はてなキーワード: CD-ROMとは
2000年〜2010年あたりに遊んでいたネトゲの名前を思い出したいのですが、記憶が曖昧すぎるので思い出せない。
当時ネトゲをやっていた皆さん、お知恵をお貸しください。
特徴としてはチャットができて、洋風の冒険的な世界観、よく分からないけど赤とか青とかの水晶玉が道具としてあったような気がする。石畳やお城があって今のゲームみたいな美しい二次元のイラストとかではなくて、アバターというかドット絵?のキャラクターをちょこちょこ動かすみたいなやつ。
実家のパソコンにはウイルスバスターが入ってて子どもだった私はアダルトサイトを始めかなり閲覧制限をかけられていたと思うんだけど、そのネトゲのサイトは使えた。同時期にアットゲームズをやっていたので、その中の一つのゲームかな?と思うんだけど探してもよく分からない。
脱出ゲームとか着せ替えFlashゲームとか、Samorostも好きでよく遊んでいた。
多分そんなに検索能力は高くなかったから「無料ネトゲランキング」みたいなサイトで上位から探して遊んでいたのだと思う。
何か心当たりのある方は教えていただけると幸いです。
https://anond.hatelabo.jp/20180508004011
まだまだDOSの全盛期
autoexec.batに書き込んだら自動で実行するようになる
デバイスドライバを読み込みすぎるとメモリが足りなくて動作しなくなるので
LAN Managerを使ってネットワークに接続するときはCD-ROMドライバを外すとかしてた思い出
※余談だが、ゲームにはゲーム起動用のconfig.sysを書いてた
壁紙が見えなくなるので透過させるフリーソフトを入れたりしてた。
秀丸4000円
32ビットアプリも動くんだぜ?といってもNTから持ってきたピンボールぐらいしか動かさないけどな!
OpenGL?あれは重くてなあ...パイプがうごくスクリーンセーバーぐらいしか動かないし...
自慢じゃないけど、何をやっても長続きしない。仕事に関しても基本的に根性なしだけど、楽しいはずの趣味で「やってみたいなぁ…」と思ってチャレンジしたものでもダメだ。
1 折り紙
子供の遊びだと思われてるかも知れないけど、連鶴(紙に切り込みを入れて何羽もつながった折り鶴を作る)とかユニット折り紙(何十枚も部品を折り上げて組み立て、
くす玉とかそれに類するものを組み上げる)とかなかなか技と根気を必要とする代物がある。高校生から大学生ぐらいまでは一所懸命やっていたんだけど、気が付いたら
めんどくさくてやらないものの筆頭になっていた。が、紙製品は相変わらず好きで、単価も安いので、折り紙とかキレイな包装紙とか和紙とか見かけるとつい買ってしまう。
老後の楽しみに取っておいてもいいんだけど、今よりさらに老眼が進んで、根性もなくなったら結局やらないんじゃないかと心配である。
2 切り紙
上記の目的で買い集めた紙製品を無駄にしないために、型紙がデータ化されてCD-ROMで付いてる本と、アート用の細かいところまで切れるカッターを買ってみた。1個か2個 ぐらい作ってみたけど、作った切り紙の使い道がなくて、すぐに飽きた。でも連鶴やユニット折り紙を作るよりはこっちの方がお手軽だと思うんだけどな。
無心に作業できるところが良さそうだと思って12色入りの色鉛筆と本を2冊ぐらい買ってみた。元の本に直接塗るのがもったいなくて、塗り絵をコピーして塗り始めてみた
けど、やはり2ページぐらいしかやらなかった。絵心はないけど、色を塗るぐらいはできるかと思ったのに。12色の色鉛筆だと色が足りないと思って、36色の色鉛筆を買い
足したけど塗ってない。
4 着付け
今一番のマイブームだけど、元手がかかるわりに続かなかったときのダメージが大きい代物。うちの母がある程度着られるのだけど、母は習い事にお金をかけるのはムダだと
いう考えの持ち主で、「惜しくない着物を買って自分で練習しなさい」と言われている。とりあえずリサイクル屋で紬の着物と名古屋帯、長じゅばんをそろえ、小物類は
ネットで手に入れた。DVD付きの着付けの本も買ったので、いつでも練習できるはずだけどやってない。多少お金がかかっても着付け教室に行って、強制的に練習させられる
今では考えられない「IT黎明期あるある」ランキング https://ranking.goo.ne.jp/column/4939/ranking/50996/ ここを見ての疑問
個人的には森元総理がITとか言い始めた2000年がIT黎明期のイメージだろうか
元のアンケートの事象にうろ覚えで年代を書いてみる。人によって黎明期でイメージする年代はバラけてそう。
1993-94 → 1位 「フロッピーディスクの数が膨大」! 80票
1994-99 → 2位 画像の読み込みがおそすぎてイライラする 78票
1992-1998 → 3位 パソコン雑誌の付録にCD-ROM 71票
1993(東芝はもっと前)-2000 → 4位 フロッピーの容量は2HDで1.44MB 67票
1988-2000 → 5位 マウスのそこをあけてボールを取り出して掃除 66票
1999 → 6位 ADSLが出てきた当初は革命だと思った 62票
1987-1996 → 7位 プー ピポパポパピ ピポピポピー ピービーヒョロロロピーブピプーピーガーーーー 60票
1995-2003 → 8位 Officeソフトを開くと画面右下にでてくるイルカがウザい 46票
1993-1998 → 9位 スクリーンセーバーは謎のパイプか迷路 42票
1987-2002 → 9位 無線接続が無いので部屋に長いモジュラーケーブルを這わせていた 42票
1993-2005 → 11位 工事中のページが多い 41票
1994-1998 → 12位 インターネット中は電話ができないため家族に嫌がられる 40票
1995-1999 → 14位 テレホーダイの加入は必須 36票
1997-2003 → 14位 ホームページにはダサいアクセスカウンターを設置 36票
? → 14位 パスワード付きページがやたらと多い 36票
1995-1999 → 18位 テレホタイムにパソコンにはりつく 34票
関東大震災の朝鮮人虐殺云々が今更盛り上がっていますが、個人的に不思議なのは、たかだか100年前の出来事が本当にあったかどうかでもめている点です。
その頃にはもちろん新聞もあったし、写真や映像の記録も可能だったりしたわけで、それでもなお真偽のほどがわからないから揉めているわけです。
それってなんだか不思議じゃないですか?
