はてなキーワード: えことは
子供が通う幼稚園の生活発表会に行ってきた。園児がこの日のために一生懸命練習した歌や踊りを保護者に披露するのだ。ここの幼稚園は園児数が多く、市で一番大きなホールを借り切って行う。
自分の子供の出番はそれはそれは楽しいもので、涙さえこぼれそうになるほど感動的なのだが、他人の子の舞台は正直苦痛でしかない。
合計3時間の会で自分子供が出るのが姉妹合わせて30分ぐらい。残りの2時間半は、他人の子。ホント辛い。どうも感情的にフラットではなく、マイナス側に振れるようだ。去年もそうだった。
終わった後、知り合いのお母さんに、「○○ちゃん(うちの子)上手やったねー!」といわれても、こっちは相手の子がいつ出てたのかさえ知らないもんだから、あははは。と言うしかなくて、ちょっと気まずい思いをした。
人の親としてどうなのよ。と自分でも思うが、実際そうだから仕方がない。
いったいなぜなのか?ちょっと考えてみた。
まず、全く興味のないものを強制的に観せられるのは苦痛。というのは誰もが思う事だろう。
では、なぜ全く興味が無いのか。
切り分けたいのが、これが例えば大物演出家が園側にいて、エンターテイメントとして完成されたものであれば、それは誰が出ていても楽しいだろう。当然だ。
でも実際は知らない子供が歌ってるだけだ。お父さんお母さんに見せるため一生懸命練習したんだろう。でも他人の子というだけで全く響いてこない。自分はこんなに冷酷な人間だったのか?
そして、長い。ひとつの演目で長いものだと30分とかだ。こういう事はこの会の趣旨として違うとは思うし、求めてもいけないとも思うのだが、もう少しテンポよくやって欲しい。
ひとつ、ホールでやっているのも原因なのかもしれない。舞台と客席。上で書いたように観る側はつい自然と興味や楽しさを求めてしまうのではないか。
いったい誰の子なら楽しいと思えるのか。友人、兄弟、会社の人の子ならどうか。
わからない。
他の方はどうなんだろう。特に父親の方に聞いてみたい。
★★★☆☆
1巻8話。
彼の夢は自分の手で握った日本一の寿司を母親に食べさせることだったが、
諦めきれない寿司職人は、トラックの運転手に自分の寿司の握り方を教えこむ。
最終的に母親に食べさせることができ、今後も二人で寿司屋をやっていこうとなった矢先、今度はトラック運転手が交通事故で即死。
しかしトラック運転手の妻がBJに、トラック運転手の腕を寿司職人に移植してくれないかと依頼し、手術は成功。
後日、寿司屋のカウンター席にはBJとトラック運転手の妻の姿があった。
二人で一人の鮨職人になるところで終わりだと思ってたけど、まさかトラック運転手まで事故って最終的に移植するところまでいくのは記憶になかった。
二本の腕も意味かかってるのかな。
でもBJである必然性があまりなかったから・・・ってのは昨日も書いたけど、BJがメインじゃないほうがひとつの読み切りとしては完成度高くなってる気がするな・・・
妻が腕移植手術依頼したとき、金がかかりますよ→どのくらい?→フフ…心配しなさんな。うまくつながればその手でうまいスシをたべさせてもらう。それで帳消しにしましょう。
2.二つの愛
3.幸運な男
4.白いライオン
5.シャチの詩
6.えらばれたマスク
7.閉ざされた三人
8.報復
手順は全て書き出してから作業にあたっているというのに、予期していなかった事態やミスが無くならない。
ミスの生じるところは「ここまでだったら大丈夫」というような境界が明確でなく、作業者の勘に依存するするところが大きい箇所であることが多い。そして自分にはその勘が備わっていないことはこれまで何度も思い知らされてきた。本当にただ「気をつける」くらいしか解決策が無いのが辛い。気をつける対象は明確に決まっているわけではない。そして失敗による工程の遅れを取り戻すために更に急いだ結果、これまでだったら問題なく進めていたところまで失敗するようになってしまった。
また、意図的かどうかに関わらず横槍が入ることもいつもの事のようになってしまっている。
昔からそういう体質なのか、所属する組織における面倒事の解決に当たらざるを得なくなることが多かった。その度に問題に対して真っ向から勝負を挑み、精神をすり減らしてきた。
それらを解決したからといって特別なスキルが身についたわけではない。日々の生活や立場を維持するために、多大な労力を支払ってきただけだ。他のことでもそうだが、そうすることでしか道は拓けないという脅迫観念が染み付いてしまっているのだ。やれるかやれないかではなく、やれたかやれなかったか。やれなかったらそこでおしまいという焦燥感が頭から離れない。それでもここまで何とかしてきた自分に自信を持つべきなのだろうが、次も何とかできるとは限らないという思いが心を支配している。
失敗や面倒事に巻き込まれる度に襲ってくる焦り、悲しみ、絶望感といった余計な感情を自己暗示と薬で何とか抑えこみ、心を鎮めて目の前の仕事に集中する。そんな毎日を繰り返している。いつも期限に追われており、仕事を追うということが出来ていない。
気がつけば日付が変わってから帰宅するのが当たり前になってしまった。
それでも、諦めたくない。諦められない。諦めたら今よりも更に辛く、苦しく、惨めな生活が待っているから。
諦めたくない。諦められない。
早く楽になりたい。
この憂鬱な気分を少しでも吐き出したいと考えてここに書き込んだ。
後になってからこれを見て「そういやこんな時期もあったなぁ」と思える日が来ることを祈る。
正しい。
なぜなら不可能故に諦めることも選択の1つと成り得るからである。
例えば俺が君に対して、蕎麦とうどんのどちらかを御馳走してやろうと持ちかけたとする。
例えこのような選択であっても君は自由意志による選択を行っている。
しかし食べた直後にアレルギー反応によって苦しみ最悪死ぬ場合があると分かっている。
だからこそ理由があるために「選択をしない」という選択を「した」のである。
「林檎を食べろ」とそそのかす。
それに従い林檎を食べたら、君は選択していなかったことになるのか?
では俺のことに反発して、反対にオレンジを食べたらどうだろう?
それは俺のことに反発させられた末の決定であって、選択したと言えるのだろうか?
(それなら林檎を食べさせたい場合、オレンジを食べろというだけで俺に操られていると言えるのか?)
そして、食べない。
これも、林檎もオレンジも選びたくない末の選択だと言えるのだろうか?
