はてなキーワード: 無垢とは
フン、ならば俺も恥をかいたってことになるな。誰かに吐かれた暴言を、そのまま別の誰かに返してしまうことはよくある。憎悪の連鎖を始めたくないならテキトウなワードチョイスはしないことだ。
これはアドバイスだ。
アンタの暴言については謝るなら許そう。こちらも殴り返しすぎた感はあった。それはすまなかった。
腐るほど悪かったって説明なんてなかった。
だが良いところもある。ああやって意見をまとめて提示されることで、アンタや俺や他の増田らがこれはおかしいんじゃないか、って議論できるから。
「性的消費」概念もああだったらいいのだが… まあこれは関係ないボヤキだ。
願わくば将来に二期を観た無垢な少年少女が正当な評価を下してくれるといい。
作品への批評合戦で名誉を回復するのは… 擁護側の勢力が弱すぎる。
それより、たつき監督が戻ってきて木村監督と手を取り合って合作してくれねえかなあ…
全部が丸く収まってみんなが手を取り合って劇場を埋めつくす。最高だろうに。
言い方悪いがアニメやドラマみたいな理想像がほんとに当たり前と思い込んで、それ以外の現実的な綺麗な話ではない要素全てを男も女も否定している、そのくせ自分たちにはそんな清廉潔白な要素を求められると火病を起こしたように発狂する。
アニメやゲームに出てくるような若いイケメンや無垢な美少女を囲いたいなら、言い方悪いが財力や地位で囲うしかない、生まれ持った要素以外で努力でも獲得できるアピールポイントは、男も女もそれしかないからだ
恋愛に打算抜きで愛してもらいたいなら、どちらか一方が譲歩するか、言い方悪いがペット飼うような認識で人間関係を調整しなければ身が持たないし、イケメンも美少女も人なんだから当然そういう怜悧な認識で付き合わないと離れていくし、他の女や男から保護しきれない
言い方悪いが、年取れば疎ましくなって「捨てる」と追うのも首尾よくやらなければいけない、情に棹させば流されて、仕事とかにまで影響出るからだ
恋愛市場上位3割の男女なら、わかってるからこそそんなしんどい思いをしたくないし、させたくないと恋愛を諦める人たちを悪くは言わない、その気持ちが痛いほどわかるから
モテたことないしモテたくても能力が足りないが他人にマウント取りたいどうしようもない連中が、ありもしない恋愛夢物語に一番自らの嘘を信じ込んで狂っては一線踏み越えて心が壊れて狂気に陥るか犯罪を犯して消えていく
烏に単は似合わないとは、八咫烏シリーズと言われる作品の第1作目、著者のデビュー作である
それが嫌いだ
あの1作目を読んで、続きを読む人はタフだとおもう。
嫌いな理由は
・主人公は過ちを犯すが、断罪されるだけで、そのまま物語から追い出される
この3点。
私は特にファンタジーは主人公が苦難を乗り越え、成長し、目標を達成するのを読みたくて読んでいたから、ひどく辛かった
以下、詳細。
私は本屋に平積みされた文庫版を買うも、なかなか手をつけられず積んでいた中、ウェブで漫画版が全編公開され、そちらを先に読み、心が折れた。
再読も嫌でしていないので、キャラの名前もちゃんと覚えてないところがあり、誤りがあるかもしれないことを先に謝っておく
あとネタバレがあるので、嫌な人は読まないで欲しい。
この作品は嫁取りの話だ。
中央の若君の嫁に、中央と近い東西南北の家から若い娘が選ばれることになっている。
今回も、中央にある屋敷をあてがわれる。主人公は東の、若く物知らずだが、音楽の才に長けた娘「あせび」だ。
主人公は幼い頃、こっそりと屋敷から抜け出し、若君と知らずに若君を見かけ一目惚れをした。
一目惚れをした相手が若君だと知り、あせびは「選ばれたい」と強く望むようになる。
暗闇での、謎の相手との逢瀬、物知らずな馬鹿な娘と思われていたあせびの音楽の才能に周囲が驚く様子…
しかし、暗転
恋人との駆け落ちを企て、失敗した挙句、恋人が下手人として処分されたのをみて発狂する北の娘。
昔、寵愛を受けながらも正室の座を射止められなかったあせびの母の謎を知るために、調査を依頼をした側仕えも謎の転落死をする。
家同士の力関係、腹の探り合い。嫁に選ばれるのは誰か…
終盤、あせびが無垢であるが故に、自分を好いた相手を悪意なく利用する習性がある。それは母譲りのもので、母も同様の過ちを犯した。母は帝とは別の相手と関係を持ち、あせびを身篭ったため、正室の座を射止められなかった。
というのを、今までほぼ出番のなかった若君に突然やいのやいの言われる。
何お前
そして、若君はそもそも正室を愛する気はない、形だけのものだと隠さずいい、恋心を募らせていた相手に、「それでも、お前は嫌いだ」と罵られるあせび。
なにそれ
そして、あせびは罪の自覚もないまま、家に帰され、脇役だった南の娘が、昔から若君の幼馴染みとして親しくしていたとして、愛がない関係だと知りつつも正室の座を射止める。
若君は南の娘を特別に思っているエピソードが、最後に差し込まれる。
もうぽかんとしてしまった。
続編に出てくるだろう、若君も南の娘も、応援できる気がしない
幼いころの記憶は、2歳ぐらいから残っている。初めて乗った三輪車、初めていった遊園地でのヒーローショー、流行に乗って買ってもらったローラースケート、ファミリーコンピュータ。皆覚えている。
幼稚園の頃には、既に自分が他者とは異なる存在であることを認識していた。
幼稚園でやることは何もかもが退屈だった。何度同じことを教えてもらっても文字を読めない、たとえひらがなであっても自分の名前を書けない。そんな同い年の園児達に辟易していたし、先生の言うことも最終的に言いたい・結論の読める、そんな通り一辺倒の話しばかりで、毎朝幼稚園に通うバスに乗る時には苦痛を感じていた。
ある日、そんな苦痛の発生源から「近所の公園で落ち葉拾いをして、その落ち葉でちぎり絵を作りましょう!」と言われた。他の園児たちは落ち葉をかなり細かくちぎって、造形でギリギリ判別できるかどうかの「おさかなさん!」「おはな!」「おかあさん!」といったの作品を作って先生に持って行っていたが、俺は「いやいや、落ち葉で作るんだから落ち葉である事を活かせよ」と思い、少し捻くれた形をしたカエデの落ち葉を1枚と、他にも大量の落ち葉を拾って、「人喰いおおかみをやっつけた人が、その証としておおかみの右手をバイクに積んで村に戻っているところ」という作品を作った。
作ったちぎり絵を先生に見せた時、「これは・・・バイク?・・・と・・・手?」という反応をされたので、それは人の手では無く、怖くて悪い人喰い狼だと説明した。その際に俺は「これは他の人間にも説明が必要だな」と何故かひとり勝手に確信し、画用紙に黒のクレヨンで物語を描き始めた。最初は延々と文字だけで説明していたが、文字だけだと寂しいので、余白に挿絵もつけた。
「悪くて怖い人喰い狼が現れて困っている村人たちのところに、腕利きの猟師がやって来て・・・」という、何とも陳腐な筋書きではあるが、画用紙を10枚以上使ったと記憶している。
俺のちぎり絵と物語は幼稚園で話題になり、その年のお遊戯発表会の題材にもなった。先生は「やっぱり主役の猟師役は増田君がやるべき」と言ってくれたが、主役はガキ大将のS君に決まった。かけっこなどの身体を使う類いのことはからっきしだったので、俺はそれで良いと思った。
発表会は結構うまくいったようで、いつの間にか俺の「作品」達は、「画用紙に書いた物語と一緒に区役所に飾ろう」という話まで出て来ていた。
その事で幼稚園側と区役所側の担当者が何度か話し合いを持ったようだが、結局絵だけ飾る事になった。
区役所に絵を飾る事になるまでの一連の話を幼稚園から説明された両親は、たいそう喜んでくれた。
両親は平凡だった。見合いで結婚し、中庸であることを良しとし、毎日を善良に暮らし、一人息子である俺にもしっかりと愛情を注いでくれる。そんな両親だった。
