はてなキーワード: キノとは
オマエハ、アクノソシキノイチミダナ! キクミミヲモタナイ!!
ミゆキサンにツイテ
ミユキ カアイソウ カアイソウ
おっカアモカアイソウ お父もカアイソウ
コンナコとヲシタノハ トミダノ股割レ トオモイマス
股ワレハ 富田デ生レテ 学こうヲデテ シュンガノオモテノハンタイノ、パーラポウ ニツトめた
イつノ日か世帯ヲ持チ、ナンネンカシテ 裏口ニ立ツヨウニナッタ
イま(ゑ)ハー ケータショーノチカクデ 四ツアシヲアヤツツテイル
ツギニ
スズカケのケヲ蹴落シテ、荷の向側のトコロ
アヤメ一ッパイノ部ヤデ コーヒーヲ飲ミナガラ、ユキチヲニギラセタ、ニギッタノハ アサヤントオもう。
ヒル間カラ テルホニハイッテ 股を大きくワッテ 家ノ裏口ヲ忘レテ シガミツイタ。
モウ股割レハ人ヲコえて、一匹のメスにナッテイタ。
感激ノアマリアサヤンノイフトオリニ動いタ。ソレガ大きな事件トハシラズニ、
又カムチャッカノハクセツノ冷タサモシラズニ、ケッカハ ミユキヲハッカンジゴクニオトシタノデアル
モウ春、三回迎エタコトニナル
ダッタン海キョウヲ、テフがコエタ、コンナ 平和希求トハチガウ
ミユキノハハガカ弱イハネヲバタバタ ヒラヒラ サシテ ワガ子ヲサガシテ、
広いダッタンノ海ヲワタッテイルノデアル
股割れは平気なそぶり
時ニハ駅のタテカンバンニ眼ヲナガス コトモアル、
なわとび:601回
ボクシング:145kcal/26歳
徒歩:267.4kcal/9130歩
新しいアニメが大量に増えていつもどおり収集がつかなくなってきたのでリストラをして週あたりのアニメの本数を適正な規模に抑えたい
今のところ前期からの継続と今期の予選を通過したのを合わせて毎週録画してるのが18本
これを12本程度まで絞り込みたい
評価順
A:大正義
B:正義
C:いい感じに普通
D:普通
A:ウルトラマンZ
1クールめの終盤を中ボス倒して締めくくる形ではなくて、怪獣を倒すことの意味を考えさせて締めくくる形にしたのは良かった
A:ハイキュー
A:プリキュア
キュアアースはあんまりどうでもいいので他の3人の話をもっと見せてくれ
ゆにさまには幸せになってもらいたい
B:プリチャン
ラビリィとマスコットのえらい人が無限にかわいいので見続けるしかない
B:魔王城でおやすみ
B:呪術廻戦
C:ラブライブ
キャラデザがこれまでよりやや大人っぽくなった感じがする(ゲームのCMのキャラデザと比べるとわかりやすいかも)
1期のときはキャラデザが受け付けなかったのとキャラクターの行動が突飛すぎて1話で無理だった(2期はそもそも見てない)けど、今回はキャラクターも落ち着いていて普通に見れる感じがある
このへんでそろそろ一度ラブライブを履修しておきたい気もするが、無理して見なくてもいいかなとも思う
ブリュンヒルド「最近オーディンの奴が調子に乗って人のことをシグルリちゃんて呼んでくるのマジムカつく」
戦闘の舞台が海上中心なの、作画コストが抑えられるからなんだろうな
C:神様になった日
話の先が気になるけど麻枝なのであんまり期待しても肩透かしを食らいそうな気もする
イケメン異能バトルアニメかと思いきやイケメンシュールギャグアニメだった
C:体操ザムライ
2話見て考える
全人類の7割くらいがニンジャスレイヤーのアニメで見たかった景色を描いているアニメ
C:魔女の旅々
絵はいいのでストーリー次第だが、キノっぽい話になるらしいと聞いてやや不安しかない
なんとなくこういうのを一つくらい見ておきたいような気もするのだけれど、たぶん切るんだろうなあ
いろいろあって最後は現実世界で生きる意味を見出していくような話のまとめ方になるのだろうか
01が期待はずれだったんで仮面ライダーに対する信頼がガタ落ちになっている
とはいえオーズを縦にしてWからトリプルにしたような変身の仕組みは結構面白いと思うし、なんだかんだで気になることは気になる
話はそこそこ面白いけど、ラメの入ったキラメイストーンがださいのとマブシーナ姫が可愛くないのが難
?:安達としまむら
まだ見てないけど2話くらい見て切れたら切りたい
おはようございまーす!
夏の季語で帯に短したすきに長しって言うけど、
もうさ!ドラゴンケースに入れてね!って言うほどプールとか海とか
この昨今賑わいがないと思うんだけど、
おかげで区民プールはこの大晴天のなか休業とか!
笑うしかないわね。
私気付いちゃったの。
みんなは入りたがってる人が入れないから、
誰も来なかったら延々と入ってられるわ!
