はてなキーワード: 証左とは
無産オタクでもクリエイティブ分野で短期間に爆発的に成り上がった例(上原亜衣と公式で繋がった、フォロワー数18万人を誇るAI界隈の超新星)貼っとくわ
https://twitter.com/TASUKU2023
TASUKU2023という名の彼は元々5chのAIイラストスレに生息する、しがない無産オタクの一人に過ぎなかったが、BasilMixを元にした写実系美少女生成特化マージモデル『ChilloutMix』を作ったというたったそれだけの事実で、僅か2ヶ月にしてほぼゼロだったフォロワー数が18万人にまで急上昇し、文字通り世界中のAI画像関係者を虜にし、国内海外問わず様々な企業案件を打診され、ついにはあの超有名AV女優である上原亜衣と公式に繋がるという快挙まで成し遂げた。
絵や小説を書けない無産オタクでも、彼のように成り上がることはできる。
特に今のAIイラスト界隈のバブル的熱狂の最中ならそれが可能だ。彼は極端な成功例だが、彼以外にもAI界隈でたったここ数ヶ月ぽっちで一気に成り上がって名声や各方面からの副業収入を得られるまでになった元無産オタクのAI絵師は多い。手描きの従来の絵師でもなかなか達成が難しいフォロワー数万人級レベルに達したAI絵師が今やゴロゴロ存在するのが、無産オタクが下剋上する絶好のチャンスであることの証左だろう。
現状、ARuFaとTASUKU2023なら明らかに後者の方が凄い存在ではないだろうか。無産オタクがロールモデルとすべきは今なら彼だろうな。
妊娠出産子育てが趣味だって言われて、反論する人達がいるのが意味が分からない…
いや、趣味以外の何物でもないだろ、まさか義務や仕事だとでも言う気か?
私は子供は欲しいと思っている女だけど、女がそうやって自ら望む事がまさしく現代日本において出産が「趣味」である事の証左だと思うんだけど?
「出産は趣味」を否定する人達って、子供からどうして産んだと聞かれたときに、産みたくて産んだんだって答えないの?
まさか、本当は産みたくなかったけれど国や社会のために仕方なく産んだとでも答える気なの!?
「出産は趣味」を否定する人達って、あまりにも毒親思考だと思うんだよねー
まあ、「障害は個性」に反論する人達が本来ニュートラルな意味である「個性」という言葉に勝手にキラキラした属性を付け加えているのと同じく
「趣味」という言葉に勝手に、辛い事など何もない楽しいだけの行為という意味を付け加えてんのかな
別に趣味でも辛い事や大変な事って沢山あるんだけど。スポーツなんてその代表だよね?でもスポーツが趣味と言われて怒る人はいない。なんで?
最&高の作品の感想を書く。ジャンプ+は莎々野先生に「マリトッツォだっつてんだろ」でアナログ部門賞をあげた責任を取ってさっさと短編集を出して欲しい。
本作があまりにも性癖にクリティカルヒットしたので思わず筆を取ってしまった。
何が最高かって、キャラも可愛くて純愛で、そして適度に闇があっても作品の根本には人が人を想う思いやりにあふれているところ。空気感がエモくて二人の関係が恋愛ゴッコから運命の恋人に変わっていく流れも最高だし、何より溢れ出す感情を言葉にできず涙としてしか吐露できないシチュがフェチの筆者にとって終盤の展開が死ぬほど刺さる。
ただ、作品をステレオタイプに「ヤンデレやメンヘラもの」とラベリングしてちゃんと物語を読み解いていない人が散見される。それはとてももったいないので、後ろで自分なりに補足を書きたいと思う。
とにかく鹿野くんも狩谷さんも可愛すぎる。狩谷さんにうでギュッってされる度に「アッ」とビクンビクンするのは、女、いや人慣れしなさすぎてまさに野生のシカみたいだし、自分から振ったくせに泣きながら揚げ物かじる姿は滑稽可愛いし、初デートで初めてばかりの経験に目をキラキラさせて精一杯楽しもうとしている姿も素直でかわいい。
「語尾にハートがつくような甘々口調でしかも恋人に献身的で可愛くておっぱい大きな女の子」だけど「実は傷を抱えていてバイブル(少女漫画)に書いてない自分の本音を晒すときはうつむいてつっかえてながらでしか喋ることができない」ギャップヒロイン(狩谷さん)みんな大好きでしょ? 少なくとも筆者は大好き! あと作中に出てくる二通の狩谷さんの手紙、便箋もデコっているシールも女児みたいでめっちゃ可愛い。髪の毛が細いから毛が浮いて輪郭がホワホワしているところも好き(懺悔すると、筆者は別れ話を告げられた時の狩谷さんのどんどんと感情が抜けてゆく目と回らない呂律という可哀想がてんこ盛りのシーンにちょっぴり興奮してしまった。)