ただ、そんな両親が、幼稚園側が区役所の絵画の話を交えつつ、「増田君は本当に優秀です。才能があります。小学校は是非とも私立を考えられては・・・?」と強く推した途端、「いえ、結構です。ウチは公立の小学校に行かせます」と、頑として譲らなかった。理由はわからない。金銭的な問題だったのかもしれないし、中庸を良しとする生き方に反していると考えたからかも知れない。
俺は単に「人間関係をリセットして、見知らぬ土地でまたイチからやり直すのは苦痛である」などとぼんやり考えており、小学校は地元の公立のほうが良いように思えた。
幼稚園の中に友達と呼べるような存在はいなかったと思うし、毎朝の通園バスも苦痛ではあったが、それでも何とか周囲の人間の為人を把握して対応方法をほぼほぼ確立していた矢先の話だった。小学校とやらに行く事になれば、公立でも私立でも「周囲の人間の数」は増えるのだろうが、私立でゼロから再構築するよりは公立のほうが幾分マシだろうと思っていた俺は、そのように両親に伝えた。
両親と俺の希望が一致していたので、当然小学校は地元の公立小学校に入学することになった。
小学校に入っても、特に俺自身の変化はなかった。小学校に入ると本格的に「勉強」というカリキュラムがはじまったが、先生が言っている事を聞いて、板書をして、家に帰ってから宿題を済ませた後に復習・予習をしていれば、テストの点数は取れた。
この頃になると、自分の状態を客観的に捉えた上で、自身についての考察ができるようになっていた。
俺は結論として、「俺は天才である」と考えた。井の中の蛙どころの騒ぎではない。加えて、空の青さも知らないとなればもはや滑稽を通り越して害悪であるが、俺の周囲には俺より優れた学力を持つ者も、俺を諫めようとする者もいなかった。
言い訳がましいが、物差しが少ない小学生の時分である。「学力」という物差ししか持っていなかった俺は増長し、慢心し、周囲を哄笑した。将来は俺のような人間が、東京大学のような「賢い一流の大学」に入って、「でっかい一流の会社」に入社して、いずれは社長になって世の中を動かしていくと、本気で思っていた。
何より、公立の小学校は毎日がヒマだった。普段から見下している同級生とは、恐ろしいぐらいに会話がかみ合わなかった。俺にコミュニケーションスキルがあれば、「会話をあわせに行く」「自分の会話ができる場を作る」といった芸当も可能だったかも知れないが、ご多分に漏れず俺はコミュ障だったし、そもそも会話を合わせるという発想もなかった。
「名のある企業に入れる」「いずれは社長になる」などと思いこんでいるような人間がコミュ障というのは、その時点でもう既に色々と破綻しているような気がしないでもない。
ともあれ、この頃の俺は毎日退屈な授業とかみ合わない会話をする為だけに、日帰りの監獄に通っていた。全国の小学生がこの地獄を味わっているとするなら、文部省は滅ぼさなければならないと本気で思っていた。その為に文部省に入って俺がこの国を変えてやるんだと、鼻息だけが荒い小学生だったと思う。
─────「良い会社」に入るには「良い大学」に行かないといけないらしい。
─────日本一の大学は東京大学というところらしいが、真の天才であるならば京都大学に行くらしい。
そんな情報を入手したのは、忘れもしない、小学4年生の秋頃である。いかにも小学生が摂取しそうな、狭い世界のテキトーな話である。だが俺は何故か純真無垢にその与太話を信じた。つまり、「将来は絶対に京都大学に入ろう」と思った。
そこから俺は色々と京都大学の情報を収集しはじめた。「学部」など、小学生の俺の辞書には登録されていない概念に触れる度に興奮しつつ、どうやったら京都大学に入れるのか?という情報を求めて方々に聞いて回った。まず一番初めに、俺にとってもっとも身近な「大人」である両親に「どうやったら京大に入れるのか?」と尋ねたところ、「知らん」と言われて会話を打ち切られてしまった。仕方なく学校の先生などに尋ねたりしていたが、小学生の調査能力などたかが知れており、当時はまだインターネットなども普及していなかったので、俺の京都大学情報収集はかなり早い段階で終止符を打たれることになってしまった。
しかし、京都大学に入れたとしても、大学入学までは今からでも約8年かかる。京都大学に入る方法とは別に、一刻も早くこの日帰り監獄から抜け出す方法はないものか・・・と模索していたところ、どうやら「私立中学」というところに通えば俺の退屈な生活におさらばできるようだという情報を得た。
日帰り監獄の看守たる先生も、たいそう熱心に「増田君は灘中学か東大寺学園に行かせるべきです。」と言ってくれた。特に小学6年生時の担当看守だったK先生は熱心で、何度も両親と懇談して、俺を私立に行かせようとしてくれた。
だが、ここでも両親は「ウチはあまり裕福ではなくて・・・。本人は成績も良いので、公立中学から北野高校にでも行ってくれたらいいと思っておりまして・・・。」と、俺を私立中学に進学させることは明確に拒否した。
看守は
「経済的に難しいと思っておられるなら、公立中学以下、なんなら増田君の学力ならおそらく無料で通える」
などと食い下がったが、両親は「もう公立に決めてますので・・・」と固辞した。
この頃になると、小学生の俺でもさすがに両親の言動に疑問を覚えるようになった。両親は「経済的に困窮しているから私立は行けない」の一点張りだったが、看守は「困窮していても通えます」という。イヤさすがにそれはちょっとヘンだろ、矛盾してるだろと思っていたが、当時の俺はそこまで頑なな両親を説き伏せてまで日帰り監獄から抜け出したいとまでの強い意志は持ちえなかったし、天才・秀才・英傑達と机を並べて学びたいという願望も希薄だったし、それらの一連の俺の態度が招くであろう結果も、特に深くは考えてはいなかった。
当時の両親の真意が奈辺にあったのか、今となっては分からない。草葉の陰から、声は聞こえない。
そうして地元の公立中学校に入学した俺は、特に変わり映えのしない日帰り監獄生活を送っていた。そんな俺だったが、中学生活の半ばに差し掛かろうという頃・・・具体的に言うと全国模試を受けたあたりで、「んん?あれ?・・・どうも俺って天才じゃないな、これは・・・」と薄々感づき始めた。全国模試の偏差値が出るからである。
そりゃもちろん、俺の偏差値は全国平均より遥か上には位置しているのだが、自分なりに努力をしてみても、偏差値的に灘高校にも東大寺学園高等部にも届かないという事実を突きつけられた。これは結構俺にとってはショックで、小学校の頃は「余裕で入れる」と言われた灘にも東大寺にも入れないという事実は俺に重くのしかかった。「このレベルの高校が無理なら、こりゃ京大や東大なんて夢のまた夢だろ、どうしよう・・・俺の人生、どうなるんだろう」と、本気で思い悩んだ。
悩みぬいた俺は中学2年の夏、両親に「塾に行きたい」と言ってみた。しかし結果はやはりというか順当というか、頑強に拒まれた。曰く
「成績がいいのに何故」
「塾はお金がかかる」
「家でも勉強はできる」
小学生の頃の俺なら諦めていただろうが、中学生になっていた俺は己の目標を達成する為に食い下がった。模試の結果を伝え、行きたい大学がある事、だが自分の今の成績ではそこに至ることができない事、自宅での自己学習には限界がある事などを説明した。
また、塾が無理なら定性的定量的に評価が可能な代替案の提示をせまった。塾の代金は高校に行ったら必ずバイトして返す、なんなら今から新聞配達をして払うと、土下座までして塾に行かせてくれとせがんだ。
半年ほど前に未亡人となった母はなんだかやつれて見えたが、当時の俺は塾に行けることが嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、あまり母親のことを注意深く見ることはできなかった。今思えば、当時の母は様々な事に疲れ切って倦んでいたのだと思う。塾に行く許可も、根負けというよりかは思考放棄といったように俺には映った。