冬ほどにサウナで整うって未だによくその感覚は分かってないけど、
冬よりは整わない感じがするし
だけど、
せいぜいやっぱり3時間が限度ね。
そんな水風呂水面すれすれの冷たくて美味しい空気を味わいたい夏休みにすっかな!って意気込んでいるんだけど、
近場で過ごすのもお金使わなくて良いんだけど、
でもやっぱり遠くに羽を伸ばしたいところじゃないかしら?
インドではないのは確か。
家でやってることを出先でするってことに
旅感を感じるじゃない?
もう全くもって何何感を感じるって言えばそれは二重表現警察の人達が来そうな勢いだけど。
一方通行を一瞬だけバックしただけで
なんか白バイに捉えられてた人見かけたけて
気の毒だなぁって。
ぜんぜん白バイの人には怒られなかったし、
だけどあれ一輪車でウイリーできるチャックノリスさんならどうなってるか分からないわね。
まあその一方通行を逆に行った人には気の毒だけど、
なんで「いっつう」って入力しても「一方通行」に変換出来ないの?って不思議に思いながら、
私たちは日本語変換を「ふいんき」で使っていたのかしらってこれも雰囲気に変換できないのなんで?って思うわ。
イキフンって打ったらちゃんと雰囲気って変換出来るのには笑っちゃうけど、
なんなのよこの倒語対応!って感心しちゃったわ。
私は俄然として
でもよく考えたら、
ABCマートやタワーレコードなんかで流れてる店内ラジオみたいな感じの、
でもラーメン食べてんのにラーメンの話しなんて面白く聴けるのかしら?とも思っちゃうわ。
だからやっぱりメンラーに合う音って言うのはなんなのかしらね?思うし
優先でもないしFMでもないし、
すするメンラーも格別よね。
ああいう所で、
早く食べ終わっちゃって店から出るから絶対事件解決まで見届けることができない2時間サスペンス物なんかみたらたまんないわよね。
いつも結末は船越英一郎さんの決まり手東尋坊の崖落としが決まって終わるんだけど、
でもやっぱり
エジプトで初の日本人ライブを行ったさあ眠りなさいマドンナ達のララバイでお馴染みの岩崎宏美さんはやっぱり凄いと思うわ!
メンラー屋さんでやっぱり一番ピッタリ合う曲はマドンナ達のララバイだと思う。
レコード大賞は取れなかったのは残念だったけど。
ではこの辺で
なんちゃって~!
うふふ。
野菜野菜サンドってことかしら?三度じゃ無いけど二度は言ってるわ。
みんなも気を付けて!
具体的にはと言うと、
だからキューリ囓りながらウォーキングは理に適ってるってわけよ。
最近よく見かけるでしょ?
見かけない?
じゃ流行ってないのね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
塙 : どうもーナイツですー。
塙 : 早速ですけどね、今流行りのvtuberグループについてヤホーで調べてきたんです。
土屋 : 調べ物はヤフーでしたほうがいいと思いますけどね。どこ調べてきたんですか?
塙 : なんだっけ……名前忘れちゃたな。
土屋 : 調べてきたのに忘れちゃったんですか。
塙 : あれ調べたのついさっきだったのにな。今日の2時か3時くらい。
塙 : 今日はそんなにじさんじについてお話させていただきます。
土屋 : 調べてきたんですって。聞いてあげてください。
塙 : にじさんじはですね、いわゆる企業vtuberグループというやつでして、運営しているのは いつもここから なんです。
塙 : 2018年のサービス開始から2年でチャンネル登録合計が1400万人を突破してまして
土屋 : おーすごいですね
塙 : 所属vtuberも1400万人を突破してるんですね。
土屋 : そんないねーわ。100人ちょっとくらいですよ。それでも多いですけどね。
塙 : 配信内容はメンバーそれぞれ個性が光る物が多いんです。
塙 : まあ、こう言っちゃなんですけど、変な配信が多いんですよ。例えば、2019年2月にデビューしてから、消しゴムでサッカーをするという意味不明な一人遊び動画を100本以上投稿し続ける人がいるんですよ。
土屋 : ……俺だよ。「つちやのぶゆき 世界消しサカ協会」っつってやってんだよ。
塙 : 世界にも打って出るために英語、フランス語などで字幕をつけたりもしてですね
土屋 : だから俺なんだよ。消しサカ流行らせたくて頑張ってんだよ。塙さんいいからにじさんじの話してくださいよ。
塙 : じゃあちょっと、最初にデビューした落花生のメンバーを紹介しようと思います。
土屋 : 一期生ね。落花生vtuberはピーナッツくんくらいかな?
塙 : vtuberっぽいな、って思う人にですね、女神様がいるんですね。
土屋 : あーたしかに。普通のyoutuberだと女神様ってキャラはなかなかいないですよ。
塙 : オイラっていうんです。
土屋 : えー、モイラ様ね。そんなビィくんの一人称みたいな人じゃないんですよ。
塙 : ファンからは親しみを込めて、いもいもって呼ばれてます。
土屋 : もいもいですね。衣装はちょっと芋っぽいの多いですけど。
塙 : あの宮崎駿監督の超名作映画に登場していた人もいるんです。
土屋 : 勇気ちひろだよ。ちーちゃんが千と千尋の神隠しに出てたら湯婆婆はっ倒して終わりだよそんなもん。
塙 : 豚にされた両親を取り戻すためにApexをやり続けなくてはいけないという契約を交わしています。
土屋 : んなわけあるか。あれはちーちゃんが好きでやってるんですよ。
塙 : 男だけど女みたいな格好している人がいますね。
塙 : 和田アキ子。
土屋 : 鈴谷アキだよ。アッコさんvtuberやってねえわ。
塙 : あーごめんなさい!中の人の話しちゃった!タブーですよねすいません!
