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2023-09-29

5ヶ月で5キロ落としたときの話

備忘録的な。

自分的にはこれさえやれば痩せるということが分かったので良い指標になった。

なおその後4ヶ月かけて7キロ増えました。クソ。

個人マイルールなので正確でない部分もあります

用意するもの

Apple Watch (あった方が格段にやりやすい)

あすけん (食事記録アプリ)

Waterllama (水分摂取記録アプリ)

運動

運動

スペック

158cm 56kg 女 デスクワーク 週1のジム1時間

ジム筋トレがメイン

基礎代謝は安静時消費エネルギー(後述)から逆算して1200kcal弱

やること
Apple Watchで安静時消費エネルギーを記録する

安静時消費エネルギーは静かに座っている時の消費エネルギー量なのに対し、基礎代謝は横になっている時の承知エネルギー

基礎代謝×1.1〜1.2(諸説あり)=安静時消費エネルギー

あすけんで食べているものを記録する

記録して、基礎代謝+200kcal程度になるように食事を調整する。決して基礎代謝を下回らないこと。

食事量が、朝:昼:夜=4:5:1になるようにする。

でも本当は毎食の割合はあまり関係ないので、飲み会がある日は前後食事で調整する。

筋肉のために米はなるべく食べた方がいい(後述)。

脂質は減らす。

タンパク質は思っている倍量食べないと足りないと思おう。

タンパク質を摂りながら筋トレする

体重の2倍gのタンパク質毎日摂取するべきである

筋トレは週1回1時間マスト

筋肉がつくと基礎代謝があがり、黙ってても痩せるようになる。

走ったりしたが効果はあまりなかった。むしろ筋肉が消えるから途中からやめた。

からグリコーゲンとなって筋肉が動くエネルギーになるので米は必須

でも夜は食べない。

定期的に基礎代謝計算し直して、摂取エネルギーを変える

以上だ!

ちなみに筋トレ筋肉つけまくり、現在安静時消費エネルギーは1600kcalの大台に乗っている。

太ったというのもあるが…

東京から地方に移ってから日々の運動量が激減して肥えてしまった

これ見て我が身を振り返った。


バス電車でまともに立ってられない

https://anond.hatelabo.jp/20230927191323

運動する習慣もない。170cm/58kg。階段上り下りどころか普通にしばらく(30分以上)歩くのもしんどい


この増田田舎暮らしかどうかしらないけど、地方で移動手段が車だと、自発的運動しようと思わないとマジで運動量が不足する。


元々ジム通いや筋トレをする習慣はなかったけど、東京で働いていたときはなんだかんだで歩いていたんだと今になって思う。

東京では移動が基本徒歩と電車の組み合わせだから、立っているか歩いているかしていた。

たとえば通勤時は、賃貸マンション地下鉄駅まで10分弱歩く→駅構内で5分ほど歩く→JRを経て改札を出て職場まで徒歩10分弱で片道30分弱は歩いていた。電車ほとんど座れないから基本立ちっぱなしだったし。


でも地方で移動手段が車だと、通勤時はこう

家を出て車に乗るまで数メートル→車で職場に→駐車場からオフィスまで徒歩数十秒


インドア派ゆえに休日スーパーに行く程度でレジャーに出かけることもないので、マジのガチ運動量が不足している。

結果、地方に越して来てから8kgも太ってしまった。


ヤバいのは分かっているが、元々運動する習慣が無い人間から生活習慣に運動を+αするのは精神的にかなりしんどい

東京にいた頃は移動=軽い運動だったから無理なくできていた。

いまの家(独身寮)から職場までは20km弱あるので徒歩は無理。自転車もきつい距離だ。


車社会地方で体型キープできてる人って影でめちゃめちゃ努力してるんじゃないかって尊敬してしまう。

anond:20230927191323

運動する習慣もない。階段上り下りどころか普通にしばらく(30分以上)歩くのもしんどい

 ← これ、マジでやばいから運動しないのが当たり前と思うなよ。早死するぞ。マジで

2023-09-28

真面目な話

日本人食生活がマシになりゃ日本人はわりと元気になると思うんだよな

美味いもんはあるけどタンパク質野菜少ないんだよ

それこそ金ばら撒くよりお買い物券ばら撒いてまともな食事させりゃマシになると思う

筋トレ運動もさせてほしい

男の人はどうして気が付かないの?


恋愛的な意味になる。男性を見ていて、本当に鈍いと思うことがある。人生でそう何度もあるわけじゃない機会だ。ここで愚痴らせてほしい。女の子不憫すぎる。どうして男の人は気が付かないの?と思ったことがそれくらいある。

若い年齢ではないから、リアルな感じは伝わらないし、違和感もあるかもしれないけど、ちょっと聞いてほしい。

これまでに何十回とそういうのを見てきたけど、年代別に3人だけ語りたい。それぞれ、高校生の時とか、大学生の時とか、社会人の時とかいろいろある。

小町とかで書いた経験もない。文章は不足してると思う。読みにくかったらごめんなさい。



一つめは、高校部活での出来事になる。文化系部活に入っていて、社会福祉活動をしてた。今の言葉でいうと、ヒューマンライツ部みたいな名前だった。

ハンセン病とか、人権があやぶまれている人達のために募金活動をしたり、東日本大震災被害者のためにカンパお金を集めたり、署名活動をしたり、あとは非核運動にも参加していた。集めた募金の方は、政党や団体に寄付していた。

書いてるうちに懐かしくなってきた。自慢にはなるけど、実績のある部活動だった。広島県庁からも、文部科学省からインタビュー依頼があったり、賞をもらった。

忙しい時はとにかく多忙だったけど、普段はそこまでやることもなかった。そんな日は、狭い部室棟の一室で、みんなで雑談して盛り上がっていた。その部室で、ある時、当時は高3だった私と、同じく高3の女の子と、高2の男の子がいた。3人だけだった。

私は人権学習資料を読んでいて、あとの2人は楽しげにトークをしていた。ちょっとうるさくて、注意しようか迷ったけど、そういう雰囲気の2人なんだなと思ってやめた。

気がついたら6時半になっていて、もう帰ろうかと思ってたら、高3ちゃんが高2君に話をはじめた。

「ねえ。なべは帰りは自転車だっけ」

はい。坂降りたとこの駐輪場チャリ置いてます

「うちは電車なんだけど、じゃあ途中まで一緒だね」

「途中……あぁ、あの坂が途中で別れますよね」

「なあ、今日いっしょに帰らん? 駅まで。暗いし」

「途中までなら」

「駅まで帰らん?送ってくれん?怖い」

「うーん」

イライラしていた。高2君に。男はここまで愚かなんだろうかって、この時絶対にそう思っていた。高3ちゃんは黙ってたけど、一声を振り絞ったのを覚えてる。

「ねえ。なべー、今日一緒にかえろ?」

「すいません。帰れないです。今日は家まで急ぎなので」

さっきまで、あんなに楽しい調子で話してたのに。なんだったんだろう。だったら、さっさとあなた1人で帰ればいいのに。どうして、ここまできて駅まで送ってあげないの?