そんな母を尻目に意気揚々と進学塾に入った俺は、成績順のクラス分けで上から2番目のクラスに入れられた。正直、体が震えた。自分よりはるかに勉強ができる人間が、天才が、焦がれる存在が、今まさにすぐひとつ上のクラスにいるとリアルに感じられるのである。そして、その人間たちと同じ程度の授業を、自分も受けることができるのである。これがアニメだったら俄然燃えるBGMが聞こえてくるようだった。実際、あの時の俺には、何かが聴こえていたのだろう。俺は一心不乱に机に噛り付いた。机に歯形があるんじゃないのってぐらいには噛り付いていたと思う。
その甲斐あってか、入塾後すぐのクラス替えで、あっさりと一番上のクラスになれた。ここで俺は生まれて初めて、圧倒的な勉学の才能をもった人間、すなわち「天才」と直に出会った。それも一人や二人ではない。そんな輝ける才能がひとつの教室に雨後のタケノコのようにポコポコと存在している、そんな環境で学べるという喜びにも出会った。
毎日がただ楽しかった。自分は天才ではないのかも知れないけど、努力すればちゃんと数字が、成績がついてきてくれた。
幼少の頃、毎朝幼稚園に行くバスの中で感じていた苦痛や、小学生の頃に感じていた疎外感は、もう無かった。
高校は公立の北野高校というところに入った。維新の橋下弁護士とか、日本マクドナルドの創業者の藤田田(ふじたた、ではなく、ふじた・でん)とか、漫画家の岡田あーみんとかが通っていた高校である。
本当は東大寺学園に行きたかった。学力や模試の偏差値は足りていたと思う。赤本の自己採点でも余裕で合格圏内だった。だが、中学3年時に入塾した際に母親と交わした「高校は絶対に公立高校にする事」という約束を守った。その約束をした時点では「受験までにどうやって説得するか・・・」などと考えたりもしていたが、塾での公立中学では考えられない授業スピードについていけたことや、並み居る才能たちと交わした会話の中で、「公立高校からでも京都大学は狙える」という感触を、俺は確かに掴んでいた。
中学の頃はあまりよく理解していなかった奨学金制度は、高校に入ると同時に申請した。家計を理由に俺の私立進学を拒んだ母親は、中学時代に俺の奨学金を申請していないこともその時に知った。俺はそんな母親を信用せず、奨学金の申請手続きを自分自身で済ませた。
北野高校の授業の質は高いと思った。だが俺は油断せず、予備校にも通うことにした。私立中学入学組の連中は、少なくても俺より3年は早く走り出している。そいつらに追い付くには、そいつらと同等、いやそれ以上の勉強が必要であると思ったからだ。
俺は詐欺師丸出しの口調で「高校の学費が浮いたんだから、もともと払うつもりだった学費は予備校に回してほしい。予備校とバイトを完全両立させるのは時間的に難しい。学力的に、俺は中学までの借金がある状態。プラスに転じるには積み上げるしかない」などと母親に申し入れたところ、すんなりと受け入れられた。
この頃になると、奨学金の申請だけでなく、家の中の一通りの事は全て俺がやっていた。
「自分でできるようになったから」というのももちろん理由としてはあるが、母親が炊事・選択の家事全般を筆頭に、日常生活の様々な事をほぼ全て放棄してしまっている事のほうが、より比重の大きい理由だった。母親が予備校行きを認めたのも、「認めた」というよりは「俺が『予備校に行きますよ』と報告した」といった表現のほうが正しいように思う。
俺が小学生や中学生の頃には確かに存在していた、「理由なぞはよくわからないがとにかく自己の主張を持って論陣を張る頑強な”母”たる人間」は、もういなかった。朝起きて、TVをつけて、ご飯を食べて、夜眠るだけの人間がそこにはいた。
家計はほぼほぼ俺が全部見ていた。入ってくるカネと出ていくカネを計算して大幅なマイナスにならないと言う事だけを気にしていたので、一般的な家計管理よりはラクだった。現に、今つけている家計簿よりは簡単だったように思う。父親の遺した資産が多少あったので、その管理も俺がしていた。
高校生活は楽しかった。学力差のある人間を十把一絡げにして地域ごとに押し込める日帰り監獄では味わえない切磋琢磨がそこにはあった。同程度の学力を持つ者同士が集まった結果としてのシナジーがあった。今までは暗い色で塗りつぶされていた「学校での生活」に色が付き始めた。毎日学校に行く事が楽しかった。対照的に、毎日家に帰るのが億劫になり、やがてそれは苦痛に変わり、それに伴い、家の中が暗い色で塗り潰されていった。
昔、母を名乗っていた人間は炊事もしないので、学校帰りは毎日スーパーに寄り、食材を買い、俺が晩ご飯を作った。予備校のない日は二人で食事をするようにしていたが、食事中に会話のようなものはなく、TVから流れるバラエティー番組の下らないやりとりだけがBGMだった。ご飯の味はしなかった。たぶん、母だった人も、ご飯の味はしていなかったと思う。
もしかすると、家から目を逸らそうとして、無理に高校での生活が輝いていたんだ、良かったんだと自分自身に言い聞かせているだけなのかも知れない。我が事ながら、この頃の記憶は妙に混濁している。
大学入試は当然のように京都大学一本にした。学力も模試結果も問題無いと判断したし、何より俺には京都大学以外の大学に通う価値を見出せなかった。入学できるまでは何浪でもするつもりだったが、幸いにも現役で合格することができた。
ひとり身になったから身軽だったし、しばらく大阪から京都大学に通ってみたものの、さすがに京都の外れまで毎日通うのはちょっと辛いなと思った。何より、暗い色で塗り潰された、大阪のあの家に帰るのは嫌だった。もうTVの音は聞こえなくなったけど、あの家で目をつぶって眠るのが、怖かった。
大阪での様々な残務を片付けると、それらの結果や、これからの事、感謝の気持ちなどを両親の墓前に報告して、俺は京都に移り住んだ。
後編に続く
求めている答えとはズレているとはわかりつつ、子供が生活にいることの変化について。結論を言えば、自分の人生に引導を渡された感じがする。私個人としての生きがいや社会的役割の追求はここまで!と諦められた感じ。学生の頃からひとかどの人間になるように育てられ、社会参加しようと肩肘を張って頑張ってきたけれど、妊娠出産育児でまったく社会的なスケジュールと折り合いがつかなくなり、むしろ社会的には弱者になって助けられる立場になった。字にすると悲惨だけど、心は穏やか。私の航海は終わり、陸に上がってあとは暖かな家庭を築く極めてパーソナルな人間になればいいのだなと啓示を受けた感じ。そう思えるくらい、子供が生まれて初めて「家庭」という雰囲気が我が家にやってきた。
結婚してから数年選択的子なし夫婦だったため、その雰囲気は家庭というよりカップル、親密な同居、そういうものに近かったと思う。それはそれで悪くなかった。収入はお互い足りているし、時間は自由だし、生活に成約は何もなかった。互いのワガママが衝突してたまに喧嘩をし、互いとも尊重しあいたいから謝って仲直りするみたいな二人組。子供がいると違う。圧倒的に制限が増え、責任も重くなり、互いを見る関係ではなく、共にこのコントロール不能な生き物を守り育てるチームとなった。共に家庭の戦士となった。
甘やかで自由なシャレた雰囲気は私達の間から消えてしまったけど、今まで知らなかった相手の良いところをたくさん発見した。合理性を求めて理詰めで人を脅すような気質が、子供相手だとなりをひそめた。そういう行動は、心身ともに万全な恵まれた人ができることで、社会の大半を占める子供や老人や元気のない人間には求められないことを学んでいた。つまり戦士になって優しくなった。私はますます好きになった。
