はてなキーワード: 芸術的とは
今回の衆院選で自民党以上に厳しい状況に追い込まれた党がある。
公明党の候補に投票する人ってのは、個人的・組織的なつながりがある人たちを除き
ほぼ例の宗教団体の構成員であるということは、公然の秘密である。
共産党と並んで老衰による信者の減少が響いた党ともいえるだろう。
それにしても信者の老齢化による減少を加味しても今回の結果は厳しい。
そこで思い出した。
もしかして最近、公明党は戦略上最も重要な人物を失ってしまったのではないのだろうか、と。
創○○会を支えている「票割りおじさん」の存在を。
各地の調査結果と信者の実数から、どの地区の候補者に何票割り当てるかを鉛筆ナメナメ決め、
そのおじさんの指示に従うことで最高の効率で当選議員人数を増やすという選挙職人がいるのである。
だが、少し前に聞いた話では、すっかり高齢になってしまったものの、
ただ芸術的な票割りはあまりにも職人芸過ぎて後継者がいないという話であった。
もしかしたら票割りおじさんがコロナか何かでぽっくりと逝ってしまったのかもしれない。
R.I.P.
票割りおじさん。
その名は歴史の闇に消えていくんだろうが間違いなく戦後日本を裏で動かす偉大な男であった。
まだ生きてたらゴメン。
俺の一番の長所は運の良さで、幼少期から35歳の今までずっとツイてきた。
なぜだか分からないが、本当にずーっと人生に追い風が吹いており、思い返すと不思議なほどにツイている。
俺ほどに強運が継続している人間は日本にほとんどいないと思うし、運の良さで生きてこれたので自慢したい。
長い文章だが、とにかくずーっとツイているので長くなるのは仕方がない。
夏目漱石の「坑夫」という小説に、主人公たちの腹が減ったらたまたま近くに飲食店があり「大袈裟に云えば天佑である」とコミカルに述べた部分があって妙に印象に残っているのだが、俺の人生はまさに天佑の連続なのだ。
理由としては概ね以下の3点
②同様にキモいブクマカみたいな連中が面倒なトラバをつけたり返信でレスバ状態になっていた
③「増田のこれは◯◯なのでは?」と個人情報などを特定しようとするキショい人間が出没した
③はしょうがないと思う
多分言ってる本人もそんなに悪気は無さそうなケースもある
こちらも多少フェイクは入れてるが万一の事もあるから少しでも特定される可能性があると即削除せざるを得ない
それぐらいギリギリの事を書かざる得ない感情が文章に乗るのか、そういった増田はバズりやすい
世間に向けて発信している以上、アンチ的な反応や自分の意に沿わない反発が返ってくるのは多少織り込み済み
けどマジでキモいブクマカの見当違い過ぎて最早芸術的なキモすぎてキモいコメントは本当に無理で嫌悪してしまう
「ねぇあんた、本当に文章読んでこのコメントしてるの?」と言いたくなる様な、どうしようもないブクマカコメントがつくと
書いた文章すら何かキモくなるというか汚された感覚や、こんなキモい連中に関わりたくねーわという思いが強くなり、バズっても増田を削除してしまう、という流れになる
そしてそういうキショ過ぎるコメントを残しているブクマカは大体同じ様な連中だったりする
汚言症の様なコメントを日柄連投している輩なんだから、いい加減運営も迷惑ユーザーとして対応すべきだと思うんだけどな
増田が削除されたのを見て「ほら、俺(私)の言う事が正しくて図星だったから削除したんだろ!?ブックックwwwwwマカカカッwwwww」とかイキってんだろうけど
もう本気で関わりたく無い接点を持ちたく無いからせっかく投稿した増田を削除してまで逃げ去られてるのに、それすら分からずに勝利宣言してんだから
まともな人間関係築けて無さそうなリアルモンスター感が強すぎて本当に気持ち悪いんだよね
「まさに」という輩がマジギレしてて草も生えないんだけどさ
「キモい」「気持ち悪い」とかは汚言症の様なコメントを連投している迷惑ブクマカが普段からやってる事では?
