はてなキーワード: グラデーションとは
2019年、国体競技にもなったグランツーリスモSPORT。やり始めて約1年(オンライン対戦自体も約1年)たったのでその感想をまとめます。以下は元々ゲーム内SNSに書き込もうと思った文章を改変していますので、プレイしたことがない方には分かりにくい部分もあることを申し上げておきます。
*
ときどきゲーム実況されている、フレンドではない方(以下、Aさんとする)とデイリーレースでマッチングする機会がありました。
レースでは、自分はAさんの真後ろを走っていて、コンマ5秒差が数周続く展開から、自分がホームストレート終端で追いついてしまったので、第1コーナーで車両1両分空けながら外側からオーバーテイクしました。
終了後に自分が映っていたのを確認しようと(自分がインタビューされたTV番組を見たくなる心理です)Aさんの動画をみたら、そのチャンネルの視聴者の方(以下、Bさんとする)も含め、自分に対し
・公式戦でよく一緒になるが荒くてよく自滅する
・運転が雑
・直線さえ速ければいいという考え方をしているのだろう
などなど、散々な言われようでした。
これを見てまず少し凹んだのは事実です。そして続いて思ったのは、至極もっともだなということです。DR(ドライバーランク:ドライバーの力量の相対的評価指標)がランクAとランクBの間を行って来いの広島カープ状態である自分の、今後の課題をわかりやすく端的に言語化して頂いたことは、大変ありがたく、感謝しています。自分はBさんのことを存じ上げなかったのですが、何回か公式戦などでご一緒したことがあるようで、そんな場末の相手の走り方まで子細に記憶していて下さるものなのかと軽い衝撃を受けました。
もしかすると、その数回のご縁の中で自分がひどい接触をしてしまったのかもしれません。自分は公式戦で事故が多い(下手な)ので、あり得るなと思います(もちろん故意ではありません)。そうだとすればこの場で謝罪いたします。申し訳ありませんでした。
*
この文章を見てお分かりかと思いますが、GT SPORTのオンライン対戦は、ゴルフくらいマナーにうるさく、コミュニティも狭いので一種の「村」のようになっています(笑)
*
ところで、お二方のこれまでの動画を拝見するに、Aさんは対戦相手で接触した相手にレース後チャットで「くず」と言ったり、またBさんもチャンネルを所持しておられ、いくつか動画を拝見したところ、言葉遣いが少し乱暴な方であったり、そのせいで、いわゆる引き寄せの法則なのか、逆恨みのような荒らしが発生していたこともありました(「○ね、声がキモいんだよ」といった暴言を吐かれるなど)。
AさんBさん共に、チャンネル登録者数は相対的な数値としては小規模ですし、趣味やストレス解消が目的で配信をされているのでしょうが、こうした敵を作りやすいスタイルは、いつか本格的に炎上するのではないかと、差し出がましくはありますが、懸念を抱いています。少し話は逸れまして、最近ではネット上で起きたイザコザで「hagex」さんという、はてなでは有名なブロガーが殺害された事件もありました。こちらも湧いた粘着、アンチに対し皮肉を言った事で起きた痛ましい事件でした。
先に触れたようにBさんの動画ではすでに荒らしが出ており、また、ご本人もチャンネル概要に注意書きを記載するほどです。こうしたニアミスやヒヤリ・ハットが増えていつか大事件に、ともなりかねません。そうなれば自動車メーカーともコラボしながら、eスポーツを推しているGT SPORT自体への風向きが悪くなってしまうでしょう。
反対に、動画配信チャンネル・コミュニティの運営の仕方で好感をもてるGT SPORTゲーム実況の方も多いです。有吉ぃぃeeeee!みたいなまったりワイワイ系のKさん、O杯主催のNさん、最近チャンネルを立ち上げられたUさんらの動画配信はポジティブですし、とても勉強になります。自分はリアルレースでの経験がないので、リフトアンドコーストやタイヤのデグラデーション、ピットイン戦略などをこれらの動画から学び(?)ました。
動画プラットフォームにおける一般視聴者の特徴として、ネガティブ要素が多い動画よりは楽しかったり、クリエイティブだったり、情報収集が可能な、ポジティブな動画を日常的に繰り返し観る傾向があります。それは、例えばユーチューバーランキングを見ればわかりやすいかもしれません。もちろん視聴者も人間ですから時々は暴言・喧嘩・批判系のネガティブ動画も見たくなりますし、過激な動画配信者もいます。けれども、基本的には丁寧でポジティブな動画づくりが長期的にはファンを集めやすいです。ネガティブな動画は、とくに小規模配信者の場合、将来的なチャンネル運営を自ら厳しくするのではないかなと、今回の一件で感じました。
さてGT SPORTから大分脱線しましたので(笑)、自分の走りに立ち戻ると、さしあたっては、
・立ち上がりでのアクセルオンタイミングを早める(スローイン・ファストアウト)
これらを徹底したいと思います。
FIAのレギュレーションも読み直したほうがもしかしたらいいのかもしれませんが、「実際、たかが(されど)ゲームにそこまでする?」という億劫さもあります。
運営のポリフォニー・デジタルさんに対しても一つ思うところがあり、書き留めておきます。
とても面白いゲームを作っていただいて、ありがとうございます。1年継続して遊べたゲームは自分の中で初めてです。グラフィックもきれいですし、毎月の無償アップデートはとても大変なことと思います。スポーツモードのインシデント(SR)判定AIも、理由の表記も加わり、以前よりよくなっていると思います。
一点、要望というかご提案があります。スポーツマンシップについて、ドライビングスクールでもミッションチャレンジでも構いませんが、他車のオーバーテイクの仕方や運転マナーの良し悪しをFIAレギュレーションを元に体験できるセクションを作ってみてはいかがでしょうか。初心者プレーヤーも、中上級プレーヤーも新たな視点を得られると思います。
できれば次回以降デザインにもっと留意して改善してほしいと考え、発言しています。
と言う一方で、実際のデザイン(乃木坂46による広告)が(北村紗衣先生が定義するところの)倫理的理念という基準に反しているようなのに批判しないので、先生の倫理的理念を実際の広告を例にすれば明確になるのでは、と思って質問しています。
日本赤十字の広告を改善してほしいという北村紗衣先生の希望は、不明確な基準のままで改善を要求するのなら、「基準は教えないけど、私がOKを出すまで仕事をやり直して」と指示するパワハラ上司のようです。でも北村紗衣先生はパワハラ上司ではないので、自分の発言でデザインを改善したいと望む限り、発言が示す基準を明確に更新し続けるはずです。この意味で、増田による質問への回答は(質問者の増田だけでなく)北村紗衣先生にもメリットがあります。
元増田さんが書いたように、好感度高い有名人が献血を呼び掛けたときの方が自発性が低くなるのではという疑問があります。それに加えて、実際のデザイン(乃木坂46による広告)では、直接献血をするようはっきりと書いてあり、自発性が低くなるのではという疑問があります。
