はてなキーワード: 探究とは
荒木村重が裏切ったことは、まだキャリア構築途上の中堅が、よりよい待遇と職場環境を求めてのこととして理解できる。彼が離反したのは痛手だが、彼個人の選択として理解できるものであるし、そのことによって我々の体制が本質的に変化を迫られることはない。
浅井長政の件は、近親者として陣営の中核として遇してきたので痛手であるし、想定外のところがあるが、家庭に関しての彼なりの事情があったので致し方がないという所だろう。ちょっとだけ丁寧にやっておけばよかったという反省がある程度だ。
松永久秀に至っては元々がジョブホッピング的な人間なので織り込み済みと言ってもいい。
ところが明智光秀は我が軍のエースの1人である。これまで他陣営からの誘いも数多あったであろう中で一貫して我が国でキャリアを築き、世界に冠たる実績を残してノーベル賞候補とも言われる人材だ。キャリア終盤でもあり、生活も安定しており我が国の中でも名声を得ているので、彼を動かしたのは目先の待遇などではない。彼個人の探究心と向上心に応えるものが我が国にはなく、あの国が提示した条件の中にあったということだ。彼のキャリアの最後に残された10年程度の時間を有意義に使い、世界の中にしっかりとした足跡を残し、そして自分の研究分野自体を前に進ませられるようなロマンを感じたということである。そして、我が国はこれまで、世界の中の中心ではないものの、希望と夢を与えられていたからこそ個々の成員の優秀さと勤勉さもあって成長してきたのだが、もはやそのような国ではないということなのだ。
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友人と遊んだあとすっかり辺りも暗くなったので家に帰ろうと電車に乗った。
電車に乗ると同時にちょっと独特なにおいがしたが最初はそんなに気にしていなかった。
おおよそ近くに乗っていた人はみんな気付いているといったレベルのにおいだ。
においがするだけならまだ良かったのだが、近くに座っていた女子高校生が何やら大きな声で陰口を叩き始めた。
それがまあ容赦がない。
聞いてるだけで胃が痛くなってくる。
さらに、多分その女子高校生たちは私が発しているにおいだと勘違いをしている。
さらに胃が痛くなってきた。
冷静に思考し、電車を降り、確認まで行った今なら言えるが私はにおいの主ではない。
ただその時はそれがわからず、ただただこのにおいが私のものかもしれないという不安に苛まれていた。
そのにおいはあたりに散布され、乗客に行き届いていた。
かたやにおいを振りまく謎の人物、かたやそれを受け呪いを撒き散らす女子高校生。
板挟みにされ、はやく時が過ぎてくれと願うばかりであった。
そんな時、転機が訪れる。
割と人が降りる駅に着いたのだ。
ここでにおいの主か、女子高校生が降りてくれれば私は救われる。
人が動き出し、においは一瞬なくなったかに思えた。
丁度人が降り、空いたスペースにおさまるとなにやら異常を感じる。
なんと、においの主は風上に移動したのである。
エアコンの風にのり、においがわたしにダイレクトにくるのを感じた。
だがそれだけならまだ良かった。
「ここやば〜い!」
(あ、終わった)と、確かにそう思った。
ここで完全ににおいの主が私であると彼女たちの中では決定されてしまったのだ。
彼女たちは散々大きな声で車内のにおいに文句を言った挙句、においが消えたのにもかかわらずさらに探そうとするのだ。
何が彼女たちをかき立てていたのだろうか。
それから一駅、生きた心地がしなかった。
続く陰口。俯くことしかできない不甲斐なさ。相変わらず謎のままのにおいの主。
女子高校生は私に「におってますよ」と教えるか否かの議論を始めた。
ここでの私はにおいの主がわからないため、指摘されたら素直に謝ろうと思っていた。
そして駅に着いてドアが開く。
その駅はかなり人が降りる駅だったので人々が波を作りながら降りていった。
私はその時はじめて心から息ができた。
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とにかくどこかに吐き出したくて文章を書いたが、おもったよりもたくさん書いてしまった。
ここで声を大にして言いたいのだが、私はそういった「におい」のある人を貶したいわけはない。
かといって、女子高校生たちを責めたいわけでもない。
以下は小山田圭吾さんの辞任騒動をきっかけに、SNSの問題やマスコミの姿勢についての疑問、虐めの本質とは何かを私なりの視点で考えた物です。
本来はTwitterで呟くつもりでしたが、かなりの長文となってしまいましたので、こちらで書く事にしました。
基本私はTwitterであまり呟く事はないのですが、ファンである小山田さんの擁護をきっかけに今回の炎上の渦中に入りました。
そんな私のツイートにリプして来た人の殆どが汚い言葉を使い、怒りの感情をぶつけて来ました。私はそれを〝攻撃〟と呼び、ミュートやブロック等でスルーしましたが、冷静に対話出来ると感じた人とは出来る限りやり取りしていました。
そうしたリプの中に、障害者と直接接触する機会がなかったのか、TVドラマによくある表現に影響されたのか、「障害者は純粋である」とか、障害者はとにかく「被害者となる対象(弱く可哀想な人)だから優しくしろ」と思い込んでる人が多い印象を受けました。「障害者が小山田の音楽を聴く訳がない」と言う人もいました。
