はてなキーワード: わだかまりとは
もうあんまり覚えてないけど、物心ついた頃くらいから既に仲良くない気がする。
箸はこうやって持つんだよとか、スープはスプーンで掬って口元まで零さないように運ぶんだよとか教えても、一向に出来るようにならない。字も、何回書かせても汚いまま。そもそも、出来るようになろうという気持ちがないんだと思う。
逆に右手はすごく良い子。箸の持ち方は完璧だし、スプーンもスムーズに運べる。字だってキレイに書ける。
ある時私は右手に言った。
「貴方はすごく出来る子ね。頼りにしてるわ」
「そんな事ないよ。私だけじゃ出来ない事だらけだよ」
しかしある日、右手が怪我をしてしまった。患部に軟膏を塗らなければいけない事態に発展したのだが、当然右手は自分で塗る事が出来ない。だから左手にお願いした。
すると、患部から軟膏がはみ出てしまった。最初はまあ仕方ないかと思ってスルーしてたけど、結局完治するまでずっと軟膏ははみ出してた。
それでいて
なんて言う左手に対して、私は、
「何も出来ないくせに、なに偉そうな事言ってんの」
「じゃあ、明日は私を使わないで過ごしてみなさいよ」
と言った。
当然出来るだろうと思った私は、二つ返事で了承した。右手はとても不安そうにしていたが、大丈夫、貴方なら出来るよと励ました。
次の日、右手はあらゆる失敗をしてしまった。箸やスプーンは問題なく使えたから、調子に乗ってしまった面もあると思う。
初めは文字だった。右手だけで書こうとすると紙がずれてうまく書けない。失敗した字を消しゴムで消そうとしたら、紙が引っ張られてぐしゃぐしゃになってしまった。
メイクも失敗した。いつも左手が書いている左の眉に対して、「平行眉にしてって言ってるのに、下手クソ」って思ってたけど、右手が書いたのを見て驚いた。平行眉どころか、下手なノの字のようになってしまっていたのだ。
料理もダメだった。途中までは右手ひとりで作業を出来るけど、フライパンが重くて持ち上がらないらしい。少し持ち上がったとしてもプルプル震えてしまい、とても盛り付けのためにフライパンを傾けるなど出来るようには思えなかった。
実際、出来なかった。プルプルと震えていた右手は遂にフライパンを自身から放してしまった。まずい、このまでは料理が全て台無しになってしまう、と焦る私を置いて、左手が咄嗟にフライパンを握ってくれた。
左手はプルプルしなかった。それどころか、盛り付けのためにフライパンを傾けてくれた。右手が小さく「ありがと」と言った。
私はその後、しきりに謝った。最初の方は左手も「何を今更」や「別に謝ってほしくて助けたワケじゃない」などと言っていたが、最後には「まあ、分かったんならいいけど」と私を許してくれた。
左手は何も出来ない訳じゃなかった。フライパンを支える力だってあるし、右手が字をうまく書けたり消しゴムをかけたりできるのは左手が紙を抑えてくれているからだし、眉を書くのは不器用なりにもすごく気を使って、何度も練習してくれていたのだった。
確かに左手とはまだあまり仲が良いとは言い切れず、わだかまりが残っているけど、これからは積極的に左手に話し掛けたりして、仲良くしていこうと思う。これからもよろしくね。
映画を見た。詳しいタイトルを挙げるとネタバレに繋がるのでぼかすが、2010年代前半に作られたミステリもので、犯人は40代の男。
動機は70年代に未解決のまま終わった事件の黒幕を捜し出し、復讐すること。男の父親は事件によって殺されていた。
こういう物語は、どんどん減っていくんだろうなと思う。
昔を生きていた人間が年老いて死んでゆけば、過去の犯罪を因縁に持つ犯人は減っていく。私が見た映画だって、舞台が現在(2021年)であれば成立し難い。犯人は50歳を超えているので、少なくともアクションシーンを少し削らなければ。
公的組織の不透明さ、捜索技術の不足、それによって生み出されるわだかまりだとか未解決事件というのは、時が進むにつれ減っている筈だ。
※根拠として示せるものは特にない。映画を1本見た素人の所感なので。
ミステリーの舞台は事件現場から建物の中へと移っている気がする。(※示せるものは以下略)
警察は本当にそんな部署を抱えているの?と言いたくなるような分析組織(監視カメラの映像や前科者のデータが壁一面に映し出されていて、監禁場所を特定する凄腕ハッカーなんかがいる精鋭部隊)が舞台のドラマをいくつか見た。
最新の電子技術を使った捜索、脳や精神の研究者が活躍するミステリー。
犯人の行方、身元が技術の進化によって「謎」でなくなりつつある今、ミステリーは新たな「謎」を求めてより未知の領域へと足をふみこもうとしている。(※素人の以下略。しかし移り変わる先はともかく、昔の推理小説を読んでいたら、「そんなの監視カメラを辿ればいいんじゃない」と思うことが偶にあることから分かるように、過去の題材は、進歩した現在で「謎」になり得ないことがままある。)
ずっと昔、今では義務教育で習う出来事を誰も知らなかった時代、ただの自然現象は「謎」であり「魔法」、「奇跡」、「神の仕業」であった。
それが次第に解き明かされていくと、今度は人間の行動に焦点をあて、物語の謎とした。
じゃあその次は?それらは今現在有名な推理小説作家の作品と並べられるだろうか。
大昔の謎から生まれた物語が神話、伝説とされミステリーとは並ばないように、私達が今楽しんでいる小説、ドラマ、映画も、無知な人間が描いた娯楽作品とされる日が来るかもしれない。
過去に迷宮入りした事件を最新(2010年代)のテクノロジーを利用して暴いていく犯人を見ながら、ぼんやりとそう思った。
本当に素人の考え。
一月二十八日(木)
先日、TENGAを買っても紙袋がもらえなかったのだが、それが店員さんのうっかりミスかどうかを確かめるために、もう一度ジョギング帰りに同じ店舗でTENGAとついでに飲料水を購入した。何も言わずにTENGAを手渡しされた前回とは違い、今回は袋はいりますか、と尋ねられて断ったのだが、やっぱりオナホを隠す袋はもらえないらしい。これも環境のためだろうと思い、先週と同じくポケットに突っ込んだ。白いソフトタイプだったから同じ色のジャージにしまっても目立たない。
それはさておき、コンドームを買っても袋はもらえないのだろうか。あるいは、生理用品なんかはどうなのだろう。薬局とコンビニとでも対応が違うのだろうか。生理は隠すべきものだという風潮は一昔前に比べれば薄れたが、やっぱり恥ずかしいと思う人はまだ多く、これでいいのかと思わなくもないが、そういう人は普通にビニール袋をもらうなり鞄にしまうなりするので問題にならないのだろう。
そういえば、横浜駅西口五番街でエロ漫画を買ったとき、書店名の入っていない黒い袋に入れてもらった記憶があるのだが、そこでエロ漫画を買ったらやっぱり袋なしがデフォルトなんだろうか。気になるところだが、今読みたいエロ漫画が特にあるわけではない。エロ漫画ソムリエの友人にいいのはないのか尋ねるのも面倒だ。
仕事は本社半分、テレワーク半分というところだが、来週からは残念ながら当分は出勤しなければなりそうだ。職場の環境はよく、いつでもコーヒーが飲めるのはありがたいのだが、最近の流行だろうか、オープンスペースで自分の席の後ろが会議スペースになっている。そこで何やらもめていたり叱責していたりと落ち着かない。最近は以前と比べればこうした人の声が気にならなくなってきたのだが、昨日はオンライン面接とその評価をやっていたが耳に入った。体育会系だけれども笑顔が足りないとかへらへらしているだとか、好き勝手言われつつ採点されているのを見ると、自分も入社時は人事にいろいろと言われていたのだろうかと想像される。