でもやっぱり一番好きなのは、二人の最後のページ顔だよ。狩谷さんの笑顔はキスで照れて赤面している可愛い鹿野くんに向けられて、鹿野くんは狩谷さんの真っ直ぐな笑顔でますます照れてしまう。無限機関はここに実在した。
本作の感想でホラーだとか鹿野が可哀想だとか漫画の(しかも絵だけの)表層しか理解していない意見が散見されたが、狩谷さんをメンヘラと呼ぶのは(一応)正しいけどヤンデレは間違いであって、本作のストーリーラインを理解していない発言である。狩谷+鹿野を指してヤンデレ・メンヘラに捕われた彼くんと考えるのを止めるのは、作者のミスリードに見事に引っかかっていると言えるだろう。主人公の狩谷は一見愛が重くて行き過ぎた愛情表現をする少女に見えるが、実際はかつて元カレの心ない言葉で酷く傷付けられ心に呪いを受けて苦しんでいる怪我人であり、本作はその彼女が鹿野の若く真っ直ぐな愛で呪いから解き放たれる物語である。
作中の時系列に従うと、狩谷の心境の変化は次のように説明できる。
元カレに傷付けられた心も癒えて、お互いの想い合う気持ちも伝えて、あとはもう二人が人生の終わりを迎えるまで何度も生きてきた中で最高のキスを更新していくだけだよ!!!!!! ラブあんどハッピー!!!!!!!!! お幸せに!!!!!!!!!!!!!
軽く流し読みしただけだと鹿野くんは病んでる狩谷さんを都合よく支える彼くんに見えるかもしれない。しかし、ちゃんと彼の発言を分析するとそうではないことが分かる。前述したレストランの一幕、ラブラブカップル専用ジュースを頼む奴らなんて頭がおかしいという近くの席から聞こえる陰口に、彼はそんなこと言う奴らの方がモテないしブサイクだとこちらも大概な偏見丸出しの発言をする。自分自身が陰口を打つ彼らと同じ側の人間であることを証明しているのである(「アッ(気付き)」とか漏れ出る情報から分かるように腐れオタクだしね…)。そして傷ついたからと独善的に狩谷さんに別れを切り出すところもそう。自分が彼女と付き合う自信が無くなったくせに「彼女が元カレを忘れられないから」と欺瞞を重ねて一方的に彼女に別れを告げるのは、頭でっかちで自分のことしか考えていない独りよがりな非モテの発想他ならない。
これらの事例から分かるように、鹿野くんも年相応に青くて不器用な少年なのである。これまで彼女が居たことがなく、作者曰く「中学生の頃は教室の隅でニヤつきながら、如何にリア充が害のある生き物であるかを友達と話し、そんな会話がなんだかんだ肌に馴染んでいた」少年だ。だからレストランの時に彼女に言った「恋愛していると皆バカになる」という発言は実体験を伴わない聞きかじっただけの知識を披露しただけだろうし、相手が狩谷さんではなければ上から目線ウザみたいに思われていたかもしれない。しかしその時彼の前に座っていたのが狩谷さんで、しかもその言葉は元カレに淡い恋愛観をへし折られ傷ついている狩谷さんにとって最も必要なものだった。彼がこの発言をしたのは自己肯定感が低いオタクだからというのもあるのだろうが、ただの偶然だとしても、その偶然の積み重ねが運命なのである。
そして彼の最も偉大な功績は、狩谷さんに対して真摯に向かい合い続けて、自分の素直な気持ち(楽しい、嬉しい、一緒にいたい)を伝え続けたことだ。元カレの心ない言葉に傷ついて自分の恋愛観が信じられなくなっていた狩谷さんにとって、真正面から彼女の気持ちを受け止めて感情を伝えてくれる彼の存在は特効薬だった。二度目の「恋している人はみんな馬鹿だ」は彼女とデートして浮かれてしまった自分の体験に根ざした、心からの気持ちだし、真剣に、本当に正面から彼女の気持ちを受け止めて打ち返したのは本当にすごいことだ。
まだ青いけどいい奴なんだよな鹿野くんは。狩谷さんを一方的に振った後も泣きながら一人で反省していたのだろうし、「俺は狩谷さんのことが好きだからです」以降は覚醒して包容力の化身と化しているし。正直告白以降の鹿野くんは光の彼くんと言ってもいいと思う。もう鹿野くんがいる限り狩谷さんは大丈夫だろうけど、へんにスカしたりせずに素直なままでいるんだぞ。
H3ロケット試験機1号機の打ち上げ中止を共同新聞の記者がとくに根拠なく「失敗」だと断定した件について。
まあ関連していろいろ恐ろしい事が多いのだが、個人的に一番やばいと思うのは次の江川紹子氏のツイッター上での発言だ。
https://twitter.com/amneris84/status/1626791731973980160
江川紹子氏はフリーランスのジャーナリストの中でも、いろいろな案件をそれなりに中立的な立場で扱うことができる人だと思っている。
その人がこの発言というのは、かなり恐ろしい事態が不可逆に進行している証左だ。
共同新聞の記者に比べたらそこまでほどの発言じゃないだろって?
