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はてなキーワード: Windows CEとは

2014-08-15

The history of mobile computer

1989年東芝が発売したDynabook J-3100SSが世界最初ノートパソコンである。すぐにNECが続き、1990年代になると、IBMとアップルが参入、東芝アップル、IBMが次々に新機能を加え、1995年頃には、現在ノートパソコン標準的機能の原型が完成した。

1990年代中頃から国産各社が参入、先行各社は新機種シリーズを展開した。また、インターネットが普及し、モバイルコンピューティングが盛んになった。それにより、ノートパソコンが急速に使われるようになり、2000年にはノートパソコン出荷台数デスクトップパソコンを追い越した。

2000年代を通して、小型化、軽量化、高機能化、省電力化が進んだ。2000年代末には、iPad代表される新しい形態携帯機器が出現し、ノートパソコンと競合するようになってきた。

とかくパソコンの分野では日本企業の低迷が指摘されるが、ノートパソコンの分野では、東芝代表される日本企業業界を先導したきたのである。少なくとも1990年代まではそうであった。ところが、2000年代になると、ノートパソコンパソコンの主流になったのに、日本企業の優位性は低下してきた。それを挽回する手段を講じるべきなのか、あるいは陳腐化したこの分野は中国等に任せて、日本は新分野を開拓すべきなのだろうか。

1980年代中頃:ラップトップパソコン

ラップトップとは「膝の上」の意味であるが、デスクトップパソコンより小さく、ノートパソコンよりも大きいサイズパソコンを指す。携帯可能であるから、これを含めてノートパソコンということもあり、その境界は厳密なものではない。

1984年 NEC PC-8401A

1985年 東芝 T-1100 海外のみで発売

1986年 東芝 T-3100 日本ではJ-3100

1986年 NEC PC-98LT

(PC-8401Aのほうが早いのだが、電池フロッピーなどが外付けなため、一般にはT-1100が世界初で、PC-98LTがNEC初だとされている)。

T-1100の仕様を示す

・CPU:80C86(16Bits)、5MHz

メモリ:最大512KB

ディスプレイ:80文字×25行(640×240ドット)

・外部記憶:3.5インチFDD内蔵(720KB) 。ラップトップでは世界初のHDD内蔵

キーボード:83キーフルストローク

電池:ニッカド電池、8時間の動作可能

IBM-PC互換

サイズ:310(W)×300(D)×67(H),4kg

1980年代末:最初ノートパソコン

最初ノートパソコン1989年に、世界に先駆けて日本で出現した。

1989年 東芝 Dynabook J-3100SS

1989年 セイコーエプソン PC-286NOTE

1989年 NEC PC-9801N

発表はPC-286NOTEのほうが先だったが、出荷はJ-3100のほうが早く、しかもヒットしたので、一般的にJ-3100を最初ノートパソコンだとしている。なお、PC-9801Nはやや遅れて出荷されたが、これにより「ノートパソコン」という用語が広まったといわれている。

J-3100SSの仕様を示す

・CPU:80C86(16Bits)、5MHz

メモリ:最大3.5MB(標準1.5MB)

ディスプレイ:ELバックライト液晶

・外部記憶:3.5インチFDD内蔵(720KB/1.2MB)

電池:2.5時間使用可能なバッテリパック

・電源リジュー機能提供ジャストシステムATOK7のROM搭載 ・AT互換機

サイズ:310(W)×254(D)×44(H),2.7kg)

1990年代前半:IBM・アップルの参入

1990年代に入ると、IBMとアップルノートパソコンに参入した。1990年代前半の特徴のある機種を列挙する。1995年頃には、現在ノートパソコン標準的機能の原型が完成したといえよう。

1990年 東芝 DynaBook J-3100 SS02E 世界初のHDD搭載

1991年 NEC PC-9801NC 世界初のTFT液晶16色、TVチューナー

1991年 アップル PowerBook 170 世界初パームレストトラックボール

1991年 IBM PS/55note 5523-S IBM初のノート。VGA解像度640x480(他社は640x400だった)

