はてなキーワード: チャールダーシュとは
作曲者がいる以上、作曲者がどう弾いてほしいのかという観点での考察は必要でしょ。
たとえ当時流行った、似たような曲の中の生き残りでしかなかったとしても、どういう音楽として流行り、どういう特徴があるのかみたいな分析というか、勉強は必要だと思うよ。
それが回り回って、結局は作曲者の意図に沿うことにもなると思うし。
だからチャールダーシュが「自由度が高く奏者がいくらでもアレンジできる」と言ったって、それはちゃんとロマの音楽とか文化とかを調べたうえで言ってるのか?って話でもある。
そんで特に日本人のプロが弾くチャールダーシュは、作曲者の意図に沿っているか、ロマ音楽を勉強したか、いずれの観点から見ても相当に怪しい。
はっきり言えば我流のアレンジで弾いてるようにしか聴こえない演奏が多いんだよ。
そのくせ同じジャンルのラロとかチゴイネルワイゼンは、めっちゃリスペクトしてガッツリ取り組む、その感覚がどうにも嫌なんだわ。
なるほど。
そうなると、「チャールダーシュが自由にアレンジされる」慣習は、どこの誰が作ったのかって話になるだろうね。
そもそもそういう慣習というか解釈が、曲を軽んじているとしか思えない。
基本的にクラシック音楽は、作曲者の意図に忠実であることが最低限のルール。
なので、それを守らない時点でチャールダーシュをクラシック扱いしていないとも言えるし、個人的には少なからず不愉快な話だったり。
「チャールダーシュは自由度が高く奏者がいくらでもアレンジできる曲で、実際余興として弾かれるケースが圧倒的に多い時点で本格的なクラシックじゃないので、それを以て奏者のクラシックの演奏能力は測れない」
この話の後半の「奏者のクラシックの演奏能力」ってところの解釈の問題なんだろうね
「音大出てクラシック界でやっていくいわゆるクラシックの人たち」にとっては伝統的な解釈の上に成り立つ曲のアナライズが超重要なんだと思う
慣習としてチャールダーシュは自由にアレンジされる曲で、つまりクラシックの人たちが「クラシックの演奏」のくびきから解き放たれて「音楽の演奏」をしがちな曲ということだよね
は???どんな曲だろうがちゃんと弾こうと思ったら、きちんと曲の内容とか作曲家の生い立ちや他の作品とか、時代背景とか文化は勉強しなきゃいけないと思ってるけど?
チャールダーシュだからって軽く見てんじゃねーよ差別主義者が!!
って言ったら少しは通じるかな??
チャールダーシュはロマ音楽をリスペクトした作品であって、それはそれでどう弾くかは入念な考察が必要なわけで、自由度が高いなんて解釈は雑もいいところ
ネットで見かけた、「自称」音大ヴァイオリン卒という人が言ってた話ではあるんだけど。
彼曰く
「チャールダーシュは自由度が高く奏者がいくらでもアレンジできる曲で、実際余興として弾かれるケースが圧倒的に多い時点で本格的なクラシックじゃないので、それを以て奏者のクラシックの演奏能力は測れない」
だそうだ。
いや、チャールダーシュはロマ音楽をリスペクトした作品であって、それはそれでどう弾くかは入念な考察が必要なわけで、自由度が高いなんて解釈は雑もいいところ。
だいたい、それだったらジャンルを同じくするスペイン交響曲やチゴイネルワイゼンだって、本格的なクラシックじゃないという話になるんじゃねーの?
と思ったら、その2つは難易度的な観点(チャールダーシュのほうが遥かに簡単かつ、上の2曲は音大受験レベルの難しさ)から、本格的クラシックなんだそうな。意味わかんねー。
とはいえ現実には、プロほどチャールダーシュを悪い意味で余興的なスタンスで弾くことが非常に多くて、そうやって弾かれたチャールダーシュは、残念ながらどれもこれもセンス的に微妙過ぎたり。
まあでも「それを以て奏者のクラシックの演奏能力は測れない」んだったら、好き勝手に弾いていいってことなんでしょうね、どうにもがっかりですわ。
音大卒しかもヴァイオリンとなると、それこそ音大入るまでに比喩でも誇張でもなく、文字通り「百万回さらってきた」人たち。
その時点で誰もがその場所に立てるものじゃないどころか、それを生き抜いてきただけでとんでもなく凄いと思う。
だからあんまりそういう立ち位置の人をdisることはしたくないんだけど…それにしたってあまりにレベルが低すぎないか???
アレか?音大はクラシックを本格的かそうじゃないかを、曲の難易度だけで選別するのが教育なんですかね??実に芸術的で頭が下がりますね。
そんなんだったら音大なんて行かなくて良かったって心底思うし、悪いけど「音大なんか行くもんじゃない」って周りに言いふらすことにさせてもらうわ。