北村紗衣先生の自発性を理解するために、直接指定・婉曲質問という言葉を定義します。この観点では、乃木坂46による広告の方が自発性が少ないとみなせます。
直接指定 相手の行動をそのまま指定すること。(例 乃木坂46による広告の「あなたが献血に行けば私は嬉しい」、「絶対この機会に献血をした方がいいと思う」)
婉曲質問 相手の今後の行動に関係する質問をすること。(例 「まだ献血未経験なんスか?注射が怖いんスか~?」(献血した方がいいとは言わない))
直接指定の内容が正しければ、相手に選択肢はなく指定された行動を取るしかない、自発性の乏しい状況です。
婉曲質問の内容が正しくても、答えに選択肢の幅があり、関係する行動を取らないこともできます。例では、注射が怖くないと否定すると献血につながりますが、注射が怖いと認めてしまえば、(とことんからかわれる代わりに)献血に促されにくくなります。婉曲質問における自発性は、選択肢を選べるわずかな分、直接指定よりはあります。
乃木坂46による広告は北村紗衣先生が定義する倫理的理念という基準に反しているので、先生が乃木坂46による広告を批判するか、非難しない理由を明確にしないと、先生の倫理的理念に一貫性がないという疑いは妥当です。
元増田はちゃんと「理念に限定ということにしても変わらない」とあらかじめ書いており、そこを見落としたか誤読したとおぼしきブコメへの反論までしているのに、まだ「曲解」と主張する方がいるのだなと
元増田さんとこの増田は別人で、元増田さんの書いたことに頼って書いたので、おかしい理屈があれば、単にこの増田の理解不十分のせいです。すみません。
これも0点。「呼びかける=自発性を阻害する」なんて、氏は一言も言ってない。曲解マジ見苦しいから速やかに止めた方がいい。
その通りです。北村紗衣先生は直接的な呼びかけが望ましくないかどうか発言していません。婉曲的な「注射が怖いんスか~?」は自発性を尊重する倫理的理念に反しているなら、より自発性の低い直接的な呼びかけも倫理的理念に反しているように見えているのか確認しないと、先生の批判に一貫性がないことになってしまいます。
増田は、直接の呼びかけは「不適切な広告なんでしょうか?」と質問しているだけで、自分の理解は何も書いていません。その理解が曲がっているかどうか以前に、増田の理解が見えるとすれば、Ayrtonism さんは超能力者でしょうか?何が見えているのか、教えてください!
流れを見てると、saebou氏はお母上が亡くなられたことでSEALSの女子高生(家でお母さんがご飯作って待っててくれてる)や日赤やついでにキモオタに対して報復(八つ当たり)してるのかな?と穿った目で見てしまう。
安心してください。お元気ですよ。北村紗衣先生の「献血ポスター問題について 」の最初に書いてあります。
曲解して難癖付けてるだけだと、そろそろ気づきなよ。あまりに下らない難癖で返答の価値もないエントリだけど、無視されたら勝利宣言でもするつもり?攻撃したいという欲望だけで動いていて、本当に気持ち悪い…
「不適切な広告なんでしょうか?」と質問しているだけです。書いていない増田の理解が(曲がって)見えるとすれば、sadamasato さんも超能力者でしょうか?何が見えているのか、教えてください!
北村紗衣先生が直接指定の形をとる表現の可否を示さず、ただ改善するべき、と発言を続けるなら、デザインする人や日本赤十字社は基準がわからず、何も広告できなくなるかもしれません。それは誰の勝利でもありません。
全体的には「役に立つ行動だから協力を」という趣旨の呼びかけで、「自発性の阻害」には当たらないだろう。だが、「血液検査の結果の通知」を得られるから「無償協力」に抵触する、という理屈は流石に馬鹿すぎる。
Arturo_Ui さんは、直接「絶対この機会に献血をした方がいいと思う」と勧めるのは献血について自発性を阻害せず、婉曲的な「注射が怖いんスか~?」と勧めるのは献血について自発性を阻害すると考えているのでしょうか?もしそうなら、その理屈を教えてもらえませんか?
北村紗衣先生がだめだと言っている売血は、お金をもらうという意味で自分のためであるだけでなく、血液を提供するという意味で他人のためでもあります。「血液の検査成績を希望すると、健康状態も知れて「自分のため」にもなる。」と乃木坂46が言っているのと、グラデーションが違うけれど大枠では同じです。もちろん、そのグラデーションが大事なので、私は許容範囲だと書きました。東京都赤十字血液センターの検査サービスと似たレベルの検査を受けると2,100円かかる場合があります(料金にばらつきはあるので、参考です)
ここで質問しているのは、「「血液検査の結果の通知」を得られるから「無償協力」に抵触すると北村紗衣先生が考えるかどうかです。どこまで許容するのか、一切認めないのか、まったく不明です。Arturo_Ui さんの主観で馬鹿に見えていても、それは議論の外の話です。
多分、北村先生はあんまり具体的なことは考えてなさげなので、何を投げ掛けても「そんなことは一言も言ってない」以上の答えはたいして帰ってこないと思う
「そんなことは一言も言ってない」のはこの質問の本質ではありません。「できれば次回以降デザインにもっと留意して改善してほしいと考え、発言しています。」と書いて、他者である日本赤十字社に先生の発言を取り入れるよう要求しているからには、先生が今から考えて不明確な発言を補わない限り(北村紗衣先生の考える)改善は他者に不可能でしょう。高い倫理性を他者に求めた北村紗衣先生なら、高い倫理性にもとづいて返答する可能性もあるかもしれません。
まずは良い問いかけをありがとうございます。
投稿のおかげで自分がどうしてゲームが好きなのかをちゃんと考える機会を得ました。
その過程で「ハマる理由(=ゲームの魅力)」についての自分なりの結論が出ましたので、
私が思う「ハマる理由」をお伝えしたあと、(1)~(4)への私見を述べます。
大切なことは世の中のゲームはそのプレイ目的から大きく2つに分けられる
(もちろん白黒の2色なのではなくグラデーションがある)ということです。
その2つとは
1.スポーツ型
2.ロールプレイ型
です。このように分類することでより正確に「ハマる理由」を考えることができます。
1.スポーツ型:
プレイ目的:対戦で相手を負かしたり、練習によってうまくなったりすること
最近e-sportsと呼ばれたりするのはこのタイプのゲームです。
練習するほどにゲームがうまくなり、ときに他者と、ときに自分自身と競い合う。
なのでこのタイプは本当にスポーツで、プレイヤーのモチベーションはアスリートたちと
本質的には一緒です。
つまりスポーツ型に「ハマる理由」はざっくりといえば「研鑽の先にある達成感」だと言えます。
次に説明が難しい2の方へ。
2.ロールプレイ型:
代表例:ドラクエ、FF、スーパーマリオブラザーズ(以下マリオ)など
ドラクエやFFは例としてはわかりやすいですね。ではなぜマリオもロールプレイ型でしょうか?