ここで言いたいのは、真偽のほどがどうとかそういう話ではなくて、まだ生きている人間がいる100年前の出来事の真偽がわからないって、なんだか不思議だなっていう話です。
これがもし10年前の話だったらほぼ確実に白黒つくと思うんですよね。
何かしらの記録も残っているでしょうし、記憶も残ってる方が大勢でしょうから。
とはいえ、今から100年後に、最近起こった出来事の真偽を尋ねたとしたら、多分揉めると思うんですよ。
100年後の人から見たら、私たちが書いているチラシの裏以下のブログに書かれたクソみたいな文章と、著名な誰かが書いた素晴らしい文章との実質的な差異がわからないケースが出てくると思うんですよね。釣り記事なのに1000スターくらい付いてしまったエントリとかって、今は明らかにネタだとわかっていたとしても、100年後の人にはそれが判断できないと思うんですよ。その当時の時代背景を理解しているわけでもないですし、それこそ、その当時の日本におけるネット文化とその背景なんてものは想像でしか語れないわけですから。とすると、揉めちゃうはずなんですよ。記録はあるはずなのに、その記録の真偽のほどが判断できないから。
別の観点から考えても、揉める可能性の方が高い気がしています。
「インターネット上に何かを公開する=未来永劫残る」となんとなく思っている人も多いでしょうけど、実際は多分そんなことがないわけです。
現に、潰れてしまったブログサービスに乗っていた記事なんかはもう読めないわけです。
もちろん、個人的に記録を残している人もいるでしょうけど、彼らの記憶媒体が物理的に壊れてしまえばそれはもう見れないも同義なわけです。
CD-ROMやHDDやSSDなんて、もって10年程度ですし、定期的なバックアップを繰り返さない限り、記録はなくなってしまうわけです。
とすると、下手したらそもそも記録がないというパターンもそれなりに生まれるのかなと思ったりします。
これだけ社会が進歩して、記録するための仕組み化が進んだにもかかわらずです。
情報量が多すぎてまともな分析はできないでしょうし、色々な思想が混じり合いすぎて、何が正しいのか今以上にわからないでしょうから。
真実ってなんなんでしょうね。
人工知能学会から返って来た人工知能研究者。例の論文の著者の1人とも知合で今回もご挨拶した。家族に文系研究者あり。
多分理解されていないところをいくつか書く。
これは工学の論文なので、あくまで分析の対象はフィルタリング手法であり、小説は手法に入力するデータに過ぎない。
文学研究と異なり、小説の内容については評価を下していない。あくまで、データにどういう文字列が含まれていると、手法がどういう影響をうけるのかについて分析しているだけ、という立場だ。
分析の対象は手法であって小説ではない。だからこそ、「有害」という内容について評価を下しているかのような表現が不適切なのだと思う。
人工知能学会全国大会論文は査読なしだ。これは、人工知能学会だけが問題なのではなく、情報系の大部分の国内学会は査読なしである。
ただ、その理由が「本会議でボコボコにして論文で落とせばいい」としているのが、こちらからみると不思議だ。査読付き論文も同じ国内学会に出すことを前提に書かれているかのようだ。
この分野における研究者の業績評価に用いられるのは国内学会ではない。
AAAI,IJCAIなどのトップカンファレンスと言われる、重要な査読付き国際会議にどれぐらい通したかで研究者の業績が決まる。
つまり、英語に直さないと、そもそも、業績になどならない。ダメな論文は、国際的に評価されないだろう…と思っているから、あまり関心がないのだ。
今回の人工知能学会も、多くの論文が、今年、同内容でどこか良い査読付き国際会議に投稿された英語論文の原稿を、日本語に翻訳したものだ。
国内学会を査読なしにしているのは、多様な論文を受け入れる意味もあるが、一番の理由は、査読者を確保する事が難しいからだろう。
査読者になるのは国際的に活躍するトップの優秀な研究者たちだ。彼らの時間を、国内学会の論文の査読などに使わせてしまっては、国際競争力が落ちる。
ただ、一応、賞を出す制度があるので、全論文に対し、誰かが読んで評価はしている。
そういうわけで、全国大会で発表することに大した業績的意義がないので、学生も普通に発表する。
企業研究者も全国大会に大勢来ているので、優秀な学生が入ればインターンに呼んだり就職勧誘したりする。
多分、今回問題になったのは、ここだろう。人工知能学会は、全論文PDFを一般公開してしまう。
このあたりの対応は、情報系でも、国内学会によってまちまちだ。昔は、CD-ROMを配るだけで、CD-ROMを持っていないと論文が見られないなんて会議や、電話帳みたいな紙の予稿集を配っていた会議もある。
★2000/04 『彼女と彼女の猫』にてDoGA主催 第12回 CGアニメ コンテストのグランプリを獲得
www.doga.co.jp/ptdoga/contest/con12/html/12_11.htm
www2.odn.ne.jp/~ccs50140/colum2003.html
★2000/05~ ファルコム退社(『ほしのこえ』を制作するため)
twitter.com/shinkaimakoto/status/647800736487600128
★2001/01-04~(?) コミックス・ウェーブによるマネジメント開始(?)
bylines.news.yahoo.co.jp/sakaiosamu/20160926-00062558/
>新海誠のマネジメントをぼくがやることになったんです。『ほしのこえ』を作っている最中
www2.odn.ne.jp/~ccs50140/colum2003.html
>2000/12/17 「彼女と彼女の猫 MOVIES & SOUNDTRACKS」を冬コミ(筆者注:C59)で売ります(DoGAで売っていただきます)
>2001/04/01 猫のCD-ROM、ようやく再販を始めました。マンガズーさんのご協力で前回よりちょっとだけ豪華に
※販売協力がDoGAからMANGAZOOに切り替わってるので、この辺りに関係を持ったと推測。
※なおMANGAZOOもC59に参加している(www.comiket.co.jp/info-a/C59/C59kigyo.html)
★2001/06 『BITTER SWEET FOOLS』ムービー制作
www2.odn.ne.jp/~ccs50140/colum2003.html
>2001/06/14 現在短いムービーを制作しています。鉛筆スケッチの手書き+3DCGというスタイル
★2001/08/31 『BITTER SWEET FOOLS』発売
www.minori.ph/lineup/index.html
www2.odn.ne.jp/~ccs50140/colum2003.html
ascii.jp/elem/000/000/325/325424/index-2.html
※ascii.jpの記事では原画の相田裕を始め脚本、音楽には触れているもののOPについては言及なし
dnarna-mirror.sakura.ne.jp/techle/2001/07/
dnarna-mirror.sakura.ne.jp/techle/2001/08/
dnarna-mirror.sakura.ne.jp/techle/2001/09/
※『Wind』のときはOPに言及したニュースサイトが『BSF』のOPには触れていない
★2002/01-02 『Wind -a breath of heart-』ムービー制作
www2.odn.ne.jp/~ccs50140/colum2003.html
>2002/01/28 次の仕事の関係で、先日初めてプロの手によるホンモノの動画を手にしました~
>2002/02/16 ちょっと仕事が詰まり気味でして、この土・日は以前の会社の後輩にお願いしてマシン持参で手伝いに来てもらいます~
>2002/02/20 3日間こんちきさんにアシスタントに入ってもらい、何とか仕事の目処がついてきました~/今日はSプロデューサー(筆者注:酒井伸和)がお見えになり~/今回の仕事(ムービーです)の結果は3月1日からご覧いただけるようですが~
★2002/02/02 『ほしのこえ』下北沢トリウッドにて公開
www2.odn.ne.jp/~ccs50140/colum2003.html
>2002/02/03 トリウッドはお陰様で毎回満員、見に来てくださった方々とも直接のお話が出来、本当にありがとうございました!一晩のうちにこれほど沢山のメールをいただいたのもの初めて
web.archive.org/web/20020609191424/www.mangazoo.com/news/news.php3?id=889
dnarna-mirror.sakura.ne.jp/techle/2002/02/
★2002/03/01~ 『Wind -a breath of heart-』のOPが『ほしのこえ』の上映会の最終日にあわせて下北沢トリウッドで先行公開、その後web上でも公開
web.archive.org/web/20020610084350/www.dengekionline.com/g-net/g-net_news/200203/02/gn20020302wind.htm
gamez.itmedia.co.jp/games/movie/wind/index.html
www.itmedia.co.jp/games/gsnews/0203/05/news07.html
当時のニュースサイトの反応
dnarna-mirror.sakura.ne.jp/techle/2002/03/
>200203-061235 → Windオープニング minoriがミラー協力者へ委託
>200203-070015 → Wind高画質版ミラーに5時間で5500アクセス
>200203-072226 → Windデモムービーのミラーによる転送量が5.5GB
>200203-092338 → ねこねこソフト Windムービー見て奮起
※『Wind』の発売は2002/04/19
新海さんが筆まめかつ過去の情報を残してくれるひとで良かったね!