土屋 : 中の人でもねえわ。アッコさんからアキくんの声でてこねえだろ。
塙 : える っていう子がいるんですね。
塙 : いやー、えるちゃんの初登場時の衝撃は忘れられないですね。
塙 : まさか試験当日に後ろの椅子に座って「私がLです」ですからね。
塙 : 渋井丸拓男ってのもいますね。
土屋 : 渋谷ハジメですかね。渋井丸拓男だとデスノで2番目に名前書かれたモブになっちゃいますからね。
塙 : 彼はバイクが好きなんですよね。
土屋 : ツキノって読むんですよあれ。ライトなんて名前のやつにじさんじにいませんからね。
塙 : この樋口と月ノの二人を指して、カレー味噌なんて呼び方しますね。
塙 : 1期生でも特に人気なのが樋口楓、月ノ美兎、渋谷凛の三人ユニット。
土屋 : 静凛だよ。しぶりんいたらもうそれはニュージェネレーションズだろ。
塙 : あれ?ユニット名なんて言ったっけな……JA、JB、JC……
土屋 : これ正解まで待ってなきゃいけないんですかね。
塙 : あっJA組ですね。
塙 : なんとこのJK組はですね、あのマイクラ配信や雑談配信、そしてなんといっても歌配信など個性的な配信をすることでも有名なんです。
土屋 : わざわざ没個性の配信取り上げんじゃないよ。vtuberの登竜門だよ。
塙 : 僕JK組のやり取りのなかで好きなやつがあるんです。
土屋 : ほう好きなやりとり。いいですね。なんですか?
塙 : 静凛がね、月ノ美兎と樋口楓がイチャついてるところに現れてね、「不倫……!」って言うんですね。
土屋 : プリンだよ。しずりんプリンシリーズそうやって見てたの?嫌でしょそんなめちゃくちゃドロドロしてるJK組。
塙 : そんな月ノと樋口の間には一昨年にじさんじ初となる、待望の第一子が生まれていますからね。子は親の背中を見て育ちますから。vtuber業界の模範として、これからも頑張って欲しいですね。
土屋 : いいこと言ってる風なとこ悪いんですけど、剣持くんは待望の第一子ではないですからね。
塙 : にじさんじにはこれからもvtuber業界の足を引っ張っていってほしいですね。
土屋 : なんでだよ。足じゃなくて腕ひいて牽引していけるだろ。
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person96.html#sakuhin_list_1
夢野久作とかどうっすか
ドグラマグラのイメージもあるけど、読みやすい童話とかも書いている
めちゃくちゃ短いのとか、切れ味鋭いのとかあってなかなか
あと、小川未明も面白い。ちょっとゾッとする童話。赤い蝋燭と人魚とか有名だと思う。
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1475.html#sakuhin_list_1
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1235.html#sakuhin_list_1
性的消費という単語の意味はよく分かりません。この言葉は、あまり英語圏では見ないため(日本語訳と原語がかけ離れているのかもしれません)、性的搾取以上によくわかりません。もしかしたら日本生まれの言葉なのかもしれません。
一応、性的販促/Sex sells (女性、たまに男性、の性的魅力による商品ないしメッセージ等の販促)あるいはそれを是として推進する性的消費主義/Sexual consumerismなんて言葉もありますが、それでしょうかね?
せっかくなので、同じようによく使われる上、ある程度定義も見つかる性的搾取という言葉についても解説したいと思います。
性的搾取/Sexual exploitationという言葉は、特に近年の乱用により様々な意味が付与され、具体的な定義をすることは難しいです。
性的搾取の基本的な意味(基本形)は「他者の性を利用して(不当に)利益を得ること」です。ここでいう利益は金銭のみを指すのではなく、性的満足なども含まれます。
具体例を挙げますと、
・強制的(騙したり、地位を利用したりすることも含まれる)に売春に従事させる
・強制的にポルノに従事させる、あるいは演者の許可を得ずにそれを流通させる
・児童売春、およびそれを保護者/監督者が看過、許可、ないし奨励する
などです。
基本形に対して搾取者の地位/立場の濫用を加味する場合も多いです。「自身の地位/立場の濫用であって、他者の性を利用して利益を得ること」
多くの場合、児童の性的搾取/Child sexual exploitationにおいて地位や立場が意識されます。多くは保護者、少なくとも大人という、子供よりパワーのある存在によって、それが為されるからです。
その性質上、児童の性的搾取は児童虐待/Child abuseの一形態として扱われます。
法的、国際的な議論において性的搾取という場合、これを指すことが多いです。
具体例を挙げますと、
・児童売春、およびそれを保護者/監督者が看過、許可、ないし奨励する
などです。
国連の定義:性的目的での(相手の)弱い立場、力の格差あるいは信頼の濫用行為またはその試みである。他者の性的搾取から金銭的、社会的または政治的な利益を得ることも含まれるがこれに限定されるものではない。Any actual or attempted abuse of a position of vulnerability, differential power, or trust, for sexual purposes, including, but not limited to, threatening or profiting monetarily, socially or politically from the sexual exploitation of another.
