はてなキーワード: ミーハーとは
2006年前後に激化した日本における鉄道好き文化の聖地・JR東日本での鉄道ファン同士の小競り合い。鉄道ファンの若者が集まる駅で、その鉄道ファンの排斥を呼びかけるヘイト集団が駅に押し寄せた。最盛期には100人規模の参加者がいたという。ギャル・不良系サブカルからの流れもあっただろう。
実際には、何十人ものヘイト集団が「お散歩」と称して鉄道オタクと押し問答を起こしたり、オタクとも何も関係なさそうな女子供におらつく動画や画像を見たことがある。
ここで彼らの最大の課題が見える。それは、仕組みを妄信し、仕組みの上に根拠となる反論のできないデータがあると(「データの不在」というデータも含め)、それに「可視化された存在」をすり合わせることで物事を確証するということだ。これは本当に反知性的な発想である。
鉄道ファンヘイトの場合は、まず日本型の保守主義構造という「仕組み」を過信し、その仕組みの上に鉄道ファンの社会性実績の不在というデータなきデータがあって、主張を裏付ける現実実態としてヘイト運動の大規模化を実現させたわけだ。しかし、彼らには最大の欠陥がある。
それは「サイレントマジョリティを知らないこと」である。世の中の多くの人は、鉄道ファンではないし、かといってヤンキーでもない。ましてや「私はミーハーです!」とデモを組んで主張してがなりたてることもありえないのである。
鉄道オタク叩きに躍起になっていたヘイト連中は、自分たちの閉鎖的なネット空間の「一般論」が事実であることの根拠にヘイト行為の動画を拡散した。しかし、駅の利用者などは、ヘイトにはドン引きだったはずだ。
一方で、地上波テレビに一気にサブカルが進出したのもあの時期だった。いわゆるオタク文化の大衆化がここに始まった。マスコミ関係者もまた「可視至上主義」に陥っていたのだろう。
ちなみに鉄道オタクの人口はある証券会社の調べによれば「オタク全体の3.8%(日本のオタク人口が5200万人)」だというようだ。あまりにも少ない。膨大なサイレントマジョリティの日本国民は、鉄道を好きでもないが敬遠もしないし、それよりはヤンキーのほうが敬遠されるもので、レイシストは裏社会と同じくらい危険で嫌いである。
たぶん炎上するとは思わなかったんじゃないか。ネット原住民空間には健気な鉄道ファンの話題は何一つ存在しないから、偏った反応だけが来ると。しかし現実には、普段可視化されることのないサイレントマジョリティが眠りから目を覚ますこととなったのだ。
「可視状態の過信」によるサブカル階層の失敗は今に限ったことではない。たとえばニコニコ動画などのネット原住民の中心空間には歴史カテゴリーにおいてヤンキーを肯定する動画がゴロゴロ転がっている。これらは当初はサブカルたちが礼賛コメントを書きまくっていたが、相模原やまゆり園事件以降は批判一色に染まった。
サブカルはロリコンだけでなく、ヤンキーをも好む傾向があり、とりわけヤンキーについては肯定派どころか推奨派なのである。普通の人間であればSMフェチのMじゃあるまいし好き好んで威圧たりしたくないわけで、一般世論と乖離している。しかしネット原住民空間自体が一般ではないのか黙認されてきた。
ところが、そのネット原住民空間が「ヤンキー排斥」「反ロリコン」を鮮明にしたのが相模原やまゆり園事件と千葉大生による女子中学生誘拐事件である。あの時期の前後に立て続けに相次いだロリコン・ヤンキーがらみの騒動もあって、反ロリコン・ヤンキー排斥世論が高まり、結果的に「礼賛一色」のコメント欄が一気に批判に染まったのだ。サブカルなんてネット原住民空間でも少数派なのだ。
そして反ロリコン・ヤンキー排斥の騒動さえ何ヶ月も前になった今こうした動画にはさらに上からかぶさるようにサブカルの「肯定論」が再び増えつつある。最近のトランプ炎上において支持者が強気の姿勢を変える気配がないのも、ロリコンやヤンキーと同じでほとぼりが冷めれば自分たちの主張を上塗りすることができるからだろう。
日本のあらゆる面が「ミーハー」化しているけど、これって要するにポケモンショックならぬサブカルショックなのではないか。2011年からのつるべ落としの右傾化で、しかしまともだった時代の惰性で文化的だった日本人のうち、マイルドヤンキー未満の弱者を熱狂したのが、ミーハー文化だった。
2000年代当時は低俗さの象徴だったミーハーが、たぶんファミコン世代にとっては、団塊ジュニア世代にとっての「ガラケー」みたいな存在になっていて、要するにそいつらが人口が多く中年化して世の中に影響を大きく及ぼす中で、俺ら第一次サブカル世代すらも巻き込まれている流れが、これなんじゃないかと。
クールジャパンがこうまでおかしくなったのも部活動みたいな年齢主義の産物だったろうし、今のサブカルにふと「ヤンキー用語」が出てくるというのも、その流れを汲んだものだと思う。当然、そういうサブカルを好んでいるのも、オタクではない人たちだよね。ギャル文化や不良文化に青春をささげた。
彼らの「ツケ」を清算すべき時なんじゃないかな。そのミーハー世代、2000年代ってオタクでいえば電車男ブーム以降のサブカルの脱アングラ化と第三次サブカルの時代なんだけど、ミーハーの狭い都市部の小さなせせこましいサービスの中に閉ざした疑似オタク文化とは次元が違うんだよ。
本物のサブカルはパソコン的なグローバルスタンダードの規格に準じたものを用いて国境を取っ払って地球規模の共同体の構築を追求し、クールジャパンになったけど、「サブカルは疎いがミーハーに没頭したチンケな日本人」がいま早期老害化してる姿が、(ポスト)ヤンキーやギャルのうざったさだ。
なので彼らの消費者感と没歴史的感じが、まさに問題になっているゆとり・さとり世代にそっくりなのもしょうがないと思うし、こういうものを黒歴史にさっさと追いやることが、今のオタクやエリートがやるべき作業ではないかなとも思うんだ。
とにかく、本来であれば日本にはそのような文化嗜好そのものがなかった、ポスト消費社会、21世紀の象徴ともいえる「ポスト消費文化」というものが、20世紀の文化や2000年代の方がよほどかっこよく見えるレベルに間抜けさをプンプン醸し出していて、それを助長する側にいるのは、ほんとにどうかと。
ミーハーとは、1927年(昭和2年)に公開された松竹映画『稚児の剣法』でデビューした林長二郎(後の長谷川一夫)のファンのために作られた言葉である。松竹は林のデビューに当たり、当時で二万円という巨費を投入してこの美貌の俳優を売り出した。林はたちまち若い女性の間で大人気となり、彼女らが好きな「みつまめ」と「はやし長二郎大好き人間」を揶揄してできたキャッチフレーズが「ミーハー」だった。
90年前から人間の性質は変わらないし進化しないのだと知って落胆よりも逆に安堵感を覚える。
これだからミーハーはと怒るよりもこの人間の性質を活かして商売した方がストレスで寿命が縮まないのも分かる。
一億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。
70年前の単語のこちらも合わせて。
1.二次創作はファンアートであるという建前が揺らぐ。コロコロと扱う作品を変えて、しかもそれらがその時その時の人気ジャンルだったとしたら、儲けや人気取りのための二次創作であると取られても仕方がない。単なるミーハーということもできるが。(ミーハーも人気を不必要に傾斜させ、過大評価と過小評価を作り出す害悪だと思っているが、これはまた別の話だろう)
2.キャラクターが使い捨てされる恐れ。もとよりそのジャンルに長くとどまる必要が無いのだから、過剰な属性付けやキャラ弄りでキャラクターを消費してしまう傾向があるように思う。イナゴ系の同人作家というのはこれという作品はない一方、これという作風やジャンルを持っている場合が多い。作品やキャラクターはそれをやるための踏み台として消費される。古参がいい気はしないだろうな。
まあでもそう悲観や憤慨することもないんじゃないか。どうせ時期が来れば次の餌場を求めて去っていくのだし、彼らが去ったその後のジャンルはむしろいい安定期のように見える。もっともその作品に地力があったればこそだろうが。
2016年は、邦画の当たり年だったといわれている(多分)。ミーハーな私も、話題になった『シン・ゴジラ』、『君の名は』、『この世界の片隅に』の3作は劇場に足を運び、どれも非常に楽しませて貰った。
この中で、どれがお気に入りかは、その人の年齢や興味、価値観などによって分かれるだろうが、私のお気に入りは、『この世界の片隅に』である。
物語の出来の良さは、どれも素晴らしいと思うが、『この世界の片隅に』のユニークな所は、タイトル通り『この世界の片隅』を描いた事である。従来映画では、世界の中心を描いてきた。
例えば、『君の名は』では、彗星落下という一大イベントに対して、主人公が町とヒロインを守る。主人公は、その世界において中心的な役割を演じ、大イベントに対して、積極的に行動し、大きな成果を生む。
かたや、『この世界の片隅に』では、戦争という一大イベントに対して、主人公は、日常を奪われ、大事な人やものを奪われ、終いには自分のあずかり知らぬ所で勝手に終わる。それに憤りはせよ、結局のところ戦争に対して、ほとんど無力なのである。
私たちは、そういった一大イベントに出くわした時、一体どちらになるだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20141213164229
先月のうちに何か書こうかと思っていたのだが、思っているうちに一月経ってしまった。
毎年、せっかくだから記録ついでに増田に何か書こうかと思ってはいるのだけれど、そんなに毎年なにか書くほど波乱万丈なブックマーカーライフを過ごしているわけでもないし、まあいいかということで沙汰止みになっていた。
おかげさまでお気に入りにいれてくれる人も100人を超えるようになって、もらえるスターの数も着実に増えてきているように感じる。
ありがたいと思う反面、どうでもいいようなコメントを書いた増田のブックマークに2桁のスターがついたりするのを見ると、結局スターの付く付かないも知名度に左右されるのかと若干冷めた気持ちになることもある。
とはいえ、はてなに来る前までは自分にはネットは向いていないのかもしれないと思っていたので、はてなブックマークでそれなりにやれている気がするのは単純に承認欲求が満たされているようで嬉しい。ツイッターとかミクシとかは何をどうしたらいいのかさっぱりわからなかったので、人には向き不向きというものがあるということなのだろう。
そういえば、去年くらいからちょくちょく映画を見に行くようになった。ゴジラとかこの世界の片隅にとか見た。これは間違いなくはてなの影響だ。自分は思っていたよりも流行に流されやすいミーハーな人間だったらしい。
こうやってなんとなくつらつらと書いてみると、はてな依存がひどすぎてわりとヤバイレベルなんじゃないかという気がしてきて実際ヤバイ。これはいわゆるネット依存症ってやつなんじゃないだろうか。ヤバイな。だいたい祝日の真っ昼間に部屋に閉じこもって増田とか書いてるのがそもそもヤバイ。ヤバイけど、まあ楽しいからいいか。
最近の日本のゲームがメチャクチャ品質に優れてると思うのは、表現のリアルさだな。表現の良いものを据置機・携帯機で販売し、その補助としてPCゲームを利用している。1970年代からトンデモ文化だったゲームは今や大衆文化。従来型ゲームを残し、進化させたことが奏功したともいえるよね。リア充の人は、アニメを見て、そこからPCのオンラインゲームなりスマホのゲームをしている人がいると思う。パズドラを深く楽しみたい人は3DSのみならずスマホを買う。ソシャゲとはオンラインゲームに近いスケールのものであって、中毒性質のない古典型とは違う。オタクならよくわかると思う。ゲーオタにとって任天堂やソニーのそれはXBOXとともに本格的にゲームを楽しむための機械。事実上のネトゲであるソシャゲは難易度が低く、リア充の遊びであって敷居が低い。深く味わうにはPCゲーム買うほうがよほど効率的だ。
こうしたゲームを含んだサブカルオタク圏というものがあり乗り物文化・非大衆文化がある。さらにそれと構造を共有する文化があって、それは「サブカル性」の存在が日本文化の繁栄を実現している場所なのだ。問題は、それ以外のもの。そこには深く楽しむのための技術がない。
たとえば中国には据置機ゲーム開発メーカーがないという。PCソフトゲームこそあるが、その品質も据置機にすら負けていることは、マリオを愛する日本の人間にはよくわかっている。ソシャゲ嫌いがほとんどだからね。韓流台流ゲームはアメリカ流のそれと比較するべき水準ではなく、どちらかというと和製オンラインゲームと似ていると思う。サブカルの拡張ために発展した据置機文化と共有できる要素がない。単に特殊アイテムを買うときだけに金を払わせるので収益性がない。ミーハーはともかく硬派からの評価は高いといえない。
アジア諸国の交通が長い間道路に依存していてそれを鉄道が補っているように、韓国や台湾や中国は鉄道オタクに対する理解が遅れている。アジア諸国はマイルドヤンキーが多いから、中韓台より事情は悪いかもしれない。「日本は異常なんだからいいだろ!」とヤンキーに言われそうだけど寛容性は大事よ?大卒の元ギャルにお世話になったことがある。ギャルはいい文化だと言っていた。誇らしげだった。しかし「リア充」という感覚ではなく「元ギャルの人」という意識があるような感じだった。鉄道好きだって「鉄道オタクではなく元変わり者」という感覚が古い世代にはあるはずだ。車・バイク好きのオタクに以前噛みつかれたが、それこそヤンキー文化のソフト版が車・バイクカスタムフェチでしょう。痛車好きは一応オタク文化だが、敷居が低いこと、イメージの悪い時代の存在、極めて似ている。鉄道好きも車・バイク好きもマイルドヤンキー化しているし硬派の存在を無視した大衆化だそう。道での繋がり傾向のサブカルとは違うのだ。
2000年代に不良の衰退でまともになった点や文化的歴史の位置づけにおいて、バイク文化とキモヲタ文化は似ている。どちらもへそがないものだ。しかしこれらはマイルドヤンキーとは違い、縦方向の上下があり、そこでは繋がりが途切れることない。バイクは1970~1990年代世代、キモヲタは1990年代世代が変わり者の集まりになっている。一方、鉄道路線と鉄道趣味の人口密度の関係はどうか。負の相関関係にあることは誰にでもわかる。とにかく地方ほど鉄道好きが多い。おまけに観光地化も進んでいる。足を引っ張る人間もいる。都会にこそアンチがいるどうもバイクよりかは可愛いバッシングに思える。
ソシャゲが生誕10周年を迎えるが普遍的なビデオゲームとの性質の違いがはっきりしているように、将来この溝は埋まらないと思う。そして、2000年代以降の最近に量産された書物にはこういうパターンが多い。物凄い売り上げになるが、誰にも知られない…。この手の似非サブカル文化がよくないのは、サブカルとは消費者の構造の違いがありすぎるのに、内実を伴う本当のオタク文化のようにビジネスの方向性として普遍化してしまうこと。しかし財界の都合はどうであれマイルドヤンキーの割合が高くなり、民度もばらつきが出てしまう。そこに道の繋がりはなく、完全な単細胞になる。
結果的にハイカルチャーでもなければ、サブカルでもない中途半端なサブカルチャーが寂れる。ギャル文化は(業界面で)のイメージが凋落して久しいがその人達の評判もクソッタレてるでしょ?ヤンキーみたいな末路を追うことになるんです。いい加減な文化はみんなどこも。もちろんアニメ好きや鉄道好きに対するバッシングもあって1989年の宮崎勤ショックや2002年の西武鉄道ショックがまさにそうなのだが、低迷期はわずか10年弱だったし、現在ではむしろ好かれている文化ので、私たち鉄道好きはほんとはめちゃ好かれ者なんだよね。「汚い日陰者」から一転して大成功ってすごすぎるよ。
最近の都市部では駐車場や駐輪場料金も安くなっているのに、いざ買うとなるとかなりの金額がかかり、トータル費用が原付バイクだけとっても最大で10万円台はいささか敷居が低いとはいえない。ロードバイクですら5万円以内で始める事等やろうと思えば可能だ。持続的に利用できて、かつ一定の敷居の高さがあればいいわけ。鉄道は厳かな仕来りを残しつつ観光要素があるのは非常に優秀で、バスもその点では平成以降は充実の流れがある。
最近流行っている鉄道不買運動は、田舎や外国から来たよそ者が参加できない、敷居が高い。しかし難易度の面でも非常に中途半端。ひどいと最低限度の駐車場駐輪場はおろかガソリンスタンドが整備されておらず、都会特有の曖昧な道路交通マナーとあって運転もめちゃくちゃ大変なのである。あれは遅かれ早かれにわかに終わる運命にしかないと思う。別に日本の大都会で増え続ける都市鉄道嫌いと車・バイク好きをDISってるわけじゃないが、日本ではロードサイド文化もろとも車社会は終わる運命にあるし、車やバイクは都市部ではスポーツ用具以外もはや意味ないし、アジア諸国を手本にした再開発を実行したらその発展の犠牲で欧米由来の都市文化の居場所が消えうせるのは必然でしかない。したがって現代であれば満員電車も大量の外国人も必要悪なので、日本は本当の意味で観光大国化がしたいなら防災などの予算などで余った分を人口増加対応に充てればいいと思う。歩道と車道を分離して歩道の容量を拡張する。近年では鉄道の整備に努めているようだが、例えば鉄道だけを取って鉄道の女性専用車が役目を終えたら、その跡にグリーン車を設置したらいい。乗客を分散させるのだ。
神奈川県の横浜の郊外はかつて、関東特有の田舎文化があった。昔の相鉄はローカル線同然だった。それが昭和時代の経済成長で都会の仲間入り。どれ程すごいかと言うと、昔は関東の仙台同然だった横浜の郊外が仙台市とは比べ物にならないような高度なニュータウンへと変貌したというのだ。話がそれてしまった。
電車男でサブカル文化が変わり、鉄道に対するイメージすらJR九州の躍進で変わった。縁の下の人を守り続けることが日本文化の持続可能性のポイントであり、もちろんそれを各現場の人が一番わかっていると思うんだよな~
この記事は「#音ゲーマー達の発信所 (1枚目) Advent Calendar 2016」の参加記事です。
http://www.adventar.org/calendars/1448
当時の会社を辞めてから随分経ったが、最後の仕事で作詞した曲が収録されたと聞き、久々にゲームセンターを訪れ、数年振りにアーケードの音楽ゲームをプレイした。ユーザーカードのログインに間誤付く、オプションの付け方もわからない。弱いユーザーになったものだ。幸いにも(現在は立場上この表現が許されている)待っている客は少なく、ギャラリーは居なかったので、タイミングの勘が全く戻らないGOOD連発プレイでも心苦しくなる事はなかった。
初めて遊んだ時から10年以上も経ったが、あの頃と何ら変わらず、リズムに合わせてボタン押すだけで楽しかった。
ゲームセンターと、音楽ゲームと、その周辺の人達による、空気感が好きだった。駅前の古いゲーセンは薄暗く、筐体に付属するハロゲンランプの光が眩しく瞬いている。客はいつも変わらない面子だし、動画サイトは当時無いから、曲を聞き入るには筐体前に居るしかないし、上手い奴は偉い(偉い以外に表現が難しい)ノートにはメッセージが、コルクボードにはイラストが、気怠げな店長、客上がりでボタンメンテに熱心な店員、そんな歳とは思いたくないけど、スマホも無い頃にぼんやりと順番待ちをしていたあの頃も、良かったと思っている。
そのまま好きが高じて、音楽ゲームの制作に携わる事になった。心持ちとしてはミーハーさが大部分ではあったけど、残った誠実や矜持を言葉で表すとするならば、自分が作るゲームによって、人と人とが繋がって欲しいと思っていた。自分が感じたあの空気感をもっと多くの人に伝えたい。オンラインゲームが台頭し、mixi/TwitterといったSNSサービスによって人の繋がりは変わっていくけれど、同じゲームで遊ぶ時間と、ゲームセンターというリアルな空間によって人が繋がる事で、かけがえのない感動を与えられるのではないか、と。
入社3年目くらいだっただろうか。新規ゲームの制作プロジェクトに参加する事になった。音楽ゲームというのは1度作ると、その後はガワを変え、曲を入れ替え、時々新機能追加を何年も続けるという事が多く、完全に新規のタイトルを作る事は中々出来ない事だった。USTREAMでDJが曲を回し、ニコニコで初音ミクがアイドルとなり、コミケで東方アレンジが同人音楽を席巻していた時期でもあった為、CGMをキーワードにユーザー参加型のコンテンツを、というコンセプトのゲームの制作が始まった。その辺りにドップリ浸かっていた当時の自分は、きっと『俺達の考える最強の音楽ゲーム』になるぞこれは、という期待が高まっていた。
が、0から1を生み出す苦労をまだ、この時の自分は知らなかった。
仕事量は現在に至るまでで一番厳しかった。震災があってナーバスにもなったし、人とブツかるし、思い通りにならない事が多くて、このゲームのソフトアップ後の年明け早々に、自分は泣きながら上司に会社を辞めたいと話をした。色々理由は自分の中ではあったけど、振り返ってみると出来上がったものに満足出来なかったのだと思う。やりたい事が全部出来なかった。力量不足の塊が形として残ってしまうのは本当に辛く、情けなくなった。見るのも嫌になって、ゲーセンに足を運ぶ事は無くなった。
この心境には確信があって、更に数年後に大体同じ理由で本当に会社を辞めてしまうからなんだけど、この時は上司に引き留められた事で退職は未遂に終わった。
引き留められたからといって、心境が大きく変化した訳ではなかったけど、リリース後の当面はバグフィックスや機能追加を淡々と行うだけだったから余裕が出来て、辞めてからどうするか、が考えを上回った事で前向きにはなった。特別なユーザーにアイコンを与えるカードデータを仕込んだり、大会の最中に遠隔操作で新曲を開く仕組みを作ったり、収益を考えずに人が目の前で驚いてもらえる施策を入れられたのは、自分個人には良いカンフル剤になった。公式Twitterの更新は変な頭捻るから辛かったけど……
また、夏を越えた頃にはユーザーの声も良く聞く様になり、上々な反応も返る様になった。緩い通信対戦のお陰でプレイヤー同士がお互いの認識を強くした。盛り上がった事で、同人のオンリーイベントが開かれたり、ユーザー参加型を謳った事で、ユーザー同士がオリジナルの音楽CDやイラスト集を作ったり、ゲームとは関係なしに普通に遊びに行ったりする様が、ネットでも、ゲーセン以外でも見れる様になった。
もう一度言うけど、自分は自分が作るゲームによって、人と人とが繋がって欲しいと思っていた。同じゲームで遊ぶ仲間を作って、いつかゲームは遊ばなくなってしまうだろうけど、繋がりだけが残ってくれれば、それでいいと思っていた。
今では、作って良かったと、心からそう思っている。
私は女の笑い声が嫌いなのだ。外では防音イヤーマフをつけて外を歩いている。
赤ん坊の泣き声や笑い声には寝不足の時くらいしか目くじらをたてないが、
王様のブランチのガヤにいそうな女だけは全力で喉にタックルを喰わせたいのである。
王様のブランチを見たことのない人のために言うとミーハー向け情報番組である。
その笑い声を例えるなら赤ん坊の声で酔っぱらいのおっさんが馬鹿笑いするような笑いである。
大きい+高いというのは相当やかましい。正直公害レベルの騒音であると私は思う。
聴覚というのは人を不快に感じさせやすいほど敏感なものなので、彼女たちの笑いは不快そのものである。
これがテレビだと消せばいいが通りすがる女どももこの奇声をあげる存在なのである。
これで手を叩こうものなら手で口を塞がせたまま縫ってやろうとも思う。
女として下品にもほどがあるとかいうと性差別うんぬんとか言われるが、
女は必然的に声が高い方であるのでやかましいのだ。非常にやかましい。
そして私も女であるが、よくあんな笑い方をする女の3m以内にいて不快にならないなと周りに思う。
黙っていれば可愛いとか黙っていれば美人とかよくそう思っている。
電車の化粧は周りに迷惑をかけないとは言うが、これはなぜ迷惑にならないのか私にはわからない。
ご近所トラブルの種にもなる騒音という存在がなぜここまで減らないのか。
幼稚園や小学校で話し声のコントロールの話はされるはずなのになぜここまでオツムが悪いのか。
私は女の笑い声が嫌いなのだ。外では防音イヤーマフをつけて外を歩いている。
赤ん坊の泣き声や笑い声には寝不足の時くらいしか目くじらをたてないが、
王様のブランチのガヤにいそうな女だけは全力で喉にタックルを喰わせたいのである。
王様のブランチを見たことのない人のために言うとミーハー向け情報番組である。
その笑い声を例えるなら赤ん坊の声で酔っぱらいのおっさんが馬鹿笑いするような笑いである。
大きい+高いというのは相当やかましい。正直公害レベルの騒音であると私は思う。
聴覚というのは人を不快に感じさせやすいほど敏感なものなので、彼女たちの笑いは不快そのものである。
これがテレビだと消せばいいが通りすがる女どももこの奇声をあげる存在なのである。
これで手を叩こうものなら手で口を塞がせたまま縫ってやろうとも思う。
女として下品にもほどがあるとかいうと性差別うんぬんとか言われるが、
女は必然的に声が高い方であるのでやかましいのだ。非常にやかましい。
そして私も女であるが、よくあんな笑い方をする女の3m以内にいて不快にならないなと周りに思う。
黙っていれば可愛いとか黙っていれば美人とかよくそう思っている。
電車の化粧は周りに迷惑をかけないとは言うが、これはなぜ迷惑にならないのか私にはわからない。
ご近所トラブルの種にもなる騒音という存在がなぜここまで減らないのか。
幼稚園や小学校で話し声のコントロールの話はされるはずなのになぜここまでオツムが悪いのか。
駅乃みちかの話、正直鉄道むすめの企画なら修正前の絵でも別にいいじゃんと思うしリリースの投げ方とかが悪くて変な目のつけられ方をしてかわいそうとは思うんだけど、またフェミかとかそう言うコメントをする男の人が憎くてしょうがない。
違う人だし関係ないとは思うんだけど、スイーツとかま〜んとか非処女は産廃?とか惨事はゴミ、やっぱ二次だろとか、ジャップとかキョロ充とかわからないけどそういうことを言ってその層に受けてる作品とか文化とか否定したくせに、自分たちは迫害されてる!オタク文化に口を出すな!みたいなコメントに見えてしまって、どの口が?被害者ヅラすんなよと心の底で思ってしまう。
アニメの絵が駅にあっても、秋葉原にエロゲーのポスターがあろうと、別にいいじゃんと思うのに(コミケの紙袋はちょっと嫌だけど)、オタクは迫害されている!フェミしね!みたいなのを見ると憎しみが湧いて出てきてしまう。でもやっぱり駅乃みちかはいいじゃんと思うしちょっとエロく見えるかもしれないアニメの絵が街にあっても別にいいかなと思う。オタクとコンテンツそのものは切り離して考えたいし、そこが切り離せなくなると同じところまで落ちてしまう気がする。
自分が尊重されたいならスイーツとか言わずにそういう文化も尊重しろと思うんだけど、元々はスイーツとか好きなミーハー?な女の人からアニメとかダッサとか言われた人たちがそういうコメントしたのかもと思うとやっぱり男オタク死ねとは思えないし、この憎い気持ちは増田に書き捨てることにする。でもやっぱコミケの紙袋は嫌だけど、そういうエロのゾーニングとはまた別の話で、年代とか性別とか性格とかでそれぞれの層で受けてるものがそれぞれ違うんだからお互いバカにせずに、理解できないものでも私は尊重していこうと思う。コミケの紙袋はどうにかしてほしい
http://anond.hatelabo.jp/20160904033715
選定基準は
・読みやすい
・有名で、他の本や映画に出てきがち
ド名作。読んでおくと伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』がもっと楽しい。
早く来てくれオーバーロード。
③永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編カント(訳:中山元)
「本邦初訳」作品。古典新訳文庫ならでは。イタリアっぽいユーモア。
エログロ。
『藤野先生』も『狂人日記』も入っていてお得。訳者の村上春樹と中国の関係についての研究も面白い。
誤訳が多いらしいが、すごく読みやすかった。他の訳では通読できなかったと思う。
訳者は元国際プラトン学会会長(2007~2010年)で、解説の量がすごい。
読んでおくと、あの映画とかあのミステリーとかのネタ元なので捗るはず。
⑩闇の奥 コンラッド(訳:黒原敏行)
『地獄の黙示録』の原作。個人的には「叡山の僧兵の大将」中野好夫の訳より好き。
―――
①グレート・ギャッツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)フィッツジェラルド
村上春樹の訳が好き。
『英文の読み方(岩波新書)』など、英語の読み方の著作に定評のある行方昭夫の訳で。
野村萬斎が自ら演ずるために、河合祥一郎に新訳を依頼しただけあってとても読みやすい。
『月下の一群』の堀口大學の訳で。
⑨カフカ-ポケットマスターピース-01-集英社文庫ヘリテージシリーズ
小説家の多和田葉子の訳で。『変身』は先に別の訳を読んでおいた方が新鮮かも。
⑩マーク・トウェイン-ポケットマスターピース-06-集英社文庫ヘリテージシリーズ
はてな民ならハックルベリーは読んでおきたい。柴田元幸の訳で。
―――
今60台後半の祖母。
サザエさんだけは新聞連載だったからという理由だけで好んでる。
当然キャラクターグッズも目の敵。小さい子どもが持ってるカバンに
キティちゃんが書いてあるだけで眉をひそめる。
電化製品も悪。パソコンはもちろん、電子レンジすら電磁波が体に悪い
エアコンとテレビとトースターは祖父が祖母と喧嘩してでも買ってたけど。
なぜそんなに頑なになるのか分からない。
ピアノやバレエなどの習い事も害悪。祖母曰く学校で習わないことはやっても意味がないらしい。
ちなみに化粧や染髪も害悪と言って本人もしないし、孫がしてるのを見てもキレる。
今はもういないけど曽祖母はむしろ新しい物が好きなミーハーだったのに。
しかも祖母は貧乏だった訳でもない、大学も出てるし学がない訳でもない。
なのになんでこんなに何もかも否定するのか。
僕は今「アイカツ!フォトonステージ」(以下フォトカツ)をやってる。
アニメ、ゲーム「アイカツ!」のソシャゲ(スマフォ版リズムゲーム)だ。
それ以前にも色んなソシャゲをやっていて、その中には「アイドルマスターシンデレラガールズ」、「アイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ」も入っている。
(以前とは言っているが、アカウント自体は消してないので適度にログインして「今こんな感じになってるのか~」ってなったりしてる。)
フォトカツ以前にアイカツ!が大好きで、アニメ、映画も何度も見たり、ライブにも行ったり、アーケードゲームもかなりやった。
年齢的にはまだ若いと思ってるけど、本来の対象年齢の女児からしたら十分に「アイカツおじさん」だと自覚はしてる。
そんなアイカツ!のアイドルの中で僕は「霧矢あおい」が大好きだ。
星宮いちごと一緒にスターライト学園に編入し、ソロではドラマ、ユニットではSoleil等で活躍しているあおいが本当に大好きだ。
いちご達の中では割りと物知りな反面、アイドルのことになると抑えが効かなくなったり、「穏やかじゃない!」って穏やかじゃない言い方するあおいが本当に大好きだ。
その他にもアニメのエピソードで色々好きな部分があるんだけど、いまいち文才がないというか、オチまで書く体力が無くなりそうなのでここでは割愛する。
そんなわけでフォトカツが今年度頭にリリースされた時もまだその気持ちは変わっていなくて、始めの課金ガチャでPRのあおいが欲しくて課金をした。
幸運なことに最初の11連ガチャの時点でPRが引けた。それも霧矢あおいだった。
初めてフォトカツに課金するときは「あおいは恒常PRだし、PRの排出率2%って言っても大したことないだろう」って思ってた矢先に出たもんだから凄くテンション上がった。
それからは暫く編成にあおいを1番(プレイ中に一定のコンボ数に達すると「その調子♪」みたいに話しかけてくれる)に置きながら、イベントやログボで貰える無償スターを集めながらその後出た新しいPRあおいを出そうと頑張った。
時々課金したりもしたが、一気に課金するほど貯金がない、手元にガチャ出来るほどスターを持ってると回したくなる誘惑に負けそうになると言った点から、1ヶ月に1回程度、11連ガチャする分だけ課金すると言った自分ルールを作って回してた。
結果、暫くPRどころか「SR1枚確定」の確定された1枚のSRしか出ないことが殆どだった。
もちろん3days全公演に参加して、多分全部の公演で多かれ少なかれ泣いてた。
そのライブで一番印象に残った曲が、このライブで初めて公開されたいちご、あおい(の歌の人)の「青い苺」だ。
いちごとあおいの人選、「青い苺」というド直球みたいなタイトル、振付に歌詞にと初めて観た時は「これもうアレじゃないですか!」って思いながらもう感動しっぱなしだった。
その反面「(二人の関係からこうなることはとっくに)知ってた」「(今までそんな素振りばっかりだったけど)ようやくか」みたいな気持ち悪いオタクみたいな感想も湧いてた。
そして4月になり、アイカツ!はTVでの放送が終了してアイカツスターズ!と名前とキャラを一新して放送が始まった。
あかりジェネレーション(シリーズ3年目)からあおいの出番は減ってはいたが、「これで本当にTVであおいと会えなくなるのか…」と思うと少し悲しくなった。
でも、フォトカツがその悲しさを和らいでくれた。
なぜならフォトカツにあおいがいるから。
しかもその頃にはガチャだけでなくイベント報酬のR、SRのあおいも手に入ってこの段階であおいだけで8人編成「あおい8」が組めるようになってたと思う。
そして6月、僕のフォトカツライフの中ではかなり大きな出来事が起こった。
「キュートにジューンブライド」というタイトルのイベントで3月に初披露された「青い苺」がようやくフォトカツでプレイできるようになった。
これには素直に嬉しくて、アイカツスターズ!のアーケードが稼働した関係で少し落ち着いてきたフォトカツのやる気を再び燃え上がらせてくれた。
しかし、そのイベントと同時に公開されたあおいの新規PRにはかなりのショックを受けた。
あおいがウェディングドレスを着ていた。
ジューンブライドのイベントだし当然だろとは思いつつも当時の僕にはかなりのショックだった。
イラストが、ドレスが、ポーズが、表情が、あおいが可愛すぎた。
でもドレスを着ている、何かを思わせる表情でこちらを見ている、こちらに手を伸ばしている。
それがたまらなくショックだった。
幸い身体に大きな不調を起こしたりはなかったが、数日は頭からアイカツ!が、あおいの事が離れなかった。
Twitterを後で見返したらいつも異常に恥ずかしいこと書いてfav貰ってたり、会社の飲み会や友人とのSkypeでこの事について話したくてしょうが無い状態になってた。
数日経ってそんなショックから落ち着いて今までどおりのテンションで「あおいが可愛い、大好きだ」と言えるくらいまでになった。
そして、このウェディングドレスのPRあおいをガチャで入手したい気持ちをどうするか考えた。
いつもどおり課金して回す以外に道はないのだが、悲しいことに仕事が減って給料は減ってたし、ボーナスもまだ先だったため貯金がギリギリだった。
これまでのフォトカツの新規PRが期間限定だったこともあり今回も期間限定で入手しないともう二度と手に入らないのではと思い焦っていた。
その後どういうことか今まで十分に読んでいなかったお知らせを5度読みくらいして分かったのが、「今ガチャを引くとウェディングドレスのPRあおいが出る確率が高くなってるけどその後恒常PRになる」ということだった。
救われた気がした。
いつでもあのあおいに会いにいけるようなそんな気持ちで悩んでた気持ちが一気に晴れた。
そんな晴れた気持ちでイベントに臨み、イベントで集めた無償スターで11連ガチャを回したが結局先行販売期間中にウェディングドレスのPRのあおいを入手することは出来なかった。
僕はフォトカツをまだ続けている。
今日から始まったイベントはダンシングディーヴァの新曲「きらめきメッセンジャー」がプレイできるイベントだ。
同時に始まったガチャではスプラッシュの立花ミシェルが初めてSRで登場したので出来れば欲しい。
こんなミーハーなこと言いながらも未だにウェディングドレスのPRあおいが僕の手元に来ることを願いながら今回もガチャを回してる。
仕事なんだから当たり前かもしれないが、チャリティー番組と銘打ってる以上、受動的ではなく能動的に「ギャラはいらないので出演します」ぐらいは言えないのかなと思う。
その君が手にするお金で何人の人が救えるのだろう?
2.お涙頂戴の過剰演出
身体障がい者の方が何かにチャレンジすることは素晴らしいことだと思う。
それを見てすごいとは思う。
でも良い大人がスタジオで涙で顔をぐちゃぐちゃにするほどなのだろうか?
全く理解できない。
笑顔で「よく頑張ったね、すごいね」と言えないのだろうか。不思議だ。
もう普段から全く運動しないような人に走らせるのはいい加減やめないか。
今年は運良く猛暑を逃れ、涼しく走りやすい気候になった。(素人なのでそれが良いことかはわかりません)
でも、「熱中症に気をつけろ」「激しい運動は控えろ」だの散々注意勧告してくる報道の人間がぶっ続けで長距離を走らせている事実についてどう感じているのだろう。
それに、苦しそうに顔を歪めながらマッサージを受けて、走り続ける姿を見て感動する人間はどのような思考をしているのかわからない。
4.2日限りの募金活動
なあ、それは365日できないのかな。
芸能プロダクションが何社か協力して、小さめの会場でも借りて、日替わりで何人か募金活動でもすれば一年で数え切れないぐらいの大金が集まるのではないだろうか?
この世には未知の難病があって、数え切れないぐらいのたくさんの人が苦しんでいるのもわかっている。
けれど、それを世に広める方法が間違っていると思った。
最近ブクマ全然貰えないから流行りものに手を出すぞい。頑張るぞい。
そもそもシンゴジラ自体が庵野という流行りもの×ゴジラリメイクという流行りものっていうミーハー掛け算だから何も恥じる事はないと思うのでブクマくれ。
ブクマ欲しさに筆取っただけだから何言うかまだ決まってないしとりあえず点数言ってくか。
・映像 6/10 邦画としては凄い頑張ってるけどハリウッドに比べると厳しいかな。肝心のゴジラが作り物っぽさバリバリなのが辛いね。それでもあえて主な舞台を昼間にしたのは良かったけどね。
・お話 5/10 怪獣やメカの出番が少なくて退屈なパートが多い。俺の腹は怪獣映画腹に調整してあったのに。VSシリーズみたいに二匹以上いないからどうしても出し惜しみっぽくなるんだろうけどね。
・ゴジラ 9/10 キモい。デカい。強い。他の怪獣がいないから進化までゴジラがやるって発想はナイス。怪物1頭で子供も産まないのにゴジラが出てくるパートは全然飽きが来ない。ゴジラ出てきてる間は本当に楽しかった。
・メカ 4/10 リアリティ重視でスーパーXとか機龍とか封印してたけどそこもまたゴジラの魅力だと思うんだよねえ。列車爆弾とビル倒壊質量攻撃は面白かったけど。
・キャラ 4/10 総理がどっちものらりくらりとした日本人的政治家でキャラ立ってていいね。脇を固めるキャラも頭に入りやすいけどクドすぎないって絶妙なバランス。でもヒロインのいきすぎたテンプレ臭は無理。
・音楽 10/10 いつもネルフでかかってる曲でまず5点。いつも自衛隊が戦ってる時流れる曲で5点。合計10点。
・倒し方 3/10 ゴジラ映画はいつもここが微妙なんだけどこれも相変わらず微妙だった。「ゴクゴク作戦です」ってか。
・庵野 9/10 エヴァがない状態で使徒を倒す映画ってレビューどっかで見たけど本当にそれだね。あまりにもエヴァだよ。でもいい意味でエヴァ。Qじゃなくて破の方。
・ハッタリ 9/10 さっきゴクゴク作戦通って馬鹿にしたけどそこまでの科学的な流れは凄い良かった。放射能マップとゴジラの移動ルートの一致とか、効きそうな薬をサンプル使って絞り込むとか、製造に時間かかるとか、ゴジラ情報のうち原子力研究に応用できる部分をアメリカが独占したがってるとか、リアリティを感じさせるようなハッタリかましてるだけのような微妙なラインを攻めまくってて特撮映画のキモをよく分かっているなあと感じた。
合計するとえーと64/100か。
まあこんなもんだな。
あーなんかもう書くこと無いな。
ヤシオリ作戦ってネーミングが完全にヤシマ作戦意識してたって話はもう皆してるだろうし。
アメノハバキリ隊が名前負けしてるって話ももう出尽くしてるだろうしなあ。
つうかここでこの名前使ったらキングギドラ攻めてきた時どうするんだろうな。
一番いいネーミング使用済みだぞ。