全て選択したと言える。
ここでの違いがあるとすればそれぞれの選択肢を選んでいたにも関わらず、
自分で選択をしたということにして認知するかどうかの違いである。
全て他人である俺の思惑通りとしてしまった場合、君に一生選択権はない。
俺が食べさせたり食べなかったのを見届けてから、俺の思惑通りになったな、と勝利宣言すれば君に一生選択したという事実は無くなる。
できないことも選択であると認めることで可能性は広がる。
中学時代はかなりの進学塾に入って全国模試でもかなりいいところまで行き、高校も進学校に入学して、リベラルな校風で部活なんかも楽しそうだったんですけれど、なんかそこでどうでもよくなってしまい、いろんなことを積極的にやらなくなってしまいました。登校も休みがちになり、家を出ても河川敷でずっと川を眺めていたり、学校に行っても人気のない藤棚で一日中本を読んでいて授業に出なかったりとしていました。当然出席もたりずこのままでは留年になるのも理解していましたが、かといってそれでやる気が出るわけもなく、そのまま一年ほど過ごして中退しました。高校中退学歴ですね。
そのあともだらけた生活を一年ほど送っていたのですが、別にどうというきっかけもなく「意に染まないことは一切しない人間になろう」と決心しました。
何かやろうと決心したことのための苦労ならまだしも、周囲に言われたり、同調圧力でいやなことは一切しない、それをするくらいなら自殺する、と決心をしたら、なんだかスーッと肩の力が抜けました。今だから思うのですが、学校の授業に出なかったのも、別に勉強が嫌いなわけではなく(実際座学は嫌いではなく好きな方です)、周囲の圧力やベルトコンベア的に押し付けられるのが嫌だっただけのような気がします。
まあとにかくそう決心したら急に楽になって、好き勝手なことを(趣味や仕事っていう意味です)沢山しました。色んな業界で勉強したし、面白い経験もびっくりするくらいできました。意に染まない業務命令をされたら辞めるつもりでいると、仕事は何でも楽しいですね。謝罪したり同僚に気を使うことさえ、自発的にやる方が百倍楽です。自分の人生の主導権が他人にあるのは、本当に疲れます。
両親は自分が二十五になるときには死んでしまっていたので(介護で長期間拘束とかはなくて、そこは感謝しないといけません。遺産とかはありませんでした)身軽になってからは、海外勤務も経験しました。意に染まない事態になったら辞めるつもりでいると、仕事で怖いことがあまりなくなります。それは海外で働くにはかなり重要な要素だと思います。日本人がふらふら中国だのモンゴルだのに行って、製品の売り込みをやったり、メンテしたりするのは、物おじしてたり嫌々だったりしたらとても難しいです。うるせえお前らが何を要求してきてもこっちに出来ねえことは出来ねえよ、客だからって何でも通ると思うなよ、くらいに思っていた方がうまくゆきます。
今現在四十歳を少し超えましたが、何とかまだ生きています。意に染まないことはしたくないので、若い時に比べて仕事の量も減らしました。一応会社を設立してそこで仕事をしてますが、年のうち半分くらいは、高校時代と同じくぼーっと海を眺めたり、パンをかって遠くまで散歩に出かけたりしています。怠惰でやる気はありません。今は運よくそこそこ良い暮らしですが、本当に何かあって意に染まないことをしなければならなくなったら、さくっと自殺しようと思ってます。四十年生きれば元とれてると思います。
鬱になったら治そう、治さなきゃいけないというのは、わからないではありません。だって本人が苦しいから(そういう時期もありました)。
でも、その動機が「周囲に合わせた社会生活を送らなければならないから」治さなければならない、というのであれば、疑問です。正直そんな人生に価値があるとは思えません。
自分は怠惰のまま、自分の好きなことをやって、それで死にます。言ってみれば、鬱のままのうのうと生きてゆきたいですし、そのつもりです。ノートパソコンと海外経験と契約実務の経験とあとはサボるための努力で人間は十分生きていけます。
日本の学生は、周囲に合わせることに努力リソースの大部分を消費しすぎだと思います。個人的な感想ですが、そんなことしても、(卒業後の)社会は助けてくれないし、人生も職も世話してくれないです。
http://wofwof.blog60.fc2.com/?no=665
確かに悪影響の無かったという実証研究もあるものの、明らかでないとするほどマチマチなわけでもない。大多数の実証研究ではやはり雇用には負の影響があった。
http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/tsuru/20.html
生活水準の改善には給付金その他の政策がある一方で、買い手独占による雇用量の減少に対応する価格規制という機能は最低賃金にしかないため、これを生活改善のために雇用を減らしてでも導入するというのは望ましいことではない。
雇用が減少すれば雇用者の平均所得は上がっても国民全体の総所得は下がることになり、これは雇用者の平均消費を増やすことはあっても国民全体の消費は減らすことになり景気には悪影響となる。景気循環を超えた長期的に見ても、雇用が少なければそれだけ生産も所得も減る。
日本の最低賃金は、所得中央値(100人中50〜51番目の人の所得)の39%(2014年、OECD調べ)でOECD加盟国28カ国中25位である。
これは所得の分布に歪みが小さく所得中央値が平均的な所得よりも高く出がちな面もある。そしてチェコの事例のように最低賃金以外に社会格差を無くす方法はあり、価格規制による雇用量最大化という最低賃金にしかない機能を犠牲にして最低賃金にそれを期待することは望ましくない。
民主党は、7.25ドルの最低賃金を2020年までに12ドルに上げる法案を提出した。これは民主党の提案は選挙対策としての一面があるにしても、各州や各市でも生活費の高い都市部をかかえる州を中心に大幅引き上げが相次いでいる。
マサチューセッツ州では、2017年1月までに現在の9ドルを11ドルに、ハワイ州では現在の7.75ドルを2018年1月までに10.1ドルに段階的に引き上げられる
海外と比較する場合は、(貿易財での均衡をはかる)通常の為替レートではなく、PPPなどを用いる必要がある。現在の東京の最低賃金は900円を越えており3%ずつ上がれば程なく1000円を越えこれはPPPで換算すると10ドルである。