子供は可愛い。見た目の愛らしさや動作、無垢な発言が可愛い。でもその可愛らしさに一元的に癒やされる以上に、道にドングリが落ちるようになったとか、電車がトンネルを通過したとか、バイバイができて褒められてなんか照れちゃうとか、世界には楽しくて嬉しいことがいっぱいあるよね!と共感する機会が増えて毎日が楽しくなった。伊勢丹も夜中のお酒も弾丸海外旅行もトレたまも全部手放したけど、子供と共に世界を再発見する毎日が楽しい。水たまりに空が映ることが嬉しい。
この子供が育ち親が死に私達もお互いに歳を重ねて泣きたくなる出来事が重なりもするだろう覚悟している。就職して結婚して数年間手にしていた経済的、時間的、精神的な自由と気楽さはもうないけれど、このまま暖かで互いを思いやる良い家庭を育てることができれば、どんな不幸が降ってきても、この家庭がある限り大丈夫、そういう家庭を作るためなら自分の色々は諦めても大丈夫、この子が世界の良さを教えてくれるからそれについて行けば大丈夫、そう思って日々暮らしている。
タイトル通りなのだが、6歳の保育園に通う娘が、マインクラフトでイルカを殺して遊んでいた。
やっていない人に説明すると、マインクラフトでは卵からいろんな動物をフィールドに出現させることができる。
パンダならパンダをフィールドいっぱいに出すことができて、結構カオスな状況になる。
パンダは竹を食べるので、竹をあげると立ち上がってもぐもぐ食べる。
イルカは、陸上にだすと、ビチビチうごきながら、そのうち赤くなって死ぬ。
娘はそれを面白そうにやってみせた。
ぽいぽい出現させては、どんどんイルカが死んでいく。
他にも、オオカミを池の中にたくさん出現させて、おぼれる様子を見せてくれた。
こういうことを良くするのか聞いた。
そんなことをするなと。
お前がそんなことをするのは悲しい気持ちになると。
娘は「ここで私が何をしようと勝手でしょ!」と、これまた怒っていた。
架空の児童キャラや実在の児童及び児童一般を指して、鍵無しアカウントで呟くことを想定。
AからHまで。
個人的意見では、ABはセーフ、CE白寄りグレー、D黒寄りグレー、FGアウト、Hはすぐ通報。
例文がキモい。
ドスケベメロスは激おこぷんぷん怒り勃起した。遺憾の意射精もじゃんじゃんばゅりばゅりした。5㍑くらい射精(で)た。必ず、かの邪智にして暴虐、淫乱で猥褻、卑猥でしかも淫靡、妖艶なだけでなく耽美、そして最もえちえちな王、人呼んで・・・邪智暴虐淫乱猥褻卑猥淫靡妖艶耽美最えちえち王をスケベ除かなければならぬと決意の自慰もした。ドスケベメロスにはえろえろ政治がむちむちにわからぬ。ドスケベメロスは、スケベ村のスケベ牧人である。笛ラチオをスケベ吹き、感度3000倍の媚薬が溶け込んだ乳を出す淫乱羊、その名も感度3000倍媚薬乳淫乱羊と交尾したりされたりしてえっちに遊んで卑猥に暮して来た。けれどもむらむら邪悪メに対しては、人一倍に超エロ敏感であった。無垢な少年のむくむく棒のまだ暖かな春の日差しを知らないむくむく中身よりも敏感であった。悪エロスを見ると一秒の間に4545194回怒りアクメするレベルの敏感さですらあった。淫靡極まり無いきょうのエロスとカオスとリビドー渦巻く未明ドスケベメロスはスケベ村を出発し、エロ野を越えエロ山越え、十里はなれた此のドエロシラセックスのセックス市にやって来てとりあえず挨拶がわりとしてそこら辺で雑に射精した。ドスケベメロスには絶倫父も、淫乱母も無い。エロ女房も無い。バイオ性玩具も無い。十六の、内気な美っ痴妹と二人暮しだ。この美っ痴妹は、スケベ村の或る律気な一スケベ絶倫牧人を、近々、えちえち絶倫花婿として迎える事になっていた。猥褻結婚式も間近かなのである。ドスケベメロスは、それゆえ、美っ痴花嫁の猥褻ドスケベ即ハメ不健全エッロエロ衣裳やら祝宴の媚薬激盛御馳走やら脳の機能が生殖器に支配されたバイオ性玩具やら発情きび団子やらを買いに、はるばるセックス市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それからセックス都のドエロ大路をぶらぶら歩いた。ドスケベメロスには竹馬の穴友があった。セックスリヌンティウスである。今は此のドエロシラセックスのセックス市で、いかがわしいエロ石クス工をしている。その穴友を、これからエロ訪ねてみるつもりなのだ。久しくエロ逢わなかったのだから、エロ訪ねて行くのが卑猥(たの)しみである。そこら辺の棒とか穴とかをセックスに誘うようなセクシーさでスケベに歩いているうちにドスケベメロスは、エロまちの様子を卑猥(あや)しく思った。老人同士の事後かというほどひっそりしている。もう既にセクシー日(サン)も落ちて、エロまちのスケベ暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、淫ら夜(ナイト)のせいばかりでは無く、セックス市全体が、やけに寂しい。猥褻(のんき)なドスケベメロスも、だんだんエロ不安になって来た。セックス路で逢った若いスケベ衆をつかまえて、とりあえず雑に笛ラチオをして、何かあったのか、二年まえに此のセックス市に来たときは、淫ら夜(ナイト)でも皆があまりにも卑猥過ぎてIQがぴーぼぼぼぼになるようないやらしいクソスケベな歌をうたって、エロまちは卑猥(にぎ)やかであった筈だが、とエロ質問した。若いスケベ衆は、首を振って答えなかった。しかしドスケベメロスのドスケベな穴にドスケベな棒をぶち込んで腰を雑に振った。しばらく歩いてセクシー老爺(イケシルバー)に逢い、こんどはもっと、スケベ語勢をエロ強くしてえちえち質問した。セクシー老爺は答えなかった。メロスは両手でセクシー老爺のからだをゆすぶって素股をしながらえちえち質問をむちむち重ねた。セクシー老爺は、あたりをはばかるセクシーと言うにはあまりにも卑猥な低声で、わずか答えた。
「なぜアクメ殺すのだ。」
「悪スケベ心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪スケベ心を持っては居りませぬ。」
「たくさんのスケベ人をアクメ殺したのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアクメレキドスケベス様を。あとスケベ遠いドシコリブルグから迷い込んだセックスエイリアンを。」
「いいえ、えちえち乱心ではございませぬ。スケベ人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下のスケベ心をも、お疑いになり、少しく卑猥で派手な暮しをしている者には、スケベ人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御アク命令を拒めばエロ十字架にかけられて、アクメ殺されます。きょうは、六人アクメ殺されました。」
聞いて、ドスケベメロスは激おこぷんぷん怒り勃起した。そうして冒頭にあった通り、遺憾の意射精と決意の自慰をした後で、物欲しそうなセクシー老爺の開きっぱなしのアナルを使って覚悟の自慰もした。「呆れたえちえち王だ。アクメ生かしてスケベ置けぬ。」
ドスケベメロスは、バイオ性玩具より単純な助平男であった。アダルティックな買い物を、セクシーに背負ったままで、のそのそドエロ王城にはいって行った。たちまち彼は、えっち巡邏のドス警べ吏にえっちに捕縛された。エロ調べられて、ドスケベメロスの猥褻な懐中からはどう見てもえっちな事にしか使えない短剣(バイブ)が出て来たので、エロ騒ぎがエロ大きくなってしまった。ドスケベメロスは、えちえち王の前に引き出された。
「この短刀(バイブ)で何をするつもりであったか。言え!」えちえち暴君ディオニセックスはエロ静かに、けれども威厳を以てムッキムキの従者二人の穴と棒を自らの棒と穴で激犯しながらエロ問いつめた。そのえちえち王のセクシー顔はセクシー蒼白で、セクシー眉間のセクシー皺は、セックスが刻み込まれたようにエロ深く、枯れ専の雌穴の卵巣IQが一瞬で虚無虚無ぷりんになるレベルでエロかった。
