はてなキーワード: 考察とは
誰にでも「さん」付けが楽だし無難だと思ってたんだけど、とある事情で地方の田舎で働いたときは普通に下の名前で呼び捨てされていた。
最初は苗字(姓)+「くん」や「さん」付けで呼んでくれる人も、徐々に苗字呼び捨て等を経由したりして最終的に下の名前の「くん」付けか呼び捨てに落ち着いていた。
物凄く気分悪くて不快だったんだけど、文化の違いと考えて諦めてはいた。
しかし不思議というか面白いなと感じた部分もあって、会社以外の知人友人関係において、その地域の人たちは年齢が下手したら10~20も年上の人にも「くん」付けだった。
二十歳そこそこの若者(男女問わず)が30代、下手したら40代くらいの相手を「くん」付け呼びしているのはなんとも変わっているなと思った。
これは都会ではあまり観測できない独特の文化だと思い、いくつか理由は考えてみた。
この情報で地域を特定できる人がいたら面白いと思うので書いてしまうと、星、湯田、室井、渡部(渡辺や渡邊はほぼいない)あたりが多数を占める。
そしてその中の集落(集落のことを差別的な意味なく部落、と呼ぶのが普通だったがこれは別の話)ごとに偏りがあり、
通りがかりに墓地があったので目をやると、ほぼ全部「星家の墓」だったり、とある星さんの家を探して回ると周辺みな星でなかなか見つけられなかったりした。
なのでその地域の会社という会社において、苗字被りが必ず起こるので下の名前で呼ぶようになることは当然の流れといえる。
それだけだと下の名前で呼ぶ理由にはなるが、年齢関係なく知人レベルの年上を「くん」付けする理由にはならない。
これに関する考察は推測の域を出ないのだがおそらくこういうことだと考える。
一つは若者自体が少ないこと。それにより自然と関係性が深くなりやすい。
もう一つはその若者たちはほとんどが産まれてから同じ地域で過ごし同じ高校を出ていること。
後者によって生まれるであろう上下関係が年齢を重ねてもそのまま続いていることを見るに、年上相手には「さん」付けが浸透していきそうに感じるが、
中高生時代に序列が下位だった人間が会社・社会関係においては同等や上位になること自体は十分にありえるであろうから、
その辺の関係で自然と年齢関係なく「くん」付けが常態化していったのではないかと考えるが、上手く文章化できないし頭の中でも若干もやもやしている。
例えると、高校時代とかに赤木剛憲は桜木花道に対し年齢またはクラスや部活の序列が上位の存在であったので、呼び捨てしていたとする。
これが後に社会に出て立場が同等か逆転したとして、その時赤木は桜木に敬意こそ持つも呼び捨てのまま呼び続けたりするが、
桜木は立場が同等以上になったのだから自分も本来であれば赤木を呼び捨てしたいが、そこまではできないので「くん」呼びすることにした。
どうだろう。スラムダンクで例えたのは若干失敗しているかもしれないが、基本の流れはこんな感じなのかな、と思う。
ちなみに女性に対しては、4~50代同士とかの結構な年齢であっても、年下であれば下の名前+「ちゃん」付けが多かったように思う。
また、3~5歳程度上の女性に対しても「ちゃん」付けしている人たちも観測しており、なんだかなぁと思いつつも自分もそれに合わせていたりした。
【追記】
こんなにブクマ集まると思わなかったので嬉しいです。ありがとう。
特に昔の使い方が変化しなかった説と、栗生沢の湯田がユダから来てる話は知らなかったので衝撃。
前者は、単体だと何故この地域ばかりそうなったのかとなるけれど、苗字被りの多さと人間関係の固定化に合わせると説得力を増す気がします。
後者については確かに栗生沢は湯田ばっかりだったので栗生沢に近しい人探して詳しく調べてみたいと思う。
(ちなみに栗生沢は「くりゅうざわ」と読む。他にも地名や苗字で針生(はりゅう)、塩生(しおにゅう)、藤生(とうにゅう)、小塩(こしゅう)等あって、
これに関しても面白そうなので調べてみたいと思っている。)
本文に書いた苗字四つをググれば四天王と出てくるので特定は容易いとは思ったけどいろんな人の意見が聞けるのは非常にありがたい。
個人的に軽く調べたり聞いたりして考えていた程度のことだったけれど、興味のある人が結構いそうなので
今後現地の人たちに対して調査して何かわかったことがあれば報告したいと思います。
それと他所の地域ではどうなのか、これだけブクマあって言及がないのでやはりかなり珍しいのかな。
そこも非常に気になるので今後調べていきたいです。
80年代オタクカルチャーを自己流で考察したりする後ろ向きな人。
みぐぞうの後ろ向き日記
昨今の若者の政治に対する意識の低さを嘆く姿も本編中に度々登場するのですが、2ちゃんねるマスコミ板・ニュース速報+・ハングル板住民や政治カテゴリの人気ブロガーさん達の政治に関する知識量と洞察力は、少なくともそこいらの団塊オヤジを凌駕するものがありますよ。
朝日新聞の内容を鵜呑みにするオジサン達よりも「主婦・無職・団体職員」の肩書きで読者欄に投稿してくる人たちをgoogle検索して化けの皮を剥がして晒し者にしている2ちゃんねらーの方がメディアリテラシーに長けているはずですから。
アイタタタタタタタ・・・・・・・・・・・・
この作品について語られる際に、必ずと言って良いほど無視される重要な事実がある。
それは、制作会社のA-1 Picturesが、2010年に起こした、退職済みの元社員を過労死自殺に追い込んだ、殺人事件についてである。
この作品は未来ある若者を月800時間の違法労働によって縊り殺した、血と汚物とで汚れたその手から生み出された、悪魔の映像である。
自分が気に入らないものを婉曲に否定する記事ばっかり書いてばっかりで自分がもっといい記事書こうって思わないやつってほんと終わってる。類型化や作者語りはダメって言ってる割には自分が書いてる漫画感想はモロに類型化してるし先の予測もしてる。自分で自分が何を書いているのかわからないくらい頭悪いからこそ典型的な他人に厳しく自分の都合の悪いことは見えない。単に自分がエロゲーばっかりやっててエロゲーの楽しみ方が正しいと信じててアニメやラノベやマンガの消費にそれぞれに有る楽しみ方に適応できないだけのくせに他人の楽しみ方にケチを付けるエロゲーマーとか老害きわまりない。いつも偉そうに書いてるけどあんたの考察文字数多いばっかりでしかも大半が作品のセリフの引用ばっかりで考察と呼ぶに値しない。しょぼいじゃねーか。他人に文句各記事ばっかりホッテントリして自分の記事はろくに読まれない。偉そうにレビューをレビューするだの、反解釈だの言ってるけどまず他人のことより自分の底の浅さをなんとかしろっての。他人には平気でズケズケ文句言うくせに自分が誰かから文句言われたらめっちゃ切れるしガキくさすぎて相手してられない。
http://matome.naver.jp/odai/2144753442305118301
鋼兵さんとKUNさんのやり取り(今までの経緯知ってる人用)