1992年 東芝 DynaBook 486-XS 世界初のTFT液晶フルカラーVGA

1992年 東芝 DynaBook EZ ワープロ表計算などアプリケーションをROM内蔵

1992年 IBM ThinkPad 700C 当時最大級の10.4インチTFTカラー液晶世界初トラックポイント装備

1992年 IBM ThinkPad 220 世界初のサブノート。重さ 1kg、単三乾電池駆動

1994年 東芝 DynaBook SS433 世界初のFDD内蔵B5版サブノート

1994年 IBM ThinkPad 755 内蔵型CD-ROMドライブ搭載

1994年 アップル PowerBook 520 世界初トラックパッド採用

1990年代後半:国産各社のノートパソコン参入と普及

1990年後半には、国産各社がノートパソコン分野に参入、先行各社も新シリーズを展開して、現在でもポピュラーな機種名が出揃った。ノート型は、デスクトップ型に比べて割高であったが、モバイル環境での利用が盛んになったこと、オフィスや家庭での占有面積が小さいこから人気が高まり2000年にはノートパソコンデスクトップパソコン出荷台数を上回る状況になった。

1995年 富士通 FMV-BIBLO リチウム電池採用プレインストールソフト多数

1995年 シャープ Mebius CD-ROM内蔵

1996年 IBM ThinkPad 560 2kg以下の軽量

1996年 東芝 Libretto 20 世界最小・最軽量(840g)のミニノート

1997年 ソニー VAIO NOTE 505 B5サイズモバイルノート

1997年 パナソニック LetsNote AL-N2 光学トラックボール搭載

1997年 三菱電気 Pedion A4で当時画期的最軽量(1.45kg)最薄(18mm)

2000年代前半:小型化、軽量化、長動作時間化の競争

2000年代になると、パソコンの主流はノートパソコンになり、パソコンでの関心はノートパソコンが主になる。ノートパソコンは、本質的モバイル環境での利用である。そのための軽量化や小型化競争1990年代後半から活発であったが、2000年代になると、長時間充電せずに利用できること、立ち上がりの時間が短いこと、堅牢性や耐久性に優れていること、さらにはデザインへの要求など、多様な品質での競争になってきた。

筺体の軽量化

軽量な素材を用いながら堅牢性を高めるため、ハニカム構造など設計上の工夫が進んだ。

スリープ機能の高度化

パソコンを使用しない状態での省電力技術であるスリープ/スタンバイ機能は従来からあったが、インテルによるディープ・パワー・ダウン・テクノロジやASUSTeK ComputerによるExpress Gateなど、新方式が開発された。

SSD(Flash Solid State Drive)

SSDは、フラッシュメモリを発展させた記憶媒体で、HDD(磁気ディスク)と比較して、機械部分がないため、小型化、省電力化、高性能化が重要ノートパソコンに適している。しかし高価格である2004年から注目されるようになり、2000年代後半には高級機に採用されるようになった。

ノートパソコンの製造には、小型化や低電力化などの高度なな技術が求められので、日本企業に適した分野であった。ところが、低価格競争が進むのに伴い、台湾中国などで生産するようになった。それが、2000年前後から、現地企業技術向上により、現地企業生産だけでなく設計委託するようになり、独自のパソコン事業から撤退するようにもなってきた。そのため、日本国内生産している製品は、特に高度技術要求される小型の高機能パソコンに絞られるようになってきた。

2000年代後半:ノートパソコン多様化

2000年後半には、ノートパソコン多様化した。ディスプレイサイズ区分すると、次のようになる。

ディスプレイサイズ(インチ) 解像度 特徴

7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17

───┬─── ─┬─── ──┬──

│ ──┬──│──┬── │

│ │ │ │ ハイエンド 1920x1200 モバイル意図せず高機能

│ │ │ A4ノート 1680x1050 最も広く利用

│ │ B5ノート(コンパクト) 1280x 800 モバイル用の標準

│ サブノート 1280x 800 軽量を重視したモバイル

ミニノート パソコン全般機能ではなく、Web利用などに特化

ウルトラモバイル(タブレットパソコン) 1024x 600 操作性を重視

ネットブック 1024x 600 初期は安価目的

シンクライアント、セキュアクライアント

シンクライアント(Thin client)とは、処理機能サーバに集中させ、パソコンには必要最小限の機能しかもたせないパソコンのことである1996年当時は、モバイルパソコンの軽量化、低廉化を狙ったのであるが、あまり普及しなかった。

1996年 オラクルシンクライアント概念提唱。そのコンセプトモデルNC (Network Computer)を紹介。「500ドルパソコン」とも呼ばれた。

1997年 サン・マイクロシステムズ、コンセプトモデルJava Stationを発表

1997年 マイクロソフトWindows CEベースとした「Windows Based Terminal(WBT)」を発表

それが2005年から外部記憶装置接続ができないこと、パソコン情報が残らないことが、セキュリティ観点から重視され、パソコンメーカーシンクライアントを発表、多くの企業採用検討するようになった。

