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はてなキーワード: 学術とは

2018-03-26

anond:20180326151214

まったくおっしゃる通りでございます

アスリート学術分野でもいいけど)として自分が一番パフォーマンスが出せるところを選ぶことのどこに何の問題があるのかわからない。

下衆の勘繰りだけど、「誇るべき素晴らしき日本人というブランドを捨てるのはけしからん」と「後進国で金にものを言わせて選手の座をぶんどるなんてかわいそう」とかい価値観があるんじゃね。叩いてる連中は。

anond:20180326144624

学術的には存在するけど、社会的には混血進みまくってるから扱いが難しい。

2018-03-25

anond:20180325083520

それでもやらせないとね。

どのみち完全にITの道に歩むのは一部なんだから、せめてそいつらが気に入って技術身につけてくれるだけでも。

技術系+IT系に進んで、数学英語理科社会で習ったことフル動員してるわ。

まあ、英語は大嫌いだったが、いま学術論文は全部英語だってこと知ってたらもっと真剣にやったのかなと思う。でも、英語「だけ」しかできないやつが教員になるから仕方ないか

2018-03-16

こまば当事者カレッジが終わる

昨年11月から始まって、あと2回あるんですけど、私は離脱します。

私は「学者社会的責任」の当事者10代のときに年上の学者と関わり、精神科医のまねごとをされて、PTSDを負いました。

哲学者精神科医のまねごとをさせないでほしい」という大切な教訓を教えるために東京大学に足を運んでいる。

必要なのは編集者。この講座のことを、本にして残すべき。

「学ぶことはすばらしい」みたいな価値観を吹き込んでいるが、モンスター高齢者モンスター障害者を育てない。国民義務は勤労(憲法27条)と納税(30条)。

振り返って、全員が勉強すべき内容は何だったか?…憲法経済学

沖縄の子もの貧困率は29.8%。子ども貧困にあえいでいるのに、都市部高齢者東大先生の話を何度も聞いている。

必要なのは学びの場ではない、働く場。

原発と同じで世代倫理問題年寄世代が作った放射性廃棄物若い世代が押しつけられる。

必要なのは合理化。やたら「変われ変われ」と言われるんだけど、国立大学法人改革つーのは「お前らが変われ」ということ。お前らが変われ。

文系文科省から叱られているよね?

文科省科学技術学術審議会 平成21年1月20日人文学及び社会科学の振興について(報告)-「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道』

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/attach/1246379.htm

第一章 日本人文学及び社会科学課題

 第一節 「研究水準」に関する課題

 (1)独創的な研究成果の創出…独創的じゃないって

 (2)歴史社会に根ざした研究活動の展開−日本創造された知への関心…浮世離れしてるって。海外マネばっかりだって

第二節 「研究の細分化」に関する課題タコツボだって

第三節 学問社会との関係に関する課題

(1)学問社会との「対話」…上から目線一方的説教するんじゃなく相手の話をちゃんと聞こうねと釘を刺されてる

(2)社会からの支持…「社会から支持されてないぞ」と叱られてる

  • 登録平成21年以前 -- …だいぶ前から叱られてるが、それでも変わってないってこと

2018-03-15

anond:20180315010205

フェミ女は自己欺瞞が突出しているのかと思う。

イケメン優遇証明するような学術研究をなぜか全無視したりするよね。

例えば、

Hitsch, Günter J., Ali Hortaçsu, and Dan Ariely. "Matching and Sorting in Online Dating." American Economic Review 100, no. 1 (2010): 130-163.

について不都合な真実だと思うんだけど。

ネット出会い系で、女性が、非常に魅力的な男性とそうではない男性の2人のうち1人を選べるとして、前者の男性は外見の点でトップ10%に入っており(つまりたいていの人はこの男性10段階評価で少なくとも9に評価しており)、年収は6万2500ドル。2人目はワースト10%の外見で年収はXドル。この女性が前者の男性差し置いて後者男性を選ぶには、年収がどれだけ多ければよいのか?

答えは、彼がハンサムな男よりも18万6000ドル以上多く稼いでいた場合

この結果は、女性にとっては、男性収入に比べて彼の外見の方がはるか重要であることを示しています

2018-03-14

文系研究者に関する愚痴

愚痴を書かせてください。

私は大学公開講座を受講している社会人という立場

職業研究者が、使えない……。

私は、彼と同じ学術分野(文系)のQ教授過去研究内容に疑義があり、それを指摘するために本講座に参加している。

最近わかってきたのは、Q教授研究はまさに先行研究だということ。彼らは先行研究だったのに押さえてなかった。つまりタコツボだった……。

文科省審議会人文学社会科学振興に関する平成21年報告書を読んだのですが、

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/1246351.htm

基本的にこの頃から問題性質は変わっていません。十年ぐらい叱られているのに、それでも克服できない。

昔の学者ってどうだったのかなと思って、マックス・ウェーバー職業としての学問』を読んでみたのですが、当時のドイツ大学では、私講師という資格けが与えられ、何を教えてもよく、給料は受講生から授業料の上がりだけ、つまり出来高制だったみたいです。しか医学自然科学系の研究に巨額の資金必要となり、アメリカでは研究者という仕事が月給制になった。ドイツでもアメリカナイズが進んでいるとウェーバーは書いている。ドイツ式だと市場原理が働くので、実力不足学者は淘汰される。一方、アメリカ式だと雇用保護されるので、官僚主義がはびこる。

日本大学設立された頃の事情ですが、福沢諭吉あたりが大学を創設した後、その後に官立大学を作ったみたい。2011年東日本大震災原発御用学者社会的批判を受け、国立大学法人改革で彼らは国家公務員ではなくなった。

いままで国は学者個人自主性・自律性を尊重するとか言って、お金は出すけど口は出さなかった。しか厚遇しすぎて、仕事をえり好みする人ができあがった。果たして障害者フッサールを教えることが正しいのか? 私は、彼らがずっとサボタージュしてきたQ教授過去研究批判という仕事の督促のためにやって来たのですが、彼らは、どうしてもフッサール障害者に教えたいらしい。Q教授批判という仕事絶対にやりたくない。病人の私に押しつけたいそうです。病人の私がいまやらないといけないのは自分病気を治すこと(自己保健義務)です。早く元気になって、勤労と納税の義務を果たすことです。Q教授批判なんて、病気に障るからできるだけやりたくないのだが。

国が税金複数学者を雇っているのは、お互いをチェックさせるためなのですが、彼らはタコツボという自分たちの宿痾を克服したくない。どうしても大好きな哲学学を障害者に教える仕事だけをやりたい。私はいまQ教授20年前に書いた悪書を読んで、問題点を洗い出す作業をしている状態です。泣きたいですよ。

文系って理屈っぽい。「理論上はこの結果がでるはず」と自説にこだわって、ありのまま事実を認められない。理想主義者なんですけど、理想論学生にも吹き込む。そうするとモンスター障害者モンスター高齢者ができる。大学教員モンスター化しているともいえます

東京周辺に在住している高齢障害者熊谷さんの講義を何回も聞いている一方で、沖縄の子もの貧困率は29.9%です。

いま医療費が年1兆円ベースで急増している。とても国民全員に熊谷さんの講義を何度も聞かせられる財政状況ではない。税金で喰っている哲学者と税金で喰っている障害者学校を開いたら、そりゃあ「学ぶことはすばらしい」という結論になるでしょう。その学費を稼ぎだしているのは誰? 受講生は病人から知らなくてもいいと思うけど、プロである学者がそんなことさえわからないとしたら、職業としてもう終わりだと思う。一度、マックス・ウェーバー時代に戻すべきでしょう。

いまの文系の振興策、例えばこんな研究に三年間で一千万ぐらい使われちゃってるんですけど、

https://www.jsps.go.jp/jissyakai/data/saitaku/h25_houkoku/hamauzu.pdf

こういう税金の使い方、本当にいいのかな。

2018-03-09

anond:20180309051409

たくさん反応があってびびった!この前の中二病増田全然だったから油断した。

半日でこんなにコメントついたのは初めてだからおもしろかった。ありがとうな。

でも増田民は夜中に右手がうずいたりしないのがわかって切なくなった。

のたうちまわる中二病キャラって愛すべき存在なんじゃないのか?

