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2018-04-26

anond:20180324143458

私も最近ツイッターしんどくなって

増田に呟いて、Instagramはじめて

ちょっと楽になった

はてブでだれかコメントしてたけど

ママ友たちの会話に愛想笑いしてる」

状態まさにそれ

増田ツイッター匿名だろ

っていうけど、ツイッター趣味仲間の

交流に使ってる人もいる

ママ友趣味仲間も嫌なら切っちゃえ

という声もわかるけど、どこかで顔を会わせることもあるし、なかなか…

絵でもぼやきでもチラシの裏かいとき

いいんだけど

電子の海に放流したくもなる

(誰かからなにかしらリアクションがあったりする)

ツイッターに集中しすぎなくなったよ

ありがとう増田

2018-04-18

結婚なんかしなくてもいい

タイトル結婚して数年経った私が使う、独身の友人の「結婚できるのかな…」というぼやきへのお決まりの返答だ。

だいたいめちゃくちゃに酔っ払ってる時に限ってそういう話になるのでかなり熱弁を奮ってしま相手の酔いを覚ましてしまうので毎度反省している。


けれど、コレはかなり深い部分の本音だ。

決して夫との結婚生活否定したいわけではない。

私なりに幸せだし、楽しい

それでもやっぱり「結婚なんかしなくてもいい」と思っている。


私は30歳を少し過ぎて結婚した。

仲のいい友人がひとり、またひとりと結婚していき少々焦りもあった。

けれどそれは「私だけ結婚できないのでは…?」という焦りではなくて

「私だけ誰からも選ばれないのでは…?」という焦りだった。


プロポーズがされたい。

かに選ばれた証明がほしい。

誰かのたった一人に選ばれたい。


独身の私は自分の言っている「結婚したい」という願望は「プロポーズされたい」のルビが振られているのに婚約直前に気づいた。

私は、プロポーズされることで自分承認欲求を満たしたかったのだ。


当時5年近く付き合って結婚の話も出ているのにプロポーズをしてこない彼(現夫)にちょっとイライラして、

結婚するの?しないの?」と詰め寄った事があるが「そうだね~」と軽く流された。

別に結婚する気がない」って言われたらその場で別れるとかそういうつもりはなかった。

ただ、「結婚する気がない人と付き合ってる」という心の準備が必要からはっきりしてほしかった。

彼にもそう伝えたが、今思えば強がりウソと思われていたかもしれない。


でも、結婚する気がある彼と付き合っていてプロポーズされないのと、結婚する気がない彼からプロポーズされない

のでは天と地ほどに差がある。

そもそも誰も選ぶ気がないのであれば選ばれないのも当然で、自分に否があるわけじゃない。

自分だけ誰からも選ばれなくても言い訳ができる。

結局彼は誰かを選びたい人だったので、うだうだ待つのもめんどくさいからと半ば強引に入籍したのだ。

(選ぶ選ばない、という言葉を使っているがそれは私が結婚に対して「承認欲求をみたしたい」という願望が

あったためで、決して結婚は男が女を選んでするものだなんて思っていないことは付け加えておく。)


仕事趣味で認められていたら彼に「結婚は?」詰め寄ることもなかったかもしれない。

けれど、仕事能力も並で特別「私でなければならないこと」はなかったし、趣味ほとんど無趣味に近いし趣味の友人なんていなかった。

その点、結婚日本では1人としかできない。彼が選ぶのはたった一人。

から結婚たかった。


要は私は承認欲求が満たされれば結婚しなくても良かったのだ。


それが自分の中で分かった時、すごく楽になった。スッキリした。

すでに結婚は決まっていたし後悔もしていなかったけど、なんだか「な~んだ、私、誰かに認められたかったのか」と

自分の中にあったドロドロとした焦りの正体が分かって晴れやかな気持ちだった。


そこで周りを見渡してみると「結婚したい」と酒を飲み、酔っている友人たち。

彼女たちはなんで結婚したいんだろう。

軽い気持ちで聞いてみるとざっくりと「いい歳だから」「子供が欲しい」「親を安心させたい」というような理由が多いようだ。


いい歳、と言うけれど晩婚化が話題になっているし60代で初婚という話も最近割とよく聞く気がする。

そもそもいい歳、というと結婚しても専業主婦になる女性が少なくなっている現代。働き続ける女性にとって

いわゆる結婚適齢期というのは仕事にとっても「いい歳」だ。


結婚すると女性はい妊娠し育休に入るかずっと上司たちに気にされ続ける。

最近よく記事で読むような「結婚して子供を産んでも変わらずキャリアを積んでいます」という美談

あんなのほとんどの会社では叶えられない。

一応私は大手企業に属しているが組合が強く、女性社員の活躍がうたわれており組合が強いだけあって実際色んな制度も充実している。

だが、女性管理職は少なく、その中で既婚の女性管理職もっと少ない、

さらに言えば子供がいる女性管理職はいない。

でも、結婚している人や子供を産んだ一般女性社員は山のようにいる。

彼女たちは結婚し、子供ができれば産休・育休をとり、子供が小さければ時短勤務だ。

仕事だってそれなりにできる彼女たち。未婚の管理職と同じくらいの年数働いているのに管理職はこの中にはいない。

この現実をみてると、仕事を頑張りたい・いつか管理職になりたいという女性社員にとっては結婚は足かせなのではないかと思ってしまう。


子供だって自分自身の覚悟があり、きちんと将来的に子供を納得させられる理由があれば未婚の母を選択して育てることは十分可能なのではないだろうか。

両親揃っていることが好ましい、そりゃ1人を人間を1人で育てるよりも誰かと分かち合った方が楽だし、子供にとっても頼れる相手が1人でも多い方が幸せだろう。

だけど、その分かち合う相手子供が頼る相手結婚相手じゃなくてもよいのではないだろうか。

自分の親兄弟でもいいし、信頼できる親友だっていいんじゃないかな。

同じような考えの人達でも良いかもしれない。

血がつながってなくてはいけない理由も、同じ戸籍に入ってなければいけない理由もない。


ただ、親を安心させたい気持ちはよく分かる。

親に花嫁姿見せたいよね、一生添い遂げるパートナーを紹介して安心して老後過ごしてもらいたいよね。

本当によく分かる。

世代祖父世代は、子供結婚するということに大変な安心感を覚えるのは自分の両親を見ていてわかった。

本当に子供から手が離れた瞬間だったんだと思う。自分以上に両親が幸せそうだった。

でもそれは、それ以外のことでカバーできると思う。

子供が本当に不幸でないことが、親にとって1番必要なことで、それには結婚絶対条件ではない。

結婚しても不幸になるし、しなくても不幸になる。

結婚という要素の1つだけが、その人の人生幸せ全てを左右するものではないと思う。


でも、結婚しないという生き方には結構勇気がいる。


いまだに男女ともに「結婚して一人前」という意識が根強い社会だ。

ずっと「結婚したいと思わないの?」とか「なんで結婚しないの?」という質問を受け続けるし、そのうちそんな質問もされなくなって周囲の結婚話題の際に気まずい空気を作り出す原因になるかもしれない。


それに、年老いからの1人はなかなか大変だろう。

結婚していればお互いでどうにか助け合えるかもしれないし、子供がいれば施設に入れるくらいしてくれるかもしれない。

でも1人だと、全部自分でやらなければいけない。

ならいい、若いうちなら体調が悪ければ病院に1人で行けるし、病状もうまく説明できるだろう。

施設だって自分希望にあった場所を探しせるし、空きがなければ他の施設も探せるだろう。

けれど、老い私たちに優しくない。

自分だけで移動できる距離時間は限られてくるし、病状もうまく言葉が出てこないせいでうまく伝えられない。

運良く施設を見つけられても、諸々の手続き老い自分が1人でできるだろうか。


なにより、死んだ後だ。

運が良ければ病院死ねるだろう。

けど、死んだらその入院はいつ誰がはらってくれるんだろう。

火葬や納骨の手続きは死んだ自分にはできない。

誰かを頼らなざるを得ないときがくる。


でも、社会とのすり合わせも、老後も自分が納得・始末できればそれでいいんじゃないだろうか。

1人で生きていくと決めたなら早め早めに準備すればいいだけだ。

元気なうちに色々準備してしまえばいい。

自分のことだけでいいんだから比較的身軽なはずだ。


私は結婚を後悔なんてしたことありません!なんてきれいごと絶対に言えない。週に3回は後悔してる。

お金スケジュール自分ひとりの判断では決められなくなったし、別にこっちは気にしてないのに「夜の飲み会旦那さんに悪いから」という気遣いで呼ばれなくなった集まりもある。