それに答えを出すためにプレイ目的である疑似体験について考えます。
ここで言う疑似体験とはプレイヤーが主体となって話を進める事です。
例えば、
右に進みますか?
左に進みますか?』
というテキストに対し、
右に進むと選択した場合には『DEAD』というテキストが表示され、
(もちろん左右の選択後にどうなるかをプレイヤーは知らされていない)。
このときゲームの結末を変えるのは確かにプレイヤーの選択であり、
よってマリオの場合で考えるならば、与えられた選択肢はステージをクリアするかどうかであり、
用意された結末はゲームオーバー or ピーチ姫の救出なのです。
ドラクエやFFの場合も同様で、プレイヤーの選択によってエンディング(にたどり着けるかどうか)が
変わります。
なにせ自分の選択によって世界を救えたり、ヒロインの女の子を救い出せたりするのです。
つまりロールプレイ型に「ハマる理由」は「貴重で刺激的な(疑似)体験を通じた深い感動」でしょう
(ただしマリオは選択肢が非常にシンプルなので感動というより達成感でありスポーツ型に近い)。
でした。
これを踏まえて(1)~(2)に答えて行きたいと思います。
(1)について
値段については私も(懐具合的に)高いと感じることはありますが、
贔屓にしているブランドがあるから多少高くてもそのブランドの新作を買うことと同じですね。
一方、映画のレンタル価格とゲームの新作価格を比べるのはフェアではないですね。
ゲームにも中古や過去作を安価にオンライン配信するサービスがありますから値段は理由にならないと思います。
(2)について
(1)から続く映画との対比が意味をなさないことを主張します。
先にふれたように、ゲームにはスポーツ型とロールプレイ型があります。
ここで投稿者様が想定されているのは、「プレイ時間が長い」という観点てんからも、
このロールプレイ型ゲームと映画には決定的な差があります。それこそ先に述べた「疑似体験」の有無です。
映画の結末に対し観客は本質的に無力なのであって、感情移入の大きさによらず、真に主体となることはできません。
結局は出歯亀です。一方ロールプレイ型ゲームではプレイヤーこそが主体なのであり結末もプレイヤーに委ねられています。
プレイヤーにとっての「20時間」は傍観者としての「20時間」なのではなく、主体としての「20時間」なのであり、
なので、私は映画も好きでよく映画館に足を運びますが、その2時間でゲームをすればいいということにもなりません。
(3)について
これについては少し同意ができます。感動したものは他者と分かち合えると何倍にも感動が大きくなりますよね。
今の時代ネットがあると言っても気の知れた友達と語り合えない寂しさは拭えませんよね。。。。
まあ、だからといって私がゲームをやめることにはなりませんが。
ちらほら文章から伺えるのですが投稿者様は社交的で人付き合いがお好きなんですね。羨ましい限りです。
(4)について
最後に、私はこの投稿で投稿主様の考え方を変えてやろうとか、人格を否定しようとかは全く思ってません。
この文を書いた(めっちゃ時間かかった)のは単にゲームにはハマるだけの理由がちゃんとあるということが伝えたかったのです。
乱文長文失礼しました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
某献血ポスターの件でまたあちこちが燃えているけれど、フェミニズムについて両陣営がよく理解していないまま戦争しているなあ、と考えていたらふと学生時代に書いたレポートを思い出したので供養しようかと思う。
これは「ポルノグラフィの法規制」に対してのフェミニズム的観点がテーマであって今回の件とは必ずしも直接は関与しないが色々なところが補助線として使えるのではないかと思うのでもし議論の整理に何らか役立てば。
字数が切れていたので分割。
以下本文
----------
1. 問題設定
本レポートでは、ポルノグラフィとその法規制について、いくつかの観点から検討する。ポルノグラフィは、フェミニズム運動の中でリプロダクティヴ・ライツやセクシュアル・ハラスメントなどと並んで一定の地位を占めてきた。一方で、その規制は、日本国憲法21条や米国憲法修正1条にいう表現の自由と正面から激突するものでもある。本レポートにおいては、日本国憲法の射程に限定しつつ、これらがいかに衝突するものであり、どう分析されるべきかを簡単に整理することを目標とする。
最初に検討されるべきは、規制の対象たりうるポルノグラフィがいかなるものと定義されるかということである。もちろん、いかなる性的な描写もポルノグラフィであって規制の対象たりうる、という立場自体は不可能ではない。しかし、表現の自由が強く保障されることを前提としたときに、容易には首肯しがたい立場であるということは言うまでもない。表現の自由への制約は可能な限り小さくなくてはならないというのが前提であるとすれば、規制の対象となるべきポルノグラフィもそれ自体また狭く定義される必要があるであろう。
まず、一般的なポルノグラフィの定義について俯瞰する。いわゆる四畳半襖の下張事件において、「わいせつ性の判断に当たっては、文書全体としてみたとき、読者の好色的興味に訴えるものであるかどうか否かなどの諸点を検討することが必要で、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、チャタレー事件で示したわいせつ三要件に該当するといえるかどうか判断すべきである」という判断がなされており、わいせつ三要件(通常人の羞恥心を害すること、性欲の興奮、刺激を来すこと、善良な性的道義観念に反すること)をベースとしたうえで、社会通念に照らして文書等のわいせつ性が判断されるという判例を構築している。
判例の立場は、わいせつ性が前面に出ているのか否かという観点を取り入れることによって性的な対象を扱った作品であっても、芸術的価値の高さなどに応じてわいせつ物該当性を認めないという形で一定の制約を設定しているといえる。ここには、表現の自由との緊張が見て取れる。つまり、本来は性的表現であっても、直接他者に危害を与えるものでない限り、国家によって自由を制約されるべきではない。しかし、わいせつ該当性があるならば、例外的に規制することが許されるとしていわゆる定義づけ衡量を行ってわいせつ図画を規制しているものであるといえる。
一方で、Andrea DworkinやCatherine McKinnonはポルノグラフィをいかに定義したか。それは、実際に彼女たちが起草した反ポルノグラフィ条例に見て取れると考えられる。ミネアポリス市の反ポルノ条例第三条 は、「ポルノグラフィとは、図画または文書を問わず、写実的に描写され、性的にあからさまな形で女性を従属させるものであり、かつ次の各事項の一つまたはそれ以上を含むものを言う。(1) 女性が人間性を奪われた形で、性的な客体、もの、または商品として提示されている、(2) 女性が苦痛や辱めを快楽とする政敵対象物として提示されている、(3) 女性がレイプされることに性的快感を覚える性的対象物として提示されている、(4) 女性性が縛られ、切りつけられ、損傷を加えられ、殴られ、または身体を傷つけられた性的対象物として提示されている、(5) 女性が性的服従の姿勢で提示されている、(6) 女性が、その身体の部位……に還元されるような形で示されている、(7) 女性が生まれつきの娼婦として提示されている、(8) 女性がモノや動物によって挿入された状態で提示されている、(9) 女性が、貶められたり、傷つけられた李、拷問されたりする筋書きにおいて、汚らわしいものないし劣等なものとして、または出血したり、殴られたたり、傷つけられたりして描かれ、かつそれらの状態を性的なものとする文脈の中で提示されている」と詳細に定義している。最高裁判例の打ち立てた上記の基準と比べるとこれは、はるかに明快である。
ところでこの二つの定義には、その明確性を超えて、根底的な部分でのポルノ観の相違が明々白々と見て取れる。これは、ポルノ規制を日本において考える際にも重大な差異であると考える。