あとInternet Archiveと俺ニュのミラーしてくれてるひともありがとう!
なお当時の状況を伝える個人ニュースサイトに俺ニュを選んだのはログが残ってたから。カトゆーかsawadaspecialあたりが残ってたらそっちも載せた。
いまこれ読んでて
http://time-space.kddi.com/digicul-column/suguyaru/20151221/index.html?sid=co_prts_ttw
ふと当時家にあったPCで夜な夜な見ていたグラビアアイドルのCD-ROMなんだっけって調べること小一時間
まず確実な記憶としてエプソンのなんかだかってことは覚えてたから
http://ameblo.jp/yamayamayamayama/entry-10024864415.html
したけど、まったくこの人や!って名前がでてこない
なんで逆に、当時活躍していたグラビアアイドルを見たほうが早いってことになり
あった!ってなって、新山千春だったことを思い出す
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B1%B1%E5%8D%83%E6%98%A5
http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w33741768
まさに俺が見ていたCD-ROMや!ってなって感動した
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/989697
このネタ、定期的にやってくるね。見るたびにほんとクソだなって思う、こういうこと平気で言うアーティストって。
結局、世の中の事象を表面的にしか捉えられない極めて残念な頭脳の持ち主だってのが露見するからこういうのはできるだけ見たくない。
CCCDやレーベルゲートCD(以下CCCDに統一)は、別に必要が無いのに突然作られたわけじゃない。ビジネスとしてそれが必要だと判断されたから作られた。それが成功か失敗かに関わらず、産業を護るための1つの手法として作られた。
当時、音楽の世界を猛烈な勢いで襲ってきたのは、「印刷技術の陳腐化」と、「それに伴う経済圏の破壊」だ。
音楽が、中世のパトロンに音楽家が養われていた時代から先に進めたのは「印刷」の技術のおかげだ。楽譜を印刷し、アナログレコードを印刷し、そしてCDを印刷することで音楽をお金に変えることに成功した。1つのマスターを大量に印刷し複製すること、その「印刷」が特別な技術であったからこそ、そこに金銭的な価値が生まれ、音楽を金に変えることに成功した。
マネタイズが上手くいった場合の恩恵などいまさら語ることではないと思うが、その金がさらなる設備投資を生み、最高峰の音楽スタジオを作っただけでなく、作品の多様性、文化としての多様性をも生んだ。1作品の売上で1度失敗したらすべてが終わる世界ではなく、大衆に広く伝わる音楽から、極めてマニアックでありながらしかし深く深く誰かの胸に突き刺さるような、採算を考えたら許されるはずのない作品さえも許容できる余裕が生まれた。80年代、90年代の音楽を見ればそれは一目瞭然であり、多様性こそが文化としての豊かさだというのは誰の目にも明らかだ。それもこれも、マネタイズが上手くいっていたから可能になったことだ。
この辺の「ありがたみ」を、元記事の音楽家などはきっと理解していないんだろうと思う。もっとも恵まれた時代に活動し、勝手に思うがままにできていた世代特有の傲慢さ。プラットフォームを築き上げることがどれだけ大変で、それを維持することがどれだけ重要なことか、まったく理解していないんだろう。いい歳こいてるくせに。
それらの恵まれた状況をもっとも大きく変えたのは、「家庭用パソコンにCD-ROMドライブが搭載されるようになった」ことに他ならない。その時点で「印刷」の専売特許が失われ、「印刷」が家庭レベルに落ちた。誰でも印刷ができるようになってしまった。ここでいう印刷とは、CD-Rに焼く行為のみならず、HDDにデータを取り込む、そのデータをコピーする、これらすべてがつまるところ「印刷」だ。誰でも自由に印刷ができるようになった時点で、そこに金銭的な価値を維持できるような専売性は無くなった。
それをいち早く察知したのは、アップルとグーグルだ。彼らはしきりに「おまえの持っているCDをパソコンに取り込め」とけしかけた。とにかく入れろ入れろとしきりに促した。同時に「その取り込んだデータをどうするかはおまえ次第だから知らないけどな」と、極めて狡猾な態度をとり続けた。スティーブジョブズが本当に音楽家を救いたかったのだとしたら、やるべきことは人々にCDをパソコンに入れさせコピーさせることでは無いことは彼も気付いていたはずだ。気付いていながら彼は巧みにポジショントークを繰り返し、自社製品を売り、むしろ自社製品が音楽を救うとまで言ってのけた。そして、それに音楽家たちはまんまと騙された。
音楽をパソコンにさえ入れさせれば、後はユーザーが勝手にコピーするなり、ネットにアップするなり、金も法も関係なく勝手にやり始めることを彼らは知っていて、それを積極的に促した。
なぜ彼らはそれができたかといったら、それは「彼らは音楽に投資をしていなかったから」に他ならない。制作費やスタジオ設備に一銭も出していないからだ。音楽CDプラットフォームを作ると同時に音楽制作も始めたソニーには、ビジネスを通じて音楽文化を育てる気概があった。対してアップルは音楽制作には一切触れようとしない。彼らは単に、はちゃめちゃコピーマシンと、投資はせずに回収だけするプラットフォームを作り上げただけだ。
そうやって彼らが「パソコンにじゃんじゃんCDを入れちゃって~」とやり始めた時、当然、それに抗わなくてはならなかったことを想像もできないようなら、もう一度中学生からやり直した方がいい。
コピーコントロールCDという名前が表すように、コピーをコントロール、つまり「印刷」をコントロールする必要があった。そうしないと、音楽を育むための全ての経済圏が破壊されてしまうからだ。指を咥えて待っているわけにはいかない。対策を講じなければならない。
明らかに不利な立場だった。何もしないと責め立てられ、やろうとすると「考えが古い」と叱責される。アップルやグーグルが上手かったのは、いかにも「先進的で素晴らしいパラダイスを目指している」ようなイメージをアーティストたちへも擦りこむことに成功していたことだ。その先に実際には何もなくても、イメージさせてしまえば勝ちだ。あの頃のみんなに「10年後、音楽はアイドルと大人数ホストサーカス団しか残ってないよ」と教えたらどんな顔をするだろうか。