何にしても、タイトルありきの内容ってことは心においといてな!

エモい中二病ぽくて抽象的な文章)+否定形」のタイトルにしたら反応増えるかも~くらいのノリでかいた!

実際こういうタイトル記事なんか多いじゃん。否定形にするのが大切なんだよ。

そしてタイトル以上の内容は本文にないよ。だから本文の内容はフィクションです。

~なんじゃないかと思った。ほんとただそれだけの内容(という虚構)。

ほんとに、文章で飯食ってる人はすごい…。

自分の言いたいことを、必要最低限の適切な言葉表現するってめっちゃ難しいやんけ。

以下カエルの解剖。

選好じゃなくて嗜好じゃないかってブコメがあったけど、この「選好」は学術的に厳密な意味で使ってるんじゃないんだ。ごめんなさい。

指摘はごもっとも。なんだが、選り好みってニュアンスを持たせたかったのと、こういう学術用語的なのを一行目に挟んどけば

関心を持って読んでくれる人が少なからずいるんじゃないかと思ってこう表現した。

物語物語性の混同があるって指摘もあったね。ヘタクソだった。

たぶんこんなに反響が得られたのは、「彼ら彼女らの歌やダンスには物語がない。」っていうところに

相当数の人が反応してくれたんじゃないかと思うんだが、ここはあえて「私(自分)」って言葉をぬいて書いた。

>>彼ら彼女らの歌やダンスには<自分にとっての>物語がない。

もうすこしいうと、自分にとっての物語が生まれえない、くらいのニュアンス

その理由については特に言及してないはずなんだが…。

それつながりの(おそらく)誤読で多かったけど、アイドル各々に物語があることは否定してないぜ!

から、その(大衆に喜ばれるとされている存在の)物語が「自分のものにならねーなクソ!くらいの内容しかないぜ!

大衆のために用意された物語自分のものにならないってどういうことだ?

ついでに大衆であるはずの自分なのに大衆になりきれてないってのはどういうことだァ?絶望ォ~!

ここはいっちょ<自分物語になっている>なつかしのメジャーソングお茶を濁しとくゥ~?

終始自分の話しかしてないので、他人はどうとかそれ以上の文脈を読み取ったならおめーすげーよ!

もっと深めていってくれ。意味のないもの物語を与えてくれ。

いろいろヘタクソだったがありがとうな。嘘を嘘と楽しんでいこうな。

2018-03-07

今日大学留年たから心境を綴る

大学留年しました。まあ去年の夏ぐらいから薄々わかってたか特に驚きもしてないんだけど。どうせならネタにしてやろうと思ってこの記事を書いてます



なんで留年したのかっていうと単純に単位が足りなかったからですよね。僕の場合一年の時から大学に対してやる気がなかったので、結果こうなりました。まあ自業自得ってやつよ。

僕は大学に入って一週間で図書館に引きこもるようになったんだよね。一応第一志望のとこだったんだけど、なんか思ってたのと違うぞ、この授業受けて意味あるのか、友達ってどうやって作るんだっけ?って色々混乱した結果ぼっちになり図書館引きこもりました。これが一年の時。

この時は救いを求めるように本ばかり読んでました。もちろん学術系の本なんて一冊も読んでない。この頃の僕に必要だったのは現実逃避と立ち直り方だったから、小説とかビジネス書ばっかり読んでた。

まあそんな僕でも二、三年は部活やってたから、それなりに充実してたかもしれないね。この頃には友達とか知り合いも増えてた。女遊びもそこそこにって感じ。



そんで四年になってまた引きこもるようになります。あれ、とりあえず四年になったけど俺ってなんのために大学通ってるんだっけ?状態に陥り今度はさらに深刻で大学カウンセリングに通ってました。

その頃スポーツジムにも通いだしていたので、ジム保健室を往復する日々。おい、大学はどうした。

この頃から自己肯定感崩壊自己嫌悪スパイラルに陥りました。なんかわからんけど人の視線が怖い。大学行く意味からない。夜眠れないか精神薬を飲む日々。SNS愚痴ることしかできない。



唯一の楽しみは筋トレだった。ジムに行けばバーベルが待ってる。今日も追い込める。なぜかそれだけで安心したんだよね。

周りは文句言いながらもスーツ着て就活している。なんでみんなサラリーマンになりたくないと言いながらなるための努力をしてるんだ。結局みんな同調圧力に流されてるだけじゃないのか。

そんなどうでもいいことを毎日考えてました。ちなみにちょっと就活してたけど、ここは今回は割愛

そんなこんなで時間が過ぎて、今の正直な心境綴ると、大学無駄だったなあ4年間何してたんだろうなって感じですかね。

それについて後悔してるかと聞かれれば、まあ全く後悔してないわけじゃない。けど、これがもし普通に卒業できてて就職できてれば満足してたかって言われると、そうでもない気がするんですよね。

まあ、こんなこと書くと強がりみたいであれですけど。僕がやりたいこと見つけられたのはほんとに最近なので、もっと早く出会いたかったなってのはあるかな

ザックリまとめるとこんな感じ。今の僕がどうしてるかはまた別の記事でいつか書きます過去を悔やんでも仕方ないからね。

とりあえず酒でも飲んでくるよ。またね。

記事

http://blackmagician.heavy.jp/topbuzz/2018/03/07/たった今大学留年たから心境を綴るぞ/

2018-03-06

学術論文を全部ネット無料公開して欲しい。

睡眠運動について調べてたら、この文献に行き当たった。

http://medicalfinder.jp/doi/abs/10.11477/mf.1681100255

見られない。

これはgoogle scholarで調べたものだが、普通google検索して出てくるネット無料公開されてる情報引用元も著者も書いてないアフィサイトばかりだ。

中にはまともなものもあるのだろうけど探すのが大変すぎる。

この文献が読みたい! でも国会図書館とか大学図書館とか行けないし有料で読む気もない。

だって図書館に行ったら無料で見られるものになんで金払わなければいけないの。

おかしいだろ?

でさあ、いい加減学術論文とか全部無料で公開して欲しいんだよね。

ネット上の文献が糞すぎるのもあるけどアカデミーはそれに対してなにかやってきたのかって話だよ。

みんな公開するサーバー費用とかシステムにカネがかかるから無料にできないとかいうんだろ?

俺は騙されないぞ。

公開にかかる費用とかはIFPSとかP2P使えばほぼ無料にできるだろ?

よくわからないおじさん達はWinnyを思い出してみろよ。うまく仕組みを作れば公開する人が費用負担する必要なんて無いだろ。

それでさ、ジャーナル収入源がなくなるっていうんだったらCoinhiveとか使って暗号通貨でも掘ってくれよ。

PDF読んでる間の余ったCPUパワーくらい貸してあげるよ。

ゆうてネットが無い時代だったら図書館と会員が購入する収入で賄ってたんだから強欲だと思うけどね。

はてな村技術者アカデミックなひと実現よろしく!

2018-02-28

anond:20180228132330

姫マツタケも既にあったのでNG

https://hime-nsk.com/hmt_about.html

アガリクス茸の中で唯一、学術的に効果が認められているのが、ヒメマツタケです。

30年以上研究され続けている実績あるキノコです。

2018-02-27

anond:20180227110537

その合意されてるルール自体差別的に作られた、ということでは?