しかしそれこそが私は差別的だと常々思っていて、それを今回の辞任騒動で再認識しました。
障害者の中にはして貰って当たり前の態度の人もいれば、席を譲る等の声かけに強く拒む人もいるし、嘘をつく人もいます。多様な人格や価値観があるのは健常者と一緒です。
(その点ではQJを見る限り、小山田さんは障害者である沢田さんを事細かに観察し、〝探究心〟で接しています。先入観なく人を知ろうとする姿勢そのものは、虐めはともかく差別はしていないと思います。)
それを想像せずに叩いて来るのは〝正義感〟ではなく〝傲慢〟であり、自己中心的な価値観の〝押し付け〟でしかありません。
そもそもSNSにおいて、なぜただの擁護者までも攻撃するのでしょう。それはまるで、殺人犯の家族まで同罪のように扱うのと同じ事です。
いえ、元々そう言う思考を持っている人達が攻撃しているのかもしれませんが。
攻撃は問答無用で人を傷付ける事ができます。その武器が言葉なら、傷が目に見えない分だけどこまでも攻撃でき、相手が死のうとする迄のダメージを与えていても気付かないのです。その行為こそが「虐め」そのものなのに。
誰かを虐める理由のひとつとして、相手と同じ立場に立った時の想像力が欠けている〝経験の浅さ〟があると思います。それだけなら大抵は躾や注意で改善されるでしょう。
それが駄目なら実際にその立場に立った時にしか気付けないかもしれません。
他には承認欲求が満たされないストレスがその行為に繋がっていると見られるパターン。
劣等感は内に向く人と外に向く人とがいて、内に向く人は自分に自信がなく自分を責めて病む。外に向くと他人を見下したり攻撃的になりやすく、虐めに発展しやすくなる。
劣等感の元は無意識下にあるので、罪悪感が伴わないのではないでしょうか。
最近になって本当にケアが必要なのは虐める側だと言われていますが、そこに本質があると思います。無意識にストレスが存在したままの人は、今回のような出来事がスイッチとなり、ヒステリーを起こすのでしょう。
虐められる側には理由がなく、仮にあったとしても虐めていい理由にはなりません。だから世間は虐めを許さないと言う。学校や会社と言う限られた世界でそうならば、今回の件は異常なまでの規模での虐めです。
しかも真実の検証も本人の説明の時間もない完全に不利な状況で始まっているのです。
それをマスコミはこのまましれっと終わらせようとしている空気になっていますが、私自身は謝罪しない限り許す気はありません。何が出来る訳でもありませんが。
煽られた攻撃者は個人なので、私が何かを要求する義理はく、真実が世に出た時は黙っていればそれでいいと思っています。ただ、最初に誤情報を拡散した人は別ですが。
ここまでで私が言っている事は虐めを容認している訳ではないと解るはずですが、そうでない人は読解力が足りないと言っておきます。
どんな場合でも相手を理解しようとする姿勢で対話しなければ、お互いの考えや価値観を知る事はできません。その上で解り合えなかったとしても、認め合う事はできます。
いきなり断罪しては真実も何もあったものじゃ無い。まだ「真実」には辿り着いていないのだから。
現時点で検証しているのは擁護側(しかも個人)だけで、本来は攻撃側もしなければなりません。QJ全文を読んだけど印象は変わらなかったと言う人がいますが、それは検証ではなく文字通り〝印象〟で留まっているだけに過ぎません。
しかし、双方が検証をしてもやはりまだ〝検証〟の段階でしかなく、何割が、どこが嘘か真実かは
それら全てが揃って始めて〝真実〟と呼べるのではないでしょうか。
こういう事を書くと「汚名を晴らしたいなら本人が会見すればいいじゃないか」等とよく言われましたが、普通に考えればパラリンピックが終了しないとタイミングとして難しいと思います。
オリンピックは終了したと言っても今回の発端が〝障害者を虐めた〟である以上、パラリンピックではより過敏にならざるを得ず、水を差す事になりますから。
私はまずそこまでは待ちたいと思っています。
会見が行われた場合、雑誌社からの証拠の提出やライター本人の釈明がなければ、小山田さんの発言が全てとなります。
そして世に出た情報が嘘であった場合には、彼がこれまでと同じ活動が行えるようになるレベルでの、マスコミやコメンテーターの謝罪を含まなければ終了にはなりません。
逆に、証拠が全て揃わなければ言い訳としか取らない人がいる事は容易に想像できますが、その場合は雑誌社を追及するのが正しい姿勢です。
会見がなかったなら、被害者とされる人が虐められたと思っていたとしても、謝罪文を出していれば本来は〝社会的〟には終了する話であり、これ以上叩く必要はありません。
本人に謝らなければ意味がないと言うならば、謝罪文には〝本人に連絡を取り直接謝罪したい〟と書いてあります。連絡が取れて受け入れられなかったとしても、後は当事者同士の話であり、外野が口を出す事ではありません。会えなかったとしても同じです。
本人に連絡を取っても傷口を広げるだけだと言う人もいますが、それも当事者の問題です。何故なら
その点について言及する人を少なくとも私は見た事がありません。攻撃者が常に小山田さんが〝許されない〟事を前提で話しているのには疑問が残ります。
また、この件について同じ経験のある人を刺激したという声もありますが、それは小山田さんだけが悪いのでしょうか?