反対に結婚していないとできないことってとっても少ない。

生活ほとんどは、ひとりの方が都合がいい。

そんなの分かっていて、わざわざ他人との人生を選ぶ。

世の中には私も含めて物好きが多いな。


結婚はただの契約だ。

婚姻届をもって他人家族になります裏切りません。相手人生にも責任を持ちます

という内容の契約


そして、結婚呪いだ。

ひとりでも楽しく生きていける時代なのに、男女ともに結婚をしていないと一人前に扱われない。

結婚していないと性格に難があるんじゃないか邪推される。

結婚じゃないと承認欲求が満たされない。

どんどん結婚という言葉人生を縛られていく。


から言いたい。


いいんだよ、結婚なんかしなくて。

結婚はうまくいけば確かに幸せだ。

けれど、それはひとりでいたら得られる幸せを捨てることだ。


どっちの幸せを捨てるか。

それを選ぶ自由が、現代では生まれつつある。

前述したように、まだまだ結婚したら一人前という社会ではあるけれども、若い子たちはそうでもないんじゃないだろうか。

これから私達が生きるのは未来だ。口うるさい人たちはきっと私達より先に死ぬ


そう思えば、どちらの幸せを選んだっていい。

ひとりの生活楽しいなら、結婚なんかしなくてもいい。

誰かのために」なら、結婚なんかしなくてもいい。


それが選べる友人たちが少しうらやましい。

2018-03-06

親のかたきをうつ

キーボードを強打する癖がある。

特にエンタキーには特別強く叩くくせがある。

タカタカタタカタ、タ、ターン

というやつだ。

ある時、エンタキーにヒビが入ることがあった。

ちょっと誇りに思えた。

キーボード強打音をうざく思う人もいるらしく

たまに役員から指導を受ける。

キーボードもう少しく叩いたら?」

キーボードうるさいわ」

キーボードを思いっきり叩くの何なの?親のかたき?」

そう、キーボードを強く叩くのは親の仇討ちなのだ


わたしがまだ小学生だったころ、うちの両親は自営業

電算写植仕事をやっていた。

電算写植もどんどんあたらしい機械がでてきたが、

特にサザンナは画期的で、サザンナが欲しいというのが父のぼやきでした。

それからMacintoshDTPができるようになり、

アドビフォトショップ(当時使いだし頃は確か2.5)とイラストレーター(ver忘れた)や

クォーク、ページメイカーなどが世に出始めるとあっというまに電算写植駆逐されたのでした。

父は電算写植にこだわりすぎたのだと思います

結局、あたしい時流の波にのれず、最期までサザンナが欲しいとつぶやきながら、

アップル爆弾マークよろしく、突然死してしまいました。

それから2ヶ月後、母も後を追うように亡くなりました。

なんの因果か、わたしDTP生業としておりますが、

いつかは親の仇を撃ちたい。

その一心キーボードを打っているのです。

2018-03-04

老害になってしまった自分

ライトノベルブーム記事を見た。自分認識では漫画ラノベももう売れなくなっててゆるやかに終わりつつあるジャンルという感じなんだがそうでもないのかね。年取ったせいで自分はもうああいうのは楽しめなくなったというか、小説アニメ映画も含めてフィクション全般バカバカしくて見てられなくなった。なんでこんなもんに熱中していたのか、時間無駄だったなと後悔している。

こういうことを言うとすぐ「時代についていけなくなった老害」だと非難されるわけだが、40代50代にもなって漫画ラノベアニメ小説映画かにはまってる人間は「老害」ではなくて賢い人間なんだろうか。たかフィクションを楽しんでいるだけの人間がなぜそんなに偉そうにしているのか。ある程度の年齢になればフィクションの底の浅さに気付くだろう。それでもまだ若い頃はそういう底の浅い陳腐ものをあえて楽しんでいたりもした。しかしそれも限界に達する。もはや底の浅い陳腐ものをあえて楽しむという趣味にも飽きてしまう。

真性オタクは底の浅い陳腐ものをあえて楽しむ趣味40代50代になっても依然として続けている。現代出版事情においては彼らのような真性オタク漫画ラノベ買い支えている。記事によるといまだにブームということらしいし、ますます拡大を続けているという。底の浅い陳腐ものをあえて楽しむ趣味を飽きずに続けている40代50代がこれからもどんどん増えていくんだろうか。

あえて「時代についていけなくなった老害」として言わせてもらうと、自分はそういう連中を不気味だと思うし、不憫だとも思う。しかし同時にすごいことだとも思う。その辺の底の浅いつまらない作家が書いた陳腐な作り話に熱中して子供のように感動してしまう真性オタクたちはある意味時間を超越した存在でもある。彼らは年を取らないし、永遠に子供と同じ感性のままで生きている。飽きるということがない。同じような感動ストーリーを見てもまるで初めてそういったものに接したかのように純粋に感動するし、「既視感牢獄」などといって作品批判をすることもない。彼らの漫画ラノベ体験はつねに新鮮で、生き生きしていて、色彩豊かで、刺激に満ちている。正直うらやましい。

話が飛ぶが、自分はもう人生に飽きてしまった。何をやってもつまらない。人間限界を感じるし、さらに壮大なことをいえば宇宙限界を感じる。毎日無力感との戦いだ。すべてが想定の範囲におさまってしまう。想像力の飛翔とも思えた漫画ラノベですらもう自分には何の目新しいこともない。どの作品既存の設定や筋書きの配列や条件や固有名詞ちょっと変えただけ。すべてが想定の範囲できれいに丸く収まる。想像力は飛び立つのではなく、磁力に引きつけられて大地に叩き落される。ああやっぱりそうなったか。飛ぼうとした人間はいくらでも見てきたが、結局だれも飛べなかった。

とまあこんなことを書いてみたが、こういう老害ぼやきすらすでにテンプレであって、こういう言説自体にすでに飽き飽きしている。そしてこういう文章に対してどういった批判がくるかもまた自分にはわかってしまうし、多くの人はそうなんじゃないだろうか。作品があり、老害から作品批判があり、作品批判する老害への批判がある、ここまでがセットだ。そしてこの一連のテンプレ的やりとりにすら飽き飽きしている。もしかしたらすべてのやりとりは簡単AIで十分なのかもしれない。飛べていると錯覚している真性オタクたちと飛べていないことを自覚している老害。飛べているという錯覚はいつでも想定の範囲陳腐さだが、飛べていないという自覚もまた同じくらいに陳腐ものだ。ここには弁証法的なものはない。反発しあう二つの力が化学反応を起こして何か新しいもの創造するわけでもなく、目新しくもないその場限りのテンプレ的反目が未来永劫断続的に続くだけ。端的に言ってすべてにもう飽きている。飽きていること自体に飽き飽きしている。

こうやって死を受け入れていくんだろうなどと最近は思うようになった。子供のころはなぜ人間は死ななければならないんだと苦悩していた。そんな理不尽があっていいのかと。しか自分も年をとってきて、人生に飽きてきて、だんだん死に対する態度が変わってきた。死は救いであるとまでは言わない。自分の中では死というのはそんなに肯定的で前向きなものでもない。死は眠りに例えられることが多いが、まさに穏やかな眠りといった感覚に近い。肯定でも否定でもない。ごぼごぼとあぶくの音がする。そこに自分がとけていく。

世界はとてもつまらなくなった。それは自分がつまらなくなったからだ。そういう反論は多い。たしかそうかもしれない自分はつまらなくなった。射精快感最近全然感じなくなった。ただ精液が弱々しく飛び出るだけ。初めて射精したときのあの凄まじい快感は一体何だったのか。あのころ自分が本当の意味人生を知ったのだと思った。射精のない幼少期はピントの定まっていない夢のように思えた。あの凄まじい覚醒感はなんだったのか。生きてるって感じはなんだったのか。いまはもう射精にも飽きてしまった。自分射精は想定の範囲におさまっている。天井まで飛んでいくように思えたあの青春はなんだったのか。

