2018-06-20

被災地より

吹田市民です。

おとといの地震がどうだったか、現地レポート

私のスペック。30代男性大阪市内会社に勤務。妻、30代、専業主婦

私は、小学生の時、西宮市阪神大震災震度7経験済み。

自宅。築40年のマンション。古い。6階。

朝、いつもアラームは8時20分に設定している。(始業は10時なので、ゆっくりめ起床)

アラームがなる前に、揺れに気づき飛び起きる。

妻も既に起きていて、本能的に体を寄せ合う。

阪神大震災の時の感覚に近かった。

阪神大震災の時は、目覚めた時、既に揺れており、部屋が平行四辺形にグラグラ揺れていたのを覚えている。

違ったのは、振動の長さ。阪神大震災の時は1分ぐらい続いたと思うが、今回は15秒ぐらいで済んだ記憶がある。

震源に近かったせいか緊急地震速報は、揺れの最中から鳴り出した。

揺れが収まってからテレビをつける。

玄関にいき、下履きを持ってきて、泥を払った上で、室内用として使用する。(ガラス陶器割れて散乱しているので)

妻は、浴室用のゴムスリッパを履いた。

続いて、自宅内の被害確認

ダイニングの食器棚が倒壊し、食器は約半分が使い物にならない。

書斎PCモニター24インチ液晶)が机から落ちていた。正常に動作するかどうかは、未検証

書斎本棚が倒壊し、再起不能なほどに壊れた。当然、中の本はすべて書斎内に散乱。

寝室は、引き出し式のクローゼットが私の寝床に倒れていた。すぐに飛び起きていなければ、頭直撃コースだったに違いない。

それ以外は深刻な被害はなかった。

続いて、風呂に水を貯める。ガスの元栓を閉じる。ベランダなど、すべての扉が開くかどうかをチェック→正常に開いたので、問題なし。

電気確認問題なく供給されている。

ネット回線確認問題なく通信ができた。

自分と妻のワイモバイル回線音声通話は不可だったが、4Gは通信できた。

我が家は、基本的必要ものしかストックしないという妻の方針のため、非常食になるようなものがない。

会社上司に連絡。電車がいつ動くかわからないこと、部屋の中に割れ食器家財道具が散乱していることを伝えると、出社しなくて良いとの連絡。

(家の惨状写真に撮って送ったら、たいそう驚かれた。上司京都に住んでいるので、ここまでひどくなかったのかもしれない)

確認したところ、こういうとき必要ものとしては、2リットルミネラルウォーターが2本と、昨晩沸かしたお茶約1リットルしかない。

そこで、コンビニへ買い出しに行くことにした。

買ったものは、昼食の弁当×2、非常食相当のカップラーメン×2、朝食相当のカロリーメイト×1、紙パックのお茶1リットル とりあえず、夕方まではしのげる量の食料を確保。

自宅に戻り、午前中の間はテレビネット情報収集しつつ、下手に動いて余震にやられないよう、寝室で待機。

正午過ぎにお昼を食べて、そこから部屋の片付けを開始。

下履きを履きながら、室内の割れ物を回収していく。みかんダンボール箱相当で、3箱分ぐらいの、ガラス陶器割れ物が発生。

かい割れ物は新聞に包んで、特に営利凶器になってしまいそうなものは、ガムテープラップ養生してからマンションゴミ捨て場に捨てに行く。

同じような割れ物が、たくさん捨てられていた。

片付け作業中、1時間に1回ぐらいの割合で、テレビをつけて情報収集。私はずっとつけっぱなしにしたかったが、妻はこういう状況で災害放送をずっとつけていると、精神的にもよくないと反対。

私も納得して、必要以上に情報に接しないよう心がけた。単純に、片付けにも集中できるという意味で、効果は高かったと思う。(私はテレビ見ながらの作業は、ついつい手がお留守になりがちなので)

