はてなキーワード: エルサレムとは
エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。
大学2年生をしている。
キリスト系の大学に通ってるんだけど、神学的な講義がぜんぜん意味不明だった。
なので、一生に一度と思い、聖書に挑戦してみることにした。
率直に感想を述べる。
長かった……とにかく長かったー! ぜんぶで2000ページ以上もあった。
そのうえわたしは、本を読むのが遅い。なので、1ページに平均3分ちょっとかかった。詩編だと2分くらいかな。
なので、1ページにつき3分とすると、2000ページで6000分=約96時間も読んでいたことになる。こんな読書体験は初めてだ。
得られる物はもちろんあった。半年もかかって読み終えたのだ。成果なしでは悲しすぎる。
全文引用はちょっとどうかなと思うところもあったけど、この聖書の発行元は、250節までは引用OKとしている。
なので、この2編だけグサッとまるまる引用する。ほかにもちょっとだけ引用している。冒頭の詩は、『詩編』(追記:雅歌の間違いでした)という閑話休題的な部分から取らせてもらった。(私が持っている)旧約聖書の1052ページに載っている。
子どもの頃、こんな題名のドラマを観たことがあるかもしれない。
放蕩息子のたとえ
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
最初は意味不明だった。お前は何を言ってるんだ? そんな気分だった。
さて、解説サイトを巡ったところによると、この掌編というのは――父親を神に、放蕩息子を(いつも罪を犯しがちな)迷える人間に喩えているらしい。
なるほどと思った。イエスの説話にはたとえ話がよく登場するが、たとえ話の中でもたとえを使っているのだ。
神は寛容な存在だ。聖書においても、寛容さが重要な徳であると述べた個所が多くある。
現代社会においてもそうだ。昔に比べると、個人に対する寛容さが求められるようになっている。傍目では愚かに見える行いであっても、当人の意志を尊重する。自己決定権というやつだ(うろおぼえ)。
聖書というのは、なんかもういろいろと今の社会を先取りしているのだ。いや違う、普遍的というやつだ。どんな時代でも共通する大事なことを、ひとつひとつ、じっくりとしっかりと述べている。
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
――ルカによる福音書 16.1-13(16章の1節~13節) P.140
「それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」という、中学生の時に読んだ漫画の台詞を思い出した。
読み始めは、聖書らしい勧善懲悪を期待していた。読了後は、こいつやりたい放題だな! と感じつつ、この物語は何を意味しているのだろう――今度は自分で考えることにした。
こたつ机の上で、通勤途中の自転車で、トイレの中で、サイゼリヤでの雑談中に、神学のWeb講義中に、何度も考える機会があった。
わからなかった。結局。
それで、解説サイトを巡ってみることにした。どうやら聖書のたとえ話の中でもメジャーな作品らしい。
しかし、わからない。どの解説サイトを読んでもしっくりこないのだ。
どのサイトにおいても、「どんなに苦しい状況の中でも、神の国に行くために最善の行動を取ることが大事」と書いてあった。不正にまみれた富でいいので、いつか最後の審判が訪れて、永遠の国に住む時のための友達を作っておくべき、みたいなことが書いてあった。
例えば、主人が召使い3人に、自分が留守の間お金を預ける話がある。3人の召使いの中で、そのお金を資産運用によって一番増やした人が主人に一番褒められていた。お金を土の中に埋めておいた人は、主人の命でそれを取り上げられ、一番増やした人に渡ったうえ、彼は外の暗闇に追い出されてしまう。
(だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる)
でも、その一方で、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」みたいなことを述べた箇所が同じ新約聖書に3つ以上はある。
約二千年前に作り始められたわけだから、矛盾する箇所も当然あるだろう。しかし、それにしても不正な管理人の話には納得がいかない。
そうこう考えてググっているうち、こんな本をアマゾンで見つけた。
要約すると、長い年月に渡って聖書が写本され続けた結果、当初は存在しなかった物語や解釈や意図が入り込んでいった、とのことだ。
ならば納得できる。この『不正な管理人のたとえ』の真実は、こうだ。昔、聖書を写本していた権威ある人が、「このネタ入れたら面白いんじゃね?」的なノリで挿入したシュールギャグだったのだ。それが不正な管理人のたとえの正体である――解決。
解説サイトやヤフー知恵袋なんかでこの掌編を肯定している人は、もしかして、あれじゃない? 権威に弱い人なんじゃないか?? おかしいものはおかしいとして、はっきり言わないといけないんじゃない??? と、わたしは思いました。(小学生並みの感想
聖書を読んでよかった。