「セックス市を淫乱えちえち暴君のガシガシ手マンから救うのだ。」とドスケベメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」えちえち王は、えろえろ憫笑(びんしょう)した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしのスケベ孤独がわからぬ。」
「言うな!」とドスケベメロスは、セックスの途中で穴から抜かれた時のチンポみたいにいきり立って反駁(はんばく)した。「スケベ人のスケベ心を疑うのは、最も恥ずべき破廉恥悪徳だ。えちえち王は、えろえろ民のむらむら忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当のスケベ心構えなのだと、わしにスケベ教えてくれたのは、おまえたちだ。スケベ人のスケベ心は、あてにならない。スケベ人間は、もともと私慾情慾性慾肉慾淫慾色慾のかたまりさ。アクメ信じては、ならぬ。」えちえち暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついて、20㍑射精した。「わしだって、助平和をむらむら望んでいるのだが。」
「なんの為の助平和だ。自分のスケベ地位を守る為か。」こんどはドスケベメロスが嘲笑アクメした。「罪の無いスケベ人をアクメ殺して、何が助平和だ。」
「だまれ、下賤の助平者。」えちえち王は、さっとアクメしそうな顔を挙げてエロ報いた。「上の口では、どんな卑猥(きよ)らかな卑猥(きれい)事でも言える。わしには、スケベ人のだらしない腹綿のはしたない奥底が視姦(み)え透いてならぬ。おまえだって、いまに、えちえち磔になってから、アクメ泣いて詫びアクメしたって聞かぬぞ。」
「ああ、えちえち王は卑猥(りこう)だ。自惚れえっちしているがよい。私は、ちゃんとアクメ死ぬる覚悟で居るのに。命(アクメ)乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、ドスケベメロスは足もとに視線を落し射精して瞬時ためらい、「ただ、私にスケベ情をかけたいつもりなら、アクメ処刑までに三セックス日間のセックス日限を与えて下さい。たった一人の美っ痴妹に、絶倫えろえろ亭主を持たせてやりたいのです。三セックス日のうちに、私はスケベ村で猥褻結婚式を挙げさせ、必ず、ここへエロ帰ってアクメ来て素直にデスアクメします。」
「ばかな。」とえちえち暴君は、卑猥(しわが)れたセクシー声で低く笑った。あまりのセクシーさに何人かの衛兵がデスアクメし、中には耳からバイオ性玩具をアクメ出産した者もいた。「とんでもない嘘アクメを言うわい。逃がした淫乱小鳥がエロ帰ってアクメ来るというのか。なんか来ちゃうのか。白いおしっこが出てしまうのか。」
「そうです。エロ帰ってアクメ来るのです。なんか来ちゃうのです。白いおしっこが出てしまうのです。」ドスケベメロスは必死で言い張った。「私はエロ約束をエロ守ります。私を、三セックス日間だけ許しアクメして下さい。美っ痴妹が、私のエロ帰りを待ってオナニーしているのだ。そんなに私をエロ信じられないならば、よろしい、この市にセックスリヌンティウスというエロ石クス工がいます。私の無二の穴友人だ。あれを、スケベ人質としてここにエロ置いて行こう。私がアクメ逃げてしまって、三セックス日目の淫靡極まり無い日暮まで、ここにエロ帰ってアクメ来なかったら、あの友人をエロ絞めアクメ殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、卑猥(ざんぎゃく)な気持で、そっと北叟笑(ほくそえ)んだ。生意気なエロことを言うわい。どうせエロ帰ってアクメ来ないにきまっている。このドエロ嘘つきにエロ騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りのスケベ男を、三セックス日目に殺してやるのもエロ気味がいい。スケベ人は、これだからエロ信じられぬと、わしは悲しいアクメ顔して、そのスケベ身代りの男をえちえち磔刑にえろえろ処してやるのだ。スケベ世の中の、エロ正直者とかいう淫乱奴輩(いんらんやつばら)にうんと視姦(み)せつけてやりたいものさ。
「エロ願いを、聞いた。そのスケベ身代りを呼ぶがよい。三セックス日目にはセックス日没までにエロ帰ってアクメ来い。おくれたら、そのスケベ身代りを、きっとアクメ殺すぞ。ちょっとおくれてアクメ来るがいい。おまえのスケベ罪は、永遠にアクメゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。おほぉ♡」
「はは。スケベいのちが大事だったら、おくれて来い。おまえのスケベ心は、わかっているぞ。」
ドスケベメロスは口惜しく、アクメ地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。でも射精はきっちり10㍑した。
竹馬の穴友、セックスリヌンティウスは、深夜、スケベ王城にアク召された。えちえち暴君ディオ二セックスのスケベ面前で、佳き穴友と佳き穴友は、二年ぶりで相逢うて、互いのチンポを狂ったようにしゃぶりあった。ドスケベメロスは、穴友に一切のエロ事情を語った。セックスリヌンティウスは無言で首肯き、ドスケベメロスをひしと抱きしめてお互いのペニスをお互いのアナルに入れて二、三回交尾した。穴友と穴友の間は、それでよかった。セックスリヌンティウスは、縄打たれアクメした。ドスケベメロスは、出発前に、縛られたセックスリヌンティウスのペニスに自らのペニスの先っちょをくっつけてしばし別れのキスをした。穴友ペニス同士のえっちであまあまなおちんちんディープキスがいつまで経ってもおわらないので、えちえち暴君はドスケベメロスとセックスリヌンティウスに発情した雌犬も一秒と経たずにドン引きするレベルで発情しまくっているドシコリブルグ産の腋とまんこが毛むくじゃらで流石の体毛フェチも「こんなんジャングルとセックスしてるようなもんじゃねぇか。」と喜怒哀楽が混沌に混じり切って困惑アクメしまうような局部ボーボー発情奴隷と三セックス日間セックスするように命じた。ドスケベメロスは発情奴隷とセックスしながらすぐ出発した。猥褻な初夏、満天のスケベ星である。発情奴隷の全身から溢れ出るスーパー強制発情フル勃起フェロモンがドスケベメロスのドスケベメロスをバッキバキにフル勃起させていた。
ドラ●ン●ール超ブ●リーの円盤を持っている人はそれを今すぐ見てくれ。もってない人はアマフ゜ラですぐ見てくれ、まだ配信しているはずだから。アマフ゜ラに加入していない人は申し訳ないがレンタルで今すぐ見てくれ。
問題のシーンは後半、ごくうがベ●ータにフュージョンを教えるためにヒ゜ッコロとお手本のポーズをとるシーンだ。見ていただければわかると思うが、なんとごくうの乳輪が筋肉につられて斜めに伸びているではないか!いかがわしい…!破廉恥な…!風紀が乱れる…!何がスタイリッシュごくうだ、あんな目立って全然スタイリッシュじゃないじゃないか。直前にベ●ータが「なんという恥ずかしいポーズ…!」と言っているが恥ずかしいのはポーズではなくその乳首だ。乳輪だ。少しは恥ずかしがれ。解剖学的に正しいというのは肉感的とイコールなのだろうか…。そも無垢で淫らな考えは一切持ったことがなさそうなごくうに乳首がついていることが性欲を煽るのでは?とも考えたが、二児の父親に何をいっているんだ私は…。
余談だがこの映画はごくうの乳首もブ●リーの乳首も見えるがゴ●ータの乳首は一切見えない。このことは視聴の際は微塵も気にしなくて良い。ましてや全シーン確認しないように。