確認しておかなかったJOC、沈黙したままの当の雑誌社、問題になったブログ、検証なく報道したマスコミ、間に受けて拡散・コメントしたタレントや識者、それに煽られた一般人。
無闇に人の目に入るような形にしたのは決して小山田さんだけのせいではありません。その点は責任転嫁ではないかと思っています。
本来マスコミは、検証、取材、時代背景、あらゆる面からひとつの物事を捉えてからでないと報道するべきではありません。憶測がひとり歩きするような今回の事態は普通ならあり得ないのです。エンタメ的な雑誌やワイドショーならともかく、公的なニュースを慎重に考察した上で伝えるはずの新聞や報道番組でさえ、エンタメ化しているようにしか私には見えませんでした。
しかも著名な識者までもが感情的にコメントしていた事には愕然としました。連続殺人事件のような大きな事件ですら、冷静にコメントしているのにです。
国民の半数が反対していた五輪だったからなのか、コロナ禍でのストレスが噴き出したからなのか、とにかくどこでも爆発的に感情が横行していた事に唖然としました。
敢えてTwitterの炎上に飛び込みましたが、その異常さを目の当たりにして、文字にここまでの殺傷能力がある事に恐怖を感じました。
木村花さんの出来事が遠い昔でも無いのに、こんなにも簡単に忘れてしまうのかと。
また内容の是非はともかく、その後に起こったメンタリストのDaiGoさんや、アーティストの大森靖子さんの騒動は、ご本人の口から出た確実な証言です。
それを考えると、小山田さんの場合は本来、ここまでのバッシングを受ける物であったのだろうかと違和感を覚えます。
ここまで書いて、ただの擁護という印象を持たれる方もいるかもしれませんが、一度冷静に考えて欲しいのです。「小山田」と言う主語を、貴方の敬愛する誰かに当て嵌めて。
そしてそれを守る為にその時、自分はどうするべきなのかを〝想像〟してみて下さい。
傷つける人、傷つく人が一人でも減る事を祈って。
文科省 「慰安婦」閣議決定受け教科書会社対象に異例の説明会 | NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210618/k10013092571000.html
いやもちろん表題の件も悪いんだけど、
今、高校の地理歴史科では、どこも来年からスタートする「歴史総合」の教科書選定作業に苦しんでいるはずなのだが(というのは7社12冊もあって、その全てについて一応「調査」した体で記録を残さないといけない)、
ざっと見た限り、従軍慰安婦について記述している教科書、一冊もないのよ(うっすら匂わす程度はあったかも知れない)。
ちなみに7社12冊の内訳は以下。
・東京書籍(2)
・実教出版(2)
・清水書院(1)
・帝国書院(1)
・山川出版社(3)
・第一学習社(2)
・明成社(1)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/tenji/mext_01383.html
何がまずいかと言うと、新学習指導要領における必修の歴史科目は歴史総合のみで、
しかも扱う内容は近現代を中心に置く構成なのに、その記述が1冊もないようでは、
日本として慰安婦問題に真摯に取り組んでいるという建前が崩壊してしまうのよ。
遅かれ早かれメディアでも取り上げられて、隣国からの追及を受けることになるだろう。
いやマジで、1冊もないってどういうことよ?
ちなみに歴史総合の発展科目である「日本史探究」「世界史探究」の教科書見本はまだ出来上がっていないが、これらは必修ではない。
これは神学命題。プロテスタンティズムと決定論に対して言及がないので不完全。
アメリカの歴史の初期においてピューリタンが重要な役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。
フス戦争やカルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学的決定論)である。カンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」
というのがあった。
こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。
人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。
因果が逆転してるというかなんというか。
この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!
となっていった。
(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイプのプロテスタントもあります)
「世俗社会の修道院化」によって、日常生活の全てを信仰と労働に捧げる。
節制と禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神で禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。
この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。
勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像の象徴。
…というあたりで、発展しすぎた禁欲的資本主義は本来の宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。
自己研鑽しない者たちに対する憎悪や侮蔑は、従来の「つまり予定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。
・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神"という本とかで書いてたこと。
今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである。
(なぜならそのほうが発展に有利だからね)
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補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸のカリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からのカトリック移民が多いからです。
ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想的原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的にOK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。
そして何より、【西海岸のリベラリズム】と対極っぽそうな南部のバイブル・ベルト。
この地域は基本的にプロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的。
ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想が固定化されたっていうのとかありそう。
初期段階のものでもドンドン興味をもって取り組んで、黎明期のスピード感を体験しつつ熱が冷めたらさっさと違うものに移っていけて羨ましい。
単に飽きっぽいのではなくて、中級者程度までは楽々進めるしそこからの見切りも格好いいところがある
確立された趣味やジャンルでもいきなりトップスピードで吸収するから恐ろしい
能力があるから初歩的な部分はさっさとクリアできるので、よくある初心者本を買っただけで終わる人とは全然違う
少し進んでから自分に合ってるかどうかで継続性を判断できるので一定の経験値も得られる