はっきり言おう(ここイエスを意識している)。わたしにとって収穫だったのは、多くのコンテンツの原典・元ネタであることを確認できたからだ。以下のようなものがある。ネタバレ防止のため、どの作品に派生しているかは原則述べない。
例えば、①エジプトの王宮でのモーセ&アロン VS ファラオの対決時に、お互いの杖を蛇に変えてバトルする場面とか、②サムソンが今わの際に両手で二本の柱を押し倒して数千人を巻き添えにして死ぬところとか、③ペルシャ王クセルクセスが、「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」って2回も言うところとか、④大岡裁き(どちらが本当の母親か決めるやつ)の元になった母親2人の諍いの話とか、⑤ダビデの三勇士の一人イシュバアルは、槍のひと突きで800人を殺してしまうとか、サラっと書いてあって思わず吹いた……。
ほかにも、ここには挙げきれないほど多くの漫画や小説やゲームの元ネタに会うことができた。これだけでも読んだ甲斐があるというものだ。
特に、士師記のサムソンには笑わせてもらった。スラップスティック・ギャグコメディの原型が聖書にあったなんて! 高橋留美子も、これを読んで『うる星やつら』の肥やしにしたのかもしれない。
聖書というのは、宗教書というよりは総合文学の書であって、これを基に、その人がどう人生を生きるか考えるきっかけにする、みたいなコンテンツなんだと思う。
聖書は、各編によって色あいが相当違う。格調高く綴られた世界創造の語りだったり、長い旅と王国の繁栄の中で主人公が次々と交代していく群像劇のようにも見えるし、小説上のジャンルはだいたい網羅している(冒頭の詩は兄×妹の恋愛ものだ)し、どんな生き方が正しいのかという論じ合いもあるし、お笑いな感じの喜劇もあるし、いきなり箴言集になったりするし、詩もたくさん出てくる。
ところで、聖書に出てくる神は、その時々によって寛容だったり不寛容だったりする。人によらずとも、矛盾していると感じることがある。
キリスト者を迫害した人や、信心や律法の罪を犯した人を赦す場面もあれば、かの有名なオナンさんはあっさりと殺されるし(彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。)、聖者エリシャを「禿げ頭出ていけ」と詰った子ども達42人は、突如現れた熊2匹によって皆殺しに遭っている。
同じ人でもやることなすことに筋が通っていたりいなかったりすることがあるし、理不尽だと感じた運命が後に自らを利するものであることがわかったりするし、法律や常識に反した行動がみんなの共感を得ることだってある。
わたしが若者でいられる時間は少ない。あと10年以内には若者ではなくなってしまう。それまでには、ひとかどの人物になっていたい。今回、半年がかりで聖書に向き合った経験が生きたらいいなと思っている。
最後に、物語の背景を知らなければ厨二な詩としか思えない台詞を書き留めて結びとする。
サタンの弄びにより、死に等しい皮膚病に冒されてしまった義人ヨブの独白の一部だ。
良いね!その質問は、実に好ましい。なぜなら、統計学が意味をなさないことが多いのに、なんで勉強するか疑問だろ?そりゃ、統計学が『ノイズ』を除去するからだよ。統計学は N/A とかあるのに、P値だ言って誤魔化しているのに、いざ自分たちの理論が破綻したら「シックス・シグマ的にありえない!」とか言って逃げるだろ。バブルも、リーマンショックも、自分たちが都合の良い数値を適当に取り繕って、レバレッジをかけて破綻していった。そうだよ、大きく社会学といったら会計学も経済学も「左辺と右辺が一致する」という数学の理論を無理やり当てはめて、一致すると安堵するということを繰り返しすぎなんだよ。違うね。社会学においては「左辺と右辺が一致しない」ということに意味がある。例えば、昔の人間と DNA的には同じだろうが、社会は常に変化していくのだ。まさかだけど、資本主義があるから共産主義があるとか思ってないか?違うぞ。共産主義がおこって、資本主義というレッテルが作られたのだよ。マクロ経済学があるから、ミクロ経済学があるのか?違うよ。最初は、ミクロ経済学なんてなかったんだよ。なぜに、人は「反対のもの」を探そうとするのかね。おかげで、ミクロを積分するとマクロになるという研究に一生を注げてしまう人が出てきた。可哀想にね。今では、合成の誤謬とか言うがね。世の中は、シンプルじゃないんだ。今では、複雑系という領域が勃興したおかげで、(古典な)物理学や(過去のデータを扱う)統計学、そして数学のテクニックを社会学に応用して「未来を想定する」という学問は死に絶えつつあるのさ。間違っているのは、私立文系の教授たちであって、自分達の地位が規模に依存していて、学生を無意味なテキストを買わせるだけの私立文系と芸術学部(市井の画家とかは除く)がイキっているアホしかいないのに、拝めているのだよ。特に、日本銀行券にのっている「日本のボルテール(大爆笑)」さんの大学とかさ、みのもんたや石原慎太郎の子弟とか、統計学を使うと「慶應義塾大学の受験なんてしないと、有能になる」ということを「信頼区間的には、棄却される」としか出せないだろ。ウケるw。文系は無理して数学を使役しようなんてするのではなくて、本や資料、そして『リアル』に触れる機会を徹底的に増やしていくべきなんだよ。