道交法学術的な見解から得られた事実を基に設計され、女性専用車両統計から得られた推定を基に設計されている。総合的により良い結果を得るためとはいえ、対等な立場であるはずの個々人の扱いに(確実な根拠もなく)差をつけるような真似は不当である

2018-02-19

anond:20180219114242

これは元増田責任じゃないけど,

理系ローカルルール勝手学術界の一般ルール敷衍するのやめてもらえます

全学対象研究不正を防止するためのweb講義を受講しなさい,これは必ず受けてね,と言っておいて延々とラボノートの書き方を解説された時は流石にふざけんじゃねえ理系学部だけでやってろと思ったわ.

学振書類理系文系で分けてほしいんだよな.書式は別々にできないにしてもせめてマニュアルは分離しろよ.何で単著論文でいちいち自分名前に下線引かにゃならんのだ.ああ鬱陶しい.

anond:20180219070454

なるべく多くの人に見てもらって情報、反応、反論等欲しかったので煽り気味に書いてるところはある。そこが気に障ったのならすまん。

まあ私の文章煽りや売り言葉に買い言葉がないとは言わないのでそこはお互い様ということで。仲良くマサカリ投げあいましょう。

あくま自分見方を紹介しているだけで理系のやることが全て正しいとも思ってない。ただ理系では日本が一流研究をしていると誇る分野が数多くある一方で、文系の多くの分野で全体としては日本学会は二流という嘆きが聞かれるのも確かだ(もちろんどんな分野にも日本人の一流研究者はいるだろうが)。

これ[要出典]ってタグ貼るべきところ? 私は最初増田anond:20180217012945)で(1つだけだけど)実例挙げたし、体験談ベースの話でよければ私の見た限りでは日本外国研究ってけっこうレベル高いと思うんだけど。外国語に訳されても遜色ないモノグラフがたくさん出てる。

理系では著書でオリジナル発見研究成果を発表する奴はまずいない。いるとしたらほぼトンデモだと思って間違いない。文系増田が挙げてる怪しい医学博士とか。

文系では違うのか。正直文系ガチ研究書は見たことがない。三浦瑠麗の著書も調べてみたが、タイトルや値段を見る限り一般向けだろう。大学書籍部や図書館を探せばあったんだろうか。ただ(博士論文出版等は除いて)著書で最新の研究を発表するというやり方は、どの部分に新規性があるのかの表明や議論双方向性等に問題がないのだろうか?新規研究成果なら第三者査読を経て論文にするのが正統なように思えるが。数学証明のように検証可能性が極めて高ければホームページで発表とかでもいいんだろうけど。

そこからか。何のために研究雑誌Book Review欄があると思ってるんだ……(和文だろうが欧文だろうがたいていのメジャー学術雑誌にはBook Review欄はあるし、場合によっては書評査読がつくよ)。ていうか普通、序章とか第1章とかで先行研究の整理をするし(一般向けも混在するレーベルだと編集に嫌がられることもあるらしいけど)、そこで自分オリジナリティについても言及するよな。

あくまで一例だけど、先日出た研究書の目次はこんな感じ→http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0871-6.html適当なUniversity PressのHPを開いて適当新刊をチョイスしただけなので、内容については何も言わないし、言えない。なぜなら私は読んでないからだ。あくまで「ちゃんと章立てに先行研究って入ってるでしょ」というサンプルとして受け取ってほしい。目次で明示されてないだけでちゃんと先行研究の整理をしている本もあるので気をつけて。それはそれとして面白そうな研究だと思うんで余裕があったら読んでみたい)。

駄目な研究は本として出版したってロクに引用されずにアカデミアから消えていくだろうし(もちろんあまりマニアックすぎて引用するひとがいないという悲しい状況も有り得るのだがそういう場合学術雑誌書評でちゃんと良い研究ですよって言われてるからな。おべっか書評がないとは言わないけど、むっちゃ辛辣書評も見かける)、まともな研究書なら議論典拠は明示してあるんだから議論双方向性に問題はないでしょ。

三浦瑠麗の著書、内容(https://www.iwanami.co.jp/book/b261983.html)を見る限りでは研究書ということでいいと思うけど。文系は割と凝ったタイトルつけるひと多いかタイトルだけで研究書じゃないと即断することはできないし(『想像の共同体――ナショナリズム起源流行』も『〈日本人〉の境界――沖縄アイヌ台湾朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』も立派な研究書です)、値段についても、うちの分野の研究書の半額くらいの値段で売れて羨ましい限りと思うけど、それが研究であることを否定する材料にはならない(ていうか一般書だとしたら3000円以上ってクソ高では)。国際政治学一般理論みたいに需要がある分野ならそれなりに廉価でも採算取れるよね。研究書は別に専業研究者けが読むものではないので、政治学者以外の教養人にも売れそうだと判断たらこのお値段になるのは別に不思議じゃない(逆にマイナー分野では……お察し下さい。売れない→高い→売れない→高いの悪循環でございます学術成果刊行助成でなんとか刊行できてる研究がたくさんあるんだよなぁ)。気が向いたら図書館で実物見てみるわ。

何度も言うけど、中身は知らない。ひょっとしたらダメダメな内容かもしれない。でもそれは、査読通ったちゃんとした学術論文でも中身がショボかったりオリジナリティ希薄だったりすることがありうるのと同じで、ダメダメから研究業績にカウントされないということにはならない。たとえそれがサラミ論文であったとしても、英語で書かれた査読つき論文だったらそれは業績としてカウントされるべきだよね。公募採用されたり学術界で優れた研究者として認知されるためには内容が優れてないといけないし、こんなサラミ論文しか書いてないやつがなんで○○大の講師なんだ! という批判はされていいと思うけど、それはあくまで内容を見た上での話であって、形式だけを見て業績じゃないと言うことはできないはず。今回の元増田批判が内容を見た上での話なら『シビリアンの戦争』を未読の私は何も言ってないし言う資格がないけど、理系増田も読んでなくて、ここではあくま形式の話をしてるんだよね。形式の話をするなら彼女学術業績としてカウントされるべき本を書いていますしか言いようがない。

一般論からすると著書はオリジナル研究業績であり得るが、逆も然りで著書は必ずしもオリジナル研究業績とはみなされないというべきなのでは。門外漢は著書数もオリジナル業績数とみなせという主張は言い過ぎだろう。

「著書はオリジナル研究業績(でありうる)」「研究書は立派なオリジナル研究成果」と私は書いてるよね? それで前段へのアンサーになってると思うし(そのうしろでちゃんと「一般向けの本」と「研究書」を分けて記述してるよな)、そもそも私は最初増田anond:20180217012945)で「新書2冊はおいといて」って書いてるので、“すべての著書”がオリジナル研究業績なんて端から主張してないってことは読めばわかってもらえると思ってたんだけど(オリジナル研究書籍化したものを「研究書」と呼ぶわけだから、“すべての研究書”はもちろんオリジナル研究業績です。一方で著書のすべてが研究書というわけではないので、“すべての著書”が研究業績というわけではありません。こう書けばわかるかな?)。

後段、著書はオリジナル学術業績とはみなされないという理系ローカルルール持ち出して他人を業績が少ないと批判する方が言い過ぎでは。いやもちろん他分野の常識に詳しくあらねばならない必然性はないけど、他人を「業績が少ない」と批判する以上は他分野の「業績」の基準も知っておくべき、って、そんな無茶な主張? 文学でも歴史学でも政治学でも社会学でも教育学でも文化人類学でも哲学でも法学でも、おおよそメジャー文系研究分野ではだいたい研究書はオリジナル研究業績としてカウントされるんだから(これは英語圏でも変わらないと思うよ。少なくとも私の専門分野や隣接分野では英語だろうがフランス語だろうがドイツ語だろうが韓国語だろうが研究書はオリジナル研究業績です)、文系からするとその常識通用しない方が非常識ですよ。理系ローカルルール勝手学術界の一般ルール敷衍するのやめてもらえます

