はてなキーワード: マグニチュードとは
吹田市民です。
私のスペック。30代男性。大阪市内の会社に勤務。妻、30代、専業主婦。
自宅。築40年のマンション。古い。6階。
朝、いつもアラームは8時20分に設定している。(始業は10時なので、ゆっくりめ起床)
妻も既に起きていて、本能的に体を寄せ合う。
阪神大震災の時は、目覚めた時、既に揺れており、部屋が平行四辺形にグラグラ揺れていたのを覚えている。
違ったのは、振動の長さ。阪神大震災の時は1分ぐらい続いたと思うが、今回は15秒ぐらいで済んだ記憶がある。
震源に近かったせいか、緊急地震速報は、揺れの最中から鳴り出した。
玄関にいき、下履きを持ってきて、泥を払った上で、室内用として使用する。(ガラスや陶器が割れて散乱しているので)
ダイニングの食器棚が倒壊し、食器は約半分が使い物にならない。
書斎のPCモニター(24インチ液晶)が机から落ちていた。正常に動作するかどうかは、未検証。
書斎の本棚が倒壊し、再起不能なほどに壊れた。当然、中の本はすべて書斎内に散乱。
寝室は、引き出し式のクローゼットが私の寝床に倒れていた。すぐに飛び起きていなければ、頭直撃コースだったに違いない。
それ以外は深刻な被害はなかった。
続いて、風呂に水を貯める。ガスの元栓を閉じる。ベランダなど、すべての扉が開くかどうかをチェック→正常に開いたので、問題なし。
自分と妻のワイモバイル回線→音声通話は不可だったが、4Gは通信できた。
我が家は、基本的に必要なものしかストックしないという妻の方針のため、非常食になるようなものがない。
会社の上司に連絡。電車がいつ動くかわからないこと、部屋の中に割れた食器と家財道具が散乱していることを伝えると、出社しなくて良いとの連絡。
(家の惨状を写真に撮って送ったら、たいそう驚かれた。上司は京都に住んでいるので、ここまでひどくなかったのかもしれない)
確認したところ、こういうときに必要なものとしては、2リットルのミネラルウォーターが2本と、昨晩沸かしたお茶約1リットル弱しかない。
そこで、コンビニへ買い出しに行くことにした。
買ったものは、昼食の弁当×2、非常食相当のカップラーメン×2、朝食相当のカロリーメイト×1、紙パックのお茶1リットル とりあえず、夕方まではしのげる量の食料を確保。
自宅に戻り、午前中の間はテレビとネットで情報収集しつつ、下手に動いて余震にやられないよう、寝室で待機。
正午過ぎにお昼を食べて、そこから部屋の片付けを開始。
下履きを履きながら、室内の割れ物を回収していく。みかんのダンボール箱相当で、3箱分ぐらいの、ガラス・陶器の割れ物が発生。
細かい割れ物は新聞に包んで、特に営利で凶器になってしまいそうなものは、ガムテープとラップで養生してから、マンションのゴミ捨て場に捨てに行く。
同じような割れ物が、たくさん捨てられていた。
片付け作業中、1時間に1回ぐらいの割合で、テレビをつけて情報収集。私はずっとつけっぱなしにしたかったが、妻はこういう状況で災害の放送をずっとつけていると、精神的にもよくないと反対。
私も納得して、必要以上に情報に接しないよう心がけた。単純に、片付けにも集中できるという意味で、効果は高かったと思う。(私はテレビ見ながらの作業は、ついつい手がお留守になりがちなので)
5時になり、ライフラインの疑問が解決しないかと思い、マンションの管理室に行ってみる。
水道水がにごっていること、ガスを使っていいのか、この2点を尋ねに行った。
ガスは、一定の震度に達すると自動的にストップするので、再始動の手順がガスメーターに記載されていることを教えてもらった。
昨晩の残り物、白ごはん、ねぎ焼きが残っていたのでそれを電子レンジで温めて、惣菜といっしょに食べた。
室内の掃除はあらかた終わり、あとは細かい破片を取るために粘着ローラーをかけるだけとなった。
夜は、寝室とは別の、一番家具の少ない部屋で寝ることにした。
念の為、天吊の灯具は外した。寝るにしか使わない部屋なので、当面困ることもない。
翌日は普通に出勤するも、一部でJRが動いていないため、阪急で出社。30分の遅刻。
妻は、最後の片付けをしていたようだ。
一部の交通機関を除き、平常運転だったようだが、街の中には様々な傷跡がのこっていた。
マンションや駅のエレベーターは、軒並みストップ。点検して安全が確認されるまで封鎖。
公共施設の多くで、天井や壁に亀裂(クラック)が入っており、これも点検修理が終わるまでは近づかないよう、カラーコーンなどで規制線がはられている。
街ゆく車の中には、工事関係の車が目立った。かんでん○○とか、ガスサービスセンター○○といった、インフラ系関連会社や、
○○ビルテクノ・サービスといった、ビル管理系の車がよく目につく。
自分の会社の自席は奇跡的になにも倒壊していなかったが、いくつかのモニターは倒れていたようだ。
あと、うちの会社の部屋だけエアコンがついておらず、昨日今日と暑い中、汗をふきふき仕事をしている。
マスコミの報道内容とか、ヤフーニュースのトピックを見ていると、地震の扱いは過去の地震と比べて小さいように思う。
死者の数は1桁、翌日から通常営業できるようになったせいか、さほど深刻に受け止められていないように思うが、
実際に震源の近くで暮らしているものからすると、余震に怯えたり、想定外の後片づけに悩まされたりと、色々苦労をしている。
ただ、これだけの震度でありながら、犠牲者の数が少なく済んだのは、阪神大震災の経験が大きいと思う。
私は小学生の時に自宅で震度7を経験したが、揺れ方だけ見れば、あの時の悪夢と全く同じだった。
それにもかかわらず、倒壊損壊した建物、火災になった建物がわずかばかりであったのは、過去の教訓が行きていると思う。
当時幼いながらも、そのことで、人の生死なんて、いつどうなるかわかったもんじゃない、と感じた。
改めて今回思うのは、儚さだ。人の命もそうだし、割れた食器たちを拾い集めている時も、同じ気持ちを抱いた。
しかし、22年前と比べると、確実に社会は変わったと思う。もちろん、前向きな意味で。
マグニチュードや震度だけ見れば、当時より少し小規模だが、被害の規模は明らかに小さい。
建築物は、確実にあの時よりも丈夫になっている。
情報インフラも発達し、被害状況がほぼリアルタイムで分かるようになった。
色んな課題を抱えているこの社会だけど、耐震性というか、カウンターディザスタネスとでも言えばいいのか、
亡くなったクラスメイトの命も含め、過去震災や災害で命を落とした人々の尊い犠牲の上で、私達は日々暮らしているのだと実感した出来事だった。
いつまでスタンバッてればいいの..