一橋大学に文学部を作って、早稲田と慶応は文系人員を減らして、国立の理工学のリベラルアーツ教育の復興を目指すべきなのだ。根拠は、私立文系は「既卒は採用されない」という現実に向き合うべきだろ。まだ、四十路で看護学部にいった方が就職があるって変じゃないか?あれだけ数学を否定して入学させて、あまつさえ本人たちも得意でない統計学やデータサイエンスを教えるなんて、教育者として失格だろ。ちゃっちゃと、似非・数学者はくたばってください、としか思わねーよ。閑話休題。最初の「社会学や心理学」で統計学が使えないのは何故かという疑問に答えるぞ。わかりやすい例だと、かの有名な「校長」という事例があるじゃん。世の中には「一騎当千の強者」がいて、そういう統計的には「ノイズ」として棄却されるような、通常は起きないけど「未知の未知」という人知を超えた「何か」がいるの。ほら、新型コロナウイルスは「1つの『①新型コロナウイルス』が『②武漢』に生じた」というだけじゃん。これを「①イエス・キリスト、②エルサレム」「①ポル・ポト、②カンボジア」「①スマホ、②シリコンバレー」「①自動車、②ドイツ」というのとどう違うのさ。①から②は成り立つが、②から①は成立しねーよ。そんなのは、「オッカムの剃刀」とかで徹底的に洗い出されているのであって、帰納法と演繹法では「世の中を描けないのだ」よ。つまり、人文系と人工知能のように社会学的な方向に、ベンサムを始祖として常に繰り返されてきた、物理学や数学のメソッドの応用は事故の元です。なぜなら、ヒトは「変わらない」が、社会は「変わる」のです。光の速さは(俺が生きている間は)不変ですが、社会は(テレビ・新聞・インターネットとか出てきたせいで)変わるのです。つまり、統計学のような「観測できなかったことを誤魔化す」「そもそもサンプルが全て出揃うのが不可能」「過去に起きなかったから、未来にも起きないと思い込む」ような、雑な『算数』で「数学を理解していると信じる私立文系ども」はオウム真理教で「サリンをばら撒いた高学歴」と何ら変わらないよー、って言いたいのですよ。天才の麻原がいなかったら、地下鉄サリン事件なんて高学歴の秀才どもが起こすわけないじゃん?(q.e.d)
ガザ地区を実効支配するテロ組織ハマスとイスラエルの、ハマスによる先制ロケット弾攻撃に端を発した武力衝突について、一つの疑問があるのだけれどニュースソースを追っても疑問は解消されない。
「ガザ地区の住民は、ハマスの支配を歓迎しているのが多数派なのか?」というのが、俺が持つ疑問だ。
という感じで、ハマスがガザ地区を実効支配することによって、ガザ地区のパレスチナ人は不幸になっているとしか思えない。
宗教対立的な側面から、過激派テロ組織がユダヤ教徒から聖地エルサレムを守る守護者的な言われ方もするが、実際にはハマスはエルサレムにもロケット弾を撃ち込んでいる。
これらのことを考えてみると、ISIS同様に武力と恐怖でガザ地区を支配しているだけで、住民に支持されているとは、到底思えないんだよな。
ハマスは住民に戦死者を出すことを戦略にしつつ、住民に与えられた支援で戦闘を継続し、地区のインフラを疲弊させていっている、こんな酷い話はない。
そもそもの問題として、パレスチナの西岸地区とガザ地区は飛び地になっており、PLOのファタハが、ガザ地区を支配するハマスを抑えるだけの力を行使できない事も問題であるように思う。
ハマスとファタハもガザ地区で武力衝突、内戦をやってるのだけれど、地理的な問題からしてもファタハが実効支配を取り戻すのは、イスラエルか国連の強力なくしては難しいだろう。
歴史的な経緯から言って、イスラエルがガザ地区を接収するとしたら、ガザ地区の住民は段階的に追い出されて難民化するしかないだろうし、
となれば、最も中立的な国連軍がハマスの実効支配を終わらせて、インフラの整備や経済復興を支援するのがいいのではないかと思う。
もしもピール委員会が決めた、パレスチナ85%案をパレスチナ人が受け入れていれば、イスラエルが逆に飛び地しかもたない弱い国家になっていた。
その後、国連案でイスラエルが56%となった分割案で、現在のパレスチナの飛び地支配の基礎が出来てしまってるけど、飛び地状態なのが残酷すぎるとは思う。
だが、独立を宣言したイスラエルが気に入らないと、パレスチナ自治区含むアラブ諸国がしかけた第一次中東戦争でアラブ側が負け、その後も負け続けた事もある。
それだけにパレスチナが一方的な被害者であるとは思わないが、ガザ地区の住民はかなり悲惨な立場に置かれてると思う。
このガザ地区の住民にとって酷い状況を改善するためにはハマスを追い出すしかないだろうと思うんだがなぁ。
まぁ話によると、今選挙をやるとファタハがハマスに負け、アッバス議長は議長の座を退くことになるから、贈収賄疑惑で政権を失いそうなネタニヤフ同様に、ハマスとイスラエルと武力衝突しているのはPLOにとっても好都合という位だから
パレスチナ自治区民はハマスを支持しているということなのかもしれない。であれば、イスラエルの反撃で建物が破壊され、死者が出る状況はパレスチナ自治区民が望んだものとして覚悟して受け入れるべきものかもしれん。
あんだけ国をめちゃくちゃにしてるタリバンすら、アフガニスタンでは歓迎されている訳だから、イスラム教徒には非合理すぎて理解しがたい側面があるわ。
