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おじいちゃんの遺言でApple製品は使わない – NorthPage
父親がApple信者だったのでお下がりのPerforma 588を使っていた。
当時からMac系の雑誌では「MacOSはもうダメだ」と言われていたと思う。
元記事で指摘されている「マルチタスクができない」なども悩みの種だった。
「システムはWindowsが良いがGUIはMacが素晴らしい」というのが大方のApple信者の認識だった。
もちろん対外的には「すべての面でMacは優れている」と主張するのが当然だったが。
次期MacOSではそれらの欠点がすべて解消され、夢のようなOSになると言われていたが、
その開発に失敗したことでApple社への不満は頂点に達した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Copland
正確には、私がMacを使いはじめたのはコープランド開発中止のあとなので、リアルタイムの感想は分からない。
しかし雑誌などでは「コープランドが成功していればこうなるはずだった」というようなことがたびたび書かれ、
まるで理想国家建設に失敗して「どうしてこうなった」と嘆く共産主義者のようだったことは覚えている。
もちろん対外的には「MacはWinに負けてない」と主張するのが当然だったが。
「Macはディレクトリでなくフォルダだから素晴らしい」というのはよく分からない。
もっと昔はそういう言説もあったのかもしれない。
たとえば「マニュアルを見なくてもドラッグ&ドロップの意味が分かる」みたいなことではなく、
「このファイルをここにドラッグ&ドロップすればこうなりそう」という直感が当たる、といったような話だった。
このあたりは現在のiOSなどにも引き継がれているところだと思う。
まあ、どの企業もGUIデザインに気を遣うようになって相対的な優位性は無くなっているが…。
自分にとってジョブズは「教祖」というよりは「過激派の司祭」だった。
Windowsを攻撃するぶんには頼りになるが、彼の言うことを何でも信じていたわけではなかった。
MacとWinPCの性能比較には無理があったし、過去に言っていたことをすぐにひっくり返すし。
もちろん対外的には「ジョブズは素晴らしい」と主張するのが当然だったが。
とりあえずジョブズが復帰して、iMacが発売されて、Appleは勢いを得た。
同時期のWindows2000の画面と比べてみてくださいよ。
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990628/desktop.jpg
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20001018/wpe05_04.jpg
完全に未来でしょ。美しすぎるでしょ。これは調子乗っちゃうでしょ。
マカーが「MacはWindowsより美しい」と言いはじめたのはMacOSX以降じゃないかと思う。
それまでは「Macは可愛い」とか「人間味がある」「愛嬌がある」といった評価が多かったのでは。
話の落とし所がわからなくなってきた。
自分がなぜApple製品を使っているのかを考えると「最初に使ったから」という刷り込みが大きいのだが、
もう一つとして「Apple信者だから」というのがあるように思う。
Apple製品は良くも悪くもユーザーに使い方を押し付けるようなところがある。
これに関してはひとつ思い出がある。
初代iMacの「ホッケーパックマウス」は非常に酷評されていた。
しかし当時のAppleは「そもそも持ち方が違うのだ」と主張していた。
それまで(というか現在でも多いと思うが)マウスは「手のひらで包むように持つ」のが普通だった。
しかしホッケーパックマウスは「指で摘まむように持つ」ようにデザインされていた。
手首ではなく指を動かして操作するから腱鞘炎になりにくいのだ。
私はちゃんと摘まむように使っていたので、ホッケーパックマウスはコンパクトで使いやすいとさえ思っていた。
みんな、どうしてAppleの言うとおりにしないのだろうかと不思議だった。
信じる者は救われるのだ。
プログラミングって、これから始めてみようっていうとき、なんだか「得体のしれない行為」っていう感覚がありませんか?