1927年に発生した北丹後地震では本震発生後24日後にマグニチュード6以上の余震が起こっていたことがわかります。
本震発生から約4日後にマグにチュード6.1の余震が発生したほか、2週間以上経ってからもマグニチュード5.9の比較的規模の大きな余震が発生しています。
http://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/aftershocks/kako_aftershock.html
今気象庁で詳細な情報を発表していて、震源地は大阪府茨木市の南東側、JR総持寺駅や茨木駅の市街地のある一帯。
当初の地震規模はマグニチュード5.9だったけど、6.1に修正された。
震度6弱の範囲は大阪市北区、高槻市、茨木市、枚方市、箕面市。大阪市北区については、あそこは元々地盤の弱い埋立地なので、本来は震度5強程度の揺れが6弱に増幅されたものと思われる。
今回地震のあった大阪北部は、1995年に起きた阪神大震災でも震度5強の強震に襲われた経験があるから、地震に強い街づくりをやっていたおかげか、家屋の倒壊などの被害は震度の割には大きくないのは幸いだったようだね。
ヤフーの産経ニュースによると、「有馬高槻断層の南端と上町断層の北端がクロスするあたりが震源と思われる」とのこと。
大阪平野や神戸市街地の縁に広がっている六甲山地や千里丘陵、北摂山地は断層運動によって生まれた地盤の圧縮帯なので、というよりは断層運動によって山そのものが出来た場所なので、元々地震の多い場所なのかもしれない。
高槻や枚方は、江戸時代から大坂と京都を結ぶ京街道の宿場町であり、現在は大阪のベッドタウンとして住宅化された地域。前述のように江戸時代から続く宿場町だったので、ベッドタウンの割には市内を通る道路の道幅が狭く、古い住宅が建ち並ぶエリア。火災の初期消火に失敗すると、延焼する危険性がある。
不謹慎な言い方かもしれないが、震源地が大阪都心部や堺市のような人口密集地帯で無かったのは不幸中の幸いだった。震源地がさらに大阪都心に近い場所で、M6.1だと更に被害が大きかった可能性がある。
当時は全教科とも80点は取れていたと思う。
生まれた都道府県と違うけれど、そこは誤差みたいなものとして。
5択ではなく、筆記で書かせる問題が多くて、しかも登場人物の心情を書かせたりで、難しいところがあった。
現代文はセンター試験よりも難しいくらいだと思ったが、自分がセンター試験を受けたのは遠い昔なので、なんともいえない。
現代文の文法問題を解きながら、現代文の文法は古文のそれに比べて難しいように感じた。
いまいち型にはまりきってないし、解説を読んでも解釈の余地があるような気がした。
古文はとてもやさしい。
図形に補助線を入れたりして、相似の三角形を見つけて、比を取って長さや面積を求める問題が全然解けなかった。
余弦定理を使って解けないかと思ったが、やっぱり相似を見つける必要があって、結局全然無理だった。
中央値や最頻値を計算させるなど、データ処理の基礎が問題になってたりするのが、昔とカリキュラムが違うんだろうなという感じを受けた。
みたいな問題があった。
地震速報が間に合わない理由を書かせるとか、やっぱり震災の影響ってこういうところにもあるんだなと実感。
生物の細胞の絵や模式図は、解くには問題ないが、ちょっと変で、中学校の授業大丈夫か?と感じた。
地図やグラフから読み取らせる問題が多かったりして、すっかり暗記科目だった高校の社会科よりも、SPIに近い感じで面白かった。
歴史の問題は、かなり易しかったが、その反面ちょっとどうかと思ったりした。
断片的に「~の改革」みたいなキーワードだけ覚えてもつまらないと思う。
歴史はある程度のボリュームを学ばないと、そうさせたダイナミズムを学ばないと楽しくないと思う。
これはかなり易しく感じた。
これも、単純に高校の授業が中学の上位互換だったからだと思う。
英文読解が、将来の夢だとか、未来の地球にむけてとか、夢のあるテーマなのが中学生らしくて、泣きそうになった。
簡単な文章で、こんな少ない語彙で、こんなにも人を感動させられるのかと思った。
全体を通してみて、思いのほか楽しかった。
高校の授業が中学の上位互換だった科目(古文、代数、英語)は、非常に易しく感じた半面、高校で選択科目になったような幾何や、地学は久々に解くとかなり疲労した。
何事も慣れなんだなと思った。
出来ないのではなくて、難しいのではなくて、慣れていないだけ。
努力すれば、人はなんでも出来るようになる。
それから、18歳選挙権や、地震についてかなりのボリュームが割かれてたのが、とてもよかった。
大学入試だと、多少の時事ネタはあるものの、これほどは割かれない。
あの時はわからなかったことが、今だとわかることもあった。
http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/170616/cpc1706160300001-n1.htm
2017.6.16 03:00
南海トラフの海溝付近でプレート(岩板)境界が徐々に動く「ゆっくり滑り」を海洋研究開発機構などの国際チームが初めて観測した。想定される巨大地震の予測精度を向上させる重要な手掛かりになるという。16日付の米科学誌サイエンスに掲載される。
ゆっくり滑りはプレート境界が1日~数年かけてゆっくりずれる地殻変動。発生した場所では地震を起こすひずみが解消される一方、周囲の断層破壊を促して大地震の引き金になる可能性がある。
南海トラフではフィリピン海プレートが陸側プレートの下に沈み込み、境界部にある断層でマグニチュード(M)9・1の巨大地震が想定されている。ゆっくり滑りは断層の深部で発生が確認されていたが、海溝付近の浅い場所は観測が難しく未解明だった。
地球深部探査船「ちきゅう」が紀伊半島沖の海溝付近を掘削し、チームが観測機器を設置。平成23~28年のデータと海底地震の記録を分析した。その結果、ゆっくり滑りが8~15カ月間隔で発生し、境界部に蓄積するひずみの30~55%を解放したことを突き止めた。
"21世紀における金融政策” (教科書、2062年出版)より
2012年の安倍自民党政権成立後、日本銀行は金融政策実施に当たって政府との連携を強め、年率2%のインフレ実現を目標に掲げて、「異次元緩和」と呼ばれる大胆な金融緩和策を実施した。
2013年以降、日銀は国債とETF(指数連動型上場投資信託)を最初毎年50兆円、そして80兆円づつ買い続けた。さらに2016年には「マイナス金利」政策を導入し、イールドカーブの人為的な操作にも手を染めた。
それらの結果、2018年4月時点で、日銀の国債保有割合は発行済総額の5割に達し、ETF総額に占める日銀の保有割合も8割に達していた。
にもかかわらず、日銀はまだ2%のインフレターゲットに達成することができなかった。2017年の物価上昇率はわずか0.3%であった。