最高裁におけるわいせつ概念の定義は、三要件を用いたその定義から明らかに、社会的性道徳、善良な性風俗といったものを保護の対象としている。つまり、過度に扇情的なポルノ作品が市場に氾濫することで、社会を成り立たせている道徳基盤が破壊されることを防ごうという目的である。いわゆるチャタレイ事件の控訴審における判決理由中の「かゝる文書が猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである」という文章は、まさにこの懸念がわいせつ文書を規制するべき理由であるということが念頭に置かれているものであると考えられる。
ミネアポリス市ほかいくつかの都市で起草された条例は、こうした目的のもとにポルノグラフィを規制しているのではない。それは、McKinnonらの論文や、また、条文そのものから明白である。ここで、ポルノグラフィはまさしく「女性差別」そのものとして認識されている。
ポルノグラフィは、女性を隷属させ、性的に対象化objectificationするものである、とラディカルフェミニストたちは考える。つまり、「ドウォーキンはいう。『女性の従属においては、不平等そのものがセクシュアルなものにされる』。マッキノンも次のように述べている。『ポルノグラフィーは女性の不平等をセクシュアルなものにする。それは女性の不平等をセクシーなものに仕立て上げる。それは、言葉の最も広い意味で、支配と服従をセクシュアルなものにする』」 。
ここで、ポルノグラフィに対する定義が、二方向のアプローチを有しうることが示されている。つまり、ポルノが消費されたときに、社会が倫理的、道徳的にどのような影響を受けるかという観点と、道徳的観点を一切取ることなく、ポルノの中で女性がどのように扱われているか、またポルノを消費する男性が女性に対してそれを再演することでどのような危害が生じるか、という観点である。
Millの提示した危害原理を素直に適用する限り、後者の観点の方が規制の根拠としては明らかに優れている。前者において、明白な危害は存在していない。先に引用した人類滅亡論などは、まさしく論理の飛躍であろう。一方で、後者のアプローチをとるならば、それが証明される限り、実際の危害が生じていると言える。これは、いかに表現の自由の価値を絶対視し保護するとしても、しかしそれを規制する十分に強力な根拠たりえる。次章では、ここで主張される危害について検討する。
ポルノグラフィが「危害」を有するものであるならば、それは表現の自由を主張してもなお規制に当たることは言うまでもない。表現の自由に対して強く保護を与えることを主張したアメリカのOliver Wendell Holmes Jr.判事であっても、満員の劇場で「火事だ!」という嘘を叫ぶことをいかなる表現の自由も保護しないと明言している 。また、実際にポルノグラフィが一般的な危害を生ぜしめないとしても、上記の条文を見るに、発生しうる危害から逆算的にポルノグラフィが定義されており、これは限定列挙であると考えるべきであろう。
もっとも、注意しなくてはならないのは、ここで挙げられたものは、危害を「創作」したものまで範疇に含まれることである。つまり、女性が傷害を受けるという「現実」の存否にかかわらず、そうした創作は、ポルノグラフィとして定義される。そうした映像が、現実における傷害と必ずしも一致しないことは、あらゆる劇作の前提である 。そして、実際に生じた傷害については、こうした条例や法律にかかわらず民事上、刑事上の責任を負わしめることが可能である。
危害がどの広さで認識されるべきかということについては、確定的な見解はいまだ存在しないものと考える。元来はMillのいう危害原理、すなわち身体的な危害を指していたものであるが、現代的にはこれを精神的(に深刻)な不快の限度にまで拡大した不快原理offense principleと言われるものまで提唱されている 。もっとも、身体的な危害については明確で客観的な基準の定立が可能である一方で、主観的な不快およびその深刻性については、客観的な判断が困難であり、現行の法システムに馴染むのかという点で深い疑義がある。
ラディカル・フェミニズムの主張する「危害」がそうしたグラデーションの中でどこに位置するものであるかは、詳細な分析を必要とする。McKinnonの言明する危害は、ポルノグラフィはそれ自体性差別であり、それによって女性が従属化されるということである。そして、そのポルノグラフィの撮影において、また、ポルノグラフィが再演されることによって、女性は「縛られ、殴られ、拷問され、貶められ、時には殺される場合さえある。あるいは、単に犯され、使用されている。視角ポルノに映し出されているあらゆる行為のために、女たちは実際に、縛られ、切りつけられ、焼かれ、猿ぐつわをはめられ、鞭うたれ、鎖でつながれ、肉吊り棒や木からロープで吊り下げられ、あるいは、……放尿させられ、排泄物を食べさせられ、ウナギやネズミやナイフやピストルで貫かれ、喉の奥までペニスで侵され、血や泥や糞便や精液で汚される。……ちなみに、膣にペニスが挿入されるという意味での性交は、そこでは副次的なテーマに過ぎない」 。すなわち、ポルノグラフィは、男性の女性に対する性欲そのものが充足されるためのものではなく(それは副次的なテーマに過ぎない)、もっぱら女性に対して暴行を加え、二級市民化することによって従属せしめることが目的とされ、そのためのプロパガンダとして成立しているものであるとされる。「ポルノグラフィは女性憎悪の純粋蒸留物であり、女性の経験の中でレイプ、女性殴打、近親姦、強制売春と結びついている。そのことを考えるなら、ポルノグラフィを擁護して発言する自称フェミニストがいったいいかなる道徳的・政治的原則にもとづいているのか、とうてい理解することができない」 と彼女は断言する。
実際にこれらが物理的危害として発生しているのならば、それは全く看過することのできない危害そのものであり、規制はされてしかるべきものである。しかし、これらは実際の刑法典、民法典の規定によって補足可能ではないか? という疑問が生じてくる。McKinnonはこれに対して、現実にそうした摘発がなされていないことをもって実質的に法は存在せず、それゆえ国家及び社会がポルノグラフィを公認していると見做される旨主張する。
McKinnonの熱烈なポルノ批判に対し、Drucilla Cornellはポストモダン・フェミズムの立場のもと、一定の距離を置く。「私たちは、ポルノグラフィの生産に対してとられるべき法的行為=措置を、ポルノグラフィの配給に特化してとられるべき行為=措置から区別すべきである。私は、この区別が、ポルノワーカーを含めた女性たちが、人格となるプロジェクトを引き受けるのに十分なだけ自己を固体化していく、というフェミニストの目的に根本的に寄与すると主張する。この産業の女性たちを連帯に値しない不幸な犠牲者として扱うことは、彼女たちの基本的な尊重を拒絶することである」 という言葉は、ポルノワーカー女性について、「ポルノグラフィに出演している女性の多くは、子どものときに性的虐待の被害者であった。……自宅から性的虐待を逃れて都会に出てきた子どもたちは、そこでヒモに拾われ、レイプされ、殴られ、麻薬づけにされ、売春やポルノグラフィに従事させられるのである。ポルノグラフィに出演している女性の多くは貧しく、たいてい教育を満足に受けていない。ポルノグラフィが存在している社会は、女性が経済的に不利な立場に置かれている社会である」 と記述するMcKinnonらを批判の対象としている。Cornellはさらに、「私は二つの特殊フェミニスト的な理由から、ポルノグラフィの規制を法律に過度に頼りすぎることに対して懐疑的である。第一に、反差別法の基礎としてステレオタイプな女性性を強化すべきではない。言い換えると、キャサリン・マッキノンの仕事のように、女性を「ファックされる者 fuckee」か犠牲者に切り詰めたうえで、そのような存在としての女性に対する保護を要求するような、文化的にコード化された女性性を促進するような法はいらない。そういうわけで私は、マッキノンやアンドレア・ドゥウォーキンのそれのような、ポルノ規制の適切な法的手段としての市民権条例案を拒否する」 と言う。
Twitter不毛すぎんか〜〜〜〜! と思って何か書こうとしたが、調べてみるとこんな良記事(https://blogos.com/article/413806/)があった。これを読め! 解散!