鋼兵氏、KUN氏の動画の通報示唆【鋼兵×KUNの今までの経緯知ってる人用】
鋼兵さんがKUNさんの生放送にコメントした証拠を自分で手に入れる方法
http://anond.hatelabo.jp/20151114122143
http://j-net21.smrj.go.jp/well/law/column/1_14.html
http://j-net21.smrj.go.jp/well/law/column/2_12.html
http://j-net21.smrj.go.jp/well/law/column/3_8.html
名誉棄損罪は人間に対して社会が与える評価を害されることによって成立する。
ただし刑法230条2項により、
問題の発言が事実である証明があった場合は名誉棄損は成立しない。
ハンドルネームに対する社会的評価・経済的価値は、具体的な本人特定の可否で異なる。
具体的な本人特定ができる場合は、名誉棄損には異論は発生しずらいが、
なぜなら、ネットの世界で社会的評価が低下した場合であっても、
また「プロバイダが調べれば特定できる」というようなレベルでは特定のうちには入らない。
以上の事から、網浜が現実世界での社会的評価を害されたと主張しない限り、
http://j-net21.smrj.go.jp/well/law/column/2_21.html
http://www.cric.or.jp/qa/hajime/hajime2.html
他人の著名な商品等の表示と同一・類似のものを、自己の商品等の表示として使用等する事は著名表示冒用行為(不正競争防止法2条1項2号)となる。
もしハンドルネームと顔文字が「著名な商品」として認められた場合、
さらにKUNが網浜に事前にハンドルネームの使用の許諾を得た事が無効と認められれば成立すると思われる。
おそらく、ハンドルネームと顔文字が商標登録されているかどうかが分かれ目。
ハンドルネームと顔文字が著作物として認められる場合は、著作者人格権が行使できる。
そうなった場合、同一性保持権により後から許諾を取り消すことができ、
著作権侵害を訴えることができるようになる。
そのため、ハンドルネームと顔文字が著作物として認められるかが分かれ目。
網浜が法的手段に出るとすれば、ハンドルネームの商標権をめぐる動画への申し立てになると思われる。
網浜側は現実世界での社会的評価の損失と商標・著作権の侵害の証拠をかき集め、
KUN側は網浜のネット上に留めた反撃を狙うのが得策と思われる。
現在、網浜側はKUN側への反撃にノリノリであり、KUN側は網浜を攻撃する理由が生まれたので今まで以上の活動を期待できる。
しかし、法的措置により裁判沙汰になった場合、流れが失速し、網浜が情報戦で有利になる可能性もある。
そのため、今後は持久戦となるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20151114203911
http://anond.hatelabo.jp/20151115051501
何かを批判していないとプライドを保てない人々というのは、もう脳がそのように出来てしまっている。
だから、本人は改めた気になっていても、その性分はなかなか直らない。元増田も、私も含め。
自分の発言が、非建設的で悪意的見方にすぎる事を自覚できていたとしてもだ。
すばらしい物の見方をしていて魅力を何倍にもして伝えてくる人を目の当たりにすれば、彼らも一度はそれを賞賛する。
でも、次には文句を言い出すのだ。一度欠点だと認識したものは、どう繕っても欠点としか見れないのだろう。
私は2chのアニメスレに、何度か優れた考察をするブログのURLを貼った事がある。すると毎回そういう流れになる。
「でも○○のパクリだから台無しだ」「こんなガバガバ脚本なのが悔やまれる」と。
もはや、ネットはネガティブな思考回路を増幅・拡散するための装置になっている。
とはいえ彼らも最初からアンチなわけじゃなく、むしろファンで熱心に見続けている者が多いとは思う。
しかし、作品を受け入れて楽しんで見ようという姿勢になれないから、監督や脚本を責め立て、自分の理想を延々と垂れ流す。
ひとつは、神経質すぎる、理想主義すぎる者の声が目立つ仕組みだからだろう。
そういう人格になる理由は様々だが、ことアニメに関しては「キャラクター性至上主義」を煽る文化に一因があると思える。
魅力的なキャラが何より大事だから、特定キャラをsageるような役回りが許せない。シリアスな展開を容認できない。
また、「キャラが脚本に踊らされてる」みたいなトンチンカンな発想になってしまって、ストーリーを受け入れることができない。
もちろん、アニメ化以前からキャラクターが確立している作品もあって、一理ある場合もある。
だがアニメ化にあたって、物語性の薄い日常系にするならともかく、ドラマを描くなら多少のキャラ改変はポジティブに捉えるべきだ。
なぜなら、既存のキャラに囚われてキャラに自走させていたら、一本のドラマになるようイベントを発生させていくのは難しいからだ。
なので、「常識的にこんな事になるはずないだろ」とキャラの浅慮や落ち度を批判するのも的外れになる。
常識的に起きないようなイベントが重なった世界線がドラマになるのだ。
限られた時間枠のなか、絵で表現するアニメというのは、作るにも観るにも高度にクリエイティブな行為だ。
大事なことほど明確に描かれず、テーマ上不要なシーンは大胆にカットし、必要なシーンは大げさに描くケレン味が評価される芸術だ。
だから、観る側にも、脳内補完をしてやるための想像力と頭の回転が求められる。
だが最近は、漫画ですらうまく読めない若者が出てきたという話も聞く。
そういう状況では、このアニメ的な作法を飲み込めず、説明不足・置いてけぼり・駆け足すぎと感じ憤る人も出るだろう。
そういう人にとっては、アニメを違和感なく観れている人というのは好意的に見すぎの「信者」であり、愚か者にすら見える。
だが前述のように、アニメというのは構造的に、ある程度は好意的に汲み取ってやることが求められるものだ。
アラを探すような鑑定姿勢で見ていると、好意的に見ていればケレン味として消化できる些細なハッタリにも躓いてしまう。
すると「破綻している」という印象に囚われ、世界観にも没入できず、もう「楽しむために観る」という本来の姿勢には戻れなくなる。
その状態に陥ると、感動的な場面も素直に感動できなくなるばかりか、ちりばめられた演出も見落としがちになるだろう。
作品を楽しめている人とそうでない人の差は、感動できるような美点を「見出している数」の差だ。
アニメというのも芸術の一つであり、芸術というのは、言語化できないような抽象的なところから意味を見出すからすばらしいのだ。
また、ネットでは、批判できる人間が「通」であり賢いかのように見えてしまう。