院生だろうが単著論文を発表するのがふつうの分野の人間からすると、理系では指導教授論文の著者に名前を連ねるのか、変わった慣行だなぁ、って思うけど、それは理系慣行なんだなとして受け止めてるし、この研究者自分学生論文名前を連ねて論文数稼ぎしてる! なんて主張しないよ(もちろんギフトオーサーシップ批判されるべきだけど、理系では自分指導してる学生論文の共著者になるのはギフトオーサーシップではないんだよね? このへん詳しくないので間違ってたらごめん)。分野が違うと業績のカウントの仕方も違うんだなぁ、って受け取っておけばいいじゃない。

その上で現在日本語地位が低い分野や日本語でやる意義がまるでない分野まで、日本語で最新の論文を書いてもよい、あるいは日本語地位を高めていこうなんていう理由がよくわからない。例えば挙げてくれた西洋古代史の最新論文日本語で書くことに何の意味がある?日本全然関係ないのに?解説書や教科書は別だ。日本語で多くの人が学べることには意味がある。でも論文なのだとしたら欧米研究者が読まなければ学問進歩に乗らないんだからただの自己満足だろう。アマチュア研究者だとしたらそれでもいいんだが、大学研究者プロだろう。国から研究費貰って英語が中心の分野で日本語しか書かないのは国民が納得しないだろうから税金泥棒しか言えない。

将来英語が中心じゃなくなることもありうるだろうという論を挙げているがそれは詭弁だ。理系だってラテン語から現代語への変化やドイツ語フランス語凋落を経ているが、最新の論文を主流の言語で書かない理由はない。(欧米科学力を中国が圧倒的に上回ることは考えにくいが)将来中国語になるんだとしたらそれもいいだろう。もし仮に日本がその学問分野で覇権国家になるプランがあってそのためのリソースを投じているっていうなら別だけど、そうじゃないなら英語に圧倒的に負けてる分野はさっさと降伏して英語ベースにしたほうが世界中学者のためになるし日本人世界に認められる学問的成果をあげるためにも効率的だと思うんだけど。国際政治学についていえば英語圏研究が中心だという知識増田にもあって、反米主義だったり日本世界覇権を夢見ていたりといった特殊思想的背景があるわけでもない研究者英語論文を書かないのだとしたら、怠慢あるいは研究先進性の不足の誹りを免れないであろう。

これ最初にも書いたけど、主要国のアカデミアでは文系研究の多くの部分を自分の国の言語でやってます。たとえそれが自分たちとは縁遠い地域のことだとしてもね。日本語英語以外の言語で書かれた日本学論文なんて日本人研究者はあまり読まないんじゃないかと思うけど、たとえばポーランド人ポーランド語日本学論文書いてるし(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006355425。ちなみに、このポーランド人みたいに、日本人外国研究者がその国の言葉日本での研究状況を紹介するっていうのは既にあちこちでやられてます)、それは日本アカデミアで読まれていないとしても日本学の発展に寄与ポーランドアカデミアを豊かにしていて、仮にポーランドで極めてオリジナリティが高い研究が出てきたら日本人日本学者も何らかの方法でそれを読まないといけないだろうと思うわけですよ(別に自分で読む必要はない。他人に読んでもらえばいいんだから翻訳ってそういうことだよね)。ポーランドアカデミアは当然ポーランド固有の問題意識を持っているし、その土壌から日本にはない新鮮な日本観が生まれてくるかもしれない、という点で、色々な国のアカデミアがそれなりに独自の発達を遂げていることは重要だと思うけれども。

当たり前だけど西洋古代史の論文日本語で書いてあっても最新の研究動向は反映されているわけ。書いてるひとは西洋諸言語読めるわけだしね。向こうがそれを読めない、または読もうとしないからといって先進性がないわけではない。読まれる/読まれないという尺度研究先進である先進的でないという尺度は別だよね? 混同すべきじゃない。そこにはちゃんと研究蓄積というもの存在しているんだよ。明治期以来、主要文系分野では日本語の分厚い研究蓄積がある。もちろんそこには西洋猿真似だったり「横のものを縦にした」だけの研究もたくさんあるかもしれないけど、それらは日本アカデミアを間違いなく豊かで質の高いものにしてきたと思う。

で、哲学の本場はドイツとかフランスとかイギリスとかだと思うけど(イメージ貧困すぎたらごめん。正直哲学のことはよくわからないんだ……)、日本人哲学者が優れた哲学書を発表すればそれはちゃんと英訳されてオックスフォード大学出版から出版されていたりするのね(https://en.wikipedia.org/wiki/Kojin_Karatani)。これは日本語圏で外国人に読まれない研究を積み上げていても、良いものを書けば「日本研究者面白いことやってんじゃん。翻訳して読んでみようぜ」ってなる実例なんじゃないかと。

根本的な話をするなら、「国際政治学」という分野の標準言語英語である必然性はどこにもないわけだよね。それは英語圏で優れた研究が積み上げられてきた帰結であって、英語圏の人が自分たち言語研究成果を積み上げた結果それが参照されるべき言語になっているだけの話。要するに彼らは先行者利益を得ているわけ。現代思想の分野でフランス語大手を振って歩いているのも、フーコーやその他の人たちがフランス語で優れた成果を書いてきて、それが受け入れられてきたか英語日本語フランス語の文献が訳されまくっているという現状がある。日本語がこの高みを目指してはいけない理由はないよね。

私はここまで書いてきたような理由日本語論文を書くのも重要営為だと思う(加えて、執筆言語自国であることは東アジア欧米の主要国の文系アカデミアとしての標準に則っているので、ことさら日本アカデミアだけが批判される謂れはないよな、とも思う)。ただ理系増田がそれにどうしても同意できないなら、それを説得する言葉を私は持たないなぁ、とも思う。私の論拠はだいたい言い尽くしたので、執筆言語問題についてこれ以上理系増田に答えようとは思わない。なんと言って終わらせればいいかからないけど、とりあえず、お互い研究頑張りましょう。

anond:20180219033321

横やり失礼、最後の箇所の意図がよくわからなかったからもう少し詳しく説明して欲しい。日本社会への貢献と個人研究論文として多くの人の目に留まることは全く違うベクトルじゃない?

文系研究では、もちろん社会から遊離したことを扱ってる人も大勢いるけど、社会とか政治とか歴史とか文学とか言語とか、現実普通の人の営みと切り離せないテーマを扱うことが(理系と比べて)比較的多いんじゃないかなと思う。そして研究者問題意識もその研究者の埋め込まれ社会から自由でいられないわけで、最先端研究成果を日本語で発表することは日本社会への貢献としての価値も持っているという話(つまり外国政治学者に読んでもらえなくても無価値というわけじゃないよ)をしたかったんだけど、伝わりにくい文章だったらごめん。

国粋主義とまでは思わないけど、そう受け止められられるかもしれない気がした。

でも、国民の皆様の税金から研究費をいただくってのはそういうことじゃない? なんらかの形で日本社会還元することを求められているよね(国粋主義を強く批判するような立場研究だって、「日本国国威発揚」には資してないにしても、「大勢異民族外国人が暮らす日本社会」には間違いなく貢献してるわけで)。自国研究プレゼンスを高めるために多くの論文英語で書くべきだ、というのと、学術言語としての日本語価値を守り育てていこう、というのは、同じベクトルじゃないかと思うんだけど。

anond:20180218204936

業績については「研究者としての実績」に絞ってとりあげた。ただ文系若手研究者増田とは、「研究」の捉え方自体が随分違うようだな。

理系研究者を名乗るには必ず「まだ誰もやっていない新しいこと」を研究する必要がある。

文系でも同じですが。研究という営みの本質文系理系も変わらんでしょ。お作法がかけ離れているか相互理解が難しい局面があるだけで。一部の理系研究者の「お前ら文系研究とは何なのか正しく理解していないのかもしれないが~」みたいなナチュラル上から目線はほんと何なの?(あと、仮に百歩譲って理系文系で「研究」の本質がまるで違っていたとして、なんで問答無用理系の方が標準的であり正しいものなのだと思えるの?)