効率厨と揶揄されガチだけどそんなの振り切れるスピード感と探究心と好奇心があっていいよね
単に趣味が多くて中途半端って人ではないし、同じジャンルにただ居座ってるだけの人でもない
https://www.watch.impress.co.jp/kodomo_it/special/1326404.html
低スペックの1人1台PCを生徒は使わない! 高校GIGA、情報科教員が語るICT環境整備のポイントとは
――「公立高校で生徒1人1台のPCを5年間活用して分かったこと~Windowsのメリット~」レポート
提供:
赤池淳子
GIGAスクール構想によって、すでに1人1台を経験した中学生が高校に進学しているが、高校の1人1台環境整備はこれからであり課題となっている。高校では2022年度からプログラミング教育を含む「情報I」が必修化されるほか、2024年度の大学入学共通テストからはCBT方式の導入も予定されており、ICT環境整備は急務である。
日本マイクロソフトは5月15日、学校関係者に向けて高校での1人1台活用をテーマにしたオンラインセミナー「公立高校で生徒1人1台のPCを5年間活用して分かったこと~Windowsのメリット~」を実施した。登壇したのは、東京都の「ICTパイロット校」としてGIGAスクール構想の前から1人1台環境に取り組んできた東京都立三鷹中等教育学校(以下、三鷹中等教育学校)の能城茂雄教諭。プロジェクトの担当者として5年間にわたる活用の中で得られた知見や、様々な実践的ノウハウが披露された。
東京都立三鷹中等教育学校での1人1台活用の様子(能城教諭提供)
「ICTパイロット校」における1人1台のPC整備、5年間の遍歴
三鷹中等教育学校は、中1から高3まで6年間を通して学ぶ公立中高一貫校。1学年160名で、計960名の生徒が学んでいる。同校は平成28年度からの4年間、東京都教育委員会から「ICTパイロット校」として指定され、1人1台環境における教育効果の検証に取り組んだ。
1〜2年⽬:高校生はスマホに比べて性能が劣るPCの利⽤率が徐々に低下
初年度となる平成28年度は、中学生全員と教員に合計560台の端末が導入された。機種は、富士通のWindowsタブレット「ARROWS Tab Q506/ME」。中学生が使用することを考慮し、堅牢性を重視した「文教モデル」が選ばれた。また2年目は、導入済の端末は生徒の進級とともに端末も持ち上がり、新1年生には「ARROWS Tab Q507/PE」が配備された。
能城教諭は2年目の振り返りとして、「この頃から、生徒の使用にはPCスペックが重要であることが分かってきた」と述べた。特に高校生の場合、スマホの持ち込みや使用を許可しているため、高性能なスマホに比べて、スペックが劣るPCの利便性を生徒が感じられず、利用率の低下につながるというのだ。「高校生だから性能の低いパソコンで良いという考えは間違っており、大人でもそうしたパソコンを仕事で使うと不満が出る。これは高校生も同じであり、生徒たちも学びに使う道具が不便であれば使わない」と能城教諭は述べた。
低スペックPCは、高校生が所持しているスマホより不便。そんな高校生に対して、低スペックPCでも良いという考えは間違っていると能城教諭
3〜4年目:PCのスペックを大幅アップし、生徒のPC利用率が上昇
こうした経験を踏まえて、3年目・4年目の機種選択時には、学校の要望としてスペックを充実させてもらうよう、教育委員会にも届けた。その結果、「私たちの意見を受け入れてもらい、PCの性能を大きく上げてもらった」と能城教諭。一般のオフィスで使用するのにも十分なほどの高性能モデル、富士通Windowsノートブック「LIFEBOOK P728/S」が導入された。
これにより、生徒たちがサッと端末を取り出して、調べ物やまとめる作業がしやすくなり、授業での活用頻度もアップ。「生徒たちがPCを使って”やってみたいな”と思えることをできるようになったほか、教員も新しい学びに挑戦できるようになった」と能城教諭は話す。
3~4年目に配備された「LIFEBOOK P728/S」。CPUやストレージ等が性能UP
5〜6年⽬:PCが教科書・辞書・ノートと同じように学習活動に使う「⽂房具」に
その後、4年間のICTパイロット校としての取り組みに一区切りがつき、同校は5年目に新たに「Society5.0に向けた学習方法研究校」として研究指定を受けた。能城教諭は4年間の検証を振り返り、現場では「PCのスペックが導入効果に大きくかかわる」と判断。スペックが高いPCほど生徒の学習深度への効果は高く、メンテナンス性などでも有利だったと話す。
同教諭らは、こうした意見を教育委員会に主張し続け、現在の中1・中2年には「Surface Go 2 LTEモデル」が導入された。CPUには同機種の中で最も高性能なインテル Core M3が搭載。メモリーは8GB、ストレージはSSD 128GBを選択し、十分すぎるくらい快適な動作が可能になった。能城教諭は「GIGAスクールで導入されたような端末では、ICTを活用した新しい学びのカタチを実現できない」と述べ、ある程度のスペックの必要性を説く。
令和2年度・令和3年度に配備された「Surface Go 2 LTEモデル」。CPUにはSurface Go 2の中でも最も高性能なインテル Core M3を搭載
実際、導⼊されたSurface Go 2では、「⽣徒たちは教科書、辞書、ノートを出すようにPCを出して学習活動を⾏なうことができている」と能城教諭。同時に教員⽤のPCも平成28年度に導⼊されたタブレットPCから、生徒と同じSurface Go 2に変更。教員からの評価も⾮常に良いという。
通信環境から保守契約、教員の働き方改革まで……1人1台PCの運用ノウハウ
能城教諭の5年間の取り組みから、これから1人1台PCの運用を始める学校が学ぶべきことは多い。当日語られたいくつかのノウハウを紹介しよう。
三鷹中等教育学校のインターネット環境は、LTEが活用されてきた。具体的には生徒1人あたり7GBのパケットをシェアパックで利用。1040人分で合計約7TBの通信が可能となっており、コロナ禍の活用を含め、これまでパケットが不足したことはないそうだ。
・大人より荒くなるPCの扱い。導入時に何らかの保守契約は必須
ハードウェアについては、決して故意に壊すわけではないが、登下校や学校生活の中で故障は一定数発生すると能城教諭。生徒の負担なく修理できるようにするため、「初期導入時に何らかの保守契約は必要だ」と同教諭。
・ICT支援員の需要は高い。毎日の常駐が無理でも定期的なサポートを
三鷹中等教育学校の場合、専任の「ICT支援員」が1名派遣され、ハードやソフトに関するトラブルや不具合に対応。毎日の常駐が難しい場合でも、定期的に支援員のサポートが受けられる体制が望ましい。
・教員の会議もペーパーレス化、コロナ禍の遠隔会議もスムーズに
教員にも1人1台PCが配備されたことで会議も変化。ペーパーレスで行なうことになり、教員が資料をPDFで提出し、それを管理職がまとめて出席者に送信。会議前にコピー機が渋滞したり、資料を綴じるのに時間を取られたりという手間がなくなった。これによりコロナ禍の遠隔会議もスムーズに実施できたようだ。
・教育委員会と協議を重ね、子どもたちの将来を見据えた端末を選ぶ
能城教諭はGIGAスクール構想で導入されたスペックの端末について疑問を呈し、「子どもたちが大学に進み、社会にでて仕事としてPCを使うことになったとき、果たしてその経験は子どもたちの良い経験になっているでしょうか」と訴えかける。学校はソフトウェアやOSの操作を教えることが役割ではないが、子どもたちの学びが良い経験になっているかを考える必要がある。能城教諭らは、どういう端末が子どもたちの将来にとって力になるのかを考えながら、教育委員会と意思疎通を図り端末の整備と運用を進めているという。
1人1台PCがあっても、「コンピュータ教室」は欠かせない。その理由は?