その上、「好きだからこそ許せない」と批判されると共感を呼びやすい。
それが実際はトンデモな批判でも、通っぽさが伝わるとROMのにわか層には説得力をもって伝わるのだ。
ネット世代はとくに、こうしたネガティブ思考に誘う罠にハマりやすい環境に生きている。
この手の重箱の隅批判が公益を生むこともある政治や行政への批判あたりならまだマシだ。
が、アニメ漫画なんていうのは、趣味で自分が楽しむためのもの。
こりゃダメだと思ったら「自分には合わなかった」と去ればいいだけの分野のはずだ。
それなのにネガティブ発言をする人が繋がりあい、存在感を発揮する状況は、いかにも不健全だ。
こういうネガ・dis思考はtwitterやLINEやまとめサイトのような所からどんどん伝播していく。
軽いキャラdis風だったり、「また○○(脚本家の蔑称)か」みたいな受け入れやすい形で。
もっと作品やクリエーターへの敬意があって然るはずだが、そういう感覚を持てるのは「古き良きオタク」気質の人。
大量のアニメを消化していくイナゴのようなアニメファンは、下手に知識を得ても、斜に構えたような感じになりがちだ。
結局なにが言いたいかというと、そういう通ぶって批判する人をなじりたい訳ではない。
むしろ、そういう人が目立つのは時代の必然と考えたいという話。
目の前に広がる不快な現状をみて、
その中心にいる「人」を責めて鬱憤を晴らすダサいおっさんが元増田なら、
「ネット社会」という環境を憂えて俯瞰した気になっているダサいおっさんが私だ。
どんな形であれアニメ批判に関わると、こういう泥沼にハマって闇に堕ちていく。
そこだけ見ても、「良さだけを語れる」オトナの神々しさが感じられると思う。
ネットでは、増田でくらいは、そういうドロドロした感情を出してもいいと思って今書いているが、
でもリアルやSNSみたいなところでは、なるたけ「良さだけを語れる」「馬鹿に構わない」人間でありたい。
つい、「ここは良いけどここはダメだよな」みたいな両論併記的・中立的・評論的な物言いをしたくなる時も、
それは大体抑えたほうがいいと肝に銘じよう。趣味についての話なら。
しかし、完全にそういう人間になるには、そもそもネット上の素行についても
「わざわざ下卑た場所を覗きに行かない」「そしてそこでマウントしない」を身に着けている必要があるのだろう。
一度泥沼の味を覚えた身としては、それは難しいように思える。
なにしろ、そんな場所を見に行くことを忘れるような社交的なリアルの付き合いがないのだから。
ああオトナになるのは本当に難しい。
国連調査官が発表した援助交際の統計は古いだけかもしれない。1996年では、都内の高校生の12%が援助校愛の経験があったとの調査結果が発表された。日本政府の抗議は「統計が古すぎる」ということか?(Guardian 1996)
今話題のアレですね、という事で軽く調べてみた。
"schoolgirls pander to Lolita fantasy"というタイトルらしく色々と探してみました。
見つかりませんでした。
まぁ1996年12月の記事ですしね。予想通りと言えば予想通り。
ただそれと思わしきものを引用して書かれた著作やブログは見つかった為、記事そのものは確かにあったぽい。
で、そのブログがこちら。
The History of the Gyaru - Part Two
http://neojaponisme.com/2012/05/08/the-history-of-the-gyaru-part-two/
neojaponismeという日本の文化のあれこれについて考察している所みたいでして、件のSchoolgirls pander to the Lolita Fantasy.を引用して書かれたのがこのThe History of the Gyaru - Part Twoらしいです。
で、文明の申し子ググルさん翻訳を使用してみたところ援助交際率12%という数字は出てきませんでした。残念。
とはいえ気になる事も書かれていて。
……宮台真司?
で、見つけたのがこちら。
Teenage Japanese fashion victims
http://www.smh.com.au/daily/archive/961214/features/141296-features4.html
The Sydney Morning Heraldというオーストラリアの日刊紙の1996年12月14日の記事。古くてそのままじゃあ見れないのでインターネットアーカイブに突っ込んでみました。
その中で気になったのが、
1996年の調査と言うところで上のNYタイムズと一致しましたしこれは根元は一緒だなとピンッときましたね。
で、見つけたのがこちら。
要は高校生の援助交際に対する意識調査のレポートでそこに1996年の調査の数字が判断材料して書かれていました。
曰く、
……コレ根元だ!
色々調べた結果がこちら。
どこいったの8%
サイバーメガネさんの「政治・選挙業界の闇の用語集」 というエントリを目にして、学生時代、東京都議選候補者の事務所で働いた時のことを思い出したので、つらつら書いてみる。
その自民党候補者の事務所で働き始めたのは、べつに支持者だったからではない。
むしろ、当時の若者の常で「それほど政治に興味はないが、しいて言えば左寄り」だったと思う。
なのに、なぜ働いたかといえば、単に友人から「とっぱらいの、面白いバイトがある」と紹介されただけの話である。
9時から18時まで日給1万円、延長の時は時給1000円、半日しか来れないときはそれでも良い、しかも昼食付きという条件に魅力を感じて、
選挙公示日の2週間前くらいから、そのバイトにはいることになった。
なお、現在、選挙事務所が、ウグイス嬢などの特殊技能を持っていない単純な運動員をバイトとして雇うのは、公職選挙法で禁じられている筈である。
当時の規定がどうだったのかは、よく知らない。
ただ、バイトにいった初日、「外で何か聞かれたら、○○事務所のボランティアですと答えるように」という注意があった。
あと、昼食は無料で弁当が出たのだが、なにか帳面のようなものに、弁当と金額が書いてあって、サインをさせられたが、
それでいて、とっぱらいの一万円をもらうにあたって、なにかにサインしたり、書類をもらったりすることはなかった。
仕事は、荷物を運んだり、連日どこかの体育館や集会場で行われている個人演説会の会場設営や後片付けをしたり、街頭演説の交通整理やビラ配りをしたり、
要するに雑用だった。
応援にきた時の首相に道を開けるため、群衆を抑える、みたいなこともあった。
あと、選挙カーの通れない細い路地を、候補者を先頭に自転車で走り抜けながら支持を訴えて走り回ったこともあった。
候補者のあとを、背中に候補者名や政党名を書いた「のぼり」をたてて路地を練り歩いたりもした。これは、内部で「桃太郎」と呼ばれていた。
「桃太郎」には「先発隊」が出されることもあった。
