昔のことに愚痴を言うのはあまりよくないことだ、と言われてきた。過ぎたことに拘って何になるのか、とも言われた。
幼少期、私はあまり言葉が上手くなかった。人並みには喋っていたと思うのだが、自分の怒りの理由や不快感の根源をうまく大人の言葉で説明することができなかったのだ。
とても歯がゆかった。自分が感じている『何がどう、と説明できるわけではないがとにかく嫌だ』という感覚を、ただのわがままのように受け取られることが耐えがたい苦痛だった。
今の自分が遡ってそれらを言語化するなら例えば「どうして自分がやりたいと言ったわけでもない楽しくもない習い事に無理やり連れていかれなければならないのか」という訴えである。
「文句があるなら口で言え」と拳骨を食らわされながら育った。「お前は万年反抗期だから」と厄介者扱いもされた。
だが私の記憶をどれほど掘り返しても『親からきちんと言葉を尽くして説明された』記憶は驚くほど少ない。最近の記憶まで検索範囲を広げてみても、結果は同じことだ。
「それは理屈が通ってない」と私がいくら主張したところで、「お前より三十年以上長く生きてるんだから親の方が世の中の事をよくわかってるんだ」という亀の甲より年の劫理論で聞く耳を持たない。
或いは偉い学者先生が言ってることだから正しい。彼らの主張は大抵の場合対人論証を含んでいて、要するに『子供の言うことだから正しくない』と思っていることはよくわかった。
だがどれだけ言葉を尽くして説明しても無駄だった。言い争いの結果は始まる前から決まっていて、彼らにとって私の言い分は最初から「ただの言い訳」であるとか「口答え」であるとか、そんな風にしか思われていなかった。
黙って言うことを聞く以外の選択肢はそもそも存在しておらず、激しい言葉を選ぶなら『対等な、意思ある人間として扱われた覚えは一度もない』ことになる。
何か議論が行き詰まると必ず「誰の金で生活してると思ってるんだ」という一言に辿り着く。
「何か言いたいことがあるなら自分でちゃんと稼いでから言え」というのが親としての彼らの主張であって、それは当時の私にとっては本当にどうしようもない事柄であったので、一切の交渉が不可能であることを思い知るだけだった。
大学に行きたくなかった。本当は専門学校なり美大なりに行って、何かを表現する技術を身につけたかった。
けれど、彼らにとってそれは「逃げ」であって、「お前は落ちこぼれたから受験から逃げたいだけだ」と決めつけられていたし、大学に行かないなら家を追い出す、とも言われた。
これは彼らの常套手段である。経済的な支えが皆無である子供を相手に「意に沿わないことをするなら経済的支援を打ち切る」と脅しをかけるのは二択とすら言えない。
高校生にもなればなんとかバイト、という手段が発生するが、それ以下の子供に対して「稼ぎがないこと」を理由に発言権を事実上ないものとするのは些か横柄であると言わざるを得ない。
小学生の頃には既に明言されていた指標なので、「(稼ぎのない)お前の言うことには何の価値もない」と言ったも同然である。
付言すれば、私の成績が悪化したことに対して「やる気がないなら勉強したいけどお金がない他の子供に投資する」という脅迫めいた発破を常に繰り返した。
彼らにとっては「よく勉強する口答えも贅沢もしないいい子」でなければ出来損ないだったのだろう。はっきり言って苦痛だった。
常に親との致命的な価値観の違いを感じていた。
確かに金銭的なことや現実的な事柄というのは疎かにしてはならない。義務は果たさねばならない。ルールは守らねばならない。
けれど、人にはそれぞれ価値観がある。自分が何を大事だと思うのかは自分にしか決められないことだ。
誰かにとって「金になるかどうか」が一番大事であることは否定しない。けれど、私はそこに重きを置かない。それだけのことだと思う。
「子供の為を思わない親はいない」なんて言葉は何の慰めにもならない。「自分の思う『子供にとって一番いい』状態以外は全て問題である」という態度を取り続ける人間を、どう受け止めれば良いのだろう。
例えば対等な友人関係に於いて「お前の為を思って言ってるんだから、お前は俺の言う通りにすればいいんだ」などと言われて納得するだろうか。
対等でなくても良い。会社の上下関係に於いて「お前は新人なんだから口答えしないで黙って働け」などと言われて納得するだろうか。恐らく十数年前ならそれが普通だったのだろうと思う。でも今そんなことを言えば間違いなく『パワハラ』である。
家庭、というのは自由選択が事実上不可能な人間関係である。特に子供にとっては、経済的、社会的要因から必然的にその拘束を受ける。
親が叶えられなかった夢を叶える為、代理戦争を戦わされる子供もいる。
家庭内不和をどうにか修復する為、極端にいい子で居続けたり、問題児として集中砲火される役を引き受ける子もいる。
選べない環境の為に、選べる自分の振る舞いや考え方を変質させていく。
自分の意思を持つことを悪いことだ、逸脱だ、とされ続けながら、ひっそりと生き延びている。或いは死にそびれている。
精神的に問題があり、大学に行きこそしたが「普通の人が当たり前のようにできる卒業すらままならない」人間だったので私は晴れて役立たずの称号を授かった。
彼らが私を見下しているように、私もまた彼らを見下している。
「いい大人で稼ぎもあるくせに子育て一つまともにできないような人間の言うことを聞く必要がありますか?」
喉元まで出かかる言葉をどうにかして飲み込んでいる。
なんてのは嫌という程言われ続けている。カウンセリングでもそう。自己啓発本の類でもそう。宗教絡みも大抵は、そう。
なんてのも聞き飽きた。選べなかった人生のことをあれこれ言うよりは手持ちのカードを切るしかないという諦めを持てと、そういう話なんだろう。
ある意味で、私はもう私のことについては諦めがついていると言っても良い。
今更どうにもならないことを嘆く必要はないし、それが何かの助けになるとも思わない。
ただこうして文句を言いたいだけのこともある。
昔の私が言えなかったことを、代わりに言わなければならない、と思うこともある。
そうして多分、「今まさに昔の私と同じ状態にいる」誰かの目に留まることを、ほんの少しだけ期待しているし、あわよくば「昔の私を作ろうとしている」誰かの親になるべき人の目に留まってほしいとも思っている。
確たる主張があるわけではないが、「それは我慢するべきことなのか」「我慢させるのが当然なのか」を一度冷静に考えて貰えれば何よりだと思う。
もういいじゃん 既にお前の時代が到来している 今は好きなだけ親をボコれるだろうが やったな
残念だが親には子供を育児する義務がある。親が義務を負う以上、子も同様に義務を負うべきだという思考だ。 何を言うのも自由だが、君は大学もまともに通学出来なかった。それは本...
甘えても死にはしないぞ 死ぬのは親だ
出さなきゃよかったじゃん。おまえの理屈だと選択を責任転嫁してるのは親の方だぞ
後者には同意。 増田が後天性の精神疾患かどうか不明だが、期待が大き過ぎたのだろう。家族なんて親子共々道を誤るもんだ。