それより大切なことは、海外の事例は今後やってみました失敗でしたとなる可能性があるのだから、外濠を埋められたからやらなければというのは短絡に過ぎる。思いもよらぬ大成功に終わるのを確認できれば数年後に追いかければ良い。
現在がそうであっても最低賃金が実際引き上がる頃には次の景気循環に入っているだろう。最低賃金のようなものを短期的に上げ下げ不安定化することは望ましいとは言えず、短期的な景気動向を理由とするのは適切とは言えない。
ここは繰り返しになるがその生活補助という面において、最低賃金にそれを改善する機能があるとしてもそれが最低賃金の他の役割を犠牲にしてでもやるべきかを考える必要がある。軽減税率が逆進性を改善するにしても逆進性対策として軽減税率をするべきとはならないのと同様である。
日本の輸出依存度は15%(2014年)に過ぎず、最低賃金引き上げが経済にプラスとなったと言われるドイツ(同39%)の4割程度に過ぎない。
輸出依存度は輸出が経済に与える影響の大きさをさほど適切に示すものではない。さすがにドイツほどとはならないにしてもサプライチェーンの長い輸出産業を多く抱える日本は、輸出の変化がGDPに与える影響は大きい。
日本の競争力が低いのは専門性が低く年齢ばかり重ねた正社員の賃金が年功序列によって高過ぎることであるが、最低賃金の引き上げはこうした歪みを是正する効果がある。
確かに最低賃金がインフレを呼びそれが「専門性が低く年齢ばかり重ねた正社員」の実質賃金を下げて彼らの生産性との差が縮まれば歪みは是正される。ただそれは結局のところインフレによるものである。インフレの引き上げ方として最低賃金を上げる方法が望ましいかということになるがそれはコンセンサスある見方とも思えない。
加えて本来なら「専門性が低く年齢ばかり重ねた正社員」により適正のある場所に移るか人的資本を積みまして専門性を高めてもらうかの方が社会的に望ましいが、彼らの賃金を相対的に安上がりにすることはそういう必要性を彼らや企業から取り除くことになる。
働かない人というのが怠け者というわけでも無い以上、これはまったく自明ではない。いや、仮に怠け者だったとしてさえ自明とは言い難い。
最低賃金を引上げると、ファストフード店など低賃金労働者を多く使う業態では値上げや利益圧迫が問題となるように思えるが、実際には逆だ。業態によって異なるが、低価格飲食店の人件費比率は25%程度である。仮に全ての人件費が最低賃金だったとしても、25%の賃上げによってコストは6%程度上昇するに過ぎない。同じ利益率を確保するための値上げ幅は8%弱に留まる。
3%の消費税引き上げの影響を鑑みれば8%がとても留まると言えるレベルではないだろう。また最低賃金労働者の収入は25%増加しても雇用を喪失して所得の減る者も出てくる。
いま使うか将来使うかは別として結局は生産しただけのも消費するのであるから、雇用が減るような最低賃金の引き上げは生産を減らし消費も減らす。しかもその中で、従来「低価格産業」の主要なターゲットとしていた低所得層を、高くなった最低賃金を貰う層と失職層に二分するわけである。「低価格産業」の舵取りは困難化するだろう。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakamegumi/20150729-00047964/
この速度で最低賃金を引き上げれば社会の混乱は必至であろう。それはせっかくここまで上向いてきた景気を悪化させ、プラスになった実質賃金を再びマイナスに戻し、さらには最低賃金引き上げの失敗例として今後長期に渡って最低賃金政策を適正に行い難くしてしまうものである。
これまでもデフレの中でさえ最低賃金は上がってきた。そして安倍首相の出した目標も十分チャレンジングなものである。まずはこの達成を目指しながら海外の引き上げ例を検証できるのを待つのが賢明と思われる。
自殺した若者達のルポ読んでるけど、全員に共通してるのが普通の家庭よりも親の愛が大きいんだけど、子供の汚い部分や本音に向き合おうとしない一方的な愛の押し付けになってて、今の社会と似てるなーって思った。愛情とか正義とか都合のいいもので、不都合なものにフタをしようとしてるとこ。
結局のところ、問題の大半は立場が上の人が「無謬性(自分が正しいと信じて疑わない状態)」のまま発言や命令を押し付けること。結果や立場がついてきたら人にああいう態度が取れるけど、偉くないと無謬性を聞き入れないといけないと錯覚する環境。無謬性を貫こうとしてる人間ほど排除できる方法ができた途端に日本は驚くほど良くなると思うけど、排除するという行為自体がまた無謬なんだよなぁ…。(他人に批判されないという意味で)神様になりたい人と、その神を排除できる強権的な神様を求める心は紙一重なんだよなぁ…。じゃあ、無謬性がどこから来てるかというと、宗教的なところでは目上の人が絶対だと言い張る「儒教」で、教育的なところで行くと「子宮から生まれたのがいつかだけで偉いかどうかが決まってしまう」という体育会系の「部活思想」なんだよなぁ…。日本の前時代的なところを中世揶揄する人もいるけど…。いや、「儒教」と言うのは多分言い過ぎで、厳密には「バカな年配者がが都合よく解釈して教えこんだのが根源であろう、本来の意味がかなり削ぎ落とされたエセ儒教」なんだよなぁ…。うん
ゴメン読む気しない
私が見たぶんの、二次創作物としての夢小説、狭い範囲の夢小説について話したいと思う。
とはいえ、そんな狭い範囲においても、夢小説というものの幅は広い。名前変換小説、という別名をとるだけあって、「名前変換機能」がついている二次創作小説は、すべて「夢小説」と呼ばれる。JavaScriptのダイアログでも、Cookieのフォームでも、投稿SNSサイト・ホームページ作成サービス付属の機能でもいい。
その形式。愛おしいあのダイアログは、そっけなく「苗字」「名前」、とだけ書かれたものもあれば、「御名前をドウゾ」「Please enter your name.」なんていう、意味はよく分からなくともすてきな言葉遣い。
なぜならば――それはインターネット上で行われている。
すてきなものは同人誌即売会にある。オフラインにある。二次創作というものを知って以降、私はそう覚えこまされた。「オフ本を作りたい」と作家さんは言い、「やっぱり本になるといい」「ちゃんとしてるように見える」と言う、「差し入れありがとうございました」「こんどのイベントは限定ペーパー作ります」「コピ本作ります」。