1人1台環境が進むとコンピュータ教室はもういらないのではないか、という議論が起こりがちだが、能城教諭はこれを否定する。むしろ、生徒各自の端末とコンピュータ教室にある高性能なPCの“使い分け”が重要になり、「時代に応じたプログラミング技能の習得や、動画編集などのクリエイティブな作業に取り組もうとすると、どうしても高性能なPCは欠かせない」と語る。
現在、三鷹中等教育学校には「第1CALL室」と「第2CALL室」があり、2教室で合計80台の高性能なデスクトップPCが整備されている。情報の授業で利用するほか、能城教諭が出勤する時間から最終下校時間まで、生徒が自由に利用できるようになっている。パワフルなPCや大画面、高速ネットワークを求める生徒でコンピュータ教室は常にいっぱいだという。
1人1台PCが配備されると、コンピュータ教室の役割はより重要に
パワフルなPCがあるコンピュータ教室のメリットに生徒が気づきはじめる
生徒たちの利用は、「Adobe Photoshop」や「Adobe Premiere Pro」など写真編集や動画編集の用途でコンピュータ教室を利用するケースが多いようだ。同校ではコンピュータ教室のPC 80台すべてにAdobe Creative Cloudが導入されており、生徒たちはパンフレットや小冊子の作成、部活動紹介の動画制作、学習発表のプレゼンに盛り込むショート動画などを作成しているという。クリエイティブな作業はコンピュータ教室のPCを使うなど、生徒たちは自分のタブレットPCとパワフルなPCをうまく使い分けているようだ。
1人1台環境を導入する前は、総合的な学習や探究の時間など、様々な教科でコンピュータ教室を使用し、常に取り合いになっていたようだが、導入後は、多くの教科活動が普通教室で実施できるようになった。結果、コンピュータ教室の用途を、ここでしかできないクリエイティブな活動に舵を切れたという。
冒頭でも記述したとおり、各高校では現在、2022年度から必修化が始まる「情報I」の準備が急ピッチで進められている。学校には「情報I」の教科書の見本が届き始めているそうだが、その内容は、アルゴリズムをプログラムとして表現、さまざまなライブラリの利用、APIなどの機能、プログラムの修正、関数を用いたプログラムなど多岐にわたる。
この内容を、果たして1人1台PCで学べるのか。または教師も教えられるのか。プログラミングの小さな文字をどういうふうに伝えるのか、マルチメディア系の教材を使うときの授業準備はどうするのか。「これらを考えたときに、必ずコンピュータ教室が必要だと言える」と能城教諭は述べる。
「情報I」の学習内容に対応するため、実習環境の整備が進められている
さらに同校では、一般的なコンピュータ教室だけでなく、「生徒たちが憧れるようなすばらしいスペックのPCがあれば、よりクリエイティブな活動ができるのではないか」と考え、アドビ社やインテル社との共同研究で「メディアラボ」も開設。
CPUにインテル Core i7、メモリー32GB、グラフィックカードにNVIDIA GeForce RTX 2060 SUPERを搭載。4Kの31.5型ディスプレイを備え、制作ソフトとしてAdobe Creative Cloudが導入済みというハイスペックな環境を8台用意。動画編集のクリエイター養成講座を行なうなどの取り組みも始めており、生徒たちが自由に作品を制作できるような環境も提供し始めた。
動画編集の集中講座を行なうなど、よりクリエイティブな活動にも対応
こうした取り組みを振り返り、能城教諭は改めて、これからの新しい学びには「1人1台PC」と「コンピュータ教室」の両方が必要であり、そのどちらも生徒の自由な発想に応えられる十分なスペックが必要だと話す。
「1人1台環境は、生徒たちにとって非常に魅力。個別最適化された学びなど、1人1台のPCがあることによる学習の変化、メリットは必ずある。それに加えて、プログラミングやクリエイティブな作業は大学入試でも、Society5.0時代に向けてもますます重要になってきた。1人1台PCも、充実したコンピュータ教室も、新しい時代に即した学びによって、生徒たちの情報活用能力を育成することが、私たち現場の教員の願いだ」と能城教諭はまとめた。
・映画鑑賞...7年くらい
バイト先で知り合った友達とミニシアター系はしごしてたりした。
映画好きが高じてシナリオライターを目指すも、半年くらいかけて書いた作品がゴミのように捨てられるのを目の当たりにして挫折。
・カメラ...5年くらい
シナリオライターに挫折した反動で、シャッターを押すだけで写真が撮れるなんていいなあと思って始めた。
街歩きしながら写真撮るのサイコー。現像にまで手を出してヨドバシの兄ちゃんに教えてもらいながら暗室機材一式揃えた。
写真のワークショップにも通い始めてあまりにも自分の才能の無さに気づいて挫折。
・カラオケ...3年くらい
テレビの採点番組見ているうちにどうしても挑戦したくなり、毎週末ヒトカラに通い詰めて歌いまくる。
ボイトレにも通い始めるも先生とウマが合わず、ちょうどコロナの来たタイミングでフェードアウト。
どの趣味もはまっているときは本当に楽しいし、今でも好きなのには変わらないんだけど、一回飽きちゃうと不思議ともう一度チャレンジしようという気が無くなっちゃうんだよなあ。
よく子供の頃から鉄オタで、とか、プラモデル作って何十年、という話を聞くと、すごいなあと思っちゃう。
ずっと同じことやってて飽きたり、他のあっちの方が楽しそうだとよそ見したりないんだろうか。
趣味を長く続けるコツはなに?