異性関係でボロ雑巾になっていて、ここんところとにかく自信を失っていたところの私が、唯一と言っていいほど自信を持っているのが読書感想文だった。そんな中、光属性の例の増潤を見て、ひとしきり笑ってひどい虚しさを覚えた私が、滅びよ人類と思いながら酒を片手に読書感想文に関する増田を勢いで書くのは、必然だったのだろう。あんなにブクマが付くのは完全に想定外だったが。
今でこそ読書感想文は自信があるが、昔は苦手だった。あらすじ書いて、作者が伝えたいことはこれじゃないか、みたいな書評もどきを書いていた。そのころの感想文なんて、「○○は「A」と、言いました。××は「B」と、言いました。でも本当は、BじゃなくてCです。××はうそをつきました。」とか書いてた。あまりにもわからなくて、親に聞いたら「これは感想文じゃない」だ。そのとおりだが、書き方がわからなかった。「感想文なんだから感想を書くんだよ。」そうなんだよな。しょうがないから最後にとってつけたように、「うそをつくのはよくないと思いました。」と書いて、感想文の完成だ。「うそをつくのはよくないと思いました」という嘘をついていた。
覚醒したのは小4。今でも内容までかなりの精度で覚えてるぞ、「カモメがおそう島」、実在するほうの兄が買ったのを、金使いたくなかった私が勝手に借りて読んだ課題図書だ。イースター島奇譚。今思い返せば、確かにいろんな切り口で感想文を書ける。習慣と善悪あたりは、多分大人が評価する子供の切り口ができるだろう。特に「カモメの無垢さ」と「習慣」あたりから、「自ら善悪の判断をつけずに、周りにあわせて他人を攻撃していないか?」「いつも習慣のようにやっていることもカモメにならないために善悪を考え直してみようと思った」みたいな事書いたらよく出来ましたハンコと原稿用紙2,3枚分の厚さの紙ペラが1枚が貰えるだろう。今の私だったら、対カモメの防御兵器になった仮面と絡めて「善悪の判断がつかないカモメから自らを守るのは仮面という盾であった。しかし、現在のインターネットの発達により作られた匿名という仮面は、人を攻撃する武器となり、インターネットカモメを生み出してしまった。さらに言えば、このインターネットカモメから身を守るのも、本音や本名を隠して別の人格を形成するペルソナ、仮面である。」とか書けるな。小学4年生で書いたら呼び出しまったなしだ。
今でこそ、そんなこんなを楽しめるが、当時の私はこの本を復讐譚として読み出してしまったのだ。復讐譚にワクワクし、カモメにもっと、もっとやれと思い、助けに来た船を襲った時はよくやったと思った。主人公はなぜ島民を許してしまったのだ!復讐をメインに添えやがれ!何がめでたしじゃ!と怒ったのだ。あらすじを3行で終わらせ、あとは全部怒った。先生に呼び出されて、「俺はこれ1番好きだよ」って言われた。紙ペラ1枚すら貰えなかったし、先生が読書感想文について何か教えてくれることはなかったが、この先生にはだいぶ救われた。正解じゃなくていいんだ、って気づけた。大人の正解と自分の正解が違うし、先生も大人だけど、先生の正解と大人の正解すらも違うとちゃんと気付けた。自他の境界がつくのは4歳頃と言われているが、私がついたのはこの経験があったタイミングかもしれない。まあ4歳と4年なら1文字しか違わないしええとこやろ。で、この本は「復讐」と見せかけて「ペルソナ」がテーマになるので実質ファイアパンチ。
ちゃんと読書感想文というものに向き合ったのが5年から。それからは賞もらったりもらわなかったり。内容はあんまり記憶にないな。例の技法で、ひーこらやってた課題から、自信をもってこなせる課題にはなってた。
だからこそ、読書感想文何を書いたら良いかわからない問題には「正しいテーマなど必要ない」「主役は本じゃない」「自分の誤読を書け」が特効薬だと思ったのだ。だからあんな傲慢な、誰もが自分が言いたいこと、主張したいことがあって、それを書けばいいのだ、のような文章を平気で書いてしまったのだ。「本から受け取ったものなんてない」は想定できた。だから自分語りを勧めた。「書けったってどうやったらいいの」も想定できた。だから「読書感想文こそが訓練」で予防線貼った。方法論がわかれば、あとは訓練次第だと思ったからだ。完全に、「そもそも自分のことすらも書きたくない」を想定していなかった。切実なトラバに気付かされた。それなのに、凄く偉そうなことを返信してしまった上に、結局「書きたくない」ならそう書けばいい、のテクニック論に終始して、書きたくない「気持ち」をないがしろにしてしまったかもしれない。よりにもよって「オチ」などと!「私ならこうする」ばかりで、我が強いは良いとしても、猛省しなければならない。
自分のことすらも書きたくない、の原因は、様々なブコメが大変参考になった。「手が疲れるから書きたくない」「原稿用紙アレルギー」なんかは、もう課題自体をやらないという選択しか出来ないだろう。ただ、「そもそも大人が信頼できないから内心を開陳したくない」が真因の場合、これほど悲しいことはない。とくに小学生からみた周囲の大人なんて、社会のすべてだと思っていてもおかしくない。その大人が信用できないときの辛さ、全てが嫌になっていくだろう。そして、大人の信用できなさなんて、「ウソを付くこと」「ごまかすこと」「言ってることとやってることのズレ」という基本の基本から来てるんじゃないか。そんな子供に、課題がこなせないなら嘘捏造もありやで、なんて、何の役にも立たないアドバイスじゃないか。
私には何が出来るか。何も出来ない。教育には一切関わっていないし、親になる予定が無くなったからこんな文章を書き始めたのだ。このままゆるやかに、一人死んでいくのが私なのだ。自分一人の人生すらまともに面倒見れない私が、救えると思うことすらおこがましいのではないか。
数少ない救いの1つは、私の書いた感想文テクで、「感想を書けばいいんだよ」以外の指導を親御さんたちが出来るようになってくれたら、読書感想文などというくだらない課題に苦しむ子供が少しは書くのが楽になることだ。「内心を開示したくない子を救えなかった」よりも、「正解を求めてしまう子を救えた」と考えよう。いかにも大人っぽい諦念だ。そしてもう1つの救いは、大人を信用できなくなった子供も、大人に開陳したくないだけであり、「何も思っていない」ではないことだ。私はそう信じたい。結局自分を救えるのは、自分しかいないのだ。自分だけは、自分の思いを信じていかなければならない。自分だけは自分を信じていて欲しい。ああ、いかにも大人が言いそうな言葉だ。こうやって言葉で反省して、嘆いてみせることも出来るようになってしまった。明日になれば、私はまた仕事に戻ってせっせと自分の世話に勤しむだろう。そんな仮面をかぶって、生きていくんだろう。
「感想は個々人で勝手に持っている」は真だと信じている。そう思っていないと、やってられない。
私だったら、これには「テーマが「嘘」「ペルソナ」なので実質ファイアパンチ」みたいなコメント書くね。自分すらも茶化さずにはいられない。嫌な人間、架空の兄だ。
そしてこんな長々しい自分語りを読んでくれてありがとう、前2つについたブコメもトラバも全部読んだよ。コロナ禍以降久々の退屈しない週末だった。私は感想文だけじゃなくて、文章書くの好きなんだな。
現在ニュージーランドに留学中のアルピニスト野口健さんの長女、野口絵子さんが語ってくれたニュージーランドの魅力☆純粋で無垢な彼女のコメントが心に響きます。#ニュージーランド— ニュージーランド政府観光局 (@PureNZinJapan) August 11, 2020
これへの批判
↓
TRION
@trion_jp
三浦瑠璃さん同様、野口健さんもレイシストですね。娘さんに罪はありませんが、野口健さんの娘、という肩書無くして、こちらの広告への採用はあり得たのでしょうか?