自分を棚に上げて平然としてるその倫理観の無さが嫌過ぎて嫌なんだよね
人間ってここまで厚顔無恥になれるのかと思うとこっちまで共感性羞恥になってくるよ
個人的にはキモい、ってオブラートに包んでたつもりなんだけどな
言語化すると、バズった増田にまともに文章読んでない様なゴミの如きコメントをつけてくる輩ってさ
多分だけど昔から勉強だけはそれなりにやってて、でも結果があまり伴わないからせいぜい中の上ぐらいの成績で、別に恵まれない家庭な訳でも無いのに学歴も大した事無くて
基本的にコミュ障気味なので就活でトラウマになるぐらい苦労して、やっと就職したものの仕事があまり出来ず会社からもあまり評価されなくて、職場からは「無口で何考えてるか分からない変な人」扱いで軽んじられていて
一見すると真面目で大人しいタイプだけどその内実は他責性が強くて、実際はそんなに真面目でも無くサボり癖があってそれを隠せる要領の良さも無い人間だから周囲の人間からの評価も良くなくて、その結果恋人どころか友人すらロクにいなくて
その癖自己顕示欲だけは強いから周りのオタクとか見下してたりするけど現実はそのオタクにすらなれなくて、アニメや漫画にもそこまで関心が無いから「キモオタ」ですら無いだたの「キモい人」なのが客観的な評価で
強すぎる自己顕示欲と冴えない現実からの鬱憤を唯一満たしてくれるのが匿名掲示板やSNSで「それっぽい」政治や思想語りをする事で、しかしそれすらも自分で考える知能も情熱も無いからどこかの誰かのコピペ丸出しで
そんな連中の臭くて歪んだ自己顕示欲を満たす為に自分の増田にネチョネチョした気色悪いコメントを残されると本当にゾッとするから消している、みたいな感じになるけどさ
人生のどこを切り取っても愛される側面や優秀な部分がどこにも無い様な奴でも出来る「ネット荒らし」行為でイキってオナってるのに付き合いたく無いんだよね、マジで
黒い虫を見かけた時や、通勤時の電車でたまに見かけるあーうー独り言言ってる坊主頭の◯的障害な人を見かけた時の様な、得体の知れない気持ち悪さを覚えてしまうんだよ
(追記)
こんな文章が、思ったよりもバズってびっくりしたので、ツイッターで「フレンチ自作沼(アカウント名は@French_jisaku)」というアカウントを作成しました。
フレンチ自作界隈の人がいたらフォローしてもらえると嬉しいです。
おおよそ素晴らしいことが書いてあるけど③だけ解像度が低い気が…というのも、料理というのは基本的には科学と同じで味に再現性を持たせる必要があり、そのためには分量を正しく理解し守る必要がある(この分量の正確さをレシピなしでも把握できているのがプロ)。その上で、③では"短時間だとミスった時のリカバリができず"とあるけど、正確な分量を計って料理をすれば大きな失敗はなく連鎖的に料理が崩壊することはまずあり得ない。短時間の作業でのミスとして、例えばイタリアンならカルボナーラの卵に火を通し過ぎる等の失敗はあるかもしれないが、少なくともそれで全体が大きく崩れることはない。
”崩壊”という表現は強かったな、というのと、単に私がインド料理や中華料理にそこまで沼ってないからかもしれません。
これを書いた時に脳裏にあったのはスパイスのテンパリングでした。スパイスのテンパリングは、スパイスごとの香気成分抽出温度がすごいシビアかつ、そこをのがすと苦い種になってしまうという実感があったので、テトリスに近いな、という印象を持っていました。
イタリアンのパスタの場合も、フレンチに比べると複数行程同時並行かつ短時間で仕上げるので、ルポゼの間にソースを仕上げればOKのフレンチよりはシビアな印象がありますね。
お客さんに作り方聞かれても説明できないよ
フレンチを作り始めればわりと用語は覚えるかな、と思ってます。なぜなら私がそうだったからです。
動画を見て、レシピ本を見て、実際につくっていくうちにミジョテとかシノワ、パッセ、タミゼ、クラリフェ、リソレ、アセゾネとかその辺の頻繁に出てくる用語は自然に覚えるんじゃないかなと思っています。
なので、これを読んだ人はあまり気にせずにフレンチを作るところから始めてもらえると嬉しいです。
別に店に行ってシェフに話しかける必要だってないです。多分作ってると店にはいきたくなるとは思いますが。
日本の一般大衆にレストランのフランス料理を作ることなんて勧めるもんじゃない
勧めるなら家庭料理
一生ものの沼としてのフレンチを紹介したかったので、家庭料理を入り口にするアプローチはやめました。
まず家庭料理だと、プロの味を食べて自作との差分を楽しむことができないのが一つ。
あと、ミクニさんのレシピもそうですが、基本的には短手番なレシピが多いので、時間が溶けていくような趣味にはならないかな、という理由もあります。
あと、誤解なきようにお伝えしておきますが、自作をどこまで極めてもプロを超えることはないです。
理由は三点あって、
①そもそも調理技術で絶対にかなわない:せいぜい二か月に一回作る素人と、365日作っているプロではまったく比較にならない技術差があります。