すべてに飽き飽きしていて、刺激に対して鈍感になってしまった。資本主義社会の虚飾にはうんざりしている。どうして馬鹿騒ぎできるのか、どうして楽しめるのか、自分にはもうわからない。つい最近オリンピックをやっていたが、当然まったく見ることはなかった。子供のころそんなものにワクワクしていたのはなぜだろう。

まあとにかく結論はない。昼食はカントリーマアムコーヒー。これだけは欠かせない。

2018-02-23

うつになってから干支が一周した(人生ころがりんぐ)

長文。

25のときプロジェクトがおおこけしから課長パワハラを受けながらのプロジェクトが続いた。終電タクシー徹夜を繰り返す毎日若さ馬鹿さは紙一重。当時は身体など気にせず、心がおもむくまでの天才プログラミング毎日続いているなどと勘違いしていた。

最終的にそのプロジェクトは、新卒がぶらぶら入ってきて、自分は「あいつらのほうがおまえよりも生産性高いし、まじでいままで何やってんだよ」と罵倒され続け、心がくじけてしまった。最終的には、どうでもいいテスター業務なんぞやらされ(実装屋としてはそのころからテスターは大っ嫌いな仕事)をやらされて、もう気持ちが参ってしまった。

その時まで、いろんな組み込みをしてきた。SCSIとか、USBとか、画像処理とか、JPEGとか、MPEGとか。会社勉強して、組み込んで、間違えて、直して、テストして、OK/NG見て。心がNGラインの曲線を描きながら、父に殺せ、母に殺せ、と実家暮らしが災いした。死ななくてよかった。(そこから数か月工場に通ったが、朝が早すぎて体力的に持たなくなってしまった。同時にパワハラからうつが、どんどんとひどくなり、結局持たなかった。(その後パワハラ上司は窓際に追いやられたらしい。)

会社を辞めてから、なぜかコピーライターになりたくなってしまった。そして実際に2つの会社経験し、泣きながらやめることになる。

一つ目の会社は、有給がなかった。コピーライター養成講座に通いながらハローワークで見つけた求人で、「有給ないんですか」って言ったら「んなもんねーよ」と、確かに誰も文句ひとつわずに、有給なし、ボーナスデザイナーのみ(デザイン事務所だったから)、うつは隠して働かないとで、結局、夜は全く帰れず病気が辛くなり辞めてしまった。

それからもう一社で働いたが、Macの起動音を聞くと辛くなるほど追い詰められ、結局退社。(それ以降、Macどや顔している人たちにはちょっと嫌な気持ちを抱く)

さあ、じゃあ、自分は売り物があるんだ、結局プログラミングしかないじゃないか、とJava屋さんに転向。この時の身売りが結局今までを何とか結び付けた。

月の残業20時間程度、終わった後の主な業務飲み会っていう天国に(一回終電もあったけど、すげえ怒られた記憶もあったけど、一回土曜日出勤してピクニック気分で派遣さんがお弁当作ってきてくれたけど、ほんとにいい思い出しかねえ)。

3年ほどプログラマをしてからライター転向したり、自分にとって屈辱的なテスター転向したりなどしつつも、幸せ生活を保っていられたのが崩れたのは会社上場。それによって何もかもぐちゃぐちゃになった。社内政治が生まれ、嫁をとった自分には再び苦しい現実が続き、「あの野郎、ぶっ殺してやる!」という罵声が飛び、結局従い、残る人は残る人、辞める人は辞める人といった選別が行われ、結局辞めざるを得なくなった自分は、何のあてもなく千切れる糸を眺めていた。

そのころ、地震があった。テレビから逃げられず、結局3か月休んだ。フラグは立ちまくった。

その後、何とか働かしてくれる取説会社があった。まじめに働いててもそもそも英語力のなさで各方面迷惑をかけた。

迷惑をかけながら、結局自分障碍者ではないのか、という疑念がわいた。それをあまり検証せず、もう現状の仕事を続けていくのは無理と感じた。

今は大手企業で、障碍者枠で働いている。

でも割と給料暮れるし、そこそこ幸せ。いつかは正社員か。などぼやきながら働いている。

落ちて行っているのか、どうなのか分からないけど、誰の参考にもならないけど、生きるって、こういうのもあるんだよっていうのを増田ってみました。

奥さんは偉い人の部類(ヘレンケラークラス)なので、この自分語りからは除いていますいつまでも偉い人です。

2018-02-20

静かな所に行きたい

40代。既婚子無し。都心に住んで都心で働いている。出世コースに乗ってはいないが、取り立てて不満の無いポジションにいる。暮らしにも仕事にも急を要する不満は無い。

けれども一つだけ。騒がしいのが苦手でならない。仕事でもプライベートでも都心ではどこに居ても、常に騒がしくてかなわない。過剰な笑い声、貧乏揺すり、飲食店でのクチャクチャ音、クルマクラックション、電車の中のイヤホン音漏れ、常に何らかの不快な音が耳に入って来て堪らない。心から落着くのは自宅の部屋の中だけだ。

そう書くと、速攻で鬱の気があると返される。まぁ若干はそうなのだろう。が。音以外に関しては大過なく日常生活を過ごせている。外出それ自体楽しいし、人付き合いも苦では無く、自宅に引きこもるのは嫌だなと思う。でも騒がしい環境には結構消耗させられる。

一方、国内旅行地方に行った際には、必ず夜中に宿の周囲を散策するのだが、殆ど旅行先で、その静けさに驚かされる。聞こえて来るのは虫の声と風の音とたまにクルマ走行音。理想的環境だ。この環境を一日一回満喫出来るとしたら、とても素晴らしいなと憧れる。都心にいるとまず手に入らない環境地方都市にはある。気がする。

新卒以来一度も職を変えた事がないのだが、転職して移住する。という選択肢もあるのかな?等と最近ぼんやり考えてみたりもする。連れ合い相談してみようかな。驚くかな。落ちも何も無いぼやきみたいな事を書いてしまった。他所でやれクソ雑魚ナメクジコメが付きそうだがまあいい。日記だ。

2018-02-13

二次創作の「パロ」への疑問

まず、この記事同人歴約一桁後半の腐女子ぼやきであることを念頭においてほしい。

二次創作における”パロ”。古今東西さまざまなものがある。

定番どころだとファンタジー作品の学パロ(学園パロディ)やBL定番吸血鬼パロ、最近ではオメガバースなんかもある。二次創作どころか、公式でパロものスピンオフや番外をやるタイトルも少なくない。

(型月のちびちゅきとか、進撃の中学校とか)

パロ自体は好きだ。読んだことも創作したこともある。魔法学校パロとか世代的にドンピシャ

そんな私が最近twitterで見かけて目が点になったものがある。

「前世設定で吸血鬼Aとシスター女体化Bが同級生の幼馴染なAB」

特定できないよう少しフェイクを入れたけどほぼ近い内容。ちなみにこのAとBは原作ではおっさん少年である

まり上記の一文には、設定だけで「前世吸血鬼、年齢操作性別逆転、学園モノ」の五要素が盛り込まれている。

正直、それABでやる必要あるの?と思った。

二次創作なんて全部捏造だとか、そもそもBLの時点で…とか、個人趣味なんだからとか、そういう「そもそも論」はとりあえず置いてほしい。

わかっている。そんなことはわかっているが、それでも二次創作は「キャラクター雰囲気を残す」からこそ面白いんじゃないか

上にも書いたがパロもの同人は好きだ。

けれど私にとってのパロとは、「そのキャラクターもつ特徴やキャラクター同士の関係性が、別の設定、別の世界観に投げ込まれた時に、何に置き換わるのか」を妄想するのが楽しみだった。