後段は分かりにくいかもしれませんが、例えば児童売春の場合、あっせん行為もまた性的搾取になるということです。
上記の3つはかなり似通っていることがわかると思います。これらはある程度明文化された領域(法令や国際条例等)で用いられる定義なので、差が少ないのですね。
これらは主に実在の人間に対して使われますが、児童ポルノ(二次)等も児童への性的搾取を推奨する物として規制されることがあります。
ちなみに、話は変わりますがアメリカにはExploitation fiction/filmという言葉があり、エログロドラッグ背徳系のB級作品に使われていました。
さて、上記の定義は日本のネット界隈でカジュアルに使われている性的搾取とは、どうも違うような印象を受けます。
考えてみましょう。基本ラインはおそらく通底しています。「他者の性を利用して利益を得ること」でしょう。
などです。
さらに付け加えるなら、アンチポルノフェミニスト的な観点も悪魔合体しているように思われます。
・性的表現により女性蔑視を助長することで、家父長制というイデオロギーを存続させるという利益を得ている
・性産業従事者はすべて強制されている(本人が自分の意志で従事していると考えている場合でも)
・"性的"という言葉のレンジが非常に広い(例えば、キャサリンマッキノンは女性が抑圧されている描写があればそれはポルノであると述べました)
まとめると、性的搾取の定義の基本ラインを踏襲しつつ、被搾取者を非実在の存在にまで拡張させ、さらに"性的"および"強制"という言葉を非常に広くとったものが、日本のネット界隈でよく使われる"性的搾取"と言えるのではないでしょうか。
「性的、社会的あるいは政治的な利益を得るための創作物(フィクション)中の表現であって、視聴者あるいは読者の主観に基づき"性的"であると判断されたもの、およびそのような表現を含む一連の創作物」
フェミニズムの視点では「胸の大きい女性を転職情報のPRに起用する」のはまずいようだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/yomogidango0909/status/1218363032004329478
上記のような意見を「本当のフェミニズムじゃない」と感じるとしたら、それは間違いである。
それどころか、現在の日本のフェミニズムの主流やアカデミズムの主張から必然的に導かれる結論である。
このような意見はいわゆる「性的モノ化」(あるいは性的客体化、対象化)の議論に立脚している。
フェミニズムを専門とする社会学者小宮友根と、宇崎ちゃん問題の時にイラスト付きで不適切さを分かりやすく解説していたふくろさんによる以下の記事を読んでみよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864
性的な女性表象の持つ差別性は、フェミニズムの中では「性的客体化(sexual objectification:対象化やモノ化と訳されることも)」の悪さという観点から議論されてきました。
(中略)
たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィの定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛を快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定の身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。
最初のツイートでの「女性や性的記号を利用してPRする」ことへの批判は、上記のように、女性を性的記号に還元するような悪さへの指摘として正当化できる。
なお、上記引用にもある通り「エロいから悪い」「胸が大きいから悪い」のではない、あくまでそれが表現の中で強調されるなどして、記号として利用されることがまずいのだ。
このように(ブコメでは散々な言われようだが)ツイートの批判は、実はフェミニズムとして至って正気の批判である。
ところが、そこにまずさがある。
フェミニズムがこのような批判を正気にし得るということは、フェミニズムは、時と場合によっては(件のPRのような)本人の意思に基づいた女性の行動や社会活動をも批判し得る、ということだ。
ここで一足飛びにフェミニズム批判に走ってはいけない、まずはそのような主張がどのようにして正当化されるのかを考えるべきだろう。
例えば仮に、件のPRの立案者からカメラマンからモデルに至るまで、すべて女性がやっていたとしても、フェミニズムはそれを批判する必要がある。
女性もミソジニーを持ちうるし、性的記号の不正利用も行える、レズビアンの場合を考えれば女性を性的に欲望し消費するケースもあることも分かるだろう。もちろん男性との共犯関係もあり得る。
行為者が女性であることで(男女の非対称性から)悪さを軽減することはできるかもしれないが、免除することはできない。
ここで問題になるのは主に以下の2つ。
1.女性イラストレーターや女性漫画家のような表現者が女性をモノ化して表象する場合の扱い
2.キャンペーンガールやグラビアアイドル、AV女優、風俗嬢等が、自身の身体を「性的な客体」に還元する場合の扱い
件のPRは2に該当する訳だが、その悪さはともに「性的モノ化」によって説明できる。
つまり表現であれ自分の身体であれ、女性を性的にモノ化、客体化することが悪いのだ。(※1)
ここで「1はともかく2は自分の身体、自分の意志でやってるんだからいいじゃないか」「被害者はいないじゃないか」と反論するならそれは間違いである。
直接的な被害者がいなければいいのであれば1も、宇崎ちゃんやその他のあらゆる表象も問題化できなくなってしまう。
問題は、モデルのいないイラストであれ、合意済みの女性自身の身体であれ、「女性」一般に対するイメージを歪めたり利用したり、モノ化できてしまう、その悪さなのである。
こう言い換えてもいいだろう、「女性」のイメージは女性全体の言わば共有財産なのであり、イラストも女性自身の身体もそれを傷付け得る。
例え女性個人が合意していたとしても、それ以外の合意していない女性へもダメージが波及するために、女性の身体を性的にモノ化することは許されないのだ。
従って、個々の女性の身体や女性の表象もまた、女性全体の共有財産だと言えるし、共有財産である限り、個々の女性が(集団の意に背いて)それを好き勝手にすることは許されない・批判される必要があるのだ。
このようにしてフェミニズムは、女性に対するある程度の自由の抑制や批判、そしてそれによる全体主義を正当化できる、できてしまう。
このようなフェミニズムの在り方に対して、フェミニズム自身による更新は難しい。
何故なら上記のような論理は「性的モノ化」のような基礎的な概念から論理的に導出できる以上、その更新はフェミニズム全体を大きく変えざるを得ないし、
その過程で、これまでのフェミニズムが批判しえていた(主に男性たちの)行為や現状を批判不能にせざるを得ないようなケースも出てくるだろう、そうしたことは、多くの女性やフェミニストにとって受け入れがたい。