もちろん理系でもレビューや著書を書く人もいるが、それを皆がありがたく読むのはその人が最前線研究をしていることが前提だ。

いや、レビューオリジナル研究業績じゃないってのはその通りだけど、著書はオリジナル研究業績(でありうる)っしょ? 何度も言うけど三浦瑠麗論文や著書は読んでないので、どのくらいオリジナリティがあるのかは知らない。ただ文系では研究書は立派なオリジナル研究成果だ。博士論文書籍化なんてその典型。もちろん一般向けの本とかを書くひともいて、一般向けと専門向けの中間みたいなレーベル典型的には講談社選書メチエみたいなやつね。パンピー向けの概説書とガチオリジナル研究成果が混在してる)もあるから、そこにはグラデーションがあるわけだけど、著書がオリジナル研究成果じゃないというのは不当な言いがかりでは。

ひょっとして文系研究書とか見たことなくてどんなことが書いてあるかイメージ湧かない?(いや別に異分野の研究書を読んだことないのは悪いことじゃないけど、実物を知りもせずにイメージだけで語っていいんですかね、「理系」ってのはずいぶんと気楽なもんだ、と嫌味のひとつも言いたくなる)

理系から視線として、博論を除けば日本語レビュー啓蒙しか書いていない三浦瑠麗は「最先端研究者」とは見られない。

から、私そこは否定してないよね? 三浦瑠麗個人研究者としての資質をあげつらうならどうぞご自由に。私だって彼女政治学者として素晴らしいなんて微塵も思ってないし、私の知ってる(まっとうな)政治学者彼女学者として評価してる人なんて見たことない。でも和文は業績じゃないかのように扱うのはやめてね、っていうのが私の指摘の趣旨ですよ。彼女雑誌に書いた文章が全部レビューだってのは、ブコメでkyo_juさんが指摘したことであって、元増田最初和文しかない」ことを問題にしていたよね? そう言われたらそりゃ「和文でも立派な業績になりうる」と反論するに決まってるでしょ。「言語を問わずレビューしか書いてないなんて研究者はいえない!」という主張ならなんの異議もなかったよ。

いずれにせよテレビ研究者枠にはもっと実績積んでバリバリ研究している(あるいは過去にした)人を呼んだらどうかという話にはなる。

そこに関しても私はまったく否定してないよね。和文論文研究業績であり、また共著が研究業績としてカウントされないことは不当である、と言ったけど、三浦瑠麗の業績が学振PD東大講師、あるいはテレビ出演者にふさわしい立派なものである、とは一言も言ってない。あんなのを東大講師にするなら私の先輩たちに職を用意してやってくれよ、と思うし、テレビに出ずっぱりの「学者」がマトモな学者だった試しなんて滅多にないよね、とも思うけど、そんなの私や「文系」あるいは「政治学者」に言われても知らんわ。東大の人事は東大問題だし、テレビがロクに論文書いてない若手を連れてきて「社会学者」や「政治学者」としてチヤホヤするのはテレビ問題言論人として活動してる人を肩書だけ見て研究者と誤認するのは視聴者リテラシー問題でしょ。理系学位肩書がそういう怪しげなショーバイに一切利用されてないってんならともかく、現実には医学博士号を利用してニセ科学撒き散らしてるひととかいるよね。アカデミアが自由開放的性格を維持していく上では、アカデミアのハクを利用してそういうことをする人たちが出てくるのはどうしても避けられないんじゃね、って私は思うけど(まあ、アカデミアでは全然相手にされてませんよ、と表明する責務くらいはあるかもしれないけど、それはもう色んなひとがやってるよね)。

文系増田日本研究者日本語論文が読まれないことの解決策として日本語論文の良さを英語論文内の引用アピールするという案を提案しているが、理系から見たら不効率まりない。一つの研究分野に標準言語がいっぱいあったら世界中学者言語習得に苦労するだろう。

うんだから文系研究者が色んな外国語勉強してるのはそういう事情があるわけ。たとえば西洋古代史を研究するんなら、まあ英語に加えてフランス語ドイツ語研究文献を読めないと話にならんわなぁ。一つの研究分野に標準言語がいくつかあるのは文系だと割と普通で(古代中世に関する研究だと権威ある学術言語がいくつもあってどれかひとつに決められなかったりするし、複数国にまたがる地域や事例を対象にしている場合なんかは一意に定めることが不可能なのは流石にわかってくれるよね?)、その中で日本語地位が低いことをどう捉えるか、だよねぇ。

これに関して、日本語を諦めて別の言語で書くべきだ派と、日本語地位を高めていくべきだ派と、日本アカデミアを最優先に考える派(これが実のところ多数派だろうねえ)がいるんだなと私はぼんやり思ってる。私が見ている範囲では、現代日本文系研究者多様性は、アメリカイギリスほどじゃないにせよフランスドイツロシアとは肩を並べられる水準にあるんじゃないかな。日本史英文学からアフリカ人類学オセアニアの少数言語中央アジア歴史、とあちこちの分野に手を伸ばしていて、アメリカ人フランス人ドイツ人がそうできるように、自分たち言語でそれらの分野の最先端研究成果を手にすることができる。東アジア中央アジアからは、自国のことを研究するために日本に来て日本語博論を書いて自国教授になるひともいるんだよ。これは、欧米人が読めない・読もうとしないってだけで捨て去るには勿体無い環境だと私は思うけども。

もちろん、日本研究を専門としていない欧米人日本語をわざわざ読ませるのは難しいだろうけど、たとえば日本論文につけられた欧文要旨なら彼らは読めるし、和文で書いたもの翻訳して欧米人にも読めるようにしている研究者だっている。どうやら俺らには読めないがチェックすべき先行研究日本にはたくさんあるようだ、と彼らが認知すれば、いずれ彼らの側から、じゃあ日本語読めるやつに翻訳してもらおうとか、そういう話が出てくるかもしれないし、せめて「読んでないけどこういう先行研究があるらしい」と書かれるようになるかもしれない(これは重要なことだよ。「気づかれない」と「読まれない」はぜんぜん違うんだから。この辺はウンベルト・エーコが書いてたな)。地位向上って、そういう積み重ねの上に成り立つものだと思うんだよね。

こういうプロセスって、文系だけじゃなくて理系にもあるよね。たとえば、優れた魚類学の論文アメリカ人日本語翻訳してまで読みたがったとか、和文論文をチェックしなかったせいでアメリカ人が大損こいたとか(http://shinka3.exblog.jp/8059554/)。それに英語が標準言語になったのは、せいぜいがここ半世紀程度の流れにすぎない。その前はドイツ語とかフランス語とかロシア語とかも有力言語だったけど(たとえば、ちょっと前にサザエの新種記載がされたときは、18世紀フランス語の本が引用されてたよね→https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id468.html)、英語頭角を現してきて残りの言語は標準言語とは見なされなくなっただけで、別にからずっと英語が標準言語だと決まっているわけじゃないし、今後もそうなるとは誰にもいえない(数十年したら欧米人中国語で作文するようになるかもね。そうなったら英文業績しかない人が「中文論文を書いてないなんて!」と馬鹿にされたりするのかな)。日本産動物種の研究だと英語論文和文論文引用されてるのもちょくちょく見るし(網羅的にたくさん読んでるわけじゃないので、私の錯覚だったらごめん)、標準言語統一されてないとダメだ! というのは近視眼的見方だと思うけどなぁ。