実際にはCCCDの技術はあまり褒められるようなものではなかったし、それは作った側も認めている。技術とアイデアが足りなかったのだとは思う。しかし同時に、何もしないわけにはいかなかったこともちょっとは理解してやったらどうだ。いい大人なんだから。
当時、全てのレーベルがCCCDを出していたわけではない。人を「犬」呼ばわりするほどCCCDが嫌なのだったら、違うレーベルからリリースすればよかったではないか。契約などのせいでリリースせざるを得なかったのだったら、裁判でもやって争えばよかったではないか。制作費をしこたま出して貰って、ワガママもできるだけ聞いてもらいながら制作をしていた人間が、気分でボロクソに言うのって本当に程度が低いと思う。
CCCDは正式にはコンパクトディスクでは無い。redbookのCD-DA規格に準拠していないからだ。つまり厳密なことを言えば、CCCDに対応していないCDプレーヤーにCCCDをぶち込むのは、CDドライブにフロップーディスクをぶち込むのと大して変わらない。
ここで「だからプレーヤーが壊れたのは自己責任」などとは言いたくないし、その辺りは確かにソニーやエイベックスのやり方や啓蒙の仕方、技術には問題があった。 だが、何かしらの対策をしないといけないのは明白で、それに対して失敗したからといって上から目線でボロクソに言うのはまったく関心しない。
実際、あれからCCCDは多くの非難を浴びた。ほぼ同時期に、アップルはiTunesにまったくもってクソみたいに使いにくいDRMを自ら導入し「ほら、使い辛いでしょ?」とお決まりのポジションで言ってのける演出をし、そして業界全体が「コピー禁止やDRMはやってはいけない」という風潮になり、まんまとIT屋の餌食になった。 すぐ近所でゲームや映画DVDは「私的複製を許可するけど、鍵は外したら怒るよ」というクレバーなやり方を開発し、一定の効果を上げコントロールできているというのに、音楽だけは「複製は許さなくてはならない」という空気に飲み込まれた。そんな馬鹿な話はない。それもこれもアップルとグーグルの熱心な啓蒙のおかげだ。
そしてレーベルやアーティストは制作費が出せなくなった。 自宅で制作したような貧乏臭い音のショボイ作品しか作れず、過去の遺産にしがみつくしかなくなった。若いアーティストたちはどんなに才能があろうと、お金を掛けた制作をさせてもらえずバイトをやめることができなくなった。毎晩、叙々苑弁当を食わせてもらってた上の世代がこぞって「音楽をタダで聞かせればファンが増えてもっとカネになる!」とかいうアホみたいなIT屋の理論を鵜呑みにし業界をその方向へ誘ったがために、明らかに業界は縮小し、文化は萎縮し、これから先の若い才能は音楽などやらなくなってしまった。
おまえが良識のある音楽家たちを「犬」呼ばわりするなら、おまえはあいつらのポジショントーク、セールストークを無邪気に信じこんでお花畑を目指してたITの「犬」だろうが。 mn3
毎日の英単語 日常頻出語の90%をマスターする James M. Vardaman
英会話・ぜったい・音読 【続・入門編】 (CDブック) 國弘 正雄
どんどん話すための瞬間英作文トレーニング (CD BOOK) 森沢 洋介
フォニックスってなんですか? 発音確認 エクササイズ用CD付 松香 洋子
CDBフォニックス<発音>トレーニングBOOK (アスカカルチャー) ジュミック今井
30 Days to a More Powerful Vocabulary Norman Lewis
Instant Word Power Norman Lewis
1000 Most Important Words Norman W. Schur
同義語とあわせて覚えるTOEFLテスト頻出英単語4000 (TOEFL iBT Test パーフェクト対策シリーズ) 内宮 慶一
Official TOEFL iBT Tests with Audio (Educational Testing Service) Educational Testing Service
Official Guide to the TOEFL Test With CD-ROM, 4th Edition (Official Guide to the Toefl Ibt) Educational Testing Service
大学四回生の夏、下宿の扉に「出入禁止」とチョークで大書し、親を呼ばれて精神病院に連れて行かれた。
パソコンを買ってもらったのは小学三年生の冬だった。今でも覚えている。1996年12月2日のことだ。Windows95発売で世間は揺れていた。インターネット回線がうちに来たのは翌97年の1月、これはそこそこ早い導入だったと思う。さらに翌々年の99年にはケーブルテレビで常時接続になった。親には先見の明があったが、しかしパソコンには詳しくなかった。PC-8001も確かそうだ。親はこれが次世代の必需品になると確信して買っていたが、買った一方で使い道が分からなくてオブジェとして放置していた。親はPC-8001をパソコンだと言っていたけれど、僕にとってパソコンはおっきなテレビが標準で付属しているものだったし、マウスもなかったので、それがパソコンだとは到底思えなかった。でも親は言った。今度来るのは違うんだ、オフィスも入っているパソコンなんだ。僕は聞いた。一太郎っていうやつは入ってないの?テレビで言ってたよ、と。親は答えた。オフィスってのは一太郎より機能がスゴイんだよ。僕はへぇ、とだけ言った。どちらにせよペイントは入っているだろう。ペイントなら親戚の家で使わせてもらったことがある。パソコンはお絵かきができるのだ。マウスをカチカチして、キーボードをカチャカチャするのだけが楽しみで、納品の日を一週間ひたすら待った。その頃、漢字の宿題提出が滞っていて、そのままでは居残りでさせられることになっていた。僕は久々に奮起した。いつもは踏み倒していた宿題を、全部一気に終わらせた。家に帰るとパソコンが電気屋さんの手で設置されつつあった。今は亡き、ニノミヤで買われたパソコンであった。