あらかじめ、候補者の一群が来る前に、支持者の家に声をかけて、表に出て先生に声をかけてくれるように頼んでおくのだ。
候補者が自ら支持者の家にいったら、公選法で禁じられている「戸別訪問」だが、あらかじめ支持者が公道に出ていれば、そうはならない。
告示日がすぎて、ドタバタと忙しくなっていたある日、印を付けられた地図を渡されて「ここのお宅にいって、先生のポスターを剥がしてきて」と頼まれた。
普段も街中で政治家や政党のポスターを見かけるが、選挙期間中は指定された掲示板以外にポスターを掲示してはならず、
実は、告示日が来る前のバイトの主な仕事として、選挙区を自転車で走り回ってポスターをはがして回る、というのがあったのだが、
それでも「見落とし」というのは当然ある。
そのまま、掲示をしていると、その筋(たぶん、選挙管理委員会)から警告のファックスがくるらしく、
その時は、大急ぎでバイトがポスターを剥がしに駆けつけるのである。
指定された場所は、ゴミゴミとした「アパート」というより「長屋」とでもいったほうが似合うような、古びた木造集合住宅が密集した地域であった。
今でも、東京の東部には案外そういう建物が残っているが、当時は今以上に、そういう地域が多かった。
その雰囲気は、サラリーマン家庭が圧倒的多数を占める、いわゆる「ベッドタウン」で育った大学生にとって、
物珍しさと一抹の不安を呼び覚まさせるに十分だった。
問題のポスターは、その木造長屋の二階の雨戸の戸袋に貼ってあった。
窓から乗り出さなければ、張ることも剥がすことも不可能な場所だ。
マッチ箱のような大きさの昔ながらのドアチャイムを押すと、引き戸を開けて出てきたのは
絵に描いたような「下町のばあさん」だった。腰がかなり曲がっていた。
来意を告げると、「ああ、そう。剥がさなきゃいけないのは知っていたけれど、あの場所じゃ自分でできなくてねえ」と言われた。
二階の窓から身を乗り出して、ポスターを剥がし終えると、ばあさんが冷たい麦茶を出してくれた。
ありがたくいただいていると、ばあさんがこんなことを言った。
「お宅の先生、ちゃんと頑張ってるの? こっちの方、まだ全然選挙カー来ないじゃないのよ。KM党とKS党ばっかりよ」
僕は思わず、ばあさんの方をじっと見た。選挙カーが来るのを待ちわびている人を、人生で初めて見て、いささか驚いたからだ。
「あたしゃね、SK学会とか、KS党とか、大っ嫌いなのよ。だからお宅の先生にも頑張ってもらわなきゃ。あたしも知り合いに投票してくれるように頼んでんだからさ」
ばあさんの言うことは、政策がどうとか、そんなこととは関係ない次元ではあったけれど、でも十分筋が通っていた。
あんな騒々しく名前を連呼して支持者の獲得なんてできるのだろうか、むしろ逆効果じゃないのか、と、それまでは漠然と思っていた。
世の中には選挙カーがこないと「先生、ちゃんと頑張ってるの?」と心配する支持者がいるのだ。
そして、その支持者が、さらなる支持者を獲得するために動いてくれるのだ。
もともと、候補者のことなどろくに興味がなく、選挙カーが来たら「うるせえなあ」としか反応しない層の反感によるデメリットよりも、
「ああ、先生、頑張っているなあ。あたしも頑張らなきゃ」というばあさんの意識に呼びかける効果のほうが、大きいのであろう。
世の中の仕組みをもう一つ知れた気分になって、いささか感心しながら事務所に戻ると、事務所の司令塔でもある候補者の長女に「ごくろうさま」と声をかけられた。
そして、彼女は、笑いながらこんなことをいった。
「あのあたり、ゴミゴミしてほんと汚いでしょう? いっそ地震でも起こって全部燃えちゃえば、再開発でもできるんでしょうけどねぇ」
彼女の父親の地位は、その「ゴミゴミしてほんと汚い」ところに住んでいるばあさんたちに支えられている筈であるのだが、
彼女にとってそこは、さっさと燃えてしまえばいい場所のようであった。
もともと冷めた目でこのバイトをしていた上に、さらに「軽蔑」の気持ちが加わったのだが、それはそれとして、バイト代は魅力的だったので、僕はその事務所に通い詰めた。
そういえば、投票日当日、事務所の整理などの仕事があったので、やはりバイトにいったのだが、
そのとき、事務所の「コールセンター」で、女性たちが支持者名簿を片手に電話をかけまくっていた。
女性たちは、「○○事務所のものですが、本日の選挙、投票にいかれましたか? 大事な選挙ですので、ぜひ投票なさってくださいね」などと呼びかけていた。
「○○候補への投票をお願いします」と当日に電話で呼びかけてしまうと、公選法違反になるということだった。
事務所の幹部たちは、1時間ごとにだされる投票所ごとの投票者数が記された紙を見て、「○○地区の出足がおそいなあ」などと言いながら、
女性たちに「○○のほうを強化して」などと、電話をかける先を指示していた。
結局、その候補者は当選した。開票速報が流れたときにも事務所にいたのだが、それはもう大層な盛り上がりようだった。
関係の深い人々はもちろんのこと、つい一か月ほど前に縁をもったばかりのバイトの大半も、それなりに興奮していた。
一月の間、同じ目標に向かって働くことによって生まれる一体感が、その興奮を生み出すエネルギーの源泉となっていたのだろうが、
先の一件で事務所に軽蔑の念をもっていたので、心の中ではかなり冷めた目でその光景を見ていた。
表向きは、その歓喜の輪に加わって、翌日に行われた祝賀会でも、随分ご相伴にあずかって、ビールやら桶の寿司やらをしこたまいただいたけれども。
このとき、結局、一月で20万近くを稼いだ僕は、その資金で海外へと貧乏旅行に出た。
インドで、現地で知り合った人に
「この国は世界最大の民主主義国なんだけれど、まだまだ文字が読めない人も多いので、
選挙の投票用紙には政党のマークが印刷してあって、それに印をつけるんだ」という話を聞いて、
「選挙ってなんだろう」と考えたりもした。
あれ以来、選挙の現場に直接かかわったことはないが、選挙の季節が来て、候補者の名前を連呼する声が聞こえると、
ああ、この辺りに、あの候補者の支援者が住んでいるのだろうか、などと考える。
選挙は一度も棄権したことはないが、選挙カーによる名前の連呼は、僕の投票行動にはいささかも影響を与えていない。
選挙カーで名前を連呼する事象について言及すると「そもそも公職選挙法で規定されているから、それしかできないのだ」とブコメやトラバでご教示くださる方がいる。
仮に、連呼以外のことが認められ、選挙カーが政策を訴えだしても、「うるさい」と思う人は「うるさい」と思うだろうし、
走り回る選挙カーから、「政策に興味のある意識が高い有権者」の判断材料になるほど意義のある複雑な内容が訴えられるとも思えない。
好きなキャラの生い立ちとか考えたり、原作の行間を読んで考察したり、好きなキャラにえっちなことさせたりする小説書くの楽しいよ
オタサーは知らないし、オタサーの姫なんてもっとしらないが、っていうかそれ都市伝説じゃね?