どうして、男の人はこんなことをするんだろう。たとえ乗り気じゃなくても、一緒に帰るのがマナーだと思う。高3ちゃんは、性格のいい子だった。外見だって。私から見てもブサイクじゃない。

なんで、高2君はあの時、誘いを断ったんだろう。一般的男子だったら、一緒に帰るものだと思う。

彼のような男性が減ってほしいと願う。高3ちゃん勇気無駄になってしまった。ひどすぎる。



二つめになる。

大学生の時だった。教職課程を取っていた私は、ある難しいグループ講義に参加していた。教育方法学だったと思う。6人でチームを作って、先生が出した課題に沿ってグループ内で討論をして、レポート半年間で4回作って提出する。2・3年生が中心の講義だった。

私が通っていた大学では教職課程最難関と言われていて、まじめに受けても3人中2人しか単位がもらえないという話だった(しかほとんどの人が「可」の評価)。当然必修科目だ。

私が入った講義グループ(チーム)は、3年生が1人、2年生が5人で偏りがあった。講義の初回はオリエンテーションで難しくなかったけど、2回目からは本格的な教育学の討論が入って(エリクソンの発達課題?)、みんな自分意見が出せずに苦戦してた。しかも、2週間後には関連付けたレポートを出さないといけない。

私もぜんぜんわからなかったけど、話の種はなんとか出てきて、ノート記述を書き留めていって……でも、次の回になると課題もっと難しくなった。上の課題が、別の経済問題(非正規雇用とかの多様な働き方)と関連付いていた。

ほかのみんなも黙り込んでしまってどうしよう、となったところで3年生の男の人が口火をきった。なんて言ったかは詳しく覚えてないけど、「先生意図は、どうやったら主体的な学びができる子を増やせるかだと思う〜」という内容からはじまって、経済問題につなげていって、話を終える頃にはグループ全員が小レポートを作れるくらいの論がたまっていた。

講義終了後に、担当講師の人が用意したチーム単位登録制SNSがあったんだけど、そこでも自分の論考をオープンにしていて、みんなその人の意見を参考にしていた。

第1回のレポートを終える頃には、チームのある女の子(大2ちゃん)が、その3年生(大3君)にひたむきな視線を送っていた。

講義中に話をする機会があったら、大2ちゃんはまっすぐに大3君の目をみていた。座っている同士だと、講義机の上に両手をちょこんと載せて、口を結んで彼を見ていた。お互いに立っている時だと、背筋をのばして大3君を見上げるみたいにして、できるだけ近くに寄ろうとしてる。

そういう姿を見るのが楽しみだった。大3君は、見た目はぼやっとしているけど、頭の回転が早くて、堂々としてた。私自身も、いい人だな、ご飯に誘われたらどうしようと思ってた。

第2回、第3回のレポートも提出が終わって、いよいよ最後レポートを出す直前の講義だった。

その講義責任者だった教育学部の教授から言われたのは、「最後レポートを出す前に、お互いを評価あいましょう」というものだった。5点満点で、メンバーがそれぞれ評価を出し合って、平均点が最終レポートに加算されるみたいだ。

その時、6人のメンバーは長机×2にそれぞれ座っていて、その5点満点の評価シートを眺めていた。緊張感があったと思う。人生初めての経験だった。

そしたら、大3君が言い出した。「これは、お互いに満点をつけるために存在しているとしか思えないから、みんなそうしよう」って。

みんなうんうん、と頷いていた。かくして、私たちはお互いに5点を投じ合った。大2ちゃんは、彼のそんな様子をあこがれの視線で観ていた。もう、第三者にもわかるような、それくらいわかりやすかった。

でも結局、彼女の想いは報われなかった。最終レポートを出し終えて、「最後飲み会をしよう」となった時だった。福岡市内にある落ち着いた雰囲気居酒屋で、みんなで六人だけの飲み会を楽しんだのだけど、わたし達は一緒に見計らって、大3君と大2ちゃんをくっつけようという話になった。

席を隣にしたり、一緒に話す機会を作ったり、ふたりがいっしょになるように計らっていた。でも…大3君は、そんな彼女スルーしてた。仲良くする気配もなくて、ただ「そうだね」みたいに呟いてた。

その後、最後のチャンスということで、大2ちゃんが彼をご飯に誘ってみて、一緒にデートしたみたいだった。けど、大3君から特にアプローチはなく。

告白しようか、と思ったみたいだけど、傷つくのが嫌だからやめた方がいいかなって彼女は言ってた。私もそうした方がいいと思って「待った方がいいよ」と、一通り話を聞いた後で助言した。

私が許せなかったのは、その次の年の別講義で私と大3君が同じ班になった時、一緒にご飯に行く機会があったんだけど、彼はその時「実は、大2ちゃんのことが気になってた」と意味不明なことを言ってた。

こいつ最低だと思った。自分の想いも告げないのに、勝手にフラれた気になって、自分からは動かないのに。どうして、男性はここまで自分勝手なんだろう。

2ちゃんが気になってるなら、彼からご飯に誘って、彼からそれとない会話をして、彼から告白して、とにかく想いを告げるのは男性役割だ。



もう過ぎたことだけど、今でもそういう煮え切らない態度の男性を見ると、正直腹が立つことがある。

三つめになるけど、今の職場でいうと、私と同じ齢の30手前くらいの男性がいて、彼は多分、私の同僚の好意に気づいているのに、なにもしようとしない。私はすぐ近くの席で見てたから知ってる。