97年にインターネットを始めた。一日一時間まで。実のところ電話代の問題ではなく、一時間ほど使うとブルースクリーンが発生するからだった。一日一時間以上動かすと壊れるから。PC-8001をキッチリ買った親なのに、それぐらいの(?)ITリテラシーであった。ただ別にそれを責めるつもりはない。僕はすぐにアングラサイトに入り浸った。人に飢えていたのだ。普通のチャットには人がいない。テレホタイムにならないと、誰一人ログイン氏亡いのだ。でも、アングラサイトなら四六時中書き込みがある。僕は思う存分厨房行為を楽しんだ。煽り騙りなんかは、小学生がやっても大人がやっても大して変わらないものだ。You is a big fool manという文句をリアルタイムで目にした人は、多くても数百人だっただろう。何千、何万のツイッタラーが押し寄せ、ブクマが1000以上付くような今の炎上とはほど遠い暢気さだ。当時の匿名掲示板とはそういうものだった。誰一人本気で投稿しなかったし、しかし誰一人面白くない書き込みをしようとはしなかった。トイレでもネタを考え、思いつけばすぐに投稿し、ワラタが付くのを待ち続ける。あやしい、あめぞう、あやしい、2ch。人の多いところから人の多いところへ。ワラタが多くもらえる場所へ。気づいたらインパクが終わっていた。
その一方で僕は中高一貫の私立校に入学していた。高校受験がないことから、ネット依存はさらに加速した。しかし2000年を境にアングラ掲示板は衰退の一途をたどり、2ch一強時代を迎えていた。1ch.tvをボコったりするなど楽しいネタがないわけではなかったが、匿名掲示板はネタの宝庫と言うより、本気でちゃんと議論することもできる場所になり始めていた。ちゃんと議論しようとしたらすぐさま崩しにかかるのが2ch隆盛以前の匿名掲示板文化であったが、2003年頃を境にはっきりと潮目が変わっていったように思う。まあその辺はどうでもいい。アングラと非アングラの境目は消え始めていた。
その狭間に、僕は生きていた。
自分で掲示板を設置することにした。けれども何をして良いのか分からない。CGIレスキューに救援要請をして本も買った。Perlだ。Perlしかない。しかしPerlがどうして動いているのかは、全く分からなかった。何十行、何百行もの文字の羅列が、どこでどうなって、掲示板になるのか。インタプリタ?コンパイラ?訳が分からない。そもそもCPUがどうやって動いているのかも分からない。僕にとってプログラムとは、セットアップウィザードでCD-ROMをギュンギュン言わせながらインストールするものであって、掲示板というものは、Teacupで借りるものだったからだ。でもどうやらそうじゃないらしい。コンピューターに翻訳するのがコンパイラです。さっそくコンパイラを使ってみましょう……
お手上げだった。
コンパイラがないのだ。コマンドプロンプトにはない。Linuxを入れる?使い方が分からない。Vine Linuxが初心者にお勧めだった頃の話だ。ボケッとしててもGNomeぐらいは動かせる程度には簡単になっていたが、そこからターミナルを開いてgccでコンパイルするなんて想像も付かないことだった。Hello, Worldはなんとか表示できても、それをGUIで動かす方法が分からない。僕はデスクトップに「Hello, World」のポップアップウインドウを表示させたかったのに。全然訳が分からなかった。
プログラムが動いている方法を知らなければならない。プログラミングを学ばなければいけない。しかし全体像を把握するにはあまりにもほど遠い……。絶望感が支配し始めていた。Hello, Worldはできたけれど、その先が全くわからない。どの参考書を読んでも分からない。ググってもググっても分からない。ポインタで躓く初心者が多いです!……どの本にも書いてあったけれど、僕はポインタどころか、変数の種類がたくさんあるところでお手上げだった。int?char?long???意味不明の文字列が並び続ける。メモリ?メモリって、挿したらいいんじゃないの?確保?fopen????どんなプログラミング言語も、何一つ分からなかった。その頃インターネットは加速し始めていた。切るのが当たり前だったJavascriptが復権し、Ajaxと名を変えてやってきた。掲示板スクリプトもどんどん高機能化し、もはやPerlを知るだけでは何一つできないようになってしまった。苦痛の日々が始まった。どの言語も、全く分からなかった。分からなければならないという焦りが募っていった。
あるとき、一年間ほど、とりあえずお手上げのままにしておくことにした。大学受験が迫ってきたからだった。そして案外あっけなくそれは終わった。僕は某大学の情報科学科に入った。
教授がガイダンスで説明したとおり、情報科学科のプログラミング演習はそれほど多いものではなかった。一回生の時なんか、キーボードを目で追って人差し指で打っている人もいるぐらいだった。学校の授業はアテにならない。そして大学受験でいったん引っ込んだ、とにかく十代でなにかしないと、という焦りが復活してきた。
大学のキャンパスは広すぎた。何をして良いのか全く分からなかった。授業内容はひどくつまらなく、何が役に立つのかも分からず、ただただ苦痛で、キャンパスでサークル活動に打ち込んで楽しく過ごせるほど社交的ではなく、かといってオタク集団に混じる勇気も無く、とにかく、とにかくここで四年間、四年間で何かしないと、何かしないと就職に間に合わない、大学院進学に間に合わない、十代のうちに何か大きな事を成し遂げなければならない。日々研鑽に励み、日々プログラミングスキルを磨き、日々勉強会に参加し、日々コードを書き、日々環境設定をし、日々本を読み、そして日々コードを美しく書かなければならない、そういう焦りだけがどんどん加速していった。大学の生協で片っ端からプログラミングの本を買った。ド初心者向けのPerl本から、美しいコードは何か、みたいな本まで。でも、どれ一つ、僕のスキル向上には役に立たなかった。プログラミングスキルの向上=自分自身の地位=生活の保障、と思っていた自分には、悪夢のような現実だった。
とにかくインターネットと一緒に歩んできた僕にとって、ITスキルはすなわち力であり、むしろITスキル以外は何の価値も持たないもの、と思えるほど脅迫的な観念にとらわれていた。入ってくる情報はさらに増えていった。Cができるのは当たり前、Ruby on Railsがアツい、Java、PHPはもちろんできるよね、MySQLは当然使えるよね、もちろんHaskell、Scheme、Objective-Cもやらなきゃね……何一つできないのに、習得すべき言語だけがどんどん増えていく。加えて美しいコードを書け!という文句が飛んでくる。クソッタレが。何が美しいコードじゃ。goto使ってもいいだろ。好きなだけ使わせろクソッタレが。全部getsで書いてやる。クソが。アルゴリズムアルゴリズム勉強会勉強会ビューティフルコードMacMacMacジョブズジョブズジョブズ……???????????????