を読んで。
4年間云々とあるから、恐らく4年制大学(高専だと女子の数が限られるからその可能性は除外)、そこで顧問ってなるとおかしいから、
元増田はたぶん元部長か現部長、乃至は部長権限の強い先輩かそれに近い立場の若干の年長者かと想定して読んだ。
女の子たちの下半身事情を把握している(便器になってる云々)顧問ってのもおかしいが、先輩なら異性でもその程度の情報把握の可能性はなくはない。
ただまあ、アニメ研究会とかゲーム文化同好会とかオタク文化なんちゃらって名前じゃなく「漫研」ってチョイスのセンスがなんか古臭いけど。
それと、相当規模のでかいキャンパス(大学)でないと130人の部員でウンヌンは難しそうだけど。
4年間在籍してトータルでそのくらいの人数になった、とか思ったが、それでもちょっと多すぎるから、
あと、男女比だけは書いていて欲しかった気がする。自分の知っている「漫研」はどこも女子率が圧倒的だったから。「漫研」ならな。
エロ要素が入ったジャンルでないと、大体オタ系の集まりって女子が占めるようになるのがデフォだと思ってたんだけど。
ゲーム系とかパソコン組む系だと、女子比率減るけどね。それと、鉄。
自分は基本設定厨で考察厨だから(今でもオタ作品を愛でる際のカップリング恋愛比重はプライオリティが低い)、作劇考察なんか物凄く好きなんだけど、
その手の「女子に見られないオタ女」ってのは、大抵どこのサークルでも少数派とはいえ、いたもんだけどね。それも、確実に。
むしろ一般社会よりも、そういう「女子に括られたくない系」の女子が集まる場所がオタ系の集いだと思ってたから。
って言うか、元増田もたぶん、男によくある、「ブスは不可視」眼鏡の持ち主なのかもしれないが。
男オタの場合、恋愛にさして興味の無い設定厨考察厨の女子オタがいる、みたいなことに気づいていないオタ男も大勢いるらしいので、
(乃至は女は皆恋愛にしか興味がない、みたいな思い込みを持つ男性はとても多いので)
それと、服装考察が雑だなぁ。
>話し方が特徴的、髪が黒髪、服がゴスロリ風味、会話内容がおかしいのは一軍二軍両方。
オタ≒ゴスロリってネットでよく見る標準的表現だけど、逆に自分の出歩くオタイベント先で、ゴスロリなんて、そういう作品そういうキャラがいるものじゃないと、
お目にかかったことないんだけど。
あ、この間、そういう子いたことはいたが。逆に希少過ぎて印象にのこってたわ。あれ。
黒髪率が高い、服装もっさり、垢抜けてない、って辺りは当たってる(昔と比べると21世紀の今はオタ女の外見に関しては相当マシになってるとは思う、逆に)けど、
ゴスロリはナイワー。
元増田の描写(整形云々)から垣間見るその女子たちの女子力から考えても、普段のサークルにゴスロリ(系)で来るとかって、
その子のお財布事情も含めてね(ゴスロリ日常って被服費的に見ればかなりの散財、オタなら他のオタグッズに費用当てるのがデフォ、そこは女子もあんまかわらん)。
90年代後半からオタク論が学術的、サブカル論的に語られ始め、2000年過ぎあたりを境に徐々に下火になっていった。ネットの個人サイトにおいてもオタク史やオタク論をまとめたものはいくつも見つかるが、その多くも2005年前後で語ることをやめている(その意味では『オタク論の死について』(エフヤマダ, 2014)はオタク論の現状に対する貴重な指摘である)。
本稿は真のオタクとは何であるかとか、データベース消費や心理学がどうこうといった話には一切言及しない。本稿の目的は誰がオタクと呼ばれ、誰がオタクを自称したのか、その変遷を整理することである。
第一回コミケは1975年12月に開催されたが、この時点で彼らはアニメファンやマニアと自称しており、オタクではなかった。もっとも二人称としての「おたく」はそれ以前のSF大会から広く使われており、そうした状況から一部で彼らを「おたく」と揶揄していたという指摘は存在する(岡田斗司夫, "オタク学入門", 1996)。とはいえ、彼らを「おたく」と明文化したのは1983年、中森明夫によるものという点で見解は一致していると言っていいだろう。
「運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴ら」「栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタ」「女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足」「クラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴ら」(中森明夫, "『おたく』の研究(1)", 漫画ブリッコ(1983))
中森はこのように「おたく」を形容する。この時「おたく」に知識量や購買力などは一切要求されておらず、現代で言えば非モテのコミュ障ブサイクへの侮蔑の言葉であった。この連載は批判意見の殺到により早々に打ち切られるが、一方、オタク達は自虐を込めて「おたく」を自認するようになっていく。
ほぼオタク界隈の内部でのみ使われてきた「おたく」は、1989年、宮崎勤の連続幼女殺人事件で一気に世間に知られることとなる。宮崎は6000本のSF、ホラー、アニメを録画したビデオテープを所有しており、この点からマスコミは「宮崎のような非コミュでインドアなブサイク」の代名詞として「おたく」を用い、バッシングを展開した。
「オタク、かっこ悪い?」
そういう問い自体出なかった
「オタクは格好の悪い生き物だ」
侮蔑され諦観し
故に侮蔑され故に諦観し
数珠つなぎの輪がぐるぐると回っていた気がする
(中略)
おい あれ
プッ
ぎゃはははは
オイロリコン部ーッ
ぎゃははははははは
世間は宮崎のような人物をオタクと呼んだ。宮崎のような気持ちの悪い見た目をしているならそれは宮崎であり、あるいはアニメが好きならロリコンであり性犯罪者である。全て一括りに扱われた。
当時の高校生オタクにこうした罵声に反論する公の場など当然無く、家族からも白い目で見られ、彼らはひたすら耐えるしか無かった。その意味で、当時彼らにとってオタクであるという自称は「同じ迫害に耐える同志」という意味だったと言ってもいいだろう。
岡田は現代でいうところの作画厨と考察厨を兼ね備え、またアニメに留まらない広範な知識、教養と分析力を有する者を「おたく」と呼んだ。世間からの白眼視に耐えてなお「おたく」であった連中であり、加えて当時は今よりはるかに娯楽の少ない時代であり、情報収集と理論武装に傾倒した者が少なくなかったことに不思議はない。