「もう買うものがない。」というのが2018年度を迎えた日銀にとって最大の問題であった。
市場に流通している国債が極端に少なくなっていく中で、日銀による国債の買入れオペを拒否する金融機関が出始めていた。
2018年4月に黒田前総裁の後を承けて就任した石黒玄総裁への圧力が高まっていた。
そんな中、同年5月中旬、日本の基幹産業である自動車産業の雄トヨタ自動車が本社を置き、日本のみならず世界有数のものづくり拠点でもある愛知県において、マグニチュード8を超える巨大地震が発生した。
地震発生から24時間以内に、東京、ニューヨーク、ロンドンなど、世界の為替市場で、円が対ドルで110円から130円まで一気に下落した。それまで「安全逃避先資産」とされ、発生地が日本であろうが、世界のどこかで危機が起こったときに大量に買われていた円が、初めて売り浴びせられ、暴落したのである。
日本政府はすぐ復興債を財源とした大型補正予算を発表したが、それまで毎年のように編成されていた補正予算に景気浮揚効果はなく、補正以外にこれといった対策を講じることの出来ない政府の経済政策への期待はもはや皆無であった。日銀による緊急対応を求める強い声が経済界からが発せされた。
就任直後から厳しい立場に置かれていた石黒総裁は、この期を逃さずに早速手を打った。
日銀は5月26、27日に緊急の政策決定会合を開催し、政府が発行する復興債を直接全額購入することを発表した。同時に、それまで手を出さなかった「実物資産」についても買い始める、という新しい政策枠組みを発表した。
日銀による芸術作品買入れ(「芸術作品買い入れオペ」と呼ばれた)の枠組みは、以下の通りであった。
① 政策発表から2週間後、日本国籍を保有している者は誰でも、その保有する芸術作品・骨董品を日銀に売ることができる。日銀は適切な判断に基づいて値段を決めて現金で購入する。売却は一人一年に一回のみだが、複数のアイテムを同時に売却することは可能とする。
② 高齢世代(先の世代)が書画や陶器など多くの伝統的芸術資産を保有している一方、若い世代はそのような伝統的芸術資産を保有していない。そこで、芸術資産を持っていない個人・家庭からは、手作り芸術作品や新たなカテゴリーの芸術作品を購入することとする。
③ 日銀は、都道府県ごとに購入した芸術作品を展示するための「アートスペース」を設置し、購入した芸術作品を一般に公開展示する。入館料は大人500円。障害者・12才未満の子供は無料。展示会の収入は全額震災復興に寄付する。
④ 芸術作品買入れオペは、年度単位で行う。即ち、オペ開始から一年後、日銀は購入した芸術作品をすべて焼却する。焼却は一般市民の参加による「焼却式」によって行う。この式の参加費は500円。焼却式後、日銀は改めて次年度の「芸術作品買入れオペ」を開始する。
⑤ インフレが安定的に2%を超える状態が達成されるまで日銀は芸術作品買入れオペを続ける。
この日銀の新しい枠組みは、2000年代後半の世界金融危機後に欧米中央銀行に採用された金融政策とは根本的な断絶を表すものであった。
伝統的な金融緩和の波及経路は主に金利だと思われていた。即ち、中央銀行が金融機関から国債などを買うことによって、銀行は貸出金利を下げることができ、その結果、個人や法人への貸し出しが容易となり、市中に資金が提供される。
他方、日銀の新しい政策枠組みは、金融機関を通さずに直接個人から資産を買うことによって市中に資金を提供する、というものであり、かつ、購入した資産は定期的に廃棄、拙い手作り芸術作品には事実上セカンダリー市場が皆無であったから、定期的に保有資産が消滅していくこの新しい政策には出口がないと日銀が暗黙に宣言したも同然であった。 実際日銀は、新しい枠組みによって増えたマネタリーベースはそのまま放置するつもりであった。
日銀がなぜ国民に直接現金を配らず、敢えて「資産」を買ったのが当時批判されたが、数年後に発表された決定会合の議事録によると政策委員は現金配布という手法に対して懐疑的だったことが明らかになった。
景気が改善しても現金配布ー現金のばらまきーをやめることは政治的に極めて困難、事実上やめられないのではないか、と過半数の政策委員が懸念を示した。資産を買って現金を渡すという仕組みにすれば、国民の芸術的衝動や芸術資産がいつか枯渇されるため日銀はスムーズにテーパーリングできる、と多くの政策委員が考えたのである。
発表から2週間後、全国日銀支店や郵便局でこの「芸術作品買入れオペ」が始まった。当時の記事と日銀の統計によると、最初は書画や陶器など骨董品の買入れが多かった。遊び心のある作品も少なくなかった。毎日新聞の記事によると、男性がお尻と手を会社のコピー機でコピーをとって印刷したものを、日銀が20万円で買い取った。鴻海シャープ株式会社の社員が割り箸で作った家電が1億円で買い入れられ、日本経済新聞の一面に載った。
しかし、買入れオペが始まってすぐ深刻な問題が起こった。日銀の「芸術」の定義があいまいすぎていた。メディアによると、砲身に「金融政策」と大書した張り子のバズーカ砲が日銀に買い取りを拒否された。女性器の形をしたティッシュ箱も断られた。
芸術の知識を持っていない中央銀行が芸術の価値を判断するのはどうか、とアーティストや学者からの批判が強まった。村上春樹が特別記者会見を開き、中央銀行に芸術を売るな、と国民に強く促した。
買入れオペへの参加が低迷した。日銀がオペ開始から半年の時点で行った全国調査によると、日本人のたった1割がしかこのオペに参加していないことがわかった。同調査によると、60歳以上の世代は代々家に受け継がれてきた「家宝」を売ることを躊躇し、若い世代は仕事や育児で忙しく芸術を作る暇がなかった。さらに総じて見れば、日本人はあまり芸術作品を売ったり買ったりすることに興味がなかった。芸術を実物資産として考える人たちはそれほど多くはなかったのである。
市場では、震災直後の暴落から回復した円がドルに対して日々高くなっていた。景気は引き続き低迷し、むしろ後退に直面していた。行き場のない資金が市場を彷徨する一方で、日銀は微妙に価値のある大量の芸術作品を保有していた。
もはや日銀は政策の失敗から自力で立ち直れないと判断した石黒総裁は、善後策を安倍総理に相談した。
しかしながら、政府もまた、残された対策は補正予算の早期執行と復興債の日銀直接引き受け位しかなく、為替市場に対しても株式市場に対してもコントロール能力を失っていた。
あたりまくりだな
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13日09時42分頃地震がありました。
震源地は千葉県北西部(北緯35.7度、東経140.1度)で、
震源の深さは約70km、地震の規模(マグニチュード)は3.5と推定されます。