あるいはアカデミズム側のみのマイナーな議論としてはそのような更新も期待できるかもしれないが、運動としてのフェミニズムにそれを輸入することは恐らく出来ないだろう。
例えば件のツイートに対しても、フェミニズムによる(その女性の身体を共有財産化する全体主義的な傾向に対しての)批判は期待できない、という事からもそれは分かる。
こうした問題を、フェミニズムはこれからも抱えていかざるを得ない。
そしてそこから目を逸らし続けないわけにはいかない、例えそれが欺瞞でも、解決する能力がない以上は。
ほい、屏風
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864
フェミニズムの専門家・社会学者である小宮友根氏とふくろさんの記事。
表象の「悪さ」について、たとえば「子どもがマンガの中の暴力的な行為を真似してしまう」とか「広告に表現された差別的な価値観を身につけてしまう」といった「現実への悪影響」とは違った水準で考えよう、ということでした。
とあるように「子供への影響」はここでは主題ではない。そしてゾーニングの問題もここでは語られていない。
(付け加えれば、あなたの論法は性的モノ化の悪さが「子供への影響」や「棲み分けの不十分」に“のみ”起因する場合にしか使えない。例え子供に見えないように棲み分けても、別の原因で悪いことになればあなたの主張は意味をなさないのだから)
さて、この記事では性的客体化について、「「エロいから悪い」という考えとはまったく違う」とある。中身を見てみよう。
たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィの定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛を快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定の身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。
で、これらの条件に該当するなら、たとえ「少年誌じゃなく棲み分けた、規制された成年誌」でやってたとしても悪い、というのが彼らの主張なわけです。
ね、わかったでしょ。
もし上記のように表現の性質によって性的客体化の悪さを定義しておきながら、非難された途端あなたのように「ゾーニングすればいい」とまったく違う論点を持ち出すなら、それは「自分たちにとって都合が良いか悪いかで主張を変え、「何が正しいか、間違ってるか」には興味がない。」以外の何物でもないわけです。
記事の後半ではふくろさんによるイラスト付きの解説がついてるからじっくり読むといいよ、
女性エロ漫画家の表現がここでの指摘に当たらないと主張したいなら、あなたは単なる恥知らずだとしか言いようが無い。
ところでこの記事の最後にある「法規制より論争を」という主張には私もある程度同意だ。
「論争」というからには互いの主張に論理的検討を加えることになるわけだが、「フェミニズムは女性エロ漫画家を肯定しえない」というのはまさに、フェミニズムがその一部として持つ「性的モノ化」という論点が論理的に女性エロ漫画家を肯定しえない構造をもっている、という指摘にあたる。
このように論理的検討というプロセスを経ていくことで、フェミニズムは前に進むのであって、指摘や批判をただの悪意だと見誤ったり、「女性エロ漫画家をみてびっくりしてるだけ」などと貶めて、フェミニズムを一切批判されえない神聖不可侵なご神体にすることによってではないんだよ。
彼らの議論は時期的に宇崎ちゃんを「性的モノ化」によって批判可能にする目的もあるだろうから、当然この批判はエロ漫画だけじゃなく一般漫画も射程に入るものとしてつくられてる。
従って女性エロ漫画家だけでなく、多少なりとも女性を性的に対象化するような技法を用いて描く女性漫画家もその批判対象に当然なる。
そういう意味では「フェミニズムは女性エロ漫画家を肯定しえない」でも生ぬるくて、「フェミニズムはほとんどの女性漫画家を肯定しえない」と言った方が正確な可能性もあるね。
以前BBCがセックスをしない日本人って特集しましたけど、近頃は性犯罪大国だと言う言説を同じBBCが放送して喧伝する始末。
モーターショーのコンパニオンすら忌避されるなど、キャサリン・マッキノン言説が行き過ぎた感のある昨今「安定の日本人」は世界に広がるであろう・・・w pic.twitter.com/ri1LjCMxFv— たく様(環境型)@リンガ泊地(内調のネトウヨバイト代でハラミ新年会のデオコマン) (@takustrongstyle) 2020年1月7日
まー、児童虐待を組織で隠蔽していたBBCにだけは言われたくないよね(笑)
https://jp.reuters.com/article/tk0525625-britain-savile-idJPTYE89900220121010?sp=true
しかしキリスト教にしろ、国連にしろ、実際実在児童に対して性犯罪を行っている組織ほど日本叩きや創作物規制に熱心なのは本当に不思議だよね(白目)
<入場>
Love wing bell/星空凛(飯田里穂)、西木野真姫(Pile)、小泉花陽(久保ユリカ)、絢瀬絵里(南條愛乃)、東條希(楠田亜衣奈)、矢澤にこ(徳井青空)
作中でウェディングドレスの描写があったのでこれ以外思いつかなかった
<乾杯>
華やかなストリングスではじまる曲なので乾杯の発声と一緒に流してもらった
<ケーキ入刀>
世代的に招待客も知っている人が多そうだった
<退場>
Allegro Cantabile/SUEMITSU & THE SUEMITH
美メロなので
ドラマチックLOVE/一条シン(寺島惇太), 太刀花ユキノジョウ(斉藤壮馬), 香賀美タイガ(畠中 祐), 十王院カケル(八代 拓), 鷹梁ミナト(五十嵐 雅), 西園寺レオ(永塚琢馬), 涼野ユウ(内田雄馬)
歌詞が可愛くて
<歓談>
ウケ狙い
昔から好きな曲なので
歓談にちょうどいい雰囲気だと思った
<再入場>
再び盛り上げたかった
Groovin' Magic/ROUND TABLE featuring Nino
絶対この曲でやると決めていた
素敵だね/RIKKI
末永くともに歩んでいくという決意を込めて
<エンドロール>
光/宇多田ヒカル
Cornellの議論は、ポルノグラフィの危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィは男性をレイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプを輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティの世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的な手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつの表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別は同義語なのである。彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語と行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィが性差別そのものであるという一種のイデオロギーに依存した議論に対する批判そのものである。
もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉を制限的に定義することによって、そうした一般的な議論ではなく、特に女性に対して酷薄なもののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象の問題は不可避であり、言語と行為を限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制の根拠は果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語と行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり、日本におけるポルノグラフィの製作が必然的にそうした女性虐待を表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィの表象が必然的に(fuckerとしての)男性をレイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性の従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。
また、Cornellの依拠するポストモダン・フェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判の対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズムの根底的目的に対して、一定の文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムにコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまり、ポルノグラフィの規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性と被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである。
そもそも、ポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから、女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定の勢力として存在していた。これらは全く女性が使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィの概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性の性的欲望、セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたことからの解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタな二項対立の接続が否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリームは男性が製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリームは男性向けであって、女性向けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィが必然的に男女を社会的に構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。
4. 結び
前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダン的フェミニズムの見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理はポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。
日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定の表現について規制を肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史を判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィの規制は道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制を検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳を可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害が現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からのアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制を正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノ派フェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニストの議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり、特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念が同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。
こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴである。さらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在の規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力や虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段が妥当であるかが問われるべきではないだろうか。
一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制の対象となるのではなく、むしろ一つの「職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知が必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的に正業であると認知されることは、その「職場」におけるハラスメントや虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーン・ハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。
以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。
参考文献
・キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン著 中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィと性差別」(青木書店, 2002)
・ドゥルシラ・コーネル著 仲正昌樹監訳「イマジナリーな領域」(御茶の水書房, 2006)
・大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)
・キャサリン・マッキノン著 森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)
某献血ポスターの件でまたあちこちが燃えているけれど、フェミニズムについて両陣営がよく理解していないまま戦争しているなあ、と考えていたらふと学生時代に書いたレポートを思い出したので供養しようかと思う。
これは「ポルノグラフィの法規制」に対してのフェミニズム的観点がテーマであって今回の件とは必ずしも直接は関与しないが色々なところが補助線として使えるのではないかと思うのでもし議論の整理に何らか役立てば。
字数が切れていたので分割。
以下本文
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1. 問題設定
本レポートでは、ポルノグラフィとその法規制について、いくつかの観点から検討する。ポルノグラフィは、フェミニズム運動の中でリプロダクティヴ・ライツやセクシュアル・ハラスメントなどと並んで一定の地位を占めてきた。一方で、その規制は、日本国憲法21条や米国憲法修正1条にいう表現の自由と正面から激突するものでもある。本レポートにおいては、日本国憲法の射程に限定しつつ、これらがいかに衝突するものであり、どう分析されるべきかを簡単に整理することを目標とする。
最初に検討されるべきは、規制の対象たりうるポルノグラフィがいかなるものと定義されるかということである。もちろん、いかなる性的な描写もポルノグラフィであって規制の対象たりうる、という立場自体は不可能ではない。しかし、表現の自由が強く保障されることを前提としたときに、容易には首肯しがたい立場であるということは言うまでもない。表現の自由への制約は可能な限り小さくなくてはならないというのが前提であるとすれば、規制の対象となるべきポルノグラフィもそれ自体また狭く定義される必要があるであろう。
まず、一般的なポルノグラフィの定義について俯瞰する。いわゆる四畳半襖の下張事件において、「わいせつ性の判断に当たっては、文書全体としてみたとき、読者の好色的興味に訴えるものであるかどうか否かなどの諸点を検討することが必要で、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、チャタレー事件で示したわいせつ三要件に該当するといえるかどうか判断すべきである」という判断がなされており、わいせつ三要件(通常人の羞恥心を害すること、性欲の興奮、刺激を来すこと、善良な性的道義観念に反すること)をベースとしたうえで、社会通念に照らして文書等のわいせつ性が判断されるという判例を構築している。
判例の立場は、わいせつ性が前面に出ているのか否かという観点を取り入れることによって性的な対象を扱った作品であっても、芸術的価値の高さなどに応じてわいせつ物該当性を認めないという形で一定の制約を設定しているといえる。ここには、表現の自由との緊張が見て取れる。つまり、本来は性的表現であっても、直接他者に危害を与えるものでない限り、国家によって自由を制約されるべきではない。しかし、わいせつ該当性があるならば、例外的に規制することが許されるとしていわゆる定義づけ衡量を行ってわいせつ図画を規制しているものであるといえる。
一方で、Andrea DworkinやCatherine McKinnonはポルノグラフィをいかに定義したか。それは、実際に彼女たちが起草した反ポルノグラフィ条例に見て取れると考えられる。ミネアポリス市の反ポルノ条例第三条 は、「ポルノグラフィとは、図画または文書を問わず、写実的に描写され、性的にあからさまな形で女性を従属させるものであり、かつ次の各事項の一つまたはそれ以上を含むものを言う。(1) 女性が人間性を奪われた形で、性的な客体、もの、または商品として提示されている、(2) 女性が苦痛や辱めを快楽とする政敵対象物として提示されている、(3) 女性がレイプされることに性的快感を覚える性的対象物として提示されている、(4) 女性性が縛られ、切りつけられ、損傷を加えられ、殴られ、または身体を傷つけられた性的対象物として提示されている、(5) 女性が性的服従の姿勢で提示されている、(6) 女性が、その身体の部位……に還元されるような形で示されている、(7) 女性が生まれつきの娼婦として提示されている、(8) 女性がモノや動物によって挿入された状態で提示されている、(9) 女性が、貶められたり、傷つけられた李、拷問されたりする筋書きにおいて、汚らわしいものないし劣等なものとして、または出血したり、殴られたたり、傷つけられたりして描かれ、かつそれらの状態を性的なものとする文脈の中で提示されている」と詳細に定義している。最高裁判例の打ち立てた上記の基準と比べるとこれは、はるかに明快である。
ところでこの二つの定義には、その明確性を超えて、根底的な部分でのポルノ観の相違が明々白々と見て取れる。これは、ポルノ規制を日本において考える際にも重大な差異であると考える。
最高裁におけるわいせつ概念の定義は、三要件を用いたその定義から明らかに、社会的性道徳、善良な性風俗といったものを保護の対象としている。つまり、過度に扇情的なポルノ作品が市場に氾濫することで、社会を成り立たせている道徳基盤が破壊されることを防ごうという目的である。いわゆるチャタレイ事件の控訴審における判決理由中の「かゝる文書が猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである」という文章は、まさにこの懸念がわいせつ文書を規制するべき理由であるということが念頭に置かれているものであると考えられる。
ミネアポリス市ほかいくつかの都市で起草された条例は、こうした目的のもとにポルノグラフィを規制しているのではない。それは、McKinnonらの論文や、また、条文そのものから明白である。ここで、ポルノグラフィはまさしく「女性差別」そのものとして認識されている。