たとえば殿と従者なら、学パロなら生徒会長副会長リーマンなら上司と部下かなとか。このキャラはこういう性格からスリザ●ンに入りそうだなとか、そういうことだ。

まりに過剰に設定を盛り込みすぎて原型を無くすなら、もうほとんどオリジナルではないか

見た目も、中身も。


もちろん、例に挙げた前世吸血鬼以下略)でもそのキャラたちの面影、ABの関係性をきちんと残して素晴らしい作品になっているならすごいと思う。

けれど私にはどうにもそれが想像できない。

自分の頭が硬いのはわかっている。他人のことだし口を出す気はない。間違ってもオリジナルでやれとリプライを送るような真似はしない。

けれど、ABが好きな腐女子として言いたい。

あなたはAのどこに惚れたのか。Bのどこに惚れたのか。ABのどんな描写に、どんな関係性に、原作のどこに燃え滾って同人に手を出したのか。もう一度原作見直しながら思い出してほしい。

2018-02-03

何とか箱とか設置して用途とずれたものが来るとちょっと寂しい

ぼやき

再販ありますか?は嬉しいけど散々告知したのにって思ってごめんね。ピコから再販そんなにできないんだわ。

すごくいいABに出会って嬉しいと呟いたらおすすめのAB教えてってきたけど少し落ち込む。

交流と好きな作品は分けたいか感想匿名で送ってるしあんまり名前出したくないからわざと名前伏せたんだけどな。

そもそも私もAB書いてるんだけど。

嫌ではないけど感想もらう回数は少ないから、通知きてドキドキしながら開いて落ち込む。そんなんリプライでくれよ。交流避ける意味かもしれないけど。

感想RT先とかまで見に行ってる。直接送らないのは理由あるだろうにごめんね。

あー感想ほしい!強欲になってしまう。

もっと感想出てくるようなガツンとくる話をたくさん書けるようになりたい。頑張るぞ。

2018-01-27

差別差別じゃないか攻撃すべきかそうではないか

前提として、社会適応する人間はみんな差別をする。

仕事をメインにする仕事は男ばかりを採用するし、

人前に出る業務にはなるべく見目の麗しい人を選ぶし、

男性保育士事件を起こせば保育士さんは女がいいと言い出す人は出る。

それはもうしかたがなく、我々は差別者である自分自覚しながら、

それでも、自分にできうる限りに、公正で善良であろうと努力する以外にない。

結構昔、人工知能学会の表紙が炎上したことがある。

家事女性型の人工知能やらせイラストなのが

家事女性仕事」という固定概念再生産だということで。

個人的見解としては、あれはその理屈自体に筋は通っているもの

あそこまで攻撃すべき内容だったかは疑問だ。

せいぜい、その次は男性型のイラストもあってほしいです、

という希望を語るだけでよかったろう(第二回のイラストはずいぶんとんちんかんなアンサーだったが)


女性だけの街がほしいなあと言うぼやきは、ミサンドリーから来る差別ではあるだろう。

しかし、具体的にそれを実行しているわけでもなく

性犯罪に怯え疲れた人のただのぼやきであることは明白だ。

一部の人は「男に汚れ仕事やらせるとかいていたか問題だったのだ!」と吹き上がっているが、私はそれは欺瞞だと思っている。

「ああ、たまには家で一人でのびのび好きなことをしたい」と呟いた父親

洗濯は、料理は、掃除が誰がするんだ!?」と詰め寄って失言を引き出したとして、それが一体なんだと言うのだろう。

単に言い勝てるところがそこだからあげつらっているようにしか見えない

(しかそもそも発言の人は「男にやらせる」なんていっていない。曲解したらそうも読めるかもしれませんね、というだけ)。

つの例に個人的に感じている共通点

差別が嫌いなんじゃなくて、それをやった(言った)人が嫌いなだけなのでは?」

である

人工知能学会の件は、差別であるとするロジックは通っているが

それを攻撃する理由には単純に「オタク絵は、女性差別的な人間が好みがち」という先入観があったように思う

(そしてそれを補強するような擁護が吹きあがった)。

「女だけの町」も、「フェミはどうせ汚れ仕事はしたがらない」だとか「解決策を真面目に考えたりはしない」という、

女という属性への嫌悪感情が形になっているように見える。

人は差別をしてしまうし、してしまったときは襟をたださなければいけない。

差別は「差別するつもり」かどうかは関係なく、した結果のみが問われる。

自分が「大したことではない、気にしなくてよい」と思うことだからといって、他者にとってそうであるとは限らない。

それは全くその通りだと思っている。


けれどそれを思ってなお、

差別」という概念自分の嫌いな対象への攻撃手段活用しているように見える例がこの二つだ。

私は差別のない世の中を心から願っている。

からこそ、「差別」という概念の取り扱いかたをもっと洗練させていかなければ、

単にぶん殴りあうだけの世の中になってしまうと

今回の流れを見て強く思った。

2018-01-26

ぼやき

http://blog.shinoegg.com/entry/2018/01/26/130303

娘さんの気持ちを思ってめちゃくちゃしんどくなった。

なぜみんなと違くあれと押し付けるのか??

娘さんは幼稚園ではみんなと同じことを共有したいんじゃないのか。

社会性のある生き物として同じことをして連帯感を高めるのは大事だよ

恥ずかしい気持ちを持つのは社交性が育ってる証拠だよ

個性を伸ばすとか人と違うことをするのはその他の時間でできるしやってるんでしょ?

人と違っていてもいい=人と違っていることが価値ではないんだよ

社会から受ける影響も含めた娘さんのそのままでいいってことだよ

みんなと同じの、同じになりたい娘さんでもいいんだよ

娘さんが気に入るビーズが見つかったらそれをちゃんと買ってあげてほしい……

2018-01-22

anond:20180122103510

わいも家庭問題があって、それをぼやきたいがためにここに書いてる。

書いてスッキリしたらそれでいいやというも一つある。

ここに書くのは、匿名でかける+長文でかけるからだ。

いらん茶々入れるやつもおるけど、助けを書くやつもいる。

それと、やっぱりめんどくさいやつは法的に取り扱う&切るしかないよ。

相続も、それなりの財産があるなら弁護士に任せたほうがいい。そんなのないのなら放棄してしまったほうがいい。

親に対する未練?まあ、わからんでもない。でも、やっぱり切ると幸せ人間関係ってのはあるんだよ。たとえ親族でも。

アル中で、親が可哀想でも、むしろ深入りするとあなたも傷つく。

僕もまだ親親戚兄弟がうっとおしいなあと思って、縁を切り気味にしたら情に訴えるとか、みんな心配していってるんだよとか言ってきたりとか、

ただ、かつて、変に情をかけたがためにさら事態悪化させて、周りの評価も悪くなっていったこともある。うん。お人好しすぎたかなとは思う。

一時評価落ちても、めんどくさいのと縁を切ったら幸せになれることもある。

助けになるのといえば、禅系とかマインドフルネスあたりの本だよね。禅は心の認識について色々考えさせてくれる。マインドフルネスは頭の休息。

小池龍之介「平常心のレッスン」

久賀谷亮「世界エリートがやっている脳の休息法」

2018-01-20

ネトウヨヘイトスピーチは本当に放置されていたのか?

ネトウヨが登場し始めた頃、連中の垂れ流すデマヘイトスピーチを『あいつらなど放っておけばいい』『荒らしスルー』と放置した結果、ここまでレイシズムが横行する事態を招いてしまった」…。

こういう言説を、至る所でよく見るようになった。

自分も始めのうちはそういうものかと思っていたが、最近はどうも「そういう言説自体フェイクなんじゃね?」という気がして仕方がない。

端的に言えば、「後付け結果論」「今の基準感覚で当時を裁いている」という感じがしてしまうし、表立ってこれに対して「そんなことはない」と反論する声が見られないのも、何か異様だ。

あなたはその時どうしていたの?