②フォンやソースは大ロットで作ったほうが美味しい:ソースやフォンの味と仕込む量は比例するため、一回に10L仕込むプロと、せいぜい1Lしか仕込めない素人では味に差が出ます。
③入手可能な食材品質に差がある:プロが扱う品質の食材を一般人が入手することは極めて困難です。例えばジビエ。プロは契約した猟師さんから送ってもらえますが、素人は楽天で買うしかありません。魚もピンのもの(例:分厚いアマダイ)は素人向けには販売していません。
ただ、あくまで趣味なので、プロの味を超えられなくても、何ら問題ないと思っています。
藤井くんに勝てると思ってやっている将棋沼の住民はいないでしょうし、ツールドフランスに出場できるとおもっているロードバイク沼の住民もいないでしょう。
(本文)
https://anond.hatelabo.jp/20240925202106
元記事はこれ。この増田、ならびにこれを読んで高い飯を食ってみたいなーとおもった人に、全力でフレンチを薦めたい。
それも、ただお店に食べに行くのではなくて、
という楽しみ方を紹介したい。
・この楽しみ方はある程度の自炊スキルがあることが前提となる。
・具体的には、包丁を多少扱うことができて、強火と弱火の違いが判る、大さじや小さじの意味が分かる程度には自炊ができる人向けのエントリである。
・お店で出てくるような、ある程度本格的かつ王道なレシピのほうがよい。
・具体的には牛肉+ソースボルドー(赤ワインのソース)とか、真鯛+ソースヴァンブラン(白ワインのソース)くらいから始めるとよい。
・あまりシンプルなレシピすぎると②の楽しみ方ができないため、「簡単!おうちビストロメシ!」みたいなのは避けた方がいい。
・具体的には以下の二つのYoutubeチャンネルを見ることから始めるとよい
George ジョージ https://www.youtube.com/channel/UCP2gnyy_-ToZeIDw6qeI6HA
Bocuse at Home by シェフ星野晃彦 https://www.youtube.com/@bocuseathomebyteruhikohoshino
・複雑な料理も避けた方がいい。具体的にはパイ包みやパテ系の死ぬほど複雑で構築的なメニューは、最初は避けた方がいい。100%失敗するのと、複雑すぎてどこが失敗したのかが切り分けできないので。
・①で自分の作ったメニューと同じものを実際に食べに行こう。①の答え合わせの感覚だ。
・いきなりロブションとかのハイエンドなグランメゾンに突っ込むのではなく、ランチで5000円程度の店に行くのが無難。
・なぜならば、この段階ではフレンチへの解像度が低すぎるため、グランメゾンのフレンチを食っても、値段相応のよさがわからないから。
・実際にプロの作ったものを食べるといろいろな気づきがある。なぜなら自分で作ったことがあるので、解像度が段違いになっているから。
・ほとんどのケースでは、プロが作ったもののほうが圧倒的にうまい。なぜか考えるのがこのパートの楽しみ方だ。
・例えば真鯛のポワレ、ソースヴァンブラン(白ワインのソース)を食べたとする。「自分でやると身がぱさぱさになっちゃったな……。火入れの仕方の違いなのか、鯛のポテンシャルの違いなのか、何が違うんだろう。鯛を見た感じ、身の分厚さは変わらないから火入れの仕方が違うのかもしれない。ソースもとっても香りが豊かだな、なんかハーブを入れているのかな……。ソースにはかなり酸味をつけているな、自分でやるときもこれくらい酸味をつけてみるか……。」みたいなことを考えながら食うと、漫然と食べているよりも圧倒的に美味しく感じる。
・厨房が激しく忙しいとき以外は、「とっても美味しかったです。もし可能なら、シェフに話を聞きたいんですが……」といえばだいたいシェフに話を聞ける。
・自分が美味しいと感じたポイントと、どうやってそれを実現しているのかをシェフに尋ねてみよう。③で自分で分析した内容の答え合わせをするのだ。
・鯛はどう火入れしているんですか?(フライパンだけ?フライパン+オーブン?)とか、聞きたいことは山のように出てくるはず。
上記①~④を繰り返す。最初は比較的難易度の低い料理から始めて、だんだんと複雑な料理にステップアップしていく。
多分二年くらいやってから、いわゆるグランメゾンにいくと、その高度な技術と美味しさ、芸術的なまでのアイデア力に感動するはず。
この項目では、なぜカレーでも中華でもイタリアンでもなく、フレンチをオススメするのかを説明したい。
・上にはったYoutubeチャンネルを見てもらえばわかると思うが、ソースから自分で仕立てるとなると、平気で二日三日かかる。
・段取りの設計→材料の調達→下ごしらえ(ソースベースの作成、肉のマリネなど)→仕上げ(火入れ、付け合わせの作成)で、週末まるまるつぶせたりする。
・しかも待ち時間もそれなりに長い(ソースベースの作成時など)ので、ネトフリも捗る。