何の関係もないが、さきほど日本世論調査協会だとかそんな名前のところから電話がかかってきた。電話を受けてみると自動音声で何やらアンケートに答えてくれという。今週はクレジットカード宣伝の電話も業務時間中にかかってきたし、何かと忙しい。弊社は昼休みの時間が若干ずれているので、その旨を伝えると大変恐縮していた。
今日の夕飯はとんかつとカキフライだった。おいしい。おいしいが正月に体重が一キロ半増えてから戻らない。妹がおいしいパンを頻繁に焼くからなおさらである。
夕飯を食べて一息入れてから、購入した入江亜季「北北西に雲と往け」の五巻を読んだ。もともとこの漫画はタイトルだけ知っていたのを、おととしの冬にデートした女性に勧められたので既刊を全部買ったのだが、結局その女性とは付き合うことはなく、続きを読む気になれなかった。さいわい、昨年の秋から別の女性とおつきあいすることができたので、そうしたわだかまりもなく新刊を手に取ることができた。主人公とヒロインがちょっと素直になったのを、特に嫉妬することなくもなくニヤニヤしながら読めるのはうれしい。
この問いを投げ掛けられた背景には、仏教や寺院に対する嫌悪感や不信感をお持ちであるということ、私が一人の僧侶として試されているのだということはよくよく伝わっておりました。
私も“お坊さん”は嫌いです。あなたが経験してきたようなことを、私も一通り味わってきたからです。
分かるような分からないようなことを喋って適当に煙に巻いた後、檀家と一緒になって飲めや歌えや大騒ぎ。女は台所で忙しくしていろ、お膳立てとお酌は当たり前、女人はどうしようもない生き物だから仏に救われにゃならんのだ、……。
醜悪な人間に宗教を好き放題に扱わせると、こういう地獄が生まれます。田舎ではよく見受けられる地獄です。私も犠牲者の一人です。
あなた様も、あのおぞましい空気の中で耐え忍んでこられたのですね。心中お察し申し上げます。
私も講師に対してあえて意地悪な質問をしたことがあります。私の場合はそれがとんでもない反応として返ってきました。その時の絶望感と言葉に表せない惨めさは、今でもありありと思い出せます。
私はもう、そういう思いを抱えている方を生み出したくないのです。「こんなに素晴らしい教えなのに、誤解ばかりが増えていく現実をどうしたらいいのだろうか」……。悩まなかった日は一度としてありません。
もし、少しでもあなた様のわだかまりをほどくお手伝いができたのだとすれば、もったいないことであります。私に問い掛けてくださり、このような機会をお与えくださり、ありがとうございました。
宗教は悩める人のためにあります。その宗教のために悩んでしまっては本末転倒です。
あなた様がご夫君と穏やかな日々を歩まれるよう深くお念じ申し上げます。
そして、もし何かつまずいてしまうような未来が来てしまった時は、苦を抜き去る手立てをいくつも教えてくれる私どものみ教えのことを、ふと思い出していただけたのなら、私もお同行も、大いに喜びます。
合掌
真宗宗派は「門徒」で合っております。よくご存じでと申しましょうか、よくお寺での説法を聞いていただいているようで、謹んで敬意を表します。
横からの増田さんからのお返事も拝読して、私も少し分かってきたことがあります。
僧侶増田さんに違和感を感じたり反発したりされている方は、この言葉が非常に不快に刺さっているのだろうと思います。
私の受け取り方(そのおそらくは、真宗宗派の考え方を下地にした受け取り方)は、「切り捨ててしまう」ほど強権的な物言いではなく、しいて言い換えるなら「去る者は追わず、来る者は拒まず」というような意味合いです。
元増田の話でいえば、反発されるご親戚の方々を元増田がいくら説得しようとも、ご親戚の方々が聞く耳をもとうとされないのであれば、元増田もまたそのご親戚の方々の態度・考えを尊重されて、無理矢理にでも納得させるようなことはおやめなさい。無理に引き込んだり、引き込まれたりしても、お互いにわだかまりが残ってしまってはよくありません。・・・僧侶増田の説かれたいところは、そんな説法だと私は受け取っておりました。が、たしかにそれに続く説法の中で、ご親戚の方々に強く当たるような表現もまたあり、そこまで言わなくともという感想は私増田も理解するところです。
宗教・宗派・背景によらず、みんなが分かる考え方・言葉遣いが求められるのでしょうけれども、私増田はどうしても個々人の背景の上に成り立った考え方・受け取り方からは逃れられないとも考えています。
同じ言葉でも受け取り方が、宗派・宗教が違ったり、仏教用語として理解されるか現代日本語として捉えるかによっても変わってきます。真宗宗派でよく話題にされるのは「他力本願」という言葉です。Wikipediaにもある通り、真宗宗派のことば(Wikipediaの前者)として理解されるか、現代日本語(Wikipediaの後者)として捉えられるかによって大きく意味が変わってきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98
・・・などと長々と書いておりますが、私増田は真宗宗派のお寺にお墓があるだけのごく普通の家に生まれた者です。少しだけ、お寺さんでの勉強会に通っていた時期はありますが、正信偈も冒頭が読めるかどうかの程度です。寺の生まれでも、檀家でも、熱心な門徒でもありません。
お近くのお寺で、よいご縁の中で、仏法に出会えるとよいですね。もしくは、ある程度大きなお寺であれば、月1回とか週1回のペースの勉強会を行っているところもあります。なんでもなしにお寺に行くことが難しいのでしたら、そうした勉強会をきっかけに仏法に触れられて、またご同朋やお寺の方とお話するご縁が見つかればと思います。お寺による・檀家によると言ってしまえばそれまでですが、真宗宗派のお寺の多くは、ご縁のある方は暖かく迎え、ご縁のつながらなかった方にもまた暖かく送られる姿勢です。
今一度、お付き合いいただければと思います。
まずは、今回の私の投稿をお読みいただき、重ね重ねありがとうございました。まさかここまでの反響をいただくとは夢にも思わず、ブックマークが1000を超えた辺りから身体が震え出し、喉はからからに渇き、手の痺れが止まらない体たらくで、よくも悪くも注目を集めることの重圧を初めて味わいました。お恥ずかしい限りの有り様です。
「この説法を読んだみんな (元)増田のお祖父さんのリモート葬儀に参列したようなものだ」
「(元)増田さんが勇気を出して書かなければ現れなかったご縁」
とコメントしてくださった方がおられましたが、正にその通りだと思います。
お祖父様の生前のご希望・ご親族のわだかまり・元増田さんの苦慮と懊悩・私が僧侶として学び感じてきたこと……様々な縁が積み重なって因となり、この果をもたらしました。
一連の記事を読まれた方はみな、会ったことも見たこともない元増田さんのお祖父様の死を受け止め、素性も分からぬ私の法話に心を傾けてくださり、それぞれがご自分の「今」、ご自分の「これまで」と向き合った。そのような瞬間に立ち会えたこともそうですが、私がそのささやかなお手伝いができたのだとするならば、返す返すもったいないことであります。