2005年 日本経済新聞日立製作所パソコン利用を全廃する」の記事。これが広く一般の関心を呼ぶ。

参照:日立「「日立パソコン利用全廃」記事に関しまして」

2005年 富士通 FMVシンクライアントTC8200等出荷

2005年 NEC MateシンクライアントVersaProシンクライアント 出荷

ネットブック

ネットブックとは、インターネット利用に特化した小型軽量なノートパソコンである2005年頃、発展途上国教育分野にインターネット活用が重視され、「100ドルパソコン」として生産支援団体等を通して提供する計画が進んだ。

ところが、安価で使いやすいことが注目され、先進国でもセカンマシンとしての重要が高まり2008年から、その用途目的とした機種も出るようになった。

2008年 ASUS(台湾) Eee PC:本来目的用の例

・CPU,本体:Ultra-Mobile PC(タブレットPC)携帯端末用のPC、パソコン用と比較して安価

記憶装置:HDDなどはなく、システム基板上にフラッシュメモリを直接搭載

ハードウェア構成:通常のPC/AT互換アーキテクチャ採用して、パソコンとの互換性あり

iPadの出現

タブレットパソコンとは、タッチパネルディスプレイを搭載し、指や専用ペンで画面操作できる携帯用パソコンのこと。2002にマイクロソフトタブレットPCを発表したが、あまり普及しなかった。2009年に発売されたWindows 7が「Windows タッチ」というタッチ操作系統を標準搭載したため、タッチパネルディスプレイを備えたパソコンが各社から発売されるようになった。

2010年アップルiPadを発売した。電子書籍閲覧で代表される多様なアプリケーションが評判になり、爆発的な売れ行きを示した。ここでのマルチタッチ操作方法は、一般のパソコンにも大きな影響を与えている。

2013-12-24

Dvorak配列について語ってみる

はてなダイアリー初めてにして匿名日記からスタートしてみる。

えっと…はてな記法……わからぬ(´・ω・`)

拙者がdvorak配列を練習し始めたのは、たしか2007年春だったと思う。

その頃からパソコンが大好きで色々とテキスト書いたりしてた。

いわゆる一つのラノベへの憧れ的な。

大学二年で、パソコンを扱う理系学科にいたこともあり、

これから人生の中でいっぱいの文字をタイピングするんだろな、という心配があった。

人とは違うものへの憧れと、タイピング速度が速くなるというのと、

何より腱鞘炎になりにくいというらしいので、dvorak配列を覚えよう、ということにした。

時間のある学生からこそできた決断だと思う。

最初の練習は、ホームポジションキーを覚えることだった。

どっかのサイトdvorak配列ホームポジション練習があって、

aaaauuuueeeeoooo hhhhnnnnttttssss

と言った具合に、さいしょはホームポジションキーを打ちつつ、頭の中で唱えてた。

えーえーえーえー と唱えながら aaaa と打っていた。

ゆーゆゆーゆーおーおーおーおーえいちえいちえいちえいちえいち……

つまんなかったけれど、少しずつ続けた。一日五分位かな。

ホームポジション以外のキーも覚えてきて、じゃぁかな文字を書こう、ということになった。

これが大変だった。

子供が文字を覚える時は、文字を書くことが目的ではなく、

文字を真似てみたり、文字を親に伝えたかったりするのが目的だと思う。

それと同じで、キーボード配列を覚える時は、かな文字を打つことが目的ではなく、

掲示板に書き込みたいとか、ブログを書きたいとかい目的で覚えるのだと思う。

拙者は既にqwerty配列を使ってある程度のブラインドタッチが出来ていた。

その状態でdvorak配列を使って掲示板にかな文字を書こうとすると、大変に苦痛なのである

というか、途中からdvorak配列などどうでも良くなり、qwerty配列で書いてしまうのだ。

こうして、しばらくはdvorak配列でかな文字を書く練習ができなかった。

それでも単一のキーブラインドで打てるような練習は少しずつ続けていた。

次第にアルファベットならdvorak配列の方が得意になってきて、

学校自分LINUXdvorak配列にしてぷろぐらみんぐするようになった。

(というか、ローマ字入力qwerty配列を覚えた拙者にとって、

qwerty配列アルファベット入力するのはむずかしかった)

dvorak配列ローマ字入力の良い練習方がないかと探し続けていると、

docomoが販売していた、シグマリオンというキーボード端末を発見した。

調べてみると、シグマリオンOSであるWindows CEには、キーボード配列dvorakに変えるアプリがあるという。

早速試してみると、ちゃんと使えたではないか

(もう作者がダウンロード停止してて、現在は使えないかも)