80年代後半からパソコン通信が、そして95年以降でインターネットが徐々に一般家庭へと普及を始める。同人誌即売会と異なり時間的空間的制限無しに、そして同人誌制作に比べてはるかに手軽かつ安価に意見交換できる場は、不特定多数のオタク間の相互交流を可能にし、各自の知識差が広範に意識され始める。
そして『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明, 1995)が大ヒットを記録する。これにより宮崎勤を知らない世代である中高校生を中心にオタク人口は大きく増加し、終盤の難解な展開の考察や解釈を求めてネットが活用された。ネット黎明期、オタクの集う場所はごく限られたこともあり、高度な知識と分析力を備えたオタクの存在はより多くのオタクの目に触れることとなり、各オタクの「濃さ」が相互に自覚されていった。翻って「自分はあれほどの知識を有しないからオタクではない」といった謙遜も生まれ、こうしてネットとオタク人口の拡大によってオタクと呼ばれる者とオタクを自称する者のズレは拡大していくことになる。
エヴァ以降、『カードキャプターさくら』(浅香守生, 1999)のようなロリコンアニメから『serial experiments lain』(中村隆太郎, 1998)のようなカルトアニメ、あるいは『カウボーイビバップ』(渡辺信一郎, 1998)など幅広いジャンルで今なお名作とされるアニメが相次いでTV放送され、無垢な若者のオタク化を助長し続けた。
他方、オタクをPCに向かわせた要素として95年以降のエロゲにおけるカンブリア爆発的な状況の影響は否定できないだろう。『雫』(Leaf, 1994)に始まるビジュアルノベルの勃興と「泣きゲー」の流行など、現代エロゲのベースはこの時代まででほぼすべて確立したと言っていい。
コミュニケーションツールとして、コンテンツ再生機としてPCはオタクの必需品と化していった。これと同期して、それまで家電製品の街であった秋葉原は90年頃からPCパーツの街へと変化し、来店するオタク率の高さからトレーディングカードやフィギュア専門店が相次いで秋葉原に出店、秋葉原はアキバと化していく(森川嘉一郎, "趣都の誕生 萌える都市アキハバラ", 2008)。
そして2005年、TVドラマ『電車男』が視聴率20%を超えるヒットを記録する。オタクには「アキバ系」という新たな名前が与えられ、アキバは一般観光客がオタクと呼ばれる気持ちの悪い珍獣を生で見ることの出来る動物園として扱われた。
珍獣としての要素については、モーニング娘。に端を発するアイドルオタクによって発展したオタ芸にも言及してしかるべきだろう。視覚的にわかりやすい「気持ち悪さ」を有したそれらの振る舞いは、オタ芸という名前を含め、何をオタクと呼ぶかにおいて一定の影響力を有したと考えられる。
2006年に登場したニコニコ動画は、2007年発売のVOCALOIDの登場などを通じて非アングラユーザ、中高校生といった若年層のユーザを多く取り込み、違法合法問わず大量のアニメやゲームといったオタク系コンテンツを抱え込んでいく。
アニメは放送時間が限られ、視聴時間をあわせて見るか、わざわざ録画予約しなければならない。ゲームも安くない金額を支払ってプレイする必要があり、多くの場合プレイ時間は数十時間以上を必要とする。これに対し、動画サイトに投稿された動画に必要な手間はクリックするのみである。オタク系コンテンツの視聴にかかるコストはかつてと比べ著しく低下した。
またアフィブログの影響も否定できまい。2chのログをまとめて整形し、見やすく要約する形で作られたゲーム系、アニメ系アフィブログは人気を博し、その読者は当のアニメを実際に見たことがなくともその内容を大雑把に把握し、売上情報やスキャンダルを把握する。その情報はあくまでアフィブログに書かれている内容に留まるが、彼らが一定のオタク的知識を有していることはまぎれもない事実である。
こうした層はアニメやマンガを多少知ってはいるが、深く傾倒しているわけではない。オタク系コンテンツの情報収集に必要なコストが高かった時代、身だしなみ等、オタク趣味以外にコストをかける余裕は無くて当然と言えたが、しかしコストが下がるにつれてオタク趣味以外へ投資をすることは普通になり、まともな容姿で一般的話題も把握した「オタク的な知識を有する何か」が徐々に増え始めることになる。
「非モテ」という単語が使われ始めるのは2006年以降であるとのことだが(松谷創一郎, "〈オタク問題〉の四半世紀", どこか〈問題化〉される若者たち(2008))、中森がかつてオタクと呼んだ人々は、こうして「おたく」という乱暴な括りから非モテ、コミュ障等と細分化し始める。
誰をオタクと呼び、あるいは誰がオタクと自称するかは、各々が自分の周囲にいる自分がオタクだと思った人を参考に決定するのだとすれば、ヤバい容姿のいかにも濃いオタクがかつてはどのサークルや同好会にもいた(黎明期は全員そうだったと言ってもいいだろう)時代と比べ、2010年に近づくにつれてそうした人物は減少し、あるいは絶滅していったと言え、こうして当人の周辺環境によって誰をオタクと呼び、誰がオタクと自称するかの個人差が拡大していったと考えられる(SNSの発達により、小さく仲の良いコミュニティが大量に分散して存在するようになった、という点もあるだろう)。
一方で2007年以降、AKB48が握手券商法を本格化させたことにも言及しておきたい。ファンにとって投資金額は熱意と情熱を表すバロメータとして機能した。彼らは自分がどれだけ投資したのかを示し、それによって同じファンから一目置かれるようになる。かつてネットによってオタクの濃度差が知識差として可視化されたと述べたが、投資金額の多寡としてもそれは可視化されるようになっていった、と言ってもいいだろう。
細田守監督の映画作品は『時をかける少女』(2006)を筆頭に非ジブリアニメながら広く世間に受け入れられ、『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之, 2011)、あるいは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(長井龍雪, 2011)のヒットはアニメを見るというオタク的行為に手を出す敷居を下げ、アニメを見ることは異常ではないという空気を作っていく。
2011年、アエルラ、アイムシングルの2つのオタク向け婚活サービスが開始される。このオタクの定義を見てみると、アエルラは「一つの趣味を愛し、共有したいという気持ちがあれば、それはオタクである」と定義し、アイムシングルでは明確な定義こそないが、「マンガ・アニメ・ゲーム好き」をパーティ参加の必須条件としている。