の子は、彼と目が合いそうになったらすぐに逸らしたり、廊下ですれ違う時に端っこに寄ったり、彼と話をする時にまっすぐ背を伸ばして彼の顔を見詰めたり、話をしている時は声が極端に高かったり、低かったり…そういうわかりやすい態度で示してるのに、その男性は知らん顔をしている。

結婚してる人じゃないよ。念のため。

その男性も、会社飲み会二次会では「あの子が気になるかも」ってトークをしてた。お酒の席だから冗談かもしれないけど、私からすると彼も彼女のことが気になってる。



男性って、どういう気持ちでそんなことをするんだろう。女の子からアプローチがあって、しか自分がその子を気になってるのに…どうしてそんな行動が取れるんだろう。

私にとっては、男性のそういうところが理解できない。悲しい話ばかりになったけど、我慢できなかった。今回は、自分気持ちを正直に言ってみたつもりだ。厳しい意見覚悟してる。一増田意見として読んでほしい。

anond:20230928151401

こいつガンジー非暴力運動とか言って絶賛しちゃうような手合いのバケモンなんだろうな

ネトウヨ冷笑家、レイシスト

何故アニメアイコンだらけなのだろう?

と考えたが、結局のところ彼らの冷笑の根源は社会不安なのだ

社会不安から逃してくれる中身のないアニメけが拠り所なんだ!と主張してるのだ。

かに構ってもらうまで、アニメアイコンのまま、インボイス反対の人に冷笑的なリプライを送ったり、声優セクハラリプライしたり、アニメの女をエロしろとか騒いだり、どうせ見る予定もないリトルマーメイドロードオブザリング文句つけたり

かに構ってもらうまであーやって駄々をこねる予定なのだ

幼い顔立ちのキャラはそのまま幼児的な庇護欲を掻き立てる、つまり関心を抱かせる記号である

そういう記号のお面で、構って構って〜なんてやってるんだ

社会が寛容であれば彼らも生きやすいのに、そうした運動には参加しない。

とにかく構ってほしいのだ

でも誰かが描いた可愛いキャラクターをアイコンにして盾にするのはよせ

本当に腹が立つ

anond:20230928122031

草津町長の記者会見

https://www.jijitsu.net/entry/Kuroiwa-Kusatsu-kakiokoshi-kaiken

上野千鶴子さんという東京大学名誉教授の方が投稿してるんですが、読んでみますけれども「極めつけは草津町新井議員町長セクハラ公表したこと与党議員が立ち上がり、リコール運動実施新井祥子議員は失職した。やるべきことが間違っているであろう。最初第三者を交えた調査委員会を立ち上げ、事実の究明を行い、事実なら加害者処分することだ、それなのに被害者議会から追い出すとは本末転倒だ」。

それと、全国フェミ議連連盟の方から、(中略)「裁判の日程は未定、警察捜査も終わっていない中、客観的認定の無いまま、12月6日住民投票実施され、解職賛成が2542、反対208票で新井議員は失職しました。町議会議長らが呼びかけ人となって動いたこ住民投票では、地方自治が想定した住民投票趣旨から逸脱していると考えます」と、こういう内容であります

どちらも「調査もせずにリコールしたこと」が焦点ですよね。

2023-09-27

みんなどうやってトレンドについていってんだよ・・・

一般人みたいに流行J-POPK-POPも知らないしテレビも見ない

ファッション流行なんてまったく分からんし街中でどんな店が今人気なのかも知らない

そこにリソースをつぎ込むべき分をオタク系のあれこれに注いで生きてきたわけだけど、

まりにも追いたいものが多すぎてどれこれも中途半端になっている現状が辛すぎる

仕事をしつつ、家事をしつつ、筋トレなど運動をしつつ、必要勉強時間も確保しつつ、

政治経済ニュースチェック、国際情報チェック、技術系の情報等をチェック、ついでにはてな

ゲームアニメ、V配信マンガラノベを消化、偏るのも問題から一般文芸ノンフィクションも読んで、

実写映画も見て、諸々の動画も見て、オーディオブックポッドキャストでも聴く

5chとXとTiktokをメインになるべくトレンドを追いながら、翌日の仕事に支障が出ない程度には適度に睡眠も取る

これだけやっても、ていうか絞ってないからなんだろうが、どうしても追い切れていなくて浅いし、

かと言って、ただただ消化するだけじゃ意味もないから、じっくり時間を取って楽しみしたいんだが、それをするとどんどん取り残されていく

リアルタイムでの盛り上がりには当然間に合わないし、みんなどうやってエンタメ系の消費を回してんだ

バス電車でまともに立ってられない

35歳男。バス電車が加速減速したり曲がったりするたびにフラフララグラしてたたらを踏んじゃうの恥ずかしいからなんとかしたい。

当然吊革や手すりには掴まってる。でもフラついちゃう。なんなら両腕で抱きしめるようにしっかり掴んでても揺さぶられてたたらを踏んじゃう。

膝を少し曲げるとか、立つ向きを色々変えてみるとか、足先を少し開くとか、肩幅に脚を開くとかネットで見かけたのは片っ端から試したけど、どうやってもフラフラちゃう

女の人や小学生の子でもビシッと立ってる中で俺だけフラフラちゃうのすごく恥ずかしいのでなんとかしたい。

何かコツとかあるのかな? それとも筋力や体幹ゴミすぎるせい?