各地の震度は次の通りです。
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13日06時07分頃地震がありました。
震源地は青森県東方沖(北緯41.3度、東経141.6度)で、
震源の深さは約120km、地震の規模(マグニチュード)は3.5と推定されます。
各地の震度は次の通りです。
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13日04時29分頃地震がありました。
震源の深さは約50km、地震の規模(マグニチュード)は3.7と推定されます。
各地の震度は次の通りです。
茨城県 震度2 日立市助川小学校* 笠間市石井* 東海村東海*
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震源の深さは約40km、地震の規模(マグニチュード)は3.9と推定されます。
各地の震度は次の通りです。
自然災害で理不尽に死にすぎて、理不尽な死自体に他国と比べて慣れてるってのはある気がする。それを無関心と呼ぶかは分からんが。
そんなに日本は自然災害で人が死ぬのかと思ったら、下のデータを見てヒェッとなった…。
http://www.jice.or.jp/quiz/kaisetsu_09.html
日本の国土の面積は全世界のたった0.28%しかありません。しかし、全世界で起こったマグニチュード6以上の地震(じしん)の20.5%が日本で起こり、全世界の活火山(かつかざん)の7.0%が日本にあります。また、全世界で災害で死亡(しぼう)する人の0.3%が日本、全世界の災害で受けた被害(ひがい)金額(きんがく)の11.9%が日本の被害(ひがい)金額(きんがく)となっています。このように、日本は世界でも災害の割合(わりあい)が高い国です。
今年もそろそろ終わる。
俺は来年40歳になる。10年前に何してたっけ?どんなことがあったけ?20年前は?
思い出そうとしてみたが、覚えていることはあまりなかった。
そこで大好きなウィキペディアを開いてみたら、おもしろかった。
西暦をたたけばその年に起こった出来事や流行ったものごと、世相がまとめられている。
すげえな。
「おっ」とか「へー」とか「なにそれ」と思った出来事で100年を振り返ってみる。
2014年の10年前と2015年の10年前。
1614年と1615年までさかのぼれば、それぞれ大阪冬の陣と夏の陣までいけるのだが、400年はけっこうしんどい。
とりあえず100年。
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・自衛隊イラク派遣の陸上自衛隊本隊第一陣がイラクのサマワに入る
・関西電力美浜原子力発電所(福井県)で蒸気漏れ事故が発生、作業員5人が死亡
・アテネ五輪(柔道の野村忠宏選手が五輪3大会連続で金メダル獲得)
・「新潟県中越地震」死者68名
2005年(平成17年)
・中部国際空港が開港
・アンゲラ・メルケルがドイツ首相に就任
・1年を通じて1899年以来初めて死亡数が出生数を上回る
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1994年(平成6年)
・関西国際空港が開港
・オリックスのイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録
1995年(平成7年)
・警視庁の国松孝治長官狙撃事件(重傷)
・オウム真理教総本部前で村井秀夫幹部が刺殺される
・『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
・俺ハタチになる/この年はテレビばかり見ていた気がする。
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・中曽根首相が首相として戦後初の靖国神社参拝
1985年(昭和60年)
・東京都に新両国国技館が完成、横綱・北の湖が引退
・NTT(電電公社)とJTT(日本たばこ産業)が民営企業として発足
・豊田商事の詐欺事件についてマスコミが取材中、報道陣の前で永野一男会長が暴漢2人に刺殺される
・フジテレビで夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』が放送開始
・たこ八郎が水死
・阪神タイガースが日本シリーズで、西武ライオンズを破り4勝2敗で日本一
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1974年(昭和49年)
・永谷園が「あさげ」を発売
・日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)
・ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任
1975年(昭和50年)
・まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売
・山陽新幹線博多まで開通
・広島東洋カープが初優勝
・イギリス保守党の党首にマーガレット・サッチャー選出
・沖縄国際海洋博覧会開幕
・俺が生まれた
……俺と同い年の人たち
・アンジェリーナ・ジョリー(女優)
・上原浩治(野球選手)
・高橋由伸(野球選手)
・俺(商店街で鮮魚店を経営)
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・本田技研工業が「S600」を発売
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き
・東海道新幹線開業
・坂本九『明日があるさ』がヒット
1965年(昭和40年)
・淀橋浄水場廃止
・中国で文化大革命が始まる
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1954年(昭和29年)
・日本の高度経済成長期が始まったとされる年
・NHKが大阪と名古屋でテレビジョン放送開始
・ニッポン放送開局
・琉球放送(RBC)開局
・遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びる
・洞爺丸事故
・加藤芳郎の4コマ漫画『まっぴら君』が毎日新聞夕刊で連載開始→2001年終了
1955年(昭和30年)
・武田薬品工業が総合感冒薬「ベンザ」を発売。
・ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化
・広辞苑初版発行(岩波書店)
・後楽園遊園地が完成
・自由民主党と日本社会党の二大政党制(55年体制)が始まる→1993年崩壊