いくら書いても読まれないんじゃ意味がない、という元増田感覚はわかるんだよ。というかそれは文系研究者にとっても当然のことだと思う(そりゃ全員が意識高いわけじゃないけど、それは文理問わずだよね)。繰り返すけど最近の若手研究者には外国語積極的に発信しているひとが大勢いる。ただ、日本国民1億人が最先端研究成果を自分たち言語で読めて、どんな地域研究だって自分たち言語遂行できる、という環境が、無意味なこととは私は思えない。増田は、日本にまつわるテーマなら標準言語日本語でもいいんじゃないか、と言った(これは良い感覚だと思うので大事にしてほしい)。でもたとえば、ツキノワグマ研究ホッキョクグマやマレーグマの研究と繋がっているよね。日本史研究する上で西洋史探究されてきた研究モデル概念意味を持つことだってある。国文学だって世界文学の中に位置づけられる必要があるだろう。外国政治についてなんの情報もなしに、自国政治改革ができるだろうか? 外国の失敗や成功についてしっかり学ぶためのツール必要なんじゃないか? ジャーナリスト政治家欧州統合アフリカ経済アメリカ大統領選について勉強しようと思ったときに、日本EU研究者アフリカ研究者アメリカ政治研究者がみんな英語論文を書いていて、日本語にはあっさりした概説書しかない、というんじゃ、不便じゃないのかな。そういう意味で、日本語による研究発表は、世界で読まれていないのだとしても、社会貢献としての意義はけして小さくない、と私は信じてるよ。

2018-02-17

特定研究者を叩くのはいいけど他の研究者への流れ弾はやめてほしい

当方文系若手研究者

https://anond.hatelabo.jp/20180215032409

英語論文出してない「国際政治学者」って大丈夫か?

それとも日本で言うところの国際政治学ってやつはあくま国内政治の一研究分野なのか?

国際分野なのに英語論文発表してないことが最大の違和感。必ずしも三浦瑠麗を叩きたいわけじゃなくて、日本国際政治学全体のレベルが低い?あるいは政治学者仕事世界に向けた学術研究発表よりも国内政治ご意見番をすることのほうが重要っていう認識業界一般的になってるならそれも受け入れる。

著書「シビリアンの戦争」は博論出版したものって理解でよいか文系博論は分厚くて書くのが大変とは聞く。でもグローバルな表題なのに世界では通用しない研究(少なくとも英語でないので読んでもらえない)って考えると悲しい。


こういうの勘弁してほしい。三浦瑠麗を叩くならどんどんやればいいと思うしやってほしいけど、叩く対象限定してくれ。

文系では和文でも立派な研究業績になる。最近の若手研究者積極的外国語論文書くようになってるし、私だって欧文論文の1本や2本あるけど、仮に査読論文和文しかなくても質が高いものを書いていて博士号もらってれば立派な西洋史研究者英文学者/アメリカ政治研究者etc.だよ。そういう世界なんだ……。

「ちゃんとした雑誌に載せてる論文が3つしかない」っていうのもどうかと思う。業績リスト見たら、まあ新書2冊はおいといて、それなりに専門的っぽい本を分担執筆してるよね。その本を読んでないから何ともいえないけど、雑誌じゃなくて本(アカデミック論文集)の1章として学術論文を発表することはあるし、それはふつう業績としてカウントするよな。繰り返すけど中身は見てない。中身はメチャクチャレベルが低いのかもしれないし、その場合「この程度の論文しか書いてないじゃないか!」っていう批判は正当だと思う。けど共著を業績にカウントせずに「業績が3本しかない!」っていうのはやめてあげて。

私も、さすがに学振PD持ってて日本Ph.D.獲ってるのにこの業績数はショボいだろ……と思うけど、博士号取得に際して論文数の要件がなければ(少なくとも私の出身大学院では存在しない)、とりあえず雑誌投稿とかしないでひたすら博論執筆するっていう研究スタイルもアリだと思うし、一概にそれが駄目とはいえない(単に茨の道ってだけで、制度不可能ではない)。あと一部の国では「博論に既発表論文を大幅に組み込むのは禁止(=博論は書き下ろせ。既発表論文切り貼りは不可)」っていうルールがあったりするから、そういう国に留学してた人は博士課程のあいだに出した論文数がどうしても少なくなっちゃう。

和文で書いてればレベルが低いっていうのは誤解。そりゃレベル低い和文論文もたくさんあるだろうけど、質の高い研究はたくさんある。もう15年以上前のことだけど、日本西洋史研究者研究対象の国のひとたちと論文集を出した時は、日本参加者レベルの高さが評価されたりしてたし(https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/39022/1/50-013.pdf)、それらは「外国研究者から読んでもらえない」かもしれないけど「レベルが低い」わけじゃない。

何が言いたいかっていうと、三浦瑠麗の言説の酷さは都度指摘すればいいし、彼女研究問題があるなら存分に批判すればいいと思うんだけど、業績リストだけを見て和文しかないとか批判しだすのは他の文系研究者に流れ弾あたってるからやめやがれください。ていうかやめて(自分の業績リストを泣きながら握りしめる)

『シビリアンの戦争』は、彼女博論タイトルそのまんまだから博論書籍化という理解でいいと思う(https://ci.nii.ac.jp/naid/500000550395)。私はどちらも読んでないので違ってたらごめん。博論書いてそれを本として出版するのは、文系研究者としてはよくあること。

せっかく質が高い研究してても読んでもらえないのは悲しいってのはその通りで、日本語文献が読むべき先行研究として通用してる分野は日本東アジアにかかわる研究くらいかアメリカ人でも前近代中国史やってたら日本語読むことを要求されると思う。中東研究する日本人フランス語要求されるみたいな感じで)。これの解決は難しいけど、欧文で和文文献のレビューをするとか、欧文で良い論文書いてその中で和文文献引用しまくるとかして、「日本では面白そうな研究をやってるんだなぁ」と認知してもらうことがまず必要なんじゃないかと思ってるんだけどこれは三浦瑠麗とは関係ないので措いておく。

ていうか、欧米日本学だって英語仏語独語日本についての博論書いてるんだから日本人イギリスフランスドイツに関する研究日本語で発表してもいいよね。日本だけじゃなくて、ある程度歴史と規模のあるアカデミアがある国では、文系博論論文自分らの言葉で書くことは結構あると思うんだ。

あとこれな。

https://twitter.com/chutoislam/status/963834829723729920

https://twitter.com/chutoislam/status/963834833360248832

これも、一般人デイリーメールを端から信用しないのは処世術としてはいいんだろうけど、時にはそういうソース依拠することが必要なこともある研究者もいるんだから、「デイリーメール引用してる」って理由だけで叩くのはやめて、って話だと私は理解した。余計なところに流れ弾を飛ばされると「それは違うでしょ」と三浦瑠麗弁護みたいな立ち位置にならざるを得なくなるというか。私だってこんな記事書いたけど三浦瑠麗学者としての資質は相当疑っている。ただ流れ弾を撒き散らさないでほしいだけなんだ……

追記

vkgofboston 査読の有無は和文英文に関わらず業績として見なす上で肝だと思うが、それに関しての考えを聞きたいね

三浦瑠麗が書いた雑誌のうち、『レヴァイアサン』は知らないけど『年報戦略研究』は査読あるよ→http://jsss.sakura.ne.jp/PDF/jsss-1507-tokokiteiyoko.pdf(当時もあったのかは知らん。『国家学会雑誌』はどうなんだろ。あってもなくても不思議じゃない。でもあそこ連載論文とか載せるからないのかなぁ)。ていうか和文の主要な研究雑誌にもそりゃ査読はあるし、だれも査読重要性は否定してないんですけど……(ただ、査読がなくても良い論文なら業績として扱っていいんじゃない、とは思う。査読つきの良い業績を積み上げてる人が一番評価されるべきなのは当然として、いちおう査読はされてるけどクソつまら研究と、査読されてないけど面白い研究だったら、一概に前者の方が業績として立派とはいえないんじゃない? 当たり前だけど公募では業績を提出させるわけで。まあわたし査読無しの媒体にはあまり書きたくないけどね)。

anond:20180216101648

学術受賞も箔つけるためみたいなものはあるけれど17人中15人って多すぎる。正直に公開してるからまだいいのか。

憶測だが、受賞できなかった2人は博論の中身が駄目だったからとかではなく民間企業就職決めたからみたいな話がありそう。

文系博士取るのが大変なのは事実だし、結局は視聴者側が、期待の若手研究者じゃなくて、大学に籍だけ置いてる博士号持ちの文筆家くらいの目線で見ればいいという話かもしれない。