ガキの頃からずっとフラつく。運動経験は一切ない。運動する習慣もない。170cm/58kg。階段上り下りどころか普通にしばらく(30分以上)歩くのもしんどい体幹はチン毛。

サンチン!!!呼ッ」は試したことあるけど大して変わらんかった。あと35って言ってるだろうが。たたらを踏む以外なんて言えばいいんだよ。おっとっと♡ってなっちゃうってか。いろいろ教えてくれてありがとうもっとください。あと俺も文学部

「よろける」は言われてみればあ~ってなるがあんまり使わないな。ふらつくなら使うけど、俺が想定してた「体がフラフラして、足も踏んばりが利かずにおっとっとっとってなる」=「たたらを踏む」がベストって判断。1冊に必ず1フレーズってほどじゃないが小説かに結構出てくるぞ。

「足の指でつかむ」ってのはやったことないけどなんとなく言ってることは分かる。分かるが、バス乗ってる30分弱ずっと足先に力入れてるの辛すぎないか?たぶん5分もできない。

あと進行方向に向いて立つっていうのは混んでる車内でやるのは実質無理。

体重移動」ってブコメも多かった。たぶんこれはデカい要因だと思う。しがみつくのに必死で重心?を移動するなんて余裕がなかった。まず自分の重心がどこにあるのかなんて全然わからん自転車は乗れる。スケボー一輪車も乗れない。

ジムだの筋トレだのはダルいからやりたくない。創作じゃねえわボケが。誰もが増田大好き男女論に興味があると思うなよカルト野郎

仕事団体職員事務シス管っぽいことしてる。

なぜか俺を女認定してる妙な奴が何人かいるが長年ネットやってて女認定されたのは初めてで困惑してる。ネカマやっててお前男だろって言われたのは死ぬほどあるけどな。ネカマのやり過ぎで女性性が文章に滲み出てきたのか?

> ふくらはぎが、手で作る輪より細くないか確認してみては。

これどういうこと?左右の手の中指と親指で輪をつくって、ふくらはぎの一番太い部分でも輪が切れないか試すってことか?手デカくて指長いから1~2cmくらい余裕もって輪っかの中に入るな。

anond:20230926120623

猫が太ってて獣医さんに相談したら、猫って運動痩せるのは無理なんで、食事制限がメインになるらしい。

そりゃそうだよな。猫って「ほら!動け!」ってお尻ペチペチしてもダメなんだよ。気が乗らないとテコでも動かない動物だもん。犬とか馬ならいざ知らず。

みんな人間には簡単気合いと努力で痩せろ、痩せられないのは甘えなんて言うけどさ、人間だって気が乗らないことってあるよな。好き勝手暮らしたいよ。だから法律とか宗教とかで縛るわけで。

何が言いたいかっていうと、増田運動ちゃんとしてるみたいだけど、食べることは諦めたくない人なんじゃないかなと思うんだ。なのでダイエット食品に置き換えるとか、ガム噛んで誤魔化すとか、ゲームで気を紛らわすとか、「つよい心」なんて曖昧な何かに頼らない方法自然に変えていくのがいいんじゃないかな。

そもそもなんで痩せたいんだろう?健康婚活?実はそんなに困ってないんじゃない?

anond:20230926120623

35才が1年で82→68kgまで落としたけど、管理栄養士の知り合いに聞いた以下の感じでやった。

摂取カロリーより消費カロリーが小さければ痩せる

食事制限摂取カロリーを小さくし、運動は消費カロリーを増やすけど、体重に関してはとにかく摂取カロリーより消費カロリーを増やす

運動やってられなかったから、俺は食事制限をした。俺は一日1500kcal計算で過ごせば月2kg瘦せる計画

ちゃん栄養バランス考えないとおなか減る。俺はご飯や麺大好きだけど、栄養バランス崩壊しがちだったたから完全栄養食とか野菜ジュースカット野菜鯖缶、とうふ、サラダチキンあたりを意識した。

最後のほうは、とりあえず満腹にしてカロリー低い、カット野菜2袋+サラダチキンだの、スープにとうふだのした。

・低カロリー食事にしようとするとしょっぱいものが減るけど、ヒガシマルうどんそばスープかに野菜とかこんにゃく麺とか糖質0麺入れてた。多分塩分はアウトだけど、カロリーは低いみたいな食事

がんばー

「将来を悲観していた」

某所某商業施設で客と従業員を切りつけ逮捕された高校生言葉

将来を…悲観?

あのな、将来なんて展望が有るように見えて全然無いんだから

みんな計画を立ててそれに向かって努力したり、なんか良い未来想像したりしてるけど

何の根拠保証も無いんだから

夢想してるのと変わらんのだよ

まあ、この高校生は「計画も立てられないし努力も出来ないし良い未来想像することも出来ない」って状態なんだろうけど

メンタル病んでる状態

でもそんな人間は山の様に居る(自分もそうだし。実際、高校生時分にそういった向日的な思考生き方をしていなかったので現在の結果を迎えているわけだ)

学校先生は忙しいだろうからカウンセラーが教えてやらないと駄目だろ

人生は目の前のことを粛々とこなしていくこと」なんだって

(それを聞くかどうかは本人次第だけれども。しかし、カウンセラー感受性が強い年代に対する言葉けが出来る筈だよな?そうじゃなけりゃ居る意味が無いよな?)

学生ならば、授業を受けテスト対策をし受験対策をする。バイトしなくちゃならないやつはちゃんと働く。部活必須のやつもまあ義務だと思ってやる

ツレとの約束SNSを覗いて情報を得たりするのは余力があったらやればいい

あと、「楽しい」と思うこともちゃんとやって欲しいね。その年で楽しいこと無い方が将来悲観してるよりも問題だわ

その中で「近い未来・遠い未来に対して良い想像が出来ない」ってなったら、どうしてそういう認知状態なのか、歪んでいるんじゃあないかと疑って自分で色々調べろ

そして認知の歪みを矯正し、「マトモ」な人生を歩める様に自分を設定するんだ

現代ネットにそういった情報が溢れかえっているんだからな。真実なんて分からないとしても、何かしら心に響くものも転がっているもの

調べる気力すら無いレベルならもうメンクリ行け

あ、あとはちゃんと飯喰って運動しろ

若いから運動要らないなんて思うなよ?フィジカルあってのメンタルよ。心理的体力は肉体的体力が作るんだ

(偶に運動部なのにメンタル病んでるヤツ居るけど、それはもう別の話になってくるわ。生得的な思考回路や環境に拠る)