雪裏の梅花
@seturibaika
親が親だけに期待ゼロ
Charles Darwin
@dawinananddawi
俺の大好きな国、ニュージーランド。
子を起用して平気なのか
大森一樹系
@BAR2501kim
sheepsong55
@sheepsong55
SchneggemANTIFA
@sunegebohbohman
4時間
彼女に罪はないのだろうが、「野口健の娘」として紹介するのはどうなのよ。NZ政府は野口健という人物がどういう人物なのかわかっていないのではないか。
まとめ
リベラルな人たちが「ネトウヨの親玉の娘を使うな」という政治的に正しい怒りをニュージーランド政府にぶつけていて笑っちゃった— はんがー (@dqnchild2) August 21, 2020
自由主義によって「悪しき国粋主義で汚れた政治的に正しくない血統」が生じる現象、自由と人権を大事にしていて良い— はんがー (@dqnchild2) August 21, 2020
おそらく年長〜小学校1,2年生ぐらいの頃だったと思うが、自分はたまに親父の乳首を舐めていたことがある。
動機は何だったのか?と聞かれれば、さすがに昔のことなので細かな所までは覚えてはいないのだが、幼心に好奇心があったのか、親父のこそばゆい顔を見てみたかったのか、理由はそんな所だと思う。
今となっては、なんでこんなことしようと思ったのか、昔の自分に問いかけてみたいのだが、自分もあの頃の親父と同じぐらいの歳になって感じるのは、舐められていた親父は感じていたのかどうか?ということが少し気になっている。
いくら自分の子供とは言え、いくら拙い子供の舐め方とは言え、乳首という男女共通の敏感な所を舐められでもすれば、やはり感じざるを得なかったのだろうと思う。いや、もし自分が親父の立場だったら、いやらしい気持ちが無くても感じてしまうだろう。
だから、あの時の親父には本当に感謝している。私の純粋無垢な好奇心を体一杯で受け止めてくれて。あの時代に親父の乳首を舐めていたためか、親父の乳首には一本の長い毛が生えていたことを今でも鮮明に覚えている。そんな自分も乳首に毛が生えている。こんな経験がなければ、そんな乳首の毛に親父を重ねることはなかったであろう。
9割の男が女湯に入ることを望んでいる
しかし、生まれ持った性別によって男は差別され、女湯に入ることができない
これは差別だ。
男が女湯に入るのを許さない差別主義者の女達は、なぜ差別するのかと言われると
・男がいると怖い
・男がいるとリラックスできない
と、更なる差別的言動を繰り出す。犯罪率を理由に女湯に来る無垢な男全体を性犯罪者呼ばわりするのは明らかな差別だろう。
また、女湯に入る女は「女に裸を見られても構わない」癖に「男に裸を見られるのは嫌だ」という。男に裸を見られても女に裸を見られても、どちらにも実害はない。つまり女はお気持ちで差別しているのだ。そして、自分が風呂で快適に過ごすために女湯に入りたがっている男を排除する。仮に日本人は良くて韓国人は、白人は良くて黒人は、、と言えば確実に差別なのに、女は男は性犯罪を起こすからと差別を正当化する。
更に、こういう差別女は「彼氏と性交するのは構わない」が、「きもい男との性交は嫌だ」という差別をする傾向もある。黒人の隣に座りたくない、と言えば差別だ。この男と寝たくないというのは、お気持ちに基づく差別以外の何ものでもない。
トイレにおいても女は男を排除しようとする。男が女子トイレに入ると、まだ何もしていなくてもそれだけで犯罪者扱いされる。男は性欲があるから性犯罪をするだろうと、決めつけて差別するのだ。差別女の差別の正当化の一つに、トイレの後に生理用品を漁られるのが嫌だという言葉があるが、一度捨てたものをどうされようと言いはずだ。男が気持ち悪いというお気持ちで、それを犯罪扱いする。
また、男性看護師が着替えを手伝おうとすると嫌がる女差別患者も多い。お気持ちで業務に支障を来させるのは明らかな差別だ。男が生まれつき持つようにできている性欲を気持ち悪いと感じるのは差別だし、受け入れようとしないのは差別だ。
同様に、トランス女性も男性と同じ差別を受けている。女が怖がるからというお気持ちの理由でトランス女性は女湯から追い出されている。女装して女子トイレに入っても、身体が男だと「怖い」からと差別する。更に、犯罪者と見分けがつかないと差別する。女はトランス女性を差別している。
しかし、トランス女性も、シス男性と同じ風呂に入りたくないなどと差別する。多くの男は、性別移行が完了したトランス女性が男湯に来ることを望んでいる。なのに、男が怖いなどという差別的感情で女湯に入る。男湯にいる男も心は女かもしれないのに、トランスジェンダーの診断を受けていないという理由だけで、男と決めつけて差別する。これはトランスによるシス差別である。トランスの性別は自分の主張するように受け入れろというのに、シスの性別は身体の性別で差別する。そもそもトランス女性は男性を差別しているから、女性になろうとしている疑いがある。これも差別だ。
トランス女性を女性だと認めない女は差別だから、女性はトランス女性を女性と認めるべきだ。同様に、トランス女性の方も、男湯にいる男性を女性と認めるべきだ。男である、女であるという証拠として、同じ銭湯の利用者という他人が性同一性障害の診断というプライベートな医療情報を証拠として求めるのは完全な差別だ。男湯にいる男は女性の可能性があるので、トランス女性も女性も平等に裸を見せるべきだ。
そもそも、男性だから女性だからという理由で裸を見せないというのも差別である。女性もトランス女性も男性と同じ風呂に入るべきだし、隣で立ちションすべきだ。
もし男性が女性が男湯に入ることに反対するとすれば、女性の貞操を占有する家父長制他ならないので差別だ。普通の男は差別的でないので、女性やトランス女性が自由に性を表現することを望んでいる。男は女性が男湯に入っても怖がったりしないので寛容で差別をしないのだが、嫁の裸を他の男性に見せたくないと差別をする男性も稀にいる。これは、家父長制なので差別だ。男性は女性(トランス女性)は性別によって差別されず男湯に入る権利があると認めるべきだろう。
男に裸を見せたくないなどと言って男湯に入らない、男を女湯から追い出そうとする、女性やトランス女性がミサンドリーを抱えた差別主義者であることは明白な事実だが、我々男性は寛容な男性として、女性と同じ風呂に入ることを認めてあげるべきだろう。
友川=綾城のような所謂『神絵師、神字書き』ポジションの人物に並々ならぬクソデカ感情を抱く立場のキャラクター
みたいなふわっとした感じで、結構な数の人が私は友川だな…いや友川みたいに頑張れてないけど… といった反応をしていたのをよく見た記憶がある(記憶違いかもしれない)
けれど友川という女は、そんな我々地獄の住人すべての魑魅魍魎を兼ね備えていただろうか もっと清廉として無垢な存在ではなかっただろうか
似ているなどと言うのは自意識過剰も甚だしいお門違い、ちゃんちゃらおかしい集団幻覚であると思う