はいえこのご時世さっさとアカポスは空けて欲しいし、テレビにはもっと議論だけじゃなくて基本の考え方の解説をできる学者タイプの人を出して欲しい。忙しいから受けてくれないというのもありそうだけど。あとワイドショーじゃ意味いか

2018-02-16

anond:20180215032409

学術的な著作が一本(博士論文)あって、形式的には論文3本あるので、非常勤(常勤?)講師になるには不足とは言えない。ただ留学もしてないし、研究者としての王道には乗ってないのかな。

受賞は論壇系のものばかり。博士論文が「特別優秀賞」とあるのが唯一学術受賞っぽいけど、この年の博士号取得者17人中15人が受賞してる。

http://www.u-tokyo.ac.jp/content/400064210.pdf

この資料だと、優秀な博論修論学会誌採録されるとのことだが、そのリスト三浦氏名前はない。(20頁以降参照)

私見だが「優秀な若手研究者」というより「博士号を持ってる保守論客」くらいの立ち位置では。

2018-02-13

空間認識能力に男女差があるっていうのは、もう学術的に認められたことなんだっけ?

それが生物学的要因によるものなのか、生まれた後の育ち方の差によるものかとかもわかってる?

2018-02-06

10年来の鬱とADHD傾向が改善した

 今年で28フリーター


 幼少期(小学校の低学年頃)に脳に疾患が見つかって、以来十年近く投薬治療をしていた。

 また、高校の頃からずっと鬱を患っていた。頭の中が鉛のようになって自由に動けなくなる。生活の上でそういうことが多々あった。


 ADHDも併発している。破壊的な過集中を経て朝まで眠れないことが多かった。

 バイトシフトにはちゃん遅刻せずに行く程度の社会性はあったけれど、やはりと言うべきかミスが多く、恐らく責任者も俺のことを発達障害者として認識していたみたいで、指示を出す時も俺にだけ妙に細かい明確な指示を出してくれたりした。それはそれでありがたかったのだけれど、時々ヒスを起こされることとなった。自分が主原因になっていることは分かっていたから、どちらかと言えば申し訳ない気持ちの方が強かったけれど。


 現役で地方駅弁大学入学して、卒業が近くなってから資格試験講座に通っていた。で、途中から引き篭もるようになる。

 一応何とか大学卒業できたけれど、定職に就くことはできなかった。


 自分は、根本的に人生ディシプリンというか一種の訓練期間だという固定観念を持っていて、それと同時に、より効率的自身を訓練できる人間がより優れた人間なのだという価値観を持っていた。だからと言うべきか、高校時代は朝5時に起きてジョギングを繰り返していた。恐らくその頃が、自分学力ピークになっていたと思う。

 確か当時の全国模試総合偏差値は70を超えていたはずである

 でも、そういう訓練が破綻を来たすのは思っていたよりも早かった。

 何年も日課にしていたジョギングが、高校生活半ばに突如として億劫になったのが始まりで、それ以来上手く眠ることができなくなったのだ。

 その頃から学力の減退も生じていて、自分自分コントロールできない感覚に苛まれるようになっていた。志望校ランクを一つ落として、何とか国立大学合格することはできたものの、今にして思えばあれが自分人生の最盛期だったのではないかと思う。


 大学に入ってからは、過密的な訓練期間と白痴のように生活崩壊する期間を繰り返すようになった。訓練期間には、暇があればジョギングに出かけ、膨大な量の学術書に当たった。また、複数語学習得を目指し大学ゼミを幾つも掛け持ちしていた。そして、大抵はそのような訓練期間は三ヶ月と持たずに破綻し、再び自分コントロールできずロクに睡眠も取れない白痴のような生活が始まるのだった。

 俺はそうやって訓練期間が破綻する度に、自分計画の建て方や訓練の方法に恐らくは問題があるのだと考えていた。実際、その考えにはある程度事実に沿う部分もあって、当時の俺はその自分が打ち立てた訓練方法の細部を限りなく修正し続ける作業に集中することとなった。そして、その細部を修正したトレーニング理論に基づく何ヶ月かの訓練タームを集中的に実施し、そしてその訓練タームの後には、訓練タームよりも更に長い破滅的な破綻の期間を迎えるということを繰り返していた。そのような生活大学卒業してからも戻らず、そんな具合に二十代の半ばを迎えた。


 何かが間違っていることには気付いていたけれど、何が間違っているのかはもはや分からなかった。考えつく限りの細部には工夫を凝らしてきたつもりで、主に食事における栄養バランスの調整には念入りという以上に念入りになった。卵、バナナ、木綿豆腐牛乳納豆青魚、葉野菜。こういうものバランスよく摂るようにしていた。でも、自分自分コントロールしているという感覚はついぞ訪れることはなく、相変わらず愚にもつかない趣味に熱中しては朝を迎え、疲弊しきった精神バイト先に行き、そして週末は48時間家に引き篭もって過ごすことも多くなっていた。


 いわば、この辺りが人生の暗黒期だったと言えるだろう。むしろ、そう言わずして何と呼べるのだろうか? もし他に呼び方があるとすれば誰か教えておくれ。


 さて。

 結論から言えば、この生活は現時点でかなり改善している。

 いわゆる躁鬱の躁期に入っただけの可能性も有ると言えば有るのだが、しか実証的に体系的に改善を目指した結果として、根本的に自己コントロールしているという感覚が数年ぶりに戻ってきたので、そこに関してはある種の信頼を置いている。


 原因というべき原因については既に見当がついていて、つまりそれは脳に対する血流の低下である身体におけるありとあらゆる不調や、自身コントロールを掌握できていない感覚殆ど場合、血流の低下に基づいているのであるADHDや鬱の改善に血流を効率よく増やす有酸素運動有効であることはとっくに知られていることで、つまり結局は脳の血流の有無が自己コントロール能力の有無へと繋がっているということなのだ。これを改善する為の様々な手段を講じ続けてきた結果、その中で極めて有効もののみが残ったので、それらについて以下に紹介していきたい。


 シンプルながら散歩ADHDや鬱の克服に大変役立つ行為である普段自転車原付で移動する距離を、例えば自転車原付を手で押しながら移動することで、とにかく歩く歩数を増やすことに集中した。iPhoneヘルスメーターも一応活用しており、実際に散歩した分の歩数が如実に数値として現れることにはかなりモチベーションを刺激されることとなった。


 腰の尾てい骨の下に柔らかいタオルを敷いた上での足の上げ下げなど、身体を横にして安定した状態にした上での筋トレは圧倒的に脳への血流を増やすことができる。これで週末の鬱傾向が随分と改善している。なお俺は心肺能力に二十代の半ばからかなり不安を抱えるようになったため、そこまで負荷を掛ける筋トレ実施していないが、自分の体調と相談しながら負荷を増やしていくことが肝要であるようだ。