たとえ学んだ経験を持たずとも、皆様は真宗の心をよくよくご承知なのだと、喜ばしく思いました。
しかし同時に、私が一方的にご親族を非難するような語り口になったことで、一部の方にご不快な思いを抱かせてしまい、本当に申し訳ありません。
元増田さんの痛みが少しでも和らげばと思い、思い悩む側に立ってお伝えしたつもりでしたが、その主張に至る論拠も背景も提示せぬまま、語調への配慮もなく投稿してしまった浅はかさ。ひいては、浄土真宗の教義や宗旨そのものに対する誤った印象を広めかねない軽率さを、深く悔いております。
身口意の三業(しんくいのさんごう:苦しみを生み出す元ともなる、身体と言葉と心の在り方)を正さなければならないのは私こそだと、改めて皆様からお教えいただきました。
今回の投稿を機に、様々な声をお寄せいただきました。その中からいくつか、私が個人的にお伝えしたい、或いはどうしてもお答えしなければならないと感じた点について、一つ一つ書き綴っていきたいと考えました。
ところが、お答えしたいと感じたコメントも、それに対してお伝えしたいと考えているお話も、あまりに膨大な量になってきてしまったため、今ここでそのすべてを書き記すことはできません。
そこで、ある方からコメントでご希望をいただいたこともあって、note等の他媒体で一つずつ回答を掲載してゆく形を取れないかと検討しております。今しばらくお時間とご猶予いただければ幸いです。
また、すでに書き終えた箇所については、以下に記しますので、暇つぶしがてらご一読いただきたく思います。
お同行(どうぎょう:人生をよりよく生きたいと願い、共に歩む仲間たち)の皆様に、何か少しでも響けばと願って。
合掌
お釈迦さまがご存命の頃、覚者として名高いお釈迦さまの噂を耳にしていた方が、お釈迦さまの姿を見掛けるなり、突然敬いの態度を取られたそうです。その方に対してお釈迦さまは、
と仰せになりました。
お釈迦さまという人間(物質)そのものは何も尊くなく、その姿をただ拝んだところで意味はない。仏を本当に敬う心というのは、仏からもたらされた法 (= 真実 = 悟り・気付きへと至る教え) を深く信ぜられる心があって、初めて沸き起こるのだということです。
100人いれば100通りのものの見方が生まれます。なぜなら私たちはみな一様に、自分の都合のいいように物事をねじ曲げて捉える色眼鏡、「邪見(じゃけん)」の持ち主だからです。
信じる方もいれば、信じない方もおられるでしょう。私自身は信じられなくとも、一向に構いません。後はあなたのお好きなように受け取ってください。
信じてくださった方には、
とお伝えしたく思います。
法務が忙しく、自坊で取り入れることは現状難しいですが、私は賛成派です。
どんな形であっても、そこで出遇うのは人と人です。これまで仏縁をいただくはずもなかった方のお宅を訪ね、仏事作法・死生にまつわるお悩みに、私どもの信ずる教えをお伝えできる機会を賜われるとしたら、ありがたいことです。
という言葉を遺しておられます。理想的とはいかないまでも、それぞれに合った形で、仏法は平等に一切に施されるべきなのです。
これは浄土真宗の三大経典のひとつ、大無量寿経において、お釈迦さまが弟子の阿難(あなん)に対して、
と、身も心も改めるよう告げられた場面に由来しております。
我々僧侶は、法務に臨む上で、常にこの阿難に求められた姿勢を貫くことを責務としています。
さしたる戒律も持たない浄土真宗を“寛容”と捉えるのか、“険しい道”と捉えるのかが、俗世と求道者の大きな分かれ目となるのでしょう。
たとえば、もしもあなたが、
「世間の人たちが当たり前にしてることをあなたもしていいよ、それであなたも仏になれるよ」
と言われたとして、あなたはその言葉をどれほど信じられますか?
「他の宗派みたいに滝に打たれたりとか山籠りとかそれっぽい修行しないんですか?(笑)」
「何なのその髪の毛? ありがたみが足りないね」
と好き放題になじられ続けて、それでも自分は間違いなく仏になれるのだと、あなたは胸を張って言い切れますか?
我々の求道の在り方は、甘えでも寛容さでもなく、「覚悟」です。
世間は常に、自分たちで勝手に作り出した意味もない物差しに、自分たちで勝手に縛り付け合ってああでもないこうでもないと罵り合い、争い合っています。そんな人々の下世話な好奇の目や嘲りにも耐えて、たとえ自力聖道門の尊いお坊様のような修行は積めずとも、ごく普通の人間と変わらぬ平凡な生活を営みながら、それでも間違いなく仏になれるのだと、己が第一に身をもって証明していく勇気を見せなければならないのが浄土真宗の僧侶なのです。
という言葉で表され、また
と仰せになり、決して退くことのない浄土への道をひたすらに歩まれたお方でした。
であればこそ、親鸞さまに救われた私もまた、親鸞さまと同じ生き方を願い、その道を皆様と共に歩みたいと思うのです。
ありがとうございます。しかし、現実の私はそのような人間ではありません。何しろ私は、この教えに出遇わなければ死を選ぶしかなかったほど、弱く、もろく、そして愚かなためです。
もしもあなたが私の書き込みに何らかの功徳を感じてくださったのだとして、ではその功徳をもたらしてくれたのは誰で、どこからきたものなのでしょうか。命を断つしか選択のなかった、世間と人間社会を呪うしかなかった私のこの頭から、口から、心から、仏の教えがこぼれ出てくるという不可思議な現象は、なぜ起きたのでしょうか。
今回の場合は、すでに冒頭で述べた通りです。私が言わんとするところはつまり、私自身が尊いのではなく、私のような者に教えを語らせた諸々のはたらき、「わたし」と「あなた」の間に結び付きを与えてくださる種々のはたらきが尊いのです。
すべては響き合い作用し合い、そして悲しみやよろこびを生み出しています。
私はできるだけ悲しみを減らすお手伝いをし、できるだけよろこびを増やすことを務めとして生きてゆきたい。そう願っています。
と、開祖である親鸞さまが仰せになったように、煩悩具足(ぼんのうぐそく:煩悩に満ちた状態)の凡夫(ぼんぶ:弱く無力で自力で悟れない愚かな存在)の身には出過ぎた願いではありますが、様々な縁によって助けられ支えられ励まされ慰められ育てられて生きてこられた、その力だけは、私には絶対の事実です。私は私以外からもたらされた力を一心に信じさせていただき、今日まで生かされております。この歓喜と慚愧の念に頭が下がり手が合わさる心を、他力本願といいます。
真に功徳に満ちているのは、真にありがたいのは、私たちに「あなたが救われて欲しい」と種々にはたらきかけてくださる、阿弥陀如来さまであります。南無阿弥陀仏。
件の投稿よりももっと長く書き綴っていた文章が、残り数行というところでうっかりページバックボタンに触れてしまい、全消失しました。あまりのショックにじたばたと暴れ、ウワー!と叫びました。
「諸行は無常、こんな記事を書いたところで誰が読むでもなし、諦めて他のことをしよう」
と思って立ち上がった途端、リングコンを握り締めながら涙をこぼしている増田さんの姿が脳裏に浮かび、いやこれでは駄目だ、多少は簡素になってもいいからお伝えしよう、と踏みとどまりました。