それでもなんとか、そう、なんとかなった。友達が優秀だったのだ。僕には到底できないような、きれいに整理されたコードを書く人だった。聞けば在学中から外注のプログラマをやっていて、それなりに稼いでいたのだという。性格はちょっとアレで、風俗に勇気を出して行こうかどうしようか迷ったけどその金でオナホ買ってシコってオナホを床に叩きつけたみたいなヤツだったけれど、そいつからもらったコードを、わざと汚く成形し、変数名も汚らしくし、提出し、なんとかなった。結局自分で最初から最後までプログラムを作ることはできなかった。丸々コピペはしなかったけれど、コピペがなければ卒業は無理だっただろう。
そうして三回生の終わり、試験がどっと押し寄せてきた。一月のことだった。機械学習と……なんだっけ?そういう感じの試験が、2月の初日、行われることになった。三回生はただでさえ試験が多かったが、その大トリこそが機械学習だったのだ。
まるで意味が分からなかった。推論、それは分かる、機械学習?機械に学習??やっていることは数式だしベイズがどうの……まるで分からない。泣きそうだった。三年間必死こいて勉強したり勉強会に行ったりプログラミングスキルを上げようとしたり本を読んだり色々したのに、何一つ得るものは無かったのだ。僕はあやしいわーるどでオマンコ連呼していた頃から、何一つ成長出来なかったのだ。そしてそれは、間違いなく、疑いようがなく、自分のせいだった。自分の頭が悪いせいで。自分の勉強不足のせいで。自分のせいで……コンピュータとともに、十何年も育っていた僕にとって、コンピュータに関するスキルこそが、全ての力の基準だったのに、その全てを否定されたような気持ちだった。プログラミングができなければ、死ぬ。だって、友達はみんな就職して、SEになったりSIerで働いたりネットワーク管理者になったりしてるのに、僕はなんで、こんなところに。そいつらに取り残されるのに。みんな勉強会に出てMacを持ち寄ってハッカソンしてるのに。泊まり込みでプログラミングしたりしてるのに。なんで僕は、fgetsすらマトモに使えず、getsとscanfだけであなたの名前を入力してください オマンコ オマンコさん、こんにちは!みたいなプログラムしか書けないんだ。
大学四回生になった。研究室を選択する必要があったがしなかった。しないでは困るとのことで、適当に書いたらその一番上に配属された。でも一切研究せず、下宿に引きこもって何もしないをした。今日の輪講はここまで進みました!という報告が毎週回ってくるが、まるで研究室では日本語でなくアラビア語が公用語になっているのではないかと思えるぐらいの光景だった。この頃、近所の人の証言によれば、言動がおかしく、訪ねてきた人に暴言で返し、殺す殺すなどの声が聞こえ、時折モノを投げつける音が聞こえたりしたそうだ。まあよく知らない。僕は普通に何もせずぼんやりネットを見ていただけのような気がするけど。
それからしばらく経った。
結局僕は中退した。そして別の大学に入り直した。今度は、工学じゃない別の場所に。みんなキーボードの文字を読みながら指先でキーを叩いている。安心する光景だった。僕らはプログラミングを習わなくてもいい。これから習う必要も無い。タッチタイピングだって、できるに超したことはないだろうけど、できなくてもいい。ただ、そこにある便利なモノを使えば良いだけなのだ。Chromeを使っていて、うっかり開発者向けコンソールを開いてしまっても、何も分からなかったことにして閉じて良いのだ。きっとマクロを書けば、楽ちんに勝手にやってくれるような作業を、人の手で何度もやる。それでいいんだ。マクロを考えるために必死になる必要なんか無い。マウスで右クリック、コピー、ペースト。それでいいのだ。キーバインドすら覚えなくて良い。メモ帳を使ってもいい。viやEmacsのキーバインドを覚えなくてもいい。マウスも使えないようなエディタと格闘する必要は無い。Macを買っても、XCodeやportsを入れる必要は無い。iTunesでiPhoneを同期させて、音楽を聴くだけでいいんだ。
僕はもうプログラミングしないでいいんだ。
それが分かったとき、全てから解放されたような気がした。僕を苦しめ続けたプログラミングというものは消えてなくなった。パソコンでやる作業は、昔と一緒、匿名掲示板にオマンコと書き込むだけだ。それ以上のことをしなくてもいいんだ。勉強会に出てハッカソンする必要は無いんだ。プログラミングスキルを錬磨しないと死ぬなんてのはウソだったんだ。美しいコードを書かないと天罰が下るというのはウソだったんだ。毎日毎日はてブのホッテントリを見てると、プログラミングでマスターしなければならないこと、何何する方法、開発者必須スキル、便利ツール、Macでのアプリ開発、セキュリティ、通信、データベース、勉強会、ハッカソン、そういうもので溢れている。苦しくないのか不思議で仕方ない。もちろんプログラミングをしていて楽しい人もいるんだろう。けれど、僕みたいに、プログラミングという行為が苦痛で苦痛で苦痛でしかない人もいる。たとえ1000回の同じ操作でも、人力でやる方がマクロを書くよりも楽だという人も、ここに存在するのだ。そしてそのような人の存在も当たり前に肯定されるのだ。みんな苦しまなくて良いんだ。誰かが勝手にやってくれればいい。できる人にお金を渡して、僕らはそれを享受するだけで良いのだ。ここでプログラミングという言葉を連呼したけれど、コーディングという言葉との違いとか、そういうのを気にするような人とおつきあいする必要は無いのだ。いずれプログラミングは必須スキルになるとか言われて何年も何年も苦しみ続けてきた。けれど、そんなことをする必要は無いんだ。
それでぶっちゃけここからが本番なんだが、十代でなんとかしないと、という焦りはこないだの青木君の小四なりすましの話に似ている。僕もそうだった。僕らの世代だと登大遊氏なんかが結構輝いてて、ああいう感じにならなきゃ、と思っていた節はある。十代の時になにか成し遂げないといけない、そのためには誰かに認めてもらわなければならないという焦りは、どれくらいの「大人」に理解してもらえることなのだろうか?誰かの承認を得たいという承認欲求を、同じ世代の誰かを使って満たすことができず、むしろ同じ世代の誰かを一緒に引き連れて、承認欲求を満たしてくれる「教祖」にすがりつく。NPOの大学生が「承認」を欲し、政治家が「承認」を与えているのだ。AO入試用の作文?図?みたいなものも見かけたが、「私はリーダーシップがあります!」とか実にくだらないことしか書いていない。しかしそういうものでさえ、学生団体とやらは「承認」してくれる。結局、オウム真理教が丸ごと開けたポジションに、バラックが建ち並び闇市が行われていて、コミュニケーションで自然と得られるはずの承認欲求が、法外な札束で取引されている、そんな感じのような気がする。
意外にブクマが増えていた。PC-8001は俺が産まれる前に買われたもので、ずっとオブジェだったのだ。動くかどうかもわからない。テレビに接続するコードがなかったから。
1989年に東芝が発売したDynabook J-3100SSが世界で最初のノートパソコンである。すぐにNECが続き、1990年代になると、IBMとアップルが参入、東芝、アップル、IBMが次々に新機能を加え、1995年頃には、現在のノートパソコンの標準的な機能の原型が完成した。
1990年代中頃から、国産各社が参入、先行各社は新機種シリーズを展開した。また、インターネットが普及し、モバイルコンピューティングが盛んになった。それにより、ノートパソコンが急速に使われるようになり、2000年にはノートパソコンの出荷台数はデスクトップパソコンを追い越した。
2000年代を通して、小型化、軽量化、高機能化、省電力化が進んだ。2000年代末には、iPadで代表される新しい形態の携帯機器が出現し、ノートパソコンと競合するようになってきた。