 ドストエフスキー夏目漱石などといった純文学が望ましい。これらを読む際に脳に鋭い拒否感(としか呼びようのない感覚)が走る人間ほど、読書はうってつけの鬱・ADHD改善法となると俺は思っている。大抵の場合活字を読んだ際に訪れる決定的な拒否感は、脳に対する血流が急激に増えることに由来しているのである。そのように活字に対する拒否感が生じる際にはそっと目を閉じて、左前頭葉辺りに意識を集中してみると、はっきりと自分の脳への血流が増大している様子を感じることができると思う。特に、血流を増やす為には身体を横たえた状態でいることが望ましいのだけど、当然屋外や座った状態での読書も随分と効果を発揮する筈である。また、外国語の読解などもこの読書カテゴリーに加えておく。


  • 絵を描くこと(普段行わない趣味を行うこと)

 基本的に鬱の人間は、日々変化に欠ける生活を送っている場合が多い。

 同じパターンというか、悪い意味で安定しきった生活を送っていることが多いのである

 すると行動の多様性や、積極的な行動への意志が驚くほど抜け落ちていくという事態に遭遇した鬱持ち・ADHD持ちの人間は非常に多いのではなかろうか。というわけで俺はどちらかと言えば趣味としては読書文章を書くことに取り組むことが多く、空間的に物事を把握しそれを描写する絵などにはあまり集中力を払わないことが多かったのだけれど、これがどうやらいけなかったらしい。最近は、漫画イラストを模写したりだとか、積極的に絵を描く時間生活の中に設けるようにしている。ファミレスハンバーガーショップなどに行った時にサッと手帳を取り出して、軽く文章やそれに付する絵を描いたりすることも日課となっている。

 ここで言いたいのは、必ずしも絵を描くことが鬱やADHD改善に役立つといったことではなく、同じ行動パターンや同じ行動に固執することが如何に脳に悪影響であるかということなである。なので俺は最近文章を書き、絵を描き、詰将棋を解き、読書をし、と、とにかくやる事を一つに限定せずコロコロと変えることを意識して生活するようにしているのだ。

 鬱持ち・ADHD持ちにありがちな思考の切り替えや行動の切り替えが上手くいかない人間には、是非絵やその他普段行うことのない趣味を増やすことをオススメする。


 上で書いた通り、卵や牛乳青魚といったナチュラルフードが脳のパフォーマンスに影響することは学術的に証明されて久しい(と俺は思っている)。これはもう殆ど記述する必要性がない事実だが、しかし敢えてここに記述するからには、そこには当然ながらそれなりの理由がある。

 つまり、俺のような鬱・ADHDの併発した人間には、料理を行う際にとある事柄が圧倒的なハードルとして持ち掛かってくるということなである。つまりそれは、そう、料理煩雑さや億劫である

 基本的に鬱傾向やADHD傾向を持った人間はありとあらゆる行動に億劫さを感じるもので、よほどその行動に高い利益や見返りが見込めない限りは、その行動を行いたくないと思うものなのである。そういった面から言って、料理は味よりも栄養価と手間の少なさを重視するように俺は心がけている。準備や片付けの手間をできるだけ減らすために、単に塩焼きにしたり茹でるだけだとか、できるだけ工程の少ない料理(というか殆ど調理)で済ませられるようにしている。

 また、週末になれば殆ど外食で済ます

 脳に一定以上の煩雑さや負担押し付けないことが、ADHDや鬱改善の要点である。時にはサボることも非常に重要だ。


 追記。瞑想効果あると思う。瞑想時に、個人的には脳への血流が如実に感じられることが多く、恐らく脳に対してかなりポジティブ効果が起こっていると思われる。

 読書の後など、脳に負荷を掛けた際にその情報の整理や休憩の為に、短めのカジュアル瞑想を行うことがある。これもまたオススメ


 など


 こんなところだろうか。

 思い出し次第追記を行いたいと思う。


 今年に入って、文学小説の脳に対する効能が非常に大きいことに気付けたのは重要発見だったと思う。読書の際に襲ってくる倦厭感がむしろ血流の増大と関わっていることに気付けたのは、自分としては非常に大きな発見だったと思っている。というわけで、かなり重篤な症状持ちの人間としては、以上のような改善法を進める次第である

 上では書かなかったが、俺は重篤インターネット依存症持ちでもある。

 しかしその依存症もこの数ヶ月で劇的に改善した。俺という人間は、言うまでもなく長所よりは短所欠点の方が随分多く付きまとう人間であるからには、そんな人間にすら効果がある対処法は、恐らく全人類的に効果のある対処法となっていること請け合いである

 是非とも、皆さんにも実行してもらいたい。

 自身病癖を繰り返すようで悪いが、やはり疑いなく、「よい訓練こそが、よい人生なのだ


 それでは。

2018-02-05

anond:20180205153146

この前書き込んだときは、内容が専門的すぎたのか、学術的・専門的な議論他所でやれだのなんだの言われたのに、同じ人間がシモに関する話題を書き込んだけで低学歴扱いされるのって、読む人がいか先入観に左右されるかが浮き彫りになって面白いよね。

2018-02-02

発達障害

借金玉がやってる発達障害者ハウツー、たとえば「女性が実際に生き抜く上では男性社会適応することが現実問題として必要なので気立てのよさを身に着けましょう」とか言ってるのと何が違うのかわからないので全く信用する気にはなれない。「発達障害者が実際に生き抜く上では健常者社会適応することが現実問題として必要なので健常者仕草を身に着けましょう」。当然それはある女性発達障害者個人として実践する生き方だったならばそれを否定することはできないけど、それを運動にし始めたなら社会変革を理念目標とするフェミニストにとっては迷惑しかない。多分、借金玉は「発達障害基本的デメリットであることは疑いようがない」と思ってるんだろうなと思う。物忘れが多いとか、ルールを守ることができないとか、根気がないとかが、まったく問題にならないような社会を作ることが必要だという意識を持っていない、もしくは無視している。借金玉がやってるのは個人ローカル実践の延長やみたいなことを多分言ってるんだけど、集団を動員している以上それではすまないところもある。『みなさん、やっていきましょう』。外からみたら運動の動員にしか見えないわけだから。ある種の価値観を広めていることは間違いないわけだから

関係ないけどここ数日のツイッターバトルは運動とか実践とか当事者とか学術とかコロコロ自分属性操作して無敵になろうとしてるのが激ヤバムーブ過ぎて普通に複素数太郎かわいそうだなとおもいました(こなみかん)。

2018-01-31

ないのは金ではなくもっと別の

芸術に金を出さないどころか、学術にも金を出さない。

科研費はクソシステムで、その上削られる一方で、その上、役所から言われる煩雑事務手続き研究者時間をどんどん削る。金を出さないなら、先生たちの時間を奪うなとずっと思っている。

まあリソースは有限だというのはわかるんだけど。

・それはそれとして、問題はどうも最近ジャンルを問わず専門的なジャンル知識技術経験に対しての敬意みたいなものが色んなとこから消えてる気がする。

絵描き報酬とか、エンジニアのいうことを聞かない上の人たちとか、専門研究者意見からかけ離れていく政策とかもそれなんじゃないかなーって

2018-01-18

anond:20180118142653

現代ミステリしょっちゅう古典ミステリを引き合いに出すからドイルやらクリスティ作品は相当引用されてると思う

そして誰もいなくなった、とかどこにでも出てくるし

ミステリ以外の物語なら、シェイクスピアが最強。

もうちょい新しいのだと星の王子様とか、コメントにあるロボット三原則とかだな。あとハルヒか?

あと、詩集とか俳句集を書物定義に入れるならそっちも相当強そうだな

ただ最強は数学とか学術系の専門書だと思う

(追記)

読み直したら小説って書いてたか詩集以下は取り消すわ

とりあえずハムレットに一票

2018-01-16

anond:20180115180218

まさか学術調査を揚げ足取って騒いでるアホな奴らなんて思いもしないだろ?

から話が逸らされたの?

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