結果、この拙文によって一部の方を戸惑わせたり憤らせもしてしまいましたが、多くの喜びの声を受けて、私が信じてきた教え、私に教えを授けてくださった諸仏と数多のご先達が、私に微笑みかけてくださるような感慨に胸が熱くなりました。本当にありがとうございます。至らぬところも多く、本当にごめんなさい。南無阿弥陀仏。
現時点では、以上のコメントについて、今後時間をかけて回答したく思います。
準備ができ次第、こちらの投稿に言及する形で戻って参りますゆえ、今しばしお待ちください。
最後になりましたが、皆様とこのような法縁に恵まれるきっかけを与えてくださった元増田さんを始め、すべての方のお命とお心に、敬い申し上げます。
こちら、酒を一定量以上飲むとより欲してやまないたちの悪い性質をしており
とはいえ、協力金(6 万円/日)の影響は大きく、ほとんどの店は休業を決めている。
馴染みの店はすべて休業だ。困った、為す術もない。
こうなると家に帰って一人コンビニで買った酒をおとなしく飲むのがあるべき姿なのであろうが、
いい年のおっさんともなると、家で一人飲み、くだをまく侘しさが身にしみていて躊躇しかない。
結果、飲める店を探し求めてぐるぐる。商店街を2周した。
そして開いている店をみつける。ガールズバーですって。
いや、言い訳をさせてほしい。女の子と飲める店を探していたわけではない。
ただ、空いていたのがその業態だったのと、いま女の子がいないから料金半額でいいとのことで即決した。
40 分 2000 円飲み放題のところ、女の子がいないので 40 分 1000 円飲み放題でいいという。
大喜びで店に入りビールやハイボールを何度か注文しどうしようもなく楽しくなったころ、
正確には 40 分くらい酒に溺れたころに女の子が相手をしにきてくれた。
女の子の店に来ておいて何を言ってるんだと思われるかもしれないが、正直 40 分 1000 円でもっと飲みたかった私は
他に接客が必要なテーブルがあるならそちらを優先してくれと紳士的だと思われる言葉を並べてみたのだが
どうやら間に合っているらしく、私の担当として正面で相手をしてくれた。
それはもう、お互いに不幸だったと思う。
私は女の子に少しでも話を合わせようと、あなたはどういう人なのか、何が好きなのか、を聞いてみた。
少しでも共通点を探して、もしかしたら仲良くなれるかもと言う期待もあったかもしれない。
現実としては、あまり反応は良くなかった。というか嫌そうだった。
そんなつもりはなかった。が軌道修正もできず、40 分間お互いに辛い時間を過ごし店を後にした。
延長についてたずねられたが、そこで居座れるほどの胆力もないため退散した。
帰路につきながら、何が原因か考えた。自分が原因なのは明白なことだが
こんな感じなのかなとよそいきには思うものの、実際は問題とは思っておらず反省するつもりはない。正直。
わかってる。だから自分の男女関係がうまくいかないのも。ただ、ここってお互いが思いや考えをぶつけないと進めないもんじゃないかなと。
女の子の店の最初の会話のステップではないだろと言われるとそうなんだけど、、じゃあ最初は毒にも薬にもならない当たり障りのない会話をするのが正しいと?
いっちゃなんだが会話が合わないのはお互いの問題だと思っている。
とはいえ、飲みに行っては何かしらのわだかまりを持ち帰っているのは事実で。これはどうしたものかと思っている。転換期ですね。言うは易く行うは難し。
みなさま、どのようにお過ごしでしょうか。お兄様方のアドバイスを受けたいです。
歳は離れていて、小さいときによく殴る、蹴るとかされていた。
それが自分の家庭での普通だったから当時は深く考えなかったけど、ある程度大人になってから、その理不尽さに怒りを覚えるようになった。
まず兄が就職して家を出て、私も就職して自立した時点で全く接点は無くなった。
接点がなくなったところでふと、あのときのあの暴力は一体何だったのかと考えることが増えた。今でも納得いっていない。
遅くやってきたこのわだかまりを燃料のようにして、静かに怒りの炎を燃やしている。
飽くまで静かに。接点は持たない。実家で居合わせても目も合わせない。
でもいつか兄が奥さんや子どもに手をあげるんじゃないかと勝手に不安になっている。
わからない。私にはそうじゃなかった。大人になったら人は変わるのかもしれないけど、どこか信用しきれない。
多分一生許すこととかはない。
市場価値とかそういうこととか もう経済関係のことまるごと別にしていいよ
商売でいいとか悪いとか 実際別のなにがあるとか言っても意味ない
結果からいうと転売は別にいいよ そういうもんだから そこで思考停止してもどんだけ語ってもおんなじ話
それでPS5の話がやーのやーのいわれてるのは みんなが気に入らないから
みんなが気に入ってないから市場からバイヤーがあらぬうわさで害をこうむっても商売として自然なので問題ないよね
ただ商売とか商法とかいうのだったら PS5とかほかの新発売が転売ヤーに買い占められて値段あげられておかしいっていわれるのも
商社の運営方針が悪いから文句いわれるだけで民意で淘汰されても市場原理からして自然なのでどうでもいいでしょ
それをいったところでわだかまりがのこるのは 他とどういう差で消費者に触れてるかよく考えてないからじゃないの?
新製品を発売してすぐ買い占めて 高値でうるのはおかしくないし問題ないしそれは商売のかたちとしては自然だよ
定価で仕入れるって無茶をして商売をしてるのは かなりへりくだって商売してるなとは思う 転売ヤーなら店舗もって仕入れ業者として定価以下で買うべきでしょ
競争力を市場から商品をさらって機会価値を高めてうることでそれをカバーしてるけど実質量がへればそれもうまくいかない
そういう動作的なことはどうでもいい
買い占めて高値でうるってことを商売っていう言葉以外にするなら「この商品の価値は○○円であるべきだ。そういう価値を俺はこの市場で感じる」ということじゃん
遠い外国のお茶とか絨毯がそうだとおもって 現金で買い占めてもってきて 手数料ふくめまた買いに行ける利益を乗せてうる そういうもんでしょ
PS5でそれしてなにがわるい ってそれ原産国で現地のひとは通常定価でかえる(この価値は○○円ですと出てる)ものを 「これはもっと高い価値がこの市場においてはある」って言いだす人がいるだけ
悪くはない ただ感じ悪いでしょ
隣の人が100円で飲んでるコーヒーを「あなたには300円の価値がある」って別の会計されるの ただ感じ悪い それイメージよくするのは商売人がその価値を高めた理由なりをなにか買う理由にすべきじゃん
みんながやってて悪い事じゃないから 問題がない 以外の理由で転売のミリョクとか語るならまあ納得されたりするんじゃない?
自分たちが買い占めてお金もらえたら商品わたすよってのは問題ないし お金で序列化するのは差別なくていいとおもうよ
今買える商品について 代理店なり中間業者なり卸なりが小売りになる(顧客に販売)時点で一人一個とか限定で手に入らないとかになってないのに
「手に入りにくいため市場の価値はこれくらいだ」って言えるほどに必要ない分買い占めるのは 単的に嫌がらせな感じがするので感じがわるいよね
もしイメージをよくしたいとかおもっているなら落としどころはここなんじゃない?