筆者が数回体験した範囲に限られるが、実際にこうしたパーティに行ってみるとかつて中森が嘲笑したような「おたく」を見ることはない。いささか一方的な会話を展開する男性は多少いるが、慣れない場に緊張したことの影響も少なからずあるだろう。一方、岡田がオタクと呼んだような広範な知識教養を有するオタクを見ることもまたほとんど無かった。面白いことに30代の参加者でも90年代後半のアニメの話題に反応する例は少なく、良好な反応の得られるアニメは概ね2010年以降であった。こうした点から彼らのオタク的趣味の範囲はここ数年に限定されており、もともとオタク的であったのかもしれないが、オタク的趣味を実際に楽しむようになったのは最近であると考えられ、10代の若者に限らず、幅広い年代でオタクと自称、あるいはそうと意識する人口が増えているという認識を抱いた次第である。
他方、携帯ゲームの課金要素の充実や2010年以降のアイドルアニメの興隆などから、グッズその他のオタク的趣味への投資金額の多寡がオタクとしての熱意の度合いを示すバロメータとして意識されるようになっていく。2015年、TVニュースにて「リア充オタク」が特集され、その「リア充オタク」のオタク趣味への投資は年間2万5千円であると報じられた際、その金額の少なさへの揶揄が主にTwitterで取り沙汰された点は、その意味で興味深いものがある。
アイドルオタクとアニメオタクを絡めるなら声優のアイドル化への言及は本来必要不可欠だし、女性オタクへの言及が明らかに足りていない、ゲームオタクについてなど全体的に漏れが多い点は自覚している。申し訳ない。
また整理の都合上、いささか恣意的に流れを作った部分があることも否定できない。例えばネットの普及+エヴァによるオタク人口の増加→知識格差の可視化、という流れは自分でも「本当にそんな単純な話か?」という疑問を抱いているが、ざっくりした傾向というレベルではまぁ嘘ではないだろうと考え記載した次第である。
ただ、ある人が誰かをオタクと呼ぶ時、あるいはある人が自らをオタクと称する時、その内容から当人がどういう時代背景を前提としてきたのか、あるいはどういうコミュニティに所属してきたかを推測できることは、会話の食い違いやすれ違いを修正する手助けになると筆者は考えている。
もうなんなのコレ?見苦しいにもほどがあんだろ『Gレコ』であんだけ頑張ってた人がなんて体たらくだよ。
いやアレだよ、最初にとりあえず書いとくけど『Gレコ』とかマジでちょっとイカンかったと思ってるよ俺は、個人的には。そういう立ち位置ではあるよこの(今これを書いてる)発言者は。なんかもー見ててもキャラに対してお前何やってんの?みたいな展開ばっかだったし(すげえ深読みすればわかるけど物語の文法から言うと外れがちなキャラ)組織の目的もなんかよくわかんねえし(けっこう頑張って見てるのに説明全然ない。それがリアルかもしれんが『機動戦士ガンダム』だってナレーションはあったじゃんよ)さー冨信が「うむうむそれでこそお禿げ也」的に持ち上げて考察とかしだしたりあまつさえスタッフ自身周囲もそういういやー禿げほんとすげえ!的な持ち上げかたしたり「そうだよねーわかんないから冨野なんだよねー、そこらへんわかってるよ」的な身振りをとるからあんな、どの勢力がいるのかもはっきりわかんねえつーか最後までなにやってっかいまいちよくわかんねえアニメができちゃったわけでしょ。いやいや、『少女革命ウテナ』かっつうの『百合クマ嵐』かっつうの(いやもちろん意味は分かるしこの発言者はそれらのファンだけど、でも)。お禿げとか子供たちのためにとか言ってるけどぜんぜん子供たちのほう向いてないじゃん。子供とかあのややっこい展開とかわかんねえって、うちの子だって一瞬で興味失せてプリキュア見たって。だから、そこは結局大人しか見ないし、大人向けになっちゃってるし、誤配もされない。見られなかったらなんも伝わらないじゃん。子供たちに作るんだったらもっとわかりやすいところから入って知らない場所へ連れて行けばいいわけでしょ。罠を張ればよかったわけでしょ。エゴだよそれは。エゴ。ていうかもしかしてそれはお禿げ的には自分的には頑張ってて子供たちのほうを向こうとしてるのかも知れなくて、それでも駿が作っちゃった『崖の上のポニョ』みたく自分だけしかわかんないエキセントリックムービー作っちゃったのかもしれないけどさ。やっぱりそれって周囲がそれを許しちゃうのが根本的な問題じゃないのか。お前それさー子供向けじゃねえって、っていうか一般に向いてないって、マスなユーザーとかってもうちょっとバカだっつってお禿げだって駿だって昔はわかってたことを、やつらを殿様にせずにちゃんと指摘してあげる人がいないっつうっか周りが面白がって見てしまっている共犯関係が悪いと思うよ俺は。つーか禿げよりもそっちが悪いからマジで反省すべきだし、もっとお禿げに「お前さーアレわかんねえって、お前がポーズとして『あれは見てはいけません!』とかドヤ顔で言うけどマジで見てらんなかった人だっているからね?マジ反省しろよ貴様」とか言ってあげたほうがいいって。
とか思うわけなんだけど、それはそれとしてそれを愛するっていうのは自由だ。
だって別に、見てる人はお禿げの友達でもなんでもないわけじゃん。面白いものを面白いって言えばいいわけじゃん。だから『Gレコ』の一連の考察や感想は尊敬に値するものと思っているのだけれど。
だから今の「いやーマジ俺老害っすから」みたいな身振りでもって牽制しつつ、謎い謎い、へーへーなんでこれ楽しんでるんですかねえみなさんは。おじさんにはわかりませんねえ。みたいなノリで言っとるのがハイパー胸糞なのでこんなところに愚痴みたいなことを書いていたりするのだが。「Gレコや富野を持ち上げるために他のアニメをくさしてるオッサン」って自分で書いてるけど、今まさにそれでしょ。否定できないでしょ。そんでこれ、言われたらまたへーへー老害ですって言ったりするわけでしょ。うっせーよと。お前それ『Gレコ』に恥ずかしくないのかと。
つーかCGSとかギャラルホルンだってキャピタルガードとキャピタルアーミィの違いよりはわかるわけだし(いや見ていけばわかるってのはあるけど、オルフェンズまだ4話だからね。初手であんだけわかれば十分やろ。ていうかお禿げがやってたら十分以上って見做してただろ)、世界観だって『Gレコ』よりゃわかりやすいわ。ただ留保するとそれは別に『Gレコ』がダメだっていう話ではなくて『鉄血のオルフェンズ』が地続き感のある世界観を採用したってことに過ぎず、とはいえわかんないってのは思考停止だろ。普通に見てりゃわかるよあんなの。それ以外の謎も、どんだけ意識的かはわかんないけど、そりゃちょっとないよとは思う。その方向でケチつけだしたら『Gレコ』とか即死だろ。
