人前に出る業務にはなるべく見目の麗しい人を選ぶし、
男性保育士が事件を起こせば保育士さんは女がいいと言い出す人は出る。
それはもうしかたがなく、我々は差別者である自分を自覚しながら、
それでも、自分にできうる限りに、公正で善良であろうと努力する以外にない。
個人的な見解としては、あれはその理屈自体に筋は通っているものの
という希望を語るだけでよかったろう(第二回のイラストはずいぶんとんちんかんなアンサーだったが)
女性だけの街がほしいなあと言うぼやきは、ミサンドリーから来る差別ではあるだろう。
しかし、具体的にそれを実行しているわけでもなく
一部の人は「男に汚れ仕事をやらせるとかいていたから問題だったのだ!」と吹き上がっているが、私はそれは欺瞞だと思っている。
「ああ、たまには家で一人でのびのび好きなことをしたい」と呟いた父親に
「洗濯は、料理は、掃除が誰がするんだ!?」と詰め寄って失言を引き出したとして、それが一体なんだと言うのだろう。
単に言い勝てるところがそこだからあげつらっているようにしか見えない
(しかもそもそも元発言の人は「男にやらせる」なんていっていない。曲解したらそうも読めるかもしれませんね、というだけ)。
「差別が嫌いなんじゃなくて、それをやった(言った)人が嫌いなだけなのでは?」
である。
それを攻撃する理由には単純に「オタク絵は、女性差別的な人間が好みがち」という先入観があったように思う
(そしてそれを補強するような擁護が吹きあがった)。
「女だけの町」も、「フェミはどうせ汚れ仕事はしたがらない」だとか「解決策を真面目に考えたりはしない」という、
人は差別をしてしまうし、してしまったときは襟をたださなければいけない。
差別は「差別するつもり」かどうかは関係なく、した結果のみが問われる。
自分が「大したことではない、気にしなくてよい」と思うことだからといって、他者にとってそうであるとは限らない。
それは全くその通りだと思っている。
けれどそれを思ってなお、
「差別」という概念を自分の嫌いな対象への攻撃手段に活用しているように見える例がこの二つだ。
だからこそ、「差別」という概念の取り扱いかたをもっと洗練させていかなければ、
単にぶん殴りあうだけの世の中になってしまうと
今回の流れを見て強く思った。
フェミ自身に差別感情の自覚があって、その上で自分の感情を表現しているのならともかく そんな自覚は全くないか、あっても自分たちなら許されるって感じの人の方が多い気がします...
フェミニズム的な考え方をするからといって すべての差別に敏感であるとは限らないし またそうであることは原理的に不可能だ。 だれだって、自分がしてしまう差別より、自分がされ...
フェミニズム的な考え方をするからといって すべての差別に敏感であるとは限らないし またそうであることは原理的に不可能だ。 だれだって、自分がしてしまう差別より、自分がされ...
正しいと思うー!