「朝早く並んで買ってくるのもただじゃない」
できればみんなはそれを自分も同じコストで同じ支払い方法で買いたいのはわかってあげて 朝早く起きて3時間ならぶのとか 自分ならできる って人とも競合してる
競合してる人と物理的にもみ合って買ってきて その高級な商品をお金で解決してくれるならしょうがない
競りで一億円になった鮪を食べるのには みあった価格をつけるか「その価値でもって別の消費をうながす」とかに使うことで 一般の人も手に入れるかどうかの選択肢に不満はなくなるよね
PS5買うためにどれだけ努力したか動画でもアップすればいいんじゃないかな
アピールの仕方には注意しないとすぐ炎上すると思うけどね 高級店を救ってほしいってクラファンしたとしたら お金がないからつらいのでってアピールしても炎上しかしない気がするよね
たしかに魅力がある商品だから とおせんぼされて通行料はらえって意味わからないお金をカツアゲされても それが手に入るならっての いい商売だとおもうよ
企業はそれを適正価格とか社会貢献とかで持続的に商売ができるように 適正だとか納税だとかしてるだけ 継続性のない単発的な商売ならなんでもできるよ
「僕らが君たちより先に買って 君たちより先にならんで だれに譲るかはお金できめるから」って人が「もうけたお金は次まただれかの順番とりに使うから」って言われて応援する気は起きにくいんじゃないかな
儲けてる人もいるよね ほかの人のいらいらをすこしでも「お金で解決してあげよう」って人 だれかれなしにイライラさせて お金でそれを譲ってあげる自分は買わないけど順番に並んでみたってコストを払う人
憎まれ商売やってるのだから その機会をお金で買う人が「お金で解決しやがって」って言われるだけの憎まれを肩代わりしてあげてるんだからむしろいい事かと思うよ
あと店舗在庫をなくすまでに(実際の使用率は別として)消費者階層に商品を持ってくるのも経済的にはいいと思うよ
やってることは お金持ちのパパがお金持ち息子に「ゲームやりたいよー」ってのを「よしパパがお金でかってやるぞ」の構造を作ってあげる匿名のコンシェルジュをやってるのは 一般にうけがよくないだけだとおもうよ
そのお金で抽選の運とかそういうのを解決したい人が「それいくらで譲ってくれる?」っていう お金持ちが通り過ぎていくときに金で解決するものがもとより商売とか善悪とか関係なく うざいって思うだけなんだよ
なんかね 貧乏だから商品をかう労働力を使って 自分ちでたのしまずにお金持ちが貢物を買ってくれるのをささげて待ってる姿が 娘を売りに出す農民の時代みたいだなあと感じたりするわけだよ
買い占めた人が実際のプレイ動画で販促したりしたら人気でもでるんじゃない? 平等に評価がでるのは価格なわけだし
別にいくらで買おうが商品の価値がかわるわけでも なにがどうなるわけでもないんだわ 次もそれで買おうって思うならね
おそらく本物のお金持ちは手数料や会費とかバカ高いサービスで「それ一つかっといて」とかで手に入るはずだしそれはそれでいいよね
でも毎回激安スーパーでお客様の皆様へって言ってるサービス品を「俺の賽銭箱にいれないと買わせないレジ的な意味ではなく暴力的な意味で」ってやってるのが迷惑に感じるだけ
ユニクロに殺到して破壊したり家電量販店でレジで何時間も口論になったりとかしなければ転売商品しいれていいよ 高値でかう情弱貧乏も買ってもいいし
ほんとに問題視してる人は買わないし 買わないだけで充分意味がある 文句をいまいう必要はとくにない
今できなくても死なないし 我慢できないなら我慢しているその欲望を吐き出すための社会の受け皿を用意する「お金」をよりたくさん稼げばいいだけだから
実際転売ヤーの「一般消費者への妨害行為」が問題になるとしたら 問題にしないように「一般消費者ががんばって転売ヤーの吐く毒に耐える」ことでも転売ヤー自体をたたくことでもない
「消費者が継続して購入する契機を逃している」それは「プレイしない人活用しない人が在庫として流通させていないからだ」とメーカーがみて対策をするときに 問題がでてくる
転売ヤーのつけてる値段の上限がおそらく「今の市場における価値上限」だと思うよ
実際それくらいの高級品ではある PS5は 転売ヤーもいい仕事してるね
それが一番やすく手に入る方法は暴力 強奪だね それの一歩手前をしてるから転売ヤーは嫌われてる
そこで10万円もだしてPS5がしたいってひとは出せばいいだけ 出せない人は買わなければいいだけ
メーカーもこれから続けて会費だのアクセサリだのソフトだのサービスだのと せっかくつくったプラットフォームから直接お客様のお財布にリーチするチャンネルを作るチャンスに
結局支払いのない無料ユーザーをPS5の安価配布でつくったところでうれしくない
ところがもし PS5のメーカーが 5万円ならゲーム機が買える顧客にも年中たのしめて次のプラットフォーム構築までのあいだ消費をつづけられるように設計していたなら
その層が不活性なのは不満でしょう そうなれば飽和攻撃よろしく転売むけスターターキットは2割増しで販売 最初のふつうの消費者は巻き込み事故になるけど続編から大幅値下げとか
ファーストロットの売り上げから予算も大きくなるから供給計画を数期にわけて公表しておくとかもありかも 最初にソフトを出さないとかみたいな手もあるかもしれないけどね
そうなるまでは「その値段では買えない買わない層」は不満はいだきつつ静観しておけば 市場は自然に動くでしょう
ゲーム中毒で最新ゲームしたい病で神経がやられてつらい人は 精神科とかにいって「いまのロットはベータで会員制度 お金はらえば会員なれるけど製品版をまって期が満ちたら買いましょう」って催眠でもかけてもらったらいい
いまはまだ販売してないっておもえば 買わなくても苦でなくなるのでは そういう事じゃないっていうならそれはもう一般人どおしが話をしても解決するわけじゃないので病院でなにかを処方してもらわないとしょうがないよね
ほんと感じのわるい商売で感じのわるい層を擁護してるのが目に見えると不快なだけなんだよね
転売は「フリーのプレミアムアウトレット闇市」とか名乗って潜んで商売してくれたらいいのに 日の明るいところで子供もみえる範囲で裏稼業やってるのが その稼業の価値をしる人がみてやだなあって思うわけ
別にイメージで商売してるわけでも 金以外に求めてるものはなにもないとおもうから 金で解決するやつらの憎まれを買ってあげてるその価値が転売価格だってわかれば
なんだか貧乏人同士とかんがえると 貧乏人からみて裏切り者って感じをうけちゃうかもしれないけど そういうもんだしいいのでは
むしろ憎まれる度合いが大きいほど おおきな商売なんでしょうきっと
イメージよく憎まれずにできる商売でもないし 憎まれたほうがいい憎まれ商売なんだから いっぱい文句いってもらえたほうが 一般庶民の罵声を浴びれた数だけ意味のある商売だと思うよ
褒められたい仕事をするなら 継続的で安心して顧客に直接つながる商売をしたり そういう仕事をするべきだしそんな選択肢もあるんだから その商売のイメージをいま綺麗にする必要もないよね
先週、自分一人で観に行って、面白いっちゃ面白かったけどやっぱり他の映画観れば良かったなって後悔してしまった。面白かったんだけど、自分の好みかっていうと別にそんなには、って感じだったので。猗窩座が異様に可愛いこと以外は。
なのに今日は子供達にめっちゃせがまれてしまったので、家族皆で観に行くことにした。鬼滅ってすごいね。プリキュアや仮面ライダーなら観に行かない子も結構いるのに、鬼滅はなんかもう女子も男子も行きまくり。
前回も思ったけど観ててすごい疲れるんだよなぁ。「起承転結」ならぬ「起承転転転転転結」みたいなもんだからだろうか。とにかく慌ただしい印象。
ベタに泣かしてきた直後に間髪入れずに笑いを取ろうとしてくる。ネタばらしするけど、終盤で煉獄さんの亡骸の側で炭治郎が普通に慟哭しているのに、善逸は白目剥いてぶっ倒れるわ伊之助はうおーーー!と大暴れしてるわで、こっちは泣いたらいいのか笑ったらいいのかよくわからないよ!先輩のご遺体の側で何やってんだよ君達は!と泣くのを忘れてツッコミ入れてしまう。悲しみが不発に終わってなんか心にわだかまりが残るんだな。
猗窩座が画面に映ってる時はギターとベースがガンガンにかき鳴らされてて、猗窩座が画面から外れると音楽変わって静かになる、でまた猗窩座、めっちゃうるさい!をハードに繰り返していたような……。
別に、すごく変なことしてるアニメじゃないと思うし、上記の演出も珍しいものでもないのかもしれんが、なんか疲れたな……。
“id:PalantirPalantir 梶浦サウンドいいよね。いいよな。椎名さんも気になるよな。テーマBGMみたいのに切り替わる繋がりとかたんじろうの歌が急に入るとかいいよなぁ!!