でも逆に言うとそれは、それだけ無視できないくらいにそういう身振りをとってしまうくらいに、『鉄血のオルフェンズ』という作品が相応に「届いてしまっている」ということかもしれなくて(視聴者にも、そして『Gレコ』を見てあれだけアツい感想を書いていたほどの方からこうして屈折した身振りを引き出してしまうくらいには)、それはガンダムというブランドの力ということは確かにあるけれども、作品の力というか引っ掛かりでもあるんだろう、とは。
そんな、『Gレコ』挫折して今『鉄血のオルフェンズ』は見れてるオッサンの戯言でした。いや、俺だって冨野好きだけどさ、さすがにそりゃないよ。と。
まあざっくり言ってうっせーよって話ではあるんだけど、黙れって話ではないけどね。さすがにちょっと、怨嗟が過ぎるとおもいましたまる。
Serial experiments lain という作品で『わたしは偏在する』というフレーズが出てきた。
作品に関してあれこれ考察してしまうとキリがないので、とりあえず短く最近実感した出来事について書く。
Serial experiments lain(以下lainと表記)はインターネットが現代のように身近な存在となり、わたし達の生活になくてはならないもの
として描かれた作品だ。(と思う)
作中では、インターネットによってつながり過ぎてしまった人達が、過度と言えるほどに不安に晒されるシーンがちらほらと見られる。
日常アニメではSNSがキャラクターたちの会話をスムーズに進めたり、絆を深めたりといったシーンを目にすることがあるが、lainでは反対に、インターネットに囚われ、インターネットに怯え、繋がる恐怖に怯えてSNS中心のコミュニケーションに恐怖心を煽られる。
放送当時は1995年あたりだったので、とても新鮮に思えるかもしれないが、ツイッターやlineで簡単に、常に人間関係を意識せざるを得ない状況になってしまっていて、lainの舞台、そのままの社会に移り変わろうとしている。
『わたしは偏在する』
インターネットがある限り、わたし、という個人はどこにでも出現し、他者から意識され、認識される事になる。
私の周りでは、ツイッターというツールを使用している数多の若者がいる。
2ちゃんねるでの匿名性を帯びた人間からの風評被害が恐れられていたが、ツイッターは個人の延長として利用されるケースも少なくない。
ツイッターの簡易的なプロフィールに本名や学歴、生年月日を記入することが可能で、個人情報はいくらでも記載が可能となっている。つまり、2ちゃんねるのようなはっきりとした匿名性とは異なり、facebookのようなノリで、『自分(わたし)』という一定の人格が情報を発信させている人たちがいるのだ。
「〜ちゃん、ウザいよねw」
「〜つまんなかった」
「あの大学マジありえない」
「〜は嫌い!」
「〜キモイ!」
「〜は死ね!」
頻繁にかどうかはわからないが、ツイッターでみられる誹謗中傷の例だ。
ツイッターで嫌いな人が居たら、ブロックすればいい。見なきゃいい。てか、俺のツイート、ウザいなら見んなよw
なんていう人がいる。対面して出会った人達の中での人間関係(リアルの人間関係)で、こういう発言をする人達は、ツイッターでユーザーを簡単に『ブロック』しているのだろうか。
『ブロック』は存在をこちら側から消し去ることと同じだ。向こうから干渉することは出来ない。自分の世界(タイムライン)に存在を認めない事だ。
本当にそうだろうか。
あなたは『偏在する』のだ。
リアルの人間関係で思ったことをあなたはその場で、本人に向かって、先ほど挙げた例のような言葉を発信するのだろうか。
あなたが本人を目の前にしていようが、いまいが、あなたは『偏在する』
ツイッターの中だろうが、インターネットの中だろうが場所なんか関係なく、常に人間を目の前にしているのと何ら変わりないのではないか。
インターネットの中で、わたしたちはこれからも生活しなければならない。すぐそばには、一瞬で世界に繋がれるツールがある。
世界中の人に向けて、そして同時に特定の人間やコミュニティに向けて、あなたは目の前で「発言をする」。
偏在するわたしは『あなた』に向かってこれを伝えたいと思いました。
私は女の子が「虐められる」二次エロが大好物だ。FC2にもよくお世話になっている。155センチ60キロのデブだが、「デブは性欲が強い」という法則に違わず、有り余る性欲をこうして発散し、腐女子なのでBLの力も借りたりする。最近では電車に乗り合わせた巨乳のお姉さんの胸を見つめてしまったり、「彼氏が出来た」という友人の話を聞くと頭の中でその子の夜の営みを想像したりするようになった。
私は私自身を気持ち悪い変態女だと思う。こんな風に育った理由が、自分が生まれながらの変態であるからなのか、処女を拗らせたまま成人を迎えたからなのか、デブかブスかそれとも他の原因なのかはわからない。が、もしも自分が男であったなら、いや現時点でも間違いなく、ネットで「性犯罪者予備軍」と呼ばれるタイプの人間だ。自分は「女性を性的消費」している。ろくに化粧もせず、ブス丸出しの面を引っ提げたデブにいやらしい目で見られるなんて単純に物凄く不快だろうし、相手が同性でもセクハラ成立するよなぁと遠い目になったりする。スタイル抜群の美人なら良いって訳でもないだろうがまだマシな気がする。
ネットで頻繁に槍玉にあげられる「拗らせ童貞」や「エロいオッサン」に、仲間意識を感じる日々。「女性をいやらしい目で見る女性」についての議論や考察があれば、是非読んでみたい。
ハーモニーは読んでないから知らないけど、虐殺器官は正直がっかりした。
プロットが、じゃなくて解明した謎の理屈がまるでチープだったからだ。
理屈の部分は以下のような話だったと思う。(間違ってたらごめんね)
1:虐殺事件を研究してみたら、多くの虐殺事件で共通して、ある種の特徴を持ったTVやラジオの放送がなされる傾向がある事に気が付いた。
2:ひょっとしたら順番が逆で、「ある種の特徴を持った放送が社会に流布すると、特に政治的な理由が無くても虐殺が発生するのではないか」と考えた。(なぜ順番が逆なのか、という部分の考察無し。)
3:やってみたら、なんか虐殺が起きた。
以上。
SFとしてこれは無いだろ。
1:「太陽が昇ると気温が上がる事が判った」
2:「ひょっとしたら順番が逆で、気温が上がると太陽が上がるのではないかと考えた」
3:「気温を上げたら太陽が昇った」