かつて自分の知人に、反戦市民運動系のサイト運営している人がいた。

当時はイラク戦争の頃だったが、彼のサイトにもよくネトウヨ掲示板荒らしにきていたようで、彼は「まーたウヨク荒らしに来ているよ、困ったもんだ」とぼやきながら、かなりきつい調子で1つ1つ反論していた。

また、自分が当時よく読んでいた多くのリベラル左派ブログでも、コメント欄荒らしに来るネトウヨに対して、放置などせず丁寧に逐一反論している管理人が多かった。

(中には放置しているブログもあったが、あくまでも管理人方針が「賛同的なものも含めてコメントには一切反応しない」というものだったためだと思う)

卑近な例だが、こうしたことを思い出すと、少なくともこの人たちはネトウヨに対して「荒らしスルー」などせず、きっちり対峙反論していたわけで、そういう行為を「なかったこと」にしてしまうのは、やはり乱暴議論なんじゃないか

そう思うと、「ネトウヨデマ放置した結果、レイシズムの横行を招いてしまった」と主張している人々は、どうにも主語曖昧だし、自分からすれば、「で、あなたはその時どうしていたのですか?」と言いたくなる。

反証可能性

先日もあるジャーナリストが、「ネトウヨがここまで広まったのは、左派リベラルが彼らを放置たから」と主張しているのを見かけた。

ネトウヨがここまで広まったのは、左派リベラルが彼らを放置たから」

という仮説がもし成り立つとすれば、逆に、

左派リベラルネトウヨ放置せず適切に対処した結果、ネトウヨの抑え込みに成功した」

というケースがあってもいいはずだが、そんな国はどれほどあるのだろう、と自分は思う。

世界を見渡すと、日本より左派リベラルに力があるとされる国々ですら、デマヘイトスピーチを平然と言ってのける指導者政党勝利したり、日本ほどひどくはないかも知れないがヘイトスピーチヘイトデモヘイトクライムが横行したり、強弱の差はあれ「抑え込んでいる」とは言いがたい国が多い。

こういう状況を見て、「ネトウヨヘイトスピーチ放置せず適切に対処していれば、ここまで横行することはなかったろう」と結論づけてしまうのは、どれほど正しいことなのだろうか。

やらかした者よりも、止められなかった者の方が悪いのか?

かなり前、「戦争を起こした奴よりも、戦争を止めようとして止められなかった奴の方が、皆に責められ裁かれる時代が来るのかねぇ」と書いたことがあるが、「ネトウヨ放置したせいで…」という言説がここまで広まっている現状を見ると、もうそうなる下地はできているんだな、と思う。

しかし、やっぱりそれはおかしいのではないか

戦争が起こるのは、戦争を止めようとした者が弱すぎて止められないせいなのか?

戦争を起こした者よりも、戦争を止めようとしたが弱すぎて止められなかった者の方が、より厳しく責められなくてはならないのか?

戦争」を「ヘイトスピーチ」「差別」に置き換えると、完全に同じ問題になる。

そう考えると、「ネトウヨデマ放置したせいでここまでレイシズムが広まってしまった(?)」ことよりも、「『ネトウヨデマ放置したせいでここまでレイシズムが広まった』という言説が、多くの反レイシストの間に広まってしまった」という現実の方が、危ないというか後々響くんじゃないか、と思う。

(2020.1.14 加筆修正した)

2018-01-03

家事とかやってくれ過ぎるのもどうなんだろう?

うちの母はよく働く人だ。お正月といえば家の大掃除をして、おせちの準備をして、私はただ実家に帰って母の作った料理を食べるだけだ。片付けとかの手伝いもしない。今70歳なんだけど、もう少し歳をとって思うように動けなくなったらどうなってしまうんだろう?

私は昔料理基本的なことは教えてもらったし、一人暮らしを始めたときは多少自炊もしていたけど、最近はめんどくさくなって出来合いのおかずを買って帰って食べるばかりになってしまった。実家に住んでいるとき洗濯掃除もしなかった。今の家も洗濯は着るものがなくなると困るのでするけど、掃除は気が向いたときに水回りをちょっとするぐらいだ。

私も父も祖母(父方)も片付けられない人なので、実家はいろんなものが山積みになっている。年末年始も私が泊まるスペースがないぐらいだったけど、今回母が奮闘してスペースを作り、ベッドに布団を敷いてくれた。どうも私が実家に住んでいたころの布団を引っ張り出したようで、ホコリっぽい匂いがした。

母が一人で頑張っているのを見ると「大変だな」とは思うんだけど、どうしても手伝う気になれない。母には自分のやり方があって、その通りにやってくれないとイラっとくるみたいだし、要領の悪いのがぐずぐずやっているのを見ていられないようで、結局「私がやった方が早い」になってしまう。

よく「夫や子供家事を手伝ってくれない」みたいなぼやきを聞くけど、母みたいなタイプの人が家事をしない夫や子供を作ってしまうんじゃないかと思う。多少下手だろうが要領が悪かろうがじっと我慢して手を出さないようにしないと、「どうせやっても文句言われるだけだし」っていうことで余計やらなくなる。

あと、私はある程度お金がある場合外注できる家事外注した方がいいと思ってる。料理はまだ主婦プライドがかかっていて、かつ出来合いのものを買うと材料に何使ってるか分からないとか味が濃すぎるとか添加物が多いとかいうのがありそうだけど、レンジフード掃除に何時間もかけるのとか馬鹿げてると思う。そういうのをプロに任せればその分時間が浮いて、自分が手間をかけたいことに時間をかけることができるのだ。

母の母である祖母もそうだった。リウマチだんだん手足の自由が効かなくなってきたのに、数年前までは正月に行くと頑張って手料理を振舞ってくれた。今は歩けなくなって施設に入ったけど、それでも共有の台所で、ちょっとした自炊はやるつもりらしい。まぁそんなにやることがあるわけではないので、負担にならないレベル料理ならいいけど、家事の習慣がしみついている人とそうでない人の違いは凄まじい。ちなみに父方の祖母特養に入っていて、認知症が進んでいるので、日々ぼんやり料理掃除もお風呂施設の人にお任せで生きているようだ。実家に住んでいたとき家事はすべて母まかせで、トイレに行くのも一大事だったか特養に入ってくれて本当に助かったけど。

ということで家事でも何でも頑張る人とそうでない人の格差がすごいというのと、頑張りすぎる人が頑張らない人を助長させているというのが結論。話がうまくまとまってなくてすまんです。

2017-12-28

留学経験者がきしょい

去年の夏から今年の夏までアメリカ留学してたやつがキモい英語の授業を低レベルだとツイッターぼやき、授業で発言し間違えた生徒を笑い、自分は他教科が出来なくても留学理由正当化し、ツイッターでは英語スラングを交えながら英語ツイートする。でもフォロワーは全部日本人アメリカはいい、アメリカに帰りたいとぼやくならさっさと帰れ外国かぶれ!

2017-12-24

岡田准一結婚信仰危機を迎えたとあるV6ファンぼやき

少しでも気持の整理をしようと、今の自分の心情をこれから書き綴っていく。

衝動に任せて書き殴るので日本語としておかしな点や誤字脱字が多数あると思う。

ご容赦願いたい。

12月22日、我々V6ファンの耳にとある衝撃的なニュースが飛び込んできた。


岡田准一結婚


本来12月24日ファンの元へ届けられる筈だったその赤い封筒は、年末の混乱により起こったミスのため誤って一部のファンの元へ一足早く届いてしまったらしい。

赤紙かよ……。

TLに流れてきたその赤い封筒を目にした瞬間そう思った。そして胃が鷲づかみにされたかのようにギューッと痛んだ。私の信仰に重大な危機が訪れていると直感的に悟った。

いま現在、私は岡田くんの結婚に対して「悲しみ」と「恐怖」というの二つ感情を抱いている。

「悲しみ」については皆さんも想像がしやすいと思う。

岡田准一は「アイドルである

例外も多数あるが「アイドル」と呼ばれる彼ら彼女らは疑似恋愛対象としてメディアの中で振る舞い、あるいはそう見えるように編集される。そしてこちらも例外多数だろうが、ファンも彼ら彼女らを疑似恋愛対象として認識し、恋愛感情酷似した感情を彼ら彼女らに抱くようになる。その感情ファンアイドルとを結ぶ紐帯となる。「格好いいヤツならいくらでもいる でも俺にメロメロなんでしょ?」と言うフレーズ演者技量に惹かれたのではなく演者に対し恋愛感情のような感情を抱きその感情を核に演者応援する我々アイドルファン特性を鋭く見抜いた非常に秀逸な物であると思う。