2020/11/04”
それが疲れる言うとるのにお前さんは!!
帰郷した多満子に達郎は、旧友のお好み焼き屋さん開店資金の保証人になったため借金があるという。ところが映画最後のシーンでは達郎は保証人になった店の種類がなんであったか忘れている。これはどういうことなのだろう。
おそらく借金は実在した。しかし名目は嘘だった。妻の仏前であらたまって宣言しているので借金自体はあったと考えられる。しかし名目についてはとっさについた嘘だった可能性が高い。旧友の開店資金の保証でなかったとしたら達郎の借金のほんとうの名目はなんだろう。
以下は推測。
それはフラワー卓球クラブの維持費だったのではないか。このクラブへの思いは多満子と華子、達郎ではかなり異なる。多満子はクラブに対して複雑な思いをもっており全体としてよい印象とは言えない。いっぽう達郎は華子の遺産であり華子の人生そのものだった卓球クラブに多満子とはまったく別のーおそらくつよい思入れがある。会員が減っても社交場になっても借金してでも達郎は建物を維持し華子の記憶をつないでいる。クラブの掲示板には卓球を関係のないフラダンス教室などのチラシが貼ってある。スペースを貸し出しているのだろう。達郎はしかしそんな思いややりくりを多満子に伝えたりはしない。それでも多満子の様子をきちんと見ており必要な時には最適なサポートをする。けっきょく達郎の借金を返したのはクラブを継いだ多満子ということになる。達郎のこころはさぞや晴れ晴れしているだろう。映画のなかに多満子が借金の真相を知るシーンはないが彼女が母華子とのわだかまりを浄化し恋人や仲間とともに自分なりの卓球をはじめるシーンははっきりと描かれている。
あの増田あの後どうなったかな、などと気になる事がよくある。もしかしたら追記があるかもと、見に行ってしまう。追記してくれると嬉しい。嬉しい気持ちはもちろんあるのだ。
しかし、考えや悩みを一旦なんの相槌も無く吐露するという、日常会話では発生せず、インターネット上のテキストコミュニケーションでもあまりない状況から生じる文章こそを楽しんでいる自分も居る。
そこは完結して、完成している。いくらか逡巡しながら、場合によっては少し言い回しを編集しながら、自分の中にあったわだかまりに名前をつけて書き出す。昔の公文書や文豪の私筆よりは重くなく、 SNS の投稿よりは軽くない、ここにしか表れ得ない文章がある。
そんな完成された文章に追記が入ると、リアルタイムで読んでいた人のためのものになってしまうような気がして、なんだかもったいないような気がしてしまうのだ。いつか誰かが辿り着いたとき、ただその文章に良さを感じて読み進めると、一応のオチや締めがついている。もう本人は見ていないという事実だけが、閲覧者に流れ来る。
一度完成された文章に関連付けるものとして、トラックバックがあった。近藤さんの独自解釈によって本来の目的は変容し、ある場所ではコメント機能になり、ある場所では呼び出し機能になった。
近藤さんのサービスセンスは好きだが、技術理解に関しては何かと異論を唱えたくなる。彼にとって技術は手段であり、我々にとっては目的である。トラックバックというシンプルな技術仕様は、 Web 的には大変よくできたものだった。 SPAM 耐性が低いのは一旦置いておこう。
本来、リンクする側からしかアプローチできないけれど、そのエントリに言及している記事はみんな読みたい。言及側から言及したことを知らせられればリンクできるのでは、というものがトラックバックだった。そしてその頃の感覚として、他人の記事にわざわざ言及するには、一定の価値ある資料とするべきであるという雰囲気があった。そしてそんなにコストを掛けるのであれば、自分の blog の記事にしたいというのは自然なことである。
トラバが言及になったから変わったとは言わない。ここは他エントリに起因する記事があったり、全記事を読むブクマカが居たりすることで成り立っている、特殊な環境だ。そこで使われるトラックバック機能は既に本来の意味から遠ざかっていたので、名前をそれらしいものにした方が良い。正直、外部トラックバックを受け付けなくした時点でスレッド型 BBS のようなものにした方が良かったと思うが、既に開発者がいないラボサービスにそこまでのコストは掛けられなかったのだろう。
現在でもたまにある改修は、新人に「はてな」を弄っていることを自覚させるための儀式なのかもしれない。
まとまらなかった! PV があるうちは存続させてもいい程度なのだと思っていたけれど、ちょいちょい改修が入る(しかもエンバグする)。
うちは父親が15年程前に自殺し、その理由を知る術もなくずっとモヤモヤしていた。
お金に困っていたわけでもなく、両親の仲も良かったと思う。
当時小学生だった私は「自殺」という事実を認めることができず、お父さんは誰かに殺されたんだとすら考えていて、以来ずっと父親の死について心にわだかまりがあった。
でもここ最近の芸能人の、そして今朝の竹内結子の自殺報道を見て、こんなに綺麗でキャリアも抜群、子どもにも恵まれて非の打ち所がないように見える人でも自ら命を絶ってしまうことがある、というのを改めて実感した瞬間、なぜか父親の自殺について「父にも父にしか分からない何かがあったんだな」とフッと心が軽くなった。
後者だよ。
元増田の母親が何歳位なのかわからんが、今年結婚する子供の親なんだからたぶん昭和後期~平成前期に結婚したんだろう。その時代なら結婚の価値観は新旧入り乱れていたはずなので、元増田母は何かしら自分の結婚にわだかまりがあるんだろ。自分の好きなように式を挙げた友達を横目で見ながら、自分は全部親の言いなりにされたとかな。
昔の価値観だと子供の結婚~第一子出産から七年くらい、自分の結婚でも子の出る幕はなく、全部を両家の親が仕切るものだった。そういう価値観で来た親世代にとっては子の結婚は子の為のものではなく「私のターン」だ。まあ現代人の我々には相容れない価値観だが。
元増田が結婚式にさして思い入れのないタイプなら、逆に結婚式を上げることにし、地味な所だけ元増田夫婦がプランナーや夫両親と片付けちゃって、母親に美味しい所を予算の範囲内で好きにさせて溜飲を下げさせるという手があるってことだ。ウエディングドレス選びとかな。義実家がすげー古風で可哀想wwwと思われるなんて上等だ。元増田の母親みたいなのは自分よりも娘が幸せになるのが気にくわないんだから、てきとーに苦労してるように見せかけといた方が満足するだろ。
一ヶ月ぶりに会った彼女が二重に整形してた
客観的に見たらすげー美人ってわけではないんだろうけど、でも惚れた欲目で性格とか立ち居振る舞いとかも全部ひっくるめて可愛いなと思ってたのに、化粧とかで盛ってるとかじゃなくて物理的に違う顔になってるのが受け入れ難くてなんかものすごいショックを受けてる
元の顔にコンプレックスとかあったのかな、そんな話されたことなかったな、せめてなんか事前に二重に憧れる〜みたいな話してるとか普段からアイプチで二重にしてるとかならまだしも、前振りもなんにもなくて正直唐突で頭が追いつかない
しかも「今日なんか目元の感じ違うね」ってこっちが振るまで何もいわないし、聞いても「あぁ、二重にしたの、まだちょっと腫れてるけど」ってサラッと流されて終わった