・フレンチはそもそも、エスコフィエとかいうオッサンが100年以上前にフレンチの技術やレシピを体系化し、公開したことで爆発的に広まった料理(いまでいうオープンソース化)。なので、他のジャンルに比べると圧倒的に体系化されていて学びやすい。
・また、日本はフレンチ大国なので、日本語のソースも非常に多い。大型書店で、料理コーナーにいくと、和食の次くらいにフレンチの料理本が充実していると思う。
・他ジャンルに比べると、中級者に進むときの勉強のしやすさが段違いである。例えばカレーや中華にハマるオッサンは多いと思うが、この二つのジャンルは食文化のゆたかさのわりには日本でアクセス可能な学習ソースがきわめて少ない。初級レベルでは問題にならないのだが、深めようとしたときには、日本語文献の乏しさに加えて、そもそも体系化されていないので、学習難易度が跳ね上がる。
・作るときの深めやすさに加えて、食べるときの深めやすさも段違いである。フレンチをやる人は大体みんな調理学校で基本的な調理技術を身に着け、それなりのレストランで就労しているから、安価なお店でも高価な店でもベースとなる技術は同じ場合が多い。
・例えば鮨の場合は、2000円の回転ずしと二万円の鮨では全然別の技術が用いられている。根本的に握り手のキャリアルートが違うからである。2000円の回転寿司はバイトがロボットを操作して握るし、二万円の鮨は専門的な店で修行を積んだ職人が握るのである。一方でフレンチの場合は二万円の店で働いていた人が独立してビストロやって2000円のランチをだしていることは余裕でありうる。
・だが、他ジャンルに比べると美味しい味を作りやすいと感じる。
・これはA.多数の工程を時間をかけて積み重ねていくという調理プロセスと、結果として、B.足し算の料理である、ということに起因する。
A.多数の工程を順に組み合わせていくという調理プロセス:例えば中華(特に四川系)やインド料理、イタリアンは多数の工程を短時間で重ねていくことがおおい。短時間だとミスった時のリカバリができず、連鎖的に料理が崩壊していくことになる。ゲームとしてはテトリスとかぷよぷよにちかい。一方でフレンチの場合は一個一個の作業を丁寧にこなしていけばそれっぽいものができあがる。こっちはマインクラフトっぽい。
B.足し算の料理:フレンチは味の要素が多い。肉のうま味や、ワインの酸味、甘味、バターの脂質やハーブの香りを積み重ねていく料理である。そうすると必然的に美味しさのストライクゾーンは広くなる。食材の持つうま味も苦味も臭みも、すべて一皿に詰め込むのがフレンチの基本思想である。これが和食だとどうか。和食は徹底して引き算の料理である。食材の持つ性質のうち、客に見せたい部分以外をすべて除去し(野菜をゆでこぼすのとかね)、組み合わせるのが基本思想である。味の要素が少ない分、ピントを合わせるのも非常に難しくなる。引き算に失敗したり(例えばえぐみが出るとか)、そもそも見せたい部分を間違えてました、とかね。
・調理学校のカリキュラムとかを見てもらうとわかるけど、大体西洋料理と和食に分かれていて、西洋料理の技術のベースはフレンチである。
・フレンチを一通りやると、肉や魚の火入れも格段に上手になる。小麦粉を使ったルーが使いこなせればシチューやカレーも簡単に作れるようになる。ソースオランデーズが作れればカルボナーラはお手の物だ。
・スタートキット編の楽しみ方を一年くらい続けていると、一通りのものは作れるようになっているはず。
・具体的には、肉の火入れは肉を触ればわかるようになるし、魚も皮をパリッと焼くのはお手の物、くらいにはなっているはず。なんとなく手癖でソースボルドレーズとかソースヴァンブランくらいは作れるようになっていると思われる。
・そこから先にステップアップするなら、プロ(の中でもレジェンドシェフ)の書いている本を読むのが一番よい。
・レジェンドシェフの料理本を読む→作る→お金をためてレジェンドシェフの店に行く→もう一回作る、を繰り返せば無限に時間が溶けていく。
・基本的には近所の大型図書館(住んでる自治体の旗艦図書館)にいって、フレンチ料理本コーナーで厳つい雰囲気を出している奴を手に取ればOK。
・僕のバイブル
・アランシャペルの下で長年働いていたこれまた有名なシェフ。シェフの間でも当初をバイブルに挙げる人は多い。
・辞書的に使うのもよい。また、一個一個ソースを作ってクリアしていくだけでも楽しい。
みんなもフレンチ、作ってみような。
ネットで見かけた、「自称」音大ヴァイオリン卒という人が言ってた話ではあるんだけど。
彼曰く
「チャールダーシュは自由度が高く奏者がいくらでもアレンジできる曲で、実際余興として弾かれるケースが圧倒的に多い時点で本格的なクラシックじゃないので、それを以て奏者のクラシックの演奏能力は測れない」
だそうだ。
いや、チャールダーシュはロマ音楽をリスペクトした作品であって、それはそれでどう弾くかは入念な考察が必要なわけで、自由度が高いなんて解釈は雑もいいところ。
だいたい、それだったらジャンルを同じくするスペイン交響曲やチゴイネルワイゼンだって、本格的なクラシックじゃないという話になるんじゃねーの?