しかし他にいくつか思うことがあるので書く。
一に、この議論に関わらず、何と戦っているのか不明な人が多すぎるので議論の種類について整理してみたい。おおよそSNSやブログで議論/主張を行うときの目的は僕には三つくらい考えられる。1.問題を周知/提起すること・2.相手の意見を変えること・3.相手に社会的制裁を加えること、だ(いま考えただけなので他にあってもおかしくないが)。「献血のポスターが女性を性的に消費しているぞ!」というのは主に1.である。今まで問題とされていなかったことを取り上げて、これはおかしいぞ、みんな見てくれ、というわけだ。それに対して個人的に「いやその論はこれこれの部分が間違っているようだからポスターは置いても構わないんじゃないですか」というのが2.である。考え直してください、ということ。最後に「これこれの部分が間違っているからこいつはバカだ。バーカ」というのが3.で、ポスターを置くことの是非はもはや二の次、相手を排除することを主眼に置く手合い。相手のアカウントが凍結されるとか、相手が恥をかくとかそういうことを願っている。
1.と2.をはっきり区別しておきたいのだが、同じ主張であっても最終的に何らかの問題解決を目標とする場合は1.、議論自体を目的とするものを2.と(ここでは)定める。例えば、フォロワー数の少ない二人がお互いに意見を戦わせて二人なりの結論を得るのは後者。有名人同士が引用ツイートで以ってお互いの主張を戦わせ、結論には至らないまでもそれぞれのフォロワーにアピールするというのが前者だ。もちろんグラデーションは存在する。
また、2.と3.も実は区別が難しい。2.の人も、相手との対話を諦めた時点で3.になりうる。あるいは、罵詈雑言を投げながら、当の本人としては「相手に改心して欲しかった」などと2.のつもりでいる人もあると思う。これもグラデーションで考えるのが良い。1.と3.も同じ。
二に、議論をする際には目的を明確に意識すべきと言いたい。概ね文字というのは対面に比べて趣旨も気遣いも汲み取りにくい。緻密なコミュニケーションは望めないのだから、目的外のところに関しては互いに譲歩すべきである。例えば、「献血のポスターが女性を性的に消費しているぞ!」という主張と「ポスターを規制するのは表現の自由の侵害だ」という主張をお互いに問題提起として戦わせるときには、前者にあっては「宇崎ちゃんのポスターを公の場から取り除くべきである」後者にあっては「宇崎ちゃんのポスターを規制するという事態を避けるべきである」という問題を周知するのが第一義だと考えられるので、それ以外の主張の些事に関しては無視するか、好意的に解釈するか、あるいは互いを気遣いながら齟齬を埋めるのがよい。「論点をずらした」などと言って人格攻撃をするのは最悪手である。論点をずらすのはもとよりよくない。しかしその論点はそれとして別に議論すべき大切なものかもしれないし、相手には同じ論点だと見えているのかもしれない。意見が違うからと言って、そのような点で攻撃するのは礼のないことだ。「論点がずれているかどうか」などと言う最もどうでもいい議論に目的を失することのないようにするためにも、相手が論点をずらしたと思うようなときにこそ丁寧に接するべきである。さらに言えば、相手が無礼であるときに激昂するのもやめるべきだ。誰が得をするだろうか。
三に、あまり論理的に複雑なことを言うのもよくない。主張のぶつかるのは感情的な原因によることが多く、それがゆえに是非を問いにくいことも多い。是非を問いにくいので、論理的な正しさで決着をつけようとする。しかし、多くの主張にはどうとでも理屈をつけることができるのだ。なるべく大元の感情から離れぬ方が、また自分の主張が感情から生まれていることに自覚的な方が良い。例えば道路で立ち小便をする人間は不快である。彼を批判しようというときに、それが軽犯罪法に抵触するなどと言うことができる。法律があるからにはそれが成立する法学理論的基礎があるはずである。また、社会の秩序を守る上で立ち小便の位置を論じた統計的資料があるかもしれない。しかし、それらはどうしてもその論点で戦わざるを得なくなる場合以外武器とするべきでない。立ち小便が不快であるという一事から離れずともこと済むからである。だいたい、ルールと言うものはより多数の人間が良い気持ちで生きることのできるようにと作られることが多いのに、個人的感情を論理に劣ったつまらないことのように扱うのは解せないことだ。
もちろん、全く理屈を使わず議論することはできず、そんなことをすれば子供の喧嘩である。ここで言いたいのは、Aという理屈、Bという理屈を戦わせているときに、Aの些細な欠点を発展させて別の論理的戦場を作るようなことをなるべく避けるべきだということだ。立ち小便は法に触れると言った時に法治国家の是非を問う類のもの。
だいたい、論理が複雑になれば間違う箇所も増え、それが本来の主張の欠点のように見えてしまう。益のないことだ。
四に、我々はそろそろ相手のことを思いやるということを覚えるべきである。これは特に、相手の意見を変えようと思って議論する際に必要である。世に問題を提起しようとするときは、なるべくフォロワーの感情に訴えるべく強い言葉を使うことが多い。これは喜ばしくはないがある程度仕方ないことである。一方、個人的議論において強い言葉を使う必要は皆無と言っていい。主張が対立するとき、その双方が「自分は被害者であり、相手は加害者である」と思っていることは多い。宇崎問題でも「女性の権利が侵害されている」と思う人と「表現規制がなされようとしている」という人が対立する図をよく見る。被害者Aは毅然と加害者Bに立ち向かう。これを逆から見るとBは被害者であるにも関わらずAから無闇に攻撃されていると感じる。Bはさらに頑なになる。「あなたは議論のできない人なんですね」「あなたこそ話のわからない人ですね、さようなら」などという風景は見飽きてしまった。