2023-09-26

anond:20230926120623

自分もこの前まで80キロあったけど4ヶ月で12キロ落とせたよ。そして他の人も書いてるけどあすけんはやった方がいいね摂取カロリー栄養価可視化されるだけで意識全然変わってくる。その枠内からオーバーしなければOKなので普通にラーメンとか肉とか食いつつ運動してた。あと、痩せるための活動以外は一旦控えた方がいい。勉強とか趣味とか。一度に色々やろうとしたら余程要領が良くない限り絶対破綻する。

anond:20230926130510

雑な例えだなぁ

トップアスリート一般人運動能力を知る機会なんて

一貫校で育ったエリート一般人学力を知る機会より多いだろ

確実に太る方法教える

世の中には太りたくても太れない人がいると聞いたので、あくまで私の経験則に過ぎないけど、太るための方法を書いてみようと思う。

※私は太りたくて太ったわけではない。ただ振り返ってみると、太るには太る理由があるなと思ったので書き起こしてみる。

①朝は食べない

お相撲さん朝ごはんを食べないという。栄養がより吸収されるから体が大きくなるそうだ。

それが本当かはわからないが、朝ごはんを抜くととにかく昼にめちゃくちゃお腹が空くのでたくさん食べることになる。

ただこれは、昼まで寝てる人は該当しない。あくまで朝〜夜まで仕事がある人の場合。要は朝ご飯を食べないで仕事をする。

まったく食べないのが無理な場合は、小さいチョコレートや甘いカフェオレなどを摂り、昼まで間食はしない。どちらにせよ昼にはお腹がめちゃくちゃ空くようにする。

②昼食は急いで食べる

昼食はとりあえず炭水化物。高カロリーを急いで、できるだけ噛む回数を減らして食べる。

特に麺類は、吸い込む分早く食べられる。

栄養学的にはよくわからない。ただ私は仕事が忙しすぎて早く食べるしかなかった。

飲み物はそこまで積極的には取らない、摂るとしたら甘いカフェオレジュース

仕事で忙しくてあんま水分摂る余裕なかったからこまめな水分は意識しない。余裕がある時はジュースなど甘いものなら、手軽にカロリーが取れる。

これらを組み合わせる、我慢してからジュースを飲むと500ミリペットボトルがあっという間にカラになる=相応のカロリー簡単に取れる。①もそうだけど、我慢から解放自分想像を超える。

④夜はたっぷり食べて、酒を飲む

酒は満腹中枢がアホになるのか、だらだらずっと食べることができる。

夜にいっぱい食べると、朝まで残るから「①朝は食べない」が実行できる。

これも全然意図的にやったわけではなく、仕事ストレスめっちゃ食べる&酒飲むってだけ。

メニュー的には揚げ物、炭水化物ポテトチップスの登場率が高かった。よく調理方法カロリーは「ゆでる<焼く<蒸す<煮る<炒める<揚げる」の順で上がると言うけれど、揚げ物炒め物が多かった。焼き鳥よりメンチカツを選ぶ意識野菜全然食べてない。

運動はしない

趣味スポーツとかもなし。

これは全然意図的ではない。元々運動習慣がなかった。

カロリー計算、その日歩いた距離計算などは一切しない

自分がどれくらい食べたか、どれくらい歩いたかは一切考えない。

まぁカロリーとかお店で食べたらわからないし。iPhoneにその日歩いた距離とかあるけど見ない。

(ただ、1日に1600キロカロリー以上は取っていた。確実に。)


⑦①〜⑥を習慣化する

結局のところ、太る生活は習慣化されることで太る。

1日めちゃくちゃ食べたからって簡単には太らない。

逆に、痩せる習慣も1日やったからって痩せない。

日5日間は基本この生活休日は昼まで寝るから多少イレギュラーだけど、これを1年続けたら9キロ太った。

逆にこの生活の逆をやったら1年ちょいで10キロ痩せた。

155cmで53kg→43kgに痩せたので、見た目はだいぶ変わった。

まぁ厳密には④は1日1600キロカロリーと決めてその制限内で食べるだけで酒はずっと辞めてなかったし、炭水化物や揚げ物も辞めはしなかった。ただ、どうしてもメンチカツが食べたい!って時は食べるけど、なんか食べたいな〜って時にはメンチカツより焼き鳥にするみたいな感じ。

逆に野菜は食べてなくても痩せた。野菜本気で嫌いだから食べなかったけど、野菜食べれる人ならカロリー制限もっと楽にやれたなとは思う。


ボディポジティブって言葉があるけど、今の自分を愛せないから体を変えるって方法はありなのかなとは思う。

今より太りたい人、痩せたい人がいると思うけど、一意見が誰かの参考になれば。

anond:20230926120623

170cmで80kgが見えるくらい大柄でこの程度の食事

それほど太るかなあ?

筋肉量が少なすぎるとか?

結構距離チャリで移動してるようだけどねえ

仰る通り、夜の大盛りご飯減らせばいいだけじゃない?

(満足感得られないってことなので、蒟蒻系とか野菜系を多めに摂って胃を膨らます)

ほんで運動。走るか泳ぐか

素人筋トレ疑問視されてる昨今なので、純粋に結果が出る有酸素運動粛々とやるのが良いのでは

がんばってー

anond:20230926120623

基礎代謝が1500kcalとして運動での消費カロリーなんかせいぜい150kcal行けば良い方だからカスみたいなもん。

自分がやって効果あったのは「空腹感を感じるまで一切の食事をとらない」だな。間食を欲しくなっても「いや、でも全然腹減ってないな」と我慢するきっかけになった。

anond:20230926162604

それは大抵金ケチって安い施術にしたか

伸ばしすぎのパターンや。

運動したいなら最新の施術で5cmくらいが限界

費用は5千万はする。

しかも、半年くらいはリハビリでまともに働けない。

夫にオナラを怒られる

ナラをするたび夫に「も~!汚い!」と言われる。

別にナラは汚くはないと思う。臭いとは思うけど。

他人に屁をこかれるのも、他人の前で屁をこくのも嫌だけど、家族なら別によくない?というのが私の考え。自分の家でくらい自由にオナラをしたい。

思えば生まれてこの方、親に屁を窘められたことはない。

人前でオナラをすべきではないことは物心ついた頃には理解していたし、両親は私に家の中では好き勝手屁をこかせてくれていた。

まりにも豪快な屁を5連発くらいすると苦笑いされたが、過剰に反応されたことはなかった。私以外の家族自由に屁をこいていた。

母はさすがに私ほど好き勝手ブゥブゥ言わせてなかったが、それでもぷすぅ~くらいの控えめな屁をしている姿はよく見かけた。父も兄弟特に悪びれることな気持ちよく放屁していた。犬も時々オナラをしてはその音に自分でびっくりしていた。猫はあんまりナラをしなかった。