拙者はちょうど電車通学であった。

ゆえに、電車の中は暇で、小説を読むか寝るかの二択であった。

この時間ローマ字入力の練習の時間にしようと思った。

一日に五分ほど、頭に浮かんでくる言葉電車内で入力した。

頭のシナプスが繋がっていないので、指先がこんがらがる感じだった。

しかし、電車の中は睡魔を除き、かなり集中してタイピングできる環境だった。

やがて月日が経ち、拙者はdvorak配列マスターできた。

大体、九ヶ月くらいは練習だった。

半年を過ぎるとqwerty配列と同等になったため、それは練習じゃなくなった。

dvorak配列マスターした者として言えるのは、

確かに指が疲れないという点だ。←ありきたり過ぎて死ぬ

この日記iPadqwerty配列で書いているが、なぜここまで片手が連続打鍵するのか問い詰めたいくらいだ。

上に行ったりしたに行ったり……qwerty配列はいいことがないぜ。

これからdvorak配列を覚えたいという人へ、一つ忠告をしておく。

dvorak配列マスターしても、ハードウェアキーボードは見つからないし、

自分パソコンを他人にいじってもらう時に相手が困るし、

iPadを買ってもdvorak配列を使えない。(設定項目はあるのにな…)

それでも拙者がdvorak配列を使い続けるのは、

単純にqwertyに戻るのが億劫なだけだ。

人間、一度覚えたものを変えるのには大変な労力が必要だ。

拙者は一度dvorakの村へ辿り着けた。

しかし、社会人になって毎日疲れて帰るようになると、

qwertyの村へ帰ってゆくだけの体力がない。

偉そうにdvorak配列マスターしました、と書いたが、所詮はそんなところ。

qwerty配列しか使えない人と殆ど同じさ。

あ、かな入力できる人は尊敬します。

2013-02-23

ぼくのかんがえたPS4分析 - SONY製造業としての業から解き放たれたPS4

http://anond.hatelabo.jp/20130223090512

に触発されて俺なりのPS4分析をしてみた。

ハードウエア製造業の夢より、ソフトウエアクリエイタの夢 - ハードからソフトへと言う現実

一言で言うと↑これがPS4だと思う。

三行でまとめると

PSのビジネスモデルを振り返ってみるのだが、この切り口から行くとPSはSONY半導体戦略、そしてSONY製造業と言う性質とと切っても切れない関係がある。

利用上の注意

なおすべて妄想となっておりますので、これを真に受けて被った損害などについては一切責任を取れません。皆様におかれましてはその旨ご了解のうえご覧いただけますよう、よろしくお願いいたします。ご協力頂けない場合につきましては、いい歳こいたアラフォーの髭ヅラ男が涙目になると言う非常にウザイ状況が発生することとなり、誰も得をしません。ご理解とご協力をお願いいたします。

PSの歴史SONY戦略について

初代PSとそれがもたらしたもの

SONYゲーム機を一緒につくろうと言って任天堂に近づいたものの交渉が決裂してできあがったのがPSであったわけだがこれが大ヒット。

さらにPSでは、内部で使われている半導体を自社設計・自社かそれに近いFabで作る事によって

など副次的な効果もあり、さらに「SONYの旗艦」といったイメージを作り上げることができた。この他に、CD-ROMを手がける部門や、SONYのCDプレス工場部門等々、PS景気により、直接的なPSによって生み出される効果以外に、PSという揺るぎない需要存在する事で、設備投資などに積極的になれたといった効果がうまれた。

PS2では完璧芸術品であったDreamcastを殺すほど大成功

初代は始めどこまで意図されいたかは不明だが2台目ではそれらの経験が生かされる事となりより強化された。まず一番は半導体工場で有り、旺盛なその需要と、それによって得られた利益投資に回し新プロセスを開発、シュリンクすることによって最終的な黒字を目指すことで赤字で販売をスタートすることとなる。