多くの日本人は興味がないか、パレスチナ可哀そう以外のストーリーで受け入れないのだろうけど、この問題はどっちが一方的に悪いと言えるほどシンプルではない。パレスチナも十分に愚かで、間違ってる。
イスラム教が割と最強に近いと思うんだよね、社会を安定化させ、個人が幸福に生きられる思想としては
仏教は人依存というか、仏教のルールそのものじゃなくて、ルール外の人間の振る舞いでうまく調節できてる部分があって、
そこが結構危ういと思ってる
周りにいる人によってどの程度幸福になるか決まる感じというか
キリスト教みたいに時代に合わせてアップデートしていければよかったのだが、今のところ原理主義が幅を利かせてたり、どうしようもない
ともかく、イスラム教をベースに磨いていけば、良い宗教が出来るかな
ムハンマドはただのヒト、コーランはただの紙、マッカもエルサレムもただの地表の一部、くらいにやった上で
性差別的な部分やらいろいろ改良していく感じかなー
聖地巡礼とは中世ヨーロッパの封建社会においてキリスト教徒のあいだで流行した、キリスト教の聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である。
転じて、現代においてはアニメや映画などの熱心なファンが、創作物やキャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。
私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組のロケで訪れたり雑誌等メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。
大塚の天祖神社やバッティングセンター、千歳船橋の喫茶店ぱおーん、五反田のデニーズ……
思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。
それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。
聖地巡礼には楽しさがある。
思えば私は日本史と世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画のロケ地を訪れることもある。
(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)
今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代にマゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊、フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。
そう、私はフランシス・ドレークの足跡を辿りたいのである。
乃木坂のメンバーが参詣した神社に自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分もバットを振るいたいのだ。
そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである。
この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。
バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティングの最中は乃木坂のことは忘れて純粋にボールをバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。
しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別な意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。
私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。
この違いは何に由来するのか。
まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼の動機に深く関わっている。
私は何も藤田ニコルや西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡に自分の足跡を重ねたいとは思わない。
フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)
では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。
恐らくは、その人物との関係性および距離感が聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ。
想像するに乃木坂のメンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地を巡礼したいという衝動はなくなるだろう。
同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ。