いやむしろ、私は共同新聞の記者の頑なさなんかよりも、江川氏の紋切りコメントのほうがよっぽどやばいと思わされた。
件の記者、鎮目宰司氏は過去の経歴からみても、日本の科学政策そのものに常に重大な不信感を持っているタイプのマスコミ人だ。
それはそれで一つのスタンスであり、そういう立場の人間がマスコミ内にいて、常に批判的言論を提起することは価値があると思う。
「打ち上げは失敗だが、JAXAと主流派メディアはそれを認めたがらないから失敗という言葉を使わなかった」
対立する議論を読んで、検討した上でそれが結論ならそれでもいい。
しかし今回の江川氏の発言は明らかにそうではない。議論より前に「ストーリー」が出来上がっており、それで終わりだ。
私は江川紹子氏はある種の独立系・中立派のメディア人の代表サンプルのようなものだと思っている。
そういうひとがこのスタンスだということは、多数派のメディア人も同じような反応をする可能性が高いだろう。
というか少なくとも同じような反応をしているメディア関係者のツイッターを多く見て、本当の恐怖が湧き上がってきた。
恐ろしいのは、ここでそもそも宇宙開発のプロジェクトにおいて中止や失敗の定義がどうなっているかとか、技術的な話をしてもなんの意味もないってことだ。
逆に、日本の科学政策を真面目に批判するため、例えば米国の宇宙開発で「失敗」の定義がどうなっているかとか
諸外国における科学政策とマスコミ報道のありかを比較するとか、そういう話にもならない。
もしそれらの話をどちらに展開しても、彼らはその議論を一切無視して
「まあごちゃごちゃ言ってるけど、要するに失敗だったのに日本の科学政策組織はそれを認めなかったってことなんやな」
そして「まあいいか。そこまで興味ないし」と次の事件に向かうのだ。
本当に話が通じない。
本当に話が通じないのだ。
ここまで話が通じない集団に対してどういうアプローチを取ればいいのだろう?
私にはわからない。
みなさんはどうすればいいと思います?
過去の国政選挙はだいたい「選挙区は民主党系、比例区は共産党」。吉良よし子議員にも入れたことがある。ただ、立憲民主党が立ち上がったときは御祝儀で両方立憲民主党に入れたし、れいわ新選組が立ち上がったときは一票入れた。「俺の一票が国会議事堂のスロープになった」と思うと誇らしい。ロシア非難決議に対する対応とかで「どうしようもねえなこいつら」と思ってはいるけど、国会に何人も重度障害者を送り込んだ実績があるので完全に嫌いにはなれないんだよな……
政治的スタンスとしては、象徴天皇制支持、日の丸君が代に愛着あり、日米安保支持だが、どうせ今すぐに共産党が政権獲ることはないだろうし、と思って少しでも生活をマシにしてくれそうな党に入れていた。共産党が恒常的に第二党になり天皇制や自衛隊への攻撃を強めてくるようになったら流石に別の党に入れるだろうけど、現状の勢力ならまあ天皇や自衛隊の脅威にはならんだろうな、という判断。
過去の地方選挙はだいたい共産党一択。地方選挙なら共産党がいくら勝とうが天皇制や自衛隊に直ちに影響があるわけではないので、安心して共産党に入れられていた。
で、前置きが長くなったけど、昨今の共産党について。正直、かなり失望している。
失望のその1は表現規制問題だ。かつて共産党が表現の自由のために戦ってくれた経緯があるのは知っているし、そこは感謝しているが、最近の共産党は表現規制派のフェミニストに乗っ取られてしまったかのようだ。『温泉むすめ』へのバッシングには何人もの共産党の地方議員が参加していた。地方とはいえ仮にも公職にある者が、たかだか地域おこし用のご当地萌えキャラ程度のものに「ゾーニングすべき」などと堂々と言ってきたのだ。『月曜日のたわわ』だってそうだ。他にもいくらでも事例は挙げられる。そしてとどめが、一昨年の衆院選だ。
不安定な雇用に振り回される萌えオタクの俺は、安定した雇用や充実した福祉と天秤にかけて、俺の嫁たちを選ぶことにした。まっとうな仕事がないのは俺が人文系などというカネにならないことでは定評のある学問を専攻したからであり、自己責任であると諦めもつく。一念発起して資格を取るなり起業するなりすれば一発逆転ができるかもしれないのにしていないのも、最終的には俺が怠惰なのが悪いのだ。しかし、彼女たちがいったい何をしたというのか。たかだかスカートに皺が寄っていただのといったくだらない理由で、彼女たちがあそこまで攻撃され、貶められてよいはずがない。金がないのは耐えられる。でも俺たちの文化が貶められ、排除されようとしているのは耐えがたい。
失望のその2は、まあその1とも絡んでくる話だが、Colaboの件だ。モリカケサクラであれだけ特定の民間人との癒着や公的リソースの私的流用や公文書の黒塗りを批判してきた共産党が、Colaboをあそこまで庇うとは思っていなかった。まだ知らんふりしてColaboを詰めてくれた方が全然よかった。暇なんちゃらが「共産党と強いつながりのある~」って枕詞を使ってたときは「まあそりゃ事実っちゃ事実だけど下品な攻撃だなぁ」と思っていたんだけど、あそこまで全力で都の不明朗な会計を庇い始めるのは予想外すぎた。本当にあったのかよ強いつながり。俺はお前らが行政の透明性をうるさく追及する党だと思って、そういう政党が議会制民主主義には必要だと思って、だからずっと貴重な一票を入れてきたんだぞ……
そして失望のその3。今回の党首公選問題だ。たかだか党首公選すべきだと本を出し記者会見をした程度の党員をあそこまで攻撃するのはドン引きするほかない。「気持ちはわかるけどすぐには難しいっすね~。貴重なご意見あざーっす」で済ませていればすぐに鎮火しただろう問題をここまで燃え広がらせているのは、すべて共産党自身が招いたことだ。
