はてなキーワード: 責任者とは
青年向け漫画の編集者をしていた。といっても若い頃の話だ。都内にある編集プロダクションを辞めて田舎に帰ったのが36の時だから、おじさんの入り口に立った頃か。今では完全なるおじさんである。
働いていた会社というのは、講談社とか小学館とか秋田書店とか、そういう大手出版社ではない。あくまで編集プロダクションである。出版社と編プロがどう違うのかって……ざっくり言うと元請けと下請けだ。出版社が出版事業(今回だと青少年向けの漫画作りや商業展開)の企画をして、漫画家が作品そのものを作って、編プロは雑誌本体を作って、その制作過程で印刷所やデザイン事務所といった専門集団と関係することになる。
イマイチな説明になってしまった。一般社会の例で説明する。民法でいうところの委託(準委任契約)に当たる。公共建築の分野でいうと、公共機関の建築技師が新しい建築物のマンガ絵を作り、建築事務所が基本設計~詳細(実施)設計をして、出てきた成果物を元に大手建設会社が施工監理し、地元にある中小事業者が実際の土木建築作業をする。
自分が勤めていたのは、この例でいうところの建築事務所だ。受益者(国民=漫画読者)の希望に応えたい組織があって、そこから依頼を受けて動いている関係会社のひとつ。そういうアナロジーだ。
出版社との役割分担は、そこまで分離しているわけでもない。漫画編集者といえば、昔の手塚治虫ほかの自伝みたいに、漫画家とアツいやり取りをしているイメージがある。ああいう、企画経営と制作現場の間にあるような仕事は、出版社の社員が直接することもあれば、編プロが出版社(編集部)のオフィスを間借りして行うこともある。
前者の例だと、マガジン、サンデー、チャンピオンなどだ。コンビニや書店にほぼ必ず置いてあるレベルの漫画誌。大手出版社に総合職コースで入社した人が、(編集、取材、制作、資材、宣伝、マーケティング、総務経理人事その他事務)といった多くの部門のひとつである漫画編集部に割り振られて其処に居る。
後者の例だと、大手出版社が出している漫画誌でも、あなたが聞いたことのないやつもけっこうあると思う。そういうのは、編プロが出版社(編集部)の仕事を丸ごと請けて実施していることが多い。自分は、そういう会社で働いていた。職場自体は大手出版社の中にあるが、いわゆる委託先の社員だった。別の言い方をすると、親雑誌に対する子雑誌の関係。
ほかの長文増田の記事を見るに、あまりたくさん書けない仕様のようである。何文字までかは知らないが、文字数制限があると思う。本当は何万字でも書きたいのだが、あくまで自分が書きたいだけであって、あなたが読みたいとは限らない。一万字以内になるよう心掛ける。以下に、自分が関わった漫画家を2人だけ紹介しよう。最後に所感を述べて終わりにする。
その2人(A先生とB先生。どちらも若手)と私は、分水嶺のような関係(追記;わかりにくい表現ですいません。ブクマカのBuchicatさんのコメントのとおりです)だった。ある日、私が担当していた漫画家のA先生が新作の企画提案に来ていて、同じタイミングで別の編集者のところに持ち込みをしたのがB先生だった。その別の編集者が不得手なジャンルだったこともあり、A先生との話が終わった後で、私も一緒にB先生の作品を読んだ。
その後、編集部の責任者を交えた会議で、私が引き続きA先生の新作の担当者に決まった。新人であるB先生の担当になる可能性もあったが、そうならなかったのは、今の漫画界の一界隈にとって幸運なことだった。
A先生は、雰囲気が暗めだった。人間性まで暗いというわけではなく、心を開くと明け透けになるタイプだった。モードに入ると饒舌になる。
弊誌では、読み切りを何度か掲載したことがあった。アシスタント経験あり。小さい賞を取ったことがある。ヒット作はないが、若き漫画家としてはキャリアがあった。
画力が抜群だった。小学校や中学校で、学習ノートにフシギダネの絵とかをソラでゲームパッケージそのまんまに描く子がいただろう。とにかく天賦の才を持っていた。最小限の画量で、それでいて迫力と感情に溢れた1枚1枚を描く。そういう人だった。
難点は、マジメすぎるところか。少し前にやっていたアニメだと、チェンソーマンに登場するアキくんか(少し前……?)。とにかくマジメだった。いや、やはり『直向き』に訂正する。
A先生は、少年誌に見合わない重たいテーマに挑むことがあった。今でもそうだ。彼のマンガには『緩さ』がない。それもいいところなのだが。私は好きだった。はっきりいって。が、読者の傾向に合っているかは微妙だった。
子どもの頃から漫画が好きだったらしい。中学生の頃のイラストを見せてもらうと、俄然キャラクターへの愛に溢れる作画を見ることができた。中学生らしい、プロには程遠いクオリティなのだが、しかし見ていて違和感がないというか、自然にくっきり入ってくる。
私という人間は、具体例で物事を説明する癖がある。上の「中学生らしいイラスト」を別の事例で表現すると……「うるせ~!!知らね~!!FINALFANT ASY」(短縮URL:https://x.gd/L5cc4)だろうか。以前、いつぞやかのid=pptppc2さんのブックマークコメントがきっかけで元ネタを知ることになった。
あの時のA先生のイラストは、ベルセルクのセルピコだったと思うが、力強い表現だったのを覚えている。セルピコがファルネーゼを抱きかかえて、
「申し訳ありません 道案内を頼まれまして 少し席を外していましたもので」
と言うシーンの模写だった。
さて、そんなA先生だったが、ある時これまた重量級のテーマで描きたいものがあるという。先ほどの、編集部での新企画提案の話だ。
その際、A先生からプロットをもらい、私のデスクで拝見させてもらったところ……うちの雑誌では持て余しそうだった。作品の質が低ければ普通に打ち切りになりそうで、作品の質が高くても――弊誌の売上規模だと会社グループ全体の機会損失になりそうだった。私の前でパイプ椅子にかけているA先生は、不安げな面持ちだった。
内部の話で悪いが、例えば「甲」という雑誌の亜流の「乙」という雑誌があるとする。ビッグコミック(オリジナル、スピリッツ、スペリオール)みたいな感じだ。この時、甲と乙に明確な上下関係があった場合、乙誌に掲載された漫画が甲誌に引き抜かれることがある。その際、甲誌の編集部から言われるのが、
「なぜうちの編集部に見せなかった?」
という意見だ。これは、ストレートに言われる場合もあれば、暗に言われる場合もある。だが、事前に上流の雑誌に見せていたとして、多くの場合は玉虫色の返事があるだけだったりする。
話を戻そう。この時の自分は、編集部の自分のデスクのあたりでA先生の次回作を見せてもらっている。確か缶コーヒーを飲んでいた。
自分としては、A先生のマンガを弊誌に載せたいと思っていたが、先ほど述べたとおり、後ろ髪を引かれる思いもあった。社会派の少年漫画というのは扱いが難しい。その作品が「あしたのジョー」の影響を受けているのは明白だった。「A先生であれば、きっと面白い作品にしてくれるのだろうな」という期待はあった。
うーん、大いに悩むところだ。どうしよう。思いあぐねていたところで、別の編集者から声がかかった。要約するとこんなところか。
「持ち込みに来た人がいる。私の専門じゃないので判断が難しい。門前払いにするレベルではないので、あなたの判断を仰ぎたい。上の人間は今出かけている」
要するに、自分の専門外なので判断できないよ、と言っている。ここも会社なので、編集者の上には当然上司がいる。その人達がいなければ同輩に相談するのが基本だ(余談だが私は後輩だった)。こういう原則は一般の会社と変わらない。
その『別の編集者』というのは、儚い感じの純文系が得意なタイプだった。一番わかりやすい喩えは……『はちみつとクローバー』みたいなやつだ。ああいうのが得意な人だった。
その時は、A先生との話が終わったら行くと告げた。それで、しばらくそのまま話を続けた。
「この作品はいい意味で重たいね。ちょっと考える時間がほしい」
と言って、その日は解散した。A先生は、「お願いします!」と言ってパイプ椅子を立ち、そのまま帰っていった。いつもだったら喫茶店でご飯をおごっている。
A先生は、『いい子』だった。あまり感情は出さないけれど、人間に対する愛を持っている。そういう子だった。私が当時、A先生にご飯を奢って、彼がおいしそうな表情で食べている時、私は幸せだった。A先生が幸福だと、自分も幸福だと思えた。A先生が漫画という手段で自らを表現している時、まるで自分もそれに劣らぬような喜びを得ていた。
ヘンな表現かもしれないが、例えば読者がA先生を褒めている時、自分とA先生との区別がなくなっているというか。彼のことが、自分のことみたいに嬉しかった。これは愛なのだろうか。
持ち込み部屋に行くと、別の編集者と、持ち込みに来た子が対面で座っていた(ちょこんと挨拶をしてくれた)。自分が座る席には作品が置いてあった。綴じられていない原稿用紙がある。ページ数にして30枚ほどだった。もっと多かったかもしれない。記憶があやしい。
実際、B先生の作品は面白かった。コテコテの学園ものかと思いきや、登場人物それぞれに適度な制約があって、キャラクターも立っていた。これまでのキャリアを聞き取ったところ、作品が雑誌に掲載されたことがあるようだ。アシスタント経験もある。
絵の方は、自分がこういうのも大変失礼だが、上手な方ではなかった。どちらかというと、脚本や設定、キャラ作りが得手のように映った。当人が情熱を注いでいる箇所はすぐにわかる。キャラ絵が有名漫画家の影響を受けているとか、キャラクターの台詞回しがハリウッド映画風とか、背景や小物を手を抜くことなく全部描いているとか、そんな具合に。
光るものがある作家だった。これを見抜けないようなのはモグリ――そんなレベルで輝いていた。
私は作品を読み終えた後で、「ちょっと待ってね」と自席に戻り、少し残っていた缶コーヒーを飲み干して、思案を重ねつつ持ち込み部屋に戻った(どうするのが最良かわからないケースだった……)。
それで、テーブルではこういうやりとりをした。
私「イイ作品だと思います。特に、セリフ回しにセンスを感じます。掲載ができるとかここでは言えないけど、話は通してみますね」
B「ありがとうございます」
私「それで、担当はね……縁なので。あなたがするのがいいのでは?」
編「私よりもほかの人がいいと思います。もっと才能を引き出せる人が……」※小さい声で
私「いや、でも恋愛描いてるよ。エンタメだけどいいんじゃない」(こいつ、作家の前でアホなこと抜かしよって)
編「難しいです」
私「でもこれ、縁だよ」(意識が低すぎる……)
編「ほかの作家さんも抱えてるので。いっぱいいっぱいです」
私「わかりました」(トラブル回避のため後で編集長に説明しとこう)
B「すいません。僕の作品はどうなるんですか?」
私「後日連絡しますね。必ずしますから、それまでは他誌への持ち込みは待っていただけますか」
B「あの、はい。できればですが、早めでお願いします。一週間くらいでなんとかなりますか」
私「なんとかしてみます」
作品そのものと、作家プロフィールと、付属資料のコピーを取らせてもらって、彼には外で缶コーヒーを奢った。ビルの入り口まで送ったところまではいい気分だったが、正直、身に余る事態だった。
持ち込み作家の才能がありすぎるのも考えものだ。嬉しい悲鳴というやつ。誰が担当に付くかで今後の雑誌の売り上げに影響がある。重大な意思決定ということになる。
最悪、『進撃の巨人』の時みたいに優れた作家を逃してしまう可能性がある。あれも、実際は諌山先生は門前払いではなく、週刊少年ジャンプの担当が付くか付かないかの微妙なラインだったらしい。それで、誰が担当になるかを押し付けあっている間に諌山先生が他雑誌に持ち込んでしまった、という話が業界団体の公的な飲み会で囁かれていた。
B先生についてだが、一週間後に担当編集が決まった。「別の編集者」でもなく私でもない。当時、若手のひとりだった20代の子が任されることになった。編集部のトップを交えてB先生の原稿のコピーを読んだのだが、「若い感性が光る。年齢が同じくらいの人と組ませる方がいいのでは?」という結論になった。
その20代の子は、上の組織からこっちに出向してきている子で、いわば武者修行の身だった。一流大学出で、本社のプロパー社員。いわゆる総合職である。
最初は、私に選択権があった。B先生の担当になる道もあった。だが当時の私は多忙であり、月に何度も会社に寝泊まりするレベルだった。新人は抱えるべきではない。しかし、才能のある子だから迷いがある。
A先生のこともあった。彼のあの作品を世に出してやりたい。もっと有名にしてあげたい。そんな想いがあった。
私が悩んでいるうちに、例の20代の子が手を挙げたのだ。私としても、彼のやる気と知性と直向きさは買っている。諸手を上げて賛成した。
今思えば、正しい選択だった。もし私がB先生の担当になっていたら、面白い恋愛エンタメを楽しめる読者の数は減っていただろう。これでよかったのだ。
以後のB先生は、例の持込漫画のブラッシュアップを続けた。翌年には、晴れて弊誌に第一話が掲載されることになった。さらに以後は、担当編集とともに二人三脚で躍進を続け、イケイケドンドンの勢いを保ったまま、一度も息切れすることなくスターダムに上り詰めた。今では漫画家として世に知られている。
上で挙げたA先生の意欲作は、読者層に合っていなかった。それでも、高い画力とシナリオ構成の上手さがあったのだろう。その意欲作は、連載期間を積み重ねる度にファンの数が増えていった(業界的には、Amazonの第一巻のレビュー数が人気の代替変数になることが知られている)。
今では、A先生は親雑誌で連載を勝ち取るまでになった。去年だったか。彼の作品をコンビニで立ち読みする機会があったのだが、やはり突き抜けた画力だった。週刊連載であそこまでの画力というのはまずない。
2024年現在、私は東京を離れて田舎で暮らしている。地元の町役場にUターン就職して、実家の農業を手伝いながらスローライフに近い生活を送っている。
実は、編集者だった当時、働きすぎて病気になった。ある日、下腹部の辺りに違和感を覚えて、血の塊のようなものが血管を這っている感覚があった。病院に行くと、「遅くても明日中に入院しなさい」という医者からの指導があった。
それなりに重い病気にかかってしまった。一応は死亡リスクもある。数か月ほど入院した後、どうしようかと考えて、考えて、考えて……編集部に復帰後は、労働を最小限にしつつ転職活動をスタートした。
A先生については、幸いだった。彼の意欲作とは最終回まで付き合うことができた。私が退院した後、無事完結を迎えることができた。あしたのジョーに比べればハッピーエンドだった。
入院中に、A先生とB先生がお見舞いに来てくれたのを覚えている。ほかの編集仲間も来てくれた。A先生は、テンションが低めで、何を考えているのかわからないこともあるのだが、人間への基本的な愛というか、思いやりがある人だった。
もう40才を過ぎている。はてなユーザーの中では平均的な年齢か。思えば齢を重ねたものだが、当時の日々は今でも夢の中に出てくる。
若い頃から編集者をやってきた。身体を壊さなければ続けていたのかというと、多分そうだろう。でも、今の生活も悪くないと感じている。自分語りはここまでにして、締めにしよう。
もしあなたが、Webでも紙媒体でもいい。気になる漫画作品を見つけたとする。面白いものを見つけたと感じたら、ひとまず買ってみるのがいい。Webだと1話単位で売っている。
ひとかどの漫画家というのは、自らが産み出すモノを本気で高めにいっている。あなたのフィーリングが合ったのなら、ひとまず1巻だけでも読んでみる方がQOLが高まると思う。ハズレを引くことはあるだろうが、アタリだってちゃんとある。人生は運試しである。
映画には、プロデューサー・監督・演出・脚本というのがいますよね。
監督は演出と脚本に責任を持っていて、プロデューサーは資金調達と興行・監督に対して責任を持っていますよね。
テレビドラマはどうなんですか?
監督のポストがないんですよ。そしてドラマの出来に関しては脚本が顔になっている。
でも脚本はあくまで脚本だけで、ドラマの作品の出来の責任をとれるわけではないですよね。
それとも、伝統的にそのポストがなく、プロデューサーはテレビドラマの納品に関して責任を負っていて、脚本と演出はそれぞれの仕事に責任を負っていて、ドラマ作品の出来に関する責任者は不在なんですか?
つまり、漫画のドラマ化などで脚本や演出が暴走して全体のコントロールが上手くいっていないことがあるけれども、それぞれがスタンドアローンで雰囲気仕事になっているんじゃないか?って疑っています。
詳しい人教えて
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
Takuro Mizobe | Craftopia, Palworld
@urokuta_ja
現在、弊社のアーティストに対して誹謗中傷が届いており、殺害予告に近いようなツイートも散見されます。
パルワールドに関して様々な意見を頂いておりますが、パルワールドに関する制作物の監修は全て私を含めた複数人で行っており、制作物の責任は私にあります。
パルワールドに関わったアーティストを誹謗中傷するのはお辞め頂けると幸いです。
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彼の言い分は一見極めて真っ当に見える
ゲームに対して不満を抱いたからといって、作者たちへの誹謗中傷や殺害予告をするのは恥ずべきことだ
国内外のメディアでこの毅然とした態度と過激な批判者の異常性が報道されている
しかし、肝心の「(2024年1月22日の午後7:27までに書き込まれた)アーティストに対する殺害予告に近いようなツイート」を見たという人が今までに1人も出てきていない
溝辺氏のツイートを受けて多くの人がそれっぽいワードでTwitter(現X)検索を行ったが誰も見つけることができなかったようだ
Twitterで散見されたというのであれば、仮に投稿者が全部ツイ消ししたのだとしてもリツイートや返信などが残っているはず
また、溝部拓郎氏のツイートでは溝辺氏自身に対する誹謗中傷はあまりなかったかのように見えるのだが、SNSで湧きあがった怒りの声はほとんど責任者である溝辺氏や会社などに向いていて、顔も名前も人数もわからないアーティスト氏(そもそもアーティストとは何の役職?)など他の面々をことさら批判している人は見た記憶がない。殺害予告者がもしいるとしたらやはり溝辺氏に矛先を向ける人が多いのではないだろうか?
今日、役所にひどい対応を受けたので告発したい。ただ、役所が悪いわけではなく、上の方針に従っただけとのこと。
今から日記にまとめるが、しかし役場の名前まで書くかを迷っている。
現場の人々を保護するために入念にエクスキューズを入れるつもりだが…
だけど訴訟リスクを恐れていたら女性にAEDだって使えなくなる。ある程度は覚悟を決める必要がある。
…後に撤回ができない以上、そういうのはトラウマになる。日記を書くたびの血の味がするだろう。
増田たちにノーリスクで釣りのためのデマを垂れ流してると思われたら、時間の浪費になってしまう。
役所の事情を全然知らない俺には判断が付かない。現場がウソを付いてるかは、同じ経験を持つ増田やブクマカには判るはずだ。もしウソを付いていたら、所在をボカしたときに役場は逃げおおせることになる。
…しかし、ウソの責任は追求されないかもしれないが、告発が広まれば対応は修正されるだろう。
穴水高校自販機破壊事件で続報がでて破壊者の一人がコカ・コーラに直接謝罪を行ったことが明らかになった。今回の続報でわかったことは以下のとおり。
・「責任者の許可を取った」という北国新聞の記事はまったくの虚報
・自販機の中の金がどこに消えたか(あるいは消えていないのか)については続報なし
・地震のときでも自販機破壊するのは犯罪(弁済は求めないだけ)
で、この記事に対する反応はなぜか読売新聞の報道を批判するコメにスターが集まっている。
なんで?本当にわからん。
全部、読売新聞のいってたとおりだったじゃねえか。
「責任者の許可を取った」ってなんだよ。加害者を擁護したかったのかもしれないが、嘘書いてるじゃん。あるいは北国新聞も騙されたのかもしれないが、いずれにせよ虚報を報じたのは北国新聞のほうだ。謝罪するってのなら北国新聞のほうだろ。
誰の許可も得てないのに勝手に自販機壊したんだよ。それも巨大なチェーンソーでバラバラにしたんだよ。避難住民が不安がったってのもそのとおりだろうが。読売は何も間違ったこと書いてねえじゃん。
でよ、読売と北国新聞の両方に言いたいことなんだけどよ、金はどうなったんだよ。どっちの新聞もなんでそこを追求しねえんだ。読売は最初、「金は消えた」って書いてたよな。これが真実なのかどうか読売ははっきりしろ。
いやいや、他人の意見に対する反応は聞いてからしか出来ないだろ。
党全体で裏金づくりをシステム化しててそれがバレてる時点で明確に自民党がクソでしょ。
ただ、自民党をそんなクソにしたのが一体だれかというと、やっぱり無責任な責任者のせいなんだよな。
不平不満は考えなしに投げつけるが票は出さないからまとまった票田を求めてカルト宗教に手を出さざるを得なくなり
票を出す連中も直接的な見返り求めるクズしか残ってないから大金が必要になって裏金作りに精を出さざるを得ない。
こんなクソな仕事そりゃ誰もやりたくないよな。
国会議員一人当たり税金が6000万円ぐらい支給されてるっつっても、手取りじゃなくて自営業の売り上げみたいなもんだからな。
そこからいろんな経費出してたらそりゃ足らんし、年商6000万円なんて一般企業でいえば中小企業もいいとこだから
苦労して人の支持集めて選抜を潜り抜けて得られる待遇が中小企業の経営者レベルってんじゃ、真っ当な人材が政治家なんか目指すわけない。
結果、一度政治家として名を成してしまうと周りがその家に政治家というドブ掃除を押し付けて甘い汁絞り取る体制が組みあがっちゃう。
政治家の家に生まれてしまえば最後、政治家に向いていようといまいと関係なく回りに甘い汁ばら撒く役割を押し付けられる。
そうやって政治家を担う人材が固定されてずっと社会のドブ掃除続けることで、世の不平不満を浴び続けて性根が腐っていく。
政治家自身のメンタルヘルスのためにも、定期的に入れ替えてドブから出してやらないとダメなんだけど、そうはならないんだよな。
ホントにどこから手を付ければいいのか分からんぐらい腐りきってるから、脳死で自民党に票を投じるようになっちゃうのも仕方ないな。
ある飲食店でモバイルオーダーで注文したら、商品は間違いないけど品質的に標準ではないだろうなあという商品が提供された。
例えるなら「味噌田楽頼んだら味噌汁が出てきた」くらい凄い勢いが来た。
自分は基本的には従業員個人に言いたいことはないんで本部のご意見に送るわけ。
「すごい商品来ました味は美味しかったです。次は普通のが食べたいな。返信不要」(要約)と出した。
そしたら翌々日くらいにメール来てさ。
「当時のオペレーションを確認したところ、明らかに品質基準を逸脱した調理が行われていました。当店舗従業員への指導不足を深く反省し、店舗責任者へ報告の上、該当者への指導徹底、再発防止に努めて参る所存でございます。あと商品券送るよ」(要約しきれてない)
分かるけどちょっと萎縮しちゃったよね。
こうやって書こうか3日迷うくらいには圧があった。まあでも書いちゃった!
男女平等や女性の権利向上のために活動している人達のこと全てをフェミニストと呼ぶけど、今回はXや増田で見かける「男性が優遇されているからその分女性有利にしよう」みたいな女性優遇を主に主張しているフェミニストに物を申したい。アダルトな表現の規制問題だとかは今回は除外ということで。
容姿は擬態のできていない女オタクと聞いて想像される一つ結びで触覚が太くて小太りなブス、あんな感じ。色々自分なりに変わろうとしても清潔感が無い、男で言うところの足掻いている低身長チー牛みたいな残念な存在だ。チー牛の方ごめんなさい。
そしてADHDとASDの障害があってコミュニケーションに難がある。中学から不登校で高卒、バイトは続けられない引きこもりで現在は障害年金と親に養われて暮らしている。
勿論、増田にいる貧困で苦しんでる弱者男性と比べるとすごい恵まれていることは間違いない。どこが弱者だと思われるだろう。ただ売春や結婚といった逃げ道は選びたくとも選べないという点から一般的な社会人と比べると弱者女性と名乗っても許されると思ってる。
本題に入るけど、最近フェミニストやフェミニストアンチが一般にも広がっていると感じる。前までは一部のネットの内輪向けみたいな深い意味のない女叩き・男叩きが多かったのに、今は連日至る場所でフェミニストやアンフェの炎上騒ぎが起きている。それも一部の同じ人間がというより、身近な友達とか声の大きな知らない人とかが平気で女叩き・男叩きにいいねを押したり積極的に主張したりしているのを見て、私は遅くも危機感と恐怖を感じた。
おそらく最初は真面目に男女平等を訴えていただろうフェミニストも、男女平等ならば女性の不遇だけでなく男性の不遇も正さなくてはいけないというアンフェも、双方に紛れ込んだ女叩き・男叩きの連中によって、もはや個人ではどうしようもなく男女対立が治らなくなってしまった。
双方の主張を穏やかに擦り合わせ男女平等を近づけるべきなのに、議論の最中に平気で暴言を吐き、それを軽率に持ち上げる今の風潮は何の未来のためにもならないし余計にストレスが溜まり対立が激化する一方だ。
お互い冷静でないからより過激な権利主張がもてはやされる。男女平等とは何だったのか、一方が得をする分もう片方の性別全体が不遇に沈むのは差別で不当だ。
どっちもどっちだが特に私は女性なのでフェミニストに怒りを覚える。彼女らが過激なことを言えばいうほど、また彼女らの女性優遇案にデメリットを考えず軽くいいねを押す一般女性の姿によってアンフェでない男性さえも女性に対して失望するのだ。勿論性別を入れ替えても同じことが言える。
若者の結婚否定派が増えたのもこの悪目立ちする男女対立が大きな要因になっていると私は思っている。
そして資本主義の日本は階層社会とまではいかなくても学歴とか属している社会とかによって同じような人と関わることが多い。
私の場合、障害や病気のある人、支援する仕事をしている人、引きこもりやニートで人生に強い不満を抱えている人が多い。当然その人たちは余裕が無いし普段ネットを見ている人が多い。
一般の人は多分公の場では大っぴらに性別叩きはしないだろうけど、私が関わる人たちはお構いなしに性別叩きをしだすし、何なら皆コミュニケーション経験が少ないせいかネットが異性の現実だと思っているのかもしれない。男性に仲良くしようと声をかけると、昔より意地悪なことや卑猥なことを言われることが多い気がする。ソースなしの感覚論で申し訳ないけど。
私は経験していないが、あるいは弱者男性も女性に意地悪や不都合を押し付けられたりされているのだと思う。ただでさえ色々足りない私達弱者が、周囲は敵ばかりと思ってしまうと自立の道が遠のき社会のお荷物状態がずっと続いて、普通の人の負担も増えると思う。
それに弱者こそ団結し世の中をサバイブするべきだと私は思う。結婚とか、友達とか。
フェミニストの行いで特に嫌なのは女性管理職を増やすために昇格の際女性に下駄を履かせろ、ただし育児中は周囲に仕事を任せろ、ってやつ。管理職で休んでばかりの上司なんて不公平で問題になるに決まっている。性別でそんなことを決められたら不当だし下駄を履くぐらい実力がない人が責任者になるのって女性にとっても不幸だ。
難しいかもだけど育児をするって決めた人は妊娠後から子供が小学生ぐらいに育つまではサポート体制が整った責任が軽めの仕事でそのあとはまたキャリア積みに戻るようにすれば良いと思う。子供が小学生超えても責任が軽めの仕事が良いって人は非正規に移るとか。
子供か出世か選ぶ女性と比べて男性はどちらも選ぶことがずるいっていう意見もあるだろう。その場合はキャリア積みに戻った際出世しやすくする補正とかをつけるように国が命令すればいいんじゃないのかな。出世したくない男性・女性は出世を断る権利があるかわりに会社は今より意欲のないいらない人材は辞めさせやすいように変えたら平等じゃないの。
子供も仕事も選べて能力や意欲ある女性が管理職になれる道が当然にあるのなら、管理職の人数に性差があっても男女平等であると考える。機会が平等だから。
人によって対応が変わるのは管理する人にとっては大変でも、行きすぎた女性優遇は後世での火種になるから避けたい。