友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。
ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別」である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。
そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為を追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。
その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。
私は宮崎駿監督の映画が大好きで、監督がハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県の鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。
フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周にロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。
しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼランの足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。
(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)
「手の届かない「聖なる存在」である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。
ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターでバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂のメンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。
一年間彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアルに追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記:そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為に限定するべきだったかもしれない)
聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ちを自分も受けたいかというと難しい。
例えばメンバーの誰かが過去にイジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。
しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年間継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。
キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいね。はい。))
体験の総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。
心地よい感情が動きがあればよい。
郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。
いや、違うな。
上に述べたエモさは体験そのものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為を追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。
例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為そのもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋な巡礼っぽい)
先例のイジメのように行為自体は許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。
「追体験行為を包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼が追体験を包含する」よりも「巡礼に追体験が付随する(ことがある)」が正しい)
距離も重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理的距離感である。
遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。
私は電車移動含めて一時間もあれば十分である。しかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値は希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。
遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂のメンバーが訪れた場所の比較として、私の現在地から大塚のバッティングセンターとパリの街角にあるカフェとの物理的距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリのカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。
これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂のメンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理的距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェを目的に渡仏する気にはならない。
いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為そのものに乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味で巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記:日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的に行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係。目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋な巡礼価値は何によって決まるのか。))
これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行そのものに少なからず体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。
でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフで聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。
眠いし目も疲れたので「過去の自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。
おやすみなさい。
追記: see https://jp.reuters.com/article/wrapup-saudi-attach-idJPKBN1W22KF
この問題について、二つの方面から考える必要があると思います。すなわち、兵器の性能と報道の実態についてです。
まず兵器の性能ですが、イエメンフーシ派/イラン革命防衛隊が爆撃に使用する主力ドローン爆撃機は 200kg の爆弾を装備し 1000km 前後を飛行する能力があるとみなされています。作戦において航空機が直線的に飛行することはほぼ考えられないため、せいぜい半径 300km 程度しか攻撃できないものと思われます。
今回攻撃をうけたダンマームはフーシ派支配地域の先端(サウジアラビアのナジュラーン)から 1200km 近く離れています。攻撃がイランによるものだとした場合、以下のような可能性があります
という都市はブーシェフルしか存在しません。ここはイランの核開発の拠点の都市として知られているので、米軍の衛星などにより厳重に監視されているものと思われます。そうした都市から直接爆撃機を運用することはちょっと考えづらいと思います。
またイランのドローンが 3000km を飛翔可能であると想定すると、イラン領土内から直接エルサレムの爆撃が可能になります。もし、イランがそうした兵器をすでに運用していた場合、イスラエルがここまで「冷静に」事態を取り扱っていることはかなり不自然です。
ということは、仮にイラン、イエメンフーシ派が攻撃を行なったと考える場合フーシ派はサウジアラビア領内を陸路長距離侵攻してサウジ領内に仮設の飛行場を作り作戦を遂行する能力を持っていることになります。ドローン一機とそれに関連する機器を最大限切り詰めても大型トラック 2 台分にはなると思います。今回の攻撃ではドローン 10 機を使ったというのがイラン側の宣伝なのでそれだけでトラック 20 台です。それに加えて仮設の飛行場を設定するための機材や人員の輸送、警備兵力などを入れるとおそらくトラック 50 台近い車列になるものと思われます。
このような大部隊がサウジアラビア領内に密かに侵攻し、ドローン爆撃を行っているというのは一見極めて異常な事態です。しかしサウジアラビアの人口密度は極めて希薄であることを考えると不可能ではないと思います。またリヤド近郊のパイプライン攻撃、今回とは違う油田攻撃など「そういう手段が確立されている」としか思えない攻撃についてもこれまで報道されてきています。