自分は毎回こんな感じなので、友達には「あーあ、また始まったよ」と呆れられているし、最近では自分も「まあいつかは飽きるんだろうな」と思ってたりする。
ちなみに仕事はちょこちょこ職場は変わりつつも同じ業種で続けています。仕事LOVE。
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【以下追記】
思ってもみなかったほどたくさんのコメントついてびっくりした。
すごく参考になったし、逆に改めて考えると趣味って何なのかなとわからなくなったりした。
とりあえず趣味で3年とかは別に短くないと知ってちょっとホッとしてます。
結構指摘が多かったけど、承認欲求が強いのは自分でもそうなのかなあと思う。
でも趣味なんだから何でもありなわけだし、承認欲求のためとか探究心のために趣味をやったってそれもありなわけでしょ。
それでもし自分自身も含めての誰からもどんなかたちの何の評価も無かったらそれってやってて楽しい?
40年プラモ作り続けている人だってきっと「今回のはなかなかいい出来だ」と思って嬉しかったりするんだろうし。
あと自分の場合は趣味を長く続けるって言うのもまた他人に認めて欲しい承認欲求の一つになってしまうんだよなあ。
趣味にどんどんはまっていくうちに途中からもう趣味では無い何かに変わってしまっているっていうの、本当にそうだと思う。
考えてみたらもう前みたいにフルスロットルで突っ込んでなくても、映画鑑賞は普通に好きだし、写真はそれまで興味がなかった写真展とかに行くようになったし、たまにスマホで写真撮ってインスタにアップするぐらいはするし。
カラオケだってコロナが落ち着いたら前ほどじゃなくても時々は行くだろうし。
あの熱量で飽きずに今でも続けていたら、それなりの何かになれたんじゃないかと思わなくもないけど、継続が必ずしも力になるわけではないみたいだと今回のコメみて学んだ。
映画は当時まだ仕事が不安定だったこともあって、シナリオ書いたりしてたころは何ならこの業界で食ってこうと半分本気で思ってたし、そんなこともあって7年続いたんだと思う。これはもう趣味とは言えないか。
前に話題になった「カメラを止めるな」を見たときは制作側の映画愛に圧倒されて、あーーやっぱり続けてれば良かったと一瞬思った。
人生長いし、もしかしたらどこかでワンチャンあるかもと今でも心のどこかで思っている。
仕事が趣味と言うコメントもあったけど、どんなに仕事が好きでも仕事100%にはなれないんだよなあ。
脳がそういうつくりなんだろうか。
何かをやりながらまた別の何かをやりたくなってしまう。
歳取って退職したらきっと今仕事でやってるようなことが趣味になるのかも。
それでそもそもこのスレを投稿したのって、実は新しい趣味が始まりそうだからなんだ。
NHKでやってる「ソーイングビー」という番組が面白くて、男の人もソーイングとかやってるのを見てへーーと思っているうちにすっかりはまってしまった。
でもどうせまた飽きるだろうし金ばっかつぎ込んでも、とちょっと躊躇してたんだけど、今回のコメ見たりしていろいろ考えてやっぱり挑戦することにした。
それでも何とか職業ミシンを買うのは思いとどまって、初心者用の安いやつにした。
で、例によってさっそく近所の洋裁教室もリサーチしてコロナが落ち着いたら通ってみようと思ってたんだけど、これはしばらく様子みることにした。
いきなりトップギアではなく、ゆっくりやって長く楽しむようにしようと思う。
まずはマスクでもぼちぼち作ろうかな。
まあ基本暇なのかもね。
この人は読書を趣味にしたら小説を書くのかと書いた人、爆笑しました。それは俺だ。
そう言えば小説書いてた時期もあったわ。いいなと思って突き詰めていくと、どうしても作る側に回りたくなってしまう。
早生まれで小さかった兄は、早生まれハンデはあったけど平均点な子供だったと思う。
逆に弟は初夏の生まれなのに、成長がのんびりで性格もおおらかで甘えん坊だった。
まず最初にグレーを感じたのは、まわりの子供に比べて読み書きが遅かったり、会話をしていても兄の小さい頃とは違うというか、、、言葉を選ばずに言うと正直、頭が良くないなと思っていた。
好きなものへの探究心は凄くて、それが逆に病気っぽいとも正直感じていた。
小学校に入学すると、忘れ物とか、テストの点数とかで気になるところが更に増えてきた。
家で勉強のことを聞くと泣いたりして、家庭教師を付けたりもした。
正直どうしたらいいのか分からなかった。担任の先生が良い人で放課後にサポートしてくれたりはしたけど、薄々グレーなことに気がついていた。
この春から週1だけ別の教室でサポートを受けることになった。診断受けましょうとは言われてないけどそのうち言われるのかな。
漢字テストは書けないから、特例で再テストいつも受けさせていいかと聞かれたときは驚いたよ。やる気はあるけど出来ないって辛いよねきっと。
物凄いアホ高校出身らしいと聞いたが、好きなことで起業して成功したのに、自業自得でポシャって離婚されて貧乏してる。
私も夫も兄も普通なのになんでだろう。