今の夫となる人と付き合い始めた頃、当然最初のうちはオナラなどしなかった。

彼も「君の前でオナラするの恥ずかしい…」と初心ぶって屁は控えていた。

まあそれも半年もしないうちに徐々に彼がオナラを解禁していったので、私もいいか~と自由放屁運動の流れに乗じた。

私は夫が目の前でオナラをしても特に反応はしない。とんでもなく臭ければ「臭い~!」と言ったりはするが、夫自身の方が「臭い臭い」と騒ぎ立てて換気したりする。

夫は自分のこく屁にもうるさいが、私がこく屁には毎回「もー!汚い!臭い~!」といちいち反応する。

屁というものはそんなに毎度毎度筆舌に尽くしがたいほど臭いわけではない。無臭の屁もあろう。大して臭くない時でも「汚い!」と騒ぐ。

私の下半身が分厚い布団に入っている状態で屁をこいて、ほとんど匂い漏れてこないはずなのに、夫はわざっわざ距離を取ってあまつさえ扇風機までまわしはじめる。(夫は同じ布団には入っておらず隣にいるだけなので、布団の中で私の屁と同梱されているわけでもない)

夫も屁をするなと禁止してくるわけでもないし、怒るといってもおふざけ程度の言い方ではあるのだが、こうも毎回反応されると正直面倒くさい。屁だけに。

特大ホームランを放った時だけスクープしてくれればいいのにバントでもいちいち号外を出されてる気分だ。野球知らんけど。

何故夫はここまで屁に過敏に反応するのかを知るべく、

夫の生家では家族放屁活動はどのように行われていたのかを聞いた。

父親と夫は自由にオナラをしていたが母親と妹の放屁音は聞いたことがないという。また、父親や夫がオナラをするたび母親に注意されたらしい。

放屁自由がない家庭で育ったがために夫は屁に不寛容になり過敏に反応するわけだ。

自身母親に注意されるたび、「オナラくらいで」と思っていたのに、いざ自分で家庭を築き、そこに屁を取り締まる人物がいないと不安になってしまっての放屁注意委員会だったと言うわけか。そう言えば私も「鏡は表向きに放置してはいけない!」と実家で母に注意されるたびめんどくせぇ〜と思っていたが、実家を出てから自主的に鏡は裏向きに置くよう心がけるようになったな。

更には夫の生家では女性で屁をする者はいないため、私に強く当たっているというのもあるのだろう。

からこそ私は強く、自分家庭内での男女放屁均衡法を訴えていく決意をした。

皆さんはご家庭でどのように屁をしてお過ごしでしょうか。

まるで自主勉強しなかった人間が後から役に立ったと思うこと

人類の大半は勉強なんかしないという話を見て。

 

一切の勉強しませんでした。授業は半分上の空だったし宿題もやらなかった。

たまたま親が地頭マシに生んでくれたので2回の受験はどっちも偏差値60ぐらいのとこに入れましたが

大学入っても勉強しなかったので語学単位を落として留年しました

そのぐらい何もやらなかった人間が50歳過ぎて役に立ったと思う教育指導

 

これはガチ。書くとき書き順やとめ、はらい、きちんと閉じてるか開いてるかまで一字づつマルバツつけてくれた。

高校にもなってバカみたいだと思いつつやってたけど、宿題もやらないような人間勉強の習慣を躾けるには一番効果的でした。

これなかったら受験のために勉強するという手段すら見つけられなかったと思う。

 

英語単語暗記なんか一切やらなかったのでド底辺だったけど、文法ロジック予備校なので点取りスキルのような説明)があると教えてくれた予備校講師のおかげで最低限のとっつきが出来た。

理屈こねてサボりたい人間には理屈で楽ができると教えるの効果的です。まあ単語暗記サボるんですけど。

 

小6のとき成績悪くなって急遽入れられた学習塾たまたま進学塾だった流れで中学受験したのだが、

結果、そこそこの進学校に入ったので保体とか大学までやったことなかった。

大学に入って初めて筋トレ筋肉痛意味があるって知ったし身体を動かすことに意味があるって知った。

それまで運動とか不良のやることだと思ってたのでマジで目から鱗だった。

そっかー高校とき体育の時間をダラっとソフトボールで流すのではなく1限まるごと筋トレランニングだけで地獄を見させてくれたH先生は良い先生だったのかーと後から知った。

 

卒論書くまでバイトするかゲームするかで勉強しないし他人が何を学んでるか全然知らなかった。レポート適当書くしかやってないマン

卒論を出さなきゃいけないとき、何やっていいか全くわからず、今さら他人に聞くこともできなかったので、好きな本の書き方を丸ごと真似することにした。引用の仕方、導入の仕方、結論への持っていき方、等々。なお引用元は真面目に調べてないのでだいたい孫引き。ひどい。

もちろん教授陣も見放してたのでとっとと卒業させてくれたって話で、結果には繋がらないんだけど、ここで他人パクることを学んだ。パクるのマジ大事

 

何が言いたいかというと、本人まるで勉強する気もないし、親も勉強よくわかってない、そんな底辺に対しても、何がしか勉強やらせとく意味あるかなと。

万物黎明』は人類歴史を誤解している・続きの続きの続きの続き

国家に反対すること

フラナリーやマーカス、スコットらに倣えば、最近まですべての階級社会における中心的な政治闘争は、誰が土地を耕し、誰が食料を手に入れるかをめぐるものだった。グレーバーとウェングローの見方は異なる。彼らにとって中心的な問題権力であり、中心的な敵は国家である。そのため、彼らはいくつかの点で階級無視している。これは彼らがアナーキストからではない。ほとんどのアナーキストは、常に階級権力を同時に重視することができる。

しかし、『万物黎明』における省略は重要である。グレーバーとウェングローは、合意的で参加型の集会を支持する議論推し進めようと躍起になっているように見えるが、そのために私たちに一連の謎を残している。4つの簡単な例を挙げれば、その問題がよくわかるだろう。