何かを伝えたいがためにわざわざ議論を始めたはずである。努力の無駄ではつまらない。なんとか議論を成立させようというという意志をもう少し堅固に持ちたいものだ。
議論をする上は、いくら自分が被害者のように思われようと、相手に心理的負担を与えている。相手も被害者なのだという認識を持っても良いと思う。相手は怯えた獣なのだ、まずは相手の理屈を受け入れ、主張を聞いてやってもよかろう。主張を聞いて、「聞いてやったがここがおかしいだろう」という態度も問題である。こういう理解をしましたがあっていますか、私はこう考えるのですがあなたはどうですか、という謙虚さを常に持つべきだ。これは、相手がたとえ似非科学や陰謀論や人種差別といった是非もなく間違いであるように思われる主張をしている場合にもそうだ。そんな思想信条を持とうと相手は人間であり、どんな思想信条であろうと批判されるのは不快に決まっている。
なお蛇足ながら、冒頭に挙げたブログはかなり中立的に論点を示していて素晴らしいのだが、やや「フェミ」を攻撃者、「オタク」を被攻撃者と捉えているきらいがある。「フェミ」の攻撃性(のように感じられる部分、すなわち規制しろ! という主張)は根本において女性の権利が侵害されていて守らなければいけないという価値観から出たものである。さらに言えば、「フェミニスト」として一貫性のある活動をしている人々(つまり、具体的に何を規制しどんな社会改革があればいいのかに関して基準がある人)もいる一方で、単に「女性は社会の中で立場が弱くて/損をすることが多いからそれを変えたいな」くらいの感覚でフェミニストに同調している男女も少なくないように思う。前者に比べて後者はさらに攻撃に対して敏感であろうと思う。攻撃の理由に関して無知だからだ。また、立場が曖昧であること自体を批判するのは間違っている。誰でも自分の/自分に近しい人の権利は守りたいからだ。
それを考慮せずに、初めから「あなた達の攻撃は...」というとなかなか議論がかみ合わないだろう。「あなた方はこれを守りたいんですね、我々はこれを守りたいんです、利害が対立している部分を明確にしていきましょう」という立場でなけれななかなか建設的にならないのではないだろうか。
特に、一部の「オタク」は「フェミ」を十把一絡げに罵詈雑言を浴びせるし、それが被害者意識を生む。同様に、一部の「フェミ」は「オタク」(時には「男性」)を十把一絡げにして罵詈雑言を浴びせる。真面目に議論をしようとしているあらゆる立場の人に迷惑なことだ。
五に、もちろん相手が議論するに足るかどうかは別の問題である。議論すべきでないと感じた場合は直ちに議論をやめ、可能ならブロックするのが良い。ブロックするのが負けのように感じるのは愚かな感覚だ。また、ブロックした後に相手の発言を覗きにいっていちいちスクリーンショットで揚げ足をとるような行為も君子の仕業ではない。そのような卑劣な行為をするくらいならきちんと自分の心理的安全性を犠牲にしてでも相手と対等な議論を行うべきである。相手に社会的制裁を加えようとする行為は言うまでもない。
六に、この文書はSNSなどでの議論に特殊の意見であった。ディベートや日常での議論についても適用されるとは必ずしも考えない。むしろ、ディベートや日常での議論の延長線上でSNSでの議論があるような感覚の人が多いのでこのような惨状があるように思う。短い文面での主張は言い足りないことが多く、普段耳にする意見に比べて拙く見えることがある。しかしそれはコミュニケーションの不備であり、相手の不備ではない。自分の意見を相手が理解できないように感じるのも同じ。普段の十倍、百倍に相手への思いやりと好意的な解釈を必要とする。
これ微妙に叩かれてるけど、何もおかしなこと言ってないでしょ。
「批判してる側が全面的におかしい。配慮する必要は一切ない」と認めさせるにしても議論は必要だと思うよ。少なくとも現状では。
あいトリについても、色々と不備・不用意に文句をつけたいところはあれど、脅迫を容認していいわけがないのは大前提なわけで。
宇崎ちゃん騒動、表現の自由の範囲内と思うけど累積的な社会的文脈やジェンダー状況からあれ見て(グラデーションはあれど)不快に思う女性がいることは事実なわけで、あれを相互理解目的とした議論にどうつなげるかが重要なのでは。もっともあいトリは脅迫でその議論の場すら奪われたわけですが……。— 津田大介 (@tsuda) October 30, 2019
宇崎ちゃん騒動、表現の自由の範囲内と思うけど累積的な社会的文脈やジェンダー状況からあれ見て(グラデーションはあれど)不快に思う女性がいることは事実なわけで、あれを相互理解目的とした議論にどうつなげるかが重要なのでは。もっともあいトリは脅迫でその議論の場すら奪われたわけですが……。— 津田大介 (@tsuda) 2019年10月30日
こいつに関しては宇崎ちゃんの事も言える義理ではないし、著作権のパブコメもほぼ放置して、あいトリの事ばかり夢中になっていたのだから、こんな事言える義理はないよ。
MIAUは最後の最後で夏休みの宿題みたいにパブコメ提出したみたいだけど、実質今回何もしていないのと同じだしね。
何せこのおかげで、言論の自由や表現の自由においてはリベラル左翼やフェミのダブスタっぷりが世間に露呈したのも事実だしね。
知事もそれまでは割と世間でも同情的意見もあったのに最後の最後のあの発言で、これまで同情的意見をしていた人からも総スカンを食らったのも面白いね。
彼等はここでも失策を犯した。
あいトリに関しては右も左も偏り過ぎたら、結局は言論や表現弾圧すると言うのが今回得た教訓じゃない?