と思ったら、その2つは難易度的な観点(チャールダーシュのほうが遥かに簡単かつ、上の2曲は音大受験レベルの難しさ)から、本格的クラシックなんだそうな。意味わかんねー。
とはいえ現実には、プロほどチャールダーシュを悪い意味で余興的なスタンスで弾くことが非常に多くて、そうやって弾かれたチャールダーシュは、残念ながらどれもこれもセンス的に微妙過ぎたり。
まあでも「それを以て奏者のクラシックの演奏能力は測れない」んだったら、好き勝手に弾いていいってことなんでしょうね、どうにもがっかりですわ。
音大卒しかもヴァイオリンとなると、それこそ音大入るまでに比喩でも誇張でもなく、文字通り「百万回さらってきた」人たち。
その時点で誰もがその場所に立てるものじゃないどころか、それを生き抜いてきただけでとんでもなく凄いと思う。
だからあんまりそういう立ち位置の人をdisることはしたくないんだけど…それにしたってあまりにレベルが低すぎないか???
アレか?音大はクラシックを本格的かそうじゃないかを、曲の難易度だけで選別するのが教育なんですかね??実に芸術的で頭が下がりますね。
そんなんだったら音大なんて行かなくて良かったって心底思うし、悪いけど「音大なんか行くもんじゃない」って周りに言いふらすことにさせてもらうわ。
音楽は好きなんだけど、サブカル寄りの人間だから、いわゆるJ-Popや流行り曲は日頃全然聞かない。
でも去年色々あってめちゃくちゃ落ち込んだとき、流行の曲(米津玄師とかVaundyとかYoasobiとかマカロニえんぴつとか)(このラインナップがどのくらい的確に「メジャー感」を捉えてるかもいまいち自信がないくらいには疎いんだが。っていうかこのミュージシャンたちを好きな人はごめん。)の存在にめちゃくちゃ助けられた。
カルチャーのマニアにとっては意外で、アーティストにとっては皮肉かもしれないが、感情の繊細なひだに入り込んできて「自分のために作られたんだ」と感じられるような芸術的な作品体験は人の心を癒すどころか、かえって人の精神をさいなむことがあると私は思う。なぜか。それらは自分という「個人」のもつ考え、感じ方から自分自身を解放してはくれないからだ。むしろそれらを「意識し続けろ」と要請する。芸術作品が伝えている含蓄を咀嚼できる程度には余裕があり、繊細であることを強要する。むろんそれができるのが芸術作品の素晴らしさだとも言える。でもそれがつらいのだ。ごめん芸術。
一方、いわゆるヒット曲は私にとって、自分の生とは全く関係なしに鳴り響いている自然現象みたいなものに近い。それは自分の繊細な感情や言い表せない感情の機微などお構いなしに流れ続ける。変に気持ちに寄り添ったりせず、肯定したりせず、何も心を動かさない(少なくとも私は)。そして自分の生の細やかさに関係なく動き続ける巨大なシステムや、社会という幻想の共同体の中に、うやむやに自分を紛れ込ませてくれる。その徹底的な無関心さによって、むしろ包摂される。そのことに救われたのだった。
バンクシーの「ナパーム弾の少女」withミッキーのツイ見たが,ロリコンとしてこれに意見が一つある.
少し前にどっかが「ナパーム弾の少女」を児ポだとして規制して,それに対して多くの「まっとうな大人達」が抗議してたわけだが,僕はそれこそが児童ポルノに対する本質的なエゴやと思う.
僕のようなペドにとって,そもそも「ナパーム弾の少女」はかなり魅力的や.つまり低俗な言い方をすれば抜ける.
あれ一番有名なのは真正面から遠目に撮った写真だが,実は他にも何種類かあり,中には全裸のロリに大分近づいた,それこそ割れ目とかもくっきり見えるほど近づいたものもある.
正直エロい.
なので僕はこの話題に対して理性的に論じるなら,当然「ナパーム弾の少女」はネットから抹消されるべきやろう.ほかの児ポがそうなっているように.
ただそうはなっていない,ただ報道写真として価値があると言うだけで.
具体的な名前はださんが,エロさよりもその芸術性が高い作品はいくらでもある.
もう一つは児童を性欲の対象として見る風潮,つまりは社会的法益
なるほど確かに「ナパーム弾の少女」は「善良な人たち」にとって児童を性欲の対象として見ることにはつながらないだろう.たぶん.あいにく僕はそのような人たちでは無いから推測にしかならないが.
しかし本邦においては児ポの要件に実在性をおいている,つまり僕がcomic loを持っていても逮捕されないことからもわかるように,児童ポルノ規制は対象児童の個人的法益の保護を重視しているのは自明だろう(無論法規制はより複雑なプロセスを経ていることを前提にして)
では,「ナパーム弾の少女」は他の児童ポルノとは違い被写体を保護していると言えるのか.否だ
ベトナムで,戦禍に見舞われ,命からがら逃げている写真を,先進国の人々が何十年にエアコンの下でネットサーフィンをしながら見ている現状は,とうてい彼女を保護しているとは思えない
彼女に写真に撮られない選択肢がなかったとは思えない.そもそもそんな判断すら出来なかっただろう.