著者たちは、都市における国家に先行することが多い、村落における階級格差の拡大には関心がなく、その文献を否定している。また、小王国領主爵位にも興味がない。中央集権的な大国家が存在しなければそれでいいのだ。私たちは、複雑な採集民に関する彼らの説明の中に、このような紆余曲折をいくつか見てきた。このようなことは、他の多くの例にも現れている。

インダス

インダス川沿いの古代都市モヘンジョ=ダロでは、約4万人が階級的不平等国家もなく暮らしていた。

そして彼らは、ヒンドゥトヴァ派の歴史家たちと同様に、モヘンジョ=ダロは実際に南アジアカーストに沿って組織されていたと示唆する。しかし、グレーバーとウェングローは、これは平等主義的なカーストであったと言う。最初は驚かされるが、彼らが言いたいのは、王のいないカーストの不平等容認できるということである[11]。

ナチェス

彼らは一貫して伝統的な王権の力を最小限に抑えている。ミシシッピ川流域のナチェズ王国がその好例である。グレーバーとウェングローは、太陽王権力凶悪な残虐性は彼の村の外には及ばなかったと言う。しかし実際には、ナチェズは白人プランター奉仕する奴隷貿易における主要な地域勢力であった[12]。

人間犠牲

グレーバーとウェングローは、残酷人身御供祭り世界中の初期の州で見られるという重要事実を正しく強調している。数十人から数百人が生け贄にされ、その多くは戦争捕虜若い女性、貧しい人々であった。

彼らは当然憤慨している。しかし、これらの生け贄の目的は、敵である他国の人々を恐怖に陥れることであったとも感じている。それとは対照的に、私たちは、流血の主な目的は、流血の実際の聴衆である残酷地方国家臣民を恐怖に陥れることだったと考えている。

実際、このような残酷さが、それぞれの国家の初期の歴史に特徴的なのはそのためだろう。国家正当性がまだ弱く、恐怖が最も必要とされていた時代である国家権力が強化されるにつれて、戦乱や敵対は続くものの、壮大な犠牲が消えていくのもそのためだろう。

集会

集会のもの重要最後の例である。グレーバーとウェングローは、古代メソポタミア王国国家における都市集会の力を極めて正しく指摘している。彼らは、これは王がすべての権力を持っていたわけではないという証拠だと言う。これは正しい。これらの王国階級闘争が止まっていたと考えるのは、よほどナイーブでなければならないだろう。

しかし、グレイバーとウェングローは飛躍する。彼らは、これらの都市議会は、参加型民主主義を掲げる「占拠せよ!」やその他の社会正義運動集会に似ていると指摘する。

古代メソポタミアでは、参加型民主主義いかなる形態についても、これといった証拠はない。しかし、他の階級社会における都市全体や全国的議会については、膨大な証拠がある。そのどれもが、富裕層や有力な一族によって支配されていた。古代スパルタでは地主支配していた。ローマ元老院も同様だった。ジョン王や男爵家もそうだった。そしてごく最近まで、ヨーロッパのすべての議会有権者富裕層に限られていた。

この近視眼は重要である。他の多くの人々と同様、私たち王国国家を、不平等社会における支配階級ルールを強化し、強制するために集まる方法として理解している。『万物黎明』では、そのプロセスは目に見えない。

* *

グレーバーとウェングローは怒っている。この怒りには、私たちのようにグローバルな不平等絶望し、グローバル・エリート政治を憎み、気候の混乱を恐れる読者を喜ばせるエネルギーがある。

多くの点で、彼らの本は新鮮な風を吹き込んでくれる。そして私たちは、既存のすべての国家に対する敵意を共有している。しかし、今後、気候変動を食い止めるためには、階級環境の中心的重要性を含む人間の条件に関する理解必要である

脚注

[1] Fredrich Engels, 1884, The Origin of the Family, Private Property and the State. The book was revived as a key text by socialist and Marxist feminists in debates about women’s liberation. Pace the 19th century social Darwinism which clearly took a lead from the Old Testament, it is now quite clear that both pastoralism and slash and burn agriculture appeared after, and not before, the advent of settled agriculture.

[2] Franz Boas, The Mind of Primitive Man, 1911; Claudia Ruth Pierpoint, ‘The Measure of America’, 2004; Ned Blackhawk and Isaiah Lorado Wilner, Indigenous Visions: Rediscovering the World of Franz Boas, 2018; Rosemary Lévy, Franz Boas: The Emergence of the Anthropologist, 2019.

[3] Very good examples of this work include Sara Hdry, Mothers and Others: The Evolutionary Origins of Mutual Understanding, 2005; Elizabeth Marshall Thomas, The Old Way, 2001; two articles by Steven Kuhn and Mary Stiner: ‘What’s a Mother To Do’, 2006 and ‘How Hearth and Home Made us Human’, 2019; Loretta Cormier and Sharon Jones, The Domesticated Penis: How Womanhood has Shaped Manhood, 2015; a key paper by Joanna Overing, ‘Men Control Women? The “Catch-22” in the Analysis of Gender’, 1987; two books by Christopher Boehm: Hierarchy in the Forest and the Evolution of Egalitarian Behavior, 1999, and Moral Origins, 2012; every book by the primatologist Frans de Waal; the two chapters by Brian Ferguson in Douglas Fry, ed., War, Peace and Human Nature, 2013; Richard Wrangham, Catching Fire: How Cooking Made Us Human, 2010; and two books by the trans biologist Joan Roughgarden: Evolution’s Rainbow: Diversity, Gender and Sexuality in Nature and People, 2004, and The Genial Gene: Deconstructing Darwinian Selfishness, 2009.

[4] Our favourites among the ethnographies of our near contemporary hunter-gatherers are Marjorie Shostack, Nisa: The Life and Words of a !Kung Woman, 1981; Jean Briggs, Inuit Morality Play: The Emotional Education of a Three-Year-Old, 1998; Phyllis Kaberry, Aboriginal Women: Sacred and Profane, 1938, Karen Endicott and Kirk Endicott: The Headman was a Woman: The Gender Egalitarian Batek of Malaysia, 2008; Richard Lee, The !Kung San: Men, Women and Work in a Foraging Society, 1978; and Colin Turnbull, Wayward Servants: The Two Worlds of the African Pygmies, 1978.