とかくパソコンの分野では日本企業の低迷が指摘されるが、ノートパソコンの分野では、東芝に代表される日本企業が業界を先導したきたのである。少なくとも1990年代まではそうであった。ところが、2000年代になると、ノートパソコンがパソコンの主流になったのに、日本企業の優位性は低下してきた。それを挽回する手段を講じるべきなのか、あるいは陳腐化したこの分野は中国等に任せて、日本は新分野を開拓すべきなのだろうか。
ラップトップとは「膝の上」の意味であるが、デスクトップパソコンより小さく、ノートパソコンよりも大きいサイズのパソコンを指す。携帯可能であるから、これを含めてノートパソコンということもあり、その境界は厳密なものではない。
・1984年 NEC PC-8401A
(PC-8401Aのほうが早いのだが、電池やフロッピーなどが外付けなため、一般にはT-1100が世界初で、PC-98LTがNEC初だとされている)。
T-1100の仕様を示す
・CPU:80C86(16Bits)、5MHz
・メモリ:最大512KB
・外部記憶:3.5インチFDD内蔵(720KB) 。ラップトップでは世界初のHDD内蔵
・サイズ:310(W)×300(D)×67(H),4kg
最初のノートパソコンは1989年に、世界に先駆けて日本で出現した。
発表はPC-286NOTEのほうが先だったが、出荷はJ-3100のほうが早く、しかもヒットしたので、一般的にJ-3100を最初のノートパソコンだとしている。なお、PC-9801Nはやや遅れて出荷されたが、これにより「ノートパソコン」という用語が広まったといわれている。
J-3100SSの仕様を示す
・CPU:80C86(16Bits)、5MHz
・メモリ:最大3.5MB(標準1.5MB)
・外部記憶:3.5インチFDD内蔵(720KB/1.2MB)
・電源リジューム機能の提供 ・ジャストシステムATOK7のROM搭載 ・AT互換機
・サイズ:310(W)×254(D)×44(H),2.7kg)
1990年代に入ると、IBMとアップルがノートパソコンに参入した。1990年代前半の特徴のある機種を列挙する。1995年頃には、現在のノートパソコンの標準的な機能の原型が完成したといえよう。
・1990年 東芝 DynaBook J-3100 SS02E 世界初のHDD搭載
・1991年 NEC PC-9801NC 世界初のTFT液晶16色、TVチューナー付
・1991年 アップル PowerBook 170 世界初のパームレストとトラックボール
・1991年 IBM PS/55note 5523-S IBM初のノート。VGA解像度640x480(他社は640x400だった)
・1992年 東芝 DynaBook 486-XS 世界初のTFT液晶フルカラーVGA
・1992年 東芝 DynaBook EZ ワープロ、表計算などアプリケーションをROM内蔵
・1992年 IBM ThinkPad 700C 当時最大級の10.4インチTFTカラー液晶。世界初のトラックポイント装備
・1992年 IBM ThinkPad 220 世界初のサブノート。重さ 1kg、単三乾電池で駆動
・1994年 東芝 DynaBook SS433 世界初のFDD内蔵B5版サブノート
・1994年 IBM ThinkPad 755 内蔵型CD-ROMドライブ搭載
・1994年 アップル PowerBook 520 世界初のトラックパッド採用
1990年後半には、国産各社がノートパソコン分野に参入、先行各社も新シリーズを展開して、現在でもポピュラーな機種名が出揃った。ノート型は、デスクトップ型に比べて割高であったが、モバイル環境での利用が盛んになったこと、オフィスや家庭での占有面積が小さいことから人気が高まり、2000年にはノートパソコンがデスクトップパソコンの出荷台数を上回る状況になった。
・1995年 富士通 FMV-BIBLO リチウム電池採用。プレインストールソフト多数
・1996年 IBM ThinkPad 560 2kg以下の軽量
・1996年 東芝 Libretto 20 世界最小・最軽量(840g)のミニノート
・1997年 ソニー VAIO NOTE 505 B5サイズモバイルノート
・1997年 パナソニック LetsNote AL-N2 光学式トラックボール搭載
・1997年 三菱電気 Pedion A4で当時画期的最軽量(1.45kg)最薄(18mm)
2000年代になると、パソコンの主流はノートパソコンになり、パソコンでの関心はノートパソコンが主になる。ノートパソコンは、本質的にモバイル環境での利用である。そのための軽量化や小型化競争は1990年代後半から活発であったが、2000年代になると、長時間充電せずに利用できること、立ち上がりの時間が短いこと、堅牢性や耐久性に優れていること、さらにはデザインへの要求など、多様な品質での競争になってきた。
筺体の軽量化
軽量な素材を用いながら堅牢性を高めるため、ハニカム構造など設計上の工夫が進んだ。
パソコンを使用しない状態での省電力技術であるスリープ/スタンバイ機能は従来からあったが、インテルによるディープ・パワー・ダウン・テクノロジやASUSTeK ComputerによるExpress Gateなど、新方式が開発された。
SSD(Flash Solid State Drive)
SSDは、フラッシュメモリを発展させた記憶媒体で、HDD(磁気ディスク)と比較して、機械部分がないため、小型化、省電力化、高性能化が重要なノートパソコンに適している。しかし高価格である。2004年頃から注目されるようになり、2000年代後半には高級機に採用されるようになった。
ノートパソコンの製造には、小型化や低電力化などの高度なな技術が求められので、日本企業に適した分野であった。ところが、低価格化競争が進むのに伴い、台湾や中国などで生産するようになった。それが、2000年前後から、現地企業の技術向上により、現地企業に生産だけでなく設計も委託するようになり、独自のパソコン事業から撤退するようにもなってきた。そのため、日本国内で生産している製品は、特に高度技術が要求される小型の高機能のパソコンに絞られるようになってきた。
2000年後半には、ノートパソコンが多様化した。ディスプレイサイズで区分すると、次のようになる。
7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17
───┬─── ─┬─── ──┬──
│ ──┬──│──┬── │
│ │ │ │ ハイエンド 1920x1200 モバイルを意図せず高機能機
│ │ │ A4ノート 1680x1050 最も広く利用
│ │ B5ノート(コンパクト) 1280x 800 モバイル用の標準
├ウルトラモバイル(タブレットパソコン) 1024x 600 操作性を重視
シンクライアント(Thin client)とは、処理機能をサーバに集中させ、パソコンには必要最小限の機能しかもたせないパソコンのことである。1996年当時は、モバイルパソコンの軽量化、低廉化を狙ったのであるが、あまり普及しなかった。
1996年 オラクル、シンクライアントの概念を提唱。そのコンセプトモデルNC (Network Computer)を紹介。「500ドルパソコン」とも呼ばれた。
1997年 サン・マイクロシステムズ、コンセプトモデルJava Stationを発表
1997年 マイクロソフト、Windows CEをベースとした「Windows Based Terminal(WBT)」を発表
それが2005年頃から、外部記憶装置の接続ができないこと、パソコンに情報が残らないことが、セキュリティの観点から重視され、パソコンメーカーはシンクライアントを発表、多くの企業が採用を検討するようになった。