そもそも貴方が友川なら 元々居る友達と馴れ合うのに忙しくて成長などしないだろう
そもそも貴方が友川なら 綾城を追い求めたい人物ではなく『到底手の届かないコンテンツ』として見るだろう
そもそも貴方が友川なら あそこで誰かしらに焼きマシュマロを送っている、もしくは正論で叩ける素材がないか血眼になって探すだろう
そんな貴方が友川なら、それはもう友川ではないだろう
この話はそんな貴方が友川であると仮定した時、貴方は『友川オルタ』であるだろう と主張する私による熱を出した日に見る夢みたいな話だ
上記の話がいやそうでもないな…という方は普通に純血友川だと思うので読まなくていい話です 他の記事を読んでください
まず友川にとって綾城は「到底手の届かないところにいる、けれど惹かれる人物」だ
そして貴方にとって綾城は「ギリ手の届く範囲にいてなおかつ尊敬に値する人物」だ
この違いは、読めばわかるとは思うが要するに登場人物か、読み手(神視点)かどうかの違いだ
この物語の終わりに友川は綾城に手が届いた それを知っている貴方にとって綾城は、『とてもすごい人だが何らかの奇跡(この場合友川の努力)によってなら手が届く対象』でしかなくなった
そういう対象が現実世界に存在するならどんな人物か、これは絵描きにのみわかりやすい表現になってしまうが『好きな人で片思いフォローをしていて、フォロバは帰ってこないがたまにRTやいいねが飛んでくる絵ウマ人』、または『好きな人で相互だが明らかに実力に差があり、なぜフォローをしてくれているのかわからない けれどたまにいいねはくれるしTwitter外での交流(乱入OKの絵チャとか通話)はおそるおそる行ってみることができる絵ウマ人』といった人物だ
相互である時点で後者の方が当てはまりやすいかもしれない、だが長期的に見れば前者も充分に可能性はある ジャンルが変わった頃にしれっと別垢で繋がれる事もあるのだから
貴方はそういう対象にある日突然スイッチが入って『好き!』になる事があるのだ
勿論貴方の観察眼が鋭いのであれば、ある日と言わずインターネットの海で出会った瞬間に『好き!』となるだろう これが友川に起こった現象に似ている上に混ざることもあるので実にややこしいが 勿論本件の貴方のものと友川のものは全く違う
貴方の『好き!』の瞬間には短時間で実に巧妙で打算的な判断がある それは
「到底手の届かないところにいる」か、
「ギリ手の届く範囲にいる」かどうかだ
もし貴方が前者であると思ったなら、それは相手を「コンテンツ」として見る事が決定した瞬間だ、貴方は昨今創作者に忌み嫌われる「創作者を、創作物を生み出す機械として扱う人でなし」になる ただ人によっては「コンテンツ」に感情移入し優しい言葉をかける奇特な方も居るが、そんな人も大抵暫くしたら飽きてポイしてしまう
それは貴方が『友川オルタ』として、魑魅魍魎の名に恥じない大惨劇を見せてくれることが決定した瞬間だ
好きな人が手の届くところに居る、話しかけたら親切に返事をしてくれる程度に程よい距離に居る、そして心も 手の届くところにあるという 確固たる自信があなたにはあった
その人が好きだ、どうしようもないほど好きになった、何故好きになったのかなんて些事にすぎない、きっかけはその人の作品なのだから その人の作品が何より好きなのだ
頭の中があの人でいっぱいになる なんでも許せる気がする 偶の陰鬱な愚痴も、優しい言葉で包んであげたくなる 不安げに投票機能で皆の反応を伺っていたら 空中リプライで貴方の選択が何より正しいと示してあげたくなる 収入があればある程度であれば貢ぐのもやぶさかではない、勿論感謝なんて必要ない 何かを捧げるだけで嬉しい気持ちでいっぱいになる それだけで十分元は取れているのだから……
さて、ここで相手がどう出るかによっては あなたの目論見は上手くゆかれないことになる その鍵となるのはその相手が「過去貴方のような人間に人生か心をぶち壊された、または危ないところまで行ったか 否か」だ
もし相手の人生が豊富なら 相手は貴方を拒絶するだろう もちろん貴方がそんな相手も騙し通せるほど人心掌握に長けているのなら 落としきることも不可能ではないだろうが
そしてこの相手の判断がその人にとって最後の砦になる 何から守る砦なのかというと、勿論貴方だ その人を頭から食らって骨までしゃぶる準備万端の 化け物から守る砦だ
そしてその砦が破れ、相手が貴方に心を開いた瞬間 それが終わりの始まりになる
何が起こるのか、ここまで読んだ方なら オチも何となく察しがつくだろうと思うが、ヒントは貴方の「到底手の届かないところにいる」相手への反応だ
そう、いずれ飽きるのだ
そこまでして傾倒した相手に飽きる、場合によっては嫌うこともある そうなれば地獄度は増すがちょっとズレるのでそれは置いておいて
なぜ飽きるのか?という話だ そんなに好きだったのに貴方は何故 一瞬にして尊敬すべき相手への興味をなくしてしまったのか 無視、ブロック、垢消しなどで相手を大なり小なり傷つけてでも逃げようとするのか
別の人が好きになったということもあるし、単純にジャンルが変わることもある、時にはSNSすら触らなくなることだってある
だってしょうがないじゃないか、あの人は「貴方に好かれているという立場にあぐらをかいて 特段貴方を繋ぎ止めようとはしていなかった」のだから、引き続き好いていようと、離れようと個人の自由だ
「私がなにかしたの?」と言うその言葉すら鼻で笑えてしまうほどにほとほと興味も尽きてしまった、ただそれだけの話
そうして貴方は、本当に手が届いてしまった「好き」の回数だけ相手に飽きてちいさな地獄を作ってその屍を背に生きていく まるで化け物だ この話のはじめに出した「友川」なんてかわいらしい年端も行かない聖処女のようだ
そんな貴方が「この話に感情移入するなら友川かな……あ!勿論こんなに頑張れるようなすごい人じゃないけどね……」と言っている
もう一度言うが ちゃんちゃらおかしい、自意識過剰も甚だしい、幻覚を見るのならもう少し現実を混ぜた方が幸せになれるというものだ
……ただそれでも貴方が「友川」であると言うのなら まさしく『友川オルタ』の名前が相応しいだろう
横から勝手に補足すると、ここで言う「治療」というのは、「二次元やドールを対象とする自慰で満足できるようにする」ことを含む(というか、「含むべき」というか、「原則的な対応とすべき」というか)わけよね。
ところで「合意があればいいじゃん」って人、アナーキストでないなら、民法5条についてどう思うんだろ。アナーキストならアナーキストですと名乗って欲しい。
未成年淫行が本気で無垢無謬だと考えているなら、まあ認知療法から始める本気の「治療」が必要だろうね。
(それはそれとして、個人的には、「未成年じゃなきゃいいの?未成年以外は守られなくていいの?」と、やたらと「ロリコン」を敵視する人々には言いたいけどね。「全てのセックスはレイプ」だと、全ての対人性愛者が自覚すべきじゃないかな。成人性愛者がその特権を後生大事に守ろうとするから、一部の小児性愛者が不公平感を募らせるって側面もあるでしょ。)