[5] Kent Flannery and Joyce Marcus, The Creation of Inequality: How Our Prehistorical Ancestors Set the Stage for Monarchy, Slavery and Empire, 2012; and James C. Scott, The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland South-East Asia, 2009; Scott, Against the Grain: A Deep History of the Earliest States, 2017. Martin Jones, Feast: Why Humans Share Food, 2007, is also very useful.

[6] Edmund Leach had made a similar argument in 1954 in Political Systems of Highland Burma, and radically changed anthropology. For a brilliant ethnography of one group of anti-class hill rebels at the end of the twentieth century, see Shanshan Du, Chopsticks Only Work in Pairs: Gender Unity and Gender Equality Among the Lahu of Southeastern China, 2003. For Scott’s recent extension of his argument to ancient Mesopotamia, see Against the Grain.

[7] This is all succinctly described in Brian Hayden, ‘Transegalitarian Societies on the American Northwest Plateau: Social Dynamics and Cultural/Technological Changes,’ in Orlando Cerasuolo, ed., The Archaeology of Inequality, 2021.

[8] Start with Philip Drucker and Robert Heizer, 1967, To Make My Name Good: A Reexamination of the Southern Kwakiutl Potlatch; and Eric Wolf, Envisioning Power: Ideologies of Dominance and Crisis, 1999, 69-132.

[9] Jeanne Arnold, ‘Credit where Credit is Due: The History of the Chumash Oceangoing Plank Canoe’, 2007; and Lynn Gamble, The Chumash World at European Contact: Power, Trade and Fighting among Complex Hunter-Gatherers, 2011.

[10] On the Calusa, see The Dawn, 150-2; Fernando Santos-Cranero, 2010, Vital Enemies: Slavery, Predation and the Amerindian Political Economy of Life, 2010; and John Hann, Missions to the Calusa, 1991.

[11] Rita Wright, The Ancient Indus: Urbanism, Economy and Society, 2010; and Andrew Robinson, The Indus: Lost Civilizations, 2015.

[12] Robbie Ethridge and Sheri M. Shuck-Hall, Mapping the Mississippian Shatter Zone, 2009; and George Edward Milne, Natchez Country: Indians, Colonists and the Landscape of Race in French Louisiana, 2015.

万物黎明』は人類歴史を誤解している

はじめに

急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物黎明』は例外であるわずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞雑誌の多くから賞賛を受けている。

著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的投稿者たちからも、好意的コメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。

しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠無視しており、その政治的主張観念論的で自発主義であると論じている。どちらの書評特に女性抑圧の原因を考察していないことに批判である

クリスナイトはユニヴァーシティカレッジロンドン人類学上級研究員で、アフリカにおける人類起源研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Education掲載された。

ナンシーリンディスファーンジョナサンニールはともに人類学者として訓練を受け、人類進化階級社会性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』であるジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評エコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。

どちらの書評も著者のご好意により再掲載されている。

根本的に支離滅裂で間違っている byクリスナイト

本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパ洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較最近先史時代について学びたいのであれば、必読の書であるしかし、人類最初に笑い、歌い、話し、芸術儀式政治創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。

この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物黎明』? 『お茶時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。

欠点はあるが、この本は広報勝利であるフリードリヒ・エンゲルスが『家族私有財産国家起源』を出版して以来、左翼知識人活動家人類社会的起源先史時代過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。

短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治メッセージ露骨だ。平等主義狩猟採集民が生活の中で共産主義実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類のものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威行使してきたこから国家権力の原理人間の条件の不動の特徴であると主張している。

よりによってアナーキスト国家必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつ世界可能である」という革命スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。

著者たちはダーウィン自然淘汰理論違和感を抱いており、現代進化論を「社会進化論」と混同している。現代進化論は科学であると主張するが、実際は純粋神話であるグレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類起源についての視点を、読者が真剣検討することを期待しているのだ。

彼らが認める唯一の科学応用科学であり、この場合は「考古学科学である。彼らは、政治社会生活については、古代人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物黎明」の年代わずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸である

彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能心理形成する上で集団的育児重要役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園存在せず、一人のイヴ存在しなかったのだから、そのような洞察部分的ものしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディ研究が "アフリカイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実無視すること--は、明らかに人類起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。

グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑羞恥心敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たち人間性規定する本能能力平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?

私たちは皆、社会的政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせ虐待支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学クリストファー・ボームが描く、反権威主義抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類さりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。

グレーバーとウェングローの基本的論点は、政治選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学古典であるエスキモー伝統的な生活説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキー形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつシステムに縛られることはなかったということだ。

この歴史対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性であるグレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性儀式は、基本的に月によって予定されている。

著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義概念に触れている。彼女は、コンゴ熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。

なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。

太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバル伝統である庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。

残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカ物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係説明することができない。

すべての条件が同じだとすると byナンシーリンディスファーンジョナサンニール

グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たち問題を提起している。

デヴィッド・グレーバーわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動社会正義運動リーダーとしてのデイヴィッド・グレーバー活動は異例であり、模範的であった。LSE人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。

しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物黎明』が、今後長い間、不平等起源に関する理解の枠組みとなってしま危険性がある。

本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニットパンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキーロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちから賞賛言葉掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。

この本は最近マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛一般的見方になったら残念である

人類進化歴史における不平等起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要であるしかし、グレイバーとウェングローは平等階級に目を向けることなく変化を求め、環境生態系説明を敵視している。これらの欠点保守的意味合いを持つ。

では、ここから。これは膨大な本の、乱暴部分的書評である私たちは、グレバー知的議論の切り口を愛し、得意としていたという知識自分自身を慰める。

ジレンマ

この本の最後段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たち立場を明確に示している。彼らはこう書いている、

例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質基本的に善か悪かであり、不平等政治意識存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証仮定から始まる場合

私たちは今、神話を目の前にしている」

まり神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等政治意識が生まれる前の時代存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間自由制限することはないこと、参加型民主主義都市国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。

このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。

第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身政治プロジェクト対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。

続き→https://anond.hatelabo.jp/20230926143527

anond:20230926140330

統計的研究によると、人間は具体的な数値が出る学力運動能力ではなくて、数値に出ない要素を過大評価やすいんやで。

 

具体的には

常識がある方だと思う

面白い方だと思う

 

という勘違いをし易いやで。

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