2005年 日本経済新聞「日立製作所がパソコン利用を全廃する」の記事。これが広く一般の関心を呼ぶ。
2005年 富士通 FMVシンクライアントTC8200等出荷
2005年 NEC Mateシンクライアント、VersaProシンクライアント 出荷
ネットブックとは、インターネット利用に特化した小型軽量なノートパソコンである。2005年頃、発展途上国の教育分野にインターネットの活用が重視され、「100ドルパソコン」として生産、支援団体等を通して提供する計画が進んだ。
ところが、安価で使いやすいことが注目され、先進国でもセカンドマシンとしての重要が高まり、2008年頃から、その用途を目的とした機種も出るようになった。
2008年 ASUS(台湾) Eee PC:本来の目的用の例
・CPU,本体:Ultra-Mobile PC(タブレットPC)携帯端末用のPC、パソコン用と比較して安価
・記憶装置:HDDなどはなく、システム基板上にフラッシュメモリを直接搭載
・ハードウェア構成:通常のPC/AT互換アーキテクチャを採用して、パソコンとの互換性あり
iPadの出現
タブレットパソコンとは、タッチパネルディスプレイを搭載し、指や専用ペンで画面操作できる携帯用パソコンのこと。2002にマイクロソフトはタブレットPCを発表したが、あまり普及しなかった。2009年に発売されたWindows 7が「Windows タッチ」というタッチ操作系統を標準搭載したため、タッチパネルディスプレイを備えたパソコンが各社から発売されるようになった。
2010年、アップルはiPadを発売した。電子書籍閲覧で代表される多様なアプリケーションが評判になり、爆発的な売れ行きを示した。ここでのマルチタッチ操作方法は、一般のパソコンにも大きな影響を与えている。
GWが普段より長い休日という意味しか持たないオタク社会から断絶されたぼっちリーマンにとって、
部屋整理をするうちに出てきたニトロプラスの0年代のゲームは、たぶん格好の時間つぶしなのだろう。
飯も食わずに斬魔大聖デモンベインをぶっ通しでやり続け、
Dr.ウェストに腹を抱えて笑い、エルザの攻略ルートが本当になかったのか、かつてと同じように悩んでしまう。
今日は「鬼哭街」CD-ROM版(もちろんリメイクする前)だ。
インストール時にドライブが立てる掃除機のようなあのけたたましいブオオオォォっという音は何度聞いてもいいものだ。
下のバナーが「Hello World」の宣伝で、やべー懐かしいと独り言のように繰り返してしまった。
Startしてから先、いきなり女性が襲われているが、抜けないので次へ。次へ。
行き過ぎて、ホイールロックを回したら更に先へ進んでしまった。
先へ進んだ。
後戻り機能ないぞ、これ。
序盤なので、再インストールし直した。
大学に入ると、大学院の試験や留学の際の英語力の証明としてTOEFLの受験をする機会が出てくる。
TOEFLのスコアで一喜一憂するのは時間の無駄なので、簡単に高スコアを狙いにいける方法をここで伝授する。
まず、TOEFLを受ける人は以下の本は最低限用意しておこう。
上二冊はTOEFLの概要を知るためと、問題練習をするために必要。最後の本はWritingやSpeakingのネタとして用意するために非常に役立つ。
さて、TOEFLで高スコアを取るためには以下の3つの力が重要になってくる。
語彙が無いとそもそもTOEFLでまともな点数を取ることはできない。そして、パラフレージング(言い換え)の力も求められる。つまり単純に単語を知っているだけでなく、同義語・対義語といった、単語同士の関係性というのも知っておかなければならない。
TOEFLのReadingは実はかなりの速読を求められる。効率よく読んでいかないと時間が足りないということになる。この力を伸ばすためには普段からニュースや論文など割と「まともな英語」の読み込みを行っていく必要がある。
TOEFLではReading以外すべてのセクション(Writing, Speaking, そしてもちろんListening)でリスニング力が無いと死亡する。
別に仲間は後からついてくるから、とりあえず申し込み書を取り寄せて、申し込んで本を作ればいい。
同人誌なんだから、最初は手製本で十分。パソコンとプリンタがあれば簡単にできる。
別に手書きでコンビニのコピー機で複製でも構わない。いきなり印刷所に出すこともない。
好きが足りないと途中で面倒になる。とにかく誰よりも好きになる覚悟があるとあとは作業だ。
好きなもので面白そうなことを考える。内容は人による。できればオリジナルがいい。長続きする。
パロディならば、何かと何かを掛け合わせる。オズボーンのチェックリストを使うといい。
アイディアが膨らむ。
絵が描ければまんがだろうし、文章が好きなら小説だ。どちらも苦手なら、データを集めてデータ集にする。
本とというのは、大体4の倍数のページ単位でつくる。
最初にもくじがあって、はしがきがあって、本編があって、おまけがあって、あとがきがあってでいい。それぞれ何ページ使うかを大体決めておく。
ここで、本の綴じ方を決めておく。袋綴じならば気にしなくてもいい。ホチキスで留めて折る針金綴じや木工用ボンドを使った簡易無線綴じのときは、ページの割り振りを考えておく。
ページ数は、24から32ページくらいを考えておいたほうがいい。本のサイズはA4を半分に折ったA5が作りやすい。
手を動かす。ここがいちばん楽しいところ。あんまり時間がないかもしれないが、余暇の時間をすべてつぎ込む。
時間切れ(自分が作った締め切り)にむかって、納得がいくまで試行錯誤を繰り返す。
表現がつたなくていやになることもある。自分の力のなさに絶望することもある。
簡単な方法だと文字をwordか何かで打ってプリンタから出力。
絵は、原稿用紙(ケント紙)に描く。絵を描いた原稿に文字を切り貼りする。丁寧に作業をする。
表紙はキャッチーなほうがいい。遠くから見て目立つほうが売れる。
誤字を確かめたり、矛盾がないかチェックする。てにをはも確認する。
印刷だ。原稿ができてしまえば、完成は近い。家庭用の複合機プリンタならば、コピーモードで複製できるし、工夫すれば両面印刷もできる。
なければ、コンビニでがんばる。コンビには両面印刷は難しいかもしれない。20冊から30冊つくればいいと思う。
印刷した紙を折る。次にページの順番に並べて、1冊ずつに分ける。
ホチキスや木工用ボンドで留める。この作業は、間違えるとやり直しが難しいので、単調な作業ながら気を使う。
最後に本の背以外の三方をカッターで1mmくらい切ってきれいに整える。
以下は、余力があったらやってみると面白い。
だいたい本ができると力尽きる。もしかすると前日にできたりする。できれば、小間の飾りつけを考えておいたほうが売れる。
会議室のテーブルにかけるきれいな布やテーブルクロスを用意しておく。これだけでだいぶ小ぎれいに見える。
看板を作る。会場内の場所を表す記号を書いたり、サークル名を書いておく。テーブルの前にテープで留めてもいいし、背後にのぼりのように掲げてもいい。
無料で配れるものがあると立ち止まってもらいやすい。しおりでもラミカードでも名刺でも配れるものを作っておく。
余談。会場に着いたら。
女性だと盛装している人がいる。そこまでいかなくても、普段よりおしゃれしていく。面倒ならスーツ。もしくはクールビズっぽく。一瞬の出会いは、その場の見た目が重要なので、気をつけておくに越したことはない。
おとなりの小間の人や会場の係りの人にはしっかりとあいさつする。
このあたり好みが分かれるが、立って声を出してみると人が振り返る。
「新刊です。どうごお手にとって見てください。」と通りかかる人に声をかけてみる。
これだけで、ぐっと売れる。売れたほうが楽しいよね。
ご健闘をお祈りいたします。