ぼく自身は、プログラムを書いてる側の人間で、いまでこそ少しはプログラミングの本質的な難しさをわかってる気になってます。でもつい数年前までは、プログラミングは難しくはないけど得体がわからない、という感じでした。
そのへんのコードを組み合わせて動くものはできるけど、何がどうなっているのかは知らんし、ググって分からないものはできない、という方向で、「プログラミングは難しい」と思ってました。
最近になって、プログラミングの義務教育必修化の話題とか、コピペプログラマーの話題とかを目にするたびに、かつて自分がプログラミングに対して抱いていた「得体のしれない行為」という感覚が思い出されてしまい、少しざわざわした気持ちになったので、ちょっとここに書きなぐらせてください。
だいたいが個人的な話なので、そういうのがうっとうしい人は無視してください。
ぼくが世の中にパソコンという道具があることを知ったのは、たぶん中学生のときです。30年くらい前。当時、電気屋の売り場ではけっこうな床面積を使ってワープロ(文章を入力する専用マシン)が陳列されてました。文章を書くのは好きだったけど、字を書くのが死ぬほどめんどくさかった自分は、ワープロさえあれば自分も小説とか書くのになあと思いながら指をくわえて電気屋の店内をうろうろしてました。しかし、ファミコンすら買ってもらえなかった家計ではワープロなんぞ買ってもらえるわけもありません。そのうち巡回してた電気屋からはワープロが消え、それに代わってパソコンのコーナーが広がっていきました。このパソコンというのは、よくわからないけどワープロとして使えるっぽいし、どうやらファミコンを持っていない僕にもゲームができるらしい、おれに必要なのはこれだ、というわけで、中学生だった自分はパソコンという存在に興味を抱くようになったのでした。
とはいえ、だからといってパソコンを買ってもらえるような家計ではなかったわけなので、カタログを熱心に眺めるだけの毎日が続きました。その当時の自分にとって、パソコンが欲しいといったら、それはNECを買うかエプソンを買うかという選択でした。冨士通からパソコンが出ていることは知りませんでした。マッキントッシュっていうやつもあって、このPerformaっていうやつはなぜか安いとか、よくわからないけどシャープとかソニーも独自にパソコンを作っているぞとか、そういう情報がパソコンに対する認識のすべてでした。当時の自分にとってのパソコンは、電気メーカーから発売されている商品の一種であり、ラジカセとかテレビと同列の存在でした。
なんでこんな話がプログラミングにつながるかというと、ひょっとして自分がプログラミングにずっと感じていた「得体のしれなさ」の源泉の一つは、こんなふうにパソコンを電化製品として見ていた当時の感覚の延長だったのかもなあと思ってるからです。
ラジカセなら、CDだのテープだのを入れて再生ポタンを押せば、そのハードウェアの機能を物理的に体感できます。それに対してパソコンは、プログラミングをちょっとやってみても、その行為と、そのハードウェアとが、感覚的に結びつきません。もちろん、プログラミングというのは、物理的なデバイスに結びつけて考えなければできない行為ではありません。しかし、パソコンを「カタログの商品」として見るところから入ってるばかりに、そこでやるプログラミングという行為とハードウェアとの結びつきが見えにくい状態に、なんとなく居心地の悪さを感じていたように思うのです。
もし自分のスタート地点が、パソコンを使って文筆やゲームをするところだったら、パソコンは文筆やゲームのための箱だったでしょう。その後でプログラミングを始めていたなら、プログラミングという行為を、文筆やゲームに関連した創造的な活動として学べたかもしれません。
ところが実際には、自分はつい数年前まで、パソコンという電化製品に対する漠然とした行為としてプログラミングを捉えてた気がします。
プログラミングを始めたのは、高校生になって誰も使わないFM77が部室に置いてあったので立ち上げてみたらF-BASICのインタプリタが起動したからでした。とくに何をプログラミングすればいいかもわからなかったので、教科書や雑誌のコードを転記したり、ループで線画を書いたりして遊んでいました。大学に入ってからも、授業でFORTRANとかLispをやらされたけど、基本的に自分で目的をもってプログラミングするのは数値計算くらいのものでした。そのころになると、本で情報を探して(まだインターネット検索は使い物にならなかった)適当にコードをつなぎ合わせるのがプログラミングだと思ってました。そんなん面白くないなあ、とも思ってました。
この感覚、完全に、いま揶揄されているコピペプログラマーのそれだったと思います。ちょっと話はそれますが、ブロック遊びとか砂場遊びって、ほとんどの人はわりとコピペプログラミングと似たような感覚でやってるんじゃないでしょうか。パーツを勘で組み合わせたり、とにかく砂を盛っていったりすれば、家みたいなのができるよね、という感覚。プログラミングは、自分にとってそれに近い作業でした。学生のころは、内心、自分にもパソコンとサンプルコードさえあれば何かすごいものを作れるかもなあ、くらいに思っていたふしもあります。
自分はバカでした。パソコンがあるとかないとか、関係ないのです。パソコンさえあれば、なんて思う者に、本当のプログラミングがわかるはずがありません。
そんなこんなで、自分はまともにプログラミングを経験しないまま社会人になったわけですが、幸いにもプログラミングに対するこの感覚は、仕事でパソコンを日々使うようになってから徐々に変わっていきました。
具体的には、パソコンが、自分の中で「カタログの商品」から「武器」へと変わりました。それと同時に、プログラミングという行為が、武器開発という位置づけになりました。
武器というのは言い過ぎだとしても、ちょっとしたプログラミングは確かに業務上の課題を打開しました。それなりに計算機科学の教科書を読んで勉強をしたこともあって、いつのまにかプログラミングに対する「得体のしれなさ」も解消してました。
結局のところ、自分にとっては、プログラミングという行為の「得体のしれなさ」から解放されるまでにずいぶん長い時間が必要だったことになります。自分がそうだったからといって他人もそうだとは限らないですが、たとえば小学校で形だけプログラミングを教わっても、分かるとかわからないとか、好きとか嫌いとか以前に、なんかモヤモヤした気持ちになるだけの子どもも少なくないんだろうなあ。それは不憫だなあ。
かといって、自分がいまプログラミングで少しは戦えてるのは、そのむかしパソコンに憧れがあって、得体がしれないなりにプログラミングをする機会が若いときにたまたまあったからでもあるので、そういう機会になるなら小学校で形だけでも教えるほうがいいのかなあとも思います。
オチがないので、このへんで。