次に報道についてです。まずよく言われる「なぜこの時期に」という問題ですが、正直なところこの時期も何もあったものではないです。これまでにあったことですが、リヤドが弾道ミサイルで攻撃されたことが報道されましたし、石油パイプラインが攻撃される事例もありましたし、先月末にはサウジ国内の別の油田が攻撃されています。石油関係以外に目をむけると、軍事設備、行政設備、要人の暗殺、空港爆撃などイエメンによるサウジ航空攻撃は多岐に及んでいます。またナジュラーン、ジーザーンをはじめとした複数の都市が陸路から侵攻を受けています。こうした話はアラビア語メディアには頻出していますが、欧米、日本、中国といった先進国はこれまでほとんど無視を決め込んできました。
どちらかといえば「よくある攻撃だったはずなのに今回だけが大きく報じられている」ということが問題だと思います。
先月の攻撃ではサウジアラビア石油大臣は「サウジアラビア全体の石油生産には影響を与えない」という言い方をしていました。すなわち、該当の施設は生産を停止するが、他の施設の増産で対処可能という意味です。しかし今回は攻撃一回で「サウジの石油生産能力が一時的に 50% ダウンする」ということがストレートに発表されました。ここまで大打撃をうけるということは、つまり、攻撃されずに残っていた油田の稼働率を限界まで上げることで対処していたところにさらに攻撃を受けた結果ついに対処の限度を超えたということです。
今回の攻撃は「よくある攻撃」でしたが「最後の一撃だった」とも言えるものです。また今回の攻撃は先進国民の生活に直接影響があるもので、そうしたこともあって「よくあること」なのに報道が多くなってしまったのだと思います。
ではサウジアラビアの意向はどうかというと、ムハンマド皇太子独裁体制のほころびを隠すことが全てだったと思います。これまでサウジアラビア国内はイラン/イエメンの攻撃により大被害を受けていたと考えられます(ドローン10機による攻撃程度で石油生産が半分も破壊されてしまったことがなによりの証拠)が、こうした事実をサウジアラビアはなるべく隠蔽しようとしてきました。8月終盤ごろからいよいよ被害が隠し切れなくなってきた、あるいはムハンマド皇太子更迭の準備が整いつつあるということなのでしょう。
しばらく前の話。同僚が韓国のことをえらく悪く言いだした。最初は聞き流していたんだけど、あんまりにも根拠不明のことをガンガン言い募る。コスモポリタンを自認する自分としては、たしなめざるを得なくなって、「その話、根拠なんなの?ソースちゃんと確かめてる?」って訊いた。するとその同僚はあろうことか「増田さん、在日ですか?」と明後日の方向で、息巻いて来た。まあどちらでもいいんだけど、うちの親が言うには我が家は第30代敏達天皇の後裔らしい。なので(笑)論点も外してる上に、事実からも遠い反応なのだが、見当はずれな反論に再反論しても議論は深まらないのでヘラヘラと流した。
そんなことがあってしばらくした盆休みの午後、福音書を読んでいたら、既視感を覚える記述があった。ヨハネの福音書の7章辺りにニコデモって男が登場する。この男は当時のユダヤ人の貴族が集まるサロンの会員で、そのサロンではイエスがえらくヘイトを集めている。理由は、漁民や小役人らと徒党を組んだ田舎者(イエスはエルサレムから3日くらいの道のりのガリラヤ出身)の大工が、生意気にも貴族たる自分たちの既得権益に何やら悪影響を及ぼしているってことだ。そのサロンでの、イエス問題を議題にした会議の最中、あまりにもイエス憎しで結論ありきな議論に嫌気がさしたニコデモは「あんまり予断で話をせずに、本人呼んで話聞いた方がよくなくない?」と発言する。すると「お前、在日?ガリラヤ出身??」みたいな明後日の方向の言いがかりの総攻撃をうける。記述はそこでおわっているが、おそらくニコデモは話す気なくしてヘラヘラしてたんじゃないかなと思う。
4月4日、京都・舞鶴で行われた大相撲の地方巡業の際、土俵上であいさつ中に倒れた舞鶴市長に、周囲の女性たちが救命活動のために土俵上に上がった問題について、メディアを通じて大きな問題になっている。
医療関係者と報道されている女性が救急救命中、行事が「女性は土俵から降りてください」と繰り返しアナウンスし続けたことが大きくクローズアップされている。
歴史ある大相撲の伝統として、土俵には女性は上がることはできない「女人禁制」の原理原則からすれば当然の話である。
しかし、世間はそうは受け取らなかったようである。この土俵問題を報じているヤフーニュースのコメント欄をザッと読んでみても、女人禁制の制度自体に対する批判が多かった。
ちなみに、私自身も個人的には大相撲・土俵の女人禁制には批判的だし、もっと言えば皇室の男子継承についても改革するべきだと考えている。
ヤフーニュースやテレビの報道番組の中で言われていた批判の中で印象に残ったのは「女人禁制の原則を守った結果、救急救命行為が行われずに、市長が死んでしまったらどうするのか」という論理である。21世紀の現代社会なのに、女人禁制のしきたりは時代遅れではないのか、と。
しかし私から言わせてもらえば、「女人禁制」というしきたりは、しきたりという古めかしい言葉で表現される以上の意味を持つ、「思想信条」に等しいのではないか。
私たち一般人から見れば女人禁制なんて、頭のおかしい考え方そのものに思えるが、大相撲関係者の人たちから見ればそれは教義と同じことなのだ。