俺は党首公選が絶対に必要だとは思わない。それは2つの理由からだ。理由のその1は、紙屋研究所の人が書いていたように、公選のみが民主主義だということになったら、じゃあ国会はどうなんだ、という話になってしまうからだ。当たり前だが首相は国民による直接選挙ではなく、国民に選ばれた議員の互選である。それでも、安倍晋三や菅義偉や岸田文雄は競争的な選挙で選ばれた政府の長であるということになっている。ならば、別に政党内部でも間接民主制であって悪いわけではない。すべてを直接選挙に還元するのは議会制民主主義の否定だ。
けれど、問題は、それで20年以上も同じ人物が党首の椅子に座り続けていることだ。いやもちろん、指導者の在任期間が長いことそれ自体が直ちに問題になるわけではない。たとえばドイツの首相は非常に長期にわたって在任することで知られており、アンゲラ・メルケルは16年にわたって首相府に君臨してきたが、ドイツが民主国家ではないと言う人はいない。しかし、ここは日本だ。たいていのアメリカ大統領が経験する8年間の任期を勤め上げたら憲政史上最長の長期政権になってしまう国だ。かつては1年単位でコロコロ首相が代わり、選挙に負けたら与野党の党首が腹を切らされ、ポスト○○は誰だという話でワイドショーがもちきりになる国だ。麻生太郎も野田佳彦も、そして最初の組閣時の安倍晋三も、選挙に負けて党首を辞めさせられてきた。選挙にはめっぽう強かった再登板以降の安倍晋三は、コロナで失政をやらかした(と国民から思われた)ために首相を辞めた。じゃあ、志位和夫は? 共産党の党勢を爆発的に伸ばしたわけでもなく、有能な首長を何人も輩出したわけでもなく、山本太郎や福島瑞穂のように事実上の個人政党を統べているわけでもない彼は、なんでずっと党首の椅子に座っていられるんだ? ヘルムート・コールが25年にわたってCDU党首を努めたドイツであればいざ知らず、安倍晋三ですら10年も自民党総裁の椅子を温めることができなかった日本において、それはあまりにも異様で非民主的に「見える」光景だ。
もちろん、党内で綿密な議論を重ねた結果、たまたま有為な人材が連続して選出されているのだ、という主張をすることは可能である。自民党の世襲政治家の皆様も、有能な人材がたまたま息子だった、と言いたいことだろう。我が国には職業選択の自由があるので、それは一概に否定できることではない。そこで、党首公選が絶対に必要だとは思わない理由のその2になる。共産党の人びとがここ最近力説されているように、憲法には結社の自由が定められており、なおかつ、政党は党員による直接選挙で党首を選べ、と規定している法など存在しないのだから(政党内部の民主主義に関する法がないにもかかわらず多くの政党が党首選挙を採用しているのは、日本が成熟した自由民主主義社会であることの証左だと思う)、そんなもんは共産党の自由なのである。究極的な話になるが、神のお告げで党首を選ぶ政党があってもよいし、レスラーが立ち上げた政党であればリングで党首を決めたっていいのだ。嘘をつかずに「我が党は格闘や神託で党首を決めています」と言ってくれさえすれば、あとは国民の方で判断すればいい話なのだから(現に、「○○の息子でございます」と名乗った上で自由選挙で選ばれている世襲政治家は大勢いるわけで。そして世襲政治家であっても当選が保証されているわけではないことは、偉大なる田中角栄のドラ娘が見事に証明してくれた)。
レスリングやイタコで党首が決まる政党であっても、俺たちの利害を適切に代弁し、国民の自由を保障してくれるのなら一票を投じてもよい。非民主的な発想かもしれないが、少なくとも俺はそう思う。だから共産党にとっての真の問題とは、そのようにして擁護してくれる人の数を年々減らしていったことにあるのではないか。俺は、あんたらがフェミニストと手を組んでゾーニングだの何だのと喚き散らしたりしなけりゃまだ共産党に票を入れてただろうし、松竹伸幸を強引に追い出したりしなけりゃ、結社の自由戦士になって共産党を庇ってもよかったんだけどね。
私はsideMを主にやっているPですが、みんマス(スタマス・ツアマス)思想がマジで嫌いです。先日のツアマス発表でその嫌悪の感情がめちゃくちゃ増してきました。
何故かを端的に言うと「sideMの扱いが悪い」。裏を返せば「765デレミリを優先してる」とこが嫌いです。
「みんなまとめてアイドルマスター」なんて標語、「ブランド越境の代表作」であるはずのスタマスからsideMをハブってる時点で無意味でしかないんですが、まさかツアマスで同じ事を繰り返されるとは思ってなかったのでお気持ち長文を書かざるを得ない。
sideMは2020年からの新参なので、スタマス発表当時の各プロデューサーの怒りには遠く及ばないけど、にしてもこの穴だらけの展開で腑抜けた事抜かすなぁ…とずっとイライラしてきました。
その点ポプマスは本当に良かったと思います。ちゃんと実装ペースも展開順も平等に近かった。近いのであって平等ではない(本当に平等なら初期実装アイドルの人数は各ブランド統一すべきだったし、デレばっかりのターンがあったので)けれども、sideMをハブってないし特段扱いが悪いとも感じなかった。
ポプマスは残念ながらサービス終了してしまいましたが、「他ブランドのアイドルに興味が無かったからガシャを引かなかった」というまさしくサ終の原因でしかないプレイスタイルだったので罪悪感はあります。ただ、悲しいかなこのポプマスの結果がまさに「みんマスは無理」という証明に他ならないと思います。
結局普段からやっているブランド以外に大きく興味は持てない層が大多数だったから、ああいう結果に落ち着いたはずです。イラストやパズルゲームというフォーマットが好きだったので悲しくはありますが、同時に「そらみたことか」という感情もかなりありました。