うちの子供は高校生になったとき、大人になったとき、社会人になったとき、どんな姿なんだろう。年金で子供を食べさせるなんて正直嫌だよ。生んだのは私なので責任取るしかないんだろうけど、気が重いよ。
ぶっちゃけ診断がおりたら障害者雇用とかもあるのだろうか。でも多分そこまでじゃない気がする。
どんな風にこれから生きていくのかなぁ。
一つは解脱者と呼ばれる連中だ
30年代に登場した副作用の少ない強力な性欲減退剤や精神安定剤を自らの意思によって服用し、甲斐性といった性役割から降りて趣味や仕事の世界に生きている。
といっても彼らに出世欲は湧かず、生活や趣味に最低限必要な金銭しか稼ごうとしないものが多い。
自らを、性欲奴隷から解放されて人生を謳歌し、真理を探究するものと称しているが、実態は誰からも求められなかった苦しみの末に薬を服用した逃亡者たちがほとんどである。
政府が事実上の一夫多妻制とみなせる独身税の設立や母子家庭の支援強化といった制度制定が追い風となり、
気持ち悪くて弱い男が恋愛市場から退場することを求める女性の主張はもはや隠されず社会にて声高に叫ばれるようになったため、逃げざるを得なくなったとも言える。
彼らは確かに苦しみから解放され穏やかな顔をしているがどこか目に陰りが見えると言われている。
二つ目は”妄”目者と呼ばれる連中だ
太古から男たちは妄想にある理想的女性の偶像を崇めていたが、ついに現代ではテクノロジーの粋を集めて女性の妊娠機能以外のほとんどを代替できるサービスや商品が実現されていた。
最も一般的かつ人気のあるサービスは、仮想人格を主体として顧客の生活にシームレスな憩いを与えるものだ。家ではヒューマノイドや台所のロボットアームに宿り、直接触れ合いながら充実した性生活を送ったり、”愛妻料理”を楽しむことができる。
外出先や勤務先ではXRグラス上に完璧な偶像に宿った仮想人格が現れ、取り留めない会話をしながら日常の通勤や仕事休憩中に彩を与えてくれるだけでなく、外食や旅行さえ一緒に楽しむことができる。
本人たちは幸せそのものだが、傍から見ると虚空と話し心を通じあわせている姿は異様である。既に彼らの心は現実世界にはなく、自らを受け入れいなかった社会や人間に対して目を閉ざしてしまった。
しかし、見たいものだけを見るには金が要る。最新のソフトウェア及びハードウェア技術を寡占する巨大tech会社たちにサブスクリプション方式で少なくない金額を払い続けられる、盲目で居続けられる者は一部の稼ぎのいい上位職者や技能のある者に限られた。
よって、稼いだ金銭では仮想人格を一定期間しか呼び起こせずサブスクリプションが切れた悪夢に耐え切れず解脱者となる者も少なくない。
意味はそのままで男性の上位2割がこの上位者とされるが、明確な認定基準などというものはない。
生まれてからずっと解脱者や盲目者に逃げるまでもなく自然に他人を愛し愛され、幸せを享受できていることで初めて自分が上位者だったと知るのである。
よって女性たちは上位者をあくまでも”普通の男の人”と認知しているが、解脱者や”妄”目者からは種付け馬と揶揄されている。
恋愛や婚活市場の男は上位者しかおらず、先ほど述べたように事実上の一夫多妻制が実現されていたため、女性たちは本能の赴くまま優秀な遺伝子を手に入れ、解脱者や盲目者も収めた税金で不自由なく子供を育てた。
今はまだ黎明期である。解脱者は負け犬だ”、妄”目者は現実逃避だ、上位者は種付け馬だという対立はまだ目立つ。
しかし皆は薄々気づき始めていた。そこには実体としての被害者も加害者も定義できず、全員が幸せと思い込める唯一の道であると。
元の記事と思われるものを読んできたが、元の記事は学問や知識がどういうものか、「知る」という営みにどういう意味があるのか、に重点をおいて語っていた。他方でこの記事は学校教育がなぜ必要かを語っていて、少々論点がズレているような気もしなくもない。
「教育の受益者が社会だ」、この主張には概ね納得。ただ勿論、教育にも功罪があって、例えば優生学や社会進化論を下敷きにして作った教育はファシスト的なものになるかも知れない(それこそ周りを見下すための教育になりうる)。或いは、歴史教育。隣国との領土問題や過去の戦争問題を語ったり聞いたりする時には、歴史の知識を使うわけだけれども、教育で与えられた知識をそのまま(或いは自己流に解釈して)使った結果として、隣国との対立が続いたままになっていたりはしないだろうか?この記事も学問や教育の善を部分的に語っているわけだけれども、その悪も合わせて知らせないと、そこから生まれる社会は少々歪になるかも知れませんね(ここが我々の現在地かも知れません)。
教育制度の論点からするなら少々話がずれるかも知れないが、主体的な学びであるならば、広義の「学ぶこと」「知ること」「考えること」それ自体は社会のためであれ、個人のためであれ良いように思う。個人的な興味から幼少期に好きだった昆虫や恐竜を探究するもよし、文学を学ぶもよし、災害から街を守るためにインフラ整備について学ぶもよし、娯楽である家庭用ゲームについて個人的に考えるのもよし。