まだ整形後の顔に見慣れないだけなのか、整形とか結構おおごとだと思うのに相談されなかったことに対するわだかまりが自分の中にあるのか、簡単に整形した彼女に対して今後も整形を繰り返すようになってしまうんじゃないかとか、かといってもう整形し終えちゃってるから今更こっちが口出ししても仕方ないことだしとか
今後の交際を考え直すようなほどのことではないのかもしれないし、この先見慣れたらなんとも思わないのかもしれないし、逆にこの先もなんか自分の中でもやっとし続けるのかもしれないし、なんなんだどうしたらいいんだ
これは少し前にTwitterでバズった概念「おけけパワー中島」を自称した元フォロワーに対するただの悪口であり、それ以上でも以下でもない。
元フォロワーであるところの彼女を知っている人が万が一これを目にし、あわよくば同意してくれることを願っているが、基本的にただ自分の中のわだかまりを解消するためにつらつら書いているものだ。自己満足であることは承知している。
直接言えよなどあるかもしれないが、知るか。繰り返すが、これはチラシ裏に書かれた駄文である。
この神とは、すなわち彼女の好むストーリーラインを創作できる人間を指す。
彼女は神の布教を熱心に行う狂信者であり、神に並び立つことを喜びにするタイプの人間だ。神を崇めるが、神と己が並び立っているかのように振舞う。
でも、彼女は神の友人でもなんでもなかった。
でも、別に神の友人でも知人でもなかった。はために見ても怖いくらい熱心だとは思えたし――彼女と知り合ったきっかけのジャンルには彼女なみの熱狂的ファンがゴロゴロいたが、やばい四天王のひとりくらいにはジャンルの人間にも神にも思われていただろう。
けれど、友人にはなりえなかった。そもそも、神と呼び奉り、人間性を無視している時点で友人ではないだろうに、と思うのは最近になってからだが。
神の友人でも、神を人に堕すような人間でもない。ただ変質的で熱狂的なひとりのファンだ。ついでにこれは悪口なので付け加えるが、こいつは面倒みがいい陽キャでもない。(そのため、自分が形成したグループから結局ハブられた。付き合いが悪くて、オフ会にやってきても自分の興味のある会話にだけ参加、それもキャチボールじゃなくて豪速球早口自己解釈語りだ。TLでオフ会の様子がキャッキャと流れる度に毎度毎度悔しがっていたが、空リプするだけで当人たちに凸ることはなかった。ついでにこいつは空リプを他人がするとお気持ち表明する)
彼女が自分は「おけけパワー中島」だから、あの漫画の主人公たちにまるで同意できない、という旨をツイートした。
私は「おけけパワー中島に対する解釈違いです!」と胸の内で叫んでいた。実際はとりあえず彼女をミュートした。忙しくなってきた時期で、こういうツイートに批判的になるのはヤバい証左だ。精神衛生上良くないものは見ないに限る。
決定的に無理だな、となったのは神と同じジャンルの二次創作を辞めるという、彼女のお気持ちブログを読んだ時だった。
彼女はジャンル黎明期からいる人間だったから、ミュートしててもTLがうっすくざわついているのはわかる。比較的落ち着いていた気持ちの時にそれを読んだ。
ブログの内容は、神の解釈に自分の二次創作作品の解釈が混入し始めたから自分はこのジャンルでの活動を辞める、というそこそこ長い文章だった。
それから、こいつ本気で自分が神に並び立っていると思っていたのか、と怖くなった。
元々、神に積極的に絡みにいっていた。神の悪い部分を吹聴するのに、そういう部分も自分は理解しているけどね、という態度をとることも多かった。
全部全部、友人だと思っているからそういう態度をとっていたのか、と合点がいった瞬間、ブロックした。
創作者はべつに神ではないだろうと思ってる。ものを創るという行為はすごいし、作品も、本も敬愛の念を抱かせるに十分だ。
創作者を尊敬しこそすれ、神だと勝手に崇めたり、その神と自分は親しいものだ、と自尊心を守るために振る舞うものでもないだろう。
とりあえず、私は狂信者にもなれないのだろうが、あれのようにだけはなりたくないな、と痛感した。
それから、無邪気に信奉している、という言葉を創作物に使うのを控えるようになった。
とりあえず、「おけけパワー中島の解釈違い地雷です!そこの読み込みができない人間は無理です!」という、これはそれだけの話だ。
自分が流行に乗れないからって敵視、蔑視する人間って居るんだよな。
技術、コンテンツの影には人間の姿があるんだよ。VRというのは特にそう。
これは少し前にTwitterでバズった概念「おけけパワー中島」を自称した元フォロワーに対するただの悪口であり、それ以上でも以下でもない。
元フォロワーであるところの彼女を知っている人が万が一これを目にし、あわよくば同意してくれることを願っているが、基本的にただ自分の中のわだかまりを解消するためにつらつら書いているものだ。自己満足であることは承知している。
直接言えよなどあるかもしれないが、知るか。繰り返すが、これはチラシ裏に書かれた駄文である。
この神とは、すなわち彼女の好むストーリーラインを創作できる人間を指す。
彼女は神の布教を熱心に行う狂信者であり、神に並び立つことを喜びにするタイプの人間だ。神を崇めるが、神と己が並び立っているかのように振舞う。
でも、彼女は神の友人でもなんでもなかった。
でも、別に神の友人でも知人でもなかった。はために見ても怖いくらい熱心だとは思えたし――彼女と知り合ったきっかけのジャンルには彼女なみの熱狂的ファンがゴロゴロいたが、やばい四天王のひとりくらいにはジャンルの人間にも神にも思われていただろう。
けれど、友人にはなりえなかった。そもそも、神と呼び奉り、人間性を無視している時点で友人ではないだろうに、と思うのは最近になってからだが。
神の友人でも、神を人に堕すような人間でもない。ただ変質的で熱狂的なひとりのファンだ。ついでにこれは悪口なので付け加えるが、こいつは面倒みがいい陽キャでもない。(そのため、自分が形成したグループから結局ハブられた。付き合いが悪くて、オフ会にやってきても自分の興味のある会話にだけ参加、それもキャチボールじゃなくて豪速球早口自己解釈語りだ。TLでオフ会の様子がキャッキャと流れる度に毎度毎度悔しがっていたが、空リプするだけで当人たちに凸ることはなかった。ついでにこいつは空リプを他人がするとお気持ち表明する)
彼女が自分は「おけけパワー中島」だから、あの漫画の主人公たちにまるで同意できない、という旨をツイートした。
私は「おけけパワー中島に対する解釈違いです!」と胸の内で叫んでいた。実際はとりあえず彼女をミュートした。忙しくなってきた時期で、こういうツイートに批判的になるのはヤバい証左だ。精神衛生上良くないものは見ないに限る。
決定的に無理だな、となったのは神と同じジャンルの二次創作を辞めるという、彼女のお気持ちブログを読んだ時だった。
彼女はジャンル黎明期からいる人間だったから、ミュートしててもTLがうっすくざわついているのはわかる。比較的落ち着いていた気持ちの時にそれを読んだ。
ブログの内容は、神の解釈に自分の二次創作作品の解釈が混入し始めたから自分はこのジャンルでの活動を辞める、というそこそこ長い文章だった。
それから、こいつ本気で自分が神に並び立っていると思っていたのか、と怖くなった。
元々、神に積極的に絡みにいっていた。神の悪い部分を吹聴するのに、そういう部分も自分は理解しているけどね、という態度をとることも多かった。