ゲームハード赤字でも、ソフトが売れれば黒字。こんなの当たり前だろ、と言う話であるが、総合情報機器メーカであるSONYでは少し事情が異なる。これは、ソフトウエアライセンス事業による利益によって、間接的に半導体生産設備投資を補填すると言う形を意味する。もちろんそれ以外にもSONYの製造部門にもPS2赤字でも販売すると言う行為によってもたらされる間接的な利益が流れた。

ご存じの通り、PSは我が愛する芸術品たる至高のゲーム機Dreamcastを完膚なきまで叩きのめし世界最高の企業セガプラットフォームから引きずり卸しパチンコ屋に買われる所まで追い込む等大成功をとげた。そしてゲーム機生産により、SONY製造業部門を引っ張っていくという当初の見込みは大成功した。

それをさらに強化したのがPS3、そしてCellであった。

PS3Cell BE が見た夢

PS3時代になると、パソコンの旺盛な需要の元、急速に進化した集積回路は、プロセッサの新規開発コストさら半導体プロセス開発に必要な資金が膨大に膨らむという現実に、様々な企業が立ち向かうよう時代が来ていた。世界の巨人たるIntelと、それ以外という構図が生まれ、世界中でFabの統廃合が進んでいた。

その中で目をつけられたのがゲーム機という存在であるパソコンに対抗できるほどの膨大な需要を生むゲーム機は、薄利という性質を持ちながらも数が出るため、生産設備を拡大しやすプロセス開発の資金を捻出する事に有利であった。さらSONYは、ゲームハードウエアが、当時のパソコンなどに比べて圧倒的に高い性能を持っていなければ存在価値が無い、と言う観念を持っていた。これはかつて任天堂がもっていた思想であった。

さらIBMなどの思惑とも一致、開発がされたのがCell B.E.であり、この存在PS3を生んだ。そう、ここまで来てSONYは、半導体のためにゲーム機デザインしたのである

もちろんこの説にはいろいろな異論はある。しかし俺は順序としては、ソニーグループ全体の長期的な戦略にPSが生む半導体工場の増設という戦略が大規模に組み込まれていたのは間違いないのでは無いかとみている。そこで完成したマシンは、化け物であった。現在まで続く潮流であるGPGPU的な動作もこなCell B.Eがもたらす高性能と、高い拡張性を備え、既にゲーム機では無いとまで言わしめるものができた。この性能は当時の最新鋭コンピュータを大幅に上回るものであった。

しかし……。GPGPU概念は早すぎた。性能を引き出すことが、当人であるSONYでも難しかったのである。そしてこれはミドルウエアや開発ツールの乏しさにも繋がる。そのためスタートアップに失敗した。この失敗は、PSがゲーム機として優れていなかった、あるいは、他者装置に負けた、と言う意味で失敗では無い。製造業としてのSONYが、自社の思惑通りに事を運べなかったと言う事での失敗である

ハードウエアの夢、ソフトウエアの夢

結果SONYは、PS3需要を当て込んだ生産設備リストラ・売却するなどの対処をを迫られる。さら韓国勢などの追い上げ、AV市場の急速な変化、SONY本体の体力の低下、パソコン高速化などにも影響を受けることになる。

PS3のものは、OSの改良、ミドルウエアや開発ツールの向上などにゆっくりではあるが立ち上がってきたが、製造業としてのSONYPS3に期待した効果は得られず、ハードウエア屋、製造業がみた夢はここに破れた。

さら時代は動き、集積回路は、Intelプロセスで1世代以上先を行き、それ以外はすべて後から追うという構図が完全に定着してしまった。SONYも、SONY半導体と言えば、集積回路ではなく画像素子、と言う時代が来て久しい。世界中半導体製造業者の統廃合は進み、国内半導体産業は衰退した。新プロセス開発の難易度や、集積回路の大規模化から来る開発コストの上昇はいかんともしがたくなっていた。

ゲーム必要とするスペックはもはや飽和している。少しでもリアルに、少しでも高性能にと言う方面はすでにマニアのものだけになってしまい、それら需要だけで、そのとき販売されているパソコンを上回る高性能チップを開発、載せるコストを満たすことはできなくなっていた。具体的に言えば、ウルトラハイスペックの、GeForece GTX SLIクラスにも勝ちうるGPUを、専用設計オーバーヘッドを極力少なくすることができるとはいえ新規設計することが難しくなっていたのであるさらにはゲーム機業界ではスペック競争を離れた任天堂Wii、あるいはDSを生み出し、ケータイ、そしてスマフォとと言う存在カジュアルゲーム市場をかっさらうようになった。特に日本では据え置きゲーム機リビングルームに置かれ、パーソナルな空間に置いてゲーム機携帯ゲーム機になったのである