今回のMOIW2023の席が最後まで埋まらなかった件も同様です。「どうせ765デレミリが主軸でsideMの扱いは悪いんだろう」という予想が先行して私は行けませんでした。これは私が単に一人で決めつけてるものとして、本当にみんマス思想が受け入れられてるならプレミアム先行→プレミアム2次先行→一般抽選→一般先行(当日券あり、埋まってない)という醜態は晒さなかったと思います。ライブ前に書いてるので内容がどうかは知りませんが。
結局5ブランドそれぞれが独立している以上平等な扱いも全員を好きになってもらう事も不可能なんだから、みんマス思想なんて合同曲程度に留めておけばいいというのが私の見解でした。何よりsideMの不遇な扱いをこれ以上見たくなかったので。
そこでツアマス。sideMは正規サービス開始時から追加だそうです。スタマスのモデルを流用してるので〜とか、sideMのモデルは新造しなければいけないので〜とか、もうこの言い訳が出てくる時点でみんマスなんておためごかしでしかない証左ですよ。「sideMは後回しでもいい」というのが運営の見解です。仮にツアマスのモデルが新規に作られるとして、その場合に765ASが後からなんてあり得ないですよね?アーケードという媒体も勿論ですが、みんマスを言い出した人達の根幹にあるものは765ASなので。
まあ後回しになる事に納得はしていないけど、やってもいないうちに批判するのは本意ではありません。アイマス運営に平等なんて期待していないので。ただ、描き下ろしカードを見て本当に苛立ちました。春香のカードとしてセンターが集合したものがあるんですが、当然のように輝がいない。
ああアイマス運営は本当にsideMを嘗めてるんだな、みんマス思想なんて上辺だったんだなと再認識させられました。先行プレイできる範囲にはsideMはいないから、先行で排出されるカードにもsideMはいない。そんな理由がまかり通るなら、やっぱりみんマス思想はカスです。早く「sideM以外まとめてアイドルマスター」に変えろよ。
何よりこの765デレミリの枠組みにシャニマスも巻き込まれてるのが本当に嫌です。765ASの直系というべきか、特別繋がりの強いデレミリと違って、シャニは完全に分断されたコンテンツです。アイドルマスターとの繋がりなんてタイトルと合同曲くらいしかありませんよ(そのタイトルでやってこられたのは事実ですが)。
頼むから「みんなまとめてアイドルマスター」なんていう詭弁でしかない上っ面の標語を今すぐ捨ててくれ。もしくは捨てなくていいから合同曲だけ作っててくれ。765デレミリが主軸のアイドルマスターなんていう沈みかけてる泥舟にsideMとシャニを巻き込まないでくれ。誰も喜ばない越境なんてしないでくれ。
今すぐみんマスを捨ててくれ。
2023/4/4追記:これがみんなまとめてアイドルマスターの結果ですか。沈みかけている船から真っ先に捨てられる荷物がsideMとは思いもしませんでしたが、とりあえずバンナムを一生憎んで生きていきます。
イエレン氏はABCテレビとのインタビューで、「インフレ率は著しく低下し、景気は強さを維持するという軌道を想定している」と発言した。
米消費者物価指数(CPI)の伸びは昨年6月に前年同月比9.1%上昇でピークを付けて以降、12月には6.5%に鈍化した。これについて、イエレン氏は「依然として高過ぎる」とし、これを引き下げることがバイデン大統領の最優先事項だと話した。
イエレン氏は景気モメンタムの証左として力強い雇用統計を挙げ、「50万の雇用があり、失業率が約50年ぶり低水準となっているときに、リセッションは起こらない」と語った。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-02-06/RPNVIRT0G1KZ01
そもそも同性婚を主張する人はなぜ「結婚」という状態にこだわるのか考えてみた時、本邦における「結婚状態」には少なくとも2つの期待がかかっていることに気づく。仮にA、Bと整理しよう。
現在 or 近い将来に子を持ち、次世代を育む意志を持っていることを確認する機能。
この機能はそのペアが政府・社会から出産や子育ての支援を受けるに値するか確認する場面で使われる(ここでの支援には、配偶者控除や扶養控除、生まれた子に社会が出費することも含む)。国という組織が、自らの末長い存続を所与とするのであれば、これを実現する認証手段としての結婚を制度化し、彼/彼女に支援することは合目的といえる。
互いがパートナーと扱われることを望んでおり、現に権利や義務を共有する共同体であることを確認する機能。
この機能は、他者が「その二人を共同体と見なせるか」を確認する場面で使われる。保険や医療、不動産関係がイメージしやすい。また、高度に契約社会と化している現在では、公的私的問わず簡易にこれを実現できる手段を国が運営することもまた合理的と言える。
-----
問題なのは、結婚という枠組みがAもBも成してしまっているが故に、Aだけ使いたい時にBが、Bだけ使いたい時にAが邪魔になる場面があることである。
例えばAの機能をより大きく捉えている人にとっては、同性婚は納得し難いだろう。その認識において「結婚状態」にある「夫婦」は公的な支援や優遇を当然に受ける。その上で同性婚ペアは異性婚夫婦よりも「次世代を育む意志を持っている」期待値があまりに小さいからだ。なお「異性婚でも子を持たないケースがある」「同性婚でも養子を設けるケースがある」という反論が考えられるが、それはあくまで期待値の大小の問題であって、より期待値の高い異性婚にベットしない理由にはならない。