今回に関しては明らかにリベラル側の失態の方が多すぎるのも事実としてあるけどね。
それと津田大介氏と岩渕潤子氏は完全にネットの玩具になってる感はある。
https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20191031/3000007469.html
面白いな。
あ、公認心理師も取りましたが、心理師より心理士表記のほうが何となく好きです。
「師」って強そうすぎる。
ネットワーク会議に出たり、セミナーの講師や企画運営もしています。
心理士として
相談者を怖がらせない。
を目指しております。
カウンセリングは、カウンセラーが相談者の問題を解決してあげることではなく、
相談者が解決の糸口を見つけて、それを実行するために伴走するようなものなので、
というのが前提としてあるわけですが。
一般的には「悩みを解決してあげる」のがカウンセリングと思われがちですが、
そんな魔法のようなことはできませんよ。
自分で動いて行ける!と思える程度の後押し。
素晴らしい人におんぶにだっこで丸投げしたいを刺激しない程度の後押し。
カウンセリングについて語ると長くなるので、
考えたいんですけど、考えているんですけど
一般的な職場のメイクって、ほぼほぼキリっと頼もしそうな感じ、みたいですよね。
ちょっとそぐわないと思うんです。
心理士って。
信頼はできるけど親密ではなく、依存も(できそうに)ない距離感。
だからいわゆるバリキャリなメイクは心理士っぽくないわけです。
頼もしすぎるし、印象に残りすぎる。
今度は色気が問題になるんですよ。
別職種の友達に「モテメイクは?」と言われたので、調べてみましたが、
すぐ「蒸気肌」とか色気につながってしまうんですよね。
ほぼすっぴんみたいな感じで…。
そう、たしかに「美しくなくてもいい」わけですけど、
今のところ、印象にそれほど残らなくて、
自分がボチボチ納得できる程度のお化粧のポイントをまとめます。
私はブルベ冬です。
普段もそんなにきりっとしたくないので。
顔が派手なので、アイメイクしなくてもいいぐらいなんでしょうけど、
アイメイクが好きなので、いい感じの妥協点を探し続けています。
最近はラブライナーのバーガンディブラウンが優しそうで好きです。
細めに入れて、目じりは伸ばさないです。
でもやっぱりアイラインひかないほうがいいのかなぁ…。
NOメヂカラ。
アイシャドウはグラデーションであまり色味を感じさせないように、
ヌーディな感じ。
やっぱり研究中です。
いわゆる「愛されメイク」みたいに入れたほうが、
多分塗らないほうが、印象に残らないんでしょうけど。
ビューラーでは上げません。
少しでも目力を弱めるため…。
でも私、してなくてもまつ毛けっこう上がってるほうみたいです…。
チークは、斜めに入れないように。
色味は感じさせないぐらいがいいですけど、
クリームチークで、パウダーの下からじわっとぐらいがいいんだろうなーと思うんですけど、
キャンメイクのパウダーチークのスミレパープルが良かったですが、
私は本当にブルベなので、あまり参考にはならないでしょうね…。
幼くもならず、発色も強くなく、白くもならず、印象に残らない健康的な色味です。
艶=色気というより健康を目指して。
でもシェイディングは、輪郭に入れる程度です。
ノーズシャドーとかは違うなと思って入れてません。
ただ、口角にコンシーラーを塗って、
にっこり口に見えるように、は確定しています。
色はねー、難しいですね。
健康的には見えたい。
でも口紅でしっかりした色をしっかり塗ると、
しっかりして見えちゃうので、
なのでくすみピンクの色付きリップとかを今のところ使ってます。
フローフシ(今はUZU)の3℃が好きです。
健康的と言われやすい、コーラルピンクやオレンジは私には全然似合いません…。
今のところこんな感じです。
書いてて思ったんですけど、
メイクってどちらかといえば、他人の印象の残る方向性が強いのにもかかわらず、
私が目指しているのは、印象に残らないって方向なので、
そりゃあ難しいですよね。
でもカウンセリングは「カウンセラーの先生のおかげです」と言われたら失敗だと思っているので、
ルーツが一緒というのが事実としてあったとしても、現在の萌え絵(ラノベの表紙とか)と実際の少女漫画絵はだいぶ違うから、萌え絵と少女漫画絵はグラデーションが境界が曖昧というのは現時点では成り立たないのでは
一流派切り開く時点でヤバイけど、漫画であんな眼の描き方してんの種村しぇんしぇー以前は居ないよ?(私の観測範囲だけど)
それ以前は虹彩にグラデーション掛けるくいであそこまで描き込んで無かった
美麗な絵を連発していたCLAMPしぇんしぇーですらそうだった!
現代の少女漫画絵と現代のオタク絵は同祖(80年90年代の少女漫画絵)だからだよ
旧来の少年漫画絵は手塚治虫・赤塚不二夫ライン、これは現代のコロコロコミックあたりが引き継いでる
手塚治虫・赤塚不二夫ラインの少年少女漫画絵はよりリアリティを求め、従来の絵物語で有名だった永松健夫(黄金バット)あたりと合流し劇画絵に発展した
劇画絵は石ノ森章太郎(仮面ライダー)や車田正美(リングにかけろ)あたりが有名かな
劇画絵の影響は少女漫画にまで波及して有名な池田理代子(ベルサイユのばら)や美内すずえ(ガラスの仮面)などの作家が有名になる
その後、篠原千絵(闇のパープル・アイ)が登場し劇画絵の印象を残しながらも線が徐々にシンプルになっていく
よりシンプルな線となる流れを決定付けたのが池野恋(ときめきトゥナイト)の人気が白熱したことだろう
池野恋からの活躍から従来の劇画絵ベースの少女漫画絵はレディースコミックが継承することになる
このあたりから少年漫画雑誌に線がシンプルになりつつもリアリティを残す少女漫画絵調の作品が増えてくる
代表的なのが桂正和(電影少女)やあらいずみるい(スレイヤーズの挿絵)など
更に線がシンプルになる流れへ拍車をかけたのが武内直子(美少女戦士セーラームーン)やCLAMP(聖伝-RG VEDA-)や吉住渉(ママレード・ボーイ)の人気
そして全漫画業界のパラダイムシフトと主張して過言ではない種村有菜(神風怪盗ジャンヌ)が登場する
種村有菜の登場以降、それまで人気だったスレイヤーズの主人公リナの元々大きかった目がより大きくなり線も柔らかくなるなど強い影響を見せた
-----
つまりまとめると篠原千絵と池野恋が劇画絵を整理して少年漫画は少女漫画から絵柄を輸入しつつも種村有菜が完成させた
現在の萌え絵(オタク絵)は少女漫画ベースで出来ており、2000年代以降の雰囲気が変わったオタク業界で人気だったいとうのいじ(涼宮ハルヒの憂鬱の挿絵)などはCLAMPの影響を受けたと明言している
もし萌え絵が少年漫画をベースとしているなら現在のコロコロコミックの絵柄に近くないと説明が付かないんだよ
そのラインを引き継いでる作家を敢えてあげるなら吉崎観音(ケロロ軍曹)あたりであり、萌え絵(オタク絵)としてイメージされる絵柄とは一線を画す。けものフレンズは大ヒットしたけどね
4コマ漫画へ強い影響を見せたあずまきよひこ(あずまんが大王)も武内直子などに影響を受けていると明言している
意図的に混同というか実際のところ少女漫画絵と萌え絵(オタク絵)の境界線は曖昧なグラデーションであり混同するとかしないとかそういう話じゃないんだよ
例の日本赤十字社のポスターの件について、できるだけ冷静に考えてみたい。