女性の写真家に,自由意志(未熟者に自由意志がないといえばそれまでだが)で,十分な対価をもらってヌードを提供し成立した児童ポルノより,「ナパーム弾の少女」が健全だとは到底思えない
結局のところ,「ナパーム弾の少女」は「高尚」だから存在を許されているに過ぎない.
高尚だから,「善良な人たち」はそれを性欲の対象としないから.
ただ自分たちが善良で清廉で正常であるために,「低俗」な児童ポルノは規制し,「高尚」なものは残す.
その気が無くともついつい道行くこどもを視姦して,あわよくばロリとがっちゃんこすることを望んでるのだから.
ただ,異常者の一人として,「善良な人たち」にたいしてとても腹が立った
真に芸術的なものというのはそれぞれの人の心の中にあり、そこに「自由な精神の発露」があれば芸術たりうる。俺はそう強く思っている。
芸術の枠なんか拡張しなくても触れた人がそれを芸術的だと感じれば、あるいはそういう心持ちでものを作っている時それはすでに芸術(芸術的)なのだ。
”西洋を中心とした世界の信じられないようなハイソサエティの間で流通している概念上のアートの文脈”も
日本の画壇も現代芸術界隈も、アートの枠組みを維持するため(身も蓋もない言い方をしてしまえば関係者が食っていく為)の仕組みなので「自由な精神の発露」と相性の悪いところが必ず出てくる。
そして脱構築に脱構築を重ねてもはやなにがなにやら、というのは本当にそう。
それまで「属人的な技」と考えられていた事が民主化される、例えば絵画が写真によって、写真がデジタル技術によって、そして今またそれらがAI技術によって、存在意義が再定義されようとしていてアートも無縁ではいられないんじゃないかな、と思っている。
アーサー・C・ダントーが提唱した「アートワールド」とは、芸術作品が成立するための社会的・概念的枠組みのことを指します。彼は1964年の論文「The Artworld」で、この概念を提唱しました。ダントーによれば、芸術作品はそれ自体の物理的な特性だけで芸術であるわけではなく、周囲の芸術的な理論や批評、歴史的背景、そしてその作品を芸術として受け入れる社会的な合意など、「アートワールド」と呼ばれる文脈によって芸術作品として認識されるのです。
この枠組みの中では、アーティスト、批評家、鑑賞者、美術館、ギャラリーなどの文化的・社会的要素が、作品の芸術性を定義づけ、芸術とされるための文脈を形成します。したがって、芸術とは「アートワールド」によって成立する文化的な産物であり、その文脈を無視しては理解できないものだとダントーは論じました。
オイラから見れば、その視点というのは一面的であまりにも単純な気がしますね。「合法なポルノについては表現規制なんてしてない」とVISAが言っていることについて、表現の自由や芸術的価値とか、文化的な多元性を考慮に入れていますか?それに、「違法なポルノ」とされるものの定義や判断基準って一体誰が決めるんですかね?その基準がどうやって運用されているかを全く考えないで「違法だから仕方ない」と言うのはちょっと浅はかだと思いますけどね。
それってあなたの感想ですよね?オタク達がはしゃいでいるのは、もしかしたら彼らなりの深い考えに基づいているかもしれないですよ。しっかりとした論理を立てて批判するならともかく、感情的な批判だけで物事を片付けるのは不十分だと思います。
昔の友達にある用件があってメッセージ送った。無視はされなかったんだけど芸術的なくらいビジネスライクな対応だった。クレーマー対応マニュアルかと思った。
愛想がないわけじゃないけどギチギチに計算し尽くされ作り込まれたナチュラルな愛想の良さって感じ。そして礼儀正しい。文句のつけどころのない対応。
「あー私も『関わりたくないしもう気持ちもないけど刺激してことをあらだてたり恨み買いたくないな〜』って相手への対応がまさにこんな感じだったなー」っていう態度だったから胸が締め付けられた。ナチュラル風美肌メイクが一番お金と技術力がいるのと同じ感じ。相手に対してしらけきっている素直な感情が表に出ないように全力でねじ伏せて完全に人工の愛想を生成してロボットみたいに話すやつ。
会えない間に思いがなくなるのは、交流があった時のこっちに問題があって、それに対して冷静に気づくからなんだろうな。心当たりもあるし恨めない、責められない。でも勝手だけど滅茶苦茶寂しかった。
昔と全く変わらないテンションで話せることや昔と同じ親密さを期待してわけでないんだけど、だけどパテで塗り込んだ舞台用メイクじゃなくて多少そっけなくても素顔や日常メイクくらいの気持ちで話せると思ってた。甘かったな。
でも完全シカトだったらもっとくらってたかも。すぐ既読つけてくれて嬉しかった。
私は今でも大好きだよ 多分これからも
元気でね 幸せでいてね