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1944年(昭和19年)
・全国の新聞で夕刊が廃止
・日本軍がインパール作戦を開始
・連合軍によるパリの解放
・東海道沖で東南海地震発生/マグニチュード7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件
1945年(昭和20年)
・ 2月 4日 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)
・ 2月14日 近衛文麿が昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)
・ 6月13日 大田実司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後自決
・ 6月23日 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決/実質的な戦闘終結
・ 8月 6日 広島市へ原子爆弾投下
・ 8月 9日 ソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始
・ 8月 9日 長崎市へ原子爆弾投下
・ 8月10日 御前会議(ポツダム宣言の受諾の可否について)
・ 8月27日 占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)
・ 9月 2日 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終結)
・ 9月25日 外国人記者2名が昭和天皇にインタビューを行う
・10月19日 駅名の表記が左書きに統一される
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1934年(昭和9年)
・日比谷映画劇場開場
・忠犬ハチ公銅像除幕式
・満鉄が大連―新京間で「特急あじあ号」の運転を開始
・東北地方で冷害が発生、凶作被害甚大
1935年(昭和10年)
・築地市場開場
・フランス人民戦線結成
・天理教本部が脱税で捜索
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1924年(大正13年)
・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚
・日本でメートル法が採用
・阪神甲子園球場完成
・トーマス・マン『魔の山』
1925年(大正14年)
・イタリアのベニート・ムッソリーニが独裁宣言
・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)
・治安維持法公布
・朝鮮総督府庁舎完成
・上海で五・三〇事件
・広東に国民政府が成立
・鈴木商店(後の味の素)設立
・芦ノ湖にブラックバスが放流
・娯楽雑誌『キング』創刊
……これ読んだ若い頃、スーパーのおさかなコーナーで働いてた。
まな板の上にレモン置いて帰ろうかと思ったな。
なつかしい。
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1914年(大正3年)
・孫文らが東京で中華革命党を結成
・サラエヴォ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒
・『少年倶楽部』創刊
1915年(大正4年)
・第一次世界大戦:ドイツ海軍がイギリス周辺を交戦海域に指定して、Uボートによる無制限潜水艦戦が開始される
・サマセット・モーム『人間の絆』
・芥川龍之介『羅生門』
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数字と固有名詞と記憶と今がごっちゃになって、ちょっと気持ちいい。
自分がさかなクンと同い年なのは知っていたが、ぺヤングとも同い年とは知らなかった。
それと昭和、長いな。
明日も朝早いし、そろそろ寝る。
tp://gamayauber1001.wordpress.com/2014/10/13/japan5/
>たとえば日本のがわに「日本に住んでいる韓国人は出て行け」という運動が存在するのに韓国側には「韓国に住んでいる日本人は出て行け」と述べる運動が存在しないらしい。
韓国人や中国人とはやりとりが英語(ひとりだけフランス語)で、日本語インターネットでみる日本人と知識層がちがうのかもしれないが、韓国人のほうは、なんだかおっとりしていて、
「日本で反韓運動やってるでしょう?」と水を向けても、やってますねえ、すごいらしいです、で、なんとなく他人事である。
そりゃあ向こうもデモのような大規模な運動に限らず反日的な行動はいつもやってますからねえ。
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/1146.html
このように反日教育もご丁寧にされてるようなので、もはや国民全員が一つの反日団体となるよう政府に仕込まれた人たちといっても過言じゃないレベルです。
今更ちっちゃな団体が「韓国人出てけー」とか言った所でスケールが違いすぎて「それが何?」と思われるのがオチでしょうね。
この手の運動なら、「たまたま日本の国鳥とされていた」だけのキジの惨たらしく殺したり、国旗を燃やしたり踏んだりするような過激なデモが幾度と無く繰り返されてますよ。
https://www.youtube.com/watch?v=RTb3wRvSi84
>東アジアきっての好戦的民族、他者を陥れたり攻撃したり、貶めたり、政治においても糾弾するのが三度の飯より大好きというイメージは、韓国からインドまで、あまねく広がっている「大和民族」のイメージでもある。
Uさんという60年代から日本に住んでいるドイツ人ばーちゃんに述べたら、「そんなことはありません。日本は昔から野蛮な国です。どうしてあなたは、そんな事実と異なるくだらないことを言うの」
http://www45.atwiki.jp/electricarc/pages/15.html
http://www.statisticbrain.com/rape-statistics/
http://www.globalnote.jp/post-1697.html
http://www.unodc.org/unodc/index.html?ref=menutop
統計を見る限りご覧のとおり少ないわけですが。
こういうことを書くと、「日本人は弱いから」とか抜かすのがいるけどそんなものは屁理屈です。
東日本大震災は、世界でも稀なマグニチュード9台の地震だったわけですが、軍隊が鎮圧しなければならないほどの暴動が起きましたか?