指を咥えながら見ていた。
愛が足りない、と言われればそうだったろう。小学生だって即売会に行くことはできる。通販を申し込むことだって不可能じゃない。けれど私にはそうするだけの愛が足りなかった。住所を入力する勇気もなかったし、新幹線に乗って大都市に行くお金を貯めることもできなかった。
夢小説は私の味方だった。
クリックひとつで手が届く、インターネット上で完結した世界だった。本になって、「ちゃんとしてるように見える」ことはなかった。同人誌はインターネットがはじまる前からあったらしい。夢小説は、常にインターネットとともにあった。メアリー・スーの存在は知っている。けれど「名前変換」。名前変換が出来なければ夢小説ではない。
振られるもの。振るもの。いじめられるもの。いじめるもの。嫌われるもの。嫌うもの。
ただ一瞬だけ人生が交わるもの。交わることすらなく通り過ぎていくもの。
主人公の性別に制限はなく、男の子になってキャラクタと交わる夢小説は女の子になる夢小説と同じくらいたくさん書かれているように見えた。百合夢小説だってある。少なくとも私は書いたことがあるし、『テニスの王子様』のヒロインたち、竜崎桜乃と小坂田朋香や、『ハリー・ポッター』シリーズのハーマイオニー・グレンジャーの夢小説はかなり読んだ。夢中で読んだ。
ハーレム夢小説が好きだった。登場人物が多いぶん、たいていは長編のラブコメだった。ジェットコースターみたいな展開に夢中になり、連載が更新される日はいつも待ちきれなかった。男の子たちと丁々発止とわたりあう聡い女の子たちに憧れた。女の子を大切に大切に扱う男の子たちは原作とはまたちがう輝きを放っていた。「キャラの立った」女の子たちは、ときに作品の垣根を越えた作品を生み出すことがあった。それもまた好きだった。
傍観者になる夢小説が好きだった。「無糖」という言葉はよく覚えている。夢小説の脇には、しばし「狂愛」「死ネタ」「悲恋」などと属性が書かれていたけれど、そのなかの「無糖」は、キャラクタのそばを、傍観者として通り過ぎていくことを意味していた。見つめるだけでなにも起こらないことが約束されていた。書き手の視点から切々と綴られた誰かの横顔は、どこまでもいとおしかった。
これらの、相反すると思えることが同時に起こり得たのは、すべて、「名前変換」というものがあったから。
夢を見なければ、夢小説は書けない。
夢中にならなければ、作品のなかに入り込むことがどうしてできようか?
夢小説を読むとき、書くとき、私はずっとずっと夢中だった、冷静な判断なんてなにひとつしなかった。ただ、情熱の赴くままに行動した。
文字通り夢を見ていた。
橋・松「はいどーも〜」
橋「いやー今日もたくさんのお客さんに来ていただいて」
松「はい」
橋「最前列のお客さんなんかもう端から口パク口パク一人飛ばして口パクと」
松「いやいや」
松「よしなさい」
橋「まあ僕らこうして漫才してるわけですが」
松「ええ」
橋「まだまだ支持率が低いんでね」
松「そらまあしゃあないがな」
松「ええですな」
橋「まずはこの僕の隣に立ってる人、最高の相方ですわ」
松「いやいや照れるがな」
松「松?」
松「松?」
橋「ほんで僕の名前は橋に下と書いて」
橋「誰がやねんまだ誰も殺してへんわ」
橋「そのうちね。言うてる場合か。まあホンマ頑張っていかなあかんなー言うてるんですけど」
松「ええ」
橋「まだまだこの国は変えなあかんことが多い」
松「そうですなあ」
橋「たとえば少子化ね」
松「あーこれ深刻やがな」
松「愛人囲ったりね」
橋「多少疲れててもあの手この手で興奮して頑張るべきなんです」
橋「ってワシやないかい! でもまあ子供が増えるだけでもあかんのですわ」
松「教育をせんとね」
橋「これからは知識よりも日本の伝統と文化、まずこれを教えるべきやと」
松「そらええことですわ」
橋「それワシやないかい! まあそんなこんなで大阪も荒みまくって犯罪が多い」
松「これホンマ大変ですわ」
橋「なかでも多いのが詐欺ね」
松「ああ〜けしからん!」
橋「って全部ワシやないかい! きみホンマに僕のこと尊敬してる?」
松「当たり前やがな。一生ついて行きますがな」
橋「ほならええけどやな」
松「その代わり出世の方、頼むで」
橋「まかしとき。まあそのうち国政を牛耳ってやな」
松「うんうん」
橋「僕がキングメーカーになるわけや」
松「そしたら僕を総理大臣にしてや」
橋「お安い御用やがな。ほなちょっと指名の練習でもしよか」
松「ええなええな」
橋「内閣総理大臣」
松「はい!」
橋「松あきら君!」
橋・松「どうも、ありがとうございました〜」
無断引用(合法)ごときでギャーギャー言うなよ!!俺なんかツイートをもろに無断転載されて増田に投稿するヤツが何人かいるんだぞ。
最近の、ガキ(ブロガー)はちょっと叩かれたり、転載されただけでギャーギャーピーピー喚く。明らかに黒だった時に声を上げるのは必要なことだが、簡単にグレーゾーンで声を上げるなよ…。黒だった時にキッチリと取り締まらない時だけ「はてな運営ははてな女子をえこひいきしてる」とか書けばいいわけ
「これは抗議すれば判定が覆る」という絶対の自信がない限りはアンパイアに抗議したらイカンのです。アンパイアがかたくなになって、最悪こちらが退場ということもあるから、「退場させたら世紀の誤審だぞ」というぐらい観客に理解の得られる抗議をしなきゃ
僕だけの話じゃなくなったならそれはもう抗議すべきでしょう。僕への誹謗中傷であれば無視しますが、社会論としてデマに近い暴論が流れれば、それは抗議すべきです
ただ、1つだけ。そんな記事を本当に書く人がいたら僕がワーワー言う前に誰かが抗議するし、その誰かは少なくないと思います。「だれか」が多い場合は僕は敢えて乗っからない方向で行くようにします。
私怨や自記事への引用を抗議するものではなく、主張としてズレた(または悪意がある)動画に流用されたことに対する抗議…なるほど、それなら僕も似たような行動を取るでしょうなぁ…やり方は好きじゃないけれど、方向性は同じかもしれない
何をしでかしたか大体想像できる。山本夜羽音は誰もいなくなる前に引き返せ。— 高橋秀介 (@richoutan) 2015, 11月 18