教育から与えられた「勉強」がなくても生きること自体はできるだろう。しかしながら、自分から何か(扱うものは極端な話なんでもいいんです)を知ろうとする時に「勉強」がないと困るのも事実だ。我々が文章を読めるのは、どんな形であれ共通のコードとして教育があったからだ。映画や音楽、詩や文学、(極端だが)ブログなどの娯楽を楽しめるのも、部分的にそのコードに沿いつつ「主体的に何かを学んだ人」がいるからのように思う。「勉強」がみんなで楽しめるものの基礎の部分を作っていること、社会や文化の一部を作ってきたことも否定できない。
ざっとまとめるならば、「勉強」と「主体的な学び」に乖離があるのは事実かも知れないけれども、「勉強」が個人も社会も(物質的にも内面的にも)豊かにしうることは事実かも知れない。勿論、どちらにも功罪はあるけれども、一見無駄に見える「勉強」であれ、「主体的な学び」であれ、我々が何らかの形で日常的に使うものであることは否定できないはずだ。
(長文失礼しました)
全人類とか書きましたが、Steam上で考古学者の実績を解除している人は2.8%しかおらず、
それをネタバレも攻略も見ずに自力で成し遂げた人で、更にこの記事を見ている人がどれだけいるのか分かりませんが…
もしもそんな人が居たとしたら、是非「宇宙やばいラジオ」って奴を見てみて欲しいです。
宇宙の真実に対する強烈な知的探究心と、どれだけ死を繰り返しても耐え続ける忍耐力を持った貴方なら、絶対にハマるはず。
番組の内容は、
宇宙についてのノンフィクションな天文学知識を、数学的な要素を省略し体系的に学ぶという物です。
vtuberの番組なので、オタク知識を随所に交えながら面白おかしく学ぶというスタイルを取っていますが、講師役は東大の天文学部を卒業したかたで、生徒役もちゃんと宇宙に対する知識欲を持った方達なので、ふざけながらも真面目な授業が展開されていきます。
宇宙を構成する4つの力、素粒子、ヒッグス粒子、反物質、量子的ふるまい、ダークマター、超紐理論etc…
OuterWildsをプレイするような人ならお馴染みの単語だとは思いますが、実際どんなものなのか具体的な理解はしていますか?
そしてなにより、OuterWildsのエンディングにて貴方は宇宙を再構成し、143億年の旅をしましたが、どのようにして宇宙を形成していったのか、その過程をイメージできているでしょうか。
そのあたりに知識欲を持ったなら、
マジにおすすめです。
解決を拒否し過ぎは同意
『センスメイキング理論』ガーとかいうのもあるけどアレも結論は
センスメイキング理論に関係する諸研究は、組織の構成員をどう納得させるか、説得するかを探究する。それは、それぞれが客観的に状況を理解し、合理的に判断してもらうことを必ずしも期待するものではない。重要なのは、組織の構成員が行動することである。目標に資する行動がとられるのであれば、論理的、合理的な理解は必ずしも必要ではない。
なんだよね、とりあえず動いて貰うところまでしか期待していない
マッキンゼーの『非合理な職場 ―あなたのロジカルシンキングはなぜ役に立たないのか』ってのもあってこちらは未読だけれど
『本物のリーダーは引っ張らない チームをつくる4つの感情スイッチ』(こちらも未読)みたいな結論じゃないかなって思う
イケてるアニキ/アネゴになって『うん、そうだね』の共感をしようが説かれているのだと思う
『なぜ人と組織は変われないのか――ハーバード流 自己変革の理論と実践』はなんか面白そうではある
どんなエリート集団にもアガリ型(ポジションを手に入れたら成長と変化を放棄する)の人たちはいるが
ポジションを得るまでは主体的に動いてきたというのは大きな違いではないか?って気がするよ
そういう人らにも適用できるかどうか
twitterでも増田でもブログでもよく見かけると思うんだけど
明らかに可笑しいとなると再検証を始める人も出てくると思われるけど
多くの場合には集計方法がわからないのと膨大な時間がかかると推測して行われない
そうすると嘘つき放題な気がしてくるんだよなぁ
集計結果で1位と2位を入れ替えるくらいのことは朝飯前で
集計すらしてないのに集計の結果こうなりましたと作為的にそういう記事を書くことすらできる
誰もしないようなニッチな統計なんかは一度書かれると何十年もその嘘が信じられる可能性もある
多くの人は善意と暇つぶしと探究心で行ってると思ってるけど嘘を付くことが生き甲斐な人も無双できるのがネット統計の怖さだと思う
帰宅中、車で漫然とラジオ聞いてたらなんばしほとゲストのおねえさんがとても楽しそうに話してたので妙に気になってしまった。
新しいアイデアや変わったことが次々と湧き出ていろいろやってみたいという好奇心とか探究心みたいのがすごくてその様子が楽しそうだなーとか、
なんばしほがマブダチマブダチと言ってはしゃいでいたのでよほど嬉しかったんだろうなーとか思って…
バンド名、なんとかスティングレイとしか聞き取れなかったので帰宅後に検索したらめっちゃよかった。
自分はギター少し弾いていたことがあって、こんなに自由にギター弾けたら楽しいだろうなと思うような漠然としたイメージを持ってたけど、見事にそれを具体化してくれたような感じがしたし、
かわいいしイケメンだし、新しい世代は確実に古い世代よりも進化してるってことを感じることができたし、
ここ数年CD買ってなかったけど