①姉歯物件は大震災でビクともしなかった ⇒http://spotlight-media.jp/article/50466214100990319
②大震災で配管が断絶した(つまり、建物がそれなりに地震で変形した)ものもあった ⇒http://blogos.com/article/92808/
の両方の主張は、いずれかが全数調査を行っていない限り「ウソを言ってないというレベルでは」「自分が調査した範囲では、という但し書きの下では」同時に成り立ち得るが、あまり意味が無い。
東日本大震災は、地震そのものの揺れのレベルは非常に小さかった。ここで言う「揺れのレベル」というのは「一般的な建築物を揺らす能力」という意味だがこれは震度を意味しない。震度が高くても建物が全く壊れない地震もあれば、震度が低くてもメチャメチャに壊れる地震もある。この辺は高校か中学で習う「共振」を思い出せば何となく理解できるんじゃないだろうか。要するに地震そのものの持つ周期と建物が持っている周期が一致すればより建物は揺れやすくなる。建物と共振しやすさは、震度の計算にあまり加味されていない。これが東日本大震災で「揺れのレベル」が小さかった、と書いた理由だ。
この前の震災では地震の継続時間が長かったから超高層ビルがめちゃくちゃ揺れたとかニュースが流れたが、一般の建物を崩壊させるほどのパワーはほとんどなかったと見ていい。
もちろん局所的に地盤が軟らかい土地などでは大きな被害を受けた建物もあっただろうし、もちろんその逆もあっただろう。
要するに地震そのものに対する認識が雑だと、この種の議論はまったく空転するのである。いくら建物が強かろうと、それを上回る程度の「揺れのレベル」の地震が来れば壊れるだろうし、逆に弱小建物も「揺れのレベル」が小さければ壊れないのである。
長谷川豊が言っている、
当時、震度5か6でパターンと倒れると報道された姉歯元1級建築士が設計したマンションは果たしてどうなっているのか?!答えは…
ビクともしていなかった。
当時、姉歯氏はこう語っている。
「耐震に関してはかなりの強度を保っておりますし、震度7や8にも十分耐えられるはずです」
そう、関東地方にある姉歯物件は実はフジテレビ関係者も住んでいた。お台場にあるフジテレビ本社にはかなり交通の便の良い所に姉歯物件が存在するのだ。ちなみに、それらの姉歯物件だが、少なくとも僕の知る限り…
1棟もヒビ一つ入っていない。
国土交通省省の定める耐震強度がそもそも、あまりにも強すぎる設定になっているだけで、姉歯氏の計算通り、1000年に1度の地震が来ても、彼らの物件やマンションはビクともしなかったのだ。
は、まったく地震に対する議論が雑である。専門家ではないので仕方ないかもしれないが。地震に対する言及は
・1000年に1度の地震 ⇒ マグニチュードはその程度の頻度になるかもしれないが、マグニチュードは揺れの強さではない。「揺れのレベル」も表さない。
・そもそも震度8などない(最大で7。姉歯の言葉の引用のようだが。)
だけである。上でも書いた通り、震度7でもまったく建物が壊れない場合もある。
では逆に、震度5で姉歯物件は倒壊しうるか?と言われれば、「倒壊しうる」と俺は答える。
http://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/kyoshin/kaisetsu/comp.htm
上記を参照すると、震度5強で周期1.0秒(建物の周期に近いところな)だと加速度は100gal~200gal程度だろうか?(重力加速度は980galなので重力の1/10~1/5の「地面の揺れ」)
建物に「地面の揺れ」が伝わると加速度は増幅される。その倍率を仮に1.5だとする。そうすると建物に作用する加速度は100gal~200gal×1.5で150gal~300galだとする。
通常建物は重力の0.5倍の加速度(490gal)で倒壊しないよう設計されるとして、それが耐震偽装により半分まで落とされた場合どうなるか?
490gal×1/2=245gal
これが耐震偽装された建物の耐えられる加速度だ。地震によって150gal~300gal程度の加速度が作用したら?