テーマの限定性:春画は主に性的なテーマを描いたものであり、当時の社会全体の現象を網羅的に描写することが目的ではありません。したがって、春画に描かれた内容は非常に限定的であり、社会全体の一部しか反映していません。
芸術的選択:春画の制作者が何を描くかは、彼らの芸術的選択によります。特定のグループや現象(この場合は黒人奴隷)が描かれていないのは、単にそれが彼らの興味や関心の範囲外だった可能性があります。
描写の偏り:春画に描かれている内容は、当時の社会の一部を反映しているに過ぎません。描かれていないものが存在しなかったとは必ずしも言えません。例えば、春画に農民や商人が描かれていなかったとしても、彼らが存在しなかったという結論にはなりません。
存在の証拠不足:春画に黒人奴隷が描かれていないことだけをもって、その存在を否定するのは証拠として不十分です。存在の証拠としては、他の歴史的文献や記録が必要です。
多角的な証拠:歴史的な事実を確認するためには、複数の証拠を検討する必要があります。春画だけを根拠にするのではなく、他の文献、記録、物品なども考慮することで、より正確な結論を導くことができます。
補完的証拠の必要性:例えば、交易記録、外交文書、他の絵画や文学作品などが黒人奴隷の存在を示しているかどうかを調査することが重要です。春画に描かれていないだけでは、黒人奴隷が存在しなかった証拠にはなり得ません。
■結論
春画は当時の社会の特定の側面を描いたものであり、その描写が社会全体を反映しているわけではありません。したがって、春画に黒人奴隷が描かれていないことをもって、黒人奴隷制度が存在しなかったと結論づけるのは不適切です。歴史的な事実を確認するためには、複数の証拠を総合的に検討する必要があります。春画だけでは不十分なため、「春画が黒人奴隷制度がなかった証拠にはならない」と言えます。
この夢日記には、いくつかの興味深い心理学的要素が含まれています。以下に分析を示します:
この場面は、過去の学習経験や知的探求への憧れを反映している可能性があります。宇宙論という壮大なテーマは、人生の大きな疑問や存在意義への探求を象徴しているかもしれません。教授の言葉は、物事の本質や性質によって見方や approach が変わるという、人生の哲学的な側面を表しています。
突然の意識喪失は、生活の中での急激な変化や予期せぬ転換を象徴している可能性があります。新しい教師と幸せや音楽についての講義への変化は、より感情的で芸術的な側面への関心の移行を示唆しているかもしれません。
この部分は、現在の生活や状況に対する違和感や不適合感を表している可能性があります。自分が属していない場所にいるという感覚は、現実生活での所属感の欠如や方向性の不確かさを反映しているかもしれません。
迷路は、人生の複雑さや決断の難しさを象徴しています。学校という familiar な環境が迷路に変わるのは、かつて安心できた場所や状況が今では混乱や不確実性をもたらしているという感覚を表しているかもしれません。
少女は夢見手の内なる声や直感を象徴している可能性があります。「そっちは違うよ」という言葉は、現在の人生の選択や方向性に対する内なる疑問や警告を表しているかもしれません。
全体として、この夢は知的探求と感情的な充足の間での葛藤、人生の方向性に対する不確実性、そして自己の本当の道を見つけようとする内なる努力を反映している可能性があります。夢見手は、過去の学びと現在の関心事の間でバランスを取ろうとしているのかもしれません。
中華ゲーのガチャはガチャというより別の概念のシステムなんだよな
国産ガチャが石を溜め込んで(または課金して)物量で運を乗り越えるギャンブル的キャラ配布システムだとすると
中華ガチャは一連分貯まるごとに回してようと貯めて一気に回そうと得られる限定キャラ数や獲得周期は変わらない
なんなら特定の強キャラを何体も重ねるよりも満遍なく確保していったほうがゲーム性を楽しみやすいからユーザーのガチャへのスタンスが真逆になる
特定のキャラを狙おうとするときも、物量に頼るんではなく、排出周期(天井カウント)を見ていれば天井引き継ぎによって計画的にキャラ取得できる「ゲーム」へとガチャ要素が昇華してる感じなんだよ
国産ガチャは「ガチャはガチャでしかないギャンブルもどきだよ」と割り切って公然とevilをやってる感じで、その射幸性ゆえに「ガチャを回すこと」が主目的になりやすい
中華ゲーは「ガチャはゲームの追加要素にすぎんから本編をちゃんと遊ばないと回せないよ、その分中身凝って作ってるからね」という意思を感じる
実際にガチャを一切まわさずに配布キャラだけでも攻略可能なように作ってあることを節々に感じる
その分、育成要素がキツくて時間をかけるか石割って育成リソースを集めるかバトルパス等を頼るかって感じになっている