SNSでの反応を見る限り、多くの人が感情的になっているようだし、それぐらい繊細な問題だと思うので。
■
まず、そもそもこういう図象への評価に関して、黒か白か、というのはほぼ存在しないはず。
「これは多くの人が不快に思うだろう」
「これは不快に思う人は少ないかもしれないが、マイノリティの方が不快に思うかもしれない」
「これは多くの人が不快に思わずマイノリティへのケアも十分だろう」
これはアウトかどうか、NGかどうか、という思考で考えては、あまり議論は発展しない。
しかもコンテンツの作品背景は、公的な場所に出ると、共有されない。
いくら「そのキャラはそんなキャラじゃないんだよ」と言っても、一定数それを共有できない人がいる。
だから、結局は、
・作り手の意図はどうか、
・構図やメッセージはどうか、
その意味で、町山智浩さんの言うような「キャラ単位」での是か非か、というのは繊細さに欠けている。
同じキャラクターであっても、「OK寄り」のこともあれば、「NG寄り」のこともありうる。
たとえば、今回の「宇崎ちゃん」にしても、こういうカットだったらどうか。
https://ameblo.jp/imomochi895/image-12491865257-14496415971.html
・少なくとも、胸が強調されるような構図にはない、ように見える。
・女性が主体的に発言しているカットで、女性を客体化しているかどうか、という点に関してもクリアしている、ようには見える。
「かもしれない」と歯切れの悪いことを書いているのは、それですら世に出す前に、複数の人が議論したうえで出すべきものだと思うから。
・たしかに、胸が強調され、そこに視線が向くような構図になっている。
・しかも、表情が、(キャラの作品背景を共有しない人にとっては)男性に媚びている、ようにも見えるかもしれない。
という点で、「NG寄り」だとは思う。
だから、このキャラはOK、このキャラはNGなの? という議論はあまり意味がない。
ワンピースのナミだって、「OK寄り」であることもあれば「NG寄り」なこともあるだろう。いくら作品の中でナミが主体的に振る舞う強い女性であったとしても、構図や文脈によっては、その背景を知らない人にとっては、客体化されたような存在に見えてしまう。
・水原希子は、媚びるような表情をしておらず、主体的である、ように見える。
・構図的にも、胸を性的に強調しているわけではない、ように見える。
という点で、「OK寄り」だとは思う。
が、この表現を「掲出する場所」によっては、反感があることも想像できる。真っ向から否定する人がいてもいいと思う。そこはまったくの自由。
ただ、現状の、広く共有されていると思われる規範に照らし合わせて言えば、小学校の目の前に大きく掲出される、ということではなく、売り場のある商業施設の圏内で掲出される、ということなら「OK寄り」と判断するのが個人的には妥当だと思う。
■
そもそも赤十字のポスターが世に出る前に、表現チェックがどれぐらいなされたのか、どうか。
それを掲載する媒体の考査において、十分な議論がなされたのか、どうか。
そこの点がクリアにされないまま、「セクハラという認識は持っていない」と表明した日本赤十字社はやや乱暴だ。
もちろん「環境型セクハラ」という言葉がバズワードになって、誰もが思いを詰め込めるブラックボックスのようになったこともあって、その意味でセクハラではない、と、それこそ送り手としての想いを詰め込んで回答したのかもしれない。
これほどの反響があった、のであれば、どこかに問題があったのかもしれない、送り手側が読みきれなかった部分があるかもしれない、少なくとも、もう一度吟味と議論を重ねてほしいと思う。
SNS時代、それぞれが生きている文脈は、かなり分断されている。みんなが共有する文脈、はなかなかのレアだ。だからこそ、従来以上に、表現を送り出すとき、様々な文脈を考慮して、絶えず吟味して、議論する必要があるのだと思う。
長々と書いてしまった。
この件について、個人的「快・不快」や「お気持ち」が目立ちがちでしかも「表現の自由」に議論がスライドしているように感じられ、さらには表現そのものが成立する背景の複雑さがどうも単純化されているように思われ、表現に関わる者として、ちょっと苛立ってしまったのだと思う。できるだけ冷静に書いたつもりだけれど、この文章にも苛立ち反感を覚える人もいると思う。
それでも。
なんだか表現することが息苦しく感じるかもしれないけれど、そんな現状の中でも、爆発的に共感されたりポジティブな衝撃を与える表現者はいてそんな表現者たちは、ものすごくパワーを与えてくれる偉大な存在だ。
反復による規範化を問題視しているようだけれど、今現在それが繰り返されているわけでもなく、今後繰り返されていくであろうという見通しも特にないような事象について「規範化しちゃうからダメ」ってのはちと違うと思う。
広告表現が色気たっぷり萌え絵路線にどんどん偏向してきているならともかく、現状は逆に表現形式はどんどん多様化していて、その中で狙い撃ちで「ただ萌え絵、お前はダメだ」と言っているにすぎない。
グラデーションで広がっている多様な表現の中の好きなところに「ここから先は規範化すると危ないライン」みたいな線を勝手に引いて制限しろと言っているんだから、ここまでの萌え絵排除派の主張から結局一歩も出てない。
横だけど、これを言うと必ず「アレがエロに見えないのは感覚が麻痺してるから〜」という反論が来るので先回りしておこうか。
それを「エロいものとして見る」ことと「エロいものとして描く」ことは違うし、それらもさらに「ファッションとしてのエロさ」と「性産業的なエロさ」が区別される。もちろんその間はグラデーション状になっていて、容易に区別することはできないけどね。
そうした違いを全部無視して「猥褻」とレッテルを貼るのは、結局ミニスカートを履く女性や女装する男性に「はしたない」「みっともない」と投げかけるのと同じ。
性表現がアイデンティティと密接に結びついているというリアルな現象が見えてない。
献血のアレはどう考えても「ファッションとしてのエロさ」だろう。たとえそこに「性産業的なエロさ」を見出す自由があったとしてもだ。(難しいのは、たとえ出力が「ファッションとしてのエロさ」であっても、描き手自身がそこに「性産業的なエロさ」を見出していたり、また「性産業的なエロさ」をアイデアの源泉としていたりすることが少なからずある点。しかし内心がどうあれ出力は変わらないし、プライバシーに踏み込むべきでもない。)
無理でしょ
現代戦はクラウゼヴィッツの戦争論と孫子の兵法が思想的ベースになっていて、ここへ航空戦力を追加した形になっているのよ
これら2大戦術書の戦争の結論は「戦争とは外交手段の1つである」というもの
つまり対話外交と戦争は別個のものじゃなくて境目が曖昧なグラデーションの地続きだという解釈になっている
この結論の恐ろしいところは、この結論を採用しているのは日本だけじゃないということなんだよね
軍事力を抱くすべての国々がこの結論を支持していると言っても過言じゃない
日本がいくら対話外交を叫んだところで他国はグラデーションなので「気付けば事実上の戦争状態」ということになるわけですよ
マジでその考えが通用するなら運輸業界は採用しているだろうし、ググったらすぐ出てきたけれど確かに運輸業界は憲法改悪に反対していて対話外交へすべての信頼を寄せていないようだ