全部全部、友人だと思っているからそういう態度をとっていたのか、と合点がいった瞬間、ブロックした。
創作者はべつに神ではないだろうと思ってる。ものを創るという行為はすごいし、作品も、本も敬愛の念を抱かせるに十分だ。
創作者を尊敬しこそすれ、神だと勝手に崇めたり、その神と自分は親しいものだ、と自尊心を守るために振る舞うものでもないだろう。
とりあえず、私は狂信者にもなれないのだろうが、あれのようにだけはなりたくないな、と痛感した。
それから、無邪気に信奉している、という言葉を創作物に使うのを控えるようになった。
とりあえず、「おけけパワー中島の解釈違い地雷です!そこの読み込みができない人間は無理です!」という、これはそれだけの話だ。
その時々で綴ったので似た内容の重複もあります。
プレイ前に、ジョエルの死、嫌われてしまった新操作キャラの存在、ポリコレ的な要素の追加での世間からの批判、を知ってしまった上での感想。
ジョエルはもうキャラクターとして動かせない存在だったのかもしれない。
前作あれだけの出来事があったにも関わらず、また再び戦うジョエルを描かれてもどうかなとは ちょっと思う。
前作後のジョエルなら戦う動機は救出以外あり得ないだろうし、それなら前作のラストパートの焼き増しにしかならない。
その点、これだけの人間同士の戦争を描きながらも、徹底して人間と戦うジョエルの姿を見せなかったところは良かった。
ジョエルはもう人を殺せない。前作はそれくらいの覚悟がいるラストだったと思うし、だからこそ綺麗だった。
殺されるシーンでジョエルが抵抗する姿を描かなかったのも、その辺を意識してのことなのかな。
操作したかったしアッサリ殺されたのは勿論ショックだけど、ある意味で絶対的な存在にはなった。求めてはいない形だが。
製作陣は、ジョエルがキャラクターとして嫌われないようにすることにかなり気を使ってるように感じた。
ただそれと引き換えに、というか対として、死と他のキャラへの嫌悪感の仕組みが沢山組み込まれてたんだと思う。
それぞれのキャラの心情は、理解はできても納得はできないくらいのバランスで、変に短略的で生々しくヒステリック。
欠陥とかじゃなく、色々と考えられた故での本当に性格の悪い構造。
前作プレイヤーを不快にさせる要素、手段、手法、順序が、綿密にかつ分かりやすく詰め込まれてる。
超人気タイトルの前作主人公を、序盤からぽっと出のアビーに殺させてヘイトを爆稼ぎ。
その後もプレイヤーの復讐心を煽り続ける為に、徹底的なジョエル上げとアビー側下げがゲーム中随所に盛り込まれてる。
過去編ジョエルは常に悟った聖人の様な振る舞いだし、アビー側は結構感情的な人が多い上に現代人が多様化する故に難しくなる要素の塊。
そんなキャラ達を用いて復讐心を煽りエリーとシンクロさせた後に、最大限までヘイトが溜まった所でアビー側の立場に変えてもう一回同じ日々を繰り返す。
このアビーというキャラのメインの目的は、同情じゃなくてエリーがしたことの異常性の確認じゃないかな。敵側のキャラの心情の理解ってより、細かい生活を見せてる印象。
アビーの父親の掘り下げについても根源的なヘイトの対象をマーリーンから移されてるだけだから、アビーに同情させる気なんかさらさらなさそう。
アビーへの不快感は消えないように残しつつも、動機は理解させるくらいな感じ?
そこからアビー操作のままエリーとの戦闘をさせ、プレイヤー的には何が勝ちで何が負けなのか分からん状態で一旦旅は終了。
こんな胸糞悪い精神状態でも、せめてラストくらいは復讐のカタルシスを得られるかと思えばそんなことはなく、
色んなものを捨て、色んな感情や立場に挟まれながら、殺しもせずスカッと許しきったりもせずでアビーを逃して終了。
エリーとプレイヤーは、胸糞悪いモヤモヤを抱えたまま沢山のものを失って終わることになる。
多くのプレイヤーが救いとして求めていたであろう和やかな探検パートから、エリーが不信感を抱き決別するまでの様を描いて不安を煽って、
最後には互いに今まで隠してた覚悟や本音をぶつけ合って、二人のわだかまりの解消の糸口を匂わせる。
ただ同時に、寸前で終わってしまったそれが、序盤の大事件の直前でもあると気付くと本当に救いがない気持ちになる。
最後の最後で、序盤の死にダメージ上乗せするんだからタチが悪い。
全世界のプレイヤーが望んでいる展開を理解しているからこそできる構成。
不快感を高める為の道順が清々しい程完璧で、しっかりと悪意を持って確実にモヤモヤするよう作られたストーリー設計。
キチッと復讐したり、スカッと許したほうが幾分物語を作るのも簡単そうなのに、わざわざ遠回りしてモヤモヤさせてる。
誰の得も垣根もなくフラットに嫌悪感を味わえるし、誰もが怒って良い内容のゲーム。
ストーリーの好みでの批判は理解できるけど、フェミだのポリコレだのに屈したって批判は理解できなかった。
権利の主張とか政治的正しさとかみたいなことを、軽い気持ちの綺麗事で入れてはいないように感じた。
キャラの人種や思想の多さも、配慮とかそんなぬるいもんじゃなくて、
誰もが誰かにどこかしらで差別や嫌悪をする様な装置として入れているのかなって思う。
ジョエル以外のどのキャラにも嫌なところや異常なところがあった。
どんな人も認めよう!的なことじゃなく、むしろもっと嫌味ったらしいものに感じた。
世情を捉えてはいるけど、屈してはなくない?
まあもちろん色んな人物を盛り込んだのは、リアリティの追求って側面もあるだろうけど。
ちょっと脱線するかもけど、他のゲームでもゲームにそういうリアリティは要らないって批判あるけど、ラスアスに限ってはここまでのリアリティはあって良いと俺は思う。
内容自体は極めて真剣に悪意を持って綿密に練られてると思うから、欠陥とか中途半端って批判も違うと思った。
嫌なものを、嫌な手法で、嫌な順に、嫌なタイミングで的確にぶつけてくるから、ちゃんとムカつくし、ちゃんとモヤモヤするし、ちゃんと嫌いって主張したい内容。
ラスアスでやるなって意見もあるだろうけど、ラスアスでやらないとここまで出来ないことでもあるとも思ってしまう。
ある意味では完璧に徹底して作られてる様に感じたし、その上でマジで胸糞悪くて死ぬほど終わってる内容だと思った。
ビジュアルやゲーム性、音楽も含め総じてめちゃくちゃ丁寧に作られた作品だから、雑なレッテル貼りだけの批判で済ますのはもったいないと思う。
前作ラストのやりとりで、エリーはジョエルのした事について、具体的でなくてもなんとなくは察しがついているものだと思ってた。
今作過去パートで追っていく会話からは、思ったよりも何にも気づいていなかったんだなって印象。
エリーがどういう嘘と認識してたのかがわからなかったし、決別がやや強引だった気がする。
「誓うよ」「わかった」のやりとりの重みが少し薄れてしまったように感じる。
「君を失ったら、我を失ってしまうだろう」
復讐をするエリーはジョエルのことを考えていないし、助けに向かったジョエルはエリーのことを考えていない。
一生許せない(許しはしたかった)とジョエルに言ったエリーだけど、復讐寸前に自己矛盾に気付いた。
結局ジョエルを許せていないままの自分が同じことをしているのでは?と我に返り、アビーを殺しも許しも出来ずに逃してしまった。