話を元に戻そう。

何を隠そう私も岡田准一に対して恋愛感情のような物を抱いていたファンの一人である。少なからず好きだった人が結婚した。だから悲しい。ただそれだけの話だ。

イノッチの時も長野くんの時も、同じような感情を抱いた。イノッチのは生で聞いてしまって当時中学生だった私はコンサート終わりに泣き崩れた。長野くんの時も長野担の友人に電話し二人してワンワン泣いた。下手に恋愛感情に近い感情を抱いてしまっていたため失恋した時のような心情になったし、それに加え大好きな人がやっと掴んだ幸せを手放しで喜べない自分自身失望してしまって、涙が止まらなかった。

でもこの感情は泣けばある程度は落ち着かせる事が出来たし、気合いでどうにか既婚者萌えに開眼することが出来た。


だが今回、「悲しみ」に加え過去二回の結婚報告では抱かなかった「恐怖」という感情自分の内からわき上がってきた。

もっと厳密に言うと「信仰をこれ以上続ける事が出来ないかも知れないという恐怖」だ。

今回の結婚はアレだ。その、えっと、色々あった。何が真実でそうでないかはわからないけど、色々あった。その「色々」の部分がもし真実であったら、もう私の中の倫理感ではどうしても受け入れられないのだ。「おめでとう」なんて言えないのだ。過去の「色々」が積み重なってきていて、今回の件で私の倫理観は完全に飽和してしまいそうなのだ。もう何もかも駄目になってしまいそうなのだ

東山紀之さんは自分ファンに向け「僕達にふさわしいレディになってください」と言ったらしい。このエピソードを聞いた時、私もV6ファンにふさわしいファンにならなければならないと思った。V6メンバートイレ張り紙よろしく「僕達のファンマナーが良い」と言ってくれる。だから、彼らに迷惑をかけないために、彼らが誇れるファンになるために、常識倫理道徳を身に付けよう常に心がけていた。

でも今はその常識倫理道徳が私を苦しめる。彼らの為に身に付けたいと思った物が彼らの一部を否定する。この相克がたまらなく苦しい。辛い。しんどい

私はカウコン当選した。他の5人はカウコンで、あるいはその他の場所ででも、この結婚について言及するのだろうか?この結婚を祝うのだろうか?その瞬間を見るのが怖い。自分が疑いの目を向けている物を祝福している彼らを見るのが怖い。私を明るい方向に導いてくれた存在が穢れてしまうように感じる。何もかも信じられなくなる。その瞬間、私の信仰破綻してしまうように思う。

「いや、不倫事実わからんやん」と自分にここ数年何度も何度も言い聞かせようとした。でも無理だった。2015年から交際し始めたと信じたい。あるいはそれが嘘であったとしても気にしないでいられるような人間になりたい。どうしてこんな簡単なことが出来ないのだろう。二十歳も過ぎたいい大人が。ジャニオタって私にはむいていない趣味なのだろうかとここ最近考えるようになった。


本当にこんなファンでごめんな。

坂本くん、長野くん、イノッチ、剛くん、健くん、そして岡田くん、本当にごめん。

マジで今どうすりゃ良いのかわからん。祝いたい。のに、祝えない。「この世には事実など存在せず、ただ解釈のみがある」と何度も自分に言い聞かせてるんだ。でも駄目なんだ。都合の良い解釈すら出来ないんだ。

貴方達が大好きなのに貴方達の全てを信じて受け入れる事が出来ない。

本当にどうしてこんな人間のくせしてジャニオタになんかなっちまったんだ。自分「夢」を見る才能のない人間ジャニオタになんかなるべきではなかったのだ。足を踏み入れるべきでなかった。

こんなにしんどい思いするんなら22日に死にたかったなあ。

剛くんの舞台を観終わった瞬間に死にたかった。

とりあえずあともう一回がんばってみる。

カウコンまでに祝えるように努力してみる。

無理だったらもうオタ卒しようかと思う。

潮時だと思うから

しんどい事は 無理すんな!」っていい歌詞だね。

追記

想像していたより多くの反響があり驚いています

今回わざわざ私が自分の胸の内を公開したのは、第三者からの忌憚のない意見を聞いてみたかたからです。お心遣いありがとうございます

それと私は確かに恋愛感情に似たような感情アイドルに対して抱いてはいるけど、アイドルと付き合いたい、結婚したいとは思わないんですよね…。V6の中で一番好きなメンバー三宅くんなんですけど、一番結婚したくないメンバー三宅くんです。まあ、そもそも私のような人間相手の方からお断りしょうが

あと認知もされたくはないなあ。ジャニーズ以外にも様々な男性アイドルグループが林立する中、わざわざジャニーズを選んで応援しているのは単に彼らと私達とを隔てる一定距離感が私の肌に合っているからなんですよね。

私にとって「夢を見る」ということは「人間関係を築く上でどうしても付きまとう煩わしさから解放されながらも、人間関係を築く事で得られる充足感を得られる」ことを指します。良いとこ取りをしたい訳です。

恋人もいますし、友人にも仕事仲間にも恵まれている方だと思います。でも、彼氏しろ友人にしろ仕事仲間にしろ人間関係が密になればなるほど得られる情緒的な満足感も増しますが同時に様々な煩わしさも出て来ます特に今は閉鎖的なコミュニティの中に身を置かねばならない状況なので、とにかく波風立てぬよう一挙手一投足に細心の注意を払っています

アイドルから「顔や名前を覚えられる」ということは、この煩わしさの中に自分アイドルとの関係を放り込むことだと思います関係が密になるほど気を遣わなければならない部分が増えてくるから

そんな物を感じたくないか距離感のあるアイドルを好きになったのです。繰り返しになりますが、V6で一番好きなのは三宅くんだけど一番結婚したくないのも三宅くんです。でも、そんな相手も適切な距離感さえあれば好きになれる。距離があるからこそ安心して課金ができるんです。

あと「アイドル結婚が受け入れられない」っていうのは違うんですよね。そりゃイノッチの時も長野くんの時も最初号泣しましたが、その翌日くらいには井ノ原快彦(既婚)長野博(既婚)という字面にめちゃくちゃ萌え始めましたし、「大好きな人幸せを掴めたんだなあ」と嬉しく思いました。たまーーーーーにポロッと漏れ聞こえる彼らが幸せ暮らしてるっぽいエピソードとか子供と遊んでるっぽいエピソードとか大好物です。なんていいうか、すごくホッとする。「良かったなあ」って思う。瀬戸朝香さんも白石美帆さんも宮沢りえさんも本当に大好きです。苦しみの先には新たな萌えが待っていました。

「お相手が受け入れられない」ってのも違います。「お相手だけでなくこの結婚に関わる物すべてが白々しくみえてきて、信仰対象の輝きすら失せてしまいそう」「色々なもの黙殺してきてどうにか守ってきた『好き』という感情がこれを機に瓦解するのが怖い」「もうこれ以上、色々なものスルーすることができそうにない」「好きなアイドルの潔白を信じることができないのが辛いしそんな自分嫌悪感を抱いている」のです。今回の結婚は単なる引き金にしか過ぎません。今まで色々と蓄積されてきてた物が、この結婚を機に飽和してしまいそうなのです。

この文章を読んでいただいた奇特な方々は「結局なにが言いたいんやコイツ……」と困惑なさっていると思います

私もです。私も自分で何をどうしたいのか

どうすれば良いのかわかりません。

「お前、不倫は受け入れられないのに自分は付き合っている相手がいるのか……」とツッこんだ方もいるでしょう。全くです。上記文章を読んでいただければ分かる通り、とにかく自己矛盾の塊なのです。この自己矛盾自分の中で看過できない程の数になってしまった。飽和してしまった。