ポルノグラフィは、女性を隷属させ、性的に対象化objectificationするものである、とラディカルフェミニストたちは考える。つまり、「ドウォーキンはいう。『女性の従属においては、不平等そのものがセクシュアルなものにされる』。マッキノンも次のように述べている。『ポルノグラフィーは女性の不平等をセクシュアルなものにする。それは女性の不平等をセクシーなものに仕立て上げる。それは、言葉の最も広い意味で、支配と服従をセクシュアルなものにする』」 。
ここで、ポルノグラフィに対する定義が、二方向のアプローチを有しうることが示されている。つまり、ポルノが消費されたときに、社会が倫理的、道徳的にどのような影響を受けるかという観点と、道徳的観点を一切取ることなく、ポルノの中で女性がどのように扱われているか、またポルノを消費する男性が女性に対してそれを再演することでどのような危害が生じるか、という観点である。
Millの提示した危害原理を素直に適用する限り、後者の観点の方が規制の根拠としては明らかに優れている。前者において、明白な危害は存在していない。先に引用した人類滅亡論などは、まさしく論理の飛躍であろう。一方で、後者のアプローチをとるならば、それが証明される限り、実際の危害が生じていると言える。これは、いかに表現の自由の価値を絶対視し保護するとしても、しかしそれを規制する十分に強力な根拠たりえる。次章では、ここで主張される危害について検討する。
ポルノグラフィが「危害」を有するものであるならば、それは表現の自由を主張してもなお規制に当たることは言うまでもない。表現の自由に対して強く保護を与えることを主張したアメリカのOliver Wendell Holmes Jr.判事であっても、満員の劇場で「火事だ!」という嘘を叫ぶことをいかなる表現の自由も保護しないと明言している 。また、実際にポルノグラフィが一般的な危害を生ぜしめないとしても、上記の条文を見るに、発生しうる危害から逆算的にポルノグラフィが定義されており、これは限定列挙であると考えるべきであろう。
もっとも、注意しなくてはならないのは、ここで挙げられたものは、危害を「創作」したものまで範疇に含まれることである。つまり、女性が傷害を受けるという「現実」の存否にかかわらず、そうした創作は、ポルノグラフィとして定義される。そうした映像が、現実における傷害と必ずしも一致しないことは、あらゆる劇作の前提である 。そして、実際に生じた傷害については、こうした条例や法律にかかわらず民事上、刑事上の責任を負わしめることが可能である。
危害がどの広さで認識されるべきかということについては、確定的な見解はいまだ存在しないものと考える。元来はMillのいう危害原理、すなわち身体的な危害を指していたものであるが、現代的にはこれを精神的(に深刻)な不快の限度にまで拡大した不快原理offense principleと言われるものまで提唱されている 。もっとも、身体的な危害については明確で客観的な基準の定立が可能である一方で、主観的な不快およびその深刻性については、客観的な判断が困難であり、現行の法システムに馴染むのかという点で深い疑義がある。
ラディカル・フェミニズムの主張する「危害」がそうしたグラデーションの中でどこに位置するものであるかは、詳細な分析を必要とする。McKinnonの言明する危害は、ポルノグラフィはそれ自体性差別であり、それによって女性が従属化されるということである。そして、そのポルノグラフィの撮影において、また、ポルノグラフィが再演されることによって、女性は「縛られ、殴られ、拷問され、貶められ、時には殺される場合さえある。あるいは、単に犯され、使用されている。視角ポルノに映し出されているあらゆる行為のために、女たちは実際に、縛られ、切りつけられ、焼かれ、猿ぐつわをはめられ、鞭うたれ、鎖でつながれ、肉吊り棒や木からロープで吊り下げられ、あるいは、……放尿させられ、排泄物を食べさせられ、ウナギやネズミやナイフやピストルで貫かれ、喉の奥までペニスで侵され、血や泥や糞便や精液で汚される。……ちなみに、膣にペニスが挿入されるという意味での性交は、そこでは副次的なテーマに過ぎない」 。すなわち、ポルノグラフィは、男性の女性に対する性欲そのものが充足されるためのものではなく(それは副次的なテーマに過ぎない)、もっぱら女性に対して暴行を加え、二級市民化することによって従属せしめることが目的とされ、そのためのプロパガンダとして成立しているものであるとされる。「ポルノグラフィは女性憎悪の純粋蒸留物であり、女性の経験の中でレイプ、女性殴打、近親姦、強制売春と結びついている。そのことを考えるなら、ポルノグラフィを擁護して発言する自称フェミニストがいったいいかなる道徳的・政治的原則にもとづいているのか、とうてい理解することができない」 と彼女は断言する。
実際にこれらが物理的危害として発生しているのならば、それは全く看過することのできない危害そのものであり、規制はされてしかるべきものである。しかし、これらは実際の刑法典、民法典の規定によって補足可能ではないか? という疑問が生じてくる。McKinnonはこれに対して、現実にそうした摘発がなされていないことをもって実質的に法は存在せず、それゆえ国家及び社会がポルノグラフィを公認していると見做される旨主張する。
McKinnonの熱烈なポルノ批判に対し、Drucilla Cornellはポストモダン・フェミズムの立場のもと、一定の距離を置く。「私たちは、ポルノグラフィの生産に対してとられるべき法的行為=措置を、ポルノグラフィの配給に特化してとられるべき行為=措置から区別すべきである。私は、この区別が、ポルノワーカーを含めた女性たちが、人格となるプロジェクトを引き受けるのに十分なだけ自己を固体化していく、というフェミニストの目的に根本的に寄与すると主張する。この産業の女性たちを連帯に値しない不幸な犠牲者として扱うことは、彼女たちの基本的な尊重を拒絶することである」 という言葉は、ポルノワーカー女性について、「ポルノグラフィに出演している女性の多くは、子どものときに性的虐待の被害者であった。……自宅から性的虐待を逃れて都会に出てきた子どもたちは、そこでヒモに拾われ、レイプされ、殴られ、麻薬づけにされ、売春やポルノグラフィに従事させられるのである。ポルノグラフィに出演している女性の多くは貧しく、たいてい教育を満足に受けていない。ポルノグラフィが存在している社会は、女性が経済的に不利な立場に置かれている社会である」 と記述するMcKinnonらを批判の対象としている。Cornellはさらに、「私は二つの特殊フェミニスト的な理由から、ポルノグラフィの規制を法律に過度に頼りすぎることに対して懐疑的である。第一に、反差別法の基礎としてステレオタイプな女性性を強化すべきではない。言い換えると、キャサリン・マッキノンの仕事のように、女性を「ファックされる者 fuckee」か犠牲者に切り詰めたうえで、そのような存在としての女性に対する保護を要求するような、文化的にコード化された女性性を促進するような法はいらない。そういうわけで私は、マッキノンやアンドレア・ドゥウォーキンのそれのような、ポルノ規制の適切な法的手段としての市民権条例案を拒否する」 と言う。