対してBの機能をより大きく捉えている人にとっては、同性婚を(また近親婚さえも)認めないことが不合理に見える。彼/彼女がBを行使する場面は概して手続きにすぎない場面であり、そこで受けるベネフィットは出産・子育て支援のそれよりも極めて小さく、社会的なデメリット(出費)が見当たらないからだ。
以上のように捉え、結婚の制度からAを取り除き、Bの機能へシュリンクすることを考えてみたい。ちなみにBではなくAを取り除くのは、利用する場面が多いであろうBの機能に、使い慣れた「結婚」という言葉を当てがいたいだけであって、本質的にはどちらを取り除いても以降の検討は崩れない。
「結婚」した状態がBの機能を持ちAの機能を持たないようになった社会では、結婚したペアへの優遇は行われないだろう。扶養控除などもなくなる。結婚はあくまで2人の関係性を確認したものであって、そこから「次世代を育む意志を持っているか」は確認できないからである。「次世代を育む意志」を確認できないペアに、次世代再生産を名目として支援や優遇は当然行えない。
対して、次世代とは関係のない場面、例えば「片方の病状を他方へ開示して良いか」「片方の保険金を他方へ支払って良いか」「両者の年収を合算し支払い能力とみなせるか」というような「2人を共同体とみなしうるか」が重要な場面では、引き続き結婚という手続きが重要視される。
この時、同性婚や近親婚を結婚の枠組みに入れるハードルは下がるだろう。そのペアが子をなすかは関係ないし、なした子の遺伝子がどうという議論も当然埒外になる。副次的な面として、選択的夫婦別姓へのハードルも同時に下がると思われる(別姓の問題の一つが「子の氏をどうするか」)。
そのような社会でも、出産・子育てに対する支援は行われる必要がある。(国が自らの存続を目指すことは所与と規定したから)
現代日本での「結婚」の枠で行われていた、次世代再生産への期待に免じた優遇は、特定の要件を満たしたペアに対してのみ行われる「出産・子育て支援事業」へ統合されるだろう。
つまり単にペアに「近い将来に子を持ち、次世代を育む意志があるか」を確認し、満たせば支援するという単純な構図に落とし込むことができる。要件をどうするか、という議論は当然起こるが、現在日本での「結婚とは何か」という議論よりは容易に解けるだろう。なんなら「実際に子がいる証」や「実際に不妊治療をおこなった証」を要件にすれば、より方程式は簡単になる。
現に、内閣府が行う結婚新生活支援事業の対象は「39歳以下」に限定されている。要件=対象=目的をフィットさせるだけで済む「事業」とすれば、問題が簡単になることの証左と言えるだろう。
こうして、「結婚」は2人の人間の関係性だけを規定する枠組みとなり、次世代再生産とは切り離された。
有史以前からある結婚の観念、すなわちつがいとなることと生殖することを同一視する観念が消えてしまい宗教保守層は嘆いたというが、それ以外の大多数は自分が損をする変更とは捉えなかった。
また契約や法律の要請によって「共同体として扱われる証明」を欲していた同性/近親カップルはニーズを満たせることとなった。さらに「出産・子育て支援事業」は、真に対象とすべき人へより多く届くようになった。なんらかの理由で特定の人物と共同体が組めない人(シングルマザー/ファザー)であっても事業の対象となったことは、喜びを持って迎えられた。
一部の企業や団体では、自治体が認証した「同性パートナーシップ」をもって、共同体とみなす動きがある。まさに結婚のBの部分だけを切り出そうとする試みだろう。しかし社会への広まりのスピードは緩く、やはり結婚自体の意味合いを変えてしまった方が手っ取り早いと思う。
同時に「同性パートナーシップ」は夫婦同等とみなすが、内縁関係の異性は夫婦同等とはみなさない、というねじれ現象も生じている。筆者はまさにこの状態に身をおいていて(夫婦同姓を避けるため婚姻届を出していない)、弊害を食らっている。
直近、子供を作るつもりがなく社会の維持に役立たないので、国から優遇されたいという思いは一切ないのだが、パートナーとの関係を大家や保険会社に証明する手立てがなく困る場面が多い。
あらためて。コラボ騒動についての自分の問題意識は以下の三点にまとめられる。
つまるところ、社会的弱者にしわ寄せが行くということは、結局その社会全体がうまくまわってないことを意味する。
少なくとも行政の機能不全の証左ではある。そして民間有志による補完的なアクションの不発の。
NPO等の団体のレベルは、その一国のレジリエンスを表す指標であると言えるだろう。
新人の女性自衛官という立場のものにしわ寄せが行くということは、つまりどういうことか。
コラボに感じたのは「それで本当に若年困窮者が救えるのか」という危惧だった。
この場合の危惧は「それで本当に国が守れるのか」というものだ。
もはや中国が冒険主義を隠しもしないこのとき、我らが国軍(敢えてそう言う)がこんな状態でいいのか。
軍隊でチームワークは文字通り死活的に重要なはずだ。規律の徹底ぶりは精強さを表す指標である。
その意味で五ノ井氏の法廷での戦いを断固支持する。改善のきっかけになることを願って。隊員ではなくなった彼女は、国の守りの仕事を継続中であるのだと思う。敢えて言うなら「真の国士」である。
五ノ井氏に対して「野党の紐付きなんだろう」とか「まだやるのか」「そんなに金が欲しいか」といった礫を、というかうんこを投げる者らの頭蓋には何色のピーナツバターが詰まっているのだろうか。
私がいろいろな時事ネタ、社会問題にふれて、結局多くの場合に共通して思うのは「民主主義をちゃんとやろうや」ということだ。