私は普通人間にしては無神経で、ジャニオタにしては潔癖すぎたのでしょう。

そもそも人間と関わる中で避けることの出来ない苦しさから逃れる先を人間に求めたのが間違いだった。

これまで書いた長々とした文章より「ぎええええええええ」という絶叫の方がまだ私の今の感情を言い表すことができている程、未だに取り乱しています

この文章とある哀れなカウコンを目前に控えたジャニオタ遺書、あるいは断末魔叫びだと思ってください。

愚痴垢だけは作りたくないなあ。

まだギリギリ好きな人達をを誹謗中傷なんてしたくないけど、こんな文章を書いて公開してる時点で殆ど同じような事やってるのかもなあ。

あーあ、本当にこんな思いをするくらいなら草や花にうまれたかったなー。

あたしって、ほんとバカ

2017-12-06

anond:20171206032011

増田です

まんこちんこ という単語自体には嫌悪感はないけど、人のことを指して呼ぶのはちょっと…… って感じですね。

女叩きをすること自体には反対ではないのですが、叩くなら蔑称を使わず理路整然と叩けばいいのになあというぼやきです

2017-11-24

もうぜってえTwitterやらSNSやらに心開かねえ

所詮人の世は利用するかされるかだ。フォローするのはその人によるサービスを期待しているからで、フォローされるのはサービスを期待されているから。本質的サービス寄与しない個人趣味・嗜好・回顧やぼやきなんぞ誰も求めていない。すっかり忘れていたよ。大切な思い出もSNSに流せばただのノイズに変わる。

そもそもネットでは名前を示す文字列ですら情報的にゴミなのだサービスの通知を効率的に行うという目的の上でのみ例外的名前付与が許される。タグだとかID番号だとかと同じ。それ以外では有象無象有象無象らしく匿名で蠢いているのが結局は一番自然な姿なのだ。実際、匿名においてはその人の振る舞いの価値は最も高められる。名前だの性別だの社会的位置づけだのの余計な情報カットされてるからね。ポッと発した言葉匿名では笑いやふいの涙を誘うことはあれど、SNSではその人が発したという事実言葉価値暴落させる。匿名圏の文化流行ってるネタを我が物顔でSNS投稿して場を冷ますゴミよく居るだろ?あれだよ。

我々が平等有象無象なら、その振る舞いも平等有象無象らしくあらねばならない。他者よりも自分人生の方が価値が高いなんて決して言っちゃならない。他人に伝えたい経験があったとしても、その記憶を本当に大切に思うのなら、そのフォーマット吟味してやらないとね。まぁ完全に自戒なんだけど。

つーか今更だけどTwitterって何で流行ってるわけ?あれ会社広報がやるようなものであって大衆がやるもんじゃねえだろ。ネタが育つ土壌でも無いし何かを生み出すにしても個人依存しすぎているしで、2ch全盛の時代と比べるとマジでポストアポカリプスじみてるよ。いや2chも相当酷い場所だったけど、Twitterは何というか救いがない。前者が便所の落書きなら後者は道端に吐き捨てられたツバの集積ってところか。

2017-11-18

テンパり癖が治らない社会人

よくある自称発達障害ぼやき

ぼっち大学卒業し、今の会社で3年目になる。

アルバイト経験が無かったので気付かなかったのだけど

働き始めて、自分能力いかに低いかを思い知らされている。

簡単な事なのに、何度教えてもらっても頭が真っ白になり理解できず、何度も同じ事聞いて呆れられたり

何かを人にお願いしたり、ミスをして叱られてる時に顔がニヤついてしまったり、ボソボソ喋るのが治らなかったり、場を盛り上げられず、カラオケも歌えない。

ルーティンワークの一部がいつも抜けていたり、よく物を落としたり、未だに電話対応でテンパってきちんと受け答えができなかったり、肝心なときに必ず噛んでしまう。

自分なりに改善させて、平社員だけど人並みに評価はしてもらえてる。

だけど中身は何も変わっていない。

いざとなれば逃げ腰になってしまうし、部署が忙しくなると、テンパって右往左往してしまう。

何か指示があれば、ベター仕事はできる自負はあるけど、「やります」「手伝います」という言葉が喉まで来てるのに出てこない。

仕事で人の役に立ちたい、同僚や上司を手伝いたい。心のなかはそう思っているのに、彼らの輪に入れず、どんどん浮いていってしまうのです。

もっと違う人間になりたかった。

2017-11-16

自分能力が低いのが悔しい

よくいる自称発達障害ぼやきだと思って聞いてください。

ぼっち大学卒業し、今の会社をなんとか辞めずに3年目まできました。

就職するまでアルバイト等をしたことが無かったので気付かなかったのだけど

働き始めて、自分能力いかに低いかを思い知らされて来ました。

今思うと簡単な事なのに、何度仕事を教えてもらっても頭が真っ白になり理解ができず、同じ事を何度も聞いて呆れられたり

何かを他の部署の人や上司にお願いしたり、ミスをして注意を受けたとき等に、どうしても顔がニヤついてしまうのが治らなかったり、どうしてもボソボソ喋るのが治らなかったり、場を盛り下げることしか話せず、カラオケも歌えない。

ルーティンワークのどこか一部がいつも抜けていたり、よく物を落としたり、電話対応で必ずテンパってしまい未だにきちんと受け答えができなかったり、大事ときにいつも噛んでしまったり。

自分なりに意識して改善させて、平社員だけど今はそれなりの評価はしてもらえてる。だけど中身は何も変わっていない。

いざとなれば一歩引いて第一から退いて逃げ腰になってしまうし、ワッと部署が忙しくなると、何をすればいいか指示を乞うこともできずにテンパって右往左往してしまう。

「あれをやれ」と言われれば、完璧とは言えなくてもベター仕事はできる自負はあるけど、やります、と言うことができないし、周りに声かけをして足りないものを補うことができない。

仕事で人の役に立ちたい、同僚や上司を手伝いたい。心のなかはそう思っているのに、彼らの輪に入れず、どんどん浮いていってしまう。

もっと違う人間になりたかった。

2017-10-31

anond:20171031200105

共通の知り合いも多いのですが、ほぼすべて切りました。ただ、大事イベントでその迷惑かける一人も出てて、近くに来たのでうぜぇという感じ。

家族も、まあ遠方なのでいいと思ってましたが、この期に及んで「お母さんがみんなと話したいといってる」みたいなメールを送ってきて

イラっと来てガツンと言って僕自身が凹んでるみたいな。

そこに、昔の飛び道具。といっても、単に向こうの人が何も考えずに、古傷があるやつが行ってる会社情報を回すかも?みたいな感じで。

最後のやつは向こうはそんな事情知らんからどうしようもないとはいえ。

いや、基本的には全部縁を切る。危ないところには近づかないというだけです。そういう結果、限りなく一人に近くなりましたけど、それでも何もない間は幸せです。

まあ、僕が腹立ってて悪口多かったのもだいぶ悪かったでしょうが

うん。ぼやきたかっただけです。少しでも理解していただいて少し気が楽になりました。

anond:20171031185758

いや、相談の結果は「切れ」なんだけどね。

切って、かかわらんと宣言してもそれでも、まあかかわってくる。

近くに近づいてきたり、話したいといってるとか言って。

一人は母親なので、もう家族と縁切るか、正月いくのやめとくかって気になってきた感じ。

一人は、全く関係ない人がそいつ話題持ち出して来たら「あいつには迷惑かけられたのでかかわりたくないんですよ」みたいに言ってるが、

そう口に出す時点でげんなりしてぼやきに来たんです。

2017-10-30

anond:20171030124631

SNSでの話題って、別に陰口や悪口ではなくない?

みんなで本人に言ってもきかない場合もありますよ。

まり問題児

陰口と感じるのはなぜなのでしょうか。

それぞれが本人に面と向かって、またはさり気なくとか、ちゃんとサインを出しています

お願い&その場でどこがおかしいのか、困るのか言及問題提起 などしているのにも関わらず、改善しない。

しろそれでも、エスカレートしているなどの場合ではないですか。

相手が気にしてない、どころか、むしろ意地悪でやっている、目に余る、等の場合もあるのです。

自分発言は「よくある愚痴相談ぼやき」で、問答無用。おもねる意見しか聞きませんよ、訊いてくれるくらいいいでしょ?的で。

他人の話は「悪口」「陰口」と感じるのは、どうなのでしょうね?