@johanne_DOXA それ以上下らねえこと言ったら全部アウティングするからな。被害者がいることだから黙ってるが、一までも黙ってると思うなよ。— dog_dog! (@dog_dog) 2015, 11月 16
因みにあんた御執心の眼鏡ちゃんには早い段階で過不足なく真実を伝えてあるから。これ以上性犯罪の被害者増やしたくないんだよ。マアせいぜい気の効いた言い訳考えな。— dog_dog! (@dog_dog) 2015, 11月 16
山本夜羽音はまともになりたければ酒とTwitterを断て。働け。で稼いだ金でツケじゃなく五反田と吉祥寺に行け。— 高橋秀介 (@richoutan) 2015, 11月 18
どうやら案の定“ただ抱き付いてキスを強要した”だけじゃないようだな。特に反省の様子もなくいつも通りにTwitterでヘラヘラしてたら「全部ばらすぞ」とか「潰す」とかっておキツいお叱りwww是非バラしてぇwwwwwwwww >山本夜羽音— MATSU (@matsu_14D) 2015, 11月 16
日曜日、多摩まで遠征して「赦しの秘跡」を受けてきた。涙が止まらなかった。そして、確かに何か「憑き物」が落ちたような、気がした。... https://t.co/MeSnGY73cF— 山本夜羽音@「メガ秘書」9.28新作発売 (@johanne_DOXA) 2015, 11月 16
ろくに仕事もせぬ亭主のために、どうかよろしくと短期のバイトを頼んだだけの私に今風のどら焼きの詰め合わせを持たせてよこした当時の奥様の気持ちを思うと、その後のこのバカたれの徹底した裏切り方に血の遡る思いである。赦しの秘跡なんか有るかクソ間抜け!— 高橋秀介 (@richoutan) 2015, 11月 18
譲れないんだよ。エロマンガが「人を救う可能性」だけは。「人を貶め侮辱し犯罪を誘発するリスク」と天秤にかけても、そこを信じるから描き続けてんだ。— 山本夜羽音@「メガ秘書」9.28新作発売 (@johanne_DOXA) 2015, 11月 16
ドジで明るくて、優しくて
そんな山本夜羽音が皆大好きだったから、これでレイシズムとの闘いはおしまい
BYE BYE HATESA WORLD
テロってさ、昔のベトナム戦争で、アメリカ軍が苦戦して、結局撤退した「ゲリラ戦法」を、世界規模で、しかも街中でやってるようなもんなんじゃないかなぁって、思った。
一般市民の中に紛れ込んだテロリストを、特定して、探し出すのは至難の業だし、どこに潜んでいるかも解らなければ、根本的な対策はほとんどできない。
これと戦うって、本当に可能なんだろうか?
たとえば今、ISILが首都を作れないようにしているわけだけれど、実はそんな戦術が、彼らにとって、「本拠地を持たない」=「殲滅されない」という恩恵を与えてはいないだろうか?
でも、だからと言って、首都を持たせて、一つの国として認めるのも、きっと何か違うんだろう。。
報復は報復の連鎖を呼ぶからやめとけみたいな話をしたいわけではなくて、「テロとの戦い」って、どんな戦術が正しいのかが、今の時点ではまったく見えて来ないと思うんだ。
結論は出せないんだけど、テロを行うことによって、テロリスト達には、どんな恩恵があるのか?あるいは、テロの標的にされた側に、何をさせようと求めているのか?といった、テロリストの側に立った視点で考えるところから対策をしていかないと、何の解決にもならないんじゃないだろうか?
だって、彼ら自身も、いくら西洋諸国を憎んでいるとしても、テロでその国を崩壊させることが不可能だということは、重々理解しているはずなんだ。
そしてISILは「国」を名乗っているけれど、やっぱり「国」ではないから、たとえこういった方法で少々の勝利を味わい、一時の自己満足に浸ることはできたとしても、金も土地も資源も、新たに得られる望みはほとんどなく、自分たちが繁栄していく手段やきっかけになる訳ではないのだから。
テロリストが何のためにテロをするのか解らない→だから怖い→だからテロを起こさせないようにその周辺の一般市民も巻き込んで空爆を行う
というような論式ではなくて、テロリストが何のためにテロをするのか知ろう、考えよう、ってところから、対策を積み重ねていかなくちゃならないと思う。
孫子の兵法に、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」っていう言葉があるけれど、テロと戦おうとする今、そのどちらも抜け落ちてしまってはいないだろうか?
企業内保育園は本社勤務の一部の人だけだろ。各百貨店に派遣される美容部員たちには何の恩恵もない。
資生堂のような大企業が今まで「時短社員は戦力外」と考えていたことが明るみに出たことや、資生堂のほかの施策を知らない中小企業の経営者が、今後、「資生堂ほどの企業でさえこう言ってる!うちみたいな弱小では云々」言い出して、ただでさえ冷遇されがちな中小の育児中の社員をさらに締め上げていく構図しか見えないから反発してんだよ。
一営利企業に少子化対策をしてもらう必要はないかもしれんが、たくさんの中小企業は大企業に追従するので、彼らへの影響力が大きいことをよくよく自覚してほしいとは思うよ、資生堂さん。
なんか既にさんざん色々言われているが、渋谷と六本木のハロウィン行ってきたし、コミケにおいてはスタッフ参加・コスプレ参加・サークル参加もしたし、所属企業が企業参加もしてたんでこの件については意見をいう資格があると思って、言う。
とにかく、コミケと比較してハロウィンコスプレ連中を叩いている奴はアホだ。私は断言する。
「コスプレは自分たちが主流」という考え方もあるだろうけど、確実にあちらのほうが主流になっている。「人数が多ければメインストリームなのか!?」という意見もあるけど、人が多けりゃまぁメインストリームでしょう。さて参加者の数を正確に測定するのは日本野鳥の会を雇っても難しいんだけど、まぁコミケととなコスを合わせた数よりは多いだろうな、と言うのはチラ見でも分かると思う。
「多数がやってるからと言ってマナー違反はマナー違反だ!」という人は、自分を振り返れば分かるだろうけど、コミケ参加者だってマナー守るひともいれば守らないひとも居る。人数が多くなれば守らない人が多いような気になるものだ。