大相撲関係者の胸の内を想像してみると、死人が出たとしても女人禁制の原理原則は守るべきことなのだと!
ここで思いついたことがある。中東・イスラエルとパレスチナの中東戦争のことだ。
ご存じの通り、中東戦争の火元であるエルサレムにはユダヤ教とイスラム教、キリスト教の聖地となっている。
ユダヤ教徒によって神聖な存在である嘆きの壁、ムハンマドがここで昇天したと信じるイスラム教徒にとっての岩のドーム、そしてキリスト教徒にとっての聖墳墓記念聖堂の3つである。
この3つの宗教をめぐって、あの地域の人たちは50年以上も戦争を続けている。
私たち日本人から見れば、中東の砂漠の中の地面を巡って殺し合いをするなんて、あの土人どもは頭がおかしいだろうとしか思えないことであるが。
しかし彼ら(ユダヤ・パレスチナ・周辺諸国の人たち)からすれば、「教義のためなら死をも厭わない」と本気で考えている人たちが多いということだろう。
そして21世紀の現在でも、彼らは殺し合っている。
地下鉄サリン事件から23年が過ぎた。
23年という事は、言ってしまえば、今時の大学生以下の世代は地下鉄サリン事件を知らないという事だ。
それは、オウム真理教の事件も知らないという事。
先週の土曜日、3月17日に東京で「地下鉄サリン事件23年目の会」という会が開かれた。
オウム真理教事件の被害者、地下鉄サリン事件の被害者及び、その親族・家族が集まる会。そこに、麻原彰晃の娘・・・三女の松本麗華が来ていたらしい。
入り口には「オウム真理教及び、その後継団体の関係者は入らないで下さい」と書かれていたにも関わらずいたらしい。
松本麗華は、数年前よりオウム真理教の後継団体の一つ「アレフ」と争っているという。争っている理由については非常に複雑で、この増田で書くには文字数が多くなる。
松本麗華にとっては、オウム真理教事件の被害者=オウム真理教及びその後継団体「アレフ」の敵=「アレフ」の敵である自分の味方という考えでの参加だったのだろう。
だが、松本麗華のTwitter上での主張には明らかに麻原彰晃を正しいと思っている節が見られる。
以下に、その主張の一部や最近の行動等をまとめたサイトのリンクを貼っておく。
これらの主張より、松本麗華は
と言える。
そんな中、ある「ひかりの輪」の脱会者が、「ひかりの輪」の代表である上祐について、こう証言していた
このツイートをした人物は、「アレフ」や松本麗華を擁護する様なツイートをしている。
「アレフ」も「ひかりの輪」も「松本麗華」も、やっている事はスケールの小さな宗教戦争なのだろう。
教祖である麻原彰晃が存在し、その麻原彰晃が逮捕された事で彼らの中で神格化された。
そして・・・
「麻原彰晃は無実なのに国の陰謀で死刑判決を下された」と考える松本麗華派
「表面上は麻原彰晃を否定しつつ、麻原彰晃の教義を尊重し、麻原彰晃の息子を新たな教祖にしたい」と考える「アレフ」
「オウム真理教を脱退した一部の幹部が脱・麻原彰晃を謳い文句に金儲けをしたい」と作った「ひかりの輪」
そして、「アレフ」を脱会した信者の中には「ひかりの輪」の教義に傾倒する者もいれば、「ひかりの輪」を脱退した者の中には松本麗華や「アレフ」の教義に傾倒する者もいる。
泥沼だ、スケールの小さい宗教戦争なのに泥沼だ。
どの派閥も「麻原彰晃の教義」が第一に有り、それを肯定するか否定するかで成り立っている。
きっと、原初の時代のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教も、元々は一つだったのがこの様に分かれて今の状態にあるのだろう。
だから、キリスト教もイスラム教もユダヤ教もエルサレムを聖地としているのかも知れない。
このスケールの小さな宗教戦争に、麻原彰晃やオウム真理教事件の確定死刑囚の死刑の執行はどういう波紋を呼ぶのだろうか?
地下鉄サリン事件から23年、今年の4月に東京メトロ(旧・営団地下鉄)に入社する4年生大学を卒業した新入社員は、
地下鉄サリン事件の起こった年に生まれた人達だ。
地下鉄サリン事件を知らない世代が、地下鉄サリン事件の有った会社に入社した時・・・、果たして、同様のテロが起こった時に防げるのだろうか?
オウム真理教事件の確定死刑囚の死刑が近付いていると感じられる今、「あの事件は何だったのか」もう一度考える時期に来ているのではないだろうか?
P.S 本日17時半からのTBSニュースでは、麻原彰晃の娘、松本麗華に取材した内容を流すそうです。是非、ご覧になって皆さんも「あの事件は何だったのか」を考えて欲しいと思います。
ドナルド・トランプ米大統領は、エルサレムをイスラエルの首都として正式に認めると発表。イスラエルは1948年5月14日に建国。上記発表は建国70年目の2017年12月6日に行われた。
・イスラエルが国家として立ち上がるも70年にわたって長い混乱に見舞われる
・光と闇の両軍にそれぞれ、聖書を知らない東の国から救世主が誕生する
最初の予言は、混乱は続いてるけど、ひとつの節目を迎えたわけで、それなりに当たったと考えてよいかも。
次に、世界が崩壊して救世主が誕生するわけだが、どうやら光と闇に分かれて戦うみたいだから、おれは闇軍にしようっと。
また、「聖書を知らない東の国とは『日本』のこと」と考えたがる日本人が多いけど、今のトレンドは韓国・北朝鮮あたりだろうね。