お互い様気持ち大事だと思うのですけれど。

増田さんの発言が「よくある愚痴相談ぼやき」ならば、

他の方々の発言も、同じ扱いだって気づいてほしいです。

本人の前でもお願したり、これは嫌だよと言っても、きかない場合は明らかに意地悪だし。

SNSなど他所で「相談すること」は悪口ではないでしょう。

もちろん、本人には、愛想良くしていて、SNSで叩いているなら明確に悪口や陰口ですけれど。

あるいは愚痴りばかりのSNSがあるならば、他人事でも、読むと気分が悪くなるかもしれません。

増田ですので、増田でのお話かと思って反応しています特殊場所についてでしたら場所を書いてほしいです。)

2017-10-23

イケメン並べたら勝つる!

選挙って、代議士を選ぶ貴重な機会じゃないですか。国民が。その中で、比例代表ってなんだろ?と思ってるのはかなり前からの話。

例えば、1000万払えばどんなバカでも比例名簿名前が載せられるんだけど、国民からしたらその人は嫌だ!なんていう選択ができないんですよね。

名簿の優先順位政治家が行うから国民的には嫌気がさした人物でも、政党内で発言権が大きければずっと居座り続ける。

極端な話、このハゲおばさんが名簿に記載されていたら、生き残っちゃうわけです。

今回はその制裁も含めての離党処分だったんですけどね。

国民が選ばなくても民主主義なんだよねー。建前上は。

そう考えたら、わざわざ台風の中投票に行ったり、見たいドラマ枠潰れて還暦周辺の中年名鑑を強制するために600億円も使う日本って、平和が溢れかえったいい国だなーと思いました。

ぼやき終わり。

2017-10-18

反抗的って何なんだろう

昔のことに愚痴を言うのはあまりよくないことだ、と言われてきた。過ぎたことに拘って何になるのか、とも言われた。

でもただぼやきたいだけの時もある。 人間だもの

幼少期、私はあまり言葉が上手くなかった。人並みには喋っていたと思うのだが、自分の怒りの理由不快感の根源をうまく大人言葉説明することができなかったのだ。

とても歯がゆかった。自分が感じている『何がどう、と説明できるわけではないがとにかく嫌だ』という感覚を、ただのわがままのように受け取られることが耐えがたい苦痛だった。

今の自分が遡ってそれらを言語化するなら例えば「どうして自分がやりたいと言ったわけでもない楽しくもない習い事に無理やり連れていかれなければならないのか」という訴えである

文句があるなら口で言え」と拳骨を食らわされながら育った。「お前は万年反抗期から」と厄介者扱いもされた。

だが私の記憶をどれほど掘り返しても『親からきちんと言葉を尽くして説明された』記憶は驚くほど少ない。最近記憶まで検索範囲を広げてみても、結果は同じことだ。

「それは理屈が通ってない」と私がいくら主張したところで、「お前より三十年以上長く生きてるんだから親の方が世の中の事をよくわかってるんだ」という亀の甲より年の劫理論聞く耳を持たない

或いは偉い学者先生が言ってることだから正しい。彼らの主張は大抵の場合対人論証を含んでいて、要するに『子供の言うことだから正しくない』と思っていることはよくわかった。

文句があるなら言えと言ったか文句を言ったに過ぎない。

だがどれだけ言葉を尽くして説明しても無駄だった。言い争いの結果は始まる前から決まっていて、彼らにとって私の言い分は最初から「ただの言い訳であるとか「口答え」であるとか、そんな風にしか思われていなかった。

黙って言うことを聞く以外の選択肢そもそも存在しておらず、激しい言葉を選ぶなら『対等な、意思ある人間として扱われた覚えは一度もない』ことになる。

彼らには切り札がある。経済的問題だ。

何か議論が行き詰まると必ず「誰の金で生活してると思ってるんだ」という一言に辿り着く。

「何か言いたいことがあるなら自分でちゃんと稼いでから言え」というのが親としての彼らの主張であって、それは当時の私にとっては本当にどうしようもない事柄であったので、一切の交渉不可能であることを思い知るだけだった。

大学に行きたくなかった。本当は専門学校なり美大なりに行って、何かを表現する技術を身につけたかった。

けれど、彼らにとってそれは「逃げ」であって、「お前は落ちこぼれたか受験から逃げたいだけだ」と決めつけられていたし、大学に行かないなら家を追い出す、とも言われた。

これは彼らの常套手段である経済的な支えが皆無である子供相手に「意に沿わないことをするなら経済的支援を打ち切る」と脅しをかけるのは二択とすら言えない。

高校生にもなればなんとかバイト、という手段が発生するが、それ以下の子供に対して「稼ぎがないこと」を理由発言権事実上ないものとするのは些か横柄であると言わざるを得ない。

小学生の頃には既に明言されていた指標なので、「(稼ぎのない)お前の言うことには何の価値もない」と言ったも同然である

付言すれば、私の成績が悪化たことに対して「やる気がないなら勉強したいけどお金がない他の子供に投資する」という脅迫めいた発破を常に繰り返した。

彼らにとっては「よく勉強する口答えも贅沢もしないいい子」でなければ出来損ないだったのだろう。はっきり言って苦痛だった。

常に親との致命的な価値観の違いを感じていた。

かに金銭的なことや現実的事柄というのは疎かにしてはならない。義務は果たさねばならない。ルールは守らねばならない。

けれど、人にはそれぞれ価値観がある。自分が何を大事だと思うのかは自分しか決められないことだ。

かにとって「金になるかどうか」が一番大事であることは否定しない。けれど、私はそこに重きを置かない。それだけのことだと思う。

子供の為を思わない親はいない」なんて言葉は何の慰めにもならない。「自分の思う『子供にとって一番いい』状態以外は全て問題である」という態度を取り続ける人間を、どう受け止めれば良いのだろう。

例えば対等な友人関係於いて「お前の為を思って言ってるんだから、お前は俺の言う通りにすればいいんだ」などと言われて納得するだろうか。

対等でなくても良い。会社上下関係於いて「お前は新人なんだから口答えしないで黙って働け」などと言われて納得するだろうか。恐らく十数年前ならそれが普通だったのだろうと思う。でも今そんなことを言えば間違いなく『パワハラである

家庭、というのは自由選択事実上不可能人間関係である特に子供にとっては、経済的社会的要因から必然的にその拘束を受ける。

親が叶えられなかった夢を叶える為、代理戦争を戦わされる子供もいる。

家庭内不和をどうにか修復する為、極端にいい子で居続けたり、問題児として集中砲火される役を引き受ける子もいる。

選べない環境の為に、選べる自分の振る舞いや考え方を変質させていく。

自分意思を持つことを悪いことだ、逸脱だ、とされ続けながら、ひっそりと生き延びている。或いは死にそびれている。


彼らの理論に従うなら、今現在でも私には何一つ発言権がない。

精神的に問題があり、大学に行きこそしたが「普通の人が当たり前のようにできる卒業すらままならない」人間だったので私は晴れて役立たずの称号を授かった。

彼らが私を見下しているように、私もまた彼らを見下している。

「いい大人で稼ぎもあるくせに子育て一つまともにできないような人間の言うことを聞く必要がありますか?」

喉元まで出かかる言葉をどうにかして飲み込んでいる。

『成長する為にはあなたが許さないと』

なんてのは嫌という程言われ続けている。カウンセリングでもそう。自己啓発本の類でもそう。宗教絡みも大抵は、そう。

若い頃の苦労は後々為になるから

なんてのも聞き飽きた。選べなかった人生のことをあれこれ言うよりは手持ちのカードを切るしかないという諦めを持てと、そういう話なんだろう。

ある意味で、私はもう私のことについては諦めがついていると言っても良い。

今更どうにもならないことを嘆く必要はないし、それが何かの助けになるとも思わない。

ただこうして文句を言いたいだけのこともある。

昔の私が言えなかったことを、代わりに言わなければならない、と思うこともある。

そうして多分、「今まさに昔の私と同じ状態にいる」誰かの目に留まることを、ほんの少しだけ期待しているし、あわよくば「昔の私を作ろうとしている」誰かの親になるべき人の目に留まってほしいとも思っている。

確たる主張があるわけではないが、「それは我慢するべきことなのか」「我慢させるのが当然なのか」を一度冷静に考えて貰えれば何よりだと思う。


それに、私は「私のことは諦めた」とは言ったが「私の人生ギブアップした」わけではない。

それだけは、ぼやき最後に付け加えておく。

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