安全率、建物の劣化程度、局所的な地盤条件その他諸々条件を考慮したとしても、「倒壊し得る」という答えが妥当だ。100棟あれば少なくとも1棟くらいは倒壊する可能性が高い。
そんなような簡単な計算に基づいた推測からすると、姉歯は相応に叩かれるべきだったと思うし(叩かれ方は妥当ではなかったと思う。それは同意できる。)、姉歯物件は震度5強でも倒壊し得る。
長谷川豊は「あの姉歯物件は東日本大震災でビクともしていなかった。」とあくまで特定の地震に対する結果のみに限定しているとはいえ、姉歯物件が安全であるかのような書きっぷりにはやはり納得がいかない。
最近、秋葉原界隈の企業や店舗に、以下のような文書が出回っている。
さて、当社は、昭和37年からJR秋葉原駅前に地上8階建てのビル「秋葉原ラジオ会館」(通称:「ラジオ会館」)を所有し、ビル賃貸業を営んでまいりました。
平成23年6月、当社は第三者のご要請を受け、当該第三者が中心となって新設した別会社「株式会社ラジオ会館」(東京都千代田区外神田一丁目2番13号、代表取締役篠原弘美)に一部出資をし、以後、同社に対して当社の登録商標である「世界の秋葉原ラジオ会館」「秋葉原ラジオ会館」「ラジオ会館」「ラジ館」などの名称を使用して商品を製造・販売し、電子商取引をすることなどを許諾する商標権使用許諾契約を締結いたしておりました。
しかしながら、当社は、このたび事情により、平成26年1月21日をもって「株式会社ラジオ会館」との間の上記商標権使用許諾契約を解除いたすとともに、直ちに上記当社登録商標の使用の禁止を同社に通知いたしました。
つきましては、もとより当社(「株式会社秋葉原ラジオ会館」)と「株式会社ラジオ会館」とは全く別個の法人ではありましたが、上記商標権使用許諾契約が終了いたしましたことをご通知申し上げ、当社と「株式会社ラジオ会館」とを混同されることが今後もございませんようご留意いただきたくお願い申し上げる次第です。
当社は、現在、上記ビルの建替工事を実施しており、お取引様及び関係者の皆様にはご迷惑をおかけしておりますが、7月20日グランドオープンの予定ですので、今後ともよろしくご交誼の程お願い申し上げます。
まずは取り急ぎ用件のみにて失礼いたします。
一部の人間は「秋葉原に流布された怪文書」として楽しもうとしているが、これは誰かの陰謀でもなんでもなく、秋葉原に四半世紀以上に渡って居を構え、秋葉原好きなら誰もが知っている「秋葉原ラジオ会館」の所有会社「株式会社秋葉原ラジオ会館」から出された正式な通達だ。
この文書から分かるのは、ここには、長い歴史を持つ「株式会社秋葉原ラジオ会館」(以降、本家とも呼ぶ)と、3年前に設立された「株式会社ラジオ会館」(以降、分家とも呼ぶ)の二つの異なる会社が存在し、今年の頭までは本家が分家に対して商標権使用許諾を与えていたが、これが解除された、という状況と、どうやら本家は、分家の行っている活動を「迷惑」だと感じているようだ、ということ。
今月、「ラジオ会館」は建替工事を終了し、7月20日にはグランドオープンを控えている。何故この状況で、上記のような通達がなされたのかを考えてみる。
文書にもある通り、今から52年前の1962年、「秋葉原ラジオ会館」は秋葉原最初の高層ビルとして秋葉原駅前に誕生した。
詳細な経緯は要望があれば書くが、秋葉原の古いイメージである電子部品屋のメッカ「秋葉原」は、戦後の混乱に乗じて乱立した多様な露店の集合体、いわゆる闇市の延長線であった。この集合体には、他の類似する地域コミュニティと同様に、日々発生する様々な面倒事を解決するために不可欠な「元締め」という存在が必要だった。この物理的な力を持つ「元締め」と、金銭的な力を持った、ある「資産家」が出会い、GHQが露店の排除命令を出して限界を迎えていた秋葉原を、今度は「縦」に展開する秋葉原初の高層ビル「ラジオ会館電化ビル」構想が立ちあげられた。これが「秋葉原ラジオ会館」の歴史の始まりである。
ちなみに、ラジオ会館と言えば、周囲の景観を損ねるとまで言われつつ秋葉原の顔として定着した巨大なネオン看板が有名だが、あれは2001年8月に初めて設置されたもので、同8月に、有名な「パーソナルコンピュータ発祥の地」のプレート設置も行われた。ラジオ会館の歴史を語る上で重要なアイテムだが、その長い歴史の中では二つとも比較的新しい部類に入る。
そして、設立から50年以上、「秋葉原ラジオ会館」は秋葉原に在り続け、ラジオ・無線、パーソナルコンピューター、アニメ・フィギュアの興隆と、日本の文化成長に合わせて目まぐるしく変わっていく秋葉原に、時には保守的に、時には攻撃的に対応し続けて来た。多くの秋葉原ファンからは、「今の秋葉原を凝縮している」「秋葉原に来た際はまずここに来る」という評価を得て、今現在でも秋葉原を象徴する必須の存在となっている。
しかし、秋葉原ブランドの最たるもの、という評価も受けながら、本家「株式会社秋葉原ラジオ会館」は、賃貸業者以外の何者でもなかった。日本のポップカルチャーが世界から注目され始め、アニメ、ホビー商品が溢れる秋葉原が「ポップカルチャーの聖地」と呼称されるようになっても、秋葉原を象徴する存在である「ラジオ会館」は、ただそこに在り続けるだけだった。
そこに目を付けたのが、上記文書に「第三者」と書かれている人間だった。
当初、「第三者」は別の目的で本家にアプローチしていた。その目的は、老朽化したラジオ会館ビルの建替工事の受注だった。ラジオ会館ビルの建替の必要性は、実は、ある理由で相当昔から発生していたのだが、ここも詳細は省く。しばらくして「第三者」は、本家からの依頼を受け、ラジオ会館のテナントに対し、ビルの老朽化を理由に退去要請を始めた。2010年9月には、一部マスコミによって、老朽化を理由にした「ラジオ会館」の建替工事計画が報じられている。
さて、不動産関係者なら分かるが、不動産の業務の中で最も難しい部類に入るのが、こうした雑居ビルのテナントに対する退去要請である。ビルの建替工事には付き物の業務だが、様々な状況にあるテナントの説得には、非常に高いスキルが必要だ。昔、バブル期に暗躍した地上げ屋が起こした様々な事件が、その難度と複雑さを物語っている。一時引っ越し先にいくら良い物件をあてがっても、急な変化に対応するにはテナント側に手間と時間はどうしてもかかってしまう。それが何年もの間、そこに店を開いてきたテナントなら尚更だ。退去要請に全く応じないテナントに「第三者」は頭を抱えていた。