これは最大の問題なのだけれど、渋谷六本木のハロウィンは本質的には主催者がいないイベントなのだ。川崎ハロウィンはほぼ実行委員会の下にあるが、渋谷六本木については、個々のクラブイベント等の集合体に過ぎず、全体を統括する責任者だとか、共同代表だとかはいないのだ。ゆえに警察の対応も場当たり的な交通整理になるし、人の流れの動線についても責任を持つものがいない。交差点の真ん中で写メろうが、ニコ生しようがUstreamしようが、だれも止めない。警察も止める権限がない。
一応シブハロ実行委員会というのもあるが、あれもパルコとか幾つかの店舗のイベントの統括に過ぎず、渋谷のハロウィンについてなんら責任を負うものではない。
この点、コミケについてはコミケット準備会の私的なイベントであり、主催者の決めたルール(コスプレ来場・徹夜組・過剰な露出・消防動線の確保など)に従わないものはもちろん、「単に気に入らない人間だから」というだけで参加を拒否する権限すらある。一方で、その範囲内で法令違反(わいせつ物・火災・動線の失敗による転倒事故)などがあれば管理責任として、最悪は代表者や担当者が刑務所に入るリスクすらある。
また一般的な神社などのお祭りと比較する意見も見られるが、あれも神社の氏子組織とかが実行委的なものを作ってたりしますね。
ゴミ箱については、コミケのひとたちもあの巨大なコンテナゴミ箱がない状況で、ゴミをキレイに捨てられるなら言ってくださいね〜と思う。
公共担当した人ならわかるけど列移動後のゴミはどうしたって残ってるし、館内担当の人もサークル撤収後にゴミが残ってるのは何度か見てると思う。
東京都が早く、ハチ公のとことセンター街の角海老のとこあたりとかにコンテナゴミ箱設置してくれれば改善されると思う。逆にコミケだってコンテナゴミ箱を無くして「ゴミは絶対に絶対に持ち帰ってください。コンビニで買ったとかしるか!」ってやったらゴミだらけになるのではないかな。上野公園の花見だって、コンテナゴミ箱を設置するまでは恐ろしい量のゴミだらけだったし(平成元年はまだそんなだったぞ)、まぁ今も酒入って朝までやってるから多少はゴミだらけだけど、昨今はちゃんと片付ける度も高いと思うよ。
あ、あと意識高い参加者はどちらにもいて、コミケだって16時過ぎに隣サークルのゴミを拾って捨ててる人とかもいるし、渋谷も朝の…6時だっけな?ゴミ袋とトングを配ってて、路上のゴミを拾うボランティアコスプレイヤーたくさん居ましたね。素晴らしいです。
まぁ酒飲みながらコミケやるやつもあったんだけど(コミケットスペシャル)、あんまりガッツリ飲む感じじゃなかったんですよね。その点、シブハロは終電過ぎてからがメインで、クラブやバーなんかの酒を呑む店がメインだったりするのもあって、ちょっとテンションがおかしい人が増えるってのはあると思う。
「酒飲んでるからって許されるなと思うなよ」ってのはあるが、正直コミケでマナーが良いのは酒が飲めないからであって、アニソン系のダンパとか行くとわかるけどぶっ壊れっぷりはヲタ層でも昔から酷かったような・・・。
理由5:着替え場所(更衣室)の問題。または「コスプレ来場(家からコスプレ)はノーマナーなんですけど!?」問題。
更衣室が無い、そしてハロウィンメイクは化粧室を汚しやすい(血糊とかが飛んで洗面台がひどいことに)というのはある。
例えば六本木ヒルズのお手洗いについては、「ハロウィンメイク禁止」の札が貼ってあった。そうでなくとも、トイレで着替えたり仮装のためのメイクをするのは他の利用者の邪魔になる行為だ。
一般のコスプレイベントでは、これは禁止事項にあたる。コートを羽織って参加すらダメという扱いがほとんどだ(一方でメイク・つけまつげ・カラーコンタクトは許容される傾向がある)。だが、コレは必須事項だろうか?
これらは実際には、運営者側の問題であり、さらに言えば徹夜組等で苦情が来たため・・・とかじゃないだろうか。コミケは運営方針として、基本的には『禁止事項は少なく』の方向で動いている。だから禁止事項になるのは「明白な危険(あからさまな武器と判別つかないもの)」「他人の迷惑(コス着替えでの化粧室専有とか)」に限っている。
そんななかで、長年ずっと疑問だったのが「コスプレ来場禁止」のルールだ。これ禁止するくらいなら、もっと前から「エロ紙袋禁止」をするべきだった。
ただし、正直なトコロで言えばコスプレエリアトップは館内や公共・外救とかとは違うルールっぽくてよく知らない。
とにかく別に、コスプレ来場したってそれが本人に恥ずかしく無いのであればいいんじゃないか?と思う。過激な露出がある場合ならコートとか羽織ってね。
むしろコミケの更衣室はゴミゴミした大部屋に押し込められて、キャリーバッグの上に鏡置いてメイクして…ってやってらんねーんですよ。メイク終わったあとにカラコン入れ忘れたことに気がついて手を洗いたくても洗面台は無いので外に行くかそのままの手でカラコン入れるか(目が荒れるのでやってはいけない)。。。あそこで血糊コスやったら、ジュータンの上に血糊ぶっこぼすやつが毎日10組は出るね。
血糊の話は次節に、露出については次次節に譲る。
今年も去年も、電車の中で血まみれナース服の連中をダース単位で見てたし、血まみれリーマン風ゾンビさんが酒飲んでぶったおれて寝てるのはどう見てもガチでオヤジ狩り後なんじゃないかと心配になる。血まみれでもシュッと立ってスマホ見てつり革掴んでりゃ多少はマシなんだけど。
いずれにせよ、これは
扇情的な格好、という意味ではコミケやとなコスのほうがひどいのは多いと思う。なお一部クラブとかでは過激な格好をしてるところもあると聞くが、そういうのは会員制で入れなかったりするしさておく。
一般の路上で扇情的な(谷間やヘソ・下乳が出る程度の)格好をすることの是非はあるが、コミケやワンフェスでシェリル・ノームやキルラキルコスプレがたくさんいた事を考えると、路上における露出の程度は問題ではない気がする。
「公共の道路でやることが問題なんだ!」というのも、最近のコミケでは庭園エリアとかの公共エリアとほぼおなじところでやってるのはある。
はいはい盗撮で毎年逮捕者出てるコミケはおうちに帰ろうね。。。
なお警察が100人以上出動しているのは、主に交通整理の問題であって、コミケだって公共の人たち(駅の案内・信号周辺などなど)に数百人を配置してるうえに、そもそも信号がほぼ無い湾岸エリアだもん…。
「そもそも渋谷とか狭いとこでやんなよ!」と言うのは納得ではあるが、ガイジンは渋谷と六本木がやたら好きなんだよ!理由は知らん!