5時になり、ライフラインの疑問が解決しないかと思い、マンション管理室に行ってみる。

水道水がにごっていること、ガスを使っていいのか、この2点を尋ねに行った。

詳しい人はいなかったらしく、水は自己判断で、と言われた。

ガスは、一定震度に達すると自動的ストップするので、再始動の手順がガスメーター記載されていることを教えてもらった。

それ以上のことは、管理室ではわからなかった。

帰りに近所のスーパーに寄り、夕飯を買う。惣菜と水を買った。

昨晩の残り物、白ごはんねぎ焼きが残っていたのでそれを電子レンジで温めて、惣菜といっしょに食べた。

室内の掃除はあらかた終わり、あとは細かい破片を取るために粘着ローラーをかけるだけとなった。

夜は、寝室とは別の、一番家具の少ない部屋で寝ることにした。

念の為、天吊の灯具は外した。寝るにしか使わない部屋なので、当面困ることもない。

翌日は普通に出勤するも、一部でJRが動いていないため、阪急で出社。30分の遅刻

妻は、最後の片付けをしていたようだ。

一部の交通機関を除き、平常運転だったようだが、街の中には様々な傷跡がのこっていた。

マンションや駅のエレベーターは、軒並みストップ。点検して安全確認されるまで封鎖。

公共施設の多くで、天井や壁に亀裂(クラック)が入っており、これも点検修理が終わるまでは近づかないよう、カラーコーンなどで規制線がはられている。

街ゆく車の中には、工事関係の車が目立った。かんでん○○とか、ガスサービスセンター○○といった、インフラ関連会社や、

○○ビルテクノサービスといった、ビル管理系の車がよく目につく。

自分会社の自席は奇跡的になにも倒壊していなかったが、いくつかのモニターは倒れていたようだ。

あと、うちの会社の部屋だけエアコンがついておらず、昨日今日暑い中、汗をふきふき仕事をしている。

マスコミ報道内容とか、ヤフーニューストピックを見ていると、地震の扱いは過去地震と比べて小さいように思う。

死者の数は1桁、翌日から通常営業できるようになったせいか、さほど深刻に受け止められていないように思うが、

実際に震源の近くで暮らしているものからすると、余震に怯えたり、想定外の後片づけに悩まされたりと、色々苦労をしている。

ただ、これだけの震度でありながら、犠牲者の数が少なく済んだのは、阪神大震災経験が大きいと思う。

私は小学生の時に自宅で震度7経験したが、揺れ方だけ見れば、あの時の悪夢と全く同じだった。

違いは、揺れた時間の長さでしかない。

それにもかかわらず、倒壊損壊した建物火災になった建物わずかばかりであったのは、過去の教訓が行きていると思う。

高架橋の倒壊や鉄道脱線がなかったのも素晴らしい。

阪神大震災では、出席番号1つ前のクラスメイトを亡くした。

当時幼いながらも、そのことで、人の生死なんて、いつどうなるかわかったもんじゃない、と感じた。

改めて今回思うのは、儚さだ。人の命もそうだし、割れ食器たちを拾い集めている時も、同じ気持ちを抱いた。

しかし、22年前と比べると、確実に社会は変わったと思う。もちろん、前向きな意味で。

マグニチュード震度だけ見れば、当時より少し小規模だが、被害の規模は明らかに小さい。

建築物は、確実にあの時よりも丈夫になっている。

情報インフラも発達し、被害状況がほぼリアルタイムで分かるようになった。

色んな課題を抱えているこの社会だけど、耐震性というか、カウンターディザスタネスとでも言えばいいのか、

そういった社会の対抗力というのは、確実に進化している。

亡くなったクラスメイトの命も含め、過去震災災害で命を落とした人々の尊い犠牲の上で、私達は日々暮らしているのだと実感した出来事だった。

  • >>亡くなったクラスメイトの命も含め、過去震災や災害で命を落とした人々の尊い犠牲の上で、私達は日々暮らしているのだと実感した出来事だった。 ただしKKOと障碍者と生ぽは別 ...

    • 地震の募金はすぐに集まり、家の再建には補助金が出るが、ホームレスはなにもないからな。

  • 流石はずっと大阪にいた奴は地震に対する認識が認識が甘いね。関西には地震がないとか高を括って東北の震災を見世物のように楽しんでいただけのことはあるね。 阪神大震災を経験...

  • 元・吹田市民だけど、無事で良かったよ。

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