクを承知で人を助ける気高き精神も、リスクを回避するために立ち向かわない勇気も大事ですが、まずはAEDそのものが何なのかをわかってから発言しても遅くないでしょう。
AEDを含めた救命措置にはちゃんとした講習が存在します。コロナの影響で中止になっていたのですが、ようやく再開したのでこれを機に是非受けてみてはいかがでしょうか。
AEDは機器の更新や救命ガイドラインの変容もあって、数年単位でやり方が変わってきます。自動車免許で必ず受けるはずですが10年も経てば全く違う印象を持つことでしょう。
やり方がわからないなら、いくら議論しても無意味です。そしてやり方がわからないなら、勇気を持ってわかる人に託したり、自分で積極的に講習に参加してください。
「数学における意味」という言葉が未定義なので、数学的には意味不明。
可換群を取り扱っているのなら、可換群の性質を使って問題を解くことを間違いとする理由が見当たらないし、
恣意的に正解、間違いが決められてしまう「ぼくの考えたさいきょうのすうがく」を勉強させていることになり、不条理でしょ。
自動車免許の問題で「原付自転車は50km/h以上で走行してはいけない」という問題が○か×ってので、30km/h制限だから、論理的に考えれば50≧30なので○のところを、
「×。制限速度は30km/h以上なので30km/h以上で走行してはいけないから」という回答を要求される有名な不条理問題ぐらいに、論理が破綻している。
上京して何年経つだろう?
私は、車の運転ができない。
免許はある。
浪人した時に親に言われて、
お母さんは30過ぎて自動車教習所通って苦労したからねー」と。
言われるがまま教習所に行き、
初めて車の運転をした時はとにかく怖かった。
それはもう20年前か。
免許取得後に親の車に乗ったけど、
隣で母親が「ぎゃーーー!」と叫んで、途中で代わってもらった。
友達が「運転してみる?」と言うので、デカい車の運転をしたら、
割り込まれ「ぎゃーーー!」ってなった。
運転したのは、その2回だけだな。
私は運転にむいてない。怖い。イヤだ。イヤだ。
なんであっちもこっちもみれるんだろう?
浪人した末、東京の大学に合格し、上京したが、運転する事は一度もなかった。
車の運転をしなくてもどこにでも行ける事だと思う。
幼少期からどんくさく、
出会った男性や地元の女性が車を運転できるだけで「すごい!!!」と思ってしまう。
ごめん。本当にごめん。車なしじゃ暮らせないもん。ごめん。
都知事選挙の期日前投票をするために市役所へ行ったら、マイナンバーカードの無料の写真撮影と申請サポートをやってるということを知り、後日(今日)、申請に行ってきた。
ちなみに申請書は無くしていた。持っていったのは通知カードと身分証明書の自動車免許証。
窓口でマイナンバーカードを作りたいと言うと、一枚書類を書かされ、その書類を元に一部の情報が印字された申請書が作成され、写真撮影の場所に連れて行かれ、写真を取り申請書の空欄に名前とか住所とか電話番号と書いて、写真貼りと封筒の封は役所の人がやってくれて、ポスト投函自体は自分でやれということだった。
つまり、通知カードと身分証明書さえあれば、市役所でとても簡単に申請出来るので、9月からはマイナポイントも始まるし、まだマイナンバーカード作ってない人は作りに行こう。
30台後半を過ぎて初めて自動車免許を取得した。
これが最後のタイミングだと思い、なんとなく教習所に通い出した。
初めて運転した車はとても怖く、毎回毎回手汗でびっしょりハンドルを濡らしながら、
若々しい受講生の中でなんとなく肩身の狭さも感じながら、
取得した免許は、嬉しかったというよりもやっと取れたという開放感のほうが強かった。
それを無駄にはしたくなかった。
毎回、毎回、緊張しながら、手汗でハンドルを濡らしながら
そうこうして一年ほど経って、気がつけば運転が楽しくなっていた。
程よく緊張しながら、程よく集中しながら、リラックスして運転できるようになっていた。
1時間も運転すれば、心地よい疲労感とともに頭もスッキリするようになった。
もちろんまだまだ、緊張もするし、もし事故を引き起こしたらと考えると非常に怖い気持ちになる。
でも、運転が楽しくなってきた。
次はどこへ行こうか。