「コミケは外国人がたくさん参加してる!」って言うけど、少なくとも所属企業の外国人従業員30人前後のTwitterやFacebookを見る限り、コミケに行ったのは2,3人くらいだけど、ハロウィンは20人以上いってたからな。
もちろん外国人にも趣味はあるけど、初音ミクが好きすぎて日本に就職したガイジンですら、ハロウィン参加していたからな(コミケももちろん行ってたけど)。
あと、やっぱりパット見でガイジンと分かる人たち(非アジア系の外国人たち)の存在率考えても、渋谷六本木のハロウィンはコミケの10倍はガイジン密度高いと思います。
実際に歩くとガイジンばっかだなーって思いますよ。コミケじゃごくたまに見るくらいですね。
まぁコミケは既に文化となってて、日本に留学してコミケ含むオタク文化について論文書いて博士号取った人とかもいるのにくらべると、ハロウィンは文化的にまだまだーというのはありますが。
巨大レンズぶら下げて取る専なカメコは多分ハロウィンには居ない・・・か居てもかなり少ない。コミケだとカメコ率以上に高いのに比べると、みんなスマホかせいぜいコンデジ。
何十人も取り囲んでローアングラーが張り付いてスタッフがカウントするまで囲みが動かない・・・ということはない。
コレについてはよくわからない。結局のところ外部経済であるのは飲食ぐらいで、コミケだってなんだかんだでオタク同士の輪のなかでの内部経済みたいなもんじゃないのだろうか。ハロウィンの警備で警察が出て税金使ってるけど、コミケも救急車も警察も消防もキテルんだヨー。だから熱中症対策はちゃんとしようねー。
ROを経験した人間にはなかば常識ではあるが、ノーマナーという言葉は
> 「自分にとって不愉快な行為をした人間」に対して「ルール違反」的な意味合いとして、レッテルの貼り付け
として使われている。
総論:
そんなわけで、渋谷と六本木のハロウィンを綜覧して語ってみた。とは言え六本木も渋谷も、ストリートではなくてクラブの中で様々なことが行われていて、その中では新堂エルのマンガに出てくるような黒人が、新堂エルのマンガに出てくるようなことをしているのかもしれない。新堂エルのマンガに出てくるようなことをしたい。
とにかくコミケ参加者たちが自分たちが特権階級のように言っているのがムカつく。既にメインストリームはあちらに移っていて、完全に時代から取り残されつつあるのに「マスコミはダブルスタンダードだ」としか言ってないのがムカつく。時代は現在、新たなる局面へ向かいつつある!我々も表に出ていくべきときなのだ!時代は新たなオタクたちのものだ!立てよ国民!
ふりーむではともかく、ニコ動ではそこまで知名度が高くないと思ってたゲーム製作者が、3ヶ月前に新作のゲームでニコニコで賞を取り、ゲームマガジンであるラノベとタッグを組んでゲームを出してた。そのラノベが角川のレーベルだったのを見て「あーニコ動がフリゲに力入れた理由はこれか」と思った
フリーゲームの金銭回収モデルは、主に書籍化・有料版の配信・スマホで続編を出して広告収入で稼ぐの3つなんやけど、その3つの中でも特に重要な書籍化。ニコニコゲームマガジンとはニコニコの実況者を使って書籍化予定のゲームを売り出してドワよりも角川に還元するシステムだったんやなぁ…と
フリーゲームの製作者がお金持つことに対して僕は本当なら大喜びすべきところなはずなんだけど、なんでモヤモヤしたかというと、僕が好きなゲーム製作者が「角川から出てるラノベという原作ありきのフリーゲーム化」という「いや、それフリゲーなのか?」というモノをやってること。謎い
いや〜複雑だ。「短いゲームをリーズナブルに作ってくれる職人」としてフリーゲーム制作者に賞を与え、すでに出てるラノベをフリーゲーム化してもらうというのが果たしてフリゲなのかと言われるとすげー疑問。また、マガジン版した限り難度が下がって演出が凝るという商業ゲー側の発展してるのも危うい
なんでこんなことを書いているかというと、フリーゲームってマリオメーカーやブログ、あるいはYouTubeやニコ動よろしく「成熟してたユーザーが成熟したユーザーに向けて送る面白さ」があったから面白かったわけですよ…。単に無料で短くできるゲームの事をフリゲと言うわけじゃないっすよ
あーそういう風になっていくのね。ニコ動にクリエイター(かつてのボカロPぐらいに革新的な人達)がいなくて、拡散力だけはある実況者がいる。クリエイターはフリーゲームの界隈から持ってきて、ニコ動で実況者とゲームフェスで宣伝。その後、角川がノベル化コミカライズ化逆にフリゲ化か…辛いな
いや〜フリーゲームはフリーゲームでもやりこみ系RPGを中心に紹介しててよかった。ホラゲー中心のほうがアクセスは取れたかもしれないけど、あっちの方はニコニコと角川に蹂躙されてあと2年ぐらいでおもいっきり空気が変わると思う。合作のゲームとかすごく増えそう
食べていけるクリエイターは出てくると思う。マネタイズできる人も増えると思う。ただ、一方で角川原作のフリーゲーム化という展開を見て「フリゲ界隈に書籍化狙いのフリゲのバッタモンが出る」と少し感じてる
ボカロもそうなんだけど、動画やイラストの完成度が上がったり、作家性が強くなりすぎたりしてコンテクストを無視した暴走を始めた時期から面白くなくなり始めたんよなぁ…。お金回収する、仕事くれるのはええことやと思う反面、それだけの人以外を汲み取るシステムがないと画一化してゆるやかに死ぬ
はてなダイアリー・はてなブログがそこそこのライターや作家を10年以上にわたって出し続けてる理由は、はてながドワンゴや角川みたいにスカウトすることがほとんどなかったことだよなぁ…。あるいは商業化に向かない人もはてなの中ではスターだったりするから良かったのよね…。今は崩壊しつつあるが
よくわからんがマイナージャンルが好きであることをアイデンティティにしているひとにありがちな反応のようだ。しかしtm2501他の件については信用出来ない語りしかしないイメージだがさすがにフリーゲームについてはいい加減なこと言わないだろうと思ってるんで、参考にしたい。
一方本田未央ファンはただでさえ不人気な本田未央がアニメの結果ますます不人気になるのをみて本田未央への愛情を強くするのであった。
小学生の頃、3駅ほど離れた所にある大きな塾に通っていた。
「アーさん」は俺が勝手に付けた名前だ。大きな声でアーアー喋るからアーさん。
…つまりそういう人だった訳だが、当時の俺はそんなこと知る由もなかった。
ある日、俺はアーさんがどういう人なのか知りたくなった。
アーさんはいつも花柄のシャツを来ていた。水色の柄が多かったように思う。
肌は少し黒くて、背の高さは担任の先生と同じくらいで、ちょっと太ってる。それくらいしか知らなかった。
帰りの電車の中、アーさんはいつものようにアーアー言いながら、俺が降りる駅の一つ手前で降りた。
俺はその後を追った。隣の駅では一度も降りたことがなく、全てが新鮮だった。
塾は土曜の昼から夜にかけてまとめて受講するコースだったので、その時点で夜8時半くらいだったか。
駅を出たアーさんは、あまりアーアー言わなかった。片足を引きずるように、結構な速さで歩いていく。
俺はドキドキしながら、アーさんを見失わないように小走りでついていった。アーさんしか見えていなかった。
はっと気付いた時には、周囲に人のいない、静かな住宅街にいた。振り向いた先に駅の明かりはなかった。
目に入った電灯に、大きな蛾がバチバチと体当たりしていたことを覚えている。
急にドキドキが大きくなってきた。これはまずい、迷子になった?このトシで?今すぐ戻った方がいい?