でもそういう月額的な課金を継続してくれるファンを増やす作りの方が、ギャンブル性を煽って理性を失った0.何%の廃課金者をカモにするソシャゲビジネスよりも未来があると思う
ガチャが主目的になっちゃう古いソシャゲ的な作りだと、ログインだけでもらえるようなインスタントな石バラマキをしたり、毎日10連無料みたいなことをして呼び込まなきゃいけなくなるが
まあ中華ゲーも広告上は日本の頭の古いソシャゲユーザーに訴求するために配布アピールの広告を出してたりはするけども、実際は日本ユーザーが想像するような直接的な配布はなくって、ゲームをやり込んで石回収すると○連分になる、的なオチだったりする
でもそのほうが逆に良いと思うんだよ
インスタントなバラマキが恒常化するってことは、過去に課金して得たキャラの価値がすごい勢いで毀損されていく(インフレ前提)ってことだから
中華ゲーは全体的にコツコツプレイが最重要な積み重ねゲーになってて、国産みたいにぽっと出の新規ユーザーが人権キャラを無料ガチャで○凸できちゃったらモテモテみたいなことはあり得ない
後者は一見いいことのように思えるけど、既存ユーザーを蔑ろにしてることの裏返しとも言える
ビジネスだけを考えるならスマホゲーはいかに新規を取り込むか、いかに新規を優遇するか、という部分が重要なのは分かるんだけど
それが行き過ぎてゲーマーとしての心を失っているかのようなものが量産されてきたから「ガチャゲー」「ゲー無」「ソシャゲはダメ」みたいな刷り込みにつながっていく
モバゲーグリー時代からシナリオだけは評価できる作品等はあったにせよ、ゲームとしてどうなのって意味ではPay2Winの札束ゲーかつ廃課金のカモが無課金乞食を蹴散らすくだらん構造のものとして侮蔑は免れなかった
でも今のモバイルゲームで存在感を示してるタイトルってのはちゃんと時代の変遷とともに悪い部分を脱却して進歩しているものも出てるんだよ
まあ日本のマーケットでは未だにちょっと古い時代古い作りの「ソシャゲ」がセールス上位に来てることもあるから「変わらんなあ」と思ってしまう人が多いのは分かるんだけど
一番進歩的な二次元、アニメ調、このへんの作品の在り方を正しく評価できる人がいないってことならまさに老害化しているとしか言えんよな
ーーー追記ーーー
これでも中華ガチャの何が優れてるか分からんって人のために一目で設計思想の違いが分かるグラフを紹介しとく
https://starrailstation.com/jp/warp#global 統計サイトだが、ここの中段にある「引く回数別の星5跳躍」に注目
低い基礎確率と確率変動によって獲得周期がコントロールされることでギャンブル性を抑えてるわけだな
ただ中華アニメ調ゲームの本当の良さは中身が作り込まれてること
モバイルというハードウェア制約があってもなおコンシューマを超えるようなゲーム体験がある
さらに運営型であることを最大限に生かしてて更新のたびに、動画公開のたびに、想像以上の感動をくれる
漫画連載やドラマをリアルタイムで追っているときしか味わえない類の感動があるだろう?
そういう要素が運営型オンラインゲームにあることを思い出させてくれたのが中華ゲー
なぜ古いソシャゲにそれがなかったのかというと、ないことはなかったんだが
古いソシャゲは揃いも揃って「イベントを走らせる」。つまり毎日特定の作業に長時間拘束される
そこで消耗してしまい、ゲームが与えてくれる芸術的余韻に浸ってる間もなく性能や効率に向き合わされる
これが(青少年保護に手厚い)中華ゲーにはなくて、イベントで反復的な張り付き周回を求められない
まあスタミナ消化部分は反復になるが、スタミナという上限があるしすぐに終わるようになってて、古いソシャゲほど頻繁なログインが求められない
DAUを上げるために古いソシャゲが執心してた小細工部分を、膨大な開発力によりゲーム本体への魅力を感じてもらうことで持続力に代えて、一定の成功をしてる
裸に男女差があることは認めざるをえないけど
しいて言えばそれがどのコンテクストの裸なのかはグラデーションを作っていると思う
女性でもおそらくヌードデッサンは芸術的なコンテクストにあるとして認められやすい
じゃあ例のポスターは政治的なコンテクストかというと確かにそれはそうなんだけど
「性風俗的なコンテクストの画像」を配置するという政治的なメタコンテクストにあって
内側の性風俗的なコンテクストが掲示を認められないなら、その枠をかなり強固にしない限りは認められにくいのではないだろうか
枠を強固にするとは、例えばそれにモザイクをかけたうえで報道的なメタコンテクストに乗せることだとか
直接は未成年者の目に届きにくくしたうえでひとつの「事例」として議論的なメタコンテクストに乗せることだとか
というようなことを考えた