しかし、2011年3月11日、14時46分18秒、マグニチュード9.0の東日本大震災が発生。
東北で発生した地震にも関わらず、都内の古いビルにも結構な被害が発生する。秋葉原ラジオ会館の柱や壁にも大きな亀裂が入った。それでも、実は、ラジオ会館が受けた被害は、緊急建替が必要なほど大きなものでは無かった可能性が残されている。いずれによ震災被害という大義名分は、「第三者」のテナント退去要請に弾みを与えた。壁に入った大きな亀裂と、それを補強するように貼られたべニア板でさらに誇張された「被害」を見せられ、残っていたテナントは退去要請に続々と応じていった。震災の翌月、2011年4月16日には、ホワイトボードにお別れメッセージを残していく「ラジオ会館さよなら!!ウォール」イベントも開催された。
そして、様々なテナントとの話し合いを通じ、「第三者」はある構想を固めていた。
実は「第三者」は過去、アニメやマンガ、フィギュアなどの文化に一切触れたことが無く、秋葉原という街、そして、秋葉原を訪れる人々を深くは理解してはいなかった。ここも詳細は省くが、「第三者」は、テナントの退去要請を続けている際、大量に売れるフィギュアや書籍、異様な熱気を帯びた各種イベント、街中を闊歩する奇妙なオタク集団などに触れ、ただただそこに「何か物凄い力」を感じていたようだ。これは、秋葉原初心者が最初に必ず感じてしまう「アキバ熱」のようなものだ。過去、「アキバ熱」に触れたビジネスマンたちの中には、これをコントロールして金を生み出そうとチャレンジする者が何人もいた。そして、殆どの人間が失敗してきた。その姿は、熱によって生まれる蜃気楼に戦いを挑む滑稽な道化師と同じだった。秋葉原の住人達は、そうした道化師が発生する度に、冷やかな視線を送っている。
話を元に戻そう。ある時から「第三者」は「ラジオ会館は金になる」と考え始めるようになっていた。
ひとつのきっかけは、ある有名企業の代表が冗談で発した言葉にもあった。
「建替工事が終わって新生ラジオ会館が出来たら、しばらく入場費を取っても良いぐらい注目されるはずだ」
そして、イベントで集まったラジオ会館ファンの感動的なメッセージ群。
そして、閉店セールに集まって来た大量のオタクたちと、飛ぶように売れて行く在庫。
「第三者」は、退去要請の傍ら、ラジオ会館のブランドを使ってビジネスを始めるべく、本家の説得を始めていた。
東日本大震災から3ヵ月後の2011年6月、分家である株式会社ラジオ会館が設立された。
初期の株式会社ラジオ会館を構成したンバーについては省略する。ただひとつ言えるのは、「第三者」はビジネスを成功させるべく、様々な分野から実績のあるプロフェッショナルを引き抜いて来たらしいのだが、役員を筆頭に、殆どのメンバーが、アキバってどういうところ?オタクって気持ち悪い!みんな結局は金儲けがしたいだけでしょ?という、いわゆる秋葉原的な人間とは相反する人々だったようだ。「第三者」には、ラジオ会館、そして、秋葉原の一体何が人を惹きつけるのか、重要な部分への理解が欠けていたように思われる。
株式会社ラジオ会館は、設立後、様々なサービスの展開を始めている。ラジオ会館のテナントを中心にしたECモール「ラジオ会館オンライン」、フリーマガジン「ラジ館」、ニュースサイト「ラジ館プレス」などなど。大抵のプロジェクトが「第三者」の思いつきで始まっていたらしい。中には評価すべきものもあるが、ここでは詳細を紹介しない。
さて、設立から数年、株式会社ラジオ会館内部では様々な試行錯誤が繰り返されていたようだ。イベント企画や大型LEDビジョンの設置と声優番組企画など、華やかな企画も定期的に実施されていたが、売上は低迷していたらしい。そして、その予算の殆どは、本家である株式会社秋葉原ラジオ会館から出されていたらしい。
「第三者」は、「ラジオ会館」という印籠を使い、ビジネスを拡大し続けようと画策していた。短絡的な企画の中には、株式会社ラジオ会館が中心となって秋葉原店舗をまとめ、一大ネットワークを作ろうとしていたものもあったらしい。その中身は、会員になって分家の言うことを聞け、というお粗末なものだったらしいが、我々はラジオ会館だから秋葉原のみんなは言うことを聞くだろうと「第三者」が考えていたことに少し寒気を覚える。さらに、本気で新生ラジオ会館で入場料を取ろうとしていたらしく、その企画が本家の逆鱗に触れた、という話も聞いた。一向に上がらない売上、増え続ける予算、ブランドを利用した強引な営業、荒唐無稽な企画、本家が怒るのも無理は無い。
秋葉原界隈の人々には、香ばしい噂も流れている。ある企画で生じた損失を無関係の人間に補填させようとしたり、何度も支払遅延を繰り返したり、社内では秋葉原の店舗やオタクへの悪口のみならず、ラジオ会館のテナントの悪口まで言い合っている等など。最近では、本家との契約解消に伴い「本家が営業を邪魔している」などの暴言まで出ているとの話も聞いた。一応書いておくが、これらはあくまで噂だ。しかし、そうした社風に嫌気がさし、今年に入って大量に人材が辞めたという話も聞いた。
そして、今年に入って、ラジオ会館の仮囲いを使っていた広告枠営業は本家管轄に移行、3月にはラジオ会館1号館に設置されていた大型LEDビジョン「ラジカメVISION」が撤去され、事業の核とされてきたECモール「ラジオ会館オンライン」は今月7月末で終了予定となっている。残るはフリーマガジン「ラジ館」とニュースサイト「ラジ館プレス」。そんな折、本家から出された契約解除の通達は相当な痛手に違いない。
何故、今年の1月に契約が解除されても、依然として株式会社ラジオ会館は「株式会社ラジオ会館」であり、フリーマガジン「ラジ館」やニュースサイト「ラジ館プレス」は、その名前を使い続けているのかというと、「ラジオ会館」や「ラジ館」は確かに商標登録されているものの、社名は同意の下で命名された経緯があり、フリーマガジンとニュースサイトは商標区分が異なっているので問題無いそうだ。また、裁判沙汰になっても係争中は名前を変える義務は無い、とのこと。
そうした状況を踏まえ、本家は7月20日の新生ラジオ会館のグランドオープン前に、どうしても公私ともに関係性をクリアにしたかったのだろう。
通達も出たことだし、未だに株式会社ラジオ会館を、秋葉原の老舗のラジオ会館だと思ってお付き合いしている店舗さん、企業さんは居ないですよね?
以上、伝聞と類推だらけだが、株式会社ラジオ会館について、でした。