アーさんの方に視線を戻す。するとアーさんは、ちょうどどこかの家に入るところだった。
何となくホッとした。これ以上知らない道を進まなくて済む。
全然事態は解決していないが、とにかく心に余裕が生まれて、へえこれがアーさん家か~とじろじろ見回した。
アーさんが入ってから2,3分が過ぎただろうか。突然アーさんの叫び声が響き渡った。
俺は漫画みたいに跳び上がった。本当に驚くと「ビクッ」という動きで体が宙に浮くことを知った。
電車の中でのアーさんを「アァ―――、アァ――――」だとするなら
この時のアーさんは「ア゙ァァアア゙アアァァ―――――――!!!!!!!!」だった。
ドタンバタンと、何か重い物が引っくり返るような音も聞こえた。
その後、今度はアーさんではない誰かの怒鳴り声が聞こえた。心臓がまた跳ねた。
何を怒鳴っているのかはアーさんにかき消されてよく聞き取れなかった。
とにかく俺がぶつけられたことのないような、強烈な怒りだということは分かった。
こんなに怖いのに、その場から動くことができなかった。視界の端が歪んで、全部真っ暗になる気がした。
ドタンバタンの音はだんだん激しさを増して、こちらに近付いてきた。それでも動けない。
ドアノブが勝手に上下する。誰かが出て来る。俺、逃げなきゃ。逃げないと殺される。
ようやくズリズリと足を下げたところで、聞いたことのない音を立ててドアが飛んだ。
大きくなった視界の中心に、見慣れたシャツが転がり込んでくる。アーさんだ。
今考えてもバカだと思うが、俺はその時「アーさん大丈夫?」と声をかけようとした。
が、それは喉に詰まった。代わりに、自分でもどこから出したかよく分からない女子みたいな悲鳴が飛び出した。
アーさんは俺の知ってるアーさんじゃなかった。いつもより妙に白い肌で、バラバラに動き回る両目。
体育のストレッチにある「くびまわし」のように、首だけがぐるんぐるんとゆっくり回転している。
すべてがチグハグだった。
俺はキャアアアア!!と叫びながら、変な体勢で走り出した。腕がクロールのようだった。
そこからはもう、よく覚えていない。とにかく来た道を引き返すように、無我夢中で走った。
すぐ後ろをアーさんが目と首をぐるぐるさせながら追いかけて来ている気がして、
たぶん後ろには誰もいないのに、嫌だ!嫌だ!と叫びまくったことだけ覚えている。
次の記憶は、自宅の玄関前。電車で一駅移動したのだろうが、全く覚えていない。
今からアーさんのようにひどく親に怒鳴られたらどうしようという恐怖が混じって、
俺は素直にドアを開けられずにぶわああああああと泣き出した。
ぐわっと腕が伸びてきて、肩をつかまれた。ものすごい力だった。
殴られる!と思ったら違った。怪獣のように泣く俺の声がくぐもるくらい、強く抱きしめられた。
母親は怒ったように泣いていた。でもアーさんの家から聞こえてきた怒りとは全然違った。
嗚咽で吐きそうになりながら、ごべんな゙ざい、ごべんな゙ざい、としか言えなかった。
さらに記憶が飛んで、俺は家の中で震えながら親にウソをついていた。
なぜかこの記憶だけ、まるで幽体離脱をしたかのように空中から見下ろした視点になっている。
塾から帰る途中、ボーッとして隣の駅で降りて、改札まで出てしまった。
あわてて戻ろうとしたときに男の人から声をかけられ、道案内をしてほしいと言われた。
断ろうとしたけどとても困っているみたいだったから、一緒に地図を見て歩くことにした。
でも駅からだんだん離れるにつれて、何だかおかしい、よく分からないけどおかしいと感じた。
急に地図を振り回して怒鳴りはじめた。目と首がぐるぐるしててすごく怖かった。
なんとか駅まで逃げてきて、やっと家に帰り着いた。
知らない人についていってごめんなさい。もう絶対に寄り道はしません。
当時道を訊ねるフリをして子どもを誘拐する事件が流行っていたので、何とかその話と結びつけた。
父も母も俺がウソをついていることに気付いていたと思う。ただ、特にお仕置きされることはなかった。
その後、塾は母が車で送り迎えをしてくれることになった。
電車に乗ることがなくなった俺は、二度とアーさんに会うことはなかった。
いや。正確に言うとつい先日、アーさんによく似た老人を見かけた。この文章を書いたのもそれがきっかけだ。
花柄のシャツに、ぐねぐねに曲がった杖。ショッピングモールの真ん中をアーアー言いながら彷徨っていた。
違いないと頭では分かっていても、十数年間忘れていた記憶が堰を切ったように溢れ出てきた。止まらなかった。
思わずあの時のように、アーさん、と声をかけそうになった。もちろん思い留まったが。
アーさんは人波を割りながらフラフラと足を引きずっていき、やがてエスカレーターの奥に消えた。
昔の俺がやったことは、バカな真似だ。この時代にやったら炎上必至、例え殺されても俺の方が叩かれるだろう。
タイムスリップできるなら、あの時隣の駅で降りようとした俺を力尽くでも阻止したい。
この話は、これで終わり。アーさんとの思い出話というのもおこがましい、アーさんの話。