そして決定的だったのが、ゲームエンジンの躍進と越境であろう。従来はゲームエンジン製作環境ゲーム会社門外不出のものであった。しかしそれらが会社を通じて流通し始め、さらには専門業者も現れるようになったのである

家庭用ゲーム機と言えば、ゲーム機の性能を引き出すためにソフトごとにアセンブラ最適化チューニングを施す。それを行っても常に動作が一定になることがメリットとして、パソコンに比べてゲームは常に一定の動作をすることが担保できるためにゲーム製作に専念することができた。しかし、パソコンは十分に高性能になった。家庭用ゲーム機も十分に高性能になった。その結果、チューニングを行わなくてもそこそこの画面が作れるようになってきたのである。そこで余った能力ゲームエンジンオーバーヘッドを許容するようになり、ゲームエンジンの躍進に繋がった。さらゲームエンジンプラットフォーム間の差異すら吸収し始めた。あるゲームエンジン採用すれば、あまり手間をかけること無く、パソコン版、PS版、XBOX版、Wii版と複数プラットフォームで出せるようになったのである。これは、ゲームエンジンが新たなるゲーミングプラットフォームとして君臨する可能性を示唆していた。

しかし、チューニングなどといった、ユーザとは直接関係の無い部分に手間をかける必要が無く、作ったゲームがどこでも動く。これはクリエイタとしては非常にありがたい事なのでは無いか

ビジネス書に出てくる例えがある。ユーザねじ回しが欲しいのでは無い。ねじを回したいのである。同じように、客はゲームがしたい、もっといえば楽しいことがしたいのであって、別にゲーム機が欲しいわけでは無いのであるクリエイタはゲームを作りたいのであって、ゲームハードウエアを使いたいわけでは無いのである。ここに合致したのがクロスプラットフォームゲームエンジンであり、そしてこれらはクリエイタに作りやす環境提供し始めた。さらゲームエンジンは新たに現れたライバルであるタブレット/スマートフォンにも対応している。

しかゲームエンジンの躍進は、プラットフォームビジネス崩壊意味したし、PS3は性能を引き出すには高いレベルの専門的チューニング必要であった。しかゲームエンジンはそこにコストを払う事を選択せず、PS3は高い性能を持ちながらも、それ以外のあまり高性能ではないプラットフォームとほぼ同等、せいぜい高解像度テクスチャーに入れ替えられた程度のゲームしか提供されない、と言った事が発生するようになっていた。

ソフトウエアの夢が花開くのがPS4,PSVita

そしてPS4が出た。

PS4は有り体に言って、x86-64アーキテクチャコンピュータに、OpenGL/CL対応GPUを搭載した、本質的にはそこらのパソコンと変わらない構成である

さらに言えば、最新のCorei7+GeForce GTX…と行かなくとも、そこらのパソコンに較べ、性能は高くない。しかし、根本的にゲーム専用機が持つ、汎用パソコンには無い特徴

を備えている。さらには、GPUを扱いにくくする要因の一つとして上げられる、GPUCPUメモリ転送をほぼ考えなくて良いと言う仕様を打ち出してきた。これはCellCPUプログラミングが分断され、非常に開発を困難にしていたPS3反省ダイレクトに生かしてきたと考えられる。これはAMDが出していたコンセプトだ、と話題に上がるが、あくまでもパソコンの話であって、ゲーム機の分野では少なくとも、PS2プログラミングが困難な部分を、高速なバスで繋ぐことで隠蔽するよな仕様であったように記憶している。

さらx86-64アーキテクチャにしたことで、ゲームエンジンがPC向けエンジンの次に、素早くPSにも対応できる素地を整えた。Power向けに施す必要のあるチューニング不要にしたのである。従来はパソコンで開発されたクロスプラットフォームゲームは、パソコン向けと、家庭用ゲーム機向けの2種類作られた。そして家庭用ゲーム機向けは往々にして、ターゲットとなるハードウエアの中で一番性能の低いところに合わせたデータで作られた。平たく言えばPS3の方がXBOX360よりもはるか映像表現は優れているのに(※ただし使いこなせれば) XBOX360との差異はテクスチャムービー解像度程度の違いだけになってしまう事を意味していた。しかx86-64にしたことで、家庭用ゲーム機向けに統一してダウングレードされたデータからPS版を生成させるのではなく、パソコン向けのデータから生成させた方が早いと言う状況を作り出し、他の家庭用ゲーム機にくらべてアドバンテージを得ようとしているのでは無いだろうか。これはPS VitaARM採用したことも同じ事である

さらに、SONYは、PSVitaから進めてきた戦略として、自社による強力にプラットフォーム感の差異を吸収するミドルウエア群…これはゲームエンジンと読んでも良いのかも知れないが…を提供してくるだろう。x86ならば従来の資産を生かすこともできるし、世の中に出ているコンピュータ向けのライブラリも利用できる。急速に開発しやす環境を立ち上げているのではないだろうか。これはゲームエンジンにより脅かされる、プラットフォームビジネスへの対抗措置でもあるだろう。

これにより「雑事に捕らわれること無く、ゲームの楽しさ・表現のものに専念する」と言うクリエイタの夢を叶えるハードウエア、それがPS4であろうと思う。

平たく行ってしまうと、自社の半導体商売が死んだことにより、その死絡みから解き放たれたPSは、クリエイタ主導でゲームを作ると言う根本に立ち返って作ったのがPS4だ、と言う話である

しかしこれだとハードウエア製造業の夢はどうなってしまうのだろうか?そしてユーザ別にクリエイタの夢などはどうでもいい。下手をすると高性能なハードウエアを所有していると言う欲を満たせなくなる分だけこちらの方がまずいかも知れない。それをどうカバーするのか?と言う話になる。

「夢」PS4

ハードウエア/製造業の夢はどうなるのか

SONYは、次世代戦略として明らかにソフトウエア重視に舵を切っている。SONYは今、収支から見ると製造業では無く金融業であるが、その次に利益を生み出しているのは音楽映像ソフト部門とゲーム部門である

まずはここを潰してしまっては会社として立ち行かなくなる。それはまずい。ではどうするかというと、従来の「製造業としてのSONYを強くするために、PSの需要を利用する」のではなく「コンテンツ・製造複合体としてのSONYの核にPSを据え、関連商品を生み出す形で恩恵を得る」と言う形に舵を切ってくることになる。PS3でも一部行われているが、たとえばPSのリモートプレイを可能にするパソコンタブレット、PSを再生装置としてコンテンツ供給できるメディアサーバといった具合である

しかしこれらに対応させるために大切なPS本体の魅力を失わせては困ると言う事は強く意識されなければならないし、意識されていくだろうと思う。

ユーザの夢はどうなるのか

ユーザの夢は、将来的には作りやすゲームプラットフォームが生み出す新しいコンテンツという形で満たされることになるだろうが、直近では、ソーシャルへの展開という形で示されていると思う。将来的にはいかにコンテンツを集められるかと言う事にかかっている。が、ぶっちゃけていうとユーザから見たら、これほど夢の無い話は無いと言わざるをえない。

今回発表されたタイトルデモなどは実際にはチャンピオンで有り、実際にプレイして得られるのはPS3とそれほど感覚的に、革新的に良くなったと感じる部分は薄いと思う。この点で、PS4は、PS3と実働コンテンツはそれほど変わらないと思っている。マイナーバージョンアップ程度。パソコンWindows XPで評価が固まったようなものである。これはおそらく次に発表される新型Xboxでも同じだ。任天堂は少し別格の応えを出したが苦戦している。

結論 またしてもセガは早すぎた

かつてセガが出した芸術品とも言える至高のゲーム機DreamcastOSWindows CEを搭載した。プロセッサこそ独自であったがそれは当時のWIndows CEではあたりまえであり、むしろそこにWindowsと言う汎用のソフトウエアを利用したことで非常にゲームが開発しやすく、PCゲーム移植やす環境を作り上げた。それらはアーケードのnaomiプラットフォームや、ワンチップで埋め込まれたパチンコなどで今でも生き続ける。

任天堂WiiUコントローラに画面をつけDreamcastに追いついたように、SONYは、PS4で作りやすゲーム機という点で追いついたと言える。

またしてもセガは早すぎた。時代セガに追いついていなかったのであるDreamcastはその名の通り「夢を投げる」存在であったのだ。

 
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