額面通りに。少なくともそれに近づけようとして。「動機が正しければ良い」でも「結果オーライなら良い」でもなく、手続きとしての正しさということにシビアであろうとしようや。
その点においては本来右も左もなく協力できることが沢山あるはずなんだけどな。
https://anond.hatelabo.jp/20230126120356
生物学は専門じゃないので、間違いがあったら指摘してもらえると嬉しいです。
生物として当然のことではないです。
例えば、若いメスよりも年上のメスが好まれるケースがよくあります。なぜなら、子供を産んだ経験がある = 子供を産むことができる からです。せっかく伴侶を持っても子供が生まれなければ繁殖機会を失ってしまいます(ちなみに、私の妻は不妊治療でようやく子供を授かりました)。それに子育て経験があるのも強いです。
またハーレムを持つ動物、つまりオスが強い権力を持つ動物において、メスがハーレムのオスに惚れているかというと、実はそんなことなかったりします。時々若いオス(経験豊富なハーレムのオスより弱いです。)が近寄ってきてメスにちょっかいを出しますが、メスもこれを嫌がりません。
つまり、「若くて容姿の良い女性」を選ぶことは "合理的" ではないですし、女性が「裕福で権力を持つ男性を好む」とは限りません。(そういう傾向にあるのは実感できますが、生物としての "正しさ" みたいなレベルではないです)
食うに困るような原始時代では、容姿が良いということはちゃんと食べることができていて持病もなく健康であることの証左であるからだ。
狩猟採集生活は平等な社会であったと言われ、獲物はみなに分け与えられました。狩りが上手でも食料は多くもらえません。女性からもてる条件が狩りの上手さだった可能性もありますが、踊りの上手さだったかもしれません。
これを「性淘汰」と言って、これはおっしゃる通りです。鹿もそうですけど、こいつらはかなり極端ですよね。人間の女性だと腰のくびれは性淘汰の結果だと言われます。
男性は若くて容姿の良い女性を好み、女性は裕福で権力を持つ男性を好む。
この傾向は原始時代から変わらず、遺伝子を残すという意味で合理的な行動でもある。
男性にとって望ましいのは、自身の子どもをたくさん産んでくれる健康で若い女性を伴侶にすることだ。
そこで容姿がどうかかわるのかと言えば、食うに困るような原始時代では、容姿が良いということはちゃんと食べることができていて持病もなく健康であることの証左であるからだ。
その一方で女性にとって望ましいのは、自身の子どもを安心して育てられるだけの食い扶持を稼いでくれる男性を伴侶にすることだ。
原始時代では獲物を獲ってくれる強さが重要だったし、農業が始まってからは社会の上に立って収穫を多く手にできる権力があるかどうかが重要になる。
背が高い、声が低くて良い、自信を持った振る舞いなどは、強さを幻視させてくれるために、女性が好む要素となっている。
こういう男女の好みは社会的に醸成された要素というよりは遺伝子的に刻まれたものではないかと私は思う。
孔雀の雌が綺麗な羽根をもつ雄を選ぶのは、綺麗な羽根を維持できる雄は健康で強いことの証左だからだろう。
それと同じように、若くて容姿の良い女性や強くて稼げる男性が好まれるのは、人間の遺伝子に深く刻まれたものなのではなかろうか。
第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。
マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。
数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。
これらの人物に共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論や公式の発見者かどうかということに過ぎない。
特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代の人物は数学者でも知名度が高い人がいることになる。
ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。
高度な現代数学でも岡潔や望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。
岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分のコネを使って論文を掲載させたこと。
そういう生き様のセンセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。
ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすいラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要と価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。
ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者の土俵はもっぱら実験や実証のなかにあると思う。
実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。
もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。
一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。
理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文が理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである。
理論の構造自体も目に見えるようなわかりやすい因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから、知識の欠落がなかったとしてもその理解は純粋に難しい。
しかし高度な論文の作成はその先にあるのだからこの数学の研究というものは果てのない作業なのである。
望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである。
そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。
ようするに現代数学者は天才である。あの手の分野の数学者は受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっとも現代数学者の絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合の問題なのであろうけど。
そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。
私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。
だから劣等感の元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。
彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか。
あるいはこういうことなのかもしれない。既存の知識を理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。
つまり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。
現代数学者にチョムスキーの生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単に理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれて言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論を創造できたのだろうか。漢字の世界で白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史の巨人になれただろうか。
理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論の創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるものは量化などもちろんできない、一種の特殊能力なのではなかろうか。
数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。
コペルニクスだったかは海上の水平線で帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史上最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまりは理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかいう論説委員の本に書いてあったと思う。
本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人が発見した事実をベースに論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。
ただしコペルニクスやデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときのインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。
しかしできないのだとしてもそれは役割の問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀のイギリスでは優秀な人間は天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。
学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感のセンスで決まると認識があった証左なのだろうか。
そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。
そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者が一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。
まあそれでも既存の知識を理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論を提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